つい先頃までアフリカ東部の國ケニヤについての私の知識は僅かで断片的でしたが、二つの事件をきっかけに、霧の中から暗い緑の木立が次第に現われるように、この國の過去と現在の全体像が見えてきたような気がしています。始めのきっかけは、昔「マウ・マウ団の乱」と呼ばれたケニヤの原住民たちの反乱についての本を昨年後半に読んだこと、次は、昨年年末に行われた大統領選挙に端を発したケニヤの政情不安です。過去50年間、アフリカ大陸で政情の安定が最もよく維持された模範的國家と看做されてきたケニヤが、此処に来て、突然、いわゆる「失敗国家(failed state)」になってしまいそうなのです。この國の過去に何があり、今、何が起りつつあるのでしょうか? アフリカの専門家でもなく、英帝国史、英文学の専門家でもない私が、ついこの頃学んだ事を、よく咀嚼もせずに、ここに書き綴る理由は、私なりにケニヤを凝視することで味わった新しい驚きを、今まで私と同様の無知無関心の中にあった方々と是非分ち合いたいと思ったからです。
まず「マウ・マウ団の乱」について。私の頭の片隅に残っている50年前のおぼろげな記憶によれば、マウ・マウ団とはケニヤ在住の白人たちの無差別惨殺を実行した原住民の野蛮な血盟集団で、いたいけな子供たちを含む多数の白人たちを恐るべき残酷さで殺し続け、英国政府はその鎮圧に手を焼いたという事件です。これに似た印象をお持ちの方が多いと思います。この印象の中核を占めているのはアフリカの闇の奥からおどり出た恐怖の原始的残酷性であって、正常な意味での政治的社会的要素ではありませんでした。しかし、この印象が意図的に捏造されて世界中に広められた真っ赤なウソであることが2005年に出版された下記の2冊の学問書によって確立されました。
*Caroline Elkins “IMPERIAL RECKONING: The Untold Story of Britain’s Gulag in Kenya”(2005).
*David Anderson “HISTORIES OF THE HANGED: Britain’s dirty war in Kenya and the end of the Empire”(2005).
もう1冊、
*Mark Curtis “WEB of DECEIT: Britain’s Real Role in the World”(2003)
も注目ですが、この本については後でまた触れます。これらの本の表題から察せられるように、ポイントは、我々は英国という國の本当の姿を知らないということです。これは真相暴露本とか国際陰謀説などのレベルの話では決してなく、驚くべき無知の状態の中に我々が置かれていたことに否定の余地はありません。
マウ・マウ( Mau Mau) の語源ははっきりしませんが、マウ・マウ暴動への参加者の大部分はキクユ( Kikuyu ) と呼ばれるケニヤ最大の部族の黒人たちでした。コンラッドが『闇の奥』を執筆し出版した前後の1895年から1905年にかけて、ケニヤのインド洋岸のモムバサからケニヤ南部の高原地帯を貫通してユガンダに入る鉄道工事が英国によって進められました。やがてその沿線の気候の良い肥沃な土地に英国人を主とするヨーロッパ白人の入植者がどんどん乗り込んで来て、コーヒーや茶などの栽培に最適の土地を土着の住民から取り上げ、彼らを押し出して、第2次世界大戦終了の時点で、3万たらずの白人が占有する土地が100万人以上のキクユ黒人が押し込められた土地の6倍の広さ、しかも農業に適した土地のほぼすべてを白人が所有するという状況になりました。しかも入植白人の多くは本国で貴族等の上流階級の出で、自ら手を下して農作業をする気は更々なく、コーヒー農園は多数の黒人労働者の肉体作業に依存し、自分たちは大きな邸宅で優雅に暮らし、猛獣狩りに熱を上げ、あるいは首都のナイロビに形成された社交界に入り浸るといった有様でした。ここまで言えば、イサク・ディネーセン(またはカレン・ブリクセン)の自伝小説『Out of Africa(アフリカの日々)』あるいは映画化された『愛と哀しみの果て』を思い出す方々も多いと思います。そうです。あの作品の舞台こそが“The White Highlands” と呼ばれるケニヤ中南部にひろがる美しい高地地帯です。私もその麗筆に魅せられて、版を異にするハードカバーを二冊も買い求め、彼女の他の作品を読み、彼女の長い生涯の全スパンにも興味を持ってその伝記を読んだ時期がありました。しかし、カレン・ブリクセンのケニヤの実体を知ってしまった今、私の気持は複雑です。文学作品を読むということはどういう事なのか? 例えば、カレンの夫のブリクセン男爵の好色性。カレンは夫から性病を移されます。前に『アフリカの日々』を読んだ時もその事は知っていました。ケニヤの入植白人たちの快楽三昧の生活についても分かっていたつもりでしたが、彼らの乱脈な快楽生活が原住民に対する苛酷な抑圧の上に成立っていたことを知った今は、どうしてもカレンを含む白人たちの私的生活の文学的な「愛と哀しみ」に素直に寄り添うことが、私には、出来なくなってしまうのです。上掲のエルキンスさんの本からの引用(11頁から)をお読み下さい。
■ They all had domestic servants, though the wealthier families would have dozens. Some servants would have but a single responsibility, like tending a favorite rose garden or, as in the case of Karen Blixen, carrying the lady’s favorite shawl and shotgun. They enjoyed game hunting and sport facilities, with the Nairobi racetrack and polo grounds being one of the most popular European social spots in town. Beyond such gentrified leisure, these privileged men and women lived an absolutely hedonistic lifestyle, filled with sex, drugs, drink, and dance, followed by more of the same. In Nairobi, where some settlers lived a full-time urban, professional life, they congregated in the Muthaiga Club, also known a the Moulin rouge of Africa. They drank champagne and pink gin for breakfast, played cards, danced through the night, and generally woke up with someone else’s spouse in the morning. At the Norfolk Hotel, better known as the House of Lords, settlers rode their horses into the Lord Delamere Bar, drank heavily, and enjoyed Japanese prostitutes from the local brothel. Outside of Nairobi part of the highlands became the notorious Happy Valley, where weekend houseguests were often required to exchange partners, cocaine and morphine were distributed at the door, and men and women compared their sexual notes when the debauchery was over. The colony’s settlers were notorious worldwide for their sexual high jinks, and the running joke in Britain became, “Are you married or do you live in Kenya?” ■
註を少し。domestic servants (召使い、家庭内の奉公人)。裕福な家庭には数十人(dozens) の召使いを抱え、ただ一つ決まった役目を一人の召使いに振り当てる贅沢な使い方をしていたようです。ケニヤですから、game hunting といえば「猛獣狩り」と思ってよろしい。racetrack は「競馬場」、 hedonistic (ヒードニスティック)は「快楽的」ですから、absolutely hedonistic lifestyle とは「へどが出るような享楽的ライフスタイル」です。ムーラン・ルージュ(赤い風車)はパリの人士の享楽生活の中心でした。spouseは「配偶者、つれあい」。ナイロビに日本人の娼婦が居たとは驚きです。Happy Valley は地名として「幸福の谷間」を意味しうるでしょうが、大きな英英辞書を見ると淫靡な意味もあるようです。debauchery は「乱痴気騒ぎ」、high jinks は「戯れ言」、 running joke は「しきりに使われるジョーク」。
ケニヤの白人たちのこの嫌悪すべき「優雅な生活」、ブリクセン男爵たちの快適な生活は、土地を奪われ、奴隷的使役と労働を強いられた百万のキクユ族の上に王侯のように君臨することによってこそ可能でした。彼等はアフリカの『闇の奥』で実存的変貌を遂げた“クルツ”たちではありません。彼等はもともと身に備わったヨーロッパの頽廃と傲慢をそのままアフリカに持ち込んだのでした。長年の抑圧の下で鬱屈した黒人たちの怒りと反逆のエネルギーはいつの日か暴発する運命にありました。それがマウ・マウの反乱であったのです。次のブログでお話しします。
藤永 茂 (2008年1月30日)
まず「マウ・マウ団の乱」について。私の頭の片隅に残っている50年前のおぼろげな記憶によれば、マウ・マウ団とはケニヤ在住の白人たちの無差別惨殺を実行した原住民の野蛮な血盟集団で、いたいけな子供たちを含む多数の白人たちを恐るべき残酷さで殺し続け、英国政府はその鎮圧に手を焼いたという事件です。これに似た印象をお持ちの方が多いと思います。この印象の中核を占めているのはアフリカの闇の奥からおどり出た恐怖の原始的残酷性であって、正常な意味での政治的社会的要素ではありませんでした。しかし、この印象が意図的に捏造されて世界中に広められた真っ赤なウソであることが2005年に出版された下記の2冊の学問書によって確立されました。
*Caroline Elkins “IMPERIAL RECKONING: The Untold Story of Britain’s Gulag in Kenya”(2005).
*David Anderson “HISTORIES OF THE HANGED: Britain’s dirty war in Kenya and the end of the Empire”(2005).
もう1冊、
*Mark Curtis “WEB of DECEIT: Britain’s Real Role in the World”(2003)
も注目ですが、この本については後でまた触れます。これらの本の表題から察せられるように、ポイントは、我々は英国という國の本当の姿を知らないということです。これは真相暴露本とか国際陰謀説などのレベルの話では決してなく、驚くべき無知の状態の中に我々が置かれていたことに否定の余地はありません。
マウ・マウ( Mau Mau) の語源ははっきりしませんが、マウ・マウ暴動への参加者の大部分はキクユ( Kikuyu ) と呼ばれるケニヤ最大の部族の黒人たちでした。コンラッドが『闇の奥』を執筆し出版した前後の1895年から1905年にかけて、ケニヤのインド洋岸のモムバサからケニヤ南部の高原地帯を貫通してユガンダに入る鉄道工事が英国によって進められました。やがてその沿線の気候の良い肥沃な土地に英国人を主とするヨーロッパ白人の入植者がどんどん乗り込んで来て、コーヒーや茶などの栽培に最適の土地を土着の住民から取り上げ、彼らを押し出して、第2次世界大戦終了の時点で、3万たらずの白人が占有する土地が100万人以上のキクユ黒人が押し込められた土地の6倍の広さ、しかも農業に適した土地のほぼすべてを白人が所有するという状況になりました。しかも入植白人の多くは本国で貴族等の上流階級の出で、自ら手を下して農作業をする気は更々なく、コーヒー農園は多数の黒人労働者の肉体作業に依存し、自分たちは大きな邸宅で優雅に暮らし、猛獣狩りに熱を上げ、あるいは首都のナイロビに形成された社交界に入り浸るといった有様でした。ここまで言えば、イサク・ディネーセン(またはカレン・ブリクセン)の自伝小説『Out of Africa(アフリカの日々)』あるいは映画化された『愛と哀しみの果て』を思い出す方々も多いと思います。そうです。あの作品の舞台こそが“The White Highlands” と呼ばれるケニヤ中南部にひろがる美しい高地地帯です。私もその麗筆に魅せられて、版を異にするハードカバーを二冊も買い求め、彼女の他の作品を読み、彼女の長い生涯の全スパンにも興味を持ってその伝記を読んだ時期がありました。しかし、カレン・ブリクセンのケニヤの実体を知ってしまった今、私の気持は複雑です。文学作品を読むということはどういう事なのか? 例えば、カレンの夫のブリクセン男爵の好色性。カレンは夫から性病を移されます。前に『アフリカの日々』を読んだ時もその事は知っていました。ケニヤの入植白人たちの快楽三昧の生活についても分かっていたつもりでしたが、彼らの乱脈な快楽生活が原住民に対する苛酷な抑圧の上に成立っていたことを知った今は、どうしてもカレンを含む白人たちの私的生活の文学的な「愛と哀しみ」に素直に寄り添うことが、私には、出来なくなってしまうのです。上掲のエルキンスさんの本からの引用(11頁から)をお読み下さい。
■ They all had domestic servants, though the wealthier families would have dozens. Some servants would have but a single responsibility, like tending a favorite rose garden or, as in the case of Karen Blixen, carrying the lady’s favorite shawl and shotgun. They enjoyed game hunting and sport facilities, with the Nairobi racetrack and polo grounds being one of the most popular European social spots in town. Beyond such gentrified leisure, these privileged men and women lived an absolutely hedonistic lifestyle, filled with sex, drugs, drink, and dance, followed by more of the same. In Nairobi, where some settlers lived a full-time urban, professional life, they congregated in the Muthaiga Club, also known a the Moulin rouge of Africa. They drank champagne and pink gin for breakfast, played cards, danced through the night, and generally woke up with someone else’s spouse in the morning. At the Norfolk Hotel, better known as the House of Lords, settlers rode their horses into the Lord Delamere Bar, drank heavily, and enjoyed Japanese prostitutes from the local brothel. Outside of Nairobi part of the highlands became the notorious Happy Valley, where weekend houseguests were often required to exchange partners, cocaine and morphine were distributed at the door, and men and women compared their sexual notes when the debauchery was over. The colony’s settlers were notorious worldwide for their sexual high jinks, and the running joke in Britain became, “Are you married or do you live in Kenya?” ■
註を少し。domestic servants (召使い、家庭内の奉公人)。裕福な家庭には数十人(dozens) の召使いを抱え、ただ一つ決まった役目を一人の召使いに振り当てる贅沢な使い方をしていたようです。ケニヤですから、game hunting といえば「猛獣狩り」と思ってよろしい。racetrack は「競馬場」、 hedonistic (ヒードニスティック)は「快楽的」ですから、absolutely hedonistic lifestyle とは「へどが出るような享楽的ライフスタイル」です。ムーラン・ルージュ(赤い風車)はパリの人士の享楽生活の中心でした。spouseは「配偶者、つれあい」。ナイロビに日本人の娼婦が居たとは驚きです。Happy Valley は地名として「幸福の谷間」を意味しうるでしょうが、大きな英英辞書を見ると淫靡な意味もあるようです。debauchery は「乱痴気騒ぎ」、high jinks は「戯れ言」、 running joke は「しきりに使われるジョーク」。
ケニヤの白人たちのこの嫌悪すべき「優雅な生活」、ブリクセン男爵たちの快適な生活は、土地を奪われ、奴隷的使役と労働を強いられた百万のキクユ族の上に王侯のように君臨することによってこそ可能でした。彼等はアフリカの『闇の奥』で実存的変貌を遂げた“クルツ”たちではありません。彼等はもともと身に備わったヨーロッパの頽廃と傲慢をそのままアフリカに持ち込んだのでした。長年の抑圧の下で鬱屈した黒人たちの怒りと反逆のエネルギーはいつの日か暴発する運命にありました。それがマウ・マウの反乱であったのです。次のブログでお話しします。
藤永 茂 (2008年1月30日)