私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

訂正:クルチャコフは誤り。正しくはクルチャトフ

2024-06-28 19:59:33 | 日記
 「マスコミに載らない海外記事」さんが私の前回のブログ記事の中の物理学者の名前の誤りを指摘してくださいました。
 クルチャコフは誤りで、正しくはクルチャトフです。ご指摘有難うございました。

藤永茂(2024年6月28日)

サハロフとオッペンハイマー

2024-06-23 19:21:50 | 日記
 サハロフがすっかり好きになりました。尊敬するという言葉では足りません。 アンドレイ・サハロフはソ連で一生懸命になって水爆を作った物理学者です。NHKの「世界のドキュメンタリー」番組で『サハロフ 祖国と戦った“水爆の父”』という大変興味深い記録映画が放映されました。今のロシアに「サハロフ資料館」という立派な建物があって、その館長の女性と、おそらくサハロフをよく知っていたと思われる年配の物理学者が説明の任に当たっています。

 ソ連でオッペンハイマーにあたる人物はクルチャトフです。ソ連の原爆(核分裂爆弾)はロスアラモスから盗んだ情報を大いに活用して製造されたと思われますが、ソ連の水爆(核融合爆弾)の方は、政府から命令されて、懸命の努力でサハロフ達が独自に作り上げたものでした。米国のエドワード・テラー達の水爆より優れていました。
 オッペンハイマーは自分が原爆の産みの親(産婆!?)になった後、水爆の製造には執拗に反対しました。サハロフは水爆製作の功績で国家から最高の勲章を授けられた祝典のその場で「この爆弾が人間の住む都市の上で爆発することが決して無いように」という内容の発言をして、祝典の場をすっかり白けさせ、政府高官達の不興を買ってしまいます。しかし、その後も、サハロフは水爆不使用の主張を声高に続けたので、ソ連政府はそれまでにサハロフに与えた三つの最高勲章を取り上げ、ゴーリキーの地に送って流罪禁固の刑を科しました。

 今回視聴したドキュメンタリーで私が痛く感銘したのは、流刑先で行ったサハロフの二度のハンガーストライキ行為です。一度目はソ連国外に住んでいた息子の婚約者が息子と一緒になるために出国しようとしたときに当局が許可を出さないのでこれに抗議するためのハンスト行為でした。困惑した当局はやむなく許可を出して、めでたし、めでたし。2回目は、妻のボンネルさんが難病の治療を受けるための出国を勝ち取るハンスト、これで有名な流刑罪人に餓死されては一大事と当局側は大慌て、サハロフの口を無理にこじ開けて食物を流し込む始末、これもサハロフの勝利に終わりました。ここには、身近な「隣人」のために自らの命を賭ける一人の男がいました。まあ観てください。

 このドキュメンタリー映画の中でサハロフは奇妙な数式を持ち出します。それは、
  (真実)の平方根=(愛)
というものです。何の事やらわかりません。しかし、どこかで、アルベール・カミュが唱えた「まだ定義されてないある種の(愛)」と繋がっているような気がします。晩年のオッペンハイマーが、しきりに口にした(愛)、哲学者ヤスパースや才女マッカーシーの嘲笑の的になったあの(愛)にも繋がっているのではありますまいか。

 アンドレイ・サハロフを赦免して流刑の地ゴーリキーからモスコアに呼び戻したのは、これまた、私の大好きなゴルバチョフです。一種のやり損ないのような形でソヴィエト連邦を壊してしまったミハイル・ゴルバチョフです。今日6月23日は、たまたま、沖縄終戦慰霊の日、「ぬちどうたから(命こそ宝)」を思うべき日です。ゴルバチョフも同じことを言い残して亡くなりました。

 サハロフは希有の強烈な個性を持った人間でした。それに比べるとオッペンハイマーは普通の人間、凡人でした。最近、NHK・NEWSで『オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる』と題する報道がなされました:

 
この記事の前半一部の文章を転載させて頂きます:
 
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原爆の開発を指揮した理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、「涙を流して謝った」と、立ち会った通訳が証言している映像が広島市で見つかりました。専門家は「実際に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに聞いたというのは大きな意味がある」としています。ロバート・オッペンハイマーは、第2次世界大戦中のアメリカで原爆の開発を指揮した理論物理学者で、原爆投下による惨状を知って苦悩を深めたと言われていますが、1960年に来日した際は、被爆地を訪れることはなかったとされています。

今回見つかった映像資料は、1964年に被爆者などが証言を行うためにアメリカを訪問した際、通訳として同行したタイヒラー曜子さんが2015年に語った内容を記録したもので、広島市のNPOに残されていました。この中でタイヒラーさんは、訪問団の1人で、広島の被爆者で理論物理学者の庄野直美さんなどが非公表でオッペンハイマーと面会した際の様子について「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」と述べています。
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 評判のハリウッド映画ノーラン監督の『オッペンハイマー』を観た人は、広島原爆成功の報に接したロスアラモスの所員たちが足を踏み鳴らしてオッペンハイマーの登場を迎え、満面得意のオッピーが“I am sure  that the Japanese didn’t like it ”と語る場面を憶えているでしょう。この場面は、ノーラン監督が映画のソースとしてはっきり公言している  カイ・バードとマーティン・シャーウィン著の『アメリカン・プロメテウス』の英語原本316頁から取ったものです。この満面得意のオッピーと、タイヒラー曜子さんが語る、「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」というオッピーとは、どうしてもつながりません。しかし、『アメリカン・プロメテウス』の英語原本の次の頁、317頁を読めば、実は、つながるのです。ノーラン監督はすっかり無視してしまいましたが、そこには、NAGASAKI被曝の報に接したオッピーについて「An FBI informant reported on August 9 that Oppie was a “nervous wreck.”」
と書いてあります。nervous wreckとは神経がまいって虚脱状態の人のことを意味しています。タイヒラー曜子さんの話と確かにつながるオッペンハイマーがここにいます。
 
 サハロフは超人、オッペンハイマーは凡人、比較になりません。しかし、私の心の中には、「比較して何の意味がある」という声があります。「一つの命がもう一つの命より尊いということはない」という、どうしようもない、強い声があります。我々すべてに必要なのは、「平和」と「愛」です。

藤永茂(2024年6月23日、沖縄慰霊の日)

ボケました

2024-06-06 20:05:48 | 日記
 前回の記事『これまでコメントを頂いた方々に御礼』に対して、山椒魚さんから次のコメントを頂きました:
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ブログの日数について (山椒魚)
2024-06-05 15:23:02

ブログ「私の闇の奥」開設から3500日と記載されていますが,もう一つのブログ「トーマスクーン解体新書」を私自身の記憶ではは2010年ころからかかさず読んでいます。「私の闇の奥」はその2010ねん当時すでに存在していましたので,単純に計算しても3500日を遙かに超える日数が経過していると思います。ブログの記録をたどって計算してみると,「私の闇の奥」が始ってから6675日,「トーマスクーン解体新書」第1稿から5923日です。
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すっかりボケてしまいました。バイデン大統領より重症かもしれませんが、あえて弁解しますと、6月3日に自分でブログを開けた時、プロバイダーからの通知として3500日目と書いてあったのです。
 山椒魚さんもお礼をしたかった方のお一人です。「トーマスクーン解体新書」まで読んでいただいてありがとうございます。

 前回の記事の中で、大橋晴夫さんは、「藤永氏が忘れることの出来ないクローバー教授の発言は1916年のもので、藤永氏の著作のどこに、はじめて引用されているのかは不明である。」とされていますが、答えは2018年6月2日付の記事『Settler Colonialism(セトラー・コロニアリズム)(1)』にあります。行方昭夫訳の『イシ 北米最後の野生インディアン』(岩波現代文庫)に付けられた、クローバー教授の娘さんのアーシュラ・K・ル=グウィンの筆になる序言から引用しました。私がこの訳書を読んだのは2018年5月でした。1961年出版の原著英語版には別の人の序文が付いています。問題のクローバー教授の発言は、既に紹介したとおり、1916年3月24日付けの手紙の中ですから、アーシュラさんの生まれる前のことであり、アーシュラさんも父親の見事な発言を同じ文献から知ったものと思われます:

 
ちなみに、アーシュラさんの「序言」の一部を紹介した上掲の拙ブログ記事『Settler Colonialism(セトラー・コロニアリズム)(1)』


には、極めて貴重なコメントを寄せて頂きました。ぜひ読んでください。

藤永茂(2024年6月6日)

これまでコメントを頂いた方々に御礼

2024-06-03 10:45:40 | 日記
 2010年8月11日の古い記事『ルワンダのキリが晴れ始めた(5)』に、最近、『難民産業』と題して、大橋晴夫さんは、重いコメントを寄せて下さり、また、私のブログ記事一般についての感想文『二枚の写真』をメールで届けて下さいました。それを、勝手に、転載させて頂きます:
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二枚の写真

1965年3月理学部を卒業し、1年の空白の後、1966年4月大学院に進学した私は、今日までケイ酸塩の結晶化学の研究に取り組み、2024年の年初にも、海外の研究者とメールを交換し、彼らの報告した結晶構造データをもとに議論を重ねている。今日まで続く学びである。それでも研究から離れる覚悟をしたことが、若い日に二度あった。一度は院生の頃*、いま一度は就職してまもなくの頃であった。*今は研究しているときではないと手作りの装置を解体した私だった。対して、「失われる時間はどれほど貴重なものか、将来ふりかえって解ることだが、その尊さは測り知れない」と述べる者もいた。クローバー教授の発言に出会ってそれらのことを思い出した。
クローバー教授の発言に関する藤永氏の引用記事は2022年と新しい。しかし藤永氏が忘れることの出来ないクローバー教授の発言は1916年のもので、藤永氏の著作のどこに、はじめて引用されているのかは不明である。おそらく相当に長い期間あたためてきたもので、それはブログ記事の中で、直接「オッペンハイマーの「愛」は、カミュのそれと同じく、漠然とした人類愛ではなく、個々の隣人に向けられたものであったと考えられます。」に繋がっている。
私はかって藤永ブログ記事ユージン・スミスの「入浴する智子と母」2021.10.19.のコメント欄に母語の響きと題して筆をとった。その感想がどこから由来したのかは不明なところがあるのだが、ブログ記事を読み直して、対等性という言葉が浮かんできた。藤永氏は問い、そしてこたえる。「この2枚の写真のどちらにも、不条理の暴力の犠牲となった人間に対してもう一人の人間が注ぐ、注ぎ得る、無限の愛をそこに見るからです」。だがそれは原理ではなくて、対等性を意識しあえる人々のあいだに生まれるもの、・・・それ故に藤永氏は「オッペンハイマーやロートブラットはこの写真の美しさを感得できるでしょうが、テラーやシラードには醜い写真としか見えないのではないでしょうか?」とも述べていた。
「クローバーはイシを一人の良き人間として、一人の友人として扱いました。」、おそらくユージン・スミスもジョー・オダネルもだろう。「私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。」私が母語の響きと題して筆をとったものは、連帯とか対等性とかに昇華しなくてはならないだろう。
クローバー教授の発言に出会って思い出したことは実は今一つあって、それは、謝罪もせず「研究させろ」とは何事か アイヌ民族と研究者の初対話から考えた「知りたい欲求」が持つ暴力性と題する東京新聞2024.04.22.の記事であった。長い記事だが一部を紹介すると、日本文化人類学会は今月1日付で、単独でアイヌ民族に謝罪を表明した。同学会で京都大の松田素二名誉教授は「植民地統治時代にさまざまな不正義が行われたが、その出発点が何も問われていない。議論がないことは一番の問題で、修正しなければならない」とし、九州大の太田好信名誉教授も「このような案になり、じくじたる思いがある」と歩み寄った。一方、人骨のDNA分析などを手がける日本人類学会の所属で東京大の近藤修准教授は「純粋な研究としてやったことを否定できない。許されないなら、私はここを立ち去るしかない」と意見を展開。明治期に墓地を掘り返すなどして多くの遺骨を収集した東京帝国大医科大(現東大医学部)の小金井良精(よしきよ)について「アイヌ研究の最も基盤となった礎だ」と主張すると、アイヌ民族から怒声が飛び、日本文化人類学会側も反論した。
文化人類学と人類学とでは、研究者と被研究者との距離が異なるのだろう。「漠然とした人類愛ではなく、個々の隣人に向けられたもの」と関わっているだろう。その距離がまし、連帯と対等性とが薄まるとき、反抗が生まれるのかもしれない。
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 拙ブログ「私の闇の奥」は、本日で、開設から丁度3500日目になりました。開設の当初から本日まで、数多のコメントを寄稿してくださった方々に厚く御礼を申し上げます。私には自閉症的な所がありまして、あまり友人には恵まれない生涯でしたが、ブログでは、コメンテーターとして、実名、ペンネームを問わず、私に語りかけてくださった方々を、私の心の中で、手前勝手に、親友になって下さったのだと決めてしまっております。本日は、大橋晴夫さんのお名前だけをお借りして、皆々様に私の感謝の気持ちをお伝えできれば誠に幸甚です。

藤永茂(2024年6月3日)