私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

白人にも黒人にも公平にする?(4)

2007-08-29 14:56:23 | 日記・エッセイ・コラム
 現在のシリーズの(1)(8月8日)に、「私は60年代の終りから今日まで“新世界”の先住民たちのことに関心を持ち続け、アメリカ合衆国の黒人の過去と現在についても色々と思いをめぐらして来ました。アメリカの黒人の大多数がアフリカから奴隷商人によって交易品として運ばれてきた人達の子孫であることは心得ていましたが、過去500年にわたってヨーロッパ白人が行ってきた北中南米地域への奴隷交易の凄まじい全体像を知ったのは、『闇の奥』読後のことです。そして、過去から現在ただ今につながる、ヨーロッパが犯し続けている悪行の巨大さとその恐るべき一貫性に圧倒され、ともすれば、言葉を失い勝ちになっているのが、私の現状です。」と書きました。80歳を越した今になって、人間についてのこのような知識を得ることは、不幸なことであった、知らないままで死を迎えた方が良かったという想いが確かにあります。10年ほど前、原爆について書いた時、「人は人に対して狼なり」という西洋の古い格言をもじって、「人は人に対して人なり」と書き直してみたことがありました。人間ほど同類に対して残忍非情でありうる動物はないと言いたかったのです。しかし、今ふりかえってみると、あの頃はまだ、人間というものに対する絶望の度は今よりは抽象的で甘いものであったと思います。この500年間、アフリカの黒人たちがどのような取り扱いを受けてきたかに就いて、私の知識が僅少で浅薄で歪曲されたものであったからです。
 白人と黒人との関係について「公平で客観的な立場」とはどういうものでしょうか?
「白人が黒人をひどい目にあわせたのは、白人にそれをするだけの力があったからだ。もし、黒人がその力を持っていたら、黒人は白人をひどい目にあわせただろう」とするのは、「公平で客観的な立場」の候補の一つであり、それが人間というものについての真実であるのかもしれません。私はそれを恐れます。では、「ドイツ人がユダヤ人をひどい目にあわせたのは、ドイツ人にそれをするだけの力があったからだ。今はユダヤ人がパレスチナ人をひどい目にあわせているが、それは、ユダヤ人にその力があるからだ」というのはどうでしょう。この立場は、公平で客観的なものとして、ユダヤ人もパレスチナ人も決して受け入れないに違いありません。
 白人と黒人との関係について「公平で客観的な立場」を求めるには、先ず、過去から現在に至る白人の悪行を白日の下に曝すアカデミックに厳密な作業が行われなければなりません。同じように、「大東亜戦争」の美名にかくれて我々が犯した悪行も、妥協を許さないアカデミックな作業によって、その全貌が明らかにされなければなりません。勿論、こうした作業が容易に行えるとは考えませんが、それが容易には行われない理由をピンダウンすることから作業を始めることは可能です。第一に取り上げるべき事は、アングロサクソンの自己正当化、自己美化、自己欺瞞の驚くべき才能と、その長い伝統です。ブッシュが暴力的に展開している「民主主義のための聖戦」は、言うまでもなく、その伝統の現在形の顕示に過ぎません。困ったことに、英米の歴史家、評論家、ジャーナリストたちの間でも、この伝統を踏襲する人々が多数派を占めています。ホワード・ジンもノーム・チョムスキーも遂に「荒野に叫ぶ声」として終ることでしょう。この英国精神の瞠目すべき特質について、最近、中学校の旧友から、実に興味深い事柄を教えてもらいましたので、ご披露します。
 近衛文麿は、1945年、55歳で服毒自殺と遂げましたが、1918年、27歳の時、第一次世界大戦の休戦日の数日前に『英米本位の平和主義を排す』という論文を書き、発表しました。その全文、興味津々の内容ですが、ここでは上に論じてきたことと深く関連する部分だけを引用します。
■ かつてバーナード・ショウはその『運命の人』の中においてナポレオンの口を借りて英国精神を批評せしめていわく「英国人は自己の欲望を表すに当り道徳的宗教的感情をもってする事に妙を得たり。しかも自己の野心を神聖化して発表したる上は何処までもその目的を貫徹するの決断力を有す。強盗掠奪を敢えてしながらいかなる場合にも道徳的口実を失わず、自由と独立を宣伝しながら植民地の名の下に天下の半ばを割いてその利益を壟断しつつあり」と。ショウの言う所やや奇矯に過ぐといえども、英国植民地史を読む者はこの言の少なくとも半面の真理を穿てるものなることを首肯すべし。■
バーナード・ショウの『The Man of Destiny』は1895年の出版、コンラッドの『闇の奥』が世に出る5年ほど前のことで、この二人は可成りの交際があったようですから、コンラッドは、多分、この作品を知っていたでしょう。19世紀後半の英国の植民地経営や黒人奴隷制に対する英国のphony な「道徳的進歩性」を見るショウやホブソンの眼識には確かなものがあります。これと比較してコンラッドはどうでしょうか。コンラッド・スタディの重要文献として私が重視してきたケースメント宛の例の公開書簡(全文は<2007年1月3日>ブログ、または『「闇の奥」の奥』参照)を、ここで改めて読んでみましょう。「七十年も前に人道的立場から奴隷売買を廃止してしまったヨーロッパの良心が、コンゴの現状を黙認しているのは異常なことです。・・・昔はイングランドがヨーロッパの良心をしっかりと護っていた。イングランドが率先してそれを唱えていたのです。でも今では、我々は他のことにかまけて忙しく、重大事件の数々に巻き込まれて、人間性とか、品位とか、公正さのためにひと肌脱ぐことはやめてしまったようです。・・・」(『「闇の奥」の奥』115,116)。“七十年前”とは1833年英帝国領土内で奴隷制度が廃止されたことを指します。“ヨーロッパの良心”とは、勿論、イングランドのこと。このコンラッドの文章はナポレオンの英国精神批判がピッタリ当てはまるものと言えましょう。このコンラッドは、イギリス人から見て、バーナード・ショウ(アイルランド出身)などよりは遥かに立派な“one of us” に成りきっています。その“one of us” では確かにあり得ない私たちは、彼らの執拗で巧みな自己美化の筆の下をかいくぐって、この500年間、白人が黒人に何をして来たかを見定めなければなりません。そうすることによって、初めて、「公正で客観的な立場」というものが見えてくる筈です。

藤永 茂 (2007年8月29日)



白人にも黒人にも公平にする?(3)

2007-08-22 09:29:43 | 日記・エッセイ・コラム
 ロバ(donkey)は私の大好きな動物です。牡ロバと牝馬の間の混血種ラバ(mule)は「馬より小型で、性質や声はロバに似、強健で耐久力が強く粗食に堪え、労役に使われる」と広辞苑にあります。ラバには子供ができません。
 先日(2007年8月1日)フォークナーの『八月の光』のことを書きました。小説の冒頭、はだしで道を歩いている白人女性リーナ・グローブを黒人貧農アームスティードは荷馬車に乗せてやりますが、その荷馬車を引いているのは馬ではなくラバなのです。『八月の光』にはラバが何度も出てきます。この動物ラバは、アメリカ南部で、黒人に寄り添うようにして、黒人と同じように苛酷な労役の苦難に耐えました。フォークナーはラバについて小説『サートリス』の中に見事な文章を残しています。私の知る限り、ラバに献じられた最高の文学的オマジュです。いま手許に原文がないので、古い和訳(林信行訳、1965年)を引用します。長くなりますが読むに値します。フォークナーの暖かい目は、ラバと黒人をダブらせて、じっと見据えています。
■綿畑に立つホーマーのような詩人がいるならば、彼はおそらくこのラバと、それが南部でおかれている地位について、一編の叙事詩をうたいあげることだろう。ラバこそは、ほかのどのような生物にもまして、ほかのすべての者たちがジャガノウトのような絶望の環境を前に挫折しよろめいたときに、その眼前の事態に憎悪と忍耐をもちつづけて、人の心を破り傷つけた状況に無感動を保ちながら、その国土に対して不動の態度をつづけ、うちのめされた南部を再編入という鋼鉄のひづめの下から頭をもたげさせ、屈辱を通じて誇りを、逆境を克服することにより勇気を、教えた生物なのだ。それこそはそのまじりけのない報復的な忍耐をもって、絶望的なまでの不平等にもめげずに、おおよその不可能事をなしとげた生物なのだ。彼は父にも母にも似ることはなく、息子をも娘をも持とうとはしない。ただひたすらに報復を秘め忍耐をもっていた。(この動物はただ一度でもきみをけとばしてやるそのことのために、じっと辛抱強く十年ものあいだ働くであろうことはだれもが知っていることだ。)孤独ながら誇りはなく、自足しながら虚栄を知らぬ、その声はそれ自身をあざける声なのだ。追放者、宿なしとして、友もなく、妻もなく、情婦もなく恋人もない。独身者として、心に傷跡をとどめず、標柱もなく捨て去った洞窟ももたない。誘惑におそわれることもなく、夢に惑わされることもなく、幻に和らげられることもない。信念、希望、あわれみは彼には縁のないものだ。人間ぎらいとして、彼はおのれが憎悪する生き物(人間)のために、また、おのれが軽蔑する同族の者と互いに鎖でつながれながら、報酬もなく六日のあいだ働き、そしてその七日目を、仲間をけり仲間にけられて過ごすのだ。自分を駆りたて、その衝動と心の働きとが自分に酷似する生き物-黒人によってさえ、正しく理解されることもなく、彼はおのれにかかわりのない土地でおのれにかかわりのない仕事をしている。彼は人間のためばかりではなく、ただまったく行動のために生きていくのだ。なんの抵抗もせずに、その祖先からの継承物は、その魂とともに、にかわ工場のなかでとかされてしまう。醜く、疲れを知らず、片意地で、理屈、おせじ、報酬の約束によっても動かされない。彼はその卑しく単調な仕事を、不平もいわずにつづける。そしてその身に受けるものは殴打なのだ。生きているときは、おおかたのあざけりの的にされてひきずりまわされる。そして死んでも、そのために涙を流す者はなく、尊敬もされず、詩にうたわれることもない。そしてそのぶざまな、難ずるような骨は、錆びた缶やこわれた瀬戸物や捨てられたタイヤのあいだにさらされ、肉は知る人もなくはげたかのつめにはこばれて青空の彼方に消えていくのだ。■
 ロバについては、昔から沢山の文人たちが取り上げていますが、何と言ってもその随一はフランスの詩人フランシス・ジャムでしょう。スペインの詩人ヒメネスの『プラテーロとわたし』も心にしみる短文集です。どこで読んだか忘れましたが、フランシス・ジャムは「捨てられた子猫の絶望の深さをあなたは知らない」とも書きました。ヨーロッパのデカルト的伝統に沿って言えば、コンラッドの『闇の奥』のクルツが直面した“horror”と路傍で死にかけている子猫の“horror”はくらべものにならないことになりましょう。コンラッドがケースメントに宛てた公開書簡の中の文章が思い出されます。「今日では、かりに私が私の持ち馬を酷使して馬の幸せや健康状態を損なったとすると、私は民事裁判官の前に引っ張り出されてしまいます。黒人-たとえばウポトの黒人-はどんな動物とも同じように人道的に配慮してやるに値するように私には思われます。黒人は神経を持ち、苦痛を感じ、身体的にみじめな状態になり得るからです。」(拙著『「闇の奥」の奥』、p115)。ジャムの子猫、フォークナーのラバのことを思いながら、この文章をよむと妙な気持になります。
 『闇の奥』にもロバが出てきます。マーロウが船の修理に必要なリベットの到着を待っている中央出張所にエルドラド探険遠征隊がロバにまたがった白人を先頭に乗り込んで来ます。マーロウはその一団を嫌悪しますが、数日すると、遠征隊は荒漠たる大自然のなかに吸い込まれるように去って行きます。「それから随分たって、驢馬が全部死んでしまったという知らせが入ってきた。驢馬より値打ちの低いあの人間どもの運命はどうなったものやら。間違いなく、他の連中と同じように、彼らにふさわしい運命に遭遇したのだろう。」(藤永91)。ここで、ちょっと道草。エルドラド探険遠征隊の白人たちをマーロウ/コンラッドが「驢馬より値打ちの低いあの人間ども」と呼んだこの文章を“コンラッドが黒人を白人より高く評価していた証拠”として提出するコンラッド弁護論者がいます。アフリカに乗り込んで来た白人たちは驢馬にも劣ると言っているではないか、というわけです。信じられないバカバカしさですが、本当にそう主張した研究論文があります。先日(2007年7月11日)の「『闇の奥』の読み方(2)」に私はこう書きました。:
「コンラッドの伝記からよく知られているように、コンゴ河上流の奥地出張所からキンシャサに戻った後も、アレクサンドル・デルコミューンの組織する新しい探検隊に船長として参加することを希望していましたが、その望みを絶たれて落胆し、病気になって、3年契約を破って1年足らずでヨーロッパに帰ってしまいます。この問題の探険行の同定はコンラッド研究者の間で定まっていないようですが、コンゴ河の一支流に向かったものではなく、奥地出張所の南方に広がる鉱物資源の宝庫カタンガ地方を目指したものではなかったか--というのが私の憶測です。カタンガ地方でのベルギー勢力とイギリス勢力の軋轢については拙著『「闇の奥」の奥』のp214に書きましたが、ベルギー側の先鋒がデルコミューンで、イギリス側の先鋒がジョンストン、時は将に1890年でした。」
マーロウがエルドラド探険遠征隊の白人を「驢馬より劣る」と罵ったのは、デルコミューン兄弟に対するコンラッドの根深い私怨が反映したものと思われます。
 北米大陸では、ロバもラバも、人々の意識から殆ど消えてしまっています。それとともに、南部の黒人奴隷たちの言語に尽くせぬ苦難の記憶も消えて行きつつあるのでしょう。カナダやアメリカの大きな都市にはあらゆる種類の動物の縫いぐるみを売っているお店がありますが、ロバの縫いぐるみは滅多に見付かりません。例外はドイツで、ベルリンではロバの縫いぐるみを幾つも見かけました。これは、多分、「ブレーメンのミュジシャンたち」のせいだと思います。しかし、貧しい人々が大地にしがみついて生きている所には、今もまだロバやラバたちは、雨にも負けず、風にも負けず、皆にデクボーと呼ばれながら、人間たちをしっかりと助けてくれています。
 日本人のロバ意識はどんなものでしょうか?岩波の「同時代ライブラリー」の一冊に『日本人の世界地図』があります。三賢人、長田弘(詩人)、高畠通敏(政治学者)、鶴見俊輔(哲学者)の座談の形をとった内容で、教えられるところの多い本ですが、最後の部分に出てくるサンチョ・パンサのロバについてのポカが惜しまれます。ロバの名前がロシナンテになっていて、その上に議論が展開されているのです。このミスが三賢人と編集者の目をかいくぐって生き残ったことは、我々のロバ意識が如何に低いかを示しています。ロシナンテはドン・キホーテの愛馬の名前で、サンチョ・パンサのロバの方は、日本語訳では「茶色」、英訳では「Dapple(ぶち毛のやつ)」とか呼ばれ、セルヴァンテスからでさえ、ただ「rucio(灰色の、葦毛のロバ)」と呼ばれるだけで、ちゃんとした名前は、付けて貰っていません。人間たちは、この愛すべき、尊敬すべき、立派な動物を、どこまで馬鹿にし、ないがしろにすれば、気がすむのでしょうか。しかし、サンチョ・パンサは、彼のロバを信頼できる友として心から愛していたとセルヴァンテスは書いています。且つてのアメリカ南部の黒人奴隷たちも、心の底では、同じ思いを抱いていたに違いありません。冬の野辺の寒さの中で指がかじけて来ると、黒人奴隷たちはラバの暖かい鼻に手を当てて、温めて貰いました。彼らの間に静かな友情が生まれなかった筈はありません。

藤永 茂 (2007年8月22日)



白人にも黒人にも公平にする?(2)

2007-08-15 10:20:59 | 日記・エッセイ・コラム
 ジャマイカに話を戻します。めぼしい鉱物資源はないものの、サトウキビやコーヒーの栽培に適した肥沃で風光明媚な土地柄に気に入ったスペイン人は、多数の黒人奴隷を輸入して利益率の極めて高い植民地としてジャマイカの開発を進めました。1588年、フランシス・ドレークは英国艦隊の実質的な指揮をとり、私掠船団による海賊行為の経験を生かして、無敵とされたスペイン艦隊(Spanish Armada)を見事に壊滅させました。その後、フランシス・ドレークは西インド海域に私掠船活動の場を移しますが、パナマ沖の海上で赤痢に倒れ、1596年、56歳で死去しました。しかし、彼の海賊精神を受け継いだ英国の私掠船と海軍はジャマイカ島を度々襲い、1655年とうとうその占領に成功し,以後ジャマイカは英国植民地として巨大な富を英本国にもたらすようになります。その大農園で奴隷労働に従事した黒人は数十万に達し、ジャマイカ在住の白人人口の十数倍にもなり、その一つの結果として、奴隷反乱が頻発することになります。1831年の暮には6万人にも及ぶ黒人奴隷が反乱し、白人側に多大の人的物的損害を与えたことが英国政界に激震を与え、1838年、英帝国は奴隷制廃止に踏み切ります。英国の奴隷貿易の禁止、奴隷制の廃止については、2007年3月14日のブログ「英国の奴隷貿易廃止令200周年」でも論じましたが、この重要な歴史的主題については、200周年を機に、多くの論文や著作が出版されることと思います。ここで是非とも期待したいのは、英米の歴史家とは別の視点に立った日本の歴史家の重厚な研究の発表であり、その思いを私に強く持たせたのは、次の書物です。
 Simon Schama: ROUGH CROSSINGS : BRITAIN, THE SLAVES AND THE AMERICAN REVOLUTION (BBC BOOKS, 2005).
この本に書いてあることを私流に一言でまとめると、「黒人奴隷の解放については、英国は実によくやったが、米国はひどいものだった」となります。英国と米国との歴史家の間に、いまだに、こうした確執があることは、素人の私には驚きでした。その内容は、双方の、しかし言ってみれば、アングロサクソンの本性的な偽善性と自己欺瞞を余す所なく露呈しています。私には、「目くそ鼻くそを嗤う」愚かしさの骨頂と読めました。彼らを外から冷静に見ることのできる我々は、大英帝国史の大先生や論客たちが言うことを有り難がらずに、第三者、アングロサクソン白人からみた他者、としての史観を確立しなければなりません。単なる反アングロサクソン史観ではなく、原史料に基づいた、堂々として説得力ある学問的主張が可能であると信じます。
 首相の座に2度ついた英国の有名政治家William Pitt the Younger は、1792年、国会で次のような発言をしています。「No nation in Europe has plunged so deeply into this guilt as Great Britain.」“この罪責”とは黒人奴隷貿易と黒人奴隷労働使役を指します。黒人を残虐に取り扱うことによって、世界史上、最大の利益をせしめたのは、ピットが認める通り、英国でありました。白人が黒人に何をしたか-その全貌は適当な成書に譲り、ここでは一つの有名なエピソード「ゾング号事件」を取り上げます。「ゾング大虐殺」とも呼ばれるこの事件は英国の奴隷貿易・奴隷制廃止の推進に大いに貢献したとされています。
 コリングウッド船長と白人船員17人の統率のもと、黒人奴隷442人を僅か107トンの船体に詰め込んだ奴隷船ゾング号は、1781年9月6日、アフリカ西海岸を離れて西進し、11月27日には目指すジャマイカの島影を見たのですが、コリングウッド船長はそれをジャマイカより手前にあるヒスパニョラ島と取り違え、行き過ぎてしまいました。その時点で、すでに白人7人、黒人60人が病死するという事態に直面して、コリングウッドは病死の確率が高いと思われる奴隷を海に投げ捨てる(jettison)決心を固めます。人間としてではなく、積み荷としての黒人奴隷にかけられている保険金がその理由でした。一人(個?)あたり30ポンド、今日の金額で約50万円の保険がかけられていたのです。保険契約によると、奴隷が病死、または悲観の結果、自殺した場合には保険金は支払われないが、航海の成功を脅かす危険を避けるために船外に投棄された積み荷については、保険金が支払われることになっていました。コリングウッド船長は生活用水が底をつきかけていることを理由にすれば、船外投棄された黒人奴隷は支払いの対象になると判断したのです。1日1回、3日にわたって133人の黒人が海に投げ捨てられました。3日目には、実は、悲運を覚悟した10人が自ら進んで入水したと伝えられています。また、一人の黒人は船尾の綱にしがみついて船内に上がってきたので、結局、132人が惨殺されたわけです。ゾング号は、12月22日、ジャマイカに着きましたが、それはコリングウッド船長が病死した後でした。
 さて、問題はこの事件をめぐって行われた裁判の内容です。殺人行為に対する刑事裁判としてではなく、あくまで、6千万円を越す保険金を払うか払わないかという民事裁判に終始したのです。「The case is the same as if horses had been thrown overboard. (事件は馬が船から投げ捨てられた場合と同じである)」というのが、裁判所の一貫した法律的立場でした。初審では保険会社の負け、再審では保険会社の勝ちという結果になりましたが、黒人奴隷は積み荷であると考えることは一度も問題にならず、事件自体も殆ど報道されませんでした。しかし、当時、奴隷貿易廃止の運動を推進していたグランヴィル・シャープとその協力者で黒人のオラウダ・エクイアノはゾング号事件が殺人事件として裁判にかけられるべきであると主張して、奴隷貿易廃止の運動に拍車をかけることになりました。英国の代表的画家ターナーがゾング号事件を主題とした「奴隷船」という作品を描いたのもシャープたちの努力を支援する為でした。インターネットのWikipedia[The Slave Ship]でその絵をみることができます。シャープとエクイアノについては、このブログの「英国植民地シエナレオネの歴史(2)」(2007年5月23日)でお話ししました。もう一人の奴隷貿易反対運動の立役者トーマス・クラークソンは「英国植民地シエナレオネの歴史(3)」(2007年5月30日)に出ていますが、彼は、ケンブリッジ大学の懸賞論文で一位を獲得した有名な論文で、ゾング号のような残虐行為はよくある事だと書いて注目され、奴隷貿易廃止の運動に貢献しました。一方、ゾング号の持ち主で、リヴァプールの有力政治家、元市長のグレグソンは、“愛国者”として、奴隷貿易廃止に大反対で、「それが廃止される時が来るとすれば、とりもなおさず、この王国の海軍国としての重要さの終焉の時ということだ」と発言しました。まさにその通り。私掠船団を率いて海賊として大活躍したフランシス・ドレーク以来の伝統に輝く大英帝国海軍の存在なくしては、奴隷貿易による莫大な利益の上に繁栄したリヴァプールも大英帝国も存在し得なかったのですから。
 ゾング号事件は、私には、色々の意味で、英国という國の本質に深く深く関わる象徴的な事件として映ります。もう一度、上に引用したピットの言葉を思い出して下さい。黒人奴隷貿易と黒人奴隷労働使役からヨーロッパ随一、したがって、世界随一の利益を上げてきた英国が、奴隷貿易廃止と奴隷制度廃止で、世界のトップを切ったという事実は、限りなく興味深い事実です。奴隷貿易・奴隷制度の廃止運動が、この制度が生み出す莫大な利益がまだ上昇している時期に立ち上がってきたという事実を根拠にして、この廃止運動の原動力は経済的なものではなく、アングロサクソン白人の倫理的精神の強靭さにあるとされることが一般ですが、この議論は狂っています。もし、もともと、精神の博愛性、倫理性がそんなに強靭だったのなら、どうして世界随一の罪責を、ピットが言うように、負ってしまったのでしょうか?私は次のように考えます。奴隷制を最大限に利用したことと、動物愛護運動や黒人愛護運動の英雄たちを、世界に先がけて、産み出した精神的母体は、実は、一つで不可分のものなのです。
 私には、この考えをもっと分かりよく説明する義務があると思います。その説明義務は、今後、あわてずに、ゆっくり果たして行くつもりです。今日のところは、会田雄次『アーロン収容所』(中公文庫)の「まえがき」の一節を引用するに止めます。
■ だが、私はどうにも不安だった。このままでは気がすまなかった。私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったのである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であった。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知りながら、なおかつそれとおなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは,やはり一つの天譴というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロッパは、その後継者とともに世界の支配をやめていない。私たちは自分の非を知ったが、しかし相手を本当に理解しただろうか。■
この会田さんの問いかけから35年,私たちは未だに相手の怪物性の伝統を本当には理解していません。このブログの2007年6月13日付けの記事で,私はこう書きました。:
「1807年、英国は奴隷貿易禁止に踏み切り、アフリカ西海岸から大西洋を渡ってアメリカに向かう奴隷輸送船を海上で拿捕し、積み荷の黒人奴隷をシエラレオネの中心地フリータウンで陸揚げして解放することを始めました。それで英国植民地シエラレオネの人口はどんどん増えて1868年頃には数万人の解放奴隷がフリータウンとその周辺に住むようになりました。アメリカの南北戦争(1861-1865)が終る頃から奴隷の密輸は衰退しますが、それまでの英海軍の海上拿捕で救われた奴隷の総数は、恐らく、十数万人と思われます。しかし、拿捕されない密輸船の数は拿捕された船の数を十倍以上も上回ったと考えられ、これは由々しい問題で、今後、アカデミックな一層の研究が望まれます。そもそも、18世紀、19世紀を通して、奴隷貿易で最大の儲けを貪っていたのは英国です。他国に先がけて、1807年、賑々しく奴隷貿易禁止令を発した後も、英国の手から頻りと水が洩れていたとすれば、自己欺瞞的な人道主義の仮面は薄い出来であったと申さねばなりません。人道主義を言うならば、もっとシリアスな事実があります。奴隷貿易が合法であった時も、奴隷達は丸太棒を並べるような恰好で密に船室に詰め込まれましたが、彼らを隠す必要はありませんでした。しかし、非合法になってからは、積み荷の奴隷達は、まるで密航者の集団のように、隠されることになり、膝を立ててしゃがみ、頭を両脚で挟んだ姿勢のままで、船艙にぎっしりと詰め込まれて大西洋を渡ったのです。ある者は,夜間、その姿勢のままに息を引き取り、生きて海を渡った者の中にも、その体形のままの不具者となり、商品価値を失ってしまう場合もありました。また、一人当たりの容積を小さくするために、子供奴隷の割合が断然大きくなったのでした。」
トーマス・クラークソンは、彼の有名な当選論文で、ゾング号で行われた黒人奴隷の海洋投棄は他でもよく行われたことであったと書きましたが、実は、1807年以後の半世紀の間にも無数の黒人奴隷が海に投げ捨てられました。英国海軍に密輸船として拿捕され、罰せられるよりも、密輸品を捨ててしまった方が得になるとなれば、彼らは躊躇なくそうしたのだと思われます。怪物的心理の伝統といえば、南米チリの沖合で起ったとされる人間の海洋投棄が思い出されます。1970年総選挙で選出されたアジエンデ政権は反米的政策路線をとったため、1973年、アメリカのCIA主導のクーデタによって打倒されました。その際、多数のアジエンデ政権支持者が行方不明になりましたが、その一部は航空機から海洋に投棄されたとされています。同じ精神です。

藤永 茂 (2007年8月15日)



白人にも黒人にも公平にする?(1)

2007-08-08 17:09:38 | 日記・エッセイ・コラム
 ガストン・バシュラールは私の大好きな哲学者です。彼は「二つの異なった意見の対立がなければ、真実は見えてこない」という意味のことを言いました。彼のお弟子さんのミシェル・フーコーは「私はポレミックがきらい」と言いました。二人は同じことを言っているのです。これについては、以前、私のブログ「ノン・ポレミシスト宣言」で論じたことがあります。その冒頭を引用します:
ミシェル・フーコーは、エイズで亡くなる直前に、カリフォルニアでポール・ラビノウと話をして「私はポレミックがきらいで、今までポレミシストであったことはない。ポレミシストは自分の考えを変えるつもりはなく、意見の違う相手を何としてでもねじ伏せようとする。敵に勝つのが目的なのだ。私が議論にたずさわるのは、それを通じて少しでもより真なるものに近づきたいからだ」という意味のことを言っています。(Paul Rabinow, ed. The Foucault Reader, 1984)
これまで、このブログ「私の闇の奥」に対するコメントは、数も少なく、バシュラールやフーコーが推奨する意味での、反対意見をいただいたことはありませんでした。幸いに、今回、川崎恭治さんが次のような貴重な反対意見を送ってきて下さったので、それに答えて、私の考えを述べさせて頂きます。バシュラールやフーコーの精神に従って、実りのある「論争」を始めたいと思います。関心のある皆さんのご参加をお願いします。川崎恭治さんは日本を代表する世界的に高名な理論物理学者の一人で、長い海外生活の経験もお持ちです。川崎恭治さんから戴いたコメントの全文:

「「闇の奥」の奥」を読んで

この年初に平川金四郎さんから「「闇の奥」の奥」(藤永茂著)をすすめられましたが、やっと最近手にする機会があり、この程読了しました。久しぶりに感銘をうけた本に出会いました。著者は私と同じ物理学が専門ですが、ご高齢にもかかわらず専門外の事柄につきこれだけ多くの資料を集め徹底した論考を著書にまとめられた事に率直に脱帽したい。ここに書かれたことがすべて真実であり著者の考えも妥当であることを疑う者ではありません。しかし私は何か釈然としない感じも持ったので率直にコメントしたい。
西欧社会のこれまでの繁栄は過去数世紀に亘る彼らの非白人社会の収奪に基づいていてその事自身原爆やアウシュウィッツが霞んでみえる程の罪業であるとの主張は、全くその通りであろうとおもいます。一方これらの歴史的事実を、より客観的に公平に見る必要もあろうかとおもいます。白人社会による非白人社会の収奪を可能にした背後には西欧社会が他の追随を許さない圧倒的な力を持つようになった事が大きいのではないでしょうか。ここで力といったのは武力だけではなく経済力や自然科学、技術、音楽その他の文化力も含みます。著書で述べておられる収奪のシステムもこの一部ではないかと思われます。人は他から掣肘をうける事なく自己の利益を得る(収奪する)ことが可能ならそれをためらわないのが本性であると思います。全く仮定の話として日本人があるとき優位にたつことがあれば白人とおなじ様に収奪をした事は充分あり得るものと考えます。日本人が過去に近隣諸国で行ったことにその片鱗がみられます。収奪する際その行為を尤もらしいオブラートで包むのも常套手段です。今米国が中東やアラブに押し付けている米国流「民主主義」、或いは我々の過去でいえば「大東亜共栄圏」「八紘一宇」「五族協和」などです。
今世界は地球環境の悪化など全人類が人種にかかわらず協力してとりくまねばならない状況にあります。一時発展途上国がこの責任を先進国に押し付け自国は制約をまぬかれようとした事がありましたが現状はそれを許さない厳しいものがある様です。白人のこれまで或いは現在の数々の罪業を明確にするのも結構ですが公平で客観的な立場も今の様な時代には求められるのではないでしょうか。

 この川崎恭治さんのコメントに触発された私の想いは多岐にわたりますので、今後、何回かに分けて書き綴ります。まず、次の部分:
「今世界は地球環境の悪化など全人類が人種にかかわらず協力してとりくまねばならない状況にあります。」
これには全く賛成です。しかし、誰についても「公平で客観的な立場」はどのようにすれば設定できるでしょうか? 問題を、一般論としてではなく、具体的に考えるために、白人と黒人という二者の関係に限定することにします。拙著『「闇の奥」の奥』では、白人の行為を、その過去だけではなく現在についても、きびしく糺弾する立場を取りました。感情的になり過ぎたきらいがあったかも知れません。しかし、私は、決して、白人一般に対する怨念のようなものから出発したのではありません。コンラッドの『闇の奥』をよく読もうとしたことが契機で、「アフリカ問題」に、ある意味では心ならずも、引きずり込まれてしまったのです。『「闇の奥」の奥』の「あとがきに代えて」に書きましたが、私は60年代の終りから今日まで“新世界”の先住民たちのことに関心を持ち続け、アメリカ合衆国の黒人の過去と現在についても色々と思いをめぐらして来ました。アメリカの黒人の大多数がアフリカから奴隷商人によって交易品として運ばれてきた人達の子孫であることは心得ていましたが、過去500年にわたってヨーロッパ白人が行ってきた北中南米地域への奴隷交易の凄まじい全体像を知ったのは、『闇の奥』読後のことです。そして、過去から現在ただ今につながる、ヨーロッパが犯し続けている悪業の巨大さとその恐るべき一貫性に圧倒され、ともすれば、言葉を失い勝ちになっているのが、私の現状です。「こんなことは知らないままで人生を終った方がよかった」と私が言うとすれば、それは一つの不甲斐ない弱音ではありますが、ひと様を意識したまやかしの言葉ではありません。
 前回取り上げた『ジェーン・エア』で、ジェーンが結ばれるエドワード・ロチェスターの上に、西インドの英国植民地ジャマイカが落した暗影は、この波瀾万丈の物語の核を占めています。エドワードの父親は格式高いロチェスター家の所領地を分割することを嫌い、財産は一つにまとめてエドワードの兄ローランドに譲ることに決め、エドワードには金持ちの娘との結婚で財産を確保することを考えます。「西インドの農場主で商人のメースン氏は、父の古い知り合いでした。その財産は確実で莫大のものだと父は信じていました。父は調査してみた。メースン氏には、息子と娘が一人ずつあることがわかりました。そしてまたメースン氏が、娘には三万ポンドの財産を与えることができ、またそうする意向でもあることを彼から聞きました。それだけで十分でした。大学を出ると、わたしは、すでにわたしのために結婚を申しこんであった花嫁を娶るために、ジャマイカへやられたのです。」(大久保(下)136)。その当の娘バーサ・メースンが怪物的な狂女と化して、ロチェスター氏を破滅に追い込むわけで、これが『ジェーン・エア』にゴシック恐怖小説のフレーバーを与えるわけですが、日本の読者で英国植民地ジャマイカがどんな所であったかを気にする人はあまりいないでしょう。しかし、私はここから話を始めたいと思います。
 岩波文庫にラス・カサス著染田秀藤訳『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
という重要貴重な古典の書があります。ラス・カサスは、人間というものに対する私たちの絶望を食い止めてくれる稀有の人物の一人です。上の著書から一頁(p39)を引用します。
 「1509年、スペイン人たちはサン・フワン島[プエルト・リコ]とジャマイカ島へ侵入したが(その二つの島はまるで実り豊かな果樹園のような所で、そこには巣に群がる蜂のように大勢の人がひしめきあって暮らしていた)、彼らの考えや目当てはエスパニョーラ島へ渡った時と同じであった。彼らはこれまでに述べたのと同様の甚だしい悪行と罪を犯し、目を覆わざるをえなくなるような残虐非道ぶりを発揮した。
 スペイン人たちはインディオたちを殺したり、火攻めにしたり、また、彼らに獰猛な犬をけしかけたりした。さらに、スペイン人たちはインディオたちを鉱山での採掘やそのほか数数の労働で酷使し、圧迫し、苦しめ、結局、その哀れな罪のない人びとを全員絶滅させてしまった。両島には、かつて六十万以上、いな、100万人を越える人が暮らしていたであろうが,今ではそれぞれ二〇〇人ぐらいしか生き残っていない。そのほかの人びとはみな信仰の光も秘跡も授かることなく死んでしまったのである。」
これがヨーロッパ人にとってのジャマイカの歴史の始まりです。よく憶えておきましょう。ついでに、「キューバ島について」ラス・カサスが書いたことも少し引用しておきます。キューバ島はジャマイカ島のすぐ北に位置します。やがて、私は、キューバについて、フィデル・カストロについて、多くを語るつもりです。
「ある時、ある大きな村から、インディオたちは多くの食糧や贈り物を携えて、われわれを10レグワも先に出迎えてくれた。村へ着くと、インディオたちは沢山の魚や食糧、それに彼らが差し出せるものはすべてわれわれに与えてくれた。ところが、突然、悪魔がキリスト教徒たちに乗り移り、かれらは私の目の前で、何ひとつしかるべき動機も原因もないまま、われわれの前に座っていた男女、子供合わせて総勢約三〇〇〇人以上のインディオを短剣で突き殺した。その場で、私はかって人が見たことも想像したこともないような残虐な行為を目撃したのである。」(ラス・カサスp42-3)。
この岩波文庫のカバーには「形態は変貌しつつも今なお続く帝国主義と植民地問題への姿勢をきびしく問いかける書である。」とあります。今からは、「形態は変貌しつつも今なお続く」という所によく注意して頂きたいと思います。
 ジャマイカは1509年スペインが領有を宣言し、次第にサトウキビの農園を拡大して行きますが、虐殺と酷使で先住民の人口は激減してしまったので、アフリカ西海岸から送られてくる大量の黒人奴隷を使うようになります。これに就いては、『「闇の奥」の奥』にも書きましたが、是非しかるべき書物を読んで下さい。このあと1555年から1655年の百年間、スペイン領ジャマイカは海賊の攻撃に悩まされますが、このいわゆる「海賊」についても、私は自分の無知を告白しなければなりません。『闇の奥』の勉強をする前には、privateer(プライヴァティア、私掠船)という言葉の意味も知りませんでした。英国の物理学者で私掠船のことを知らない人は恐らく皆無だろうと思われますが、日本の物理学者の大部分は私と同じでしょう。このあたりに私たちの英国史についての常識不足が露呈されています。Wikipediaには「戦争状態にある一国の政府からその敵国の船を攻撃してその船や積み荷を奪う許可を得た個人の船」とあり、“著名な私掠船船長”のトップにフランシス・ドレークが挙げられています。彼は英国政府からお墨付きを貰った海賊、海の傭兵の指揮官であったのです。『闇の奥』には,彼の船ゴールデン・ハインド号について「丸くふくれた形の船倉一杯に財宝を積んで帰還し、女王エリザベス一世訪問の栄に浴した」(藤永16)とありますが、私掠船とその事業は、現在イラクで活躍しているBlackwater などの傭兵会社と同じで、出資者の投資の対象であったのです。女王エリザベス一世もその出資者の一人で、彼女がフランシス・ドレークの掠奪事業に対して行った投資の利益率は6000%、或は、投資1ポンド当り47ポンドの利益が返ってきたとされています。これでは、女王エリザベス一世がわざわざゴールデン・ハインド号を訪問してフランシス・ドレークに爵位を与えたのも当然です。実は、現在、イラクでアメリカ合衆国軍が行うべき軍事行動をブラックウォーターなどの民間企業に大々的に委託して代行させています。イラク侵略開始以来、こうした民間企業の株価は急上昇しています。ブッシュ大統領やチェイニー副大統領が、家族として、女王エリザベス一世みたいに、莫大な投資利益を懐にしている可能性は十分あります。しかし、そのことより、私が問題にしたいのは、アングロサクソン的な物の考え方の伝統が「形態は変貌しつつも今なお続」いている点です。つまり、実績を挙げる為の奸計を編み出す智慧に長け、実行力に富むという点です。ブラックウォーター社についてはお話すべきことが沢山ありますが、今日はその一つだけ。民間の傭兵会社の雇員を戦闘員として使う利点の一つは、その死傷者をアメリカ軍の死傷者として報告する必要がないということです。雇員がアメリカ人であってもそうですが、私的兵員を外国でリクルートすれば、万事が都合良くなります。ブラックウォーター社は中南米やインドなどの貧しい人々に狙いを定めて、アメリカ人の数分の一の給料で雇っているようで、こうなるとイラクでは有色人種の傭兵と有色人種のイラク人が無残な殺し合いをしていることになります。
 つい話が横道にそれてしまったような形になりましたが、私の頭の中では必ずしもそうではなく、私としては、一貫して、「公平で一般的な立場」とは一体何か、という問題について語っているつもりです。それと同時に、私の思いは、コンラッドの『闇の奥』にも戻って行きます。コンラッドが『闇の奥』の冒頭で、フランシス・ドレーク、ゴールデン・ハインド号、そして、女王エリザベス一世について書いた時、私掠船に対する投資、そして、それがもたらした超高配当という歴史的事実を知らなかった筈はありません。われわれ日本人読者は、フランシス・ドレークという栄光に輝いた英国海軍提督が居たらしい、と思いながら読み進むのが普通でしょうが、英国の読者たちはどう読むのでしょうか? コンラッドの辛辣な皮肉が込められた文章だと読むのでしょうか? 私はそうだとは思いません。コンラッドは皮肉など言ったのではなかったのであり、「英国の海の英雄たち」に対する賛美はコンラッドが一生持ち続けた気持であったことは晩年の文章から明らかです。
 それてないと言いながら、やっぱり横道にそれてしまったようです。次回は本筋に戻ることをお約束します。

藤永 茂 (2007年8月8日)



『ジェーン・エア』と『八月の光』

2007-08-01 10:52:13 | 日記・エッセイ・コラム
 コンラッドの『闇の奥』が、小説として、まだ読めていないという気持を振り切れない私が、『ジェーン・エア』を再読しようと思い立った理由は簡単なものです。『ジェーン・エア』に就いては、今まで評論的な書き物をほぼ全く読んだ事がなかったからです。そうしたものに左右されたくない、それが私の気持でした。小説を読んでから映画を観たのか、それとも映画の方が先だったのか、それさえ不確かな昔に接した小説『ジェーン・エア』と、オーソン・ウェルズ、ジョン・フォンテーン主演の映画、私の中には感銘の残渣しかありませんでした。この1847年出版の英文学の名作に、もし、今の私が新しく感銘を受ける、あるいは、読書の楽しみを与えられるとすれば、それはどんな経験であるのか、それを確かめてみたいと思ったのです。
 『闇の奥』の場合には、事情が全然違いました。1968年、カナダの大学で量子化学を教えることになった私は、大学のブックストアに、教科書として、『闇の奥』が文字通り山積みになっているのを見て、これで英語の勉強をしようと考え、辞書と首っ引きで奮闘しましたが、なかなかの難物でよく読み解くことができませんでした。二度目に読んだ時には、私の頭の中には、すでに、ベルギー国王レオポルド二世の名がどっかりと腰を下ろしていました。
『闇の奥』にくらべて、『ジェーン・エア』はナラティヴの構造も時の流れも単純でリニアーであり、それにゴシック恐怖小説的なプロットも工夫して組み込まれていますから、小説を読む楽しみを素直に味わうことが出来ました。読み進むうちに、小柄で容姿に恵まれず、器量も優れないジェーンが、一人の美しい女性として読者の心の裡にクリスタライズして行きます。訳者大久保康雄氏の解説を読むと、この小説は著者シャーロット・ブロンテの自叙伝として読んでも良さそうですが、だとすると、百数十年まえのイギリスの保守的社会の中で凛とした芸術的発言を行った不屈の女性の存在に感銘せずには居れません。一気に読み終わったあとで振り返ってみると、広大な海外植民地の存在が英国内の社会生活に落していた影の重さ大きさにも気が付きます。資産あるいは遺産の有る無しに人々の人生が振り回される有様がよく描かれていますし、『ジェーン・エア』のゴシック恐怖小説的暗影が,遠く西インド諸島から次第に不気味さを増して伸びてくるところは、多分、作者の作為ではなかったのでしょうが、凄みがあります。1804年、ハイチが黒人国家として独立するという歴史的事件にからまって、その地域の重要な英国植民地ジャマイカの富裕白人社会は倫理的頽廃の度を深めます。『ジェーン・エア』の男性主人公ロチェスターの人生を破滅に追い込む狂人の妻はその一つのシンボルのように,私には、思われて仕方がありません。
 堅忍不抜のキリスト教宣教師セント・ジョン・リヴァースという激情の男、その男と不屈の信念を貫くジェーン・エアとのやりとり--これも実に面白く読みました。もちろん、先ずは小説のドラマとして。『ジェーン・エア』はこの男について熱く語られることで終っています。「セント・ジョン・リヴァースはというと、彼はイギリスを去った。インドに行ったのである。彼は自分できめた道にはいって行った。いまなお、その道を行きつつある。断崖絶壁の危険の真っただ中に、彼以上に堅忍不抜の開拓者は、かってなかったであろう。確固たる精神をもって、忠実に、献身的に、精力と誠意と真実に満ちて、彼は人類の為に働いている。」(大久保(下)434)。作者シャーロット・ブロンテ自身かたい信仰を堅持した人ですから、皮肉などでは決してありません。セント・ジョン・リヴァースの強引な独断的性格はBarbara KIngsolver のコンゴ小説『The Poisonwood Bible』に出てくる激烈な宣教師Nathan Price を連想させます。キリスト教国による世界の植民地化のプロセスに宣教師たちがどのように貢献したか、これは大きい問題で、我々としても、ザビエルをはじめとする来日宣教師たちが果たした役割について、もっともっと知る必要があります。
 ハイチの黒人革命は、世界史上最大の奴隷反乱で、しかも、唯一の成功例とされています。しかし,この「成功」の意味するところは、黒人奴隷が自らの知力武力を結集して白人の支配を、一度は、排除したという事に過ぎません。黒人国家ハイチの独立後200年の歴史は,ごく最近のアメリカ、イギリス、カナダのアングロサクソン三国による苛酷な内政干渉に到るまで、綿々たる悲惨の連続です。マスメディアはハイチの黒人の自治能力の根本的欠除が生み出した地獄図として描きたがりますが、私には、白人の根元的な残酷性と偽善性の歴史的モニュメントに見えます。ハイチの黒人反乱については、CLR Jamesの『THE BLACK JACOBINS』が決定的な古典として知られていますが、2004年には、Raurent Duboisの『Avengers of the New World: The Story of the Haitian Revolution』という好著が出版されました。
 ハイチはフォークナーの作家的意識に重要な地位を占めていたと思われます。ハイチにつながる人物の代表は『アブサロム、アブサロム』のトマス・サトペンですが、サトペンの場合は、貧しい白人としてハイチに赴いて財産を手に入れ、『ジェーン・エア』のロチェスターは、家柄の良さを売り込んでジャマイカの砂糖大農園の娘と結ばれ、その結果として大きな財産を得ます。フォークナーと西インド諸島との関係は多くの英文学者が取り上げているテーマですし、私も興味を感じますが、今のところは宿題として取っておきます。私が、今回、フォークナーの名作の一つ『八月の光』を取り上げるのは、やはり、小説を小説として読みたいという気持から出ています。しかし、『ジェーン・エア』と違って、『八月の光』の場合は、数年前に読んだ時から、著者フォークナーについての評論類にかなり目を通してきています。
 サルトルは次のように書いています。「離れて見た場合、すぐれた小説は自然物とまったく見分けがつかなくなるものだ。われわれはそれに作者があることを忘れ、それを石や樹とおなじように受け入れる。はぜなら、それは現然としてその場に存在しているからだ。『八月の光』もこうした錬金術の産物、いわば一つの鉱物であった。・・・・『八月の光』の《人間》-私はドストエフスキーの人間とか、メレヂスの人間とかいうのと同じ意味で、フォークナーの人間という言葉をつかいたい-生まれながらに道を見失い・自滅にむかって邁進する・この神をもたぬ神々しい偉大なる獣物、凶暴な・殺人の際にも道徳的な・死をとおしてでも、また死に臨んででもなく、死の直前に於いて救われるところの人間、苦痛の間にも、肉身の悲惨な屈辱の間にも堂々たるその人間、それを私は批判抜きに受け入れた。」(生田耕作訳) 私は、『八月の光』の読後に、このサルトルの言葉に接して安心したものです。私には言葉に出来なかった強い感銘を、サルトルは見事に文字にしていると思ったからです。今度あらためて読み返してみると、ジョー・クリスマスという、如何にも、フォークナーの人間と呼ぶにふさわしい人物のほかにも、虎の子の蓄えを通りがかりの白人女性リーナ・グローヴにポイと与えてしまう貧農黒人アームスティッド夫婦など、いかにも心温まる人々に出会うことが出来ました。人間的に堂々として美しい黒人といえば、フォークナーの『響きと怒り』のディルシーを忘れる事は出来ません。アメリカの文人修道僧トマス・マートンは優れたフォークナー論を書いていますが、その中でフォークナーが創造した黒人家政婦ディルシーをまことの「聖者」としています。フォークナーの伝記を読むと、ディルシーにはモデルがあったようです。マミー・キャロライン・バーという老女の黒人召使いで、フォークナーにとっては、第二の母親のような極めて親密な存在で、後年、彼はこのマミーに対して崇拝の念すら抱いていました。彼女の墓石には「Her white children bless her」というフォークナーの言葉が刻まれているそうです。
 『闇の奥』を小説として味読したいと願う私にとっての一つの困難は、クルツにしてもマーロウにしても、あるいは、ロシア人青年にしても、『八月の光』のアームスティッド夫婦や『響きと怒り』のディルシーのように、平凡な読者の心にも言い知れぬ感銘を残してくれるような存在ではないという点にあります。ジョー・クリスマスの悲劇の鉱物のような真実性にくらべて、クルツの地獄落ちの悲劇には、どこか、サリンジャーのホールデンが言うphoniness(芸術的創造としての)を感じるのは私だけなのでしょうか?

藤永 茂 (2007年8月1日)