私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

英米の学者の言うことなら正しいか?

2006-04-26 15:37:49 | 日記・エッセイ・コラム
 1968年、私は出版されたばかりの中野好夫著『シェイクスピアの面白さ』を引越荷物の中にしのばせてカナダに移住しました。今読んでもみずみずしいこの名著に誘われて、D. Bovington 編集のシェイクスピア全集6巻をつい買ってしまうことにもなりました。英文学者としてだけではなく、広島、都知事選挙、沖縄問題などに積極的に関わられる中野さんに強い敬愛の念を持ったものでした。1972年9月、勤務先のアルバータ大学のブックストアに学生用テキストとして山積みにされたコンラッドの『闇の奥』に目を引かれて一冊買込んだ私は、このはっきり意味の取りにくい小説を辞書と首っ引きで苦労して読みました。あの時手許に岩波文庫の中野好夫訳があればどんなに助かったことでしょう。それから30年後、私はまた『闇の奥』を精読することになりましたが、その時には中野さんは既に亡くなっておられました。中野さんの訳文(1958年)について誤訳ではないかと私が思う個所について直々にお手紙を差し上げてお尋ねできないのは誠に残念です。
 中野訳と私の訳とが一番大きく食い違っているのは、中央出張所の「張り子細工のメフィスト」をマーロウが勝手に喋らせている個所です。これは私の訳書の訳註[第II部](藤永238-239)に論じてあります。
Did I see it? I saw it. What more did I want? What I really wanted was rivets, by heaven! Rivets. To get on with the work ? to stop the hole. Rivets I wanted. There were cases of them down the coast ? cases ? piled up ? burst ? split! You kicked a loose rivet at every second step in that station yard on the hillside. Rivets had rolled into the grove of death.
中野訳では上の文章とそれに続く部分が全部メフィストの言ったことのように解釈されていますが、私はこれをマーロウの心の中の思いを綴ったものととりました。コンラッド専門家のJohn G. Peters は彼の『Conrad and Impressionism』(2001) の中(p19) で、この部分はマーロウの言っていることだと書いています。たぶん中野さんの思い違いだと思います。
 しかし、米国人つまり英語のネイティヴがそう言うのだから、こちらの読みが正しいと言っているのではありません。そんな事はとても言えるものではありません。ピーターズは、マーロウの「リベット」についての思いが、それを河口の出張所で散らばっているのを見た時と、中央出張所で一刻も早く手に入れたい必需品になった時では、同じ物体でもひどく違うことを、「印象主義的認識論」に結びつけて物々しい哲学議論を展開します。文科にしても理科にしても、一つの論文あるいは著作を書く時には一つの着想(アイディア)があってそこから出発するものです。しかしそのアイディアに引っ張られ過ぎて牽強付会に陥ってはなりません。この観点から見ると、コンラッドの『闇の奥』はとりわけ要注意の文学作品です。これから先このブログでは過剰解釈(over-interpretation)の問題を繰り返し取り上げることになると思いますが、今日はその小手調べに、一つの文章が色々な意味に取られる実例として、次の文章を挙げます。
He had tied a bit of white worsted round his neck?Why? Where did he get it? Was it a badge?an ornament?a charm?a propitiatory act? Was there any idea at all connected with it? It looked startling round his neck, this bit of white thread from beyond the seas.
「首のまわりに、白い毛糸を少しばかり巻き付けていた?何故なのか?どこで手に入れたのか?何かのバッジなのか??飾り?お護り??それとも何か贖罪の行為なのか?これにまつわる何か考えがあってのことだろうか?海をこえてやってきたこの白い毛糸が、黒い首に巻き付けてあるのに、僕は思わず目を奪われた。」(藤永48)
 先ほどのJohn G. Petersは、これは間違いなく「ヨーロッパによるアフリカの扼殺」を象徴している、と言います。B. Caminero-Santangelo は「アフリカ人がヨーロッパで製造された物品を彼ら自身の象徴のシステムに取り込むことが出来た」ことを示していると考えます。『In the Reading Gaol』というタイトルからして凝りに凝った本を書いた Valentine Cunningham によれば、この黒人は「栄養失調による死を阻止するために白い毛糸を首に巻いている」のだそうです。欧米の学者たちが自分の読み解きたいと思うベクトルに沿って強引に『闇の奥』を解釈する傾向は1975年のアチェベの爆弾宣言以降に特に目立ってきたように思います。いたずらに自分の着眼点のオリジナリティを誇示するような「読み解き」を沢山読んでいると嫌になってくることがあります。

藤永 茂


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取り舵、面舵、奥地出張所

2006-04-19 10:06:11 | 日記・エッセイ・コラム
 藤永茂訳『闇の奥』の訳注第II部の*78の原文:
  I put the helm hard a-starboard at the moment when …
を取り上げます。a-starboard またはastarboard は「右舷に向けて」を意味します。日本語では右舷へ舵を取るのは「面舵」、左舷へ舵を取るのは「取り舵」と言います。ですから、中野好夫訳「大きく一つ取り舵を引いたのと、」は誤訳です。しかし、訳注第II部の*78に書いたように、中野好夫さんは何か深い理由があって、あえてこう翻訳されたのかも知れません。マーロウが「ぐっと右舷へ舵を取った」(藤永123)情況に到るまでの経過を辿ってみます。クルツの奥地出張所から1マイル半ほどの下流の地点で河の中央に長い浅瀬のような島が現われます。「出張所は西の岸にあると聞いたので、僕は、当然、西側の水路をとった。」(藤永117)。ところが岸から矢や槍の攻撃を受け、舵を任せていた黒人が倒れてしまいます。「もう一刻の猶予も許されなかった。僕は岸を目がけて?水深が十分あると知っていた岸の方向に一気に船を乗り込ませていった。」(藤永121)「前方を望むと、あと100ヤードほども先に行けば、岸から離れる方向に進路を変えても構わないと僕は思った。」(藤永122)。こう判断してマーロウは船先を大きく右へ向けるように舵を取ったわけです。コンラッドが書いたことをそのまま取れば、下の挿絵(B)がこの情況に対応しますが、河の流れの方向が北から南になってしまうのが難点です。何故なら、クルツの奥地出張所のモデルがスタンリー・フォールズにあった居留地であるとすると、河の流れは南から北への方向、つまり、挿絵(A)のようにならざるを得ません。とすれば、船を西岸から離れるように取るべき舵は、中野好夫訳のように「取り舵」でなければなりません。ノーマン・シェリーの本(Norman Sherry: CONRAD’S WESTERN WORLD, 1971)のp402 の註によると、コンラッドの元の原稿では上の(藤永117)の文章は「出張所は東の岸にあると聞いたので、僕は、当然、東側の水路をとった。」となっていました。コンラッドがこの部分の「東」を「西」に書き直した時、後に出てくるa-starboard をto port と書き換えるのを忘れたのだとすると、事は結局一つの校正洩れに過ぎなかったのかも知れず、中野好夫さんはコンラッドの不注意を翻訳文でそっと正したのかも知れません。
 『闇の奥』の中にアフリカという語が出てくるのはたった一度、マーロウが遡る大きな河がアフリカの中央部にあることは分かりますが、コンゴのコの字も出て来ません。具体的な地名も一切出て来ません。この事実から何を読み取るべきか? いま問題にしているクルツの奥地出張所とコンラッドが訪れた当時のスタンリー・フォールズの様子とが似ているかどうかを詳しく検討したシェリーは「クルツの奥地出張所はスタンリー・フォールズには基づいていない」と考えました。そうなると出張所のあたりの架空の大河が北から南に流れていても、つまり、挿絵(B)のようであっても何ら構わないわけですから、a-starboardを「左舷の方へ」と訳すのは誤りになります。しかし、ここには単なる誤訳以上の問題が頭を出しているように思われます。コンラッドがスタンリー・フォールズを訪れた3年後のその辺りの様子がシェリーの本に出ています。下に掲げた見取り図にはコンゴ河と建物の数々が描かれています。当時コンゴはベルギー国王レオポルド二世の私的植民地で、スタンリー・フォールズは船で到達できる最上流の地点として重要な拠点であり、官庁的な建物、公安軍の兵舎、病院(grand hôpital)、牢屋、お店など沢山の建物があり、交易商社の出張所はその一部に過ぎませんでした。ブログ「コンラッドの嘘」(2006/03/29)で引いた原文には、コンラッドや他の白人たちが狭く不便な15トンの蒸気船で寝起きしていたように書いてありますが本当でしょうか? おそらく陸に上がって宿泊していたのではありますまいか。この見取り図によると大多数の建物は河の西岸ではなく、コンラッドの元の原稿にあったように、東岸にあり、河は南から北に流れています(図の右下がりの対角線が北南方向)。コンラッドが『闇の奥』で描いたクルツの奥地出張所とは全く似ていません。「双眼鏡を覗くと、ぽつぽつとまばらに木は生えていたが、下生えは綺麗に伐り払われた丘の傾斜が見えて来た。その頂きには長い朽ちかかった建物が一つあり、高く伸びた草の中に半分埋もれていた。その尖った屋根には大きな穴がいくつかあって、遠くからは黒々と口を開けているように見えた。背後は密林と森ばかり。囲いとか垣根らしいものは無かったが、以前はあったらしく、家の近くに、荒削りのままの細い杭が五、六本並んで残っていて、その頭には丸い木彫りの球が飾りに付けてあるように見えた。横木か何か、その杭の間にあったものは無くなっていた。周囲は、勿論、ぐるりと深い森林だ。」(藤永138)。ヨーロッパの文明人の典型たるべき万能天才クルツの原始への復帰(atavism)、地獄への無残な墜落の舞台は暗黒大陸アフリカの闇の奥でなければならず、それは現実のスタンリー・フォールズではありえなかったのです。
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藤永 茂

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クルツは見かけ倒しの悪魔か?

2006-04-12 18:30:35 | 日記・エッセイ・コラム
 外国語で書かれたものを翻訳する者が誤訳を避けたいと思うのは当然です。中野好夫さんの筆になる『翻訳雑話』という滋味あふれる随筆に次のような事が書いてあります。「ほとんど誤訳のしようもないのがシェイクスピアである。あれだけ註釈、研究が完備していたのでは、誤訳をする方が困難である。あれでまちがえば、よほどの愚物であり、単に正解というだけなら、およそシェイクスピアほど楽な作品はないかもしれぬ。」また、それに続いて「極力誤訳を避けるためには、汲々としてこれ及ばざるをおそれなければならぬのは当然である。訳者の責任であることはいうまでもない。但し、一概に誤訳といっても、おのずから質的に別があるように思える。少なくとも原作のいわんとする本旨、大筋において、読者を誤らせるような誤訳は論外であろう。」
 この50年間の『闇の奥』の註釈、研究の蓄積には目覚ましいものがありますが、翻訳者の立場から見て、完備したとは言えません。しかも、シェイクスピアの場合と違って、コンラッドの意図的なオブスキュランティズムが翻訳者を苦しめます。それに上積みして、Michael Levenson の言うところに従えば、この小説の第一部の原稿をコンラッドが出版社に送ったあとに、クルツについての考えを変えてしまった事から来る解釈上の問題があり、これがまた誤訳の種にもなりかねません。1898年12月13日コンラッドはブラックウッズ・マガジン(愛称「マガ」)の出版者ブラックウッド氏に手紙を送り、「マガ」のために執筆中の新作小説について「私が考えているタイトルはThe Heart of Darkness ですが、物語は暗く陰気なものではありません。アフリカで文明化の事業と取り組む際には、非能率と全くの利己主義は犯罪行為だと考えるのは正当な事です。この主題は、時事問題的には扱われていませんが、優れて現代的なものです」と書き、「長さは今の感じでは2万語以下になるだろうと思っています」と新作の長さを予想しています。この『闇の奥』(定冠詞が落ちてHeart of Darkness となった)の第一部が後に続く第二部、第三部を書き上げない前に「マガ」に送られたことに注目しましょう。1899年1月9日コンラッドはそれまでに書き上げた分を出版者に送り、これが第一部になりますが、1月13日には、筆が滞ってしまったことを大げさに訴える手紙を一友人に書き送っています。ところが、その3日後には一転して編集者に「乗りが来た」と告げているのです。レヴェンソンは、この時『闇の奥』についてのコンラッドの構想に一つの新発展があった(Conrad experienced a turn in his conception of the tale)と考えます。クルツをどう仕立て上げるかについての考えが変わったとするのです。始め2万語以下と予想していた長さが2倍近くに伸びたこともこの憶測を裏付けるように見えます。
 そうだとすると、『闇の奥』の解釈の、また翻訳者の立場から、早速注意しなければならないのは、次の部分です。
I’ve seen the devil of violence, and the devil of greed, and the devil of hot desire; but all the stars! these were strong, lusty, red-eyed devils, that swayed and drove men?men, I tell you. But as I stood on this hillside I foresaw that in the blinding sunshine of that land I would become acquainted with a flabby, pretending, weak-eyed devil of a rapacious and pitiless folly. How insidious he could be, too, I was only to find out several months later and a thousand miles farther.
私は次のように訳してみました。「暴力の鬼、貪欲の鬼、燃えたぎる情欲の鬼にもお目にかかった。?だが、誓ってもいいが、そいつらは、すべて、頑強で、強壮で、紅潮した目を持った悪魔どもだった。そうした奴らが、まわりの男たち?いいかね、いっぱしの男たちを、どつき回し、駆り立てていたのだ。しかし、ここは違う。岡の中腹に立って、僕はこれから先を見通した。この土地の、目も眩む烈しい太陽の光の下で、強欲無慈悲な愚行に耽溺する、だらしのない、しょぼくれ目の、見かけ倒しの悪魔と、僕はやがて知り合うことになるだろうということをね。そいつがいかに陰険狡猾な奴であるかを、それから数ヶ月後、ここから1000マイルも入った奥地で見出すことになったのだ。」まず、始めの「悪魔ども」とはマーロウがコンゴにやってくる以前に海や寄港先で出会った荒くれ男たちのことで、彼らが手荒く扱ったのは哀れな黒人たちではないと考えられます。問題は、 a flabby, pretending, weak-eyed devil という単数の悪魔は誰を指すのか、ということです。朱牟田夏雄さんの註釈では「Kurtz のこと」となっていますが、“flabby, pretending, weak-eyed” という形容詞は、どう考えても、『闇の奥』の第二部、第三部で描かれる凄まじいクルツには当てはまりません。彼の目の形容にしても、「全宇宙を抱擁するほどにも大きく見開かれ、闇のなかに鼓動するすべての魂を貫き通す鋭さを持っていた」(藤永184)とあります。マーロウが上の予感を持ったのは、最初の会社出張所での出来事ですが、そこから陸路で200マイル上がった所にある中央出張所に着き、「あたりを一目見ただけで、だらしのない、たるんだ野郎がここの事業を担当しているに違いない」(藤永57)と見てとります。原文では「the first glance at the place was enough to let you see the flabby devil was running that show.」、つまり、ここで早くも定冠詞付きのthe flabby devil にマーロウは出会います。クルツではなく、中央出張所の支配人です。しかしこの男の本当の嫌らしさをマーロウが思い知るのは、1000マイル先で重病人のクルツを船に収容した後の支配人の言動からでした。「これほどまでに浅ましく汚れ切った空気を呼吸させられたことは今までになかった。」(藤永163)。ですから、私訳の『闇の奥』では「flabby devil」をこの小心翌々にして陰険狡猾な支配人と取りましたが、私自身、釈然とはせず、レヴェンソンに従って、コンラッドが第一部で考えていたクルツの性格付けを第二部、第三部で方向転換したのだと考えたくもなります。もっとも、私と同じ読み方をして、このだらしのない悪魔は「ほとんど確かにクルツではない」と言う人も居ます。(P.E.Firchow; ENVISIONIG AFRICA, 2000, P162)。ただし、この本には色々問題があって、別の機会に論じることにします。
 クルツの性格付けの曖昧さはこれだけではありません。クルツは T. S. Eliotの言う意味での「空ろな男(The Hollow Men)」の一人であるのか、ないのか? コンラッドは「彼の心の中核は空洞だったから、その囁きはその空洞のなかで大きくこだました」(藤永153)(It echoed loudly within him because he was hollow at the core) と書いていますから、クルツは空ろな人間の一人と思われます。しかし、エリオットがその詩「The Hollow Men」を書いた時、クルツを空ろな人間の一人に数えてはいなかったと解釈する人が沢山居ます。では、映画『地獄の黙示録』のエンディングで、カメラマンや自分を殺しに来たウィラードにエリオットの詩「空ろな男」を読んで聞かせるカーツ(クルツ)大佐はどちらでしょうか? 
 西欧文学には堕落(フォール)をテーマとする執拗な伝統があります。定冠詞をつけてザ・フォールとすれば、アダムとイブの物語、神の恩寵を失った人間の地獄落ちを意味し、エリオットの詩『空ろな人々』もこの系譜に属します。人間と文明の本質的な空虚さと堕落というテーマの二十世紀的寓意をコンラッドの『闇の奥』に読んだエリオットは、『闇の奥』の中の黒人ボーイの言葉「ミスター・クルツ-彼、死んだ」(Mistah Kurtz?he, dead)(藤永183)を『空ろな人々』の冒頭の題詞に選んだのです。だからこの二つの作品の内容は密接にからみ合っています。『地獄の黙示録』のエンディングで、カーツ大佐は最後の告白の前に『空ろな人々』の最初の12行までを読み上げます:
  われらは空ろな人間
  われらは剥製の人間
  互いにもたれかかり合って
  頭には藁がつまっている。ああ!
  われらの乾いた声
  互いに囁き合う時のその声は
  ひそやかで意味もない
  枯れ草の中の風のように、あるいは
  ワインの絶えたわれらの地下倉の中で
  砕けたガラスを踏むネズミの足音のように
  形のない形、色のない陰
  麻痺した力、動きのないジェスチャー
ここで、一人称で語るエリオットを含めて、この詩を読む者が「われら」であり、『地獄の黙示録』のカーツ大佐も「われら」の一人と考えるのが自然でしょう。だから、立花隆氏も「独立王国のトップまで登りつめたところで、発見できたのは自己の空虚さでしかないということになったのである。だから、We are the hollow men (「我らは空ろなり」) とつぶやきながら、自分の空しさを終らせるために、自分を殺してくれる人間の出現を待つということになってしまったのだ」と結論します。そうだとすると、カーツ大佐はコミックな存在になります。空ろな「われら」の一人と自覚して自己嫌悪に落ち入り、挙句の果てにウィラードに殺してもらうとは何とも冴えない結末ではありませんか。だが、別の解釈も可能のように思われます。
 問題は、カーツが口ずさんだ12行に続く次の6行にあります。
  真っすぐに前を見据えて
  死の彼岸の王国へと渡って行った者たちが
  たとえ、万一、われらを覚えていようとも
  破滅した烈しい魂としてではなく
  ただ単に、空ろな人間
  剥製の人間としてでしかない。
ここでエリオットはクルツを「真っすぐに前を見据えて、死の彼岸の王国へと渡って行った者たち」の中に数え、虚ろな「われら」とはっきり区別しているのです。こうなると,12行まで口ずさんだところで、空ろな言葉を並べ立てるカメラマンに本を投げつけるカーツ大佐は、人間の邪悪と悲惨を正面から見据えながら従容と死を迎える自分をクルツと同定していたのだと解釈できるかもしれません。
 コンラッドのクルツを何らかの意味で英雄的と考えるか、考えないか?これは『闇の奥』解釈の中核の問題です。『闇の奥』を下敷きにして『地獄の黙示録』の製作をきめた時、コッポラは同じ問題をそっくりそのまま抱え込んでしまいました。カーツ大佐をある意味で悲劇的英雄として描くか、描かないか?この決断がコッポラには最後まで下せずに終ってしまったのだと思われます。これが、映像的には輝かしい成果を挙げながら、思想的メッセージとしては、『地獄の黙示録』が名作ならぬ一種の「迷作」に止まったと考えざるをえない理由の一つです。

藤永 茂


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マーロウの物語とその聞き手たち

2006-04-05 10:49:52 | 日記・エッセイ・コラム
 前々回(2006/03/23)で「コンゴ体験でマーロウはどう変わったか?」を問題にしました。「イギリス植民地経営だけは是認する点でマーロウの考えは変わっていない」?これが私の答えであり、立場です。これは、現在、少数意見のようですが、この問題に対する英文学批評家、コンラッド研究家の意見の経時的(歴史的)変化は極めて興味深いものです。こうした人たちも“読者”に違いありませんが、狭義の読者、つまり、小説をただ読み物として消化する読者の『闇の奥』の受け取り方の変化の歴史も実に面白そうです。
 マーロウは『闇の奥』での深刻な体験を小型帆船ネリー号上の4人の友人に語ります。その3人は、会社重役、弁護士、会計士、もう一人は無名一人称「私」で語るナレーターで、3人のモデルになったコンラッドの友人たちについては実名が知られています。マーロウとナレーター「私」はコンラッドの分身とも考えられますが、この二人からコンラッドの本心がすっかり読めると思うのは間違いでしょう。「この小説の意味は微妙深長で、市井の俗人には分からない」とする流れが『闇の奥』の批評史にはあります。コンゴの旅からブリュッセルに帰って来たマーロウが町を行き交う俗物たちを罵倒する場面があります。「あの墓のような都に帰り着いてみると、人々は街の通りをせわしなく行き交い、お互いに些細な金をくすね合い、悪評高い地料理をむさぼり食い、体にさわりそうな地ビールをがぶ飲みし、下らない愚にもつかぬ夢を見ている、そんな大衆の様子にほとほと嫌気がさしてしまった自分を見出したというわけだ。彼らは僕の思索に邪魔を入れ、踏み込んできた。彼らの人生知識などは、僕には、腹立たしい衒いのようにしか思えなかった。僕が知ってしまったあの人間状況を、彼らが知っている筈は絶対にない、と僕は思ったからだ。彼らの挙動、それは、安全だと芯から思い込んで日々の仕事にいそしんでいる、ごく普通の人間たちの挙動に過ぎないのだが、僕には、それが、危険を前にしての知らぬが仏、しかも、話にもならぬ愚行を見せびらかしているように思えて、まったく頭に来るのだった。僕は彼らの蒙を啓いてやりたいとは思わなかったが、間抜けた尊大さのみなぎった顔を見ていると、その前で吹き出すのをこらえるのに骨が折れた。」(藤永186)。こうした調子のマーロウの話を3人の市井人(会社重役、弁護士、会計士)は理解したのでしょうか。マーロウの話に対する3人の反応は小説のたった4カ所に顔を出しているだけです。「あたりはすっかり夜の帳につつまれて、話を聞いているわれわれもお互いにほとんど見えなくなっていた。一人だけ離れて座っているマーロウは、もう長い間、われわれにとって、ただ声だけだった。誰も一言も発しなかった。他は眠ってしまっているのかも知れなかったが、私ははっきりと目を覚ましていた。耳を澄まして聞き入っていた。」(藤永75)。人間の所行を猿芝居になぞらえるマーロウの言葉が過ぎると、聞き手の誰かが彼をたしなめます。「『マーロウ、少し言葉を慎めよ』と誰かが唸った。私のほかに少なくとももう一人、眠らずに話を聞いていた人間がいたわけだ。」(藤永93)。「なぜそんな耳障りな溜め息をつくのだい、そこの誰かさん?え、馬鹿げてるって?そうさ、馬鹿げた話だよ。だがな、人間たまには?」(藤永126)。小説『闇の奥』は次のように締めくくられます。「マーロウは話すのをやめた。瞑想にひたる仏のような姿勢で、ひとり離れて黙然と座っている姿が、闇の中にぼんやりと見えた。しばらく誰も身動きしなかった。「下げ潮の始まりを逃してしまったな。」と重役が突然口を開いた。私は頭を上げた。沖合には黒々とした雲の土手ができていた。地の果ての果てまでも続く静かな水路が曇り空の下を暗然と流れ?途方もなく大きな闇黒の奥まで通じているように見えた。」(藤永203)。この4カ所で全部です。ここから重役、弁護士、会計士の3人がマーロウの話をどう受け止めたかを読もうというわけです。
 4人の聞き手の誰もマーロウの深遠な話を理解できなかったと考える批評家も居ますが、市井の3俗物には分からなかったけれど、最初から最後まで熱心に聞き入った「私」と名乗るナレーターはマーロウのコンゴ体験を、その話を聞きながら、追体験してマーロウと同じ精神的変貌を遂げたのだとする人たちも居ます。Seymour Gross や前に(2006/03/05)のエッセーで引いた『CliffsNotes』の解釈がその例です。           
The Director of Companies remains aloof, since his living is made presumably by the same horrific processes that Marlow has just described. Only the narrator ? and the reader ? understand Marlow’s initial point: “Civilized” Europe was once also a “dark place,” and it has only become more morally dark through the activities of institutions such as the Company.
たしかに、先ほどの『闇の奥』の4カ所を読むと、3人の反応は余り褒めたものではありません。重役さんの最後のコメントも何やらひどく散文的に聞こえます。それに較べてナレーター「私」がテムズ河の水面とその上の空を見る目が、話の始めと終りでは全然違ってしまっているから、この「私」は、賢明な読者たちと共に、ヨーロッパ人の心の暗黒と帝国主義の罪悪の実相を『闇の奥』から読み取った。けれども、会社重役の方はマーロウの語りの真意が分かるだけの感受性を持って聞いていたようには思えないし、仮に分かったにしても、考えを変える筈がない。植民地主義、大英帝国の経済的繁栄こそが、個人で小型帆船リー号を所有する優雅な彼の生活の基盤なのだから?とこう言うわけです。
 私としては、この歯切れの良い読み方においそれとは賛成しかねます。ネリー号の持ち主はG. F. W. Hope (1854-1930) で、1880年に初めて知り合ってから、実生活上コンラッドの生涯で一番の親友だった人物です。コンラッドの英国籍取得の際の保証人、結婚式の立会人、1900年には小説『ロード・ジム』が「with grateful affection after many years of friendship」という言葉と共にホープ夫妻に捧げられています。1896年(コンゴ体験の6年後!)には、南アフリカの金鉱の株でコンラッドが大損をした時にもホープが関係したようです。コンラッド、ホープ、会計士(W.B.Keen)、弁護士(T.L.Mears)の4人がネリー号の上で植民地関係の投資を話題にする情景は容易に想像できます。シャーロック・ホームズやポワローの話によく出てくるように。コンラッドが南アフリカの金やダイヤモンドへの投資で実際に儲けたかどうかを議論する向きがありますが、私には興味がありません。ビクトリア朝時代の大英帝国の繁栄の上に実現していた生活環境の中で、「one of us」という篩で作中人物を分別していたコンラッドの生活感情が、ネリー号上の他の3人の“俗物”英国人のそれと大きく隔たったものではなかったと思われる事の方を、私は重視します。実際、『闇の奥』のブラックウッド・マガジン連載が始まった時、この3人の友人は、自分たちがモデルであると早速読んだに違いありません。もともとこの「マガ」はこうした人々が集まる何処の紳士クラブにも備え付けになっていた人気雑誌だったのですから。もしコンラッドが『闇の奥』に親友ホープ氏の生活様式を頭から批判否定する意味を込め、しかもホープには絶対にそれを見破られない自信を持っていたとすれば、コンラッドという作家は随分傲慢不遜な人間であった事になります。そんな事はありますまい。『闇の奥』がイギリスを含めた植民地主義、帝国主義の痛烈な弾劾の文学だという読み方の方にこそ問題があると思われます。

藤永 茂


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