第3話のタイトルは「トーマス・ピーターズ」。今度もまた黒人の名前です。
「自由」黒人のための英国植民地シエラレオネへの第1次入植は、前回お話ししたとおり、天災人災に見舞われて、壊滅すれすれの所まで追い詰められましたが、主唱者の信念の男グランヴィル・シャープは諦めず、その立て直しに全力で取り組みました。その彼の前に、まるでシエラレオネ計画の救いの神のような剛毅の黒人トーマス・ピーターズが現われ、英領カナダ大西洋沿岸の土地ノヴァスコシアから、新しく千人を超える自由黒人の移民がシエラレオネに送られて、やっと植民事業の足が地に着くことになります。
1783年アメリカ独立戦争で英国側の敗北が決定的になり、英国側に止まった農園主などの一般白人とその奴隷黒人、英軍白人兵士、それに奴隷の身分からの解放を約束されて英軍と共に戦った黒人とその家族が英領カナダのノヴァスコシアに集団移住しました。そこで新しい自由な生活を夢見た解放奴隷黒人の数は3千人に及んだとされています。
地図を見れば分かりますが、ノヴァスコシアはボストンやニューヨークから海に出れば東北に四、五百キロの距離にあります。未開墾の土地はたっぷりありましたが、敗戦で失った土地や資産に基づいて、補償的に割り当てが行われたので、「奴隷」という身分以外には失うもののなかった黒人たちは、最低限の、しかも、ひどい荒れ地しか貰えず、その上、税は課せられたのに投票権は与えられませんでした。当時のノヴァスコシアでは未だ奴隷売買は合法で、新聞に奴隷の広告が出ていましたし、数年経つうちに、自作農として生きる望みを失った自由黒人たちは劣悪な条件を呑んで年期奉公者となり、実際上、奴隷と等しい身分に逆戻りするような窮境に追い込まれて行きました。北のカナダの地の厳しい寒さもアフリカ出の黒人たちにはひどくこたえたに違いありません。ノヴァスコシアが彼らの夢見た「自由の地」ではないことは否定の余地のない事実として黒人たちの胸に重くのしかかって来たのでした。
アメリカ独立戦争が始まった時、トーマス・ピーターズは北カロライナ州の大農園主の奴隷でしたが、1776年、逃亡して英軍に参加して二度も負傷し、終戦時には下士官にまで昇進していました。ノヴァスコシアに来てからは製粉所の機械工として働いていましたが、土地もなく職業もない多くの元奴隷の黒人たちの窮境を見るに見かねていたピーターズは、1790年の暮れ近く、途中で奴隷商人に捕まえられて売り飛ばされる危険を冒しながら、苦労して英国に渡り、ロンドンで元の北米英軍の上官を探し当てます。その上官の紹介でピーターズはアメリカ独立戦争の英軍総司令官にも面会し、グランヴィル・シャープや英国議会の奴隷貿易廃止論者の議員たちにも会うことが出来ました。前回お話ししたオラウダ・エクイアノにも会ったと思われます。ピーターズはシャープに事細かにノヴァスコシアでの黒人たちの受難の話をし、それを聞きながらシャープは気分が悪くなるほどであったと伝えられています。一方、シエラレオネ植民地を、英国の奴隷解放運動のシンボルとして、また同時に有望な植民地投資の対象として、成功させようとする Thomas Clarkson 等の有力者たちは、トーマス・ピーターズの力を利用してノヴァスコシアの黒人たちをシエラレオネに第2次の移民団として送り込むアイディアに熱を上げることになりました。ピーターズは英国に渡る前に「自由の地」シエラレオネの噂を耳にしてはいましたが、彼の渡英の第一の目的は、英国政府に独立戦争中の約束を履行させて、ノヴァスコシアの黒人の窮状を打開することにあったと思われます。しかし、すでに民間の植民地開発会社シエラレオネ・カンパニーが設立され、トーマス・クラークソンなど多くの人々がその株式に投資している状況を見たピーターズは、ノヴァスコシアに帰って出来るだけ多くの自由黒人を説得し、自らその先頭に立つ指導者として、シエラレオネへの集団移住を成功させようと心に決めました。ロンドンで移住事業について十分の根回しを終えたピーターズは、1791年の夏、沸き立つ思いでノヴァスコシアに帰り、移住志願者の獲得に励み、千人を優に越す応募者を集めることが出来ました。これはロンドンのシエラレオネ・カンパニーがせいぜい2百人余りと見当を付けていた数を遥かに上回る成果でした。ピーターズは五十余歳の熟年、ロンドンでの9ヶ月間には白人有力者の間で泳ぐ術も身に付けて、北米大陸の元奴隷たちの大集団をアフリカ大陸に自由の身として送り戻すという歴史的事業の総指揮をとる自信を固めていたに違いありません。
しかしながら、シエラレオネ・カンパニーの幹部たちは、黒人にその栄光の地位を与え、その下で白人社員が働くという構図を容認するつもりはありませんでした。有力者トーマス・クラークソンの弟で弱冠27歳のジョン・クラークソンが総指揮官の地位に就きました。これでは若造のジョンと黒人入植者のすべてが指導者として仰ぐトーマス・ピーターズとの間の軋轢は始めから保証されていたのも同然でした。
1792年1月15日、1196(あるいは1192)人の黒人の老若男女を乗せた15隻の船からなる移民船団はノヴァスコシアの港ハリファックスを出港しましたが、間もなく冬の大西洋は荒れに荒れて、途中で65人が死亡、ジョン・クラークソンも一時は死んだかと思われるような病状に陥りました。船団がシエラレオネについたのは1792年3月7日でした。着いてからも、黒人たちはトーマス・ピーターズを彼らの指導者とすることを主張し、ごたごたが続きましたが、ピーターズが突然病気になり死んでしまったので、騒ぎは沈静化に向かいました。シエラレオネ・カンパニーには、黒人たちに一種の民主的自治形態を与えるつもりではありましたが、黒人を白人と対等に扱うということは、当時の白人には、考えられないことであったのです。シエラレオネ・カンパニーは植民地経営の中心、つまり、シエラレオネの首都をフリータウンと命名しました。今、歴史的に振り返ってみると、空々しい名称であったと言うほかはありません。怒りと失意のなかで亡くなった黒人トーマス・ピーターズこそ英国植民地シエラレオネの真のいしずえを築いた人物であったのです。
藤永 茂 (2007年5月30日)
「自由」黒人のための英国植民地シエラレオネへの第1次入植は、前回お話ししたとおり、天災人災に見舞われて、壊滅すれすれの所まで追い詰められましたが、主唱者の信念の男グランヴィル・シャープは諦めず、その立て直しに全力で取り組みました。その彼の前に、まるでシエラレオネ計画の救いの神のような剛毅の黒人トーマス・ピーターズが現われ、英領カナダ大西洋沿岸の土地ノヴァスコシアから、新しく千人を超える自由黒人の移民がシエラレオネに送られて、やっと植民事業の足が地に着くことになります。
1783年アメリカ独立戦争で英国側の敗北が決定的になり、英国側に止まった農園主などの一般白人とその奴隷黒人、英軍白人兵士、それに奴隷の身分からの解放を約束されて英軍と共に戦った黒人とその家族が英領カナダのノヴァスコシアに集団移住しました。そこで新しい自由な生活を夢見た解放奴隷黒人の数は3千人に及んだとされています。
地図を見れば分かりますが、ノヴァスコシアはボストンやニューヨークから海に出れば東北に四、五百キロの距離にあります。未開墾の土地はたっぷりありましたが、敗戦で失った土地や資産に基づいて、補償的に割り当てが行われたので、「奴隷」という身分以外には失うもののなかった黒人たちは、最低限の、しかも、ひどい荒れ地しか貰えず、その上、税は課せられたのに投票権は与えられませんでした。当時のノヴァスコシアでは未だ奴隷売買は合法で、新聞に奴隷の広告が出ていましたし、数年経つうちに、自作農として生きる望みを失った自由黒人たちは劣悪な条件を呑んで年期奉公者となり、実際上、奴隷と等しい身分に逆戻りするような窮境に追い込まれて行きました。北のカナダの地の厳しい寒さもアフリカ出の黒人たちにはひどくこたえたに違いありません。ノヴァスコシアが彼らの夢見た「自由の地」ではないことは否定の余地のない事実として黒人たちの胸に重くのしかかって来たのでした。
アメリカ独立戦争が始まった時、トーマス・ピーターズは北カロライナ州の大農園主の奴隷でしたが、1776年、逃亡して英軍に参加して二度も負傷し、終戦時には下士官にまで昇進していました。ノヴァスコシアに来てからは製粉所の機械工として働いていましたが、土地もなく職業もない多くの元奴隷の黒人たちの窮境を見るに見かねていたピーターズは、1790年の暮れ近く、途中で奴隷商人に捕まえられて売り飛ばされる危険を冒しながら、苦労して英国に渡り、ロンドンで元の北米英軍の上官を探し当てます。その上官の紹介でピーターズはアメリカ独立戦争の英軍総司令官にも面会し、グランヴィル・シャープや英国議会の奴隷貿易廃止論者の議員たちにも会うことが出来ました。前回お話ししたオラウダ・エクイアノにも会ったと思われます。ピーターズはシャープに事細かにノヴァスコシアでの黒人たちの受難の話をし、それを聞きながらシャープは気分が悪くなるほどであったと伝えられています。一方、シエラレオネ植民地を、英国の奴隷解放運動のシンボルとして、また同時に有望な植民地投資の対象として、成功させようとする Thomas Clarkson 等の有力者たちは、トーマス・ピーターズの力を利用してノヴァスコシアの黒人たちをシエラレオネに第2次の移民団として送り込むアイディアに熱を上げることになりました。ピーターズは英国に渡る前に「自由の地」シエラレオネの噂を耳にしてはいましたが、彼の渡英の第一の目的は、英国政府に独立戦争中の約束を履行させて、ノヴァスコシアの黒人の窮状を打開することにあったと思われます。しかし、すでに民間の植民地開発会社シエラレオネ・カンパニーが設立され、トーマス・クラークソンなど多くの人々がその株式に投資している状況を見たピーターズは、ノヴァスコシアに帰って出来るだけ多くの自由黒人を説得し、自らその先頭に立つ指導者として、シエラレオネへの集団移住を成功させようと心に決めました。ロンドンで移住事業について十分の根回しを終えたピーターズは、1791年の夏、沸き立つ思いでノヴァスコシアに帰り、移住志願者の獲得に励み、千人を優に越す応募者を集めることが出来ました。これはロンドンのシエラレオネ・カンパニーがせいぜい2百人余りと見当を付けていた数を遥かに上回る成果でした。ピーターズは五十余歳の熟年、ロンドンでの9ヶ月間には白人有力者の間で泳ぐ術も身に付けて、北米大陸の元奴隷たちの大集団をアフリカ大陸に自由の身として送り戻すという歴史的事業の総指揮をとる自信を固めていたに違いありません。
しかしながら、シエラレオネ・カンパニーの幹部たちは、黒人にその栄光の地位を与え、その下で白人社員が働くという構図を容認するつもりはありませんでした。有力者トーマス・クラークソンの弟で弱冠27歳のジョン・クラークソンが総指揮官の地位に就きました。これでは若造のジョンと黒人入植者のすべてが指導者として仰ぐトーマス・ピーターズとの間の軋轢は始めから保証されていたのも同然でした。
1792年1月15日、1196(あるいは1192)人の黒人の老若男女を乗せた15隻の船からなる移民船団はノヴァスコシアの港ハリファックスを出港しましたが、間もなく冬の大西洋は荒れに荒れて、途中で65人が死亡、ジョン・クラークソンも一時は死んだかと思われるような病状に陥りました。船団がシエラレオネについたのは1792年3月7日でした。着いてからも、黒人たちはトーマス・ピーターズを彼らの指導者とすることを主張し、ごたごたが続きましたが、ピーターズが突然病気になり死んでしまったので、騒ぎは沈静化に向かいました。シエラレオネ・カンパニーには、黒人たちに一種の民主的自治形態を与えるつもりではありましたが、黒人を白人と対等に扱うということは、当時の白人には、考えられないことであったのです。シエラレオネ・カンパニーは植民地経営の中心、つまり、シエラレオネの首都をフリータウンと命名しました。今、歴史的に振り返ってみると、空々しい名称であったと言うほかはありません。怒りと失意のなかで亡くなった黒人トーマス・ピーターズこそ英国植民地シエラレオネの真のいしずえを築いた人物であったのです。
藤永 茂 (2007年5月30日)