私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

サハロフとオッペンハイマー

2024-06-23 19:21:50 | 日記
 サハロフがすっかり好きになりました。尊敬するという言葉では足りません。 アンドレイ・サハロフはソ連で一生懸命になって水爆を作った物理学者です。NHKの「世界のドキュメンタリー」番組で『サハロフ 祖国と戦った“水爆の父”』という大変興味深い記録映画が放映されました。今のロシアに「サハロフ資料館」という立派な建物があって、その館長の女性と、おそらくサハロフをよく知っていたと思われる年配の物理学者が説明の任に当たっています。

 ソ連でオッペンハイマーにあたる人物はクルチャトフです。ソ連の原爆(核分裂爆弾)はロスアラモスから盗んだ情報を大いに活用して製造されたと思われますが、ソ連の水爆(核融合爆弾)の方は、政府から命令されて、懸命の努力でサハロフ達が独自に作り上げたものでした。米国のエドワード・テラー達の水爆より優れていました。
 オッペンハイマーは自分が原爆の産みの親(産婆!?)になった後、水爆の製造には執拗に反対しました。サハロフは水爆製作の功績で国家から最高の勲章を授けられた祝典のその場で「この爆弾が人間の住む都市の上で爆発することが決して無いように」という内容の発言をして、祝典の場をすっかり白けさせ、政府高官達の不興を買ってしまいます。しかし、その後も、サハロフは水爆不使用の主張を声高に続けたので、ソ連政府はそれまでにサハロフに与えた三つの最高勲章を取り上げ、ゴーリキーの地に送って流罪禁固の刑を科しました。

 今回視聴したドキュメンタリーで私が痛く感銘したのは、流刑先で行ったサハロフの二度のハンガーストライキ行為です。一度目はソ連国外に住んでいた息子の婚約者が息子と一緒になるために出国しようとしたときに当局が許可を出さないのでこれに抗議するためのハンスト行為でした。困惑した当局はやむなく許可を出して、めでたし、めでたし。2回目は、妻のボンネルさんが難病の治療を受けるための出国を勝ち取るハンスト、これで有名な流刑罪人に餓死されては一大事と当局側は大慌て、サハロフの口を無理にこじ開けて食物を流し込む始末、これもサハロフの勝利に終わりました。ここには、身近な「隣人」のために自らの命を賭ける一人の男がいました。まあ観てください。

 このドキュメンタリー映画の中でサハロフは奇妙な数式を持ち出します。それは、
  (真実)の平方根=(愛)
というものです。何の事やらわかりません。しかし、どこかで、アルベール・カミュが唱えた「まだ定義されてないある種の(愛)」と繋がっているような気がします。晩年のオッペンハイマーが、しきりに口にした(愛)、哲学者ヤスパースや才女マッカーシーの嘲笑の的になったあの(愛)にも繋がっているのではありますまいか。

 アンドレイ・サハロフを赦免して流刑の地ゴーリキーからモスコアに呼び戻したのは、これまた、私の大好きなゴルバチョフです。一種のやり損ないのような形でソヴィエト連邦を壊してしまったミハイル・ゴルバチョフです。今日6月23日は、たまたま、沖縄終戦慰霊の日、「ぬちどうたから(命こそ宝)」を思うべき日です。ゴルバチョフも同じことを言い残して亡くなりました。

 サハロフは希有の強烈な個性を持った人間でした。それに比べるとオッペンハイマーは普通の人間、凡人でした。最近、NHK・NEWSで『オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる』と題する報道がなされました:

 
この記事の前半一部の文章を転載させて頂きます:
 
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原爆の開発を指揮した理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、「涙を流して謝った」と、立ち会った通訳が証言している映像が広島市で見つかりました。専門家は「実際に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに聞いたというのは大きな意味がある」としています。ロバート・オッペンハイマーは、第2次世界大戦中のアメリカで原爆の開発を指揮した理論物理学者で、原爆投下による惨状を知って苦悩を深めたと言われていますが、1960年に来日した際は、被爆地を訪れることはなかったとされています。

今回見つかった映像資料は、1964年に被爆者などが証言を行うためにアメリカを訪問した際、通訳として同行したタイヒラー曜子さんが2015年に語った内容を記録したもので、広島市のNPOに残されていました。この中でタイヒラーさんは、訪問団の1人で、広島の被爆者で理論物理学者の庄野直美さんなどが非公表でオッペンハイマーと面会した際の様子について「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」と述べています。
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 評判のハリウッド映画ノーラン監督の『オッペンハイマー』を観た人は、広島原爆成功の報に接したロスアラモスの所員たちが足を踏み鳴らしてオッペンハイマーの登場を迎え、満面得意のオッピーが“I am sure  that the Japanese didn’t like it ”と語る場面を憶えているでしょう。この場面は、ノーラン監督が映画のソースとしてはっきり公言している  カイ・バードとマーティン・シャーウィン著の『アメリカン・プロメテウス』の英語原本316頁から取ったものです。この満面得意のオッピーと、タイヒラー曜子さんが語る、「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」というオッピーとは、どうしてもつながりません。しかし、『アメリカン・プロメテウス』の英語原本の次の頁、317頁を読めば、実は、つながるのです。ノーラン監督はすっかり無視してしまいましたが、そこには、NAGASAKI被曝の報に接したオッピーについて「An FBI informant reported on August 9 that Oppie was a “nervous wreck.”」
と書いてあります。nervous wreckとは神経がまいって虚脱状態の人のことを意味しています。タイヒラー曜子さんの話と確かにつながるオッペンハイマーがここにいます。
 
 サハロフは超人、オッペンハイマーは凡人、比較になりません。しかし、私の心の中には、「比較して何の意味がある」という声があります。「一つの命がもう一つの命より尊いということはない」という、どうしようもない、強い声があります。我々すべてに必要なのは、「平和」と「愛」です。

藤永茂(2024年6月23日、沖縄慰霊の日)

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3 コメント

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広島訪問 (大橋晴夫)
2024-10-03 21:32:16
藤永ブログサハロフとオッペンハイマー2024.06.23.に、オッペンハイマーは「1960年に来日した際は、被爆地を訪れることはなかったとされています。」というNHK・NEWSからの引用がある。妙な表現である。
藤永ブログを遡ってみると、関係する二つの記事に出会った。ひとつは藤永ブログ核廃絶は政治を超える2016.04.19.で、いまひとつは藤永ブログ広島訪問:ゲバラ、カストロ、そして、オバマ2010.04.14.である。
キューバ革命成功から半年も経たない1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの経済使節団(総勢6名)の団長として、日本を訪れました。当時の日本ではゲバラの名を知るものは少なく、到着を報じたのは朝日新聞だけだったそうです。トヨタ自動車の工場を訪れたり、時の通産大臣池田勇人と短時間会ったりしたようですが、ゲバラは始めから広島訪問を希望したけれども、日本政府は彼の滞在日程に含めることをしませんでした。大阪を視察した7月24日の夜、彼は、腹心二人を連れて、夜行列車に乗って広島訪問を敢行します。とにかく、原爆が初めて投下された広島の地を自分の足で踏みしめ、そこで原爆の意味を考えてみたかったのです。何かの政治的計算があったと勘ぐる余地は全くありません。その意味で、ゲバラの広島訪問は感動に値します(藤永ブログ2010.04.14.)。
 政治的計算について、藤永氏は2016年のブログ記事で次のように続ける。
 私見ですが、広島も長崎も、オバマ大統領を進んで招致すべきではありません。たとえ彼が何らかのギミックで広島、長崎で原爆犠牲者慰霊のポーズをとったにしても、彼の脳裏に政治的な計算以外のものがあるはずがありません。彼には慰霊の資格がありません。「米国大統領の来訪そのものが、世界の反核運動の促進に、ひいては核廃絶に役立つ」という考えがあるとすれば、私はそれにも反対します。核廃絶を政治の場の問題として考えていては、核廃絶は達成できないでしょう。
 また藤永氏は次のようにも続けている。核問題は文明の問題、我々の大部分がその中で息づいている文明の問題です。理論物理学者ロバート・オッペンハイマーが嘆いたように、「核軍備をゲーム理論的な勝ち負けの問題としてしか考えない文明」の問題であります。
 ゲバラが広島を訪れたおよそ一年後にオッペンハイマーは来日し、堀田善衛は東京の国際文化会館で数時間会談した(歴史の長い影所収・往復書簡六・筑摩書房1986年152~157頁)。当時、堀田は「零から数えて」を書き終え, 「審判」を執筆中であった。
 会談のおり、堀田はセザンヌの「トランプをする男たち」を材料に、後に若気のいたりと反省する大エンゼツをうち、「あなたはヒロシマへ行くべきだ」と伝えた。オッペンハイマーの母親は画家で実家にはセザンヌなどが掲げられていた。堀田は往復書簡六を書くころ(1984年)には、「セザンヌは私には怖い画家である。あの画布の裏に、何か怖ろしい思想がかくされている、とまでは思うのであるけれども、それが何であるか、如何なるものであるかが私にはつかめないのである。」(日々の過ぎ方所収・もう一つ、南仏昨今・新潮社1984年118頁)と語っている。
堀田はサンスクリット語を通じてみた古インドの知恵や執筆中の「審判」に組み込んだギリシャ悲劇と能の舞台の比較などを語り合い、「あなたはヒロシマへ行くべきだ」と伝えたあと「何も広島駅に下り立つ必要はない、神戸からでも岡山からでも車でおいでになればそれでよろしい」、と付け加えた。堀田は会談後まもなく朝日新聞に短い記事を、1984年には往復書簡六を書いている。オッペンハイマーは東京・大阪・京都を訪れた。「被爆地を訪れることはなかったとされています」という記述の妙は堀田の記事とどのように関わっているのだろう。オッペンハイマー来日時には藤永氏によって指摘される妙((藤永ブログカール・ヤスパースのオッペンハイマー批判2024.05.23.)もある。キッシンジャーも関わっていたのか、ゲバラが関わっていたのか。
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オッペンハイマーの広島訪問 (藤永茂)
2024-10-05 20:12:49
>大橋晴夫 さんへ

オッペンハイマーの広島訪問について

大橋晴夫さんから貴重なコメントを頂きました。この機会に、改めて、これまで数多の重要な内容のコメントを頂きましたことを深く感謝いたします。今回のコメントで教えて頂いた堀田善衛氏の「往復書簡」は全く存じませんでした。私の記憶では、オッペンハイマーの訪日のすぐ後にキッシンジャーも訪日しており、オッペンハイマーが広島を訪れて「米国にとって好ましくない事」を言う可能性を恐れて、釘を刺したのではないかと想像して居ました。
 オッペンハイマーの訪日(1960年9月)の報道写真として最もよく知られているのはオッペンハイマーの愛弟子(水難事故で死亡、1915-1947)の一人であった日下周一さんの御両親との面会の場面ですが、彼はそういうことを大事にする人間であったのです。
本年2024年7月、広島テレビが、日本の物理学者庄野直美さん(1925−2012)が渡米してオッペンハイマーと面会した時、通訳として同行したタイヒラー曜子さんは、「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマー氏は、涙ぼうだたる状態になって。『ごめんなさい、ごめんなさい』と、本当に謝るばかりだった。」と伝えました。庄野直美さん(広島出身)は九州大学理学部物理学教室の一年先輩でよく存じ上げておりました。広島被爆の3日後に福岡から広島に行き、被爆されました。オッペンハイマーは、広島と長崎を訪れて、自分が犯した、そして物理学者達が犯した重い罪を心がら謝りたかったのだろうと、私は勝手に想像しています。

藤永茂(2024年10月5日)
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広島訪問その2 (大橋晴夫)
2024-10-17 15:10:26
被団協にノーベル平和賞。それを報じるニュースにはオバマがしきりと紹介される。核廃絶を訴えてきた被団協の受賞に、ふさわしくないものが修飾として使われている。歴史的検証をおこたるマスコミ報道部門の不勉強が露呈しているようだ。
藤永ブログにはオバマに関する多数の記事がある。核政策に関する[号外]オバマ大統領は反核ではない2010.02.17.はとりわけ重要で、藤永ブログ記事核廃絶は政治を超える2016.04.19.にも多くが引用されている。ブログ・サイトにトラブルがなければ二度目の引用、三度目の掲載がなされたであろう。
藤永氏は「私見ですが、広島も長崎も、オバマ大統領を進んで招致すべきではありません。たとえ彼が何らかのギミックで広島、長崎で原爆犠牲者慰霊のポーズをとったにしても、彼の脳裏に政治的な計算以外のものがあるはずがありません。」との記述とともに、グレッグ・メロの論文を紹介されている。・・・昨年(2009年)4月、プラハで、オバマ大統領は、大幅の核軍縮を公約したものと多くの人々が解釈した講演をおこなった。しかしながら、今や、ホワイトハウスは核弾頭出費の歴史で大きな増額の一つを要請している。もしその要請の全額が認められると、核弾頭出費はこの一年で10%あがり、将来にはさらなる増額が約束されることになる。オバマの大盤振る舞いの最大の目標であるロス・アラモス国立研究所は、1944年以来最大の、22%の予算増加を見ることになるだろう。とりわけ、新しいプルトニウム“ピット”製造工場コンプレックスに対する出費は2倍以上にのぼり、今後10年間、新しい核兵器の生産に打ち込むことを明確に示している。・・・
オッペンハイマーの重要な思想のひとつ、「国家が望まなかったら、国会が財政措置を行わなかったら、核兵器は実現しなかった(ちくま学芸文庫421頁)」が思い出される。「ロバート・ケネディは、ジョンソン大統領が核兵器の漸減政策を打ち出すべきだと言っているが、あなたはどう思いますか」という質問に答えて、オッペンハイマーは「もう二十年手おくれだ。トリニテイの翌日にそうすべきだった」と苛立たしげに言い捨てた。(ちくま学芸文庫422頁)ともある。
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