私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

カール・ヤスパースのオッペンハイマー批判

2024-05-23 11:32:24 | 日記
 アルベール・カミュは1842年7月に『異邦人』を刊行し、同年12月に彼の哲学的著作『シーシュポスの神話』を刊行しました。その始めのところで、カミュはカール・ヤスパースの言葉を引用して、人間の存在についてのヤスパースの実存哲学的思考に批判と反抗を試みています。

 ロバート・オッペンハイマーは1904年に生まれ、1967年になくなりました。百年目を記念して、『Reappraising Oppenheimer  Centennial Studies and Reflections』(Edited by Cathryn Carson and David A. Hollinger, 2005) という本が出版されました。タイトル通り、「オッペンハイマーを評価し直す」ことを標榜する学術書的出版物です。2頁の写真を含めて、細字425頁、読み応えは充分ですが、私がその内容に異議を唱える余地も充分あります。私が特に注目する章が三つ、18、14、13 の3章で、第18章は既に取り上げました。第14章は、Charles Thorpeの『The Scientist in Mass Society  J. Robert Oppenheimer and the Postwar Liberal Imagination』と題する本文22頁の論考です。チャールズ・ソープはカリフォルニア大学(サンディエゴ分校)の社会学部の教授。内容は同教授著の『オッペンハイマー 悲劇の知識人』(2006年)に概ね依存しています。この論考のp304に、1959年にC.P.スノーがケンブリッジ大学で行った講演「二つの文化」の自然科学的文化高揚の主張に関連して、同年末に行われた、オッペンハイマーの原爆文明論的発言が取り上げられていますので、その部分を以下にコピーします:

  In contrast to Snow’s call for more science against Oxbridge humanism, Oppenheimer argued that the public culture had been stunned by “overemphasis … of the role of certitude,” based on the prestige of science. This was particularly the case regarding atomic weapons which were now usually addressed in terms of rational-choice models rather than ethics. “What are we think of such a civilization,” Oppenheimer asked, “which has not been able to talk about the prospect of killing almost everybody, except in prudential and game-theoretical terms?”
  It was , however, unclear what position on nuclear weapons Oppenheimer was suggesting as an alternative. The philosopher Karl Jaspers articulated a common complaint  about the difficulty of pinning down Oppenheimer’s ethical and political views. Referring to Oppenheimer’s quasi-religious appeal at the end of “Prospects in the arts and sciences” to “love one another,” Jaspers wrote : “ In such sentences I can see only an escape into sophisticated aestheticism, into phrases that are existentially confusing, seductive, and soporific in relation to reality.”
  Novelist Mary McCarthy took Oppenheimer’s frequent  but vague talk about love as a sign that he finally lost his marbles. Writing to Hannah Arendt about the CCF conference “Progress in Freedom” held in Berlin in June 1960, she said, “Another feature of the Congress was Oppenheimer, who took me out to dinner and is, I discovered, completely and even dangerously mad. Paranoid megalomaniac and sense of divine mission.” At one point, Oppenheimer turned to CCF Secretary General Nicolas Nabokov “and said the Congress was being run ‘without love’. After he had repeated several times, I remarked that I thought the word ‘love’ should be reserved for the relation between the sexes.”

長い原文引用ですが、重要な内容ですので、ネット上で得られる知識や翻訳アプリを使って読んで下さい。CCF (Congress for Cultural Freedom, 文化自由会議)  は1950年に西ベルリンで発足した反共文化人団体で、もともと米国のCIAによって創設されていたことが1967年になって暴露されました。オッペンハイマーがソ連のスパイ疑惑で公職追放になったのは1954年4月ですから、その彼をソ蓮共産主義に対する反共運動に動員する米国国家権力というものの強かさを思わざるを得ません。そして、このチャールズ・ソープ教授の文章で一番顕著な事は、「原爆の父」オッペンハイマーが「愛」という無意味な言葉を持ち出して自己の責任を曖昧にしていることに対する批判、あるいは、非難です。こうした場合によく使われる手口は、批判される当人の発言を一部分だけ引用することや有力な有名人の言葉を引用利用することです。以下に、私の反論を述べてみます。

 まず、オッペンハイマーの曖昧な発言の例として引用されている発言ですが、拙著『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(ちくま学芸文庫)の313頁から、もっと詳しく長い発言の内容を書き写します:
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一九五九年、スイスのラインフェルデンで行った講演の中で、オッペンハイマーは、水爆とミサイルの開発に狂奔する祖国アメリカを次のように論じている。「核兵器の問題について高貴で厳粛な倫理的議論が行われていなという事実の前で私は深く苦悩する。たしかに、これまで、抜け目のない議論(prudent discussion) 、戦略論、ゲーム理論ならばたくさんあった。… ほとんど全ての人間を殺戮し尽くす可能性を論ずる時、計算高い、ゲーム理論の言葉で (in prudential and game-theoretic terms) しか語れないでいる我々の文明 (civilization) を、我々は何と考えればよいのか。悪いことをした敵に対してだけ使うのであれば原爆水爆もどうということはないという見解を、西側、特に我が国が表明した全ての場合に、我々は誤りを犯してきたのである。第二次世界大戦における戦略爆撃作戦 — これこそがこの大戦の全面的特徴であった — から歴史的に結果した良心の痛みの喪失こそ、世界の自由、人間の自由の促進の重大な障害となっているのである。
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ここには、一片の曖昧さもありません。今、現在の戦乱の世界の空にも響き渡るべき喫緊の警鐘です。オッペンハイマーが人間の持つ悪しき意味での prudence  を如何に忌み嫌ったかも、はっきりと読み取れます。この言葉がオッペンハイマーという謎(私は謎とは思いませんが)を解くキーワードだとすれば、メアリー・マッカーシーはこれを知らなかったので、謎を間違えて解いた、あるいは、全く解き損ねたことになります。作家メアリー・マッカーシーがハンナ・アーレントに書き送った手紙の中の lose one’s marbles とは「気が狂う」「頭がおかしくなる」という意味です。この手紙の調子は品位に欠けていると思います。

 オッペンハイマーがCCFで頻発したとされる「愛(love)」という言葉について、興味深い文献を見つけました。1960年9月21日に、東京文京区公会堂で行われたオッペンハイマーの『科学時代における文明の将来』と題する講演内容の記録(日本語訳)です。安保闘争最中の事でした。講演の始めに妙な発言があります:「私の講演の題目は「文明の将来」というのでありますが、これは私がつけた題ではありません。私はこの言葉を気安く使いません。と申しますのは、私は、私の国や日本の同僚の多くと同じように、この将来なるものの存在そのことに深い疑いを抱いているものであるからです。」 これは妙な発言です。一体、誰がつけた題目なのでしょうか?何しろ、オッペンハイマーの訪日と重なって、時の米国国務長官キッシンジャーも訪日していたのですから。講演の全文(日本語訳)は次のサイトにあります:


今、私が特に着目するのは、このオッペンハイマーの講演の結びの部分です:

「 我々には責任が、歴 史に対する、他 の人間に対す る責任があります。こ れは我々に不可避的に課せられた条件です。我 々の役割は、一 つには平和を維持できるよ うに、今 一つには、そ れなくては本当の入間であるとは言えない倫理的義務 ともっと完全 に適合す るように、社 会 や人間 の諸制度 を作 り変 えることです。この目的のためには、ま ずお互いの問で忍耐強く、又、軽蔑 を交 えないで話 し合 うことを学 ばねばな りません。そ して 、人の話 に耳 を傾 け ることを学ぶ必要があ ります。
この現代世界、絶 えず変化し、前例のない新しさに満 ち、理 解するのに困難な、全 く変化した生活をいとなみ、 ものが もっと単純 で身近か であった時代 に深い郷愁 を感じさせる世界にある我々には、二 重の責務があります。その一つは,各 々の仕事にはげみ、技 倆を保ち、能 力の許すかぎりで最上の専門家となることです。こ れは我々 が専門的技術者 として又一箇 の人間 として生 きる為 であり、こ れによって我々の知的な誠実さが保たれるのです。他方又、我 々は自分のよく知らぬ物ごとにも、寛容と友 情を以って接し、友人或いは他人の言うことに全力をあ げて耳を傾けることが必要です。こ の二重の責務を果すことはたやすいものではありません。もしそれができるとすればそれは、単に知的であるにとどまらぬもの、即ち、愛と友情と同胞愛によってであります。」

 この最後の結びの言葉「愛と友情と同胞愛」に、私は強く心を惹かれます。これはアルベール・カミュが生涯をかけて求め続けた「愛」と同じものだと、私には思えてならないのです。カミュにとって、まださやかでない「愛」はカミュの手帳の第5冊(1945年9月ー1948年4月)に現れます:

「反抗。死刑に関する第一章。同じく。終末。したがって、不条理から出発すれば、到着地点が何であれ、必ずなにかしらの愛の体験 — それをこれから定義しなければならないが — に行き着く。」(大久保敏彦訳「カミュの手帳」、頁295)
仏原語:「Revolte. ….. Ainsi, parti de l’absurde, il n’est pas possible de vivre la révolte sans aboutir en quelque point que ce soit a une experience de l’amour qui reste a definir.」

この「愛」を主題とした小説『最初の人間』は、1960年1月4日のカミュの突然の自動車事故死によって、未完原稿の形で残され、それから30余年後の1994年に刊行されました。しかし、それより前に、他の著作を通して、カミュの言う未定義の「愛」の意味はほぼ明らかになっていたと言えると私は考えます。そして、上述のように、オッペンハイマーが一種のもどかしさを伴って繰り返した「愛」という言葉も、本質的に、カミュが求めた人間と人間との真の連帯を意味していたと私は考えます。しかし、このことの詳しい説明は他日を期する事にして、カール・ヤスパースのオッペンハイマー批判に戻ります。

 カール・ヤスパースには、『Die Atombombe und die Zukunft des Menschen』(「原子爆弾と人類の将来」、1958年)という著作があり、今、私の手元にはその英訳本(シカゴ大学出版、1963年)があります。そのp201からp202にかけて、多くの物理学者が、「人類が新しい考え方をしなければ、将来は無い」と考えている事を指摘し、オッペンハイマーの恩師マックス・ボルンの発言を引いているので、その部分をコピーします:

Max Born, for example, sees the same way ahead as Einstein: the complete abolition of war and a power-free politics. “Today,” he says, “we do not have much time left; it is up to our generation to succeed in thinking differently. If we fail, the days of civilized humanity are numbered.”
We hear different language from a scientist like Oppenheimer, whom Jungk quotes as talking of “beauty,” of  “our faculty of seeing it in remote, strange, unfamiliar places,” of paths that “maintain existence in a great, open, windy world …. This is the premise of man, and on these terms we can help, because we love one another.” In such sentences I can see only an escape into sophisticated aestheticism, into phrases that are existentially confusing, seductive, and soporific in relation to reality.  In another direction, Wolfgang Pauli pointed to a long-neglected “inner road to salvation.”….

これがチャールズ・ソープのカール・ヤスパースからの引用の原文です。自分が展開したい論旨に基づいて、恣意的に原文がカットされている典型的な例と言えましょう。ヤスパースの原著ではオッペンハイマーに対する批判に続いて彼の師匠のパウリも槍玉に挙げられているのも興味深いところです。soporific は、辞書を見ると、「眠気を誘うような、催眠性の」と出ています。
 上に名前が挙がっているマックス・ボルンはゲッティンゲン大学でのオッペンハイマーの師ですが、それについて興味深い話があります。 ロスアラモスの後、オッペンハイマーはプリンストン高等研究所の所長になりましたが、ボルンは一度も招待されませんでした。オッペンハイマーをはじめとするボルンの昔の教え子たちが核兵器の開発に参加した事にボルンが批判的であったことがその理由だろうとボルンは考えていたようですが、そのボルンが晩年のオッペンハイマーに手紙を送って、政治家たちの冷笑と大衆の無関心に挑戦し、他の科学者たちが責任回避を試みる難問に立ち向かったオッペンハイマーを称揚したことがありました。オッペンハイマーはその恩師からの手紙に、心を込めた礼状を送りました:「私は、これまで私がしたことの大きな部分をあなたが容認しておられないように感じていました。あなたのお気持ちを、私はいまあなたと共にしています」
マックス・ボルンは人間としても奥の深い物理学者でしたから、人間としていささか出来そこないのこの弟子に、暖かな理解を持っていたのでしょう。

ロベルト・ユンクも反戦、反核に徹した誠に尊敬すべき論客でしたが、彼の名著『千の太陽よりも明るく: 原爆を造った科学者たち』の中のオッペンハイマー観には重大な偏向があります。それは、ユンクが、例の問題の男ハーコン・シュヴァリエー (Haakon Chevalier) から直々に聞いた話に基づいているからです。ハーコン・シュヴァリエーについてはここでは論じますまい。もしこの人物に本格的興味をお持ちの方は、ぜひ、次の二書を読んでから、この人物に対する判断を下していただきたいと思います;
*THE MAN WHO WOULD BE GOD (G.P. Putnam’s Sons  New York, 1959)
*OPPENHEIMER  The Story of a Friendship ( George Brazier  New York, 1965) 
ヤスパースのオッペンハイマー批判がハーコン・シュヴァリエーの言に依存していたとなれば、ヤスパースの批判の姿勢が、したがって、ソープの批判が的を外れたものであった事になります。
 現在、ノーランの映画『オッペンハイマー』上映を機に、無数の一過性コメントが世に氾濫していますが、もっと腰を入れたオッペンハイマー論が、日本で、生まれて欲しいものです。上に掲げたハーコン・シュヴァリエーの二冊の著作は、日本国内では入手し難いかもしれませんが、ご希望の方がおいでであれば、喜んでお貸し致しします。

藤永茂(2024年5月23日)

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