私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ポットラッチ

2021-06-16 14:58:05 | 日記・エッセイ・コラム

 ポットラッチという言葉をご存知ですか? この言葉(Potlatch)は北米大陸の太平洋沿岸の先住民の一部族チヌーク(Chinook)の「与える(to give)」ことを意味する言葉から出ています。良い説明がカナダ百科事典などにありますから、後ほど紹介することにして、まずは私の心の中にあるポットラッチの祝祭的な愉快なイメージをお話しします。

 ポットラッチは昔北米大陸の太平洋岸の北から南にわたる広大な地域に住んでいた先住民たちの多数の異なる部族がその間で血を血で洗う様なひどい争いもなく生活をしていた時代によく見られた社会習慣としての儀式であり、彼らが人間集団として育んできた精神文化の一つの現れであったと言えます。

 一人一人の人間は、富や権力を獲得する能力においてどうしても差が出来ますから個人(あるいはその一族)に権力や富が集積する事が社会的に起こります。有力者(一族)の出現です。有力者たちへの権力と冨の集中が野放しに進めば碌なことにはならない事を、おそらく過去の長い経験から先住民たちは学んだのでしょう。有力者(一族)たちは、それぞれの内輪の出産、結婚、相続、葬式、などの機会に、広く人々を招いて大盤振舞いの大パーティーを開いて、その富がどれほど大きいか、それをパーティーにやってきた人々に如何に気前よく与えるかを、競い合ったのでした。大盤振舞いのプレゼントとしては、衣類、毛布、食料品、家具、カヌー、鉄砲、などなど。「偉ぶっているくせに、案外しみったれてやがるな」などと言われたくないばかりに、せっかく積み上げた身代をすっかり潰してしまう有力者もあった様です。ポットラッチでは先住民伝統の自然崇拝的宗教の儀式も行われましたが、一方、1960年台のアメリカでのヒッピーたちの自由集会にも似た乱交パーティー的な要素も含まれることがあったとされています。賑やかなお祭り騒ぎでした。

 ポットラッチの本質は、誠に痛快な(と言っては礼を失する事になりますが)富の再分配の方法であったのです。これぞ、人間社会の持つべき智恵と申せましょう。もし現代の世界の大富豪たちが、虚栄的に気前の良さを競って、それぞれにポットラッチ大パーティをやってくれたら、コロナ禍による不景気など立ち所に霧散解消するでしょうし、もし、今もなお世界金融界に君臨する「モルガン家」が、第一次世界大戦後に、敗戦国ドイツから過酷に金を巻き上げる代わりに大ポットラッチ・パーティを開催してくれていたら、ヒトラーの台頭を阻止し、世界の数千万の人たちが無残な死傷を免れたことでしょう。

 現実に、北米の先住民たちのポットラッチの儀式はどうなったか? 米国の太平洋沿岸の先住民たちは事実上皆殺しにされて居なくなりました。カナダでは西部海岸に到着したアングロサクソン系白人の入植者、キリスト教宣教師、政府役人たちは、未開人間集団と見做した先住民たちの社会習慣であるポットラッチの行事を、先住民の未開後進性の象徴と考え、先住民の同化政策のトップ項目の一つとして、その開催禁止を1885年1月1日付けで法制化ました。禁止規制が解かれたのは1951年です。

 今年(2021年)の5月末、カナダ西岸のブリティッシュコロンビア州の内陸の都市カムループスにあった先住民寄宿学校の跡地で215体の先住民児童の遺骨が発見されました。その中には3歳の幼児の遺骨も含まれていましたが埋葬の詳細はまだ分かっていません。カナダの先住民寄宿学校制度(Canadian Indian residential school system)は先住民を同化するカナダ政府の政策の下で、カナダ全域にわたり、キリスト教教会によって実際の運営管理が行われていました。その数は総数130に及んでいます。1831年から1996年まで運営は続きました。先住民文化の影響受ける前の頭脳的に未発達の4歳から5歳の幼児たちが、親兄弟から強制的に引き離されてされて各地の寄宿学校に収容されて洗脳教育を受けたのです。寄宿舎での生活環境は劣悪で、精神的、身体的苦悩から多数の子供たちが死にました。その正確な数は確立されていませんが、1割以上に達していた可能性が十分あります。管理の責任を担っていたキリスト教教会のメンバーによる未成年者の性的虐待の事実も確かめられていますし、近頃の出版物ではゼノサイドという言葉が普通に使われるようにさえなっています。

 北米先住民の智恵が生んだポットラッチという人間味あふれる祝祭の消滅の歴史を想うにつれ、西欧の人々の自己の思考形態、文化伝統、文明に対する過剰な優越観念がどのようにして育まれてきたかを突き止めたい気持ちにますます駆られます。これこそHUBRISという彼らが昔から知る言葉に値します。過去500年の人類の歴史を省みるに、これこそがルシファーからサタンへの墜落でしょう。

 さて参考文献ですが、一般向けの無難な説明はカナダ百科事典で見る事ができます:

https://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/potlatch

https://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/potlatch-to-give-feature

Wikipedia にも詳しい解説があります:

https://en.wikipedia.org/wiki/Potlatch

今回ニュースになった先住民児童たちの遺骨の発見については多数の報道記事がありますが、ここでは2つだけ挙げておきます:

https://www.presstv.com/Detail/2021/06/03/658138/Canada-indigenous-children-residential-schools-graves-survivors

https://libya360.wordpress.com/2021/06/11/215children-indigenous-peoples-grieve-after-mass-grave-found-at-residential-school/

 

藤永茂(2021年6月16日)

コメント

東洋の平和を守る

2021-06-03 23:14:17 | 日記・エッセイ・コラム

 前回のブログ記事に対して頂いた二つのコメントに答えようとしている内に、その一つの「睡る葦」さんからのコメントの原文をうっかり削除してしまいました。全く私の耄碌の致すところですが、このついでに報告したいことがあります。半年ほど前から、この私のブログに毎日20から30ほどの嫌がらせのコメントが送られてきます。自動的なプログラムが作動しているに違いありませんが、私の方はスパムと認知するメーセージをつけて一つ一つ削除する手作業を続けています。日課です。自動的なプログラムの仕業にこうして対抗するのは馬鹿げたことですが、私の方が手仕事で立ち向かっていたら、結局どういう事になるかに些かの興味があって、根気よくこの日課を続けています。 それにしても嫌な話です。私のブログの様な少数の読者にしか読まれていない、取るに足らない発言に対して、これだけ執拗な邪魔攻撃を仕掛けてくる権力システムの存在に私は心の底からの嫌悪感を抱きます。

 前回で紹介した『歳月』の他に岩波文庫版の『茨木のり子詩集』も手元に持っています。選者は谷川俊太郎です。その中に朝鮮や中国の人々に対する親愛、敬愛の情を綴った詩が幾つかあります。その一つである「七夕」の前半を引用させてもらいます;

――――――――――

夜更けて

遠い櫟林のもとに

小さな灯りのまたたくのは

安達が原の栖のように魅力的だ

武蔵野の名の残る草ぼうぼうの道

このあたりではまだ沢山の星に会うことができる

天の川はさざなみをたて

岸辺ではヴェガとアルタイ

今宵もなにやら深く息をひそめている

 

「アンタラ! ワシノ跡 ツケテキタノ?」

不意に草むらからぬっと出て赤金いろの裸身がすごむ

焼酎の匂いをぷんぷんさせながら

わたしはキッと身がまえる

キッと身がまえてしまうのはとても悪い癖なのだ

 

「今夜は七夕でしょう

だから星を眺めにきたんですよ」

夫の声がばかにのんびりと闇に流れ

「タナバタ?

 たなばた・・・・・アアソウナノ

 ワシハマタ・・・・ワシノ跡ツケテキタカ思ッテ・・・・

 トモ・・・・失礼シマシタ」 

・・・・・・・・

 

――――――――――

この先の一軒家に朝鮮人家族がすんでいたのです。詩人は、遠い昔、中国と朝鮮半島から如何に多くのものを日本の国は受け取ってきたかに想いを馳せ、

「たなばたの一言で急におとなしく背を見せて/帰って行ったステテコ氏/わたしの心はわけのわからぬ悲しみでいっぱいだ」

と詩を続けます。

 次の詩「りゅうりぇんれんの物語」は中国に侵攻していた日本軍にさらわれた一人の中国人男性が門司に連れて来られて強制労働に服し、14年後に故郷に帰ったという実話に基づいた38頁に及ぶ長編詩です。もう一つの別の詩「あのひとの棲む国」は、親しくなった韓国人の女性への語りかけで、次の様に始まります:

――――――――――

雪崩のような報道も ありきたりの統計も

鵜呑みにしない

じぶんなりの調整が可能である

地球のあちらこちらでこういうことは起こっているだろう

それぞれの硬直した政府なんか置き去りにして

一人と一人のつきあいが

小さなつむじ風となって

・・・・・・・・

――――――――――

 こうした茨木のり子の詩を読みながら、私はカナダで出来た韓国人とスペイン人の友人のことをしきりに思い出していました。チョイさんという韓国人夫妻については以前書いたことがありますので、今日はセラフィン・フラガというスペイン人男性のことをお話ししましょう。

 フラガとは、1959年から1961年にかけて、シカゴ大学物理教室のマリケン教授の研究グループに私が属していた時、友人になりました。量子化学の大きな研究グループで、米国人、オランダ人、ポーランド人、イタリア人、スペイン人、インド人、日本人(わたしを含めて4人)からなる総勢30人近くの賑やかさでした。初めて米国での生活を始めた私は、知り合って間もない他人がお互いにファーストネームで呼び合う習慣に戸惑いました。研究室の学生が教授にファーストネームで呼びかけるし、私の妻も呼び捨てにします。驚きました。セラフィン・フラガも新緑かおる5月生まれの私の名「茂」の意味を聞いた後、私を「シゲル」と呼ぶようになりましたが、自分の方は「フラガ」と呼べというのです。「セラフィン」は天使の名前なのでそう呼ばれたくないというのが理由でした。彼はもともと日本文化に興味を持ち、色々の事を知っていましたが、お互いに気ごころが通じるようになってからは、「日本人は何もかも中国と朝鮮から貰った」と私をからかうことがよくありました。中国出身の天才棋士「呉清源」のことも知っていて「今でも日本人は頭が上がらない」と言ったりしました。また、映画俳優の仲代達矢の大ファンになって「あんないい顔立ちの男は日本人には居ない。外国人だろう」などと言ったこともありました。ほかの人が言えば人種偏見とも思える発言でも私には「ほんとだなあ」と思えるだけで何の不快感も覚えませんでした。ではフラガは人種差別に無感覚だったのか? そんなことはありません。1968年に私がカナダに移住したのは、研究上の利点(大型コンピューターの使用)について、アルバータ大学の教授になったフラガがしきりに私を誘い、招聘の手筈を整えてくれたのが理由の一つでしたが、カナダ社会に存在する厳然たる人種差別についても事細かに私に心構えをさせてくれました。私より年下だったのに、とっくの昔に亡くなってしまいましたが、彼ほど人種偏見皆無の、暖かくてしかも蒼天のように爽やかな心を持った人間はちょっと稀でしょう。本当に天使だったかもしれません。

いや、話が脇道に逸れ過ぎました。閑話休題。

 最近、寺田隆信著世界航海史上の先駆者  鄭和』という本を読みました。普通、大航海時代といえば、15世紀末に西インド諸島に到達したクリストファー・コロンブスの事がすぐ(私の)頭に浮かびますが、実はその遥か以前、1400年台(15世紀)の前半に、明国の永楽帝の命を受けた鄭和という人物が、コロンブスの船とは比較にならないような巨船の船団を組んで、今の東南アジアの諸国から、インド洋、ペルシャ湾、紅海の沿岸をへて、アフリカまで航海し、遠くは現在のケニアにまで到着したと書いてあり、すっかり驚きました。不勉強の至りです。

 私が最も注目するのは、中国人の大航海とヨーロッパ人の大航海の違いです。ヨーロッパ人の大航海は南北アメリカ大陸原住民数千万人の虐殺とアフリカ大陸からの数千万人の奴隷移送の惨禍をもたらしました。一方、中国(明)の大航海時代には、その様な言語に絶する人間大虐殺は生起しませんでした。勿論、この時代の中国が道徳的に西欧より断然優れていたなどと言うつもりはありせん。ただ、精神文化の質的な違いがこの瞠目すべき相違をもたらしたのだと私は信じたいのです。ヨーロッパ人の大航海時代以来の世界が地球上の人間・人間社会が取ることの出来る唯一の展開の道だと考えなければならない理由はないと考えるのです。“Another world is possible.”と言いたいのです。 

 現代の中国は、共産主義的社会統制のもとで、西欧モデルの進歩発展を目覚ましく押し進めてきました。科学技術の振興において黄色人種は白色人種と同等の能力を発揮しうることも充分に立証しています。米国が恐れるように、このまま進めば、軍事的にも経済的にも、中国が米国を凌駕する日が来るかも知れません。しかし、中国はもう一つの“米国”になっては絶対にいけません。米国を含むヨーロッパが辿って来たのと同じ道を選んではなりません。それは、私たちの文化に大きな富を与えてくれた中国の精神文化の伝統からの許し難き逸脱です。朝鮮人と日本人は、力を合わせて、そうならない様に中国人に働き掛けなければなければなりません。

私は、ここで、上に引いた茨木のり子の詩「あのひとの棲む国」の三行、

――――――――――

それぞれの硬直した政府なんか置き去りにして

一人と一人のつきあいが

小さなつむじ風となって

――――――――――

を思い出します。また、個人的には、我が友セラフィン・フラガとの付き合いを追憶します。人と人との連帯は、誰とであれ、不可能ではありません。「小さなつむじ風」を、大きくすることも、決して不可能ではないはずです。

 私は中野重治という詩人も大好きです。彼の絶唱の一つに「雨の降る品川駅」があります。思想的理由から日本を追われて故国朝鮮に帰る友人たちを品川駅で見送る詩です。90年ほど昔のことですから、今の人々には何のことだか分からないかもしれません。幸いに伊藤信吉著『現代詩の観賞(下)』(新潮文庫)に優れた解説がありますので、興味のある方は読んでください。

藤永茂(2021年6月3日)

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月命日

2021-05-27 23:00:28 | 日記・エッセイ・コラム

 私ごとを語るのをお許し下さい。

 25日は亡妻の月命日です。評判を知って入手していた詩人茨木のり子の詩集『歳月』を一気に読みました。巻末の解説の始めの所を写します:

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『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。

 伯母は夫に先立たれた一九七五年5月以降、三十一年の長い歳月の間に四十篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。

 何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。

 そして伯母はその詳細について多くを語ることなく、二〇〇六年二月十七日、突然伯父の元へと旅立ってしまった。

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 紛いもなく、これは美しい恋文の一束です。このように深い生を経験して、それを見事な言葉で捕捉し表現することのできる詩人を羨ましく思います。しかし、亡き人を恋しく思う悲しみは、詩人の言葉を持たぬからとて、弱く忘れやすいものになることはありません。

 先日、テレビで2011年3月11日の東日本大震災の回顧番組を見ました。死者・行方不明者の数は2万人以上とあり、その一場面が私の胸に焼きつきました。今日は、それを思い出して、詩の真似事を試みました。

『もう一度出ておいで』

テレビで観た北陸の海辺の町、

家屋ともども大津波に妻を奪われた男は

家の跡の更地に立って大声で叫んだ:

「おーい、もう一度出てこい」

詩人の言葉を持たぬその男は

幾「歳月」を閲しても

ただ同じ叫びを放つだろう。

「清子、もう一度出ておいで」

私も、ただ同じ言葉を繰り返す。

 

藤永茂(2021年5月27日)

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ダニエル・エルズバーグの笑顔(2)

2021-05-12 12:33:54 | 日記・エッセイ・コラム

 “Well, here my wife of 50 years here now being married and being with her, lying with her at night is heaven on earth.” 「50年連れ添った妻と夜一緒に寝る、これがこの世の天国」というダニエル・エルズバーグの言葉に焼き餅を焼いているのではありません。九十の齢にもなってオノロケもよいところだと言いたいのでもありません。人は、人を愛すること、人に愛されることによって、ただそれだけで、至福の時空を持ちうる、と言いたいのです。しかし、ただこれだけ言っても、何だ、陳腐なことを言う、と思われる方が多いでしょう。少し開き直って、私が何を言いたいのかの説明を試みます。

 原爆の父と呼ばれる米国の理論物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、正しくは、原爆の助産婦と呼ぶにふさわしい人ですが、普通、とびきり明晰俊敏な頭脳の持ち主だったというイメージが定着しています。しかし拙著『ロバート・オッペンハイマー』には「愚者としての科学者」という副題を付けました。物理学が原爆を生み、その実戦使用に賛成してヒロシマ・ナガサキの惨劇を招来した事を、自分の心の中で処理しきれず、オッペンハイマーは、内的には、死ぬまでオロオロ歩きを続けた人間だったと私は思っています。

 ジョセフ・マッカーシーの「赤狩り」旋風に煽られて、1954年、オッペンハイマーは公職追放の処分を受けますが、CCF(Congress for Cultural Freedom) という表向きは文化活動を装った会議組織を裏で操っていたCIA(アメリカ中央情報局)は、国際的知名度の高いオッペンハイマーを、CCFの顔の一つとして、利用することを続けます。つまりソ連に対する冷戦の文化戦士の役目を当てがいます。その頃のオッペンハイマーが、CCFの活動に関して、「愛(love)がない」とか、「お互いに愛さなければ(love one another)」とか、宗教的にも響く漠然としたことを書き綴り言い続けるのを批判して、高名な実存主義哲学者カルル・ヤスパース(ハンナ・アーレントとの40年間にわたる師弟交友関係は有名)は、“In such sentences I can see only an escape into sophisticated aestheticism , into phrases that are existentially confusing, seductive, and soporific in relation to reality. (そうした文章において、私はただ詭弁的な耽美主義の中への逃避、現実との関連において、実存的に混乱した、人を惑わす催眠的な言い回しへの逃避しか見ることができない”と書いています。当時、才媛として名を挙げていた小説家のメアリー・マッカーシー(ジョセフ・マッカーシーの縁者ではない)は、CCF関連でオッペンハイマーと食事を共にしたことがあり、彼の“LOVE”についてのお説教にうんざりして、友人関係にあったハンナ・アーレントに「オッペンハイマーは頭がすっかり狂ってしまったことが分かった」と手紙で書き送り、“I thought the word ‘love’ should be reserved for the relation between the sexes.”とも言ったようです。

 さて、ロバート・オッペンハイマーは「愛」という言葉を持ち出して、何を言いたかったのでしょうか? この問題の物理学者については、上の例に見られるように、批判的な評言が多いのですが、私は、愚者としての物理学者の立場から、オッペンハイマーを弁護したい気持ちに駆られます。彼を論じる場合に、私の知る限り、引用されたことのない彼の重要な発言の一部をお目にかけましょう:

“We are not only scientists; we are men, too. We cannot forget our dependence on our fellow men. I mean not only our material dependence, without which no science would be possible, and without which we could not work; I mean also our deep moral dependence, in that the value of science must lie in the world of men, that all our roots lie there. These are the strongest bonds in the world, stronger than even that bind us to one another, these are the deepest bonds –– that bind us to our fellow men.”

 これは、ヒロシマ・ナガサキから3ヶ月後の1945年11月2日、原爆が造られたロス・アラモスで、そこで働いた科学者たちを前にしてのお別れの講演の最後の部分です。ここで men は「人間」を意味し、our fellow men は世界中の人間仲間全体を意味しています。私の中では、峠三吉の“にんげんをかえせ”の「人間」にもつながります。後年、オッペンハイマーが「愛」についてしきりに語ったとき、その一種の曖昧さの源はここにあったのだと私は思います。

 核兵器がこの世界の人間達の終焉をもたらさないようにと願う気持ちにおいて、私は人後に落ちないつもりです。しかし、どういう風にこの世の中が、この世界が変われば、人間は生き延びられるかについて、私はロバート・オッペンハイマーよりも具体的なアイディアを持っています。「人間はどのような状況にあれば幸せなのか?」を具体的に考えてみるという着想です。ここで「50年連れ添った妻と夜一緒に寝る、これがこの世の天国」というダニエル・エルズバーグの言葉に戻ります。ダニエル・エルズバーグの奥さんパトリシアは写真で見ると如何にも愛くるしい女性ですが、ロバート・オッペンハイマーの奥さんキティは、どの伝記にも、容貌も良くない性悪の酒飲み女性として描かれています。しかし、夫ロバートはキティ夫人を深く愛していた事はこれまた定説です。オッペンハイマーもエルズバーグと同じく地上の天国の時間を知っていたのだと思います。

 「愛」という言葉を性的関係の語りだけに限った方が良いというメアリー・マッカーシーの、オッペンハイマーに対する一種の嘲りを含む発言を私は好みません。「愛」はあらゆる「心と心の結びつき」に関わります。魂と魂の結びつきと言ってもよろしい。片思いも、複数者に向けられるのも含みます。どこにでも転がっている平凡な家族内の愛情も勿論含みます。

 アフリカの高級コーヒー豆産地で、大農業資本によるコーヒー園の面積拡張工事によってなけなしの農地を奪われ、その上、反抗した父親がブルドーザーに下敷きになって殺された家族のドキュメンタリーをテレビで見ました。いかにも貧農家族らしい両親と数人の小さな子供達の古い家族写真が示され、その中に写っている、今は19歳の長女が言いました:“We were happy. We had everything”、娘さんのこの言葉に世界を救う鍵があると私は考えます。お涙頂戴を企てているのではありません。「人間が、人間集団が幸福であるためには、実は、ほんの僅かなものしかいらない」ことを改めて確認させてくれるからです。現在、人間社会が直面している最も深刻な危機は、核戦争と際限のない消費経済成長追及の結果としての環境破壊です。脱経済成長は理論的に不可能だろうという意見がありますが、選択肢はただ一つ、脱経済成長を成し遂げなければ、我々は破滅するのです。後がありません。消費経済の成長をこのまま続ける選択肢はないのです。私たちの誰もが今より貧乏になるより他に選択肢はありません。ですから、人間は貧乏でも幸福であり得るということが確かめられるということは大きな安堵をもたらします。英語で言えば、“We have something to fall back on ”という事になるからです。 こう書いていると、以前にアップしたブログ記事『レニ・リーフェンシュタールのアフリカ』:

https://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru/e/a5068fa378a33212ae2a010e3da9a4a4

を思い出します。アフリカのスーダン共和国のヌバ丘陵地帯に住むヌバ族に就いてレニ・リーフェンシュタールは「ヌバと過ごした日々は、私の生涯のなかで最も幸福で、最も美しかった。ただ、すばらしいの一言よ。彼らはとても陽気で、一日中笑って過ごしていたし、決して人のものを盗むようなことはしない善良な人々だった。彼らはいつも幸せで、すべてに満足していた」と書いています。ここにも我々の目から見れば遥かに貧乏な状態で人間が幸福であり得る確固たる証拠が示されています。人間にはこうした嬉しい能力もあるのです。

 

藤永茂(2021年5月12日)

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ダニエル・エルズバーグの笑顔(1)

2021-05-02 14:15:13 | 日記・エッセイ・コラム

 ベトナム戦争時代を経験した世代の人々にはダニエル・エルズバーグの名は記憶の中に鮮烈に生きている筈です。NHKの「BS世界のドキュメンタリー」のプログラムでも、米国で2009年に作成された「The Most Dangerous Man in America」というドキュメンタリーを、2010年春に前編後編二つに分けて放映されました。「アメリカで最も危険な男」というタイトルは、ニクソン政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーがエルズバーグをこう呼んだことから来ています。

https://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=100301

https://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=10030

このドキュメンタリーに付いているNHKの解説記事を以下に転載させてもらいます:

「アメリカの軍事シンクタンクの研究員だったダニエル・エルズバーグは、1964年、国防総省の軍事アナリストに抜擢される。当時ジョンソン大統領は、密かにベトナム戦争拡大の準備を進めていた。エルズバーグは北爆には反対だったが、マクナマラ国防長官の命に従い、ベトナム兵士のアメリカ人に対する残虐行為を見つけ出して報告し、結果として空爆の開始に加担してしまう。戦場の視察に行ったエルズバーグは、敵の攻撃が危険なためアメリカ軍が夜間パトロールにも出られない様子を目の当たりにし、本国で伝えられる楽観的な戦況の報告は全くのウソだと知る。マクナマラ長官も戦争の泥沼化を予測し、戦争推進派のジョンソン大統領に北爆の停止を進言するが退けられる。
なぜアメリカがこれほど愚かな戦争に乗り出したのか、記録に留める必要に駆られたマクナマラ長官は、1967年、ベトナム介入までの全ての経緯を記した報告書を秘密裏に作成するよう命じる。この頃、ニクソン大統領の補佐官だったキッシンジャーに対し、「この戦争に勝つ道はない」と告げていたエルズバーグも編纂に加わることになった。いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれるこの最高機密文書の冒頭部分を、1969年に初めて目にしたエルズバーグは、ジョンソン以前のケネディや、アイゼンハワー、トルーマンといった歴代の大統領も皆、アメリカ国民を欺いてきたという事実に愕然とする。そして戦争が、ベトナムのためではなく、アメリカの私欲にまみれた犯罪にも等しいものだと知り、自分が今就いている仕事に失望と懐疑の念を抱くようになっていく。やがて反戦活動家たちの勇気ある行動に胸を打たれたエルズバーグは、国家の最高機密であるペンタゴン・ペーパーズを公表し、戦争の正当性を問うことを決意する。7千ページに及ぶ国防総省の機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」のコピーを終えたエルズバーグは、まず、当時戦争に異を唱えていた議員たちの元に持ち込んだ。しかし、国家の裏切り者呼ばわりされたり、愛国心がないとそしられたりするのを恐れ、内容を公表して政府の横暴を正そうという勇気ある政治家はいなかった。そこで1971年3月、エルズバーグはニューヨーク・タイムズに文書をリークする。この頃、彼はノーム・チョムスキーらとともに反戦活動に取り組んでいた。NYタイムズでは、機密文書の内容掲載がスパイ法に抵触しないかどうか、慎重な審議が行われていた。そして3ヶ月後、ようやく記事は発表される。直ちに政府から記事の差し止め請求が出され、エルズバーグはFBIとメディアの両方から追われるようになる。
 しかし、NYタイムズ、ワシントン・ポストに続き新聞各紙が記事を掲載、テレビや上院議員も加勢する。エルズバーグはスパイ法違反で起訴されるが、保証金を支払い保釈。最高裁判所も、NYタイムズとワシントン・ポストに記事掲載を認め、国家の安全保障のためと叫ぶだけでは報道の事前検閲を正当化できないという、「表現の自由」に関する歴史的な判決を下した。」

 このエルズバーグの勇気ある行動がベトナム戦争終結に大きな役割を果たした事は確かな歴史的事実です。平和運動家として名声を確立したエルズバーグは、その後、核兵器廃絶のために真摯な運動を続けています。功成り名遂げたこの有名人士は1931年4月7日の生まれ、目出度く90歳を迎えました。

 彼については多数の記録映画や書籍が発表されていますが、ここではデモクラシー・ナウのサイトで観ることができる関係動画を3つ挙げておきます:

https://www.democracynow.org/2007/7/2/how_the_pentagon_papers_came_to

https://www.democracynow.org/2009/9/16/the_most_dangerous_man_in_america

https://www.democracynow.org/2019/11/25/daniel_ellsberg_on_pardoning_war_criminals

 さて、ダニエル・エルズバーグの紹介が長くなってしまいましたが、今回のこのブログ記事『ダニエル・エルズバーグの笑顔』の主題は、実は、別のところにあります。私はこの人の美しい笑顔について語りたいのです。その笑顔は次の動画で見ることが出来ます。エルズバーグの90歳の誕生日を祝ってのインタビューです:

https://zcomm.org/znetarticle/daniel-ellsberg-at-90-its-still-possible-to-save-humanity/

この動画の英語は聞きやすく、しかも完全なトランスクリプト(内容の英文)が付いていますから,ぜひご覧ください。ただし、YouTube に移ると、内容文が読めなくなることがあるので、参照しながら動画をみたい方は、画面の真ん中の大きな矢印をクリックして下さい。対話者のPaul Jayさんは私の信頼するジャーナリストの一人です。導入部の半分ほどを訳出します:

「Ninety years ago, Daniel Ellsberg was born and he has lived a life of meaning, many of us strive to change the world, but few have the opportunity and the courage to change the course of history. Dan’s release of the Pentagon Papers at great personal risk helped end the Vietnam War. His book, The Doomsday Machine Confessions of a Nuclear War Planner, reveals the institutional madness of American nuclear war strategy. Dan continues to fight for truth and to awaken people to the existential danger of nuclear weapons. (90年前、ダニエル・エルズバーグは生まれ、これまで意義ある人生を送ってきました、我々の多くは世界を変えようと努力しますが、歴史のコースを変える機会と勇気を持ち合わせる者はほんの僅かです。ダンさんが大きな身の危険を顧みずペンダゴン文書を公開発表した事はベトナム戦争の終結を助けました。彼の著書『世界人類破滅の機械-核戦争企画者の告白』は、アメリカの核戦争戦略の制度的狂気を明らかにしています。ダンさんは真実を求めて戦い、核兵器の実存的危険性に人々を目覚めさせることを続けています。)」

 このインタビューの長さは31分、その主題は核戦争の阻止です。これは人類にとって、今、最も喫緊の課題です。この主題についての語りの中で、23分あたりから「この地上での天国」の話が出てきます:

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Paul Jay

Denial of the threat of nuclear war is very comforting. Facing up to it. It’s very disturbing. You are the least in denial of anyone I know. Yet you maintain a sense of joy. You always have a twinkle in your eye. You laugh and you smile easily. Most people when I start talking about this, they say ah this is too depressing. How do you keep your sense of joy throughout all of this?

Daniel Elllsberg

Well, here my wife of 50 years here now being married and being with her, lying with her at night is heaven on earth. So, I know what heaven is, and the other side of that is that. Hell, it’s possible on this earth, as a matter of fact, all the people doing these things, I think hardly any of them do not convince themselves that they are making things less bad than they otherwise would be if other people were running it, that they have good intentions, but they are the kind of intentions that pave the road to hell.

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ダニエル・エルズバーグの

「Well, here my wife of 50 years here now being married and being with her, lying with her at night is heaven on earth.」

という言葉を聞いて、私の想いは少し別の方向に飛びました。どんな人間でもこの地上で天国を知ることができるという事実から、今の世界でない別の世界を実現する可能性があるという想いを強めたのです。話が長くなりすぎたので、私のこの想いの説明は次回に行います。

 

藤永茂(2021年5月2日)

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