私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ケニヤが今こわれかけている(1)

2008-01-30 11:02:16 | 日記・エッセイ・コラム
 つい先頃までアフリカ東部の國ケニヤについての私の知識は僅かで断片的でしたが、二つの事件をきっかけに、霧の中から暗い緑の木立が次第に現われるように、この國の過去と現在の全体像が見えてきたような気がしています。始めのきっかけは、昔「マウ・マウ団の乱」と呼ばれたケニヤの原住民たちの反乱についての本を昨年後半に読んだこと、次は、昨年年末に行われた大統領選挙に端を発したケニヤの政情不安です。過去50年間、アフリカ大陸で政情の安定が最もよく維持された模範的國家と看做されてきたケニヤが、此処に来て、突然、いわゆる「失敗国家(failed state)」になってしまいそうなのです。この國の過去に何があり、今、何が起りつつあるのでしょうか? アフリカの専門家でもなく、英帝国史、英文学の専門家でもない私が、ついこの頃学んだ事を、よく咀嚼もせずに、ここに書き綴る理由は、私なりにケニヤを凝視することで味わった新しい驚きを、今まで私と同様の無知無関心の中にあった方々と是非分ち合いたいと思ったからです。
 まず「マウ・マウ団の乱」について。私の頭の片隅に残っている50年前のおぼろげな記憶によれば、マウ・マウ団とはケニヤ在住の白人たちの無差別惨殺を実行した原住民の野蛮な血盟集団で、いたいけな子供たちを含む多数の白人たちを恐るべき残酷さで殺し続け、英国政府はその鎮圧に手を焼いたという事件です。これに似た印象をお持ちの方が多いと思います。この印象の中核を占めているのはアフリカの闇の奥からおどり出た恐怖の原始的残酷性であって、正常な意味での政治的社会的要素ではありませんでした。しかし、この印象が意図的に捏造されて世界中に広められた真っ赤なウソであることが2005年に出版された下記の2冊の学問書によって確立されました。
*Caroline Elkins “IMPERIAL RECKONING: The Untold Story of Britain’s Gulag in Kenya”(2005).
*David Anderson “HISTORIES OF THE HANGED: Britain’s dirty war in Kenya and the end of the Empire”(2005).
もう1冊、
*Mark Curtis “WEB of DECEIT: Britain’s Real Role in the World”(2003)
も注目ですが、この本については後でまた触れます。これらの本の表題から察せられるように、ポイントは、我々は英国という國の本当の姿を知らないということです。これは真相暴露本とか国際陰謀説などのレベルの話では決してなく、驚くべき無知の状態の中に我々が置かれていたことに否定の余地はありません。
 マウ・マウ( Mau Mau) の語源ははっきりしませんが、マウ・マウ暴動への参加者の大部分はキクユ( Kikuyu ) と呼ばれるケニヤ最大の部族の黒人たちでした。コンラッドが『闇の奥』を執筆し出版した前後の1895年から1905年にかけて、ケニヤのインド洋岸のモムバサからケニヤ南部の高原地帯を貫通してユガンダに入る鉄道工事が英国によって進められました。やがてその沿線の気候の良い肥沃な土地に英国人を主とするヨーロッパ白人の入植者がどんどん乗り込んで来て、コーヒーや茶などの栽培に最適の土地を土着の住民から取り上げ、彼らを押し出して、第2次世界大戦終了の時点で、3万たらずの白人が占有する土地が100万人以上のキクユ黒人が押し込められた土地の6倍の広さ、しかも農業に適した土地のほぼすべてを白人が所有するという状況になりました。しかも入植白人の多くは本国で貴族等の上流階級の出で、自ら手を下して農作業をする気は更々なく、コーヒー農園は多数の黒人労働者の肉体作業に依存し、自分たちは大きな邸宅で優雅に暮らし、猛獣狩りに熱を上げ、あるいは首都のナイロビに形成された社交界に入り浸るといった有様でした。ここまで言えば、イサク・ディネーセン(またはカレン・ブリクセン)の自伝小説『Out of Africa(アフリカの日々)』あるいは映画化された『愛と哀しみの果て』を思い出す方々も多いと思います。そうです。あの作品の舞台こそが“The White Highlands” と呼ばれるケニヤ中南部にひろがる美しい高地地帯です。私もその麗筆に魅せられて、版を異にするハードカバーを二冊も買い求め、彼女の他の作品を読み、彼女の長い生涯の全スパンにも興味を持ってその伝記を読んだ時期がありました。しかし、カレン・ブリクセンのケニヤの実体を知ってしまった今、私の気持は複雑です。文学作品を読むということはどういう事なのか? 例えば、カレンの夫のブリクセン男爵の好色性。カレンは夫から性病を移されます。前に『アフリカの日々』を読んだ時もその事は知っていました。ケニヤの入植白人たちの快楽三昧の生活についても分かっていたつもりでしたが、彼らの乱脈な快楽生活が原住民に対する苛酷な抑圧の上に成立っていたことを知った今は、どうしてもカレンを含む白人たちの私的生活の文学的な「愛と哀しみ」に素直に寄り添うことが、私には、出来なくなってしまうのです。上掲のエルキンスさんの本からの引用(11頁から)をお読み下さい。
■ They all had domestic servants, though the wealthier families would have dozens. Some servants would have but a single responsibility, like tending a favorite rose garden or, as in the case of Karen Blixen, carrying the lady’s favorite shawl and shotgun. They enjoyed game hunting and sport facilities, with the Nairobi racetrack and polo grounds being one of the most popular European social spots in town. Beyond such gentrified leisure, these privileged men and women lived an absolutely hedonistic lifestyle, filled with sex, drugs, drink, and dance, followed by more of the same. In Nairobi, where some settlers lived a full-time urban, professional life, they congregated in the Muthaiga Club, also known a the Moulin rouge of Africa. They drank champagne and pink gin for breakfast, played cards, danced through the night, and generally woke up with someone else’s spouse in the morning. At the Norfolk Hotel, better known as the House of Lords, settlers rode their horses into the Lord Delamere Bar, drank heavily, and enjoyed Japanese prostitutes from the local brothel. Outside of Nairobi part of the highlands became the notorious Happy Valley, where weekend houseguests were often required to exchange partners, cocaine and morphine were distributed at the door, and men and women compared their sexual notes when the debauchery was over. The colony’s settlers were notorious worldwide for their sexual high jinks, and the running joke in Britain became, “Are you married or do you live in Kenya?” ■
註を少し。domestic servants (召使い、家庭内の奉公人)。裕福な家庭には数十人(dozens) の召使いを抱え、ただ一つ決まった役目を一人の召使いに振り当てる贅沢な使い方をしていたようです。ケニヤですから、game hunting といえば「猛獣狩り」と思ってよろしい。racetrack は「競馬場」、 hedonistic (ヒードニスティック)は「快楽的」ですから、absolutely hedonistic lifestyle とは「へどが出るような享楽的ライフスタイル」です。ムーラン・ルージュ(赤い風車)はパリの人士の享楽生活の中心でした。spouseは「配偶者、つれあい」。ナイロビに日本人の娼婦が居たとは驚きです。Happy Valley は地名として「幸福の谷間」を意味しうるでしょうが、大きな英英辞書を見ると淫靡な意味もあるようです。debauchery は「乱痴気騒ぎ」、high jinks は「戯れ言」、 running joke は「しきりに使われるジョーク」。
 ケニヤの白人たちのこの嫌悪すべき「優雅な生活」、ブリクセン男爵たちの快適な生活は、土地を奪われ、奴隷的使役と労働を強いられた百万のキクユ族の上に王侯のように君臨することによってこそ可能でした。彼等はアフリカの『闇の奥』で実存的変貌を遂げた“クルツ”たちではありません。彼等はもともと身に備わったヨーロッパの頽廃と傲慢をそのままアフリカに持ち込んだのでした。長年の抑圧の下で鬱屈した黒人たちの怒りと反逆のエネルギーはいつの日か暴発する運命にありました。それがマウ・マウの反乱であったのです。次のブログでお話しします。

藤永 茂 (2008年1月30日)



コメント (2)

Re: thousands of Japanese

2008-01-25 10:37:38 | 日記・エッセイ・コラム
1月23日のブログで紹介したカナダ人建築家から、彼女の発言の英語を少しちゃんと書き直したいと言って、次の文章を送ってきてくれましたので号外的に掲載します。

TEXT
regarding your question on the 28 nov statement
As a native English speaker (although I believe language is not necessarily an issue in today's situation of globalised media and therefore language conventions), 'thousands' is simply 'thousands'.
Not 'tens of thousands', because then you would write 'tens of thousands'.
Not 'hundreds of thousands', because then you would write 'hundreds of thousands'.
Examples of this are abundant in news articles where, for maximum sales ( i.e. grabbing the public's attention, often by tactics of sensationalism and/or fear)
journalists will inevitably try to express the maximum number possible without breaching company policies on responsible and accurate reportage.
One can look at recent examples of man-made and natural disasters (the twin towers, hurricane Katrina, demonstrations, earthquakes, viruses,and so forth) which are consistently reported to the general public with the maximum numerical values - newspapers will never write 'thousands' if they can write 'tens of thousands'.

Reading 'thousands' on your blog would leave me understanding, if I did not know anything about the bombing,
that this referred to a value definitely under 10,000. Which of course, in this case, is a rather huge understatement of the real events.


contributor - architect, Canadian



コメント

広島・長崎の被爆死者数

2008-01-23 11:16:39 | 日記・エッセイ・コラム
 イスラエルに攻撃をかけたパレスティナ人の自爆者が住んでいたと思われる家屋をイスラエル軍は空爆や地上砲火で攻撃破壊することを長年続けています。この報復行為を弁護し正当化するのに、ハーバード大学法学部のダーショヴィッツ教授は広島・長崎に対する原爆攻撃を引き合いに出して、無実の人たちが殺されるのはやむをえない事だと言います。2007年11月28日のブログで問題にした文章は次の通りです。:
■The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki killed thousands of innocent Japanese for the crimes of their leaders. The bombing of military targets inevitably kills civilians.■
これはダーショヴィッツ著『The Case for Israel』(2003)167頁からの引用です。
立木勝訳では「広島、長崎への原爆投下では、彼らの指導者が犯した罪の為に無実の日本人数千人が死亡した」となっています。‘thousands of’ は日本語訳では「数千の」とならざるをえません。では英語ではどうなのか? 私はダーショヴィッツの文章を意地悪く解釈して、ここには、広島・長崎の被爆死者数のはっきりした知識を持たない大部分の読者に、ヒロシマ・ナガサキは大した悲劇ではなかったのだという印象を与えることが意識的に企てられていると、判断したのでした。これに就いて、私のブログの訪問者の一人から「そうではあるまい。英語としては、thousands of は‘何千の’だけでなく、‘何万の’、‘何十万の’も意味しうるから」というコメントを頂きました。理屈の上では、確かにその通りでしょう。同じことは hundreds of についても言えましょう。
 しかし、私がこだわっている問題は、私の英語理解が浅薄か否かというような些細なことではなく、宣伝的言語表現の機能についての、いわば、オーウェル的問題であります。言語表現の持つ自由度や曖昧さが意図的に悪用された例を上掲のダーショヴィッツの文章に認めたと私は思ったのです。ふと思い立って、私は、一人の‘native English speaker’に、事の経緯をあまり説明せずに、上の文章を読んでもらい、その感想を訊いてみました。その人はカナダ生れ、ロンドンで建築学を学び、建築家としてヨーロッパで活躍しています。以下は彼女が送り返してくれた email の一部です。:
■ As a native English speaker, 'thousands' is simply 'thousands'. Not 'tens of thousands', because then you would write 'tens of thousands'. Not 'hundreds of thousands', because then you would write 'hundreds of thousands'.
One can easily see examples of this in news articles where, for attention grabbing, they always try to express the maximum number possible in events like earthquakes, rallies, computers attacked by virus', etc.
They will never write 'thousands' if they can write 'tens of thousands' which means thousands refers to numerical values between 1000 - 9999.
When I read the sentence on your blog (I do not know the exact context of discussion) I feel that it is a rather huge understatement of the events.
Again, I am not sure what you are discussing, but it reads to me like thousands which if I did not know anything about the bombing I would assume it was under 10,000.■
つまり、広島・長崎の被爆死者数が数千なのか数万なのか知らない人がダーショヴィッツの文章を読んだ場合、その人が原爆犠牲者の数は数十万に及ぶと考えることは先ずあるまいということです。
 しかし、相手はハーバード大学の法学部の名立たる大教授です。私が、「原爆による死者数は‘thousands ’ではなく、‘hundreds of thousands’だ」と抗議したら、ダーショヴィッツさんは「英語の文法としては thousands で間違ってはいない」と答えるでしょう。しかし、もし誰か別の有名な学者が「Thousands of Jews were killed by the Nazis.」と書いた本を然るべき出版社から世に出したら、ダーショヴィッツ教授はどんな反応を示すでしょうか。

藤永 茂 (2008年1月23日)


コメント (3)

レニ・リーフェンシュタールの『アフリカ』

2008-01-16 07:20:04 | 日記・エッセイ・コラム
 この本はレニ・リーフェンシュタール(1902-2003)が百歳になったお祝いの記念に、2002年、ドイツの美術出版社TASCHENから出版され、今、アマゾンで28万6千円の値段がついています。2005年、タッシェン社の25年創業記念事業の一つとして、この本の廉価版が出版され、独、英、仏、日本の4カ国語版を、丸善で9300円で入手して、悦に入っているところです。60歳をこえた彼女がスティルカメラでとらえたアフリカ、その見事な写真の一枚一枚は「芸術とは何か」、「アフリカとは何か」、「人間の美とは何か」、・・・ といった、私にはとても手に負えない問いを真っ向から押し付けてきます。それに答えることが出来ないままに、それでも私が一つの幸福な心理状態にあることだけは確かです。これが芸術作品の魔力というものなのでしょう。
 私にように齢80をこえた老人で、戦時中にベルリン・オリンピック(1936年)の記録映画『オリンピア』(第一部『民族の祭典』、第二部『美の祭典』)を観て圧倒された記憶を持っている人は少なくないと思います。レニ・リーフェンシュタールが撮影監督したこれらの映画は、厳しい思想統制下に、同盟国ナチス・ドイツの宣伝映画の秀作として日本全国で上映されたのでしたが、私たちを圧倒したのは、何よりも先ず、人間の肉体の美、競技というフォルムで躍動する肉体の舞踏的映像美であったと思います。事実、当時の日本の青少年がこれらのナチス・ドイツの宣伝映画から読み取るべきであった筈のイデオロギー的なものの印象は、少なくとも私の記憶の中には、何の残渣も止めてはいません。
 映画監督としてのレニ・リーフェンシュタールはアドルフ・ヒトラーにすっかり気に入られて、『オリンピア』の前年には『意志の勝利』というナチスの党大会を記録した宣伝映画を監督製作しましたが、『オリンピア』の場合には、その監督を引き受ける条件として、「内容に干渉しない」という約束をヒトラーから取り付けたとされています。終戦後、フランスで逮捕拘束されて4年を過ごし、釈放された後も、過去のナチズムとの連関の故に執拗な中傷誹謗を浴びて、映画作家としては玄人筋から高い評価を得ながらも、映画製作の世界にカムバックすることはかないませんでした。
 1962年、60歳のレニ・リーフェンシュタールは,コンゴの北に位置するスーダンの中央部の僻地に住むヌバと総称される住民と出会い、その魅力の虜になってしまいます。当時、その地域は全く未開の土地で、住民たちは男女とも上下裸身のままで生活していました。60歳をこえた彼女は、それからの10年間、毎年事実上単身でヌバの部落を訪れて、彼らが彼女のためにしつらえた住居に住み、ライカ・カメラで彼らの生き様を見事にとらえる写真を撮り続けました。それらの写真の数枚はレニ・リーフェンシュタールのウェブ・サイト:
 http://www.leni-riefenstahl.de/
で見ることが出来ます。ご覧下さい。
 上に述べたことはレニ・リーフェンシュタールという驚くべき女性の物語のごく一部に過ぎません。ネット上に十分の情報がありますので参照して下さい。『アフリカ』という本の末尾にも彼女の詳しく興味ある紹介があります。私としても言いたいことは沢山ありますが、ここでは二つの事柄にしぼります。二つともコンラッドの『闇の奥』と関係しています。
 一つは、芸術家が抱く政治的思想や倫理的姿勢とその人が創作する芸術作品の価値の問題です。レニ・リーフェンシュタールは一度もナチス政党に属したことはなかったのですが、ナチズム(ヒトラー)に協力したのは動かせない事実ですし、その思想への共鳴と取れるような発言もしています。私たちとしては、彼女の芸術作品を評価する場合に、どのような姿勢をとればよいのか。芸術家が犯罪を犯したからといって、頭からその芸術を否定してしまうのは余りに乱暴ですし、一方、芸術は芸術と割り切る芸術至上主義に逃げ込むのも、安易に過ぎましょう。この意味で問題のある芸術家は古来からごまんと存在します。音楽家ならジェジュアルド、画家ならカラヴァッジョ、小説家ならセリーヌ、等々。わがレニ・リーフェンシュタールもその一人です。
 私は、これまでチニュア・アチェベ的な視角から、小説『闇の奥』とその作者としてのコンラッドについての評論のようなものを書き続けてきましたが、心の奥で絶えず「私には未だ『闇の奥』が本当には読めていない」という不安、いや自覚に悩まされています。何人かの方々から「惚れ込んでいない小説を翻訳するなんて変だ」といったコメントを頂きましたが、まことにもっともなご意見です。レニ・リーフェンシュタールの作品の圧倒的な魅力を味わえないままで、彼女に対する人身攻撃を試みることが良くないことであるならば、私のコンラッド論についても大いに反省の余地がありますが、問題は今の私にとって荷が勝ち過ぎますので、しばしこのままでお許し下さい。
 上に申しました二番目の事柄は、いわゆる「高貴な野蛮人(The Noble Savage)」というモンテーニュの昔からある概念についてです。ヨーロッパ人の心の中ては、「それはロマンティシズムの想像的産物であって、実在しない」と結論されているようですが、コロンブスが残した第一印象の言葉から始まって、「高貴な野蛮人」を垣間見たとしか言いようのない記録が沢山のこされています。私は、この「高貴」という形容詞の代りに「幸福な」という陳腐な形容詞を使い、文学的な響きも出来るだけ取り除いて、ヨーロッパ人のいわゆる大航海時代(大侵略時代といったほうより正確かも)以来、ヨーロッパの白い文明人たちが出掛けた先で出会った未開の野蛮人たちが、ヨーロッパ的尺度で測ると、えらく幸福に暮らしているように見えた場合が多数あったという動かし難い歴史的事実に着目したいと思います。「オヤオヤ、原始共産主義社会礼賛論を蒸し返すつもりかね。今さら馬鹿馬鹿しい」とおっしゃる方も多いでしょうが、とにかく話を聞いて下さい。
 。実在したした原始共産主義社会といえば、北米大陸の先住民イロコワ(Iroquois)が形成していた連邦が有名です。イロコワについては拙著『アメリカ・インディアン悲史』の第6章で書きましたが、最もよく知られているのはエンゲルスの『家族,私有財産、国家の起源』の中の記述でしょう。抜粋します。「その純真無邪気な単純さにもかかわらず、この氏族制度は、なんとすばらしい制度であろう。兵隊も憲兵もポリースもなく、貴族も国王も総督も知事も裁判官もなく、監獄もなく訴訟もなく、それでいて万事が秩序正しくおこなわれる。すべての不和や争いは、それに関係する共同生活体の全体、つまり氏族か部族によって、または氏族相互のあいだで解決される。ただ極端な例外的な手段としてのみ、血の復讐の脅威がある。・・・・世帯は多数の家族に共同でたもたれ、共産的であり、土地は部族に属し、小さな庭や畑だけがさしあたり世帯に割り当てられる--にもかかわらず、我々のもつ細分化された複雑な行政機構のほんのわずかすらも必要としない。決定は当事者たちによってなされ、しかもたいていの場合、何世紀にもわたる慣習によって万事かたがつけられてしまうのである。貧乏人や困窮者はありえない。--共同生活的世帯と氏族は、老人や病人や戦争で不具になった者にたいする責任をわきまえている。万人が平等であり自由である--女も含めて。奴隷はまだ存在の余地がなく、原則として、他の部族の抑圧もまだ存在の余地がない。・・・・このような社会がどんな男たちや女たちを生み出すかは、堕落していないインディアンたちに接したすべての白人たちが、この未開人の人格的威厳、廉潔さ、性格の強さ、勇敢さに驚嘆していることが、これを証明している。」これは“ロマンティック”な褒め過ぎかも知れませんし、我々がこうした社会への復帰を夢見ることは馬鹿げたことに違いありません。しかし、際限のない消費と飽くなき利潤の追求を原動力とする現在の資本主義社会が早晩行き詰まり、破綻するであろうという予感は万人の胸にあると思われます。しかも、すでに我々は幸福な人間集団を形成してはいません。人間の集団がもっと安上がりに暮らせて、しかも、ほのぼのと幸せな日々を送れそうな手立てがあるかもしれないならば、今あらためてそれを模索して悪いわけがありません。資本主義の、社会主義の、とむつかしい事を言わなければ、その模索が開始できないという理由は何もありません。
 レニ・リーフェンシュタールからすっかり話題がそれてしまった感じになりましたが、実は、そうではないのです。彼女の『アフリカ』の本のはじめに「アフリカへの消し去れぬ愛情」と題するインタビュー記事があります。このインタビューは彼女の死の前年の2002年(百歳)、ドイツで行われました。原語はドイツ語で、英訳、仏訳、和訳が付けてあります。その中で彼女はヌバ族の人々の印象を語っていて、記事全体を読んで頂くのが一番ですが、ここではただ二カ所だけを引用します。女性が単身アフリカの辺鄙な土地にいることに恐怖を感じなかったかと訊ねられて、彼女はこう答えています。「まったくないわ。この街をひとりで歩くよりもずっと安心感があるぐらい。彼らは本当にすてきな人々なのよ。顔を見ればわかるわ。体から善良さを発散していて、そばにいるとそれを感じられるの。怖いと思ったことは一度もないわ。ぜったいに、そう決して--私がひとりでいるときも--ヌバが私に危害を加えようとしたことはなかったわ。つねに、私を彼らの一員として扱ってくれた」。「ヌバと過ごした日々は、私の生涯のなかで最も幸福で、最も美しかった。ただ、すばらしいの一言よ。彼らはとても陽気で、一日中笑って過ごしていたし、決して人のものを盗むようなことはしない善良な人々だった。彼らはいつも幸せで、すべてに満足していた」。
 皆さん信じられますか?私は信じます。まず、ヌバの写真がその何よりの証拠、つぎに、レニ・リーフェンシュタールはこんな嘘をつくことを必要と感じるような‘やわ’な出来の人間ではありません。彼女の言葉を読んですぐ思い出したのはイギリス人の女傑メアリー・キングスリーです。キングスリーについては拙著『「闇の奥」の奥』の100頁以降に書きました。この勇敢な女性は、30歳(1893年)の夏、つまり、船乗りコンラッドがコンゴ河をたどったすぐ後の頃、単身でアフリカ西海岸から奥地に踏み込んで行ったのです。翌年のはじめ一度帰国しましたが、これもレニ・リーフェンシュタールと同じく、何かに呼び戻されるように、またまたアフリカに舞い戻ります。この30歳の白人女性も、未開の土地を一人で歩き回りながら、鰐には喰われそうになったようですが、‘野蛮人’たちからは何の危害も受けることはありませんでした。レニ・リーフェンシュタールの話を読んで、直ぐに思い及んだのは「生きていた化石の魚」シーラカンスです。エンゲルスが描いた「高貴な野蛮人」イロコワ族が存在したのは今から400年ほど前のことですが、同じような「幸福な野蛮人」が、1960年頃に,アフリカの僻地に生き残っていたのが見付かり、それが見事なカラー写真で記録されました。遠い昔に死に絶えたと考えられていたシーラカンスがアフリカ東海岸で生きて見付かったのは1938年のことでした。なんだか似た感じではありませんか!
 コンラッドの小説『闇の奥』では、河蒸気船の航行のために集められた30人の人食い蛮人たちが飢餓状態に追い込まれながら、たった5人の白人を食べようとしなかったことが、まるで不可解な大いなる神秘として、誇張的に描かれています(藤永訳108頁から数頁)。しかし、キングスリーやリーフェンシュタールのノン・フィクションの経験に照らせば、集団生活を営む人間たちに自然にそなわる徳として、特別、神秘呼ばわりするほどのことでもないのかも知れません。

藤永 茂 (2008年1月16日)


コメント (1)

ベルギー国王レオポルド二世再考(4)

2008-01-09 10:11:40 | 日記・エッセイ・コラム
 前回では『コンゴの記憶:植民地時代』特別展の解説パンフレットのことを取り上げました。この44頁の解説書の「第3展示室。商業取引」の章には、古くはモレルやケースメント、今はホックシールドやエヴァンスによるレオポルド王の諸々の罪過に対する糺弾に答える努力あるいは弁解が含まれています。“これらの事件を、正当化することなしに、説明することを歴史は我々に許してくれるだろうか”というのが語り始めの科白です。コンゴの熱帯雨林に自生するゴムの木からゴム原料を採取する労働を過酷な形で原住民に強制したレオポルド王の残忍さに弁解の余地はありませんが、この解説書が指摘する一つの看過できないポイントは、当時空気入りゴムタイヤの発明が契機となったゴム原料価格の世界的高騰のため、一時代前のゴールドラッシュのように、一攫千金を狙う白人たちが自生のゴムの木を求めて熱帯雨林に分け入り、その地の住民に奴隷的強制労働を強いてゴム原料を乱獲するという事態が南米アマゾン河流域でも、コンゴよりも早く、起っていたという事実です。レオポルドがそれを知って、じゃあ俺もゴム成金になってやろうと考えた可能性は十分あります。ケースメントは、英国政府から、まずコンゴのゴム原料採取奴隷労働の調査を命ぜられてレオポルド糺弾の報告書を書き、次に、南米のプツマユ地域に派遣されて、その地の原住民(インディオ)たちがコンゴの黒人たちと同じ虐待に苦しんでいることをつぶさに目撃します。ケースメントの糺弾の対象になったJulio Cesar Aranaというペルー人のゴム成金は自分のペルー・アマゾン・ゴム会社の本社をロンドンに置いていました。ケースメントがアマゾンの熱帯雨林の中で見据えたのは、レオポルドあるいはアラーナといった個々人の残忍性ではなく、植民地化による他民族の飽くなき搾取のシステムという悪鬼の素顔であったのだと思います。この悪鬼は何処にでも居たのです。英帝国の植民地的支配下にある祖国アイルランドの独立のために闘う決意をケースメントが胸中に固めたのもプツマユの密林の中のことでした。
 特別展の解説書はカタンガをめぐる問題についても多くを語っています。アダム・ホックシールドの『レオポルド王の亡霊』と大きく違う点です。カタンガ地域でのベルギー(レオポルド王)側と英国(セシル・ローズ)側との利害の交錯については、これまでにも幾度か取り上げてきましたが、要約すれば、カタンガの資源搾取では、鉱業、林農業、そのバックアップとしての鉄道事業、水力発電事業についてのベルギー資本と英国資本の提携癒着は密接なもので、英国と米国の奴隷制反対、先住民保護を派手に唱える慈善運動家たちに支えられて、モレルやケースメントがレオポルド王をきびしく糺弾している丁度その舞台裏で、ベルギー、英国、米国を含む国際資本、今流にいえば、グローバル・キャピタルが着々営々とカタンガの開発を押し進めていたのです。モレルやケースメントも、所詮は、背後の大きな手によって操られた人形に過ぎなかったのでは--という想いさえ心を横切ります。彼らが、人間として、そのように利用されそうな、直情で単純な面をもっていたことは事実です。アイルランドの新聞アイリッシュ・タイムズのアーカイブにあるケースメントの伝記は次のように結ばれています:「In Africa, in Brazil, and in Ireland, Casement saw colonial powers being abused; for his efforts in Africa and Brazil, he was hailed as a hero. It was only when he tried to awaken the British to their own failings that he was pronounced a traitor.」。モレルの方も第一次世界大戦に反対して投獄され獄内労働を強いられます。二人の生涯については拙著『「闇の奥」の奥』に書きましたし、また、このブログのシリーズで2006年9月6日から5回にわたってより詳しく記述しましたので、興味のある方はお読み下さい。
 さて、今回の問題はベルギー国王レオポルド二世です。もっと正確には、レオポルド王に対する非難のあり方です。アダム・ホックシールドは、『レオポルド王の亡霊』で、レオポルド王が私有植民地「コンゴ自由国」で犯した罪過を完膚なきまでに糺弾し、2005年のブリュッセルの王立中央アフリカ博物館の『コンゴの記憶:植民地時代』特別展についても、過去の歴史についての反省の色は全く無しというきついお叱りです。しかし、私はこう言いたい:「ホックシールドさん、あなたの語り口は余りにも SELF-RIGHTEOUS ではありませんか? なるほど、レオポルド王の所業に弁解の余地は無い。しかし、レオポルド王の植民地経営、そして、それに続くベルギー政府の植民地経営と過去の記憶の取り扱いは、イギリスの、フランスの、また、アメリカのそれに較べて、それほど際立って独自の(sui generis)、例外的なものであったでしょうか?」
 これは私が拙著『「闇の奥」の奥』(112頁)でハナ・アーレントに問いかけたことと同じです。彼女は主著『全体主義の起源2 帝国主義』(大島通義・大島かおり共訳、みすず書房、1972年)の中で「ベルギーの帝国主義は、ベルギーのブルジョアジーの膨張欲からでたものでもネイションとしてのベルギーの征服欲によるものでもなかった。それはベルギー国王のきわめて個人的な「膨張」に基づくだけのsui generis (特殊のもの)であり、政府による抑制も世論や議会その他のナショナルな機関による掣肘も受けなかった。・・・・またベルギー領コンゴでの残虐非道は他の地域での帝国主義者の行為とは比べものにならぬ残酷さで、帝国主義的支配の例として引き合いに出すとすれば公平を欠くだろう」と書いていますが、私はこの見解に反対です。レオポルド王が、カタンガで、英米植民勢力と妥協して、その資本と技術を導入したプロセスを分析すれば、彼とそれを継ぐベルギーのコンゴに対する帝国主義的植民地支配は、特にそのグローバル性において、その典型例とすら看做すことも可能です。コンラッドの『闇の奥』に描かれているのは主に象牙の収奪です。コンゴからの搾取がコンゴ河中流域からの象牙とゴム原料であった段階でレオポルド王の右腕として活躍したのは、コンラッド/マーロウをブリュッセルで面接した“これぞ偉大なるボスその人”(藤永訳『闇の奥』30頁)アルベール・ティースですが、コンラッドの小説でカタンガがちょっぴり顔を出しているのは「エルドラド(黄金国)探険遠征隊」の話だけです。しかも、小説ではこの忌まわしい探検隊は密林に呑み込まれて死滅したことになっていますが、歴史的事実としては、これがレオポルド王のカタンガ開発の出発点であったことは、2007年11月14日のブログ『エルドラド探険遠征隊は「闇の奥」には消えなかった』でお話ししました。その後に続くブログでユニオン・ミニエール社を中心とするカタンガ鉱物資源の開発について説明しましたが、1906年(モレル騒ぎの真っ最中です)には、レオポルド王は Jean Jadot という有能なベルギー人実業家を部下にして、カタンガ地域の鉱業、農林業、鉄道事業の三事業を統括する金融組織「ソシエテ・ゼネラール」の取締役に任命しました。ジャドーはレオポルド王の政治的意向を受けて、英米の外国資本の参加の下に、カタンガ地域の生産性と輸出能力の向上に成功して行きます。『コンゴの記憶:植民地時代』特別展の解説書にはこのあたりの事情がよく記述されています。その中に挙げられている外国人有力実業家4人の2人は英国人、セシル・ローズの腹心であったロバート・ウィリアムについては以前に書きました。もう一人の William Hesketh Lever については、ここで少しお話しますが、興味をお持ちになったらネット上で更なるインフォを探して下さい。
 アメリカやカナダでしばらく暮らしたことのある人ならば、 Lux, Dove, Becel, Knorr, Lipton といった石鹸や食料品のブランドをきっと御存知でしょう。これらはすべて Unilever という大企業グループの製品です。ウィリアム・リーバー(1851-1925)はその創始者で、イギリスはボルトンの生れ、1886年に立ち上げた石鹸製造会社で大金持ちになった人物で、慈善家としての名も高かったようです。石鹸の原料の椰子油は西アフリカの英領植民地から入手していましたが、もっと安く大量にということで、ベルギー領コンゴに目をつけて踏み込んで行きました。時期的にはレオポルド王が私有植民地をベルギー政府に移管した直後の頃だと思われますが、カタンガの低地ではレオポルド時代から受け継がれた住民強制労働のシステムに乗っかることで低賃金労働が得られ、したがって、石鹸製造の費用が削れることにウィリアム・リーバーは着目したのでした。こうした抜け目のなさ、非情さが彼を「石鹸王」に押し上げたのかも知れません。しかし、リーバーの経営する椰子農園での強制労働が余りに苛酷であったため、ベルギー人の現地官僚や宣教師から批判の声が上がり、ベルギー本国でも社会党が国会でその問題を取り上げましたが、リーバー側のもみ消し工作が成功し、強制労働のシステムは1960年のコンゴ独立の日まで続いていたと考えられます。このウィリアム・リーバーのコンゴでの所業が端的に例示するように、カタンガ地域の鉱業、農林業、鉄道、発電事業などが、レオポルド王の時代から連続して、英米を主体とする国際資本によって完全に支配されていたわけで、これを十分に解明しない限り、独立後のコンゴの苦難の歴史の実体も、レオポルド王の実像もはっきりとは浮かび上がってこないと私は考えます。
 私には古い奇妙な思い出があります。カナダのアルバータ州の首都エドモントンにあるアルバータ大学に就任して間もない1970年頃のことでした。日本総領事館の主催の小規模の講演会に呼ばれたことがありました。細かい事は忘れてしまいましたが、講演者は日本政府の官僚、演題は日本政府の海外援助について。はっきりと憶えているのは講演後の質疑応答での遣り取りです。アルバータ大学の教授と自己紹介した男が「あなたは、経済援助を与えた國では日本製品の輸入額が増加することを強調されたが、それは余りにもソロバン高い話ではないか」と皮肉をこめたコメントをすると、講演をした日本のお役人は、あっけらかんとして、「外国援助とはそういうものではありませんか?」と言い返したのです。質問をした大学教授は軽蔑したような苦笑いを浮かべて着席しました。その頃は全くナイーブであった私は「日本人として恥ずかしい」と思ったのです。日本製品をより多く売り込む為の外国援助は「援助」ではない--と思ったのです。
 今はしかし、私の考えがすっかり逆転しました。質問に立った大学教授のほうが愚か者か偽善者であり、講演者のほうが醒めた優秀な政府官僚だったのかも、と思うようになったのです。米英の歴史家たちがこぞって称揚する例の「マーシャル援助計画」にしても、とどのつまりは同じことではありませんか。ここで、私は、ベルギー国王レオポルド二世に思いを馳せるのです。彼は、あの日本政府官僚のように、植民地の支配の本質を明白に見抜き、その知見に基づいて彼の私有植民地「コンゴ自由国」の経営を実行したのだと私は考えます。ですから、彼のやった事は、ハナ・アーレントが考えたような例外的な独自のもの(sui generis)であったのではなく、植民地の富の搾取を余りにも「教科書」的に露骨に実行したので激しい非難を浴びることになったと言えるように思うのです。
 今のベルギーは1831年に中立の立憲君主国としてオランダから独立した小国で、その王室はイギリスとフランスの両王室に血縁を持っていました。レオポルド一世は、イギリスもフランスも、隣の小国オランダさえも、植民地を持って莫大な利益をあげているのだから、その真似をしようと考えて努力したのですが、彼の代には成功しませんでした。彼を継いだレオポルド二世は、王位に就く前の皇太子時代からヨーロッパ諸国の植民地経営についての研究に励み、即位後は強烈な意識を持ち、外交的な奸計を弄して、遂にアフリカ大陸の中央部に本国の80倍の面積の植民地を獲得しました。詳しいことは拙著『「闇の奥」の奥』に書いた通りです。植民地時代に遅ればせに登場した小国が先進国の真似をして無理な手段で新しく植民地を獲得し、その経営を試みた点では、レオポルド二世と明治天皇の間には一種の類似が認められます。ヨーロッパ支配下の世界秩序にあまりにも性急に挑戦して植民地獲得路線を突っ走ったために叩きのめされた日本でも、明治天皇に対する国民の心情は悪いとは言えますまい。ましてや、ベルギーのレオポルド二世の場合は、彼なしには今日のベルギーの富は、チョコレートやダイヤモンドを含めて、とても考えられません。ベルギーの国民感情の中にレオポルド王に対する外国人の誹謗に反撥する気持があるとしても不思議ではないのです。王の個人的行状にスキャンダラスな面があったとしても、似たり寄ったりの王様は世界の歴史に掃いて捨てるほどいます。驚くにあたりません。コンゴがレオポルド二世の個人的な植民地であったと知って、私も始めは驚きましたが、これもよく考えてみると、特別驚くにはあたりません。私が長く住んでいたカナダにしても、植民地としては、もともとイギリスの貴族の一群が共同出資したハドソンベイ会社という商社が経営していたのです。現在でもハドソンベイという百貨店のチェインとして残っています。イギリスのように強大な貴族たちがいなかったベルギーでは、お金持ちの王様自らが儲かりそうな植民地ビズネスに乗り出したということです。
 現在でもテルビューレンにはレオポルド二世の記念像があることにアダム・ホックシールドはめくじらを立てますが、その昔、奴隷貿易でリバプールの繁栄に貢献した奴隷商人の名前を冠した通りが未だにリバプールに残されているではありませんか。  
 私のペット資料である「コンラッド・ケースメント公開書簡」の後半に妙に引っかかる文章があります。昔はイングランドがヨーロッパの良心を守護していたが、今は、人間性とか、品位とか、公正さのためにひと肌脱ぐことはやめてしまったことを嘆いたあと、コンラッドは「しかし、我々の商業利益についても同じ態度でよいのでしょうか? モレルが彼の著書で至極はっきりと示しているように、我が国の利益はひどい損害を受けています。」と書いているのですが、ひどい損害を受けている英国の商業利益とは何のことか? 私は次のように読み解きます。いわゆる「スクランブル・フォー・アフリカ」の幕を切って落したベルリン会議でレオポルド二世がうまく「コンゴ自由国」を手に入れたのは、彼の管理下のコンゴではアメリカとヨーロッパ各国の自由貿易が保証されると言明したからでした。ところが、世界的なゴム・ブームが下火となり、カタンガ地域の農林鉱物資源が大きくクローズ・アップしてきた20世紀初頭、レオポルド王はしっかりとカタンガを抱え込んで、外国資本が踏み込む自由を与えない。そのために経済的損害を蒙っていると考えた英米資本はモレルなどのレオポルドの「赤いゴム」収奪の悪行糺弾運動を適当に盛り立てて、それをテコに使って、カタンガ開発参入の自由化をレオポルドに迫ったのだと私は考えます。この私のコンラッドの手紙の文句の読みが深読みに過ぎるか否かは、カタンガの経済的開発の歴史を地道に辿ってみれば決着のつく問題であると思います。

藤永 茂 (2008年1月9日)


コメント