私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

エリオットもアチェベも勘違いした(1)

2006-02-22 19:16:54 | 日記・エッセイ・コラム
   コンラッドは、「闇の奥」の中で、アフリカの原住民に獣のような叫び声を挙げさせる一方、言葉で自己表現する機会はただの二回しか与えていません。一回目は、徴用された人食い人種のリーダー格の黒人が放つ [Catch ’im], [Catch ’im, Give ’im to us], [Eat ’im] という三つの言葉、二回目は、支配人付きのボーイがクルツの死を皆に知らせる [Mistah Kurtz ? he, dead]という言葉、この四つですべてです。ボーイの言葉はエリオットが彼の詩「うつろな男たち」の題詞に使ったので有名になりましたが、これまたすっかり有名になったチヌア・アチェベの「闇の奥」批判を読むと、彼はこの四つの発言が英語でなされたと思っていたことが分かります。この他にベニタ・パリーや吉本和弘氏も原始人としての黒人が、僅かとはいえ、片言の英語で話をした事に意義を見ています。しかし、この四つの発言はすべて片言のフランス語だったと考えるべきだと私は思います。
 ベルギーの首都ブリュッセルの郊外のテルビューレンに国王レオポルド二世が建てた王立中央アフリカ博物館があり、この種の博物館としては世界最大の規模を誇ります。展示物の説明はフランス語とオランダ語だけで、英語の説明はありません。2005年の2月4日から10月9日まで「コンゴの記憶:植民地時代」と題する特別展が開かれました。明らかに国際的な関心を意識した催しでしたが、その公式のカタログはフランス語版とオランダ語版しかありませんでした。コンラッドの時代にベルギー領コンゴで使われた外国語はフランス語です。原住民の黒人で、簡単なフランス語を学ばされて各種の仕事に使役され、また他の無教育な黒人たちと黒人たちの言葉を知らない白人たちとの間の意思の疎通の役を担った人たちはフランス語でevoluéと呼ばれていました。「闇の奥」の中では、黒人の缶焚き、舵手、支配人のボーイ、それに人食い人種のリーダー格の黒人がその例です。
 コンラッドの文章からは、コンゴ河を遡る一行の構成は白人五人に人食い人種三十人で、その全部が小さな蒸気船に乗っていたかのような印象を受けますが、実際はそうではありませんでした。二十人ほどの黒人は航行の途中で徴用されたことになっていますが、彼らの主な仕事は、時々陸に上がって燃えそうな木々を集めて蒸気エンジンの燃料を調達することで、船が浅瀬に乗り上げると水に入って船を押すこともよくあったようです。燃料の木材はカヌーに乗せて蒸気船が曳航し、それに黒人が乗せられることもあり、また、夜間は陸に上げられて、そこで寝ていました。こうした黒人はコンゴ河中流域(北部コンゴ)のバンガラ地方の原住民ということになっていますが、人食い人種バンガラという呼び名には問題があります。これについては後日また取り上げますが、「闇の奥」の研究者たちがバンガラ地方と呼ぶ地域は当時フランスとベルギーの勢力圏内で、そこから徴用された黒人たちに押し付けられた外国語が圧倒的にフランス語であったことは間違いありません。Z.Najderはコンラッドのコンゴにっいての最高の権威者ですが、彼ははっきりと「everybody around spoke French」と書いています。この点を踏まえておいて、コンラッドの「闇の奥」の中での英語とフランス語の問題を文章内容に密着しながら検討していきたいと思います。

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コンラッドの「闇の奥」を読む

2006-02-15 20:48:02 | 日記・エッセイ・コラム
ポストコロニアルという言葉、何とはなしに世界の現状に対応しているかのようにひびくこの言葉は、世界史の時空で途絶えることなく綿々と続いているコロニアリズムを巧みにごまかし、覆い隠す役目を果たしています。1975年のチヌア・アチェベの抗議に端を発したコンラッドの「闇の奥」をめぐる盛んな論議は、この問題に深く深くかかわっています。
この小説の新訳を出版(三交社)する機会をとらえて、私はこの小説をたたき台にして、色々な話題を取り上げ、日本のコンラディアンの方々のご意見を伺いたいと思います。よろしくお願いします。

まず最初の演題は「エリオットもアチェベも勘違いした」です。「闇の奥」の中で黒人たちが口にするコトバーその最も有名なのは「Mistah Kurtz?he dead」ーが片言の英語であったと二人とも思ったようですが、それらは片言のフランス語で発せられたものをコンラッドが英語に移したものと私は考えます。その詳しい理由は次の機会に。

藤永 茂

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