私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

バーチュアル コロニアリズム

2006-10-25 01:14:00 | インポート
 中米の論者がVirtual Colonialismという言葉を使っているのに出会いました。グローバリゼーションの旗の下に、世界の強大諸国が全世界の資源とその交易を牛耳り続けていることを意味するものと思われます。ネオコロニアリズムという言葉と同様に、植民地時代というものが表面的には終った後も、実質的には人的(労働)資源と物的資源の収奪が、ただ収奪のフォーマットを変えただけで、依然として続けられていることから、こうした言葉が生まれてくるのだと思います。特にアフリカについては、この500年の歴史に、奴隷交易時代、アフリカ分割時代、脱植民地時代、ポストコロニアル時代、ネオコロニアル時代などの名称を振り当てて時代区分を試みるのも全く意味がないとは言えませんが、現地アフリカ人の言語に絶する苦難を見て見ぬ振りのままの人的物的資源の濫用収奪は、この500年間、ほとんど何の切れ目もなしに続けられていることを思えば、新しい言葉は必要でなく、むしろ、コロニアリズムという言葉に背負わせる意味をほんの僅かばかり象徴的に拡張して使用したほうが良いと私は思います。私の言う‘European mind’の作動様式の本質は、この500年間、何も変わってはいないと私は考えるようになりました。ちなみに、イーグルトンの本を再読して、T. S. エリオットが彼の文学論のキーワードである「伝統(the Tradition)」を‘European mind’とも呼んでいたことを知りました。
 私が今いる所(カナダ、アルバータ州、エドモントン)の地方新聞の「食べ物コラム」によると、「北米の普通の食事に使われる食材は、夕餉のお皿の上に乗っかるまでに、平均して2500キロから4000キロの距離を旅している」そうです。このコラムの筆者は、これは環境悪化につながるエネルギーの無駄遣いだから、「なるだけローカルなプロデュース(産物)を食べましょう」と提案して、エドモントン市から100マイル(160キロ)の範囲内で生産される食材を具体的に調べているのですが、それはそれとして、「2500キロから4000キロ」という途方もない距離にも、しっかりと思いを致さなければなりますまい。この数字は、アメリカの政治を左右するほどにも強大な食料産業会社群が所有する大船団に属する冷蔵冷凍輸送船が世界中を駆け巡っていることを如実に示しているわけです。これらの大型輸送船は、ローカルに産出されるものより安い価格の食材を世界各地のマーケットに溢れさせ、莫大な燃料費をかけているにも拘らず、企業として巨大な収益を挙げているのです。そして、それを可能にするためには、必然的に、原産地で低賃金労働が強制されることになります。この事態は、本質的に、コロニアリズムの連続ということに他なりません。これは地方新聞の記事から拾ったほんの一例ですが、私たちが少し感覚を鋭くすれば、日々報道される世界のニュースのはしばしから今もなお植民地時代的な情況が世界各地で依然として続いていることを感じ取ることが出来ます。
 優れた文学作品というものには「文学」としての優れた何物かが内在していて、それが、時と所をこえて、多くの読者の心を打つのだ-私のような者は、文学理論の入門書を何冊読んでみても、こうしたナイーブな思いを捨て切れません。ただ、私の場合、幸か不幸か、コンラッドの『闇の奥』については、理屈ではない素直な文学的感銘をあまり味わうことのないままに、小説の舞台となったベルギー国王レオポルド二世のコンゴ私有植民地で実際に何が起ったかが気になり、続いて、アチェベ的な問題に引きずり込まれてしまいました。そして、過去50年間の『闇の奥』の文学批評活動の全体像を、いわゆるポストコロニアル問題の枠組みの中で批判的に捕らえてみたいと思うようになったのです。結局のところ、コンラッドの小説『闇の奥』は、私にとって、植民地主義論入門、帝国主義論入門、そして、アフリカ開眼への導きの役を果たしてくれたことになります。これはイーグルトンも是認してくれる一つの進み方だろうと思っています。
 私の新訳『闇の奥』の「あとがき」に述べた事柄をもう少し詳しく組織的に書いた書物が、多分、本年内に三交社から出版される予定です。この本は一つのコンラッド『闇の奥』論として書き始められたものですが、書き終えてみると、これは私自身にとっての「アフリカ開眼」の書になっていました。

藤永 茂  (2006年10月25日)


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イーグルトンの『文学理論』を読み直す

2006-10-18 01:03:48 | 日記・エッセイ・コラム
 イーグルトンの文学理論入門「LITERARY THEORY An Introduction」(1983年初版)を取り出して読み返しています。前に読んだ時には、私の主な関心は文学理論と科学論との関係にありました。英文学者を含む人文系の人々の間でトーマス・クーンの科学論が異常な人気を呼んでいる理由を探りたいと思ったのです。今回は、コンラッドの『闇の奥』についてあれこれ考えているうちに「文学とは何か」「文学批評とは何か」「文学理論とは何か」といった青臭い設問の所まで押し戻されてしまったのが、イーグルトンの読み直しの理由です。
 フロイド理論の解説の所で「The reason why the vast majority of people reads poems, novels and plays is because they find them pleasurable」(p19)とあります。大学の文学部の先生たちが、文学理論という形で、ああでもない、こうでもない、と「文学」をこね回していることなど全然気にもかけないで、一般の人々はロマンス小説、スリラー、歴史小説などを愉しみとして読んでいます。コンラッドの小説にしても「If you do not have the money and leisure to visit the Far East, except perhaps as a soldier in the pay of British imperialism, then you can always ‘experience’ it at second hand by reading Conrad or Kipling」(p26)というわけです。小型帆船ネリー号上に集ったコンラッドの友人たちを含めて当時のイギリスの中産階級の男たちは『マガ』に連載された『闇の奥』を冒険小説かホラー小説として楽しんで読んだに違いありません。帝国主義の深刻な糺弾として読んだ人はおそらく皆無であったと思われます。私たち現代の一般読者も、その「プロット」と「ストーリー」(p105)を読み取り、著者コンラッドがこの小説に込めた「意味」や「メッセージ」を汲み、その文章の見事さや修辞的な工夫に魅せられることになります。これはこれで良いのだと思います。
 しかし、文学作品をこんな工合に楽しむだけでは、大学の文学部、職業としての文学研究者は成立ちません。イーグルトンを読んで、文学理論という学問分野の成立ちや変遷やカラクリを学んで行くと、私たちが、何らかのレベルで、一種の愉悦として消費している「文学」というものが、一つの存在物としての実在感をどんどん失って行きます。私たちにとっては、古今、洋の東西を問わず、作家、著者というものが大変重要な存在ですが、文学理論の重心は著者(author)から作品そのもの(text)へ、さらに、読者(reader)へと移動し、そして、読者が作品をどう受け取るか(reception)、どう解釈(interpretation)するかは、広い意味での歴史(history)に絡めとられている、といったことになるようです。ですから、「これがこの小説の解釈の決定版」というようなものはありえません。そして、この不確定性は、私たちが、普通何とはなしに私たちの外に実在するもののように感じている現実(reality)とか世界(world)とかが、実は存在していないのだという主張にその根源を持っていると思われます。こうした考え方に関連する言明や陳述は「文学」の本質にかかわるものとしてイーグルトンの本の中に沢山出てきます。前にイーグルトンを読んだ時には、私は、その事態を科学論論争、科学哲学論争-いわゆる「サイエンス・ウォーズ」-に結びつけて考えようとしたのでした。以下にその例を幾つか引用します。
「The claim that knowledge should be ‘value-free’ is itself a value-judgement」(p14)
人文系の人々は自然科学の知識もvalue-freeではないと主張しました。
「The world is not an object ‘out there’ to be rationally analysed, set over against a contemplative subject: it is never something we can get outside of and stand over against.」(p62)
英文学者の中にも、このハイデッガー的な「世界」の捉え方をそのまま自然現象の世界、例えば、お月さん、にも当てはめようとする人が出てきました。
「Fish is quite right to claim that, in literature or the world at large, is ‘given’ or ‘determinate’, if by that is meant ‘non-interpreted’.」(p86)
このスタンリー・フィッシュ氏は以前のブログ記事「文学批評ということ」(2006年8月9日)にも登場してもらいました。自然科学の法則も、野球のルールと同じように、自然科学者の間で適当に話し合って決めた(negotiated)ルールに過ぎないという見解をニューヨークタイムズに発表した人物です。
「It was impossible any longer to see reality simply as something ‘out there’, a fixed order of things which language merely reflected. …… Reality was not reflected by language but produced by it.」(pp107~8)
このような考え方はソシュールに発する、いわゆる、言語学的転回(linguistic turn)とよばれる流れを反映するものでしたが、その後の文学理論の展開でも、脱構築(deconstruction)の立場など、「はっきりと確定された真理や意味を含む言明(statement)は無い」とするのが考え方の主流のようです。もっとも、これは良く知られたパラドックスの一つの形で、「はっきりと確定された真理や意味を含む言明は無い」というのも一つの言明ですから、この言明は自己矛盾におちいることなります。
 イーグルトンの本で、私にとって、最も読み応えのあるのは最終章の「Conclusion: Political Criticism」です。この本はソビエト連邦の崩壊(1991年12月)以前の1983年の著作で、その当時は、ヒロシマを破壊した原爆よりはるかに強力な6万個の核爆弾が今にもこの世界に終末をもたらしそうな情況にありました。
「The possibility that these weapons will be used in our lifetime is steadily growing. The approximate cost of these weapons is 500 billion dollars a year, or 1.3 billion dollars a day. Five per cent of this sum ? 25 billion dollars ? could drastically, fundamentally alleviate the problems of the poverty-stricken Third World. Anyone who believed that literary theory was more important than such matters would no doubt be considered somewhat eccentric, …」(p194)
そして、イーグルトンは
「……what I have tried to show throughout this book is that the history of modern literary theory is part of the political and ideological history of our epoch.」(p194)
と書いています。
 このあたりで話をコンラッドの『闇の奥』に戻しましょう。こうしてイーグルトンの本を今読み返してみると、この半世紀の『闇の奥』をめぐる評論の歴史は、ポストコロニアルという極めて危険な誤解を伴い易い形容詞で規定されるこの時代の政治的歴史と実に密接に結びつき、その一つの生々しい射影になっているように私には思えます。この私の判断については次回のブログ記事で述べます。

藤永 茂  (2006年10月18日)


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『闇の奥』と『地獄の黙示録』(4)

2006-10-11 05:11:00 | 日記・エッセイ・コラム
 前回検討したドラルの論文はノートン版『闇の奥』第4版(2006年)では姿を消し、代りにグライフの論文、
* LOUIS K. GREIFF 『Conrad’s Ethics and the Margins of Apocalypse Now』
が登場します。ドラルの論文から12年後の1992年の発表ですが、内容的には似た所が多く認められます。ドラルもそうでしたが、グライフもコッポラのウィラードとカーツの処置に手を焼いて、この二人は異常な軍人で、アメリカの社会、アメリカ人のノルムからはみ出ているからとして、話から外してしまいます。この二人を、思想的に、また、映画的に、どう造形するかに、悩みに悩んだコッポラは、ドラルやグライフを読んで、ガッカリするに違いありません。ウィラードとカーツをアメリカ人論から外してしまうのは、批評家として、為すべからざることであると、私は思います。ベトナム戦争はアメリカ史の特異点では決してありません。アメリカは北米原住民に対して何をしたか、フィリピンに対して何をしたか、この二つのアメリカの戦争行為の歴史を知るだけで、ベトナムでアメリカ人たちがしたことが、彼らとして、何ら、特異な、例外的な事ではなかったことが分かります。ですから、『地獄の黙示録』を一つのアメリカ文化論、一つのアメリカ人論として捉えようとするのであれば、ウィラードとカーツを除外することは出来ない筈です。しかし、グライフは『闇の奥』から拾ってきた一つのヒントを盾に取って、この難関をすり抜けて、自分の所論を展開します。
 コンラッドの『闇の奥』のはじめの所で、第一話者が、マーロウの話と他の船乗りの違いを「彼にとっては、一つの話の意味は核のように話の内側に納まっているのではなく、その外側、つまり、白熱光が生み出す陽炎のように、そう、時おり月の光に妖しく照らされて見えてくる朦朧とした月の暈にも似た、物語を包む雰囲気のなかにこそあったのだ」(藤永18)と解説します。グライフはこの点に着目して、『地獄の黙示録』論を一つのアメリカ人論として捏ねあげます。見かけ上では、映画のストーリーの核心は、勿論、カーツ大佐と刺客ウィラードにありますが、ストーリーの本当の意味はその核の部分にはなく、むしろ、周辺的(marginal)な人物たちに求めなければならない-これがグライフの思い付いた虎の子のアイディです。コッポラも『闇の奥』のマーロウの語り口を採用したのであれば、ウィラードとカーツは話の外に置いてよいことになるからです。そうなれば、ウィラードを『闇の奥』の精神的英雄マーロウに対応させる必要はなくなります。
 ナン河を遡る舟艇は、艇長ウィラード大尉の他に、チーフ(操舵手、黒人)、シェフ(白人)、クリーン(17歳の黒人)、ランス(白人、サーファーとして有名)の4人のアメリカ軍兵士を乗せて出発します。この4人にキルゴア大佐を加えた5人を、周辺的な人物群と見立てて、彼らの中にこそこの映画の本当の意味が含まれているのだとグライフは言いたいのです。ドラルは『地獄の黙示録』の碌でもない人物ウィラードに『闇の奥』のマーロウの道徳性を振り当てるのはとても無理だと踏んで、コッポラの映画には精神的英雄は存在しないという立場を取りましたが、グライフは、チーフとシェフの二人を一括りにして『闇の奥』の精神的英雄マーロウに対応させます。英語の綴りではCHIEFとCHEFはただの一字違いであることから、もともとこのペアリングはコッポラ自身が秘かに意図したものだろうとさえグライフは言いたげです。「Coppola has discovered, in Chief and Chef, an effective means to reestablish the Marlow persona in contemporary American terms -? also to demonstrate, through these two men, the exact ingredients of Marlow’s ethical craftsmanship: a combination of hard discipline, on one hand, and imaginary artistry on the other.」そして、クリーンにはアメリカ人の無邪気さ、ランスとキルゴアのペアには、hollow men -として、空虚なアメリカ人を振り当てます。「By placing the film’s critical values and counter values among these characters, Coppola has ingeniously centered the ethical issues by appearing to marginalize it. Like Jim Morrison and The Doors, it is the characters at the edges of Apocalypse Now who give us back ourselves as Americans. In them, as in the rock songs which frame the film, we can detect the strong and creative rhythms of our own culture and, inseparable from them, its darkest overtones as well. 」何のことはない。この結語は一つのアメリカ礼賛に他なりません。
 このグライフの『地獄の黙示録』論からは、一つの単純な着想を得たあと、そのアイディアに向けて、コンラッドの小説とコッポラの映画の内容をどれだけ巧みにねじ曲げ、ねじ伏せるかのショウのような感じを受けます。こうした強引な力業(tour de force)が評論家の腕の見せ所となり、それが文学評論や映画評論のアトラクションになるとすれば、困ったものです。
 コンラッドが、『闇の奥』で、あくまでヨーロッパ白人の話ばかりをしたように、コッポラも『地獄の黙示録』の中で、ひたすら、アメリカ人のことばかりを語ったのです。この恐るべき白人人種のナルシシズムが地球全体を脅かし続ける闇(darkness)と悪(evil)の発生源のように思えてなりません。

藤永 茂  (2006年10月11日)


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『闇の奥』と『地獄の黙示録』(3)

2006-10-04 04:49:14 | 日記・エッセイ・コラム
 コンラッドの小説『闇の奥』とコッポラの映画『地獄の黙示録』とを並べて取り上げた評論は数多く発表されていますが、読んでハッとさせられることは稀で、あまり沢山読みすぎると、何とはなしに虚しい気持になり、文学批評とは一体何なのか、という青臭い問題意識の所まで押し返されそうになります。
 コンラッドの『闇の奥』がコロニアリズムを全面的に批判した文学なのか、それとも、英帝国の植民地経営だけは例外的に是認したものなのか。この点に私は強くこだわるわけですが、この設問が『闇の奥』の文学批評に占めるべき位置に就いては、私は考えを決めかねています。しかし、この問題はしばらくお預けにして、『闇の奥』と『地獄の黙示録』との類似点と相違点を論じた二編の論文を選び、今回は
* E. N. DORALL 『Conrad and Coppola: Different Centres of Darkness』
次回は
* LOUIS K. GREIFF 『Conrad’s Ethics and the Margins of Apocalypse Now』
を検討します。両方ともノートン・クリティカル・エディションの『闇の奥』の付録に含まれています。議論の対象をノートン版の『闇の奥』から選んだのは、このテキストは世界中の大学で広く採用されているようですし、したがって、これらの評論は世界の若い心に対して影響するところが大きいであろうと思ったからです。
 ドラルは、その論文の前半で、『闇の奥』と『地獄の黙示録』の間に見られる多くの類似を論じた後、この両作品が袂を分かち、はっきりと異なった展開を示すのは、マーロウとクルツ、ウィラードとカーツが出会う終局の部分になってからだと言います。ドラルは『地獄の黙示録』のエンディングは駄目だけれど、『闇の奥』の方は素晴らしいと考えます。そして、『闇の奥』の文学的価値を十分に認識するためには、コンラッドが unspeakable rites(口にすることも出来ない儀式)と書いたことの内容をはっきりと口にする(be specific)必要があり、そうすることでこの小説に対するリーヴィスの有名な『闇の奥』批判を退けることが出来ると主張します。「I think we must be specific, if we are to appreciate Conrad’s novella fully, as to the nature of Kurtz’s ultimate degradation, which can only be hinted at but never bluntly stated. Identifying it correctly will also enable us to defend Conrad’s style against F. R. Leavis’ famous accusation, that the “adjective insistence upon inexpressible and incomprehensible mystery” has a muffling rather than a magnifying effect.」 問題の unspeakable rites については『闇の奥』の次の個所「それは、彼の神経が-いうなれば-異常を来たし、あの口にするにも恐ろしい儀式に終る深夜の舞踏を、彼自らが主宰することになる以前のことであったに違いない。そのおぞましい儀式は-僕がいろいろな機会に耳に挟んだことから、しぶしぶ推測結論したところでは-何とクルツのために捧げられたものだった-分かるかな、その意味が-ミスター・クルツその人のためにだよ」(藤永132)が引用されていますが、はっきりと言ってしまえば (to be specific)、この儀式とは、クルツが彼に捧げられた生け贄の人肉を喰らったということです。
 つまり,クルツは他のヨーロッパ白人の植民者と同じく、アフリカの黒人を奴隷化し、虐殺し、象牙を奪い、彼らの上に神のごとく君臨した(約言すれば、コロナイズした)だけではなく、その限界を超えて、全くの動物にまで堕落し、黒人たちを、文字通り、食べてしまった、というわけです。ドラルはこの情況を「not only devouring Africa, as they did, but, very specifically, devouring Africans」と表現し、続いて、「It is this ‘horror’ that cannot be directly stated but which, disguised behind the most impressive and justified verbiage in Conrad’s works, provides a fitting climax to the earlier colonial brutalities and also gives Heart of Darkness that mysterious grandeur which has fascinated so many readers」と書きます。
 この『闇の奥』のクルツの悲劇のクライマックスに較べると『地獄の黙示録』のカーツ大佐の悲劇は単に軍事的なものであり、ベトコンに勝つためには、すべての人間的感情を捨て、ベトコン同様に冷酷非情に徹しなければならないと悟り切ることで遂に気が狂ってしまったということに過ぎません。このカーツの空ろな悪に対比させると、『闇の奥』のクルツの悪(the evil)には凄みがあり「In Heart of Darkness the vague and massive words which present Kurtz’s evil are more impressive and exciting, because of what they hide, than the precise words which describe the colonial atrocities earlier on. The reader moves willingly from the evil he understands to the evil he can only guess at」というわけです。
 コンラッドの『闇の奥』の精神的道徳性に対するドラルの思い入れはまだ続きます。コッポラの『地獄の黙示録』のエンディングには救いが見当たりません。希望もなく英雄もありません。軍隊と縁を切る気にはなったとは言え、これからのウィラードに誰が未来を託す気になるでしょうか。一方、『闇の奥』には、少なくとも、二人の精神的英雄があるとドラルは考えます。マーロウとロシヤ人の若者です。とりわけ、マーロウは「闇」を退治できる真の英雄だとドラルは言います。「Throughout the novella Marlow insists on the power of efficiency, doing the job one is paid for to the best of one’s ability, as a means of conquering darkness」ドラルの『闇の奥』の読み方はまことにもって素直なものです。さらに驚くべきことに、その頼もしい英雄たちの背後にはもう一つの大きなプラスの力が控えていて、それは大英帝国の存在だったとまでドラルは書き切ります。「But beyond this travesty of colonial enlightenment, mightier and nobler in every way, is the British Empire, for Conrad the best government the world had ever seen.・・・ In the novella the British Empire still stands firm, testifying to man’s ability to conquer darkness with a workable system.」
 このドラルの論文が1980年に発表されたものであることを考えると、この『闇の奥』賞賛論は、なおさら、驚くべきことのように思われます。アチェベの講演(1975年)がドラルの耳には未だ届いていなかったのかも知れません。私としては、アチェベ的な視角から、アチェベ的な感覚で、ドラルの足を引っ張りたくなる誘惑に抗うことは出来ません。まず食人風習(cannibalism)のことから始めます。
 コンラッドがカニバリズムに深甚な興味を持っていたことは『闇の奥』のストーリーにも表われていますが、コンラッドが、クルツの食人行為についてだけ、ひどく勿体をつけて、 unspeakable などと特別扱いしたのは問題です。白人の食人行為については、古くから多数の事例と論考があります。モンテーニュの随想録にも読み応えのある一章があったと思います。『闇の奥』の始めに出て来るサー・ジョン・フランクリン(藤永16)の北極探検でも人肉を食べたことは訳注(藤永207)でも言及したとおりです。『闇の奥』の中で、白人クルツの食人行為については陽に口にすることも控えておきながら、人食い人種のアフリカ黒人の言動については、コンラッドはおおっぴら過ぎる書き方をして憚りません。これでは、アフリカ黒人はもともと動物と同じなのだからとコンラッドが考えていたのだ、と文句をつけられても仕方がありますまい。
 それだけではありません。ドラルはこの「口にすることも出来ない」行為を形容表現するコンラッドの筆致の神秘的な壮麗さ( that mysterious grandeur)が「実におおくに読者を魅了してきた」と書きます。私個人としては、そうした魅惑を小説『闇の奥』に感じたことがありません。このあたりにこの小説の文学的価値があるのであれば、私は自分の文学的不感症を告白しなければなりません。現代の読者がマイケル・クライトンの『コンゴ』を読むのと同じ工合に、1900年初頭の「マガ」の常連読者が『闇の奥』を一編のホラー奇譚(Gothic romance)として楽しんだであろうと想像することは出来ますが、コンラッドが『闇の奥』で描いている真のホラーは、ありきたりの植民地主義的残虐行為のホラーを超えた、ヨーロッパ白人の究極的堕落(食人行為)にあるとするドラルの読みには反撥せざるを得ません。そのような文学的解読はアフリカの黒人に対する余りにも大きな侮辱ではありますまいか。アチェベの語り口を真似るわけではありませんが、大して取るに足らない白人の男たちが、密林の奥に踏み入って自制心を失い、挙句の果てに、人間として破滅するドラマの単なる背景、単なる書き割りとして、コンゴもベトナムも利用されているだけのことで、彼らが武器を携えて乗り込んで来たために、そこで昔から生を営んできた原住民たちの上に襲いかかった筆舌に尽くし難い(unspeakable and inexpressible)ホラーについては、それにふさわしい文学的、あるいは映画的表現は、遂に、与えられることはなかったのです。

藤永 茂  (2006年10月4日)


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