私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(2)

2012-09-26 11:38:11 | 日記・エッセイ・コラム
<翻訳つづき>
 私はアメリカ的価値観を信じて成人したが、無辜の非戦闘員に対するこの爆撃はそのアメリカ価値条項の一つ残らずに違反していた。ラオス難民収容所に身を置く観点からアメリカ大統領府幹部を見据えることで、数週間のうちに、彼らが、人間の道義、民主主義、人権、そして国際法の敵であることを、そして、この現実の世界では、勝てば官軍であり、犯罪は結構儲かる、ということを教えられたのであった。アメリカ国内で、アメリカは“人間でなく、法が支配する国(nation of law, not men)”だと<訳注:アメリカ建国の基礎理念、ジョン・アダムズの言葉>人々が如何に強く信じようと、ラオスでは、アメリカは明らかに残酷な、野蛮な、無法の人間たちの国であった。
 意識的に心を決めることなど飛び越えて、私は即座に、この想像を絶する惨禍を食い止めるために自分が出来ることなら何でもしようと固く決心をしてしまっていた。一人のユダヤ人としてホロコーストのことが心に沁み込んでいた私は、殺戮が進行中のアウシュヴィッツや ブーヘンヴァルトの真実を目の前に見るかのように感じたのだ。気が付くと、私は、誰でも見つかり次第?CBSのバーナード・カルブ、ABCのテッド・コッペル、NYTのフローラ・ルイスなどのジャーナリストたちを含めて?難民キャンプに連れて行って、ラオス爆撃の取材をさせ、それを世界中に暴露して貰おうと、一生懸命になっていた。
 ある日、私は三人の反戦運動家?ダッグ・ダウド、リチャード・フェルナンデス、ノーム・チョムスキー?がハノイに一週間滞在するためにICC(International Control Commission, 国際休戦監視委員会)の飛行機に乗る前に、ビエンチャンのホテル・レイン・ザンに数夜滞在していることを耳にした。(これが、当時、ノン・ペン経由以外でハノイに行く唯一の道だった。)私は彼らの部屋の一つを訪れて、4人は会合した。その翌日、ノームは、二日後のハノイ行きの準備をするかたわら、私が夕食をとる場所として暮らしていた村にやってきた。
 それまで私は1960年代の殆どを中東、タンザニア、ラオスで過ごしていたので、ダッグやディックやノームのことをあまりよく知っていなかった。ただ、ノームが有名な言語学者で、インドシナ戦争について沢山書いているのは知っていた。私が三人に会った時、私が力を集中していたのは、このラオス爆撃の事態の重大さを彼らに知らせることで、彼らがそれについて何かしてくれることを願っていたのだ。
 個人的なレベルでは私は直ぐさまノームが好きになった。彼の態度は温厚だったが一途なところがあり?この一途さは彼と私の共通点だったが?そして、目に見えて面倒見のいい人物だった。私がラオス爆撃に反感をつのらせた理由の一つは、私がそれまでの三年間その村に住みついて、人間としてのラオス人たちを肌で知ったことにあった。-- とりわけ、私が親爺の代理みたいに愛するようになったポー・スウ・ドウアンという名の70歳の男性を知ったことだ。彼は親切で賢明で温和であり、私はそれまでに会った誰にも劣らず彼を尊敬した。私たちがポー・スウとその家族と一緒に夕食をとった間、ノームが思いやりを込めてポー・スウに話しかける有様に、私はいたく心を打たれた。ノームは、私がそれまで村に連れてきた他の多くの訪問者に見ることのなかった即座の親近感をポー・スウとその家族に感じたに違いなかった。彼はまたラオスで起っている事の詳細について集中した関心を示したから、私はすっかり嬉しくなってそれに応えたのだった。
 次の日、三人は困ったニュースに接した:ハノイへのICC便がキャンセルになって、次の便は一週間後というのだ。三人とも多忙な予定があり、一週間帰国するプランを立て始めた。私は、しかし、ノームにこのままここに留まらないかと言ってみた。爆撃からの難民や、アメリカ大使館員、ラオス政府閣僚、スーヴァナ・プーマ首相、パテート・ラオの代表や、前にゲリラ兵だった人物に会えるように手配をすることが出来ると私はノームに言った。こうしたことはそれまでも報道陣に対して申し出ていたことだった。彼の観点からすると、これはラオスでアメリカが実施している秘密の戦争について学ぶ又とない機会だったし、私の観点からは、このラオス爆撃を、その阻止のために、世界中に知らしめる努力の一部をなすものであった。
 ノームは同意した。そして、私が思うのに、両人とも人生の最もユニーな経験の一つをすることになった。-- 彼は私のモーターバイクの背に乗り、私は彼を乗せてビエンチャンの街を走り回る。その時点では外部の世界には殆ど知られていなかったアメリカの秘密の戦争について、ノームは知りうる限りのことを知りたいと思い詰めていた。その前の6年間アメリカがラオスを爆撃していたことを、リチャード・ニクソンが初めて遂に認めたのは、その翌月のことだった。もっとも、ニクソンもヘンリー・キッシンジャーも爆撃は軍事目標だけに限られていると嘘を吐き続けてはいたが。
 一緒だった一週間からノームについての特別に鮮やかな記憶が沢山よみがえってくる。彼が新聞を読むところを見ていると、一つの頁を凝視している、それを記憶に叩き込んでいるみたい、それから間もなく、ページをめくり今度は次の頁にじっと見入る、といった具合。ある日、夜10時頃、私はラオスでの戦争に関する500頁の本を彼に手渡し、その翌朝、アメリカ大使館で政務官ジム・マーフィーと会うために出かける前に、朝食をノームと共にした。大使館での会見の際、ラオスに入っている北ベトナム軍の兵員数が話題にあがった。大使館側は5万人がラオスに侵攻していると主張したが、数千人以上ではないという明らかな証拠があった。ノームが、前の晩に私が手渡した本の何百頁目かにある一つの脚注を引用して、数千人を上回らないことを言い出した時には、私は椅子から落ちんばかりに驚いた。“写真で撮ったような記憶力(photographic memory)”なるものを聞いたことはあったが、実際にそれに出会ったことはなかったし、それが立派に使われるのも見たことはなかった。(興味深いことだが、ジム・マーフィーがノームに見せた大使館内部文書でも数千人という数が確かめられており、後日、ノームが書いた“アジアを敵に回して”という本の中のラオスについての長い章にもその文書が引用されている。)
 私はまた彼の自己軽視に心を打たれた。彼は、私がそれまでに会った“大物”ジャーナリストの殆どと全く対蹠的に、彼自身について語ることに嫌悪をさえ覚えるかのようだった。彼は下らぬ些細事や、ゴシップや有名人についての話には何の興味も示さず、関わりのある重大問題に集中していた。彼は、自分の言語学の業績を、インドシナで進行中の大量虐殺に反対することに較べれば重要ではないと言って、自ら軽んじた。ビエンチャンの悪名高い夜の歓楽、観光スポットには目もくれず、ホテルのプールサイドでリラックスすることにも何の興味も示さなかった。明らかに、彼は意欲に燃え、使命感にみちた男だった。真正の知識人、あたまで生きている人間だった。だから私には彼がよく分かった。私もまた、あたまで生き、使命を持っていたからだ。
 しかし、飛び抜けて私に感銘を与えた事件は、ジャール平原からの難民を収容したキャンプに我々が赴いた時に起った。それまでにも私は数十人のジャーナリストやその他の人々を難民収容所に連れて行った経験があったが、彼らの殆どすべては難民が味わった苦難から感情的に距離をとろうとした。CBSのバーナード・カルブであれ、NBCのウェルス・ハンゲン、NYTのシドニー・スキャンバーグであれ、彼らは丁重に聞き取りをし、質問をし、ノートを取って、そのあとホテルに帰って報道記事を書いた。彼らは記事を書くのに必要なこと以外に、難民たちが生き抜いてきた苦難には殆ど何の感情も興味も示さなかった。ホテルに帰る車の中でのわれわれの会話は、普通もっぱら、その日の夕餉に関したことか次の日の予定についてであった。
 こういう風だったから、私がノームの質問と難民たちの返答を通訳していると、突然、彼がくずおれて泣き出した時には、あっけにとられてしまった。私が難民キャンプに連れて行った他の人々の殆どは、涙を流すという、いわば、人間として最も自然な反応を示そうとしなかったものだから、ノームの涙はなおさら私の心を打った。私には、それまで、ノームがあくまで知的でアイディア、言語、概念の世界に生きる人間に思えていたし、何事につけても滅多に感情的になることはなかったから、彼が涙を流すのを見た時、私は彼の魂を覗き込んだ思いがしたのだ。そして、あの難民収容所で涙を流す彼という視覚的イメージは、それ以来,決して私から離れなかった。私がノームを思う時、目に浮かぶのはこれである。

藤永 茂 (2012年9月26日)



ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(1)

2012-09-19 11:23:03 | 日記・エッセイ・コラム
 4週間前(8月22日)のブログ『ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(前置き)』の冒頭に掲げた、Fred Branfman という人の回想記『When I Saw Noam Chomsky Cry(ノーム・チョムスキーが泣くのを私が見た時)』の翻訳を始めます。

http://www.salon.com/2012/06/17/when_chomsky_wept/

ただ、その前に、もう少しだけ、「前置き」の続きを書きます。翻訳する記事の始めのところで“unpeople”という単語に出会います。1981年出版の岩波新英和には「n 没個性的人間、人間性を失った人々;vt ・・・から住民をなくす、無人の地とする」、リーダース英和には「vt ・・・から住民をなくす[除く、絶やす];n 個性を失った人々」、ランダムハウス英和には「v.t. ・・・の住民をなくす[絶やす、除く]、・・・を無人の地とする。n. 1. 人間性に欠けた人々。2. 国民として扱われない人々、(政治的な)被差別民、(政治的に)抹殺された人々(unperson)。[1592年以前] 、とあります。私は訳文の中で“unpeople”を“抹殺御免の民”と訳しました。アメリカの政治家にとって切り捨て御免の人間たちのことです。いや米欧の(ですから日本の)ジャーナリストたちにとっても切り捨て御免の人々のことです。
 去る9月12日、リビアのベンガジの米領事館で、4人のアメリカ人が殺され、その一人はリビア大使クリス・スティーブンス(大使館は首都トリポリ)、二人は米海軍特殊部隊シールズの元隊員と報じられています。この数日、このベンガジの米領事館襲撃事件関連のニュースが次々に流されていますが、米欧のマスメディアはまるで死者がこの4人のアメリカ人だけであったかのような報道ぶりで、ベンガジの米領事館勤務のリビア人数人(10人とも言われています)が死んだことは黙殺の状況です。つまり、亡くなったリビア人は“unpeople” だということです。
 翻訳を始めます。:
****************************
 42年前、私は常ならぬ経験をした。ノーム・チョムスキーという男と友達になったのだ。私は彼の名声と彼の仕事の影響の大きさを十分知るようになる以前に、一人の人間としての彼を知ることとなった。以来、この出会いの経験のことを、私はしばしば心に浮かべる。-- それが私に彼の性格に対する洞察を与えるからでもあるが、さらに重要なことは、いま我が国と世界全体が直面している深刻な困難の故でもある。何にもまして彼から私が教えられてきたことは、アメリカの為政者たちが如何に世界の実に膨大な数の人々を“unpeople(抹殺御免の民)”として扱っているかを、彼が凝視し続けている事である。アメリカは、第二次世界大戦このかた、世界の人々を経済的に搾取するか、戦争を仕掛けるかして、二千万人以上を殺戮し、不具者とし、あるいは家なき民としてきたのだ(アメリカ政府の公式統計数字によれば、イラクで五百万人以上、インドシナ半島地域で千六百万人)。
 我々の友情は、1970年2月に彼がラオスを訪れた際、これら“抹殺御免の民”への強い思いを共有することで固められた。その前の3年間、私は首都ビエンチャンの外部の一村落に住んでラオス語を話していた。だが、それより5ヶ月前、北ラオスのジャール平原からビエンチャンに送られてきた最初のラオス人難民を面接取材した時、私は心底まで達するショックを受けた。ジャール平原は1964年来パテート・ラオ共産主義勢力によって支配されていたが、アメリカの大統領府幹部たちは、過去5年半の間、秘密裏に周辺の平和な村人たちを爆撃し続けていて、数千数万の人々を地下や洞窟に追い込み、村人たちは動物のような生活を強いられている事を知って、私は恐怖に駆られたのであった。
 無数のお祖母さんたちがナパーム弾を生身に受けて火達磨になり、無数の子供たちが200キロ爆弾で生き埋めにされ、両親たちは対人殺傷爆弾によってずたずたに切り苛まれた。私はこれらの事をすでに知っていた。幸運にも爆撃を逃れた難民たちの体内に今なお残っていた爆弾からの小鉄球に、私は触れてみたし、爆撃で盲人となった人々の話を聞き、ナパーム弾の火傷におおわれた幼児も見た。アメリカ空軍のジャール平原爆撃は、およそ20万人の住民の700年伝来の文明をただの荒れ地と化し、爆撃の主な犠牲者は老人、両親、子供たちであって、上空からは見通し不可能の厚い森の広がりの中を自由に移動することのできた共産軍兵士たちではなかったことも、私は知らされた。さらに、その後まもなく私は発見したのだが、アメリカの大統領府幹部たちは、国会とアメリカ国民の同意を得ないままどころか、通知すらせずに一方的にこの爆撃を実行していたのだ。私はまた、ジャール平原からのこれら打ちのめされた難民はむしろ幸運な人々である事を悟らされた。とにかく生き残ったのだ。当時、何十万かの何の罪もないラオス人に対する米国の爆撃は単なる継続どころか、ますますエスカレートしていたのだった。
<訳注>米国によるラオス爆撃が如何に無惨で悪逆非道なものであったかは、今からでも、いや今こそ改めて、知る必要があります。以下は、「特定非営利活動法人テラ・ルネッサンス」というGTOのラオスでの不発弾撤去(クラスター爆弾)支援プロジェクトの記事から、その一部を転載させて頂いたものです。:

http://www.terra-r.jp/blog/0130katudo/0134laos/01341fuhatusien/

●爆弾とともに暮らす市民?
ラオスは世界でもっとも激しい爆撃を受けた国であり、人口一人当たりの落とされた爆弾の量が世界一になります。ベトナム戦争中、大規模な地上戦が繰り広げられ、同時に激しい空爆を受けました。50万回以上のアメリカ軍による爆撃が、1964年から1973年の間に実行され、ラオス全土に200万トンを超える爆弾がシエンクアン県を中心としたラオス北部とホーチミンルートの通る南東部の県に集中して落とされました。この9年間には、8分ごとに1度、米軍機1台に積載される爆弾が落とされてきたと言われます。   ・・・・・・・・・・

●ラオスで使われたクラスター爆弾?
これらの爆撃では、2億8000万個以上の対人用の子爆弾がクラスター爆弾からばらまかれました。米空軍の自由落下型クラスター弾はCBU(Cluster Bomb Unit)、その子弾はBLU(Bomb Live Unit)と呼ばれます。ベトナム戦争で当初米軍が使用していた主なクラスター弾は、対物・対人用の子弾を搭載したCBU- 2 /AやCBU-14でした。しかし、これらの爆弾は低空から投下しないと子弾が効果的に散布できず、航空機が対空砲火に晒される危険があったため、より高い高度から投下可能なCBU-24が開発されました。CBU-24は、 対 人 用 の 子 弾BLU-26を640-670発搭載しています。BLU-26には直径約6mmの鋼鉄球が300個入っており(全ての子弾で約20万個)、爆発により鋼鉄球が高速で周囲に飛散し人間を殺傷するのです。
この子爆弾は、ラオスの人々には、「ボンビー」として知られ、それぞれテニスボールほどの大きさですが、その中に入っている300個の鉄球が、周辺の人々を殺傷する能力があります。
<訳注おわり>

藤永 茂 (2012年9月19日)



シリアとリビア(3)

2012-09-12 11:19:26 | 日記・エッセイ・コラム
 私の英国新聞ガーディアン(1821年創刊)への信頼は30年ほど前に遡ります。カナダの大学でスペイン人の同僚から、その頃出ていたマンチェスター・ガーディアンの週刊国際版を購読するように勧められました。その同僚は優れた量子化学者でしたがスペインに残っていたフランコ(1892-1975)の影響に強く批判的でした。ガーディアンは英国の大新聞ですが、以前のマンチェスター・ガーディアンの名が示すように、工業都市マンチェスターの進歩的思想を基盤に生まれてきた新聞でした。名著『IMPERIALISM』の著者 J. A. Hobson もその重要な寄稿者だった時代があります。その190年目の誕生日、2011年5月5日、の社説に「The paper has essentially changed neither its ownership nor its character during its long life.」とありますが、残念なことに、200年記念日には、この一行を繰り返すことは出来ないでしょう。このブログの前回では、8月26日付けの英国のオブザーバー(ガーディアン紙の日曜版)に出た、
『Libya's promised reconstruction bonanza fails to materialise (リビアで約束された復興事業大儲けは当て外れ)』(Chris Stephen in Tripoli and Simon Goodley, The Observer, Sunday 26 August 2012)
という、在りし日のガーディアンの名に値しない軽率で信頼性のない記事を紹介しました。
 同じく、8月29日のガーディアンには Martin Chulov という記者の
『Syria: the point of no return (シリア:もう引き返せない)』という記事が出ています。完全に反シリア政府側に立った記事ですが、その事だけで直ぐにこの記事の批判を始めるほどの自信を私は持ち合わせません。長い記事からこの地域の政情の歴史について、むしろ、大いに学ぶ所がありました。この記事へのコメントは総数91で閉じられていますが、なかなか面白い読み物です。こんなのもあります。:
■ Seriously Guardian you should be ashamed of your blatant bias towards the FSA, you've really lost a lot of respect from me and I'm beginning to question whether your rag is on the Propaganda Pay role of MI6. (ほんとに、ガーディアンさん、貴公のなりふり構わぬ自由シリア軍びいきを恥ずかしいとは思わないのかね。私は、貴紙に対する尊敬の念をごっそり無くしてしまって、この紙くず新聞はMI6(英国情報局秘密情報部)の宣伝に雇われてるんじゃないかな、なんて思いはじめている)。■
また、もう一つのコメントには、「At least there's one genuine investigative journalist in Syria. (少なくとも一人の本物の調査報道記者がシリアにはいる)」として、このブログの前々回にお勧めしたロバート・フィスクの書いた記事の中の一つ、
[8月29日:Robert Fisk: Inside Daraya - how a failed prisoner swap turned into a massacre]、を挙げています。

http://www.independent.co.uk/voices/commentators/fisk/robert-fisk-inside-daraya--how-a-failed-prisoner-swap-turned-into-a-massacre-8084727.html

 ニュース、報道といったものが、ほぼ完全に戦争の武器システムの一部に組み入れられてしまった今、シリア国軍と自由シリア軍のどちらが、よりむごたらしくシリアの一般市民を殺戮しているのか、私にはもはや見当もつきません。反政府軍を支持する側には、リビアの場合と同様のNATO空軍による空爆を要請する声がしきりです。リビアでの空爆のことを憶えていますか?NATO空軍の出撃回数は9700回、その攻撃目標の三分の一は民間施設でした。これはNATOの公式発表です。一般市民の死傷者総数については推定すら報じられませんでしたが、民間の建物や施設に戦闘爆撃機が3000回も襲いかかる様子を想像して下さい。この空爆は「リビア国民を独裁者カダフィの暴虐から守って上げる」という結構な人道的理由の下に行なわれました。私が信頼するジャーナリストであるジョン・ピルジャーによれば、カダフィ政権に反対の立場をとっていたリビア国内の人権団体の一つ(the Libyan Observatory for Human Rights)が、さる7月21日に、“リビアの今の人権状況はカダフィ政権下より遥かに悪い(far worse)”と報じたそうです。
 長い間、信用してきたガーディアンにガッカリしてしまったと私がいうのを聞いて、そんなことは今さら新しいニュースでも何でもない、とジャーナリズム専門の先生たちはおっしゃるに違いない。しかし、そこに問題があります。現に作動しているジャーナリズムの世界で、私たち一般大衆に与えられる報道にあらゆるバイアスが意図的にかけられていて、一貫した無視もその手段であることを私たち大衆に知らせる行為に踏み切れば、職業的に疎外され、いい所からお声がかからなくなることを怖れて、私たちにそれを教えてはくれないわけです。
 ル・モンド・ディプロマティーク誌も近頃はあまり読まなくなりました。変質しています。イグナシオ・ラモネが編集長だった時代を懐かしく思い出します。それは、彼の言うことが気に入っていたという事もありましょうが(つまり私の偏向)、決してそれだけではなく、頼りになる情報源としての信頼がありました。テレビ局アルジャジーラの変貌は語る気にもなりません。

藤永 茂 (2012年9月12日)



シリアとリビア(2)

2012-09-05 11:39:12 | 日記・エッセイ・コラム
 シリアで起っている事は、リビアで起った事と本質的に同じです。リビアという独立国を破壊した暴力と同じ暴力が、同じ事を繰り返すためにシリアという独立国に襲いかかっています。「凶暴な独裁者に苦しめられている国民を救い、民主主義政府を樹立する」という物のいい方も全く同じです。米欧が目指すのは、この言いがかりの下で、気に入らない事をする政権を打倒して、言いなりになる傀儡政権を“民主的選挙”という常套手段で樹立する事です。破壊された国の国内の平和と秩序が回復されなくても、例えば、民族間や宗派間の抗争が擾乱を機に激しくなって治安が悪化しても、痛くも痒くもないのです。戦争状態、準戦時状態が継続する方が、利潤が連続保証される企業が沢山あって、それこそが、むしろ、戦争がだらだらと続いて止まらない根源的な理由です。
 ちょうど一年前、リビアという北アフリカの国が国際法を全く無視した攻撃によって破壊されたことが確認された時、私はこのブログに三つの記事を掲げてリビアに挽歌を捧げました。:
*『リビア挽歌(1)』     (2011年8月24日)
*『リビア挽歌(2)』     (2011年8月31日)
*『気楽に英文記事を読む習慣』 (2011年9月1日)
三番目の記事の終りには次のように書きました。
■ 2011年5月25日付けのブログ『Win-Winの賭け事?』で、私が表現したかったことは、リビアやハイチやコンゴの近未来についての私の暗い予想は、実は、当ってほしくないという私の気持でした。今、私は、リビアに関する多数の英文記事をインターネットのあらゆるソースから取ってきて、せっせとストアしています。この頃のコンピューター・メモリーの信じ難い(特に私のような初期の磁気コア記憶装置の時代を知る者にとって)巨大さをつくづく有難く思っているところです。いくらでも貯められるからです。何故こんなにも貯め込むのか? 現在圧倒的多数の人々が「リビアでは事がうまくいった。人道主義と民主主義が勝利した」と言祝いでいます。それも、イラクやアフガニスタンの侵略戦争に反対する多くの論客が「The Libya Model(リビア方式)」は成功だったと評価しているのには、全く驚かされます。しかし、今こうして彼らの発言とマスメディアの報道を蒐集保存しておけば、 3年も経たない内に、彼らが正しかったか、それとも、私の悲観的見方が正しかったか、がはっきり分かると思うからです。
  「それが分かって何になる」という声が聞こえてくるような気がします。その通りです。あと3年、生きているかどうかも全くあやしい私にとっては、尚更のことと言えましょう。けれども、やはり、私は真実を知りたい。生半可な絶望の中に没するよりも、絶望を確認してから死ぬほうが、日本人らしい選択だとは言えませんか?■
 日本の一般の人々はリビアの事などもう忘れてしまったでしょう。私はネット上でリビアに関する記事を、相変わらず、追い続け、蒐集を続けています。しかし、“彼らが正しかったか、それとも、私の悲観的見方が正しかったか”という“賭け”の答えは、3年どころか2年も待つ必要なく、出てしまったようです。悲しいことに、私の勝ちは、僅か1年で、ほぼ確定しました。
 8月26日付けの英国のオブザーバー(ガーディアン紙の日曜版)に次のタイトルの経済記事が出ました。:
『Libya's promised reconstruction bonanza fails to materialise (リビアで約束された復興事業大儲けは当て外れ)』(Chris Stephen in Tripoli and Simon Goodley, The Observer, Sunday 26 August 2012)
 書き出しは:
■ Regatta is a large gated compound set aside for foreign business executives on the coast west of Tripoli. Most of its homes lie empty, many ransacked by militias, and sand blown in from the seafront forms little dunes on its roads. It wasn't meant to be like this.
(レガッタは、トリポリの西の海岸沿いにある外国企業幹部のための囲いをめぐらせた大きな住宅群地区である。住宅の殆どは空き家になっていて、その多くは民兵たちによって略奪され、通りの路上には海辺から風で吹寄せられた砂が小さな砂丘をつくっている。こんな筈ではなかったのだが。)■
この経済記事は、戦後のリビアの復興事業への外国企業、とりわけ、英国系企業の進出がひどくノロノロしている事を論じているのですが、基本的な理由は簡単で、治安がひどく悪いからです。英国の外務省の公式な旅行アドバイスを見ても「余程の必要がない限り、リビアは危険だから行くな」と書いてあります。リビアのいわゆる“民主選挙”は7月7日に、一応、事なく行なわれましたが、2ヶ月たってもまだ政府の組閣が成功していません。しかし、この記事で最も驚かされるのは次の部分です。
■ After 40 years of idiosyncratic dictatorship, Libya's six million people are hungry for everything from roads and hospitals to phones and fashion. The country has no railway and no public bus service. UK Trade and Investment estimates Libya will eventually spend more than £125bn on reconstruction. (40年間の奇態な独裁政治の果てに、リビアの6百万の国民は、道路や病院から電話やファッションにいたるまであらゆるものに飢えている。この国は鉄道もなければ公共のバス・サービスもない。英国貿易投資当局の見積もりでは、リビアは結局のところ再建復興に1250億パウンド(1パウンド~現在約125円)費やすことになるだろう。)■
これにはオブザーバー(ガーディアンの日曜版)の読者の中にも驚いた人がいて、鋭いコメントが寄せられています。その一つ、engineman と名乗る人のコメントの一部を紹介します。:
■ Phew, now this is lying on a heroic scale!!? Messrs Christopher Stephen and Simon Goodly write ?Libyan people are hungry for everything from roads and hospitals to phones and fashion. The country has no roads and no public bus services. ?First everything BABOG has written in both his comments is absolutely true. ?I worked in Tripoli for five years in the eighties. ?Libya had at that time and they were still building- the finest network of roads I have ever seen designed and built by, I believe German companies. The hospitals and health clinics were superb beautifully designed again by western companies , lavishly equipped, most of the doctors being the best that East Europe could produce, Libya’s secondary education system I am not sure about (mainly Egyptian teachers) but the universities , all lessons in English with visiting British professors etc, were excellent. There was an excellent public bus service that I sometimes used. It was for Tunisian Pakistani and Turkish and other foreign workers and was very cheap. I suspect it has stopped working because all the drivers and engineers and indeed customers have gone home. As for ordinary Libyans, everyone EVERYONE had a car the streets were packed with pretty young Libyan girls driving to work usually in white Mercs or BMWs which were very cheap to import. (おやまあ、これはひどいほら話だ!お二方はリビア人たちが道路や病院から電話やオシャレ着まであらゆるものに飢えている、リビアには道路も公共バス・サービスもない、とおっしゃる。まず言って置くが、BABOG さんが彼の二つのコメントで書いていることはすべてその通りだ。80年代に5年間トリポリで私は働いていた。その頃リビアは既に私が見たうちで最高の道路網を持っていたし、建設中でもあった、たしか、ドイツの会社が設計し建設していたと思う。病院やクリニックもこれまたヨーロッパの会社が美しく設計した素晴らしいもので、贅沢な設備がととのい、医者の殆どは東欧で訓練された最高級の人々、主にエジプト人が先生をしていた中等教育システムはともかくとして、大学は、イギリス人の教授などが招かれて、講義はすべてが英語で行なわれて、素晴らしかった。公共のバス・サービスも素晴らしく、私も時々利用した。それはチュニジア、パキスタン、トルコなどの外人労働者のためのもので、とても安い運賃だった。そのバスが運行しなくなってしまったのは、運転手も技術者も、そして、当の乗客もすべて国に帰ってしまったからだと、私は推測する。普通のリビア人たちといえば、文字通り誰もが車を持っていて、街路は、とても安く輸入できた白のメルセデスとかBMWをドライブして通勤する綺麗な若いリビア人女性で一杯になっていたものだった。)■
上の文章の中に出ているBABOGと名乗る人のコメントは次の通りです。
■ I deplored Gaddafi's tyranny as much as the next person, but he provided the following:
1. Citizens paid no electricity bills?
2. Bank Loans were interest free
?3. Newly wedding couples received approximately US $50000
?4. Health and education were free
?5. People wishing to become farmers received land and tools free of charge
?6. State paid all expenses when people went abroad to seek medical treatment
?7. State paid 50 percent purchase price for private use vehicles?
8. Petrol cost was 0.14 cents?
9. Libya as a country was free of debt plus had cash reserves of 150 billion dollars - where is that now??
10. If no work was available state paid unemployed people the average salary till job found
?11. Small percent of oil sales passed to all Libyan's accounts?
12. Every newborn child received US $10,000
?13. 40 kilo of bread cost 0.15 cents
?14. 25 percent of Libyans had university degrees
?15. Great Man Made river project was the biggest ever workable solution to bring water to desert and gave work to thousands of Libyans
?16. Freedom and human rights were the highest in Africa/World as per http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_Human_Development_Index?
17. Libyan immigration stopped 30 years ago as conditions favor for people to stay and work in Libya ■
このbabogさんのコメントは少し褒め過ぎで、いまは過去となったカダフィ時代を懐かしむ発言かも知れませんが、私がこれまでチェックした限りにおいて、思想的弾圧はともかくとして、カダフィ独裁政権下のリビア国民の生活がかなり快適であったのは否定できない事実です。
 問題は上に一部訳出した英国のオブザーバー(ガーディアン紙の日曜版)の記事です。筆者である二人の記者は、engineman 氏が書いている、破滅以前のトリポリの状態を知らなかった筈がありません。オブザーバーの記事をもう一度見てみましょう。仮に、二番目の引用部分の冒頭の一句、“After 40 years of idiosyncratic dictatorship,”、を取り除いて読んでみると、壊滅から一年が経過した現在のリビアの状況の記述として、はなはだ正確なリポートになっているのだと思われます。つまり、一年経っても、戦火擾乱による市民生活の破壊から殆ど何も復旧していないということです。それが、ただ“40年間の奇態な独裁政治の果てに、”という魔術的な一句を投げ入れることによって、記事全体の意味が一変してしまいました。これが意識的に行なわれた欺瞞でなく何でありましょう。
 英国のガーディアン紙といえば、ニューヨークタイムズやワシントンポストなどが早々と御用新聞に成り果てた後、多くの人々の信頼を繋いでいた存在でしたが、最近は悪い徴候ばかりです。私のようなものにさえ変貌が分かるのですから事は重大です。次回に取り上げます。

藤永 茂 (2012年9月5日)