<翻訳つづき>
私はアメリカ的価値観を信じて成人したが、無辜の非戦闘員に対するこの爆撃はそのアメリカ価値条項の一つ残らずに違反していた。ラオス難民収容所に身を置く観点からアメリカ大統領府幹部を見据えることで、数週間のうちに、彼らが、人間の道義、民主主義、人権、そして国際法の敵であることを、そして、この現実の世界では、勝てば官軍であり、犯罪は結構儲かる、ということを教えられたのであった。アメリカ国内で、アメリカは“人間でなく、法が支配する国(nation of law, not men)”だと<訳注:アメリカ建国の基礎理念、ジョン・アダムズの言葉>人々が如何に強く信じようと、ラオスでは、アメリカは明らかに残酷な、野蛮な、無法の人間たちの国であった。
意識的に心を決めることなど飛び越えて、私は即座に、この想像を絶する惨禍を食い止めるために自分が出来ることなら何でもしようと固く決心をしてしまっていた。一人のユダヤ人としてホロコーストのことが心に沁み込んでいた私は、殺戮が進行中のアウシュヴィッツや ブーヘンヴァルトの真実を目の前に見るかのように感じたのだ。気が付くと、私は、誰でも見つかり次第?CBSのバーナード・カルブ、ABCのテッド・コッペル、NYTのフローラ・ルイスなどのジャーナリストたちを含めて?難民キャンプに連れて行って、ラオス爆撃の取材をさせ、それを世界中に暴露して貰おうと、一生懸命になっていた。
ある日、私は三人の反戦運動家?ダッグ・ダウド、リチャード・フェルナンデス、ノーム・チョムスキー?がハノイに一週間滞在するためにICC(International Control Commission, 国際休戦監視委員会)の飛行機に乗る前に、ビエンチャンのホテル・レイン・ザンに数夜滞在していることを耳にした。(これが、当時、ノン・ペン経由以外でハノイに行く唯一の道だった。)私は彼らの部屋の一つを訪れて、4人は会合した。その翌日、ノームは、二日後のハノイ行きの準備をするかたわら、私が夕食をとる場所として暮らしていた村にやってきた。
それまで私は1960年代の殆どを中東、タンザニア、ラオスで過ごしていたので、ダッグやディックやノームのことをあまりよく知っていなかった。ただ、ノームが有名な言語学者で、インドシナ戦争について沢山書いているのは知っていた。私が三人に会った時、私が力を集中していたのは、このラオス爆撃の事態の重大さを彼らに知らせることで、彼らがそれについて何かしてくれることを願っていたのだ。
個人的なレベルでは私は直ぐさまノームが好きになった。彼の態度は温厚だったが一途なところがあり?この一途さは彼と私の共通点だったが?そして、目に見えて面倒見のいい人物だった。私がラオス爆撃に反感をつのらせた理由の一つは、私がそれまでの三年間その村に住みついて、人間としてのラオス人たちを肌で知ったことにあった。-- とりわけ、私が親爺の代理みたいに愛するようになったポー・スウ・ドウアンという名の70歳の男性を知ったことだ。彼は親切で賢明で温和であり、私はそれまでに会った誰にも劣らず彼を尊敬した。私たちがポー・スウとその家族と一緒に夕食をとった間、ノームが思いやりを込めてポー・スウに話しかける有様に、私はいたく心を打たれた。ノームは、私がそれまで村に連れてきた他の多くの訪問者に見ることのなかった即座の親近感をポー・スウとその家族に感じたに違いなかった。彼はまたラオスで起っている事の詳細について集中した関心を示したから、私はすっかり嬉しくなってそれに応えたのだった。
次の日、三人は困ったニュースに接した:ハノイへのICC便がキャンセルになって、次の便は一週間後というのだ。三人とも多忙な予定があり、一週間帰国するプランを立て始めた。私は、しかし、ノームにこのままここに留まらないかと言ってみた。爆撃からの難民や、アメリカ大使館員、ラオス政府閣僚、スーヴァナ・プーマ首相、パテート・ラオの代表や、前にゲリラ兵だった人物に会えるように手配をすることが出来ると私はノームに言った。こうしたことはそれまでも報道陣に対して申し出ていたことだった。彼の観点からすると、これはラオスでアメリカが実施している秘密の戦争について学ぶ又とない機会だったし、私の観点からは、このラオス爆撃を、その阻止のために、世界中に知らしめる努力の一部をなすものであった。
ノームは同意した。そして、私が思うのに、両人とも人生の最もユニーな経験の一つをすることになった。-- 彼は私のモーターバイクの背に乗り、私は彼を乗せてビエンチャンの街を走り回る。その時点では外部の世界には殆ど知られていなかったアメリカの秘密の戦争について、ノームは知りうる限りのことを知りたいと思い詰めていた。その前の6年間アメリカがラオスを爆撃していたことを、リチャード・ニクソンが初めて遂に認めたのは、その翌月のことだった。もっとも、ニクソンもヘンリー・キッシンジャーも爆撃は軍事目標だけに限られていると嘘を吐き続けてはいたが。
一緒だった一週間からノームについての特別に鮮やかな記憶が沢山よみがえってくる。彼が新聞を読むところを見ていると、一つの頁を凝視している、それを記憶に叩き込んでいるみたい、それから間もなく、ページをめくり今度は次の頁にじっと見入る、といった具合。ある日、夜10時頃、私はラオスでの戦争に関する500頁の本を彼に手渡し、その翌朝、アメリカ大使館で政務官ジム・マーフィーと会うために出かける前に、朝食をノームと共にした。大使館での会見の際、ラオスに入っている北ベトナム軍の兵員数が話題にあがった。大使館側は5万人がラオスに侵攻していると主張したが、数千人以上ではないという明らかな証拠があった。ノームが、前の晩に私が手渡した本の何百頁目かにある一つの脚注を引用して、数千人を上回らないことを言い出した時には、私は椅子から落ちんばかりに驚いた。“写真で撮ったような記憶力(photographic memory)”なるものを聞いたことはあったが、実際にそれに出会ったことはなかったし、それが立派に使われるのも見たことはなかった。(興味深いことだが、ジム・マーフィーがノームに見せた大使館内部文書でも数千人という数が確かめられており、後日、ノームが書いた“アジアを敵に回して”という本の中のラオスについての長い章にもその文書が引用されている。)
私はまた彼の自己軽視に心を打たれた。彼は、私がそれまでに会った“大物”ジャーナリストの殆どと全く対蹠的に、彼自身について語ることに嫌悪をさえ覚えるかのようだった。彼は下らぬ些細事や、ゴシップや有名人についての話には何の興味も示さず、関わりのある重大問題に集中していた。彼は、自分の言語学の業績を、インドシナで進行中の大量虐殺に反対することに較べれば重要ではないと言って、自ら軽んじた。ビエンチャンの悪名高い夜の歓楽、観光スポットには目もくれず、ホテルのプールサイドでリラックスすることにも何の興味も示さなかった。明らかに、彼は意欲に燃え、使命感にみちた男だった。真正の知識人、あたまで生きている人間だった。だから私には彼がよく分かった。私もまた、あたまで生き、使命を持っていたからだ。
しかし、飛び抜けて私に感銘を与えた事件は、ジャール平原からの難民を収容したキャンプに我々が赴いた時に起った。それまでにも私は数十人のジャーナリストやその他の人々を難民収容所に連れて行った経験があったが、彼らの殆どすべては難民が味わった苦難から感情的に距離をとろうとした。CBSのバーナード・カルブであれ、NBCのウェルス・ハンゲン、NYTのシドニー・スキャンバーグであれ、彼らは丁重に聞き取りをし、質問をし、ノートを取って、そのあとホテルに帰って報道記事を書いた。彼らは記事を書くのに必要なこと以外に、難民たちが生き抜いてきた苦難には殆ど何の感情も興味も示さなかった。ホテルに帰る車の中でのわれわれの会話は、普通もっぱら、その日の夕餉に関したことか次の日の予定についてであった。
こういう風だったから、私がノームの質問と難民たちの返答を通訳していると、突然、彼がくずおれて泣き出した時には、あっけにとられてしまった。私が難民キャンプに連れて行った他の人々の殆どは、涙を流すという、いわば、人間として最も自然な反応を示そうとしなかったものだから、ノームの涙はなおさら私の心を打った。私には、それまで、ノームがあくまで知的でアイディア、言語、概念の世界に生きる人間に思えていたし、何事につけても滅多に感情的になることはなかったから、彼が涙を流すのを見た時、私は彼の魂を覗き込んだ思いがしたのだ。そして、あの難民収容所で涙を流す彼という視覚的イメージは、それ以来,決して私から離れなかった。私がノームを思う時、目に浮かぶのはこれである。
藤永 茂 (2012年9月26日)
私はアメリカ的価値観を信じて成人したが、無辜の非戦闘員に対するこの爆撃はそのアメリカ価値条項の一つ残らずに違反していた。ラオス難民収容所に身を置く観点からアメリカ大統領府幹部を見据えることで、数週間のうちに、彼らが、人間の道義、民主主義、人権、そして国際法の敵であることを、そして、この現実の世界では、勝てば官軍であり、犯罪は結構儲かる、ということを教えられたのであった。アメリカ国内で、アメリカは“人間でなく、法が支配する国(nation of law, not men)”だと<訳注:アメリカ建国の基礎理念、ジョン・アダムズの言葉>人々が如何に強く信じようと、ラオスでは、アメリカは明らかに残酷な、野蛮な、無法の人間たちの国であった。
意識的に心を決めることなど飛び越えて、私は即座に、この想像を絶する惨禍を食い止めるために自分が出来ることなら何でもしようと固く決心をしてしまっていた。一人のユダヤ人としてホロコーストのことが心に沁み込んでいた私は、殺戮が進行中のアウシュヴィッツや ブーヘンヴァルトの真実を目の前に見るかのように感じたのだ。気が付くと、私は、誰でも見つかり次第?CBSのバーナード・カルブ、ABCのテッド・コッペル、NYTのフローラ・ルイスなどのジャーナリストたちを含めて?難民キャンプに連れて行って、ラオス爆撃の取材をさせ、それを世界中に暴露して貰おうと、一生懸命になっていた。
ある日、私は三人の反戦運動家?ダッグ・ダウド、リチャード・フェルナンデス、ノーム・チョムスキー?がハノイに一週間滞在するためにICC(International Control Commission, 国際休戦監視委員会)の飛行機に乗る前に、ビエンチャンのホテル・レイン・ザンに数夜滞在していることを耳にした。(これが、当時、ノン・ペン経由以外でハノイに行く唯一の道だった。)私は彼らの部屋の一つを訪れて、4人は会合した。その翌日、ノームは、二日後のハノイ行きの準備をするかたわら、私が夕食をとる場所として暮らしていた村にやってきた。
それまで私は1960年代の殆どを中東、タンザニア、ラオスで過ごしていたので、ダッグやディックやノームのことをあまりよく知っていなかった。ただ、ノームが有名な言語学者で、インドシナ戦争について沢山書いているのは知っていた。私が三人に会った時、私が力を集中していたのは、このラオス爆撃の事態の重大さを彼らに知らせることで、彼らがそれについて何かしてくれることを願っていたのだ。
個人的なレベルでは私は直ぐさまノームが好きになった。彼の態度は温厚だったが一途なところがあり?この一途さは彼と私の共通点だったが?そして、目に見えて面倒見のいい人物だった。私がラオス爆撃に反感をつのらせた理由の一つは、私がそれまでの三年間その村に住みついて、人間としてのラオス人たちを肌で知ったことにあった。-- とりわけ、私が親爺の代理みたいに愛するようになったポー・スウ・ドウアンという名の70歳の男性を知ったことだ。彼は親切で賢明で温和であり、私はそれまでに会った誰にも劣らず彼を尊敬した。私たちがポー・スウとその家族と一緒に夕食をとった間、ノームが思いやりを込めてポー・スウに話しかける有様に、私はいたく心を打たれた。ノームは、私がそれまで村に連れてきた他の多くの訪問者に見ることのなかった即座の親近感をポー・スウとその家族に感じたに違いなかった。彼はまたラオスで起っている事の詳細について集中した関心を示したから、私はすっかり嬉しくなってそれに応えたのだった。
次の日、三人は困ったニュースに接した:ハノイへのICC便がキャンセルになって、次の便は一週間後というのだ。三人とも多忙な予定があり、一週間帰国するプランを立て始めた。私は、しかし、ノームにこのままここに留まらないかと言ってみた。爆撃からの難民や、アメリカ大使館員、ラオス政府閣僚、スーヴァナ・プーマ首相、パテート・ラオの代表や、前にゲリラ兵だった人物に会えるように手配をすることが出来ると私はノームに言った。こうしたことはそれまでも報道陣に対して申し出ていたことだった。彼の観点からすると、これはラオスでアメリカが実施している秘密の戦争について学ぶ又とない機会だったし、私の観点からは、このラオス爆撃を、その阻止のために、世界中に知らしめる努力の一部をなすものであった。
ノームは同意した。そして、私が思うのに、両人とも人生の最もユニーな経験の一つをすることになった。-- 彼は私のモーターバイクの背に乗り、私は彼を乗せてビエンチャンの街を走り回る。その時点では外部の世界には殆ど知られていなかったアメリカの秘密の戦争について、ノームは知りうる限りのことを知りたいと思い詰めていた。その前の6年間アメリカがラオスを爆撃していたことを、リチャード・ニクソンが初めて遂に認めたのは、その翌月のことだった。もっとも、ニクソンもヘンリー・キッシンジャーも爆撃は軍事目標だけに限られていると嘘を吐き続けてはいたが。
一緒だった一週間からノームについての特別に鮮やかな記憶が沢山よみがえってくる。彼が新聞を読むところを見ていると、一つの頁を凝視している、それを記憶に叩き込んでいるみたい、それから間もなく、ページをめくり今度は次の頁にじっと見入る、といった具合。ある日、夜10時頃、私はラオスでの戦争に関する500頁の本を彼に手渡し、その翌朝、アメリカ大使館で政務官ジム・マーフィーと会うために出かける前に、朝食をノームと共にした。大使館での会見の際、ラオスに入っている北ベトナム軍の兵員数が話題にあがった。大使館側は5万人がラオスに侵攻していると主張したが、数千人以上ではないという明らかな証拠があった。ノームが、前の晩に私が手渡した本の何百頁目かにある一つの脚注を引用して、数千人を上回らないことを言い出した時には、私は椅子から落ちんばかりに驚いた。“写真で撮ったような記憶力(photographic memory)”なるものを聞いたことはあったが、実際にそれに出会ったことはなかったし、それが立派に使われるのも見たことはなかった。(興味深いことだが、ジム・マーフィーがノームに見せた大使館内部文書でも数千人という数が確かめられており、後日、ノームが書いた“アジアを敵に回して”という本の中のラオスについての長い章にもその文書が引用されている。)
私はまた彼の自己軽視に心を打たれた。彼は、私がそれまでに会った“大物”ジャーナリストの殆どと全く対蹠的に、彼自身について語ることに嫌悪をさえ覚えるかのようだった。彼は下らぬ些細事や、ゴシップや有名人についての話には何の興味も示さず、関わりのある重大問題に集中していた。彼は、自分の言語学の業績を、インドシナで進行中の大量虐殺に反対することに較べれば重要ではないと言って、自ら軽んじた。ビエンチャンの悪名高い夜の歓楽、観光スポットには目もくれず、ホテルのプールサイドでリラックスすることにも何の興味も示さなかった。明らかに、彼は意欲に燃え、使命感にみちた男だった。真正の知識人、あたまで生きている人間だった。だから私には彼がよく分かった。私もまた、あたまで生き、使命を持っていたからだ。
しかし、飛び抜けて私に感銘を与えた事件は、ジャール平原からの難民を収容したキャンプに我々が赴いた時に起った。それまでにも私は数十人のジャーナリストやその他の人々を難民収容所に連れて行った経験があったが、彼らの殆どすべては難民が味わった苦難から感情的に距離をとろうとした。CBSのバーナード・カルブであれ、NBCのウェルス・ハンゲン、NYTのシドニー・スキャンバーグであれ、彼らは丁重に聞き取りをし、質問をし、ノートを取って、そのあとホテルに帰って報道記事を書いた。彼らは記事を書くのに必要なこと以外に、難民たちが生き抜いてきた苦難には殆ど何の感情も興味も示さなかった。ホテルに帰る車の中でのわれわれの会話は、普通もっぱら、その日の夕餉に関したことか次の日の予定についてであった。
こういう風だったから、私がノームの質問と難民たちの返答を通訳していると、突然、彼がくずおれて泣き出した時には、あっけにとられてしまった。私が難民キャンプに連れて行った他の人々の殆どは、涙を流すという、いわば、人間として最も自然な反応を示そうとしなかったものだから、ノームの涙はなおさら私の心を打った。私には、それまで、ノームがあくまで知的でアイディア、言語、概念の世界に生きる人間に思えていたし、何事につけても滅多に感情的になることはなかったから、彼が涙を流すのを見た時、私は彼の魂を覗き込んだ思いがしたのだ。そして、あの難民収容所で涙を流す彼という視覚的イメージは、それ以来,決して私から離れなかった。私がノームを思う時、目に浮かぶのはこれである。
藤永 茂 (2012年9月26日)