キャンベル教授の論考:
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.
(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の翻訳の続きです。
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コンゴと中央アフリカでの経験から判断すると、現在、武力衝突、レイプ、収奪を生んでいる状況が歪曲して提示されることは今後も続くだろう。この歪曲の結果の一つは、米国アフリカ司令部(U.S. Africa Command, AFRICOM, アフリコム)の設置を正当化するために表に掲げた着想のおかげで米軍は平和目的のために存在するという見せかけを可能にしたことである。[訳者注:アフリコムの目的は健康管理、エイズ教育、女性の権利保護を米軍が担当することだという宣伝が実際に行なわれて来た。]
ルムンバの暗殺の真相を隠蔽するために当時ペンタゴンがばらまいた対反乱活動(counterinsurgency)目的の報道論説奨励金は、今では、アフリコム社会科学研究計画を通じて支出されている。しかしながら、この計画の研究指針は、暗殺の連鎖を断ち切ろうとする個人や組織体の新しいエネルギーと正面衝突している。ルムンバの暗殺は現在のグローバルな政治状況とアフリカにおける社会変革の闘争に大いに関連している。デ・ウィット[訳者注:Ludo De Witteは“The Assassination of Lumumba”の著者、現ブログ・シリーズ(4)参照]はファノンの本から次のように引用している。:“アフリカが拳銃で、コンゴがその引き金であるとすれば、・・・、1960年から1965年にわたる、ルムンバの暗殺と何千人かのコンゴ独立主義者たちの殺害はアフリカ大陸の真正の独立の動きを破壊しようとする西欧の究極的な企てであった。”
デ・ウィットは的確にも主張している。:“ルムンバの死後、腐敗した独裁的な政権が、西欧の金と武器に支えられて、アフリカ全土にわたって次から次に出現して、アフリカの愛国感情と独立心を効果的に窒息させて行った。暗殺を隠蔽する企ては無罪の人間の名誉を損なうだけでなく、アフリカの暴力と奴隷制を永続化するものである。”(続く)
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20世紀のコンゴの歴史には「第二次独立運動」(The Second Independence Movement)という言葉があります。コンゴの独立は、ルムンバの暗殺という手段で米欧勢力とその傀儡によって崩されてしまいますが、ルムンバの志を継ぐ人々は独立を諦めませんでした。「第二次独立運動」は歴史学者が考え出した区分用語ではなく、学生や民衆の間から立ちのぼって来た言葉だそうです。原語は多分フランス語でしょう。Pierre Mulele という闘士がそのシンボル的存在で、1963年8月から1968年8月までの5年間熾烈なゲリラ戦を展開しました。それに手を焼いたモブツは停戦和平とムレレに対する厚い処遇を約束してムレレを欺き、逮捕し、惨殺しました。アメリカ東部のフロリダで米国軍隊を悩ませたセミノール・インディアンの英雄オセオーラの最後を私は想起せずには居れません。アメリカ軍もやはり名誉ある停戦和平を提案してオセオーラを欺き逮捕したのでした。彼のことは、かの詩人ホイットマンも唱い上げています。この時期のコンゴ紛争史は、上にキャンベル教授が述べているように、西欧側のいわゆるアフリカ通のジャーナリストや御用学者の情宣活動によって歪曲されたまま現在に及んでいます。そうした書物が我が国でも訳出されていて、その中には、在コンゴの多数の白人女性が反乱黒人軍の兵士によって集団的に暴行を受け、陵辱されたことを殊更に強調した文献もあるようです。そうした事実もあったでしょう。しかし、しっかりしたアフリカ黒人系学者の手になる信頼性の高い歴史書は流通度が極めて低く、我々の目には殆ど届いていません。キャンベル教授などの人々が、ルムンバ暗殺50周年記念の機会をとらえて、人々の注意を喚起しようとしているのは将にこの点にあります。
藤永 茂 (2011年12月28日)
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.
(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の翻訳の続きです。
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コンゴと中央アフリカでの経験から判断すると、現在、武力衝突、レイプ、収奪を生んでいる状況が歪曲して提示されることは今後も続くだろう。この歪曲の結果の一つは、米国アフリカ司令部(U.S. Africa Command, AFRICOM, アフリコム)の設置を正当化するために表に掲げた着想のおかげで米軍は平和目的のために存在するという見せかけを可能にしたことである。[訳者注:アフリコムの目的は健康管理、エイズ教育、女性の権利保護を米軍が担当することだという宣伝が実際に行なわれて来た。]
ルムンバの暗殺の真相を隠蔽するために当時ペンタゴンがばらまいた対反乱活動(counterinsurgency)目的の報道論説奨励金は、今では、アフリコム社会科学研究計画を通じて支出されている。しかしながら、この計画の研究指針は、暗殺の連鎖を断ち切ろうとする個人や組織体の新しいエネルギーと正面衝突している。ルムンバの暗殺は現在のグローバルな政治状況とアフリカにおける社会変革の闘争に大いに関連している。デ・ウィット[訳者注:Ludo De Witteは“The Assassination of Lumumba”の著者、現ブログ・シリーズ(4)参照]はファノンの本から次のように引用している。:“アフリカが拳銃で、コンゴがその引き金であるとすれば、・・・、1960年から1965年にわたる、ルムンバの暗殺と何千人かのコンゴ独立主義者たちの殺害はアフリカ大陸の真正の独立の動きを破壊しようとする西欧の究極的な企てであった。”
デ・ウィットは的確にも主張している。:“ルムンバの死後、腐敗した独裁的な政権が、西欧の金と武器に支えられて、アフリカ全土にわたって次から次に出現して、アフリカの愛国感情と独立心を効果的に窒息させて行った。暗殺を隠蔽する企ては無罪の人間の名誉を損なうだけでなく、アフリカの暴力と奴隷制を永続化するものである。”(続く)
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20世紀のコンゴの歴史には「第二次独立運動」(The Second Independence Movement)という言葉があります。コンゴの独立は、ルムンバの暗殺という手段で米欧勢力とその傀儡によって崩されてしまいますが、ルムンバの志を継ぐ人々は独立を諦めませんでした。「第二次独立運動」は歴史学者が考え出した区分用語ではなく、学生や民衆の間から立ちのぼって来た言葉だそうです。原語は多分フランス語でしょう。Pierre Mulele という闘士がそのシンボル的存在で、1963年8月から1968年8月までの5年間熾烈なゲリラ戦を展開しました。それに手を焼いたモブツは停戦和平とムレレに対する厚い処遇を約束してムレレを欺き、逮捕し、惨殺しました。アメリカ東部のフロリダで米国軍隊を悩ませたセミノール・インディアンの英雄オセオーラの最後を私は想起せずには居れません。アメリカ軍もやはり名誉ある停戦和平を提案してオセオーラを欺き逮捕したのでした。彼のことは、かの詩人ホイットマンも唱い上げています。この時期のコンゴ紛争史は、上にキャンベル教授が述べているように、西欧側のいわゆるアフリカ通のジャーナリストや御用学者の情宣活動によって歪曲されたまま現在に及んでいます。そうした書物が我が国でも訳出されていて、その中には、在コンゴの多数の白人女性が反乱黒人軍の兵士によって集団的に暴行を受け、陵辱されたことを殊更に強調した文献もあるようです。そうした事実もあったでしょう。しかし、しっかりしたアフリカ黒人系学者の手になる信頼性の高い歴史書は流通度が極めて低く、我々の目には殆ど届いていません。キャンベル教授などの人々が、ルムンバ暗殺50周年記念の機会をとらえて、人々の注意を喚起しようとしているのは将にこの点にあります。
藤永 茂 (2011年12月28日)