私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

『相続者(The Inheritors)』

2006-08-30 02:14:51 | 日記・エッセイ・コラム
 これはコンラッドとその友人フォードとの共作の小説ですが、コンラッド専門家の間では稀にしか取り上げられない作品で、時折は、コンラッドの作品目録から洩れてしまうことさえあるようです。私は、『闇の奥』に強い興味を抱くようになって間もなく、この『相続者』という小説が気になり、1991年に新しく出版された単行本を買って読みましたが、インターネットで探せば,他の多くのコンラッドの作品同様、無料で入手できます。 私が気を引かれたのは、コンラッドの思い出を綴ったフォードの文章で、この小説に登場するメルシュ公爵なる人物のモデルがベルギー国王レオポルド二世だと知ったからです。
 『闇の奥』の「訳者あとがき」に書きましたが、私はハナ・アーレントがアフリカのジャングルの中でナチズム思想家たちが沢山生まれたとでも言いたげなのを知ってショックを受けました。「これはマズイ」と思ったのです。アフリカのウィルダネスの魔力に引きずり込まれて「先祖帰り」をするクルツのような人物を植民地主義、帝国主義の悪のシンボル、悪の権化に祭り立てては、植民地主義の実相を見通す視界を遮られてしまうと思ったのです。コンゴの場合は、我々が目を据えるべき悪の親玉は「これぞ偉大なるボスその人」(藤永30)アルベール・ティース、その奥に控えるベルギー国王レオポルド二世でなければなりません。彼は唯の一度もコンゴの土を踏みませんでした。この大悪鬼はヨーロッパで自然発生したわけです。アフリカという触媒は不要でした。自然発生といっても、レオポルドの場合には注目すべき伝記的事実が知られています。即位の3年前の皇太子時代、スペイン南部のセビリアに一ヶ月滞在して、観光見物などには目もくれず、ひたすらセビリアの大きな公文書館に通いつめて、スペインの海外植民地経営の研究に励み、植民地から富を搾取する極意を学び取ったのでした。つまり、この大悪鬼は「ヨーロッパの心」が生んだヨーロッパ産純血種であったのです。
 7月26日のブログ「ラルフ・モードのマーロウ批判」でモード氏はクルツをアイヒマンに対比させたことを書きました。そうです。クルツは、オーソン・ウェルズなどが考えたように、ヒトラーに相当するのではなく、アイヒマンまがいの小悪魔だと考えるべきだと思います。ユダヤ人のハナ・アーレントがユダヤ人たちからひどく叩かれることになった問題の書『エルサレムのアイヒマン』を彼女が書いた頃には、クルツについての考えも少し変わっていたかも知れません。クルツ程度の悪鬼はアフリカのヨーロッパ植民地には幾らでも見付かった筈です。だからこそ、アーレントを含めて、幾多の文筆家やコンラディアンが何人もの実在人物を「これがクルツのモデル」だと競って持ち出しているのです。
 話を『相続者』に戻します。植民地コンゴの悪の剔出を目指す小説の主人公はレオポルドであるべきだと考えた私は、コンラッドが『闇の奥』と同時に筆を進めていた『相続者』に大きな期待をかけて読み始めたのですが、これは難物の読み物でした。<モデル小説>と副題のついているこの小説は、第4次元世界からやってきたという非情の美女が登場するサイエンス・フィクションの体裁も持ち、何が言いたいのか始めは皆目わかりませんでした。まず、「遺産を相続する者たち」という題名の含む意味、heritage, inheritance といった言葉の意味を時代的に理解しなければなりません。次に、この小説は、当時の英国の南アフリカ植民地をめぐる英国政界の内情についてのしっかりした知識を持たなければ、作中のこの名前は実在の誰々のモデルだという註を見ただけではどうにもなりません。幾つかの解説的な評論を読みましたが、次の二つは特に役に立ちました。ノールズとムーアの『Oxford Reader’s Companion to Conrad』(2000) とPeter Merrington の論考 「“A Good Heritage”: The Inheritors and the Idea of Heritage in the Age of Empire」(CONRAD AT THE MILLENNIUM: MODERNISM, POSTMODERNISM, POSTCOLONIALISM, 2001, pp73-99)
 しかし、ガッカリしたことに、この小説は私の当初の期待には全く答えてはくれませんでした。たしかにレオポルド二世はメルシュ公爵、コンゴはグリーンランド、アフリカ黒人はエスキモーとして登場しますが、メルシュ公爵の「悪」への切り込み方は殆ど悪ふざけのレベルに留まっています。『相続者』が『闇の奥』と同時進行的に書かれたということは、小説家コンラッドにも何とかレオポルドを小説的に押さえ込みたい気持があったことを示しているのかも知れませんが、そうだとすると、これは完全な失敗作です。コンラッド自身、晩年に、あれは下らない作品でコピー一冊持っていないなどと言ったようです。もしかすると、これは小説というものの一つの限界を示しているのかも知れません。レオポルドの時代にコンゴの地に跳梁跋扈して数百万の人命を奪った「悪」の本体は、小説という脆弱な枠の内には捕らえることが出来ないということも考えられます。
 『闇の奥』で、一度蒸気船に収容されたクルツが部屋を抜け出して陸に戻ってしまい、それに追い縋ったマーロウが幽鬼のようなクルツと対決する場面があります。「僕は、このウィルダネスの重苦しい無言の呪縛?とっくに忘れ去られた野獣の本能を呼び覚まし、かつての醜怪な情欲の満足感の記憶を呼び戻すことで、彼をその残忍非情な豊胸に引き寄せようとするかのようなウィルダネスの呪縛を、何とか破ろうとした。この呪縛だけが、森の果てに、叢林の中に、篝火の輝き、太鼓の鼓動、そして妖気迫る呪文の唱和の方へと、彼を駆り立ててやまなかったのだと僕は確信した。この呪縛だけが彼の反逆的な魂を巧みに欺いて、人間に許された願望の限界を踏み越えさせたものに違いない。だからな?君らに分かるかなあ?僕の置かれた状況の恐ろしさは、頭をガンとやられることにあったのではなく?その危険もひしひしと感じてはいたが?むしろ、人間より上位の、あるいは、下位の何かの名において訴えようとしても、それを受け付けない人間を、僕は相手にしなければならないと言う事にあった。僕は、黒人たちと同じように、彼に?軒昂として目眩めく頽廃の中にある彼その人に?呼びかけるより他には手が無かったのだ。彼の上にも、彼の下にも、何も存在しなかった。それは分かっていた。地を蹴って空に舞い、自分を解放したのはよかったが、この男ときたら!立っていた大地そのものまで粉々に蹴り砕いてしまったのだ。そして、彼の前にいる僕までが、地上に立っているのか、中空に浮遊しているのか分からなくなってしまった。」(藤永173-4) これは不条理の極みのような情況です。しかし、これは植民地主義が人間にもたらした恐怖の、地獄の本質ではありません。
 テリー・イーグルトンは近著『The English Novel』(2005年)の中で、帝国主義なるものが、『闇の奥』では「ただ一種の非合理な白日夢(a kind of irrational fantasy)」であるかのように示唆されていて、その結果、『闇の奥』に見られる帝国主義は「目的のはっきりした、歴史的に明瞭に理解され得る一つのシステムとしてではなく、一種の悪夢のような錯乱(a kind of nightmarish aberration)として見られている」が、実際はそれと正反対で、帝国主義ほど「不気味なまでに合理的なものは他にはありえないだろう(nothing could be more grimly rational)」と書いています(原著242頁)。この“grimly rational”な“システム”を押さえ込んでくれる小説は出来ないものでしょうか。

藤永 茂  (2006年8月30日)


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『闇の奥』は暗号文?

2006-08-23 04:30:45 | 日記・エッセイ・コラム
 コンラッド関係の文献を読み漁っていると、1960年代の始め頃からはっきりした形を取りはじめる『闇の奥』擁護論の現在までの歴史的軌跡は、私にとって、ますます興味深いものになりつつあります。
 1960年からの10年間、いわゆるシクスティーズ、は黒人の公民権運動の高まり、ベトナム戦争、ヒッピー世代の出現など、アメリカ史にとっては魔の10年ですが、国連は1960年を「アフリカ年」と宣言し、アフリカ大陸が脱植民地と独立の明るい未来に向かう希望にあふれた10年でもありました。レオポルドの私有植民地だったコンゴの地も「コンゴ共和国」として1960年独立します。1963年、黒人牧師マーチン・ルーサー・キングはアメリカの首都ワシントンで黒人公民権運動の歴史的大デモ行進の先頭に立って「I have a dream」という不朽の言葉を残します。エロイーズ・ヘイの先駆的コンラッド擁護論『コンラッドの政治的小説』が出版されたのは同じ1963年でした。コンラッド専門家や大学の英文学教師たちは、アフリカ問題をテーマにした英文学の古典『闇の奥』に対して、作者コンラッドに対して、黒人の立場から批判の声が早晩あがることを、この1960年代にすでに予感していたのだと思われます。それは、1975年、アチェベの劇的な発言で現実化するのですが、それよりも10年以上も前から本格的な『闇の奥』の弁護が始まったところに、私は強い興味を抱きます。
 『闇の奥』はベルギー国王レオポルド二世の暴虐極まりないコンゴ植民地支配を攻撃しただけではなく、英国の帝国主義を含めたヨーロッパ帝国主義を、ひいては、ヨーロッパ精神文明を鋭く批判した文学作品だと、つい最近まで、執拗に主張してきた英文学者たちは、一体、何を何に対して擁護し、弁護し、弁解しようとしたのでしょうか?『闇の奥』擁護論の軌跡を辿ってみると、問題の本質は普通の意味の文学評論の枠をはみだして、植民地主義論、帝国主義論、ポストコロニアリズムの問題領域に位置していると思われます。フーコー的な言葉使いをすれば、政治的ディスコースとしての文学作品の位置づけということになりましょうか。
 ヘイは彼女の1963年の著書『コンラッドの政治的小説』の中で、Leo Straussというドイツ人の政治哲学者の文章を引いて、奇妙なことを言い出します。シュトラウスは次のような事を書いています。ユダヤ教会の正統教義に違反する考えを抱くユダヤ人神学哲学者の中には、表面的には正統教義を奉じているように見せかけながら、実は異を唱えていることを文章の行間ににじませる人がいる。それを正しく解読出来るのは深い注意力を持った読者に限られる。シュトラウスによると、中世スペインの偉大なユダヤ人宗教哲学者マイモニデス(1135-1204)はその一例で、彼は専ら彼の暗号(ciphers)的な文章を解読(decipher)できる読者を対象にして執筆しました。ヘイはこれを踏まえて、コンラッドもそうした文筆家の一人だと言います。『闇の奥』は、語り手マーロウの人をはぐらかすような語り口や自己撞着を通じて、この作品が内に含む最も重要なメッセージを伝えようとしたコンラッドの特別な小説だ、と言うのです。具体的に言えばこうなります。「マーロウの言うことをそのままナイーブに取れば、たしかにこの小説では大英帝国の植民地経営は讃えられている。しかし、その行間を注意深く読めば、これは全面的な反帝国主義文学の古典的傑作なのだ。」
 暗号を解読出来ない読者には『闇の奥』に秘められたコンラッドの真意はわからないと言われてしまえば、これはもうお手上げです。しかし、コンラッドが賢明な読者にだけ解読出来る暗号文として『闇の奥』を書いたということであれば、「コンラッドは何故わざわざそんな手の込んだことをしたのか」と問いただし、勘ぐってみることは許されるでしょう。まず考えられるのは、ブラックウッド・マガジン(通称マガ)に掲載してもらうのが目的だったという事です。コンラッドは当時英国本土でも海外植民地でも大変ポピュラーだったマガの読者の圧倒的多数が「保守的で帝国主義者の男性」であることをよく心得ていました。コンラッドはマガの出版者あての手紙にこう書いています。「・・・The title I am thinking of is “The Heart of Darkness” but the narrative is not gloomy. The criminality of inefficiency and pure selfishness when tackling the civilizing work in Africa is a justifiable idea.・・・」おやおや、コンラッドは作中のマーロウと同じことを言っているではありませんか!出版者も騙して原稿を売り込む魂胆だったのでしょうか?次に考えられるのは、コンラッド/マーロウを、叔母さんの依頼で、雇ってくれたブリュッセルの貿易会社社長「これぞ偉大なるボスその人」(藤永30)に対する用心です。会社のやっている事をみだりに外部に漏らさないという誓約を一本取られていたのです。「秘書は、いかにも悲しげな、同情に堪えないような顔で、書類を差し出して、僕にサインをさせた。そのなかには商売上の秘密は一切他言しないという誓約があったと思う。だから、今もそれは言わないことにするがね。」(藤永31)。『闇の奥』であからさまにレオポルドやティースやデルコミューンの名前を出せば、誓約違反で訴えられる恐れがありました。実際、フランスのジャーナリストで、筆を滑らせて、ティースに訴えられ、罰金を取られた人物のことが『闇の奥』出版の少し前にニュースになったようです。しかし、コンラッドには、もっと深い配慮があったかもしれません。
 Simon Lewisは『The Violence of the Canons: A Comparison between Conrad’s “Heart of Darkness” and Schreiner’s Trooper Peter Halket of Mashonaland』という興味深い論考の中で、ほぼ同時代にアフリカの植民地問題を文学的主題としたコンラッドとシュライナーの小説を比較して、コンラッドの『闇の奥』は英文学の古典としてますます地位を上げているのに、シュライナーの『マショナランドの騎兵ピーター・ハルケット』の方はほぼ完全に忘れられてしまった理由を鋭く掘り下げています。シュライナーの方は「暗号」を使わず、セシル・ローズの英国植民地経営を、人名地名とも実名を挙げて正面から非難したが、コンラッドの方はそうしたことを一切避けたので、英米の文学的エシュタブリッシュメントに受容されたのだ、というのがルーイスの意見です。
 ちなみに、これは余談になりますが、ヘイが引用したレオ・ストラウスというユダヤ人政治哲学者は、現在ブッシュ政権を牛耳っているオルフォウィッツ、チェーニー、ラムズフェルドなどのネオ・コン指導者たちの崇拝の的になっているそうです。シュトラウスは「those who are fit to rule are those who realize there is no morality and there is only natural right, the right of the superior to rule over the inferior」と考えていたそうです。これがそのまま今のアメリカ政府とイズラエル政府の行動原理になっていると思われます。しかし、このシュトラウスの「強者は弱者を支配すべし」という考えはキプリングの「白人の重荷」という思想にも不気味に重なります。1960年代のほんの暫くの間、白人の罪の反省の意識の一つの表現となりかけていたこの言葉は、その後のアフリカの黒人独立国の惨状を前にして、再び、キプリングの原義のままで語られようとしています。「それ見たことか。白人が支配してやらなければ、黒人はやっぱり駄目だ」という考え方が英文学者の間にも力をもりかえし、居直ろうとしているのではないかと私は恐れます。

藤永 茂 (2006年8月23日)


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オタ・ベンガのこと

2006-08-16 12:02:35 | 日記・エッセイ・コラム
 1906年9月、ニューヨークのブロンクス動物園でコンゴのピグミー族の黒人男性がオランウータンと一緒に檻に入れられて見世物になりました。オタ・ベンガはその黒人の名前で、最近、ニューヨークタイムズの記事になって、アメリカの古い記憶が一つよみがえりました。
 私はオタ・ベンガの事をホックシールドの『レオポルド王の亡霊』(1998年)で知りました。私が訳した『闇の奥』の「訳者あとがき」に書きましたが、私はこの本をフィンケルシュタインの『ホロコースト産業』(2000年出版、邦訳2004年出版、三交社)で知ったのです。まだ邦訳がないのは残念です。ノートン社の『闇の奥』第4版にはその一部が転載されています。本書が私の『闇の奥』再読のきっかけとなった理由は、その序文が良く代弁してくれるので、その一頁を訳出します。
「数年前、たまたま読んでいた本の一つの脚注に目を止めるまで、私はコンゴの歴史についてほとんど何も知らなかった。何かひどく驚かされるような文章に出会うと、それを何処で読んだかをよく憶えていることがあるものだ。この場合は、夜遅くアメリカを東から西へと横断して飛んでいる旅客機の最後部の座席に、身動きもままならず、疲労して座っていた時だった。
 その脚注はマーク・トウェインからの引用で、五百万から八百万の人命を奪ったコンゴでの奴隷労働制に反対する世界的運動に彼が参加していた頃に書かれた文章だとしてあった。世界的運動?五百万から八百万の人命?私はすっかり驚いてしまった。
 大量殺人の統計的数字を確証するのはむつかしいことがしばしばある。しかし、私は考えた。実際の数字がこの半分になったとしても、コンゴは近、現代での大殺戮の舞台の一つであったわけだ。これらの死がわれわれの世紀の恐るべき惨事の数々を唱え上げる連祷の中に出て来ないのは何故なのか?それどころか、これまで私が一度も聞いたことが無かったのは何故なのか?私はこれまで多年にわたって人権問題について書いてきたし、しかも、六回ほどのアフリカの旅の間に、一度はコンゴを訪ねたこともあったのだ。
 訪ねたのは1961年のことだった。レオポルドビルのアパートで、私は一人のCIAの男から話を聞いた。その男は酒の呑み過ぎの常習者だったが、この新しく独立した国の初代の首相パトリス・ルムンバが、数ヶ月前に、何処で、どのようにして殺されたか、その正確なところを、さも満足げに話してくれた。アメリカ合衆国政府が危険な左翼分子の厄介者と考える一人の男が殺されたことで一安心したという彼の気持を、アメリカ人ならば誰でも、それが私のような通りがかりの一人の学生にしても、きっと共有するものと、彼は思い込んでいた。それから一、二日後、朝早く、私はコンゴ河を渡るフェリーでその国を離れた。陽が河面の波の上に昇り、深い色の滑らかな河の水が船体を打っていたが、私の頭の中では彼との会話が鳴り続いていた。
 それから幾十年か後になって、私はあの脚注と出会い、それとともに、コンゴの以前の歴史についての私の無知を思い知らされた。その時,気がついたのだが、他の何百万かの人々と同様、その時代とその場所について、実は、前に私も読んだことがあったのだ。つまり、ジョーゼフ・コンラッドの『闇の奥』を読んでいたのだ。しかしながら、その折の大学の講義ノートは、フロイド風の意味合いとか、神秘的なこだまとか、内面的なヴィジョンとか、そんな事についての走り書きで一杯になっていて、そのノートと一緒に、私は、あの本を、事実ではなく、フィクションとして心理的に片付け、忘れ去ってしまっていたのだった。」
 オタ・ベンガ事件のことは、このホクスチャイルドの本の176頁の脚注にでていますが、詳しい事情は1992年に出版された『OTA The Pygmy in the Zoo』(By Phillips Verner Bradford & Harvey Blume)で知ることが出来ます。オタ・ベンガは、コンゴに入り込んでいたサミュエル・ヴァーナーという牧師兼人類学者兼商売人のアメリカ人が1904年のセントルイス世界大博覧会に連れてきました。そこには「人類館」とでも呼ぶべきパビリオンがあって、エスキモー、アメリカ・インディアン、フィリピン原住民などと一緒にコンゴのピグミー族オタ・ベンガも‘人類学的’展示物となったのでした。博覧会の後、オタ・ベンガはヴァーナーと一緒にコンゴに帰ったのですが、1906年、アメリカに帰国するヴァーナーについてニューヨークにやってきて、出来て間もないブロンクス動物園のアトラクションになったのでした。オタ・ベンガの檻には、オランウータンのほかに動物の骨などを散らかして、オタが食べたものであるように見せかけてあったといいます。展示の初日は1906年9月8日、その翌日には数千人、9月16日の日曜日には4万人が押しかけたと記録されています。やがて、黒人のキリスト教牧師たちの抗議でオタ・ベンガは動物園から他所に移されましたが、1916年3月自殺して果てました。自殺の正確な理由は不明です。
 『オタ 動物園のピグミー』の著者の一人フィリップ・ヴァーナー・ブラットフォードはサミュエル・ヴァーナーの曾孫にあたります。この書物は興味ある事実や写真で一杯です。例えば、コンラッドの『闇の奥』に出て来る“filed teeth”(やすりをかけた歯)の実例の写真もあります。しかし、この本が私を強く刺激するのは、それがアメリカという國の一つの醜い 断面を生々しく露呈しているからです。『闇の奥』とも密接に連関しています。それについては日を改めて論じたいと思います。
 今日は、この1906年のオタ・ベンガ事件に直接つながる日本史上の大きな汚点を想起したいと思います。1903年(セントルイス世界博の一年前!)、大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会に「学術人類館」という名のパビリオンが出来て、そこには琉球人、アイヌ人、台湾の先住民、朝鮮人など、生き身の人間が展示陳列されました。これが「人類館事件」と呼ばれる事件です。明治の日本がヨーロッパの悪業を学び取った速度には全く驚くべきものがあったようです。根本的な反省が必要です。
 ヨーロッパにはこの「人類館」的悪業の長く古い歴史があります。1880年の秋、カナダのラブラドールから8人のエスキモー(イヌイット)がドイツのハンブルグの有名なハーゲンベック動物園の持ち主カール・ハーゲンベックの許に届けられ、丁度珍しい動物を連れて回るように、見世物として、ヨーロッパ中を引き回され、1881年の1月までに、8人ともヨーロッパで疱瘡にかかって死んでしまいました。この経緯についての本が最近カナダのオタワ大学から出版されて、私は初めてこの悲劇を知りました。

藤永 茂  (2006年8月16日)


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文学批評ということ

2006-08-09 10:08:09 | 日記・エッセイ・コラム
 どこで読んだのか忘れてしまいましたが、T. S. エリオットが「批評家というものは、私の詩に、私が思いもしなかった意味を付与してくれる」というようなことを書いていました。コンラッドの『闇の奥』をめぐって、80年間、文学批評家たちが、ああでもない、こうでもない、と際限なく説を立てているのを辿っていると、天国か地獄でコンラッドご当人も面白がって見ているような気がしてなりません。いや、必ずしも面白がってばかりではないかも知れません。批評家の中には、自分の文学的蘊蓄と想像力の凄さを披露するための絶好の踏み台として『闇の奥』の曖昧さを利用しているように見える人々もいます。
 現在、イラクが米国の色々の新兵器を試験的に使ってみる実験場になっている気配がありますが、コンラッドの『闇の奥』は色々の文学理論を適用して批評や解釈をしてみる恰好の実験場になっている気味があります。日本でも、イーグルトンの名著に触発されて、「文学理論」が大いにもてはやされた時期があり、筒井康隆氏の小説『文学部唯野教授』がその流行のシンボルとして話題になったようでしたが、現在ではどうなのでしょうか?唯野教授の文学理論講義の「受容理論」のところに、たしか、スタンリー・フィッシュの名が出ていたように記憶しますが、フィッシュは、かつてアメリカでも盛んだった大学論にもしきりに発言した他に、同じ頃、派手に戦われた「サイエンス・ウォーズ」にも嘴を容れて「自然科学の法則はベースボール・ゲームの規則と何ら変わる所はない」という無茶な発言をして、これには私も、物理学者として、苦笑させられました。
 しかし、フィッシュの唱えた文学理論( reader-response theory の一つの形 )からこの誤った科学論が出てきたのはごく自然なことでした。当時、科学論の分野では「自然科学の真理性は人文科学の真理性と何ら変わる所はなく、すべては社会的に構築されたものである」という説が大手を振ってまかり通っていました。フィッシュの文学理論のエッセンスを大雑把に要約すれば「一つのテキストの解釈は、個々の読者が属する共同体(コミュニティー)の中での主観的経験に左右され、それによって決定される。テキストの意味は、あるコミュニティーの中で生きている読者の内側に存在し、<これが唯一“正しい”解釈>などというものはない」といったことになります。フィッシュならずとも、一つの文学作品の意味が何処かに(out there) 絶対的なものとして存在するという立場をとる文学批評家は現在いないでしょう。内心では、リーヴィス以前、さらには、アーノルド以前の文芸批評に郷愁を感じていても、口には出せないのが現状であろうと思います。もし、そうだとすると、現在も盛んに続いている小説『闇の奥』の弁護論、特に、歯に衣着せぬアチェベ叩きの評論は不思議な現象のように私には思えます。アチェベ叩きの大合唱の本質を一言で言えば、「アチェベの『闇の奥』解釈は間違っている」ということなのですから。今の時代に「これはMISREADINGだ」と極め付けるには大きな覚悟と十分の理由がなければなりません。少なくとも、『闇の奥』を「アチェベは読み誤ったが、ナイポールは正しく読んだ」というようなことは、現代の文学批評家として、コンラッド専門家として、言うべきことではありますまい。しかし、コンラッドの『闇の奥』弁護を試みる人たちの多くがやっているのはこの事です。フィッシュが言うように、批評家とそれが属するコミュニティーの心理的あるいは思想的傾向をよく検討してみる必要があるのでしょう。
 私は『闇の奥』弁護論に、ポストコロニアル論的な視角から、甚大な興味を持っています。このブログでも、<『闇の奥』弁護論史序説>とでもいったタイトルで、ゆっくりと議論を積み重ねて行きたいと思っています。『闇の奥』弁護論も千差万別ですが、その主潮の一つは「『闇の奥』は英国を含めた帝国主義、植民地主義の批判だ」とするものです。これは「マーロウの言うことをそのまま受け取れば、英国批判は含まれていない」という主張に対する反論です。Garret Stewart の論考『Lying as Dying in Heart of Darkness』(PMLA 95(1980): 319-31) は、私がこの小論のはじめに言った「力業」タイプの評論で、『闇の奥』の弁護が主目的ではありませんが、『闇の奥』が英国を含む帝国主義一般の批判になっていると主張する点では、弁護の立場にあります。関連部分を一個所引用します。
Marlow can share in Kurtz’s slaying self-knowledge because “it”?what was left of the man, his neutered “shade” or “wraith”?“it could speak English to me. The original Kurtz had been educated partly in England.” Thus Conrad quietly implicates England, and Marlow as Englishman, in Kurtz’s European hubris and diseased idealism?and of course implicates himself, too, as British-educated master of nonnative English eloquence.
これは可成り強引な解釈です。論じられている部分は、前にも「エロイーズ・ヘイのコンラッド弁護論」の中で引いた、
This initiated wraith from the back of Nowhere honoured me with its amazing confidence before it vanished altogether. This was because it could speak English to me. The original Kurtz had been educated partly in England and ? as he was good enough to say himself ? his sympathies were in the right place. His mother was half-English, his father was half-French. All Europe contributed to the making of Kurtz, and ・・・
ですが、この文章から、英国も、マーロウも、コンラッド自身さえも、同じく断罪されているという解釈を引き出したわけですから。私にはどうも納得できません。

藤永 茂   (2006年8月9日)


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『闇の奥』と『地獄の黙示録』(2)

2006-08-02 05:37:42 | 日記・エッセイ・コラム
 前の<『闇の奥』と『地獄の黙示録』(1)>では小説のマーロウと映画のウィラードとの対比を考えました。勿論、これより大きな問題は小説のクルツと映画のカーツ大佐との対比ですが、小説の中のもう一人の重要人物である中央出張所の支配人(名前は与えられていませんが、モデルとなった人物の名はカミーユ・デルコミューン)はコッポラの映画では誰に当たると考えられるでしょうか?
 Michael Wood はコッポラの『地獄の黙示録』が上映されて間もなく、この映画の本格的な批評をNew York Review of Books (October 11, 1979, 17) に発表しています。私が読んだ『地獄の黙示録』評の中で、これは秀逸の部に属しますが、しかし、私はその主張の内容には同意しかねます。ウッドのポイントは「コッポラとマーロン・ブランドは“深遠”なクルツ/カーツ像を作り上げようと大変な努力をしたが、これは全くの無駄骨、何故なら、ブランドのカーツより先に、コッポラはロバート・デュヴァルの演ずるキルゴアという素晴らしいキャラクターを創造してしまったから。キルゴアこそがカーツなのだ。」というものです。英語原文を断片的に引用します。
He (Coppola) cannot discover the promised “heart of darkness” in the murk of his conclusion, because he stumbled across it much earlier?earlier in the finished film and in the shooting?on a bright, noisy beach strewn with soldiers and helicopters, sheets of flame lighting up the background, as a plausible imitation of napalm devoured the jungle. He went on looking?writing, directing, editing?for the horror he had already found. ……
The trouble is, Coppola has already invented a commanding character who represents all this better than Kurtz does. Lieutenant-Colonel Kilgore, breezily and brilliantly played be Robert Duvall, is in charge of a cavalry regiment which has traded in its horses for helicopters. He wears an old-fashioned cavalry hat, as if he were in a western, and a dashing yellow foulard. ……
Coppola knew what he had got, as his note suggests. But he didn’t know what to do with it, and the soundtrack, immediately after the helicopter raid, identifies the difficulty with startling accuracy. “If that was how Kilgore was fighting the war,” Willard says, “I couldn’t see what they had against Kurtz.”
Kilgore is Kurtz, there is no further horror buried in the depths of a man’s soul or an alien country. The horror is out there on the surface, smiling, drinking, joking, getting on with the job. Kurtz is wherever the war is.
 コッポラとブランドが映像的に、また、ストーリーとして意味のあるクルツ/カーツを創造できなかったという点で、私はウッドと同意見ですが、「キルゴアこそがカーツ」だというウッドの最重要点には全く同意しかねます。コンラッドの『闇の奥』は何よりもまずマーロウとクルツの「旅」と「変貌」の物語の筈です。ダンテが引かれ、ウェルギリウスが引かれ、聖杯伝説が引かれる理由です。また、「ノートン・クリティカル・エディション」の『闇の奥』の第2、3、4版を通じて、唯一生き残って収録されているゲラードの有名な評論が「The Journey Within」と題されている理由でもあります。しかし、キルゴアには「旅」も「変貌」もありません。アメリカの「西部の男」こそがアメリカ人の本質を体現するものであり、キルゴアこそが生粋のアメリカ人です。彼はアメリカの「西部」からベトナムへ、そのままひょいと移されただけであって、何も変わっていません。アメリカ人そのものとしてベトナムの地で横暴の限りを尽くしているだけです。
 こう考えてみると、私としては、『闇の奥』の中央出張所のマネジャー(デルコミューン)と『地獄の黙示録』のキルゴアを対にしてみたくなります。コンラッドはベルギー人に対してかなりネガティブな意見を抱いていたことが知られています。彼はベルギー人を地中海人と一緒に束ねて、アングロ・サクソンよりずっと下に見ていました。コンラッドの小説『進歩に前哨基地』の二人のベルギー人、カイヤールとカルリエ、はもともとダメな男たちでしたが、デルコミューンやティースやレオポルドはベルギー人としてしたたかな男たちで、ベルギー本国であろうとコンゴであろうと、陰険な悪魔として、その本領を発揮します。この意味で、『地獄の黙示録』のキルゴアは『闇の奥』の中央出張所支配人(デルコミューン)と対比させるのが妥当であろうと私は考えます。つまり、デルコミューンもキルゴアも本国仕立てのDARKNESS をコンゴ/ベトナムに持ち込んだ人物です。

藤永 茂 (2006年8月2日)


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