私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

パトリス・ルムンバの暗殺(6)

2011-12-28 11:00:00 | 日記・エッセイ・コラム
キャンベル教授の論考:
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.
(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の翻訳の続きです。
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 コンゴと中央アフリカでの経験から判断すると、現在、武力衝突、レイプ、収奪を生んでいる状況が歪曲して提示されることは今後も続くだろう。この歪曲の結果の一つは、米国アフリカ司令部(U.S. Africa Command, AFRICOM, アフリコム)の設置を正当化するために表に掲げた着想のおかげで米軍は平和目的のために存在するという見せかけを可能にしたことである。[訳者注:アフリコムの目的は健康管理、エイズ教育、女性の権利保護を米軍が担当することだという宣伝が実際に行なわれて来た。]
 ルムンバの暗殺の真相を隠蔽するために当時ペンタゴンがばらまいた対反乱活動(counterinsurgency)目的の報道論説奨励金は、今では、アフリコム社会科学研究計画を通じて支出されている。しかしながら、この計画の研究指針は、暗殺の連鎖を断ち切ろうとする個人や組織体の新しいエネルギーと正面衝突している。ルムンバの暗殺は現在のグローバルな政治状況とアフリカにおける社会変革の闘争に大いに関連している。デ・ウィット[訳者注:Ludo De Witteは“The Assassination of Lumumba”の著者、現ブログ・シリーズ(4)参照]はファノンの本から次のように引用している。:“アフリカが拳銃で、コンゴがその引き金であるとすれば、・・・、1960年から1965年にわたる、ルムンバの暗殺と何千人かのコンゴ独立主義者たちの殺害はアフリカ大陸の真正の独立の動きを破壊しようとする西欧の究極的な企てであった。”
 デ・ウィットは的確にも主張している。:“ルムンバの死後、腐敗した独裁的な政権が、西欧の金と武器に支えられて、アフリカ全土にわたって次から次に出現して、アフリカの愛国感情と独立心を効果的に窒息させて行った。暗殺を隠蔽する企ては無罪の人間の名誉を損なうだけでなく、アフリカの暴力と奴隷制を永続化するものである。”(続く)
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 20世紀のコンゴの歴史には「第二次独立運動」(The Second Independence Movement)という言葉があります。コンゴの独立は、ルムンバの暗殺という手段で米欧勢力とその傀儡によって崩されてしまいますが、ルムンバの志を継ぐ人々は独立を諦めませんでした。「第二次独立運動」は歴史学者が考え出した区分用語ではなく、学生や民衆の間から立ちのぼって来た言葉だそうです。原語は多分フランス語でしょう。Pierre Mulele という闘士がそのシンボル的存在で、1963年8月から1968年8月までの5年間熾烈なゲリラ戦を展開しました。それに手を焼いたモブツは停戦和平とムレレに対する厚い処遇を約束してムレレを欺き、逮捕し、惨殺しました。アメリカ東部のフロリダで米国軍隊を悩ませたセミノール・インディアンの英雄オセオーラの最後を私は想起せずには居れません。アメリカ軍もやはり名誉ある停戦和平を提案してオセオーラを欺き逮捕したのでした。彼のことは、かの詩人ホイットマンも唱い上げています。この時期のコンゴ紛争史は、上にキャンベル教授が述べているように、西欧側のいわゆるアフリカ通のジャーナリストや御用学者の情宣活動によって歪曲されたまま現在に及んでいます。そうした書物が我が国でも訳出されていて、その中には、在コンゴの多数の白人女性が反乱黒人軍の兵士によって集団的に暴行を受け、陵辱されたことを殊更に強調した文献もあるようです。そうした事実もあったでしょう。しかし、しっかりしたアフリカ黒人系学者の手になる信頼性の高い歴史書は流通度が極めて低く、我々の目には殆ど届いていません。キャンベル教授などの人々が、ルムンバ暗殺50周年記念の機会をとらえて、人々の注意を喚起しようとしているのは将にこの点にあります。

藤永 茂    (2011年12月28日)



パトリス・ルムンバの暗殺(5)

2011-12-21 11:21:56 | 日記・エッセイ・コラム
キャンベル教授の論考:
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.
(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の翻訳の続きです。
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こうした手口の書き物は、モブツ流の施政や、コンゴと東部アフリカに降臨する“人道主義”の旗手気取りの男女スターのばか騒ぎに身をすり寄せる米国国務省の一部官僚によって後押しされて来た。そしてこのサーカス的ショーは、暗殺が繰り返される状況を見えにくくするように、アフリカの“紛争解決パラダイム”を継続するための世界銀行からの巨額の投資によって支えられているのだ。
 モブツ大統領の悪政と弾圧の時代中、世界銀行と国際通貨基金(IMF)はその弾圧のパートナーであった。モブツが失脚追放された後は、世界銀行はコンゴ民主共和国内の暴動と戦乱の説明を“第一次産物生産”なるものに結びつけこじつけようとした。過去数十年にもわたる外国援助、外国投資、経済改革の末に、世界銀行の開発研究グループは“国内紛争の経済的原因とその国内政策に対する意義”と題する出版物の中で、彼らの分析によれば、“1995年現在、国内紛争のリスクがもっとも高いのはザイール(コンゴ)であり、今後5年間の内紛予想率は75%である”としている。
 世界銀行のこの分析で最も際立って見え透いているのは、第一次産物採取と武力衝突の関係の問題に関連する和平達成のための政策の選択肢として、国内人民の民主的政治参加と世界的な武器供給の傾向との議論が徹底的に排除されていることである。[訳者注:はっきり言えば、アフリカの自然資源を西欧勢力が出来るだけ経済的に搾取しようとすることがコンゴの国内紛争の核心であると明言することを避けようとしているのだ。]当時の世界銀行の研究グループの長であったポール・コリアー[訳者注:Paul Collier、現在はハイチの低賃金衣料産業開発を指導している]は次のように議論していた。:“もっとも強力なリスク要素は、国内総生産(GDP)の大きな部分が第一次産物(primary products)の輸出から来ている国がそうでない場合より遥かに争乱の危険が高いことだ。したがって、第一次産物の輸出のない普通の国々は内紛から安全だが、そうした輸出が多量な国の国内社会は大変危険だということになる。つまり、第一次産物は国内紛争の主要な役割を果たしている。”
 コリアーは世界銀行の研究員から身を起して、アフリカ研究という事業での司祭的第一人者となり、インテリ企業家として自らを確立した。彼はオックスフォード大学の安全快適な高所から、武力行使と暴力に関して、司祭よろしくお説教をしているが、アフリカを民主的に統治するためには、軍事介入とクーデターが解決法だと示唆している。
 William Reno, Christopher Clapham その他多くが地域軍閥首領体制の研究を一つのアカデミック産業にまで育て上げたが、その研究は軍閥首領という戦争企業家たちを支えている資源収奪、集団強姦、戦争の関連を論じていない。その「紛争パラダイム」は、ベルギーの鉱山会社の過去の事業経験とモブツ支配の下で外国企業が果たした役割を歴史的に論及することなしに、「コンゴに類似する地理を持ち、第一次産物の輸出に依存する国は“国内紛争”に陥りやすい」という命題として、世界銀行という名の権威を笠に着て提出されている。
又、もう一つ欠落しているのは、Foday Sankoyとか Charles Taylorといった連中の収奪目的の戦争とパトリス・ルムンバによって始められた解放のための正当な闘争との相違の明白な指摘である。紛争に関する世界銀行モデルではアフリカの尊厳を求める闘争の説明の余地がないのだ。この面での世界銀行の役割の考察なしに、西欧は世界銀行を新時代のコンゴ民主共和国の再建のための開発計画を定式化できる機関として考え続ける可能性が充分ある。(続く)
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 日本でもポール・コリアーをアフリカ開発に関する最高権威と看做している専門家が多いと思われます。この人物に対するキャンベル教授(いま翻訳している論考の著者)の激しい批判的語り口を意外に感じる人たちも少なくないでしょう。ウィキペディアの記事を借りてコリアーを紹介します。
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ポール・コリアー(Paul Collier, 1949年 - )は、イギリスの経済学者。オックスフォード大学教授、同大学アフリカ経済研究センター所長。開発経済学、アフリカ政治経済論を専攻。
世界銀行の開発研究グループ・ディレクター(1998-2003)、イギリス政府顧問などを歴任。 2008年、大英帝国勲章授与。
著書
The Plundered Planet: Why We Must, and How We Can, Manage Nature for Global Prosperity (2010) ISBN 978-0195395259
Wars, guns, and votes: democracy in dangerous places, Harper, 2009.
『民主主義がアフリカ経済を殺す: 最底辺の10億人の国で起きている真実』、甘糟智子訳、日経BP社、2010年
The bottom billion: why the poorest countries are failing and what can be done about it, Oxford University Press, 2007.
『最底辺の10億人: 最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?』、中谷和男訳、日経BP社、2008年 
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 私は訳書二冊とも読んでいませんが、内容紹介や書評を見ますと、キャンベル教授が言うように、低開発国では独裁的な政治の方が、もたもた一般選挙にこだわっているより能率的だとコリアー教授は考えているようです。彼の心中にある最高の事例はカガメ大統領の絶対的独裁下にあるルワンダの目覚ましい発展でしょう。ただし、独裁政治家といっても、米欧の言うことを聞かず、世界銀行とIMFの干渉を排除する者は、たとえ国内の経済的発展が成功していても、消されてしまいます。リビアのカダフィ殺害がその最近の例ですし、エリトリアの独裁者イサイアス・アフェウェルキが次の標的の一つでしょう。今回のコンゴでの選挙のゴタゴタをコリアーは一種の苛立ちを持って見下ろしていることでしょう。コリアーの熱心なファンであるクリントン元大統領とバン・キムン国連事務総長によってコリアー版開発計画が着々と実施に移されているハイチの人たちの悲惨はこれから長期間続くことになると私は思っています。

藤永 茂   (2011年12月21日)



パトリス・ルムンバの暗殺(4)

2011-12-14 11:20:59 | 日記・エッセイ・コラム
 キャンベル教授の論考:
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.
(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の翻訳の続きです。
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ブルジョアジー体質の学者と呼ぶにふさわしいこれらの現実主義者の最高のシンボルはヘンリー・キッシンジャーである。彼の秘蔵っ子たちの多くが米国国務省に乗り込み、アフリカの戦争と政治の概念構築に払拭できない暗影を投げかけてきた。ノーム・チョムスキーは、戦略的鉱物資源と戦略的利権の名の下に暗殺と暴力の采配を振って来た米国官僚たちについて書き綴ってきた。彼はこう書いている。:「独善性は力でその欲するところを強行できる人間に自然と宿る。そうした連中はまた、少なくとも権力の代行をつとめる知識層については、洗脳教育のシステムによって、過去の記憶を抹消し骨抜きに出来ると確信している。そうした知識層は,言うなれば、権力機構の最もナイーブな犠牲者なのである。」
 今やコンゴにおける共産党員の脅威に対処したCIAの役割とアメリカ政府の強迫観念に関する本が次から次へと刊行されているが、その多くがうやむやにしてきたのはルムンバ暗殺計画におけるアメリカとベルギーの共同謀議のレベルである。この状況を打破した型破りの本で、暗殺計画をこの上ない明瞭さで綿密に記述したのは、Ludo De Witteの”The Assassination of Lumumba.“であった。デ・ウィットは文献資料漁りと暗殺に関係した人々と会うことに数年を費やした。この本が出版された後、ベルギー政府は国会でこの暗殺を調査することを強いられることになった。国会調査委員会はベルギー政府関係の諜報部員の広い範囲にわたって証言を聴取した。
 2002年2月、ベルギー政府はルムンバ暗殺の道義的責任を正式に認めた。ベルギー外務大臣は「今日適用されるべき判断基準に照らして、当時の一部政府役員とその時期の一部の政府関係者はパトリス・ルムンバを死に至らしめた一連の事件に対する弁解の余地なき責任を担う。」(Thomas Turner の“Crimes of the West in Democratic Congo: Reflections of Belgian Acceptance of ‘Moral Responsibility’ for the Death of Lumumba,” からの引用)と声明した。
 ベルギー政府の声明はこの暗殺に関する40年間の調査研究と著作の末になされた。暗殺計画の組織化に関して、ワシントンのアメリカ政府から発せられた電報の数々とCIA の果たした役割はいまや良く分かっている。1975年に米国上院議員フランク・チャーチは“外国元首を含む暗殺計画疑惑”の調査を行い、結果は1975年上院報告書94-465 として出版された。
 このチャーチ調査委員会の報告とこのベルギーでの議会諮問の存在にもかかわらず、ルムンバ殺害陰謀に関する情報は広く流布されていないのが現実である。ベルギーなどヨーロッパの学者たちは依然として彼らがコンゴでやってきたことをアフリカ人の文明化と唱えている。更に注目すべきはこの暗殺行為とそれに続いたモブツによって残された伝統がコンゴ社会の政治的文化と政治家の生き様を毒し続けて来たことである。モブツの政府は、30年の間、不法殺戮を遂行し続け、学生や組合幹部を殺害した。
 1990年、コンゴで国家主権会議なるものが開催され、国民的論議の基礎を発展される試みがなされたのだが、コンゴ人の職業的政治家たちも,彼らのワシントン、ブリュッセル、パリの帝国主義的支持者たちも、真実が表に出てくることを望まなかった。モブツの失脚以来の中央アフリカ地域の大量虐殺戦争と5百万を超える死者数は、ひとたび、何をやっても刑罰を受けないという政治状況が社会に根をおろすと、それを根治するのに、数世代を必要とすることを示している。
 1997年にモブツが転覆された時、アメリカはコンゴに関する文書を公開する必要があるという討論があまた行なわれた。ルムンバの暗殺が行なわれた当時、キンシャサ(コンゴの首都)のCIAの長であった年老いたLarry Devlin がそうした討論会の一つに顔を出した。彼の出席が意味したのは、モブツの犯罪におけるアメリカの役割に関してはすべてが伏せられたままに留まるべきこと、列を乱すことは許されないことであった。
 しかし、1999年の末には、ワシントン・ポストに掲載された一つの記事で、1960年、コンゴでパトリス・ルムンバを抹殺すべしという命令をアイゼンハワー大統領が直接与えていたという事実が公式に確かめられた。[藤永註:その頃のワシントン・ポストは現在のようにアメリカ政府の走狗には未だ成り果てず、1974年にニクソン大統領を辞任に追いつめたジャーナリズム伝統の名残りを維持していた新聞であった。]この暴露記事は、それまでの40年間、すでに公然の秘密であった事実、つまり、アイゼンハワー大統領が時のCIA長官アレン・ダレスにルムンバ暗殺の指令を直接出していた事実を確認するものであった。 冷戦状態も過去となった今、アメリカの行為で破壊されたコンゴの社会の新生のために、関係の秘密文書の公開が改めて要求されて然るべきである。
 ところが、ルムンバ暗殺の裏に隠された真の真実を歪曲するために、Larry Devlin は,死の直前、彼自身の回想録“Chief of Station, Congo. A Memoir of 1960 ? 67”を出版した。デヴリンの本は、アメリカの外交政策の決定的要素となっていたものをリサイクルしようと試みた。つまり、ルムンバは共産主義者であったのであり、アメリカはアフリカにおける共産主義の蔓延を阻止する行動をとったのだという冷戦中の歪曲を再燃させようとする愚かしい試みであった。(続く)
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デヴリンの本は、読んでみてとても嫌な後味が残りました。私の思想的“偏向”のせいだろうとは思いますが。アメリカには好意的だが文章には鋭い鑑識力を持っているような読書人の感想を聞きたいものです。「文は人なり」という格言がありますから。Scott Shane というニューヨークタイムズのベテラン記者が、この本の長い書評(2008年2月24日)を書いていますが、この人は私と正反対の方向の思想的“偏向”者と見受けられます。
 現在のブログ・シリーズの前回の中の[訳者注]で、「この部分の意味は分明でないが、アイゼンハワー大統領の意向にしたがってCIA が毒薬入りの歯磨きでルムンバを暗殺しようと試みて失敗したのは事実と思われる。実は上掲のデヴリンという元CIA幹部要員の本にも、当事者の一人の発言として、この話が出ている。その96頁には“I find it difficult to kill any living thing, even the smallest insect.”だから、そんなことは命令されてもとても出来なかった、と言っている。こんなことを言うCIA 工作員の回顧録が信じられようか?」と書きましたが、Scott Shane によれば、デヴリン氏は、もしアイゼンハワー大統領からの命令を拒否すればCIAのボスはすぐにも彼を帰国させて首にし、暗殺をやる気充分の代りの工作員を送り込むだけのことだろうと判断して、毒入り歯磨きを入れた箱に「毒が入っている」というノートを付けて金庫の奥にしまい込み、のらりくらりと時を稼いでいるうちに、1961年1月17日、ベルギー兵たちによってルムンバは暗殺されてしまいます。その後、デヴリン氏はその毒入りの箱を人知れぬコンゴ河の深みに投げ込んで処理をしたのだそうです。彼によれば、その歯磨きをルムンバが使えば、ルムンバはポリオ(小児麻痺)の症状を発症して死ぬ筈だったのだそうですから、コンゴ河の沢山の魚が小児麻痺になって死んで行ったかもしれません。

藤永 茂    (2011年12月14日)



アウンサンスーチー:桜井元さんへのお答え

2011-12-07 11:20:48 | 日記・エッセイ・コラム
いま『パトリス・ルムンバの暗殺』と題して、キャンベル教授の論考:
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa (ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の翻訳を続けていますが、前回(2011年11月30日)のブログに対して桜井元さんから重要なコメントを頂き、アウンサンスーチーについての私の見解を求められましたので、今回はそれにお答えしたいと考えました。コメントの冒頭には
■ 新聞やテレビで、米国のヒラリー・クリントン国務長官がミャンマーを訪問したニュースが報じられました。背景には米国と中国との勢力争い、対北朝鮮戦略などがあるそうですが、それにしてもよくわらかないのがアウンサンスーチーという人物です。民主化運動の指導者で1991年にノーベル平和賞を受賞した彼女は、自邸でヒラリーと抱き合い、「われわれが一緒になれば、民主化の道を逆行することはないと確信している」と語ったそうです。ちなみに、映像に移った自邸というのがたいそうな豪邸でした。■
とあります。
 私はもともとアウンサンスーチーについて強い関心を持ったことがなく、勉強もしていませんから、妥当な判断を下す能力も資格がありませんが、米国が彼女を自己の情宣活動の一つの駒として利用して来たのは明白な事実であり、その点ははっきりと断定することが出来ます。その動かぬ証拠の一つは、米国がこの10年間に取って来たハイチのアリスティド元大統領に対する処置です。ハイチ問題については、このブログで何度も取り上げてきましたので、出来れば読んで下さい。この10年といえば、ミャンマーの軍事政権によるアウンサンスーチーの政治活動の抑圧と自宅軟禁を米国が声高に非難していた時期と重なりますが、同じ米国は、一方で、アリスティドと彼の民衆的政治基盤に対して、ミャンマー政府とは比べ物にならない暴力を行使していたのです。米国の暴挙について日本版ウィキペディア「ジャン=ベルトラン・アリスティド」をお読みになる場合には、どういうわけか、米国寄りの宣伝臭が強く残っている事にご注意下さい。英文Wikipediaの「Jean-Bertrand Aristide」の内容は日本語版より遥かに充実していて、かつ、より公平正確です。日本語版と英語版との両方を読み比べると、こうした政治的外交的事象についての真実を押さえることがどんなに難しいことかが痛感されます。
 その最近の例の最たるものはリビアです。NATOの3万発のミサイル攻撃とそれにカバーされたおそらく万のオーダーの傭兵によって成し遂げられたリビアの独裁制から“民主制”への移行が一体何であったのかがはっきりするには未だ数年はかかるでしょう。この日頃、私の心を痛めているのは、北アフリカの人口5百万の小国エリトリア(Eritrea)の命運です。もう程なくこの黒人小国は米欧によって粉砕抹殺されてしまうでしょう。今度も表向きはUNとNATOと現地代理戦傭兵隊によってエリトリア人が凶暴な独裁者から救われ、“民主”政権が樹立されることになりましょう。これだけは間違いのないところですが、皆さんが、この国が瓦解してしまう前に、この国の国民生活についての幾つかの基本的事実を知ることがどんなに困難かを実地に経験して頂きたいと、私は強く願います。そのため少しばかり実地の案内をします。
(1) http://kaze.shinshomap.info/series/rights/10.html
 人間を傷つけるな!  土井香苗    10/01/31
 第10回 エリトリア人弁護士から見た“世界最悪”の独裁政権国家
 戦争や虐殺など世界各地で今日もなおつづく人権蹂躙の実情に対して監視の目を光らせる国際NGOヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)。2009年春開設したHRW東京オフィスの土井香苗ディレクターが問題の実態を語る。
 「北朝鮮よりも“人権”のない国?」
<藤永註>この記事によると、絶望的な独裁制の下でエリトリア国民は塗炭の苦しみにあると思われます。
(2) http://std-lab.typepad.jp/yamada/2008/09/stop-aids-0d48.html
山田耕平の「愛」がエイズを止める!!(第6弾)
~エリトリア自転車&STOP AIDツアー
<藤永註>ところがこちらの記事は次のように始まります。:
「ただいまエリトリアから帰国しました!
多くの人たちにですが、どうだった?って聞かれましたが、まずお伝えしたいのは、アフリカでこんなに治安も良く、安全な国があったとは思わなかったということです。
アフリカの多くの国では、首都を夜歩くなんて自殺行為に等しいのが現実ですが、エリトリアの首都アスマラは本当に治安が良く、安全でした。また首都アスマラはゴミもほとんど落ちておらず非常に綺麗で、またイタリア植民地時代のコロニアルな雰囲気の建物が残っていて、素晴らしい町並みです。」
この文章を読みながら、私はリビアの首都トリポリについても似たような印象を伝えた記事を思い出していました。
(3) http://www.moj.go.jp/content/000056397.pdf
出身国情報レポート「エリトリア」  2010年6月
 <藤永註>この50頁にわたるpdfは米英側のほぼオフィシャルなエリトリアの誹謗文献の典型であろうと私は判断します。この書き物の内容は(1)の国際NGOヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)の報告に依存して大きくいると思われます。
(4) http://blackagendareport.com/content/eritrea-island-food-africa’s-horn-hunger
Eritrea: An Island of Food in Africa’s Horn of Hunger
by Thomas C. Mountain
08/10/2011
Drought kills, but spiraling food prices can also bring hunger. While Ethiopia exported food for cash as drought and famine loomed, Eritrea is like “an island the size of Britain where affordable bread is there for all and slowly but steadily, life gets better.” Meanwhile, in Ethiopia, “basics like wheat, barley, sorghum and chick peas become so expensive malnutrition rates for children spike.” Naturally, Ethiopia is a U.S. client state, while Eritrea is on the American hit list.
<藤永註>この記事の著者は2006年以来エリトリアに住んでいる英国系白人の独立ジャーナリストで、現エリトリア政府に同情的姿勢を明白にしている人物ですが、独裁者Isaias Afwerkiの回し者ではないと私は判断しています。参考までにこの記事の終りの部分をコピーして訳出します。:
■ Life expectancy in Ethiopia is falling, maybe plunging is a better word, while even the World Bank uses words like “dramatic” to describe the improvements in life expectancy in Eritrea. Eritrea is one of the very few countries in the world that will meet the Millennium Development Goals (MDG), especially in the area of health for its children, malaria mortality prevention and reduction of AIDS.
Hillary Clinton may call Eritrea a dictatorship and Ethiopia a democracy but if one measures human rights by access to clean drinking water, food, shelter and medical care rather than stuffed ballot boxes and fixed elections, then the descriptions would have to be reversed.
The Horn of Africa may be the Horn of Hunger for millions but in the midst of all the drought, starvation and suffering there lives and grows an island of food security, little Eritrea and its 5 million people.
Unfortunately, none of this may be enough to prevent the UN inSecurity Council from passing even tougher sanctions against Eritrea in an attempt to damage the Eritrean economy and, inevitably, hurt the Eritrea people. This is all done, once again, in the name of fighting the War on Terror, or more accurately, the War on the Somali people. (エチオピアの平均寿命は降下している、いや急落していると言った方が良いが、その一方で、(すぐ隣りの)エリトリアでは、世界銀行ですらが“劇的に”という表現を使うほど、平均寿命が延びているのだ。エリトリアは(国連の)ミレニアム開発目標(MDG)で、特に児童の健康、マラリアによる死亡防止、エイズの感染減少の分野で、目標の達成が期待されるごく少数の国家の一つである。ヒラリー・クリントンは、エリトリアは独裁国家、エチオピアは民主国家と言うだろうが、もし、人権というものを、インチキ投票箱,お手盛り選挙ではなく、クリーンな飲料水、食べ物、住まい、保健医療が得られるかどうかで測るならば、エリトリアが民主国で、エチオピアが独裁国ということになるだろう。アフリカの角(アフリカ大陸の右肩の地域)は何百万かの人々にとって空腹の角とも言えようが、この旱魃と飢餓と受難のただ中で、小さなエリトリアとその5百万人の国民は、食糧不安のない孤島として、生活し、成長している。- 以下略 -)■
 これを読みながら、私の想いは又しても今回NATOによって“民主化”されない前のリビアに立ち返ります。エリトリアでは毎年国際的な自転車レースが行なわれています。今年の国外からの参加者の数人が上掲の(2)の山田耕平氏のエリトリア描写と殆どそっくりの観察を報告しています。また、エリトリアが国連のミレニアム開発目標に関して優れた成果をあげていることはネット上に沢山の公式データがあります。リビアの場合にも国連がその国民生活の質の良さを確認するデータを発表していたことはこのブログでも報告したことがありました。もう間もなく、この小国は大国のエゴイズムによって粉砕され、私は「エリトリア挽歌」を書く羽目になるのでしょう。
 エリトリアの独裁者イサイアス・アフェウェルキは、その独裁の熾烈さにおいて、ルワンダのポール・カガメとよく同列視されます。決定的な違いは、米欧にとって、カガメが飛び切りの優等生であるのに、アフェウェルキは言語道断の非行人物だということです。アウンサンスーチーとアリスティドとの相対地位とも通じている所があるかも知れません。

藤永 茂     (2011年12月7日)