私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

英国植民地シエラレオネの歴史(3)

2007-05-30 09:44:20 | 日記・エッセイ・コラム
 第3話のタイトルは「トーマス・ピーターズ」。今度もまた黒人の名前です。
 「自由」黒人のための英国植民地シエラレオネへの第1次入植は、前回お話ししたとおり、天災人災に見舞われて、壊滅すれすれの所まで追い詰められましたが、主唱者の信念の男グランヴィル・シャープは諦めず、その立て直しに全力で取り組みました。その彼の前に、まるでシエラレオネ計画の救いの神のような剛毅の黒人トーマス・ピーターズが現われ、英領カナダ大西洋沿岸の土地ノヴァスコシアから、新しく千人を超える自由黒人の移民がシエラレオネに送られて、やっと植民事業の足が地に着くことになります。
 1783年アメリカ独立戦争で英国側の敗北が決定的になり、英国側に止まった農園主などの一般白人とその奴隷黒人、英軍白人兵士、それに奴隷の身分からの解放を約束されて英軍と共に戦った黒人とその家族が英領カナダのノヴァスコシアに集団移住しました。そこで新しい自由な生活を夢見た解放奴隷黒人の数は3千人に及んだとされています。
 地図を見れば分かりますが、ノヴァスコシアはボストンやニューヨークから海に出れば東北に四、五百キロの距離にあります。未開墾の土地はたっぷりありましたが、敗戦で失った土地や資産に基づいて、補償的に割り当てが行われたので、「奴隷」という身分以外には失うもののなかった黒人たちは、最低限の、しかも、ひどい荒れ地しか貰えず、その上、税は課せられたのに投票権は与えられませんでした。当時のノヴァスコシアでは未だ奴隷売買は合法で、新聞に奴隷の広告が出ていましたし、数年経つうちに、自作農として生きる望みを失った自由黒人たちは劣悪な条件を呑んで年期奉公者となり、実際上、奴隷と等しい身分に逆戻りするような窮境に追い込まれて行きました。北のカナダの地の厳しい寒さもアフリカ出の黒人たちにはひどくこたえたに違いありません。ノヴァスコシアが彼らの夢見た「自由の地」ではないことは否定の余地のない事実として黒人たちの胸に重くのしかかって来たのでした。
 アメリカ独立戦争が始まった時、トーマス・ピーターズは北カロライナ州の大農園主の奴隷でしたが、1776年、逃亡して英軍に参加して二度も負傷し、終戦時には下士官にまで昇進していました。ノヴァスコシアに来てからは製粉所の機械工として働いていましたが、土地もなく職業もない多くの元奴隷の黒人たちの窮境を見るに見かねていたピーターズは、1790年の暮れ近く、途中で奴隷商人に捕まえられて売り飛ばされる危険を冒しながら、苦労して英国に渡り、ロンドンで元の北米英軍の上官を探し当てます。その上官の紹介でピーターズはアメリカ独立戦争の英軍総司令官にも面会し、グランヴィル・シャープや英国議会の奴隷貿易廃止論者の議員たちにも会うことが出来ました。前回お話ししたオラウダ・エクイアノにも会ったと思われます。ピーターズはシャープに事細かにノヴァスコシアでの黒人たちの受難の話をし、それを聞きながらシャープは気分が悪くなるほどであったと伝えられています。一方、シエラレオネ植民地を、英国の奴隷解放運動のシンボルとして、また同時に有望な植民地投資の対象として、成功させようとする Thomas Clarkson 等の有力者たちは、トーマス・ピーターズの力を利用してノヴァスコシアの黒人たちをシエラレオネに第2次の移民団として送り込むアイディアに熱を上げることになりました。ピーターズは英国に渡る前に「自由の地」シエラレオネの噂を耳にしてはいましたが、彼の渡英の第一の目的は、英国政府に独立戦争中の約束を履行させて、ノヴァスコシアの黒人の窮状を打開することにあったと思われます。しかし、すでに民間の植民地開発会社シエラレオネ・カンパニーが設立され、トーマス・クラークソンなど多くの人々がその株式に投資している状況を見たピーターズは、ノヴァスコシアに帰って出来るだけ多くの自由黒人を説得し、自らその先頭に立つ指導者として、シエラレオネへの集団移住を成功させようと心に決めました。ロンドンで移住事業について十分の根回しを終えたピーターズは、1791年の夏、沸き立つ思いでノヴァスコシアに帰り、移住志願者の獲得に励み、千人を優に越す応募者を集めることが出来ました。これはロンドンのシエラレオネ・カンパニーがせいぜい2百人余りと見当を付けていた数を遥かに上回る成果でした。ピーターズは五十余歳の熟年、ロンドンでの9ヶ月間には白人有力者の間で泳ぐ術も身に付けて、北米大陸の元奴隷たちの大集団をアフリカ大陸に自由の身として送り戻すという歴史的事業の総指揮をとる自信を固めていたに違いありません。
 しかしながら、シエラレオネ・カンパニーの幹部たちは、黒人にその栄光の地位を与え、その下で白人社員が働くという構図を容認するつもりはありませんでした。有力者トーマス・クラークソンの弟で弱冠27歳のジョン・クラークソンが総指揮官の地位に就きました。これでは若造のジョンと黒人入植者のすべてが指導者として仰ぐトーマス・ピーターズとの間の軋轢は始めから保証されていたのも同然でした。
 1792年1月15日、1196(あるいは1192)人の黒人の老若男女を乗せた15隻の船からなる移民船団はノヴァスコシアの港ハリファックスを出港しましたが、間もなく冬の大西洋は荒れに荒れて、途中で65人が死亡、ジョン・クラークソンも一時は死んだかと思われるような病状に陥りました。船団がシエラレオネについたのは1792年3月7日でした。着いてからも、黒人たちはトーマス・ピーターズを彼らの指導者とすることを主張し、ごたごたが続きましたが、ピーターズが突然病気になり死んでしまったので、騒ぎは沈静化に向かいました。シエラレオネ・カンパニーには、黒人たちに一種の民主的自治形態を与えるつもりではありましたが、黒人を白人と対等に扱うということは、当時の白人には、考えられないことであったのです。シエラレオネ・カンパニーは植民地経営の中心、つまり、シエラレオネの首都をフリータウンと命名しました。今、歴史的に振り返ってみると、空々しい名称であったと言うほかはありません。怒りと失意のなかで亡くなった黒人トーマス・ピーターズこそ英国植民地シエラレオネの真のいしずえを築いた人物であったのです。

藤永 茂 (2007年5月30日)


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英国植民地シエラレオネの歴史(2)

2007-05-23 11:37:13 | 日記・エッセイ・コラム
 今回の話のタイトルは「オラウダ・エクイアノ」。Olaudah Equiano、生れは多分1745年、1797年に亡くなった黒人の名前です。知識層の黒人ならば、おそらく、誰もが知っている名前でしょう。立派な英語で書かれたこの人の自伝は1789年に出版されて当時のベストセラーになりました。何万人という英国人が奴隷出身の優れた黒人のライフストーリーを熱心に読んだわけで、それ以来、この古典の出版は絶えたことがなく、今日でも何種かの版が容易に入手できます。ただし、私が本書を知ったのはほんの数年前のことです。
 小説『闇の奥』の著者コンラッドをレイシストと呼んだ黒人作家アチェベに反論する一つの戦略として、「非白人作家、非白人英文学者の誰それが『闇の奥』を高く評価しているから、アチェベのコンラッド非難は間違っている」とする白人英文学者たちがいます。彼らが頼りとする非白人の一人はスリランカ人(?)のGoonetilleke で、この人が編集した Heart of Darkness のテキストを2002年に買った時、その付録部分でオラウダ・エクイアノの名を初めて知りました。1897年1月、今のナイジェリアのベニンで英国人9人が惨殺される「ベニン大虐殺」事件が発生し、英国は直ちに反応して強力な討伐軍を派遣して、同年2月ベニンを首都としていた王国を亡ぼし、辺りを英国領土としてしまいます。ベニンの黒人王国が、口にするのもおぞましい人身供儀などの野蛮な風習を保っていたとして、これを英国はベニン侵攻占領を正当化する理由としました。Goonetilleke は、この事件がコンラッドのコンゴ行き(1890年)と『闇の奥』執筆(1898-99年)に挟まれていることを重視して、2冊の本、R. H. Bacon の『Benin: The City of Blood 』(1897年出版)とオラウダ・エクイアノの自伝(1789年出版)、から可成り長い引用をしています。ベーコンはベニンの王が血に飢えた絶対君主だったと強調します。コンラッドはここから『闇の奥』のクルツ創造のヒントを得たかも、とGoonetilleke は示唆します。では、エクイアノの自伝からの引用は何のため? 実は、エクイアノはベニン王国(今のナイジェリアの一部)の奥地の生れで、白人など見たことも無かった平和な少年時代の思い出が綴られているのです。この二つの引用文を並べて読むと、ベーコンの本には、ナイジェリアの植民地化を正当化するための誇張と欺瞞が含まれていることが感ぜられます。これが編集者Goonetilleke の意図だと考えれば、白人英文学者が期待するほどGoonetilleke は頼りになる味方ではないかも知れません。因みに、アチェベはナイジェリア出身です。
 前置きが、いや道草が、すっかり長くなってしまいましたが、この奴隷出身の傑物オラウダ・エクイアノは、ロンドンから「自由の地」シエラレオネへ初の入植者を送る事業に深く関わっているのです。それが前回に続く今回のお話の主題です。
 1786年7月1日にスメスマンが急死すると、公金横領が明るみに出て、ハンウエイはスメスマンを烈しく非難しましたが、9月にはハンウエイも病に倒れて死んでしまい、シエラレオネ計画推進の主役はグランヴィル・シャープが担うことになりました。スメスマンが売り込んだ地上の楽園シエラレオネのイメージは白人たちにはすんなりと受け入れられたのですが、ロンドンの黒人たちはその受け入れに遥かに慎重でした。それには十分の理由があったのです。
 まず、この1786年の時点では、奴隷の売買も保持もまだ合法であり、英国の奴隷貿易廃止は1807年、奴隷制度廃止は1838年、つまり、遥か先のことだったことに注意しましょう。シエラレオネの現地でも、依然として、奴隷売買が続けられていましたから、せっかく、自由の身になって英国内に住み着いた元奴隷たちが、シエラレオネでまた奴隷商人に捕まって、あるいは、騙されて売り飛ばされる危険があったのです。次に、シエラレオネ植民計画を支持する英国の上流人士の中には、奴隷保持者として知られている人たちも混じっていて、これも黒人たちの不安の種になっていました。慈善事業を装っていても、植民地開発事業は本質的に営利を目的としたものであり、民間の開発会社が設立され、その株が売り出されて人々の投資の対象になったわけです。シエラレオネの土地風土はコーヒーや砂糖などの栽培生産に最適--というスメスマンのホラを鵜呑みにして、一儲けしようと投資した白人たちも少なくなかったことでしょう。しかし、シエラレオネ入植にこれからの運命を賭ける黒人たちは、またぞろ奴隷の身分に戻されてはかなわないと、つい慎重になったのも当然でした。
 ハンウエイの死後、黒人貧民救済委員会の実務はスメスマンの書記だったジョゼフ・アーウィンが担当、シエラレオネ入植希望者の数も次第に増えて数百人に達し、シャープなどの尽力で英国政府も経費の負担に同意して、輸送船の手配、船長、同乗事務官の人選も進みました。奴隷貿易廃止運動の黒人側からの発言者としてシャープの信任を得ていたオラウダ・エクイアノは輸送船団の会計係のような役に任命されました。当時の黒人としては前代未聞の抜擢でした。
 1786年11月末、ロンドンでテムズ河に停泊する二艘の船に実際に乗り込んで船上生活を始めた人数は三百人弱、船内は凍てつく寒さ、混雑していて、まるで奴隷時代を思い出させる扱いを受けて、不満が鬱積して行きました。乗船してみて、給与された衣服の劣悪さや医療の貧しさを目の当りにしたエクイアノは、政府が支出した費用をジョゼフ・アーウィンが着服しているのではないかと疑って調査を始め、アーウィンとの間に烈しい争いが起こりました。船団はテムズ河を下って英仏海峡に入り、西進してイングランド南西部のプリマスに入港し、そこでも追加の入植者を収容しましたが、この数百キロの航海中、冬の嵐に襲われて何人もの人命が失われたようです。プリマスでアーウィンの汚職の証拠をつかんだと思ったエクイアノでしたが、船団長トムソンが仲介に入り、暗にアーウィンの有罪を認めながらも、結局、エクイアノの方が下船させられてしまいました。憤慨してロンドンに帰ったエクイアノは、シエラレオネ入植計画を全面的に非難する立場を鮮明にしていったのでした。
 数多のごたごたの後、「自由の地」シエラレオネを目指した船団は、ロンドンを離れてから4ヶ月たった1787年4月9日に、4百人余りの入植者を乗せてプリマス港を出港し、5月10日、シエラレオネ河の河口に達しました。
 私が参考にしている書物の一冊、Simon Schama 著の「ROUCH CROSSINGS」(2005年出版) のp236によれば、383人の自由黒人が英国から到着したとありますが、入植者全体の数とその内訳については、信頼出来る情報を私は把握してはいません。色々の説があって、数十人の白人下層売春婦が含まれていたとも伝えられていますが、これは、おそらく、英国で自由黒人男性と結婚した下層階級の白人女性のことであったと思われます。
 今回の私の「オラウダ・エクイアノの話」はこれでおしまいですが、エクイアノが途中で降ろされた第一回のシエラレオネ入植計画はうまく成功したのでしょうか? 英国植民地シエラレオネの歴史の簡単な要約には,普通、書いてない事ですが、入植者たちは、先ず、苛酷な風土と天候のために次々に倒れ、次には、原住民たちの反乱逆襲にあって、グランヴィル・シャープの名を取ってグランヴィルと命名した入植地の中心も焼き討ちに会い、第一回のシエラレオネ入植事業は青息吐息の状態に陥る失敗に終ったのです。
 上記のシャーマの本のp221-22には
To many historians, this entire operation has seemed more like social convenience than utopian idealism. If Smeathman’s own motives for promoting the settlement are now seen as something short of altruism, the reasons impelling official support have been judged by its severest historical critics as even more scandalous: a poisonous combination of hypocrisy and bigotry.
と書いてあります。リベリアと同じく、英国植民地シエラレオネも、その本質を抉り出せば、望ましくない黒人たちを追い出す棄民事業でしかありませんでした。アングロサクソンの自己欺瞞-「魂の嘘」-が生み出す自己陶酔の美辞麗句の下に息づいていたのは、またしても、彼らの猛々しいエゴイズムであったのです。

藤永 茂 (2007年5月23日)


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英国植民地シエラレオネの歴史(1)

2007-05-16 10:05:58 | 日記・エッセイ・コラム
 1787年、熱心な奴隷貿易廃止論者グランヴィル・シャープが提唱する開放奴隷のための「自由の地(The Province of Freedom)」建設を目指して、ロンドンから黒人白人混成の一団がシエラレオネに入植します。
 1792年には、英領カナダの大西洋沿岸の地ノヴァスコシアから千二百人ほどの解放奴隷たちが入植し、シエラレオネ植民地の首都がフリータウンと命名されました。アメリカ独立戦争(1775-83)で英国軍の側で戦った三千人余の黒人奴隷たちは負けた英軍と共に北に敗走し、ノヴァスコシアで解放されて生活を始めていたのです。
 1807年、英国は奴隷貿易の禁止に踏み切り、大西洋での取り締まりを強化、翌1808年には、それまで民間会社が経営していたシエラレオネ植民地は英国政府直轄となります。英国海軍が洋上で拿捕した奴隷密貿易船から解放された黒人が次々とシエラレオネに送り込まれ、1833年には奴隷制そのものも廃止されて、その人口が増えて行きます。こうして解放奴隷を主な入植者とする英国植民地シエラレオネは1961年に独立するまでの約180年間存在を続けました。
 英国植民地シエラレオネの歴史をこのように要約すると、それは英国の国家としての倫理性の高潔さを示しているように見えます。上の要約に「1827年には解放奴隷の子弟のためにフォーラー・ベイ・カレッジがフリータウンに開校し、約200年の歴史を誇る西アフリカ最古の大学として、英語圏西アフリカの高等教育の拠点であり続けた」とでも付け加えれば、英国植民地シエラレオネの美化は完成します。しかし、現実の歴史の詳細を覗き込めば、その美しいイメージは無残に壊れてしまう--要するに、英国植民地シエラレオネも、米国植民地リベリヤと同じく、アングロサクソンの黒人棄民政策の産物であったのです。ホブソンのいう、プラトンの「魂の嘘」の意味で、国民的偽善性においては、シエラレオネの方がより罪が重いというべきです。
 前にも申し上げたことですが、英国植民地シエラレオネの歴史は濃厚な内容を持っていて、その本格的な記述は、スペースの点からも私の知識と力量の不足の点からも、ここで企てるべくもありません。したがって、以下では、幾つかのエピソードに筆を絞り、覚え書き的な「英国植民地シエラレオネの歴史」を提供します。専門の方々からの叱正を切に願っています。
 第一話は「ヘンリー・スメスマン」。18世紀後半の世界史の大事件といえば、勿論、アメリカ独立戦争(1775-83)です。独立を押さえようとした英国側は、旗色が悪くなるにつれて、支配下の黒人奴隷を「解放」の約束をエサにして戦力に組み込んで行ったのですが、結局、ワシントン将軍率いるアメリカ軍に打ち負かされて北へ南へと敗走します。そうした黒人数千人は英国白人と共に北の英領カナダの大西洋沿岸の地ノヴァスコシアに落ち延びて、その大部分は、一応、開放奴隷、つまり、自由な人間としての生活を始めます。他の解放黒人は南の西インド諸島の英国植民地ジャマイカにも流れ、また英国本土のロンドンなどにも流れ込みました。その頃すでに奴隷貿易廃止運動が盛んになりかけていた英国社会の進歩性の風評が、数千人の解放奴隷黒人たちに新しい生活の場としてのロンドンに足を向かわせたと思われます。確かに、北米大陸での奴隷生活よりは「自由」に生活は出来たものの、流れ込んだ黒人たちはロンドンで貧困生活を強いられることになりました。アメリカ独立の1783年以後、黒人貧民の増加に対処するため、ジョナス・ハンウエイは黒人貧民救済委員会を立ち上げ、富裕な慈善家たちから多額の寄付金を集めて、黒人貧困者に無料でスープ、パン、肉などを毎日与える事業を始めました。一日当り数ペンスの現金が与えられることもありました。ロンドンには白人の乞食たちも沢山いたのですが、その中には顔を黒くして黒人に化け、大盤振る舞いの慈善にあずかろうとする者もあったようです。しかし、北米大陸で英国側に付いた黒人貧民の報償に、黒人に対する真の同情を見るよりも、英国の上層部の偽善性の本性を見据えるべきなのです。自己の善行への心酔と耽溺であり、貧困黒人に向けられた真の愛ではなかったのです。実際、ハンウエイ自身も、貧民層の黒人と白人の間で性関係が増加し、混血児が増加していることを憂慮して、英本国に集まってくる解放奴隷黒人の問題を根本的に解決するには、どこかに植民地を開いて、そこに彼らを送り出してしまうことだと、始めから考えていたようです。ロンドンの社交界の会話でもそのアイディアがしきりと語られるようにもなりました。
 さて、ここに詐欺師もどきの奇人ヘンリー・スメスマンが登場して、解放奴隷黒人たちを国外に出してしまいたいという英国人の意識水面下の願望を、本音を、英国植民地シエラレオネという形で一挙に実現するための堰を切る役を担うことになります。
 スメスマンは、18世紀の偉大な植物学者・探検家として名を残すジョゼフ・バンクス卿(1743-1820)に依頼されて、1771年から3年間、シエラレオネの沖のバナナ諸島で植物標本収集に従事しますが、そのうちに白蟻をはじめ各種の蟻と蟻塚に大変興味を持つようになり、昆虫学者になってしまった変わり者です。その頃シエラレオネは奴隷の輸出で知られてはいましたが、植民地化はされていませんでした。3年の滞在の間に、スメスマンは、辺りの西アフリカ沿海地方が西インド諸島やブラジルにも勝る植民地となる可能性があるという考えに取り憑かれ、英国に帰った後、借金取りから身を隠す目的もあってフランスに行った折りには、新しく独立した米国政府の代表フランクリンにも自分の「名案」を話したのですが、相手にしてもらえなかったようです。スメスマンによると、黒人奴隷の価格の急激な高騰と、コーヒー、サトウキビ、タバコ、綿花などの栽培についてのシエラレオネ地方の適性とを併せ考えると、解放奴隷黒人を受け入れ、自由労働者として雇用して、植民地経営は十分以上にソロバンが合う、というのが彼のビッグ・アイディアなのでした。
 ハンウエイによる黒人貧民救済委員会の立ち上げは、スメスマンのプランの売り込みに絶好の機会を与えました。1786年の春、スメスマンはシエラレオネをまるで地上の楽園ででもあるかのような誇張の言葉でハンウエイの委員会や奴隷貿易廃止運動の先頭に立つ名士グランヴィル・シャープに売り込みました。スメスマンによれば、シエラレオネは「one of the most pleasant and feasible countries in the known world」であり、その土壌はほんのちょいと鍬を入れるだけで豊作間違いなしの豊かさで、しかもそうした土地は耕したいだけ入手できる広さがあるから、一度入植したら、二度と離れる気にはならず、子々孫々そこで栄えることになろうという見通しでした。その上、スメスマンの試算によれば、英国内の黒人貧民のシエラレオネへの移住入植は一人当り占めて14パウンドの政府出費で実行可能とのことでした。このスメスマンの「シエラレオネ・プラン」にシャープもハンウエイも簡単に乗せられました。こうして、このブログの冒頭に書いたように、1787年には、英本国からの黒人白人混成の一団のシエラレオネ入植が実現しました。では、スメスマンの説いた夢の楽園は実現したのでしょうか? いやいや、スメスマンの言ったことは、根拠の無い,まるっきりの嘘っぱちで、入植者には苛酷な災難が襲いかかりました。 その話は次回にいたしましょう。ただ、今回の話の締めくくりとして、スメスマンという男のいい加減さを、もう少し見ておきましょう。スメスマンがバラ色のシエラレオネをロンドンの名士たちに売り込んだ1786年の前年の1785年、英国政府の一委員会がシエラレオネの北の余り遠くない所にあるガンビアの流刑植民地としての適否を検討した際、その辺りの気候風土に通じた人物として諮問を受けたスメスマンは、高温多湿の風土気候の凶悪さを強調し、医者や薬がなければ、送られた罪人の100人中99人といわず、6ヶ月の内に死んでしまうだろう、と証言していました。シエラレオネの売り込みに成功した直後の1786年の夏、スメスマンは急病で亡くなりましたが、その後、黒人貧民救済委員会の金を着服して自分の借金の返済に充てていたことが発覚しました。

藤永 茂 (2007年5月16日)


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松本仁一著『カラシニコフ』(4)

2007-05-09 09:30:23 | 日記・エッセイ・コラム
 このブログは2007年3月7日付けの(3)の続きです。このシリーズの(2)と(3)では、松本仁一著『カラシニコフ』に書かれているリベリアの歴史で省略されている部分を補いましたが、リベリアの隣国シエラレオネの歴史についても、(1)に続いて、同じ作業を試みなければなりません。
 THE WORLD FACTBOOK の2007年の統計を見ると、幼児死亡率が最悪の國はアンゴラ(新生児1000人当り184人)で次がシエラレオネ(158人)、第3位アフガニスタン(157人)、第4位リベリア(149人)、アメリカ合衆国は180位(6.37人)、キューバはそれより良くて182位(6.04人)、日本は219位(2.80人)となっています。貧困度、平均寿命、就学率のどれを取っても、シエラレオネは悪い方から3位以内に入るようです。JICA の広報誌「フロンティア」2005年9月号に次の文章を見つけました:
「シエラレオネと聞いて真っ先に想像するのは、「内戦」「失敗国家」「世界最貧国」「子ども兵」などといったネガティブなイメージばかりではないだろうか。実際、人間開発指数(HDI)順位は177カ国中177位(『人間開発報告書2004』から)で、文字どおり世界で最も開発の遅れた国として位置づけられている。
しかし、この国には約200年の歴史を誇る西アフリカ最古の大学が存在し、過去には英語圏西アフリカの高等教育の拠点であった。英国からの独立時点では、米、油やし、カカオなどの西アフリカ一の生産拠点であったことも事実だ。それが1980年代からの相次ぐクーデターと、それに続く90年代の泥沼の内戦を経て、現在のような結果となってしまったのである。」
ついでに引用をもう一つ。前にも2007年2月28日のブログに松本仁一著『カラシニコフ』から引いてある文章ですが、記憶を新しくしましょう:
「1787年、英国が解放奴隷を移住させてフリータウンの町をつくる。そこを中心に「國」ができた。米国が1822年、解放奴隷を送り込んでつくった隣国リベリアと成り立ちがよく似ている。そして両国とも、近代型の国家を建設することができなかった。移住者が先住者を差別支配したからだ。黒人による黒人差別だった。国民同士が対立し、国家への一体感は育たない。健全な国民意識が発達しない中で、権力者はダイヤモンドなどの利権を私物化し、教育や福祉、医療、インフラ整備などの國の建設は放置された。」
シエラレオネとその歴史についてのこの二つの文章は、英国が植民地として経営していた間はシエラレオネでは物事がうまく行っていたが、黒人たちに任せてみたら最後、何もかも無茶苦茶になってしまった、という印象を決定的に与えます。英国の奴隷制廃止論者たちが創設した植民地経営会社がカナダから多数の解放奴隷をシエラレオネに入植させ、その地をフリータウン(自由の町)と命名したのは1792年のこと、1808年には、民間会社シエラレオネ社の植民地だったフリータウン周辺は英国政府直轄の植民地になりました。1961年、シエラレオネはイギリス連邦の一員として独立しますが、「約200年の歴史を誇る西アフリカ最古の大学が存在し、過去には英語圏西アフリカの高等教育の拠点であった」シエラレオネは、独立から約50年で世界最悪の「失敗国家」に転落したことになります。その理由が、上では、「移住者が先住者を差別支配したからだ。黒人による黒人差別だった」となっていますが、これだけなのでしょうか?
 リベリアの場合には、この「自由の國」の本質が、その創設のはじめから、米国の「解放奴隷」棄民政策に立脚したものであった事、そして、その歴史が米国白人の極めて自己利益本意の意図から始められたものであり、その後も、時々の米本国の利害勘定に基づいて、恣意的な干渉と不干渉が行われたことを、このシリーズの(2)と(3)で述べました。ほぼ同じことが、その偽善性では、むしろ大幅に増幅されて、シエラレオネでも行われたのでした。
 2007年3月14日の記事「英国の奴隷貿易廃止令200周年」に、次のように書きました:
■ 「奴隷貿易廃止と奴隷制廃止の歴史年表を見ると奇妙な事実が目につきます。18世紀(1700年代)世紀末、奴隷制と奴隷貿易に基づいた海外植民地から最も巨額な利益を得ていたのはフランスと英国でしたが、世紀末から19世紀にかけて、フランスは一度廃止した奴隷制をまたぞろ復活したりして、足許がひどくもたついたのに、英国は手回しよく奴隷貿易と奴隷制の廃止を成し遂げ、その倫理的先進性を世界に示したように見えます。
★1794年--フランス奴隷制廃止
★1802年--フランス奴隷制復活
★1807年--英帝国奴隷貿易廃止
★1815年--フランス奴隷貿易廃止
★1838年--英帝国奴隷制廃止
★1848年--フランス奴隷制廃止」■
シエラレオネが黒人の國として独立した1961年から後の歴史と悲劇を理解するためには、それ以前のほぼ200年にわたる密度の高い歴史を知ることが不可欠なのですが、入手しやすい文献が不足していて、一部のアカデミックな専門家を除けば、実際の支援活動や、悲惨な現状の報道などに携わる人々を含めて、シエラレオネの歴史のこの部分の知識を持っている人の数は僅かなものでしょう。私は、自分がアフリカ史の専門家でもなく、アフリカについての現地体験もなく、現状の知識も浅薄であることを十分に自覚しながらも、敢えて松本仁一氏の好著『カラシニコフ』の批判を、アフリカの過去に対する配慮の不十分さという観点から、試みてきました。しかし、私の問題意識は、そこまで一方的に「アフリカの黒人たちよ、お前らはトコトン駄目だなあ」と言われっぱなしになっているアフリカ先住民たちに対する単純な同情を遥かに超えて、コロニアリズムと呼ばれるものの真の本質を仮借なく暴露したいという執念にまで成長しつつあります。その、いわばファノン的な観点に立てば、イギリスの、アングロサクソンのアフリカ植民地経営の非情さと偽善性を見据えるための事例として、英国植民地シエラレオネ200年の歴史に勝る事例はまずありますまい。これが現在の私の認識です。したがって、「松本仁一著『カラシニコフ』」批判という現在のシリーズを一応ここで締めくくって、次回には、独立以前のシエラレオネの歴史を語ってみたいと思います。それはアメリカの独立戦争(1775-83年)とも我が明治維新(1868年)とも関わっています。勿論、私には、それをフルに描く資格も能力も、また、スペースもありませんから、要点を拾ったごく荒いスケッチに終るでしょう。本格的な記述は、然るべき専門家に是非お願いしたいと思います。 

藤永 茂 (2007年5月9日)


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白人は何故「カニバリズム」にこだわるのか(2)

2007-05-02 13:45:00 | 日記・エッセイ・コラム
 コンラッドを烈しく非難したアチェベの有名な論文の中で、彼はBernard Meyer の「Joseph Conrad: A Psychoanalytic Biography」(1967年)にも、とげのある言葉を投げています。精神分析的方法を過剰なまでに適用した伝記で、例えば、一見ささいな事とも思われるコンラッドのヘヤカット・スタイルを取り上げて延々と論じていますが、「それにもかかわらず、黒人に対するコンラッドの態度については唯の一言も費やされていない」とアチェベは抗議します。黒人について、コンラッドは問題をはらむ発言を幾らもしているのに、メイヤーはそれを全く無視して、ヘヤスタイルの精神分析にうつつを抜かすとは何事だ---というわけです。
 このメイヤーは、コンラッドがカニバリズムに強い関心を持っていた理由を探求して、子供の頃、戦場で大叔父が犬を殺して食べたという話を祖母から聞いて、強い恐怖におそわれた事に発するとしています。ところで、犬を食料にすることについて、私には奇妙な思い出があります。1960年のことでした。学会でメキシコに行き、ついでにメキシコ市の国立博物館を訪れましたが、展示の一つに、メキシコ市の所在地の昔の時代の生活状況が人や動物、それに村落の家々の模型を使って示されていました。アメリカ合衆国からの白人の観光旅行の一団がその展示の回りを取り囲み、若いメキシコ人男性の添乗案内人が訛りのある英語で説明していたのですが、彼が「これは市場で犬の肉を売っている所です」と言った途端、ブーイングと笑い声が巻き起こりました。ところがその若いメキシコ人男性が怒りのこもった大きな声で「何がおかしいのですか。犬を食べて何処が悪いのですか。あなた方だって、兎や鹿や豚を食べるではありませんか」と叫んだので、一瞬、辺りが静まり返ってしまいました。確かにメキシコには昔から犬を食用にする習慣があったようで、食用の犬は毛が短くて子豚のようにまるっこい体形をしていました。
 モンテーニュの随想録は1580年の昔に出版された本で、その第31章は「カニバルについて」です。(私の手許にあるのは、 M.A.Screech 英訳、ペンギンブック、1991年出版)。モンテーニュがこれを書いたのは、「高貴な野蛮人」という些かうさん臭い概念が唱えられた時期より、遥か以前のことですが、“野蛮人の野蛮な習慣”に対する彼の偏見のない公正さには目を見張らせるものがあります。背信、不忠、暴政、残忍といった悪徳非行が我々文明人の社会では日常茶飯事であるのに較べると野蛮人の方がましだとモンテーニュは言います。
「So we can indeed call those folk barbarians by the rules of reason but not in comparison with ourselves, who surpass them in every kind of barbarism.」
いろいろの事例を引いてモンテーニュが書いている通り、カニバリズムについても同じことで、この一事をもって、文明人と未開野蛮の人間たちを区別することは出来ません。しかし、人肉嗜食の点で、例えば、アフリカの黒人と自分たちとの本質的な区別を付けたいという希求が白人心理の中には、歴史的に、脈々と潜在しているように思われます。現在でもアフリカからの報道にはその傾向が見受けられます。そうしたニュースに敏感なのです。松本仁一著『カラシニコフ』の人肉屋の話とか、今でも小柄のピグミーが捕まえられて食べられているといった話です。本当の話もあるでしょう。私が問題にしているのは、こうしたニュースにすぐに飛び付く潜在意識傾向が白人メディアにありはしないかという事です。
 コンラッドの黒人観についてはダーウィンの進化論の影響がよく論じられますが、ダーウィンの友人で進化論を支持した高名な動物学者トーマス・ヘンリー・ハクスリー(1825-1895)は、19世紀イギリスの知的巨人と目され、その主著『自然界における人間の位置』にコンラッドが目を通した可能性は十分あります。Patrick Brantlinger の指摘によると、このハクスリーの主著の中に、前後の科学的議論としっくりしないような唐突さで、アフリカ人のカニバリズムの話が出て来て、“人肉屋”の木版挿絵が添えてあるそうです。(次の挿絵はクリックすると大きくなります。)
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これはあるポルトガル人の話に基づいているのだそうですが、「野蛮黒人こうあれかし」というヨーロッパ白人の潜在意識から浮上した作り事と思われます。
 米国史で最も有名なカニバリズム事件は「ドナー・パーティー(Donner Party)」事件です。イリノイ州スプリングフィールドのジョージ・ドナー、その弟ジェイコブ、友人ジェイムズ・リードは、彼らの家族を連れてカリフォルニアへの移住を決心し、1846年4月中旬、総勢30人余りで家畜をともなって西へ向かいました。途中で参加者が増えて90人近くになったドナー幌馬車隊は、グレート・ソルト・レークの南を通り、シエラ・ネバダ山脈を越えて、秋の暮れまでにはサン・フランシスコに到着する筈だったのですが、豪雨に見舞われたり、近道と聞いて辿ったトレイルが結局はひどい遠道になったりして、10月の末、シエラ・ネバダの山並みの中の一つの峠(あとでドナー・パスと呼ばれるようになる)に差掛かった時、10メートルを超える積雪に行方を遮られて、幌馬車隊は身動きが取れなくなってしまいました。目的の地 Sutter’s Fort (今のサクラメント)から200キロほどの地点でした。連れて来た牛馬や犬は勿論、獣皮や樹皮などおよそ食べれる物はなんでも食べるようになり(チャップリンの映画「黄金狂時代」に靴を煮て食べるシーンがあります)、餓死の恐怖がキャンプにみなぎり始めます。12月中旬、15人の隊員が救助を求めてサッターズ・フォートに向かいましたが、約20日間の修羅の旅を生き抜いてフォートに辿りついたのは、たったの7人だけでした。1847年2月初旬、第一次の救助隊がフォートから派遣されましたが、打ち続く悪天候と難路のために救助作業は難行し、生存者の全てをフォートに運ぶまでに4回の救助隊派遣と2ヶ月の月日が必要でした。その間に90人弱の当初の人員の約半数が死に果てました。
 カニバリズムは、救助を求めてフォートに向かった人々の間で行われ、また4回にわたって救助隊が訪れたキャンプでも行われました。それは動かぬ事実と思われます。しかし、その具体的状況を描いた「真相もの」の大多数は猟奇をねらった扇情的なフィクションのようです。もし読みたければネット上にも十分の量のインフォーメーションがありますが、私としては、「ドナー・パーティーのカニバリズム」についてのアメリカ人の異常な興味が、その事件発生当時(1847年)から現在に至るまで、綿々と衰えることなく続いている事実の方が、むしろ余計に気になります。
 実は、フォートに向かった上述の15人の他に員数外のインディアン二人が道案内として同行していたようです。ルイスとサルバドルという名前を記した文献もあります。ただ、この二人の運命については色々です。一行の食料が底をついた時、二人は先ず一番に射殺され、煮て食われてしまったという説が一つ。また、隊員の白人一人が疲労衰弱して死んでしまった時、白人たちがこの先どのようにして死体を食料とするかを冷静に相談するのを聞いた二人のインディアンは恐れをなして森の中に逃げ込み、姿をくらましてしまったという説もあります。両説ともフィクションかも知れませんが、それなりに food for thought を私に与えます。先ず、一般論として、北米の先住民にしろ、アフリカの先住民にしろ、白人が侵入してきて、彼らを色々な形態の「極限状態」に追い込む以前は、動物または植物の食料資源は割に困難なく身辺で手に入ったことは容易に想像出来ます。アメリカの山河にもアフリカの山河にも生命が満ちあふれていた筈だと想像しても余り間違ってはいますまい。そもそも大自然の中で、不可抗力の場合は別にして、無理に自らを「極限状態」に追い込むような事はしない--それが“野蛮人”たちの生活の知恵であったのです。だから、モンテーニュが書いているように、彼らが人肉を食したのは主に儀式的な場合であって、極限的な飢餓状態に追い詰められてのカニバリズムは稀であったと思われます。二人のインディアンがカニバリズムの計画を聞いて恐れをなして逃亡したのは本当の話だったかも知れません。次に、食べるか食べないかは別にして、ゴールドラッシュのカリフォルニアになだれ込んだ白人たちが土地の先住民(インディアン)たちを、冷酷に、計画的に、容赦なく、殺戮し絶滅させたことは歴史的な事実なのです。シオドーラ・クローバー著『イシ-北米最後の野生インディアン』(岩波、同時代ライブラリー)を読んだ方々は御存知のように、イシが属したヤヒ族も虐殺されて絶えた部族の一つです。著者を母親に持つアースラ・ル・グウィン(「ゲド戦記」の原作著者)は「ナチによるユダヤ人大量虐殺に等しいインディアン撲滅の生き残りであるイシ」と言っています。ドナー・パーティー事件は発生当時の1847年以降極めてセンセーショナルに報ぜられ、論じられたので、元々カニバリズムに関心のあったコンラッドも恐らく知っていたと思われます。カニバリズムは白人が極限的な飢餓に追い詰められて犯した罪業であったかも知れませんが、カリフォルニア・インディアンの虐殺撲滅は平常な素面の白人たちが実行した事であったのを忘れてはなりません。ドナー・パーティー事件は「親が子の肉を食み、子が親の肉を食んだ」から醜悪な事件であっただけではありません。リーダー格のジョージ・ドナーの一族は子供一人を残して全部死に果てましたが、ジョージ・ドナーが携えて来た可成りの額の現金の行方をめぐっても醜い争いがあったようです。事件翌年の1848年にはサクラメントの近くで金鉱が見付かり、カリフォルニアの黄金狂時代の狂躁が猛り狂います。その中でアメリカ西部の先住民の大量虐殺が進行したわけです。その一つ。1864年11月29日の朝、米軍騎兵隊がコロラド州サンド・クリークでシャイエン・インディアンの部落に襲いかかり、多数の女や子供を含む約200人を惨殺しました。襲撃に先がけて、指揮官のシヴィングトンは“Kill and scalp all, big and little; nits make lice (大きいのも小さいのも皆殺しにして頭の皮を剥げ;シラミの卵はシラミになるからな)”と命令しました。米国史上に残る名科白です。シヴィングトンはメソジスト教会の牧師でもありました。インディアンの死体から切り取られた性器や胎児などがデンバーの町で衆目に曝された記録が残っています。フォークナーの『八月の光』で、パーシー・グリムがジョー・クリスマスを射殺し、生前、白人女性と性交したクリスマスに「永劫にそれを許さない」目的で、死体から性器をえぐり取ってしまったというくだりが思い出されます。シヴィングトンのやった事もグリムのやった事も、極限状態に追い込まれた果ての行為ではありませんでした。
 ほんの数日前のこと、思いがけず、ネット上で上記のシヴィングトンの言葉に出会いました。ヴァージニアの工科大学で33人が射殺された事件をノンストップで報じるアメリカのマスメディアが、「米国史上で最悪の乱射事件」とか「この國の歴史で最悪の銃撃虐殺事件」とか、「学園で」という肝心な言葉を添えるのを忘れ勝ちなのに抗議する先住民たちの発言でした。シヴィングトンの言葉など、今のアメリカ合衆国史の教科書からは消されているの知れません。しかし、インディアンたちは決して忘れない。史上最悪の銃撃虐殺を被ったのは彼らだったのですから。
 ところで、前のブログで映画『Mr. & Mrs. Smith』を「夫婦間の馬鹿馬鹿しい殺し合いゲーム」と書いたことに反撥される向きも多いかと思います。二人の人気スターが見事に演じきった最高のエンターテインメントとして、アメリカでも日本でも高い評価をうけているようですから。しかし、1941年製作の映画、長く人気を保ったテレビ映画シリーズ、そして、今回(2005年製作)の映画---この50年間に、『Mr. & Mrs. Smith』という同一のタイトルの下にハリウッドが生み出して来た三つの道程標を見比べながら、大昔からアメリカ映画を覗いている一老人としての私は、社会一般の暴力に対する不感症の進行と蔓延を憂えます。この最新作を暴力映画として見るなんて野暮の骨頂--という声が聞こえて来ます。しかし、果たしてそうでしょうか? この映画を上出来の娯楽として受け取って怪しまない我々の神経とヴァージニア工科大学での惨劇とが全く無関係だと言い切れますか?

藤永 茂 (2007年5月2日)

付記:足立信彦氏から食肉言説についての必読の論考を戴きましたので添付します(5月7日):


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