私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ネルソン・マンデラと自由憲章(4)

2014-01-20 22:28:19 | 日記・エッセイ・コラム
 1994年の全人種選挙で黒人主導のアフリカ民族会議(ANC, African National Congress)が勝利し、マンデラが大統領に、デ・クラークが副大統領に就任して、目出たく国民統一政府が発足しましたが、それからの20年間に南アの大多数(~85%)の黒人の生活環境は良くなったか悪くなったか?平均寿命、住宅事情、若者の失業率、犯罪率などで測れば、明白に悪化しました。この時期の前半についての分かりやすい具体的数字がナオミ・クラインの著書上巻(翻訳)のpp303~304に出ています。:
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● ANCが政権についた1994年から2006年までの間に、一日一ドル未満で暮らす人の数は200万人から400万人へと倍増した。
● 1991年から2002年までの間に南アの黒人の失業率は23%から48%へと2倍以上に増加した。
● ANC政権は180万軒の住宅を建設したが、その間に200万人が家を失った。
● 民主化から10年間に農場から立ち退かされた人は100万人近くに上る。
● こうした立ち退きの結果、掘建て小屋に住む人の数は50%増加した。2006年には南アの人口の四人に一人以上はスラム街の掘建て小屋に住み、かなりの数の人は水道も電気もない暮しを強いられている。
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 国連の指標にHDI(Human Development Index)というのがありますが、この総合的指標でも、1994年からの20年間、全く改善が見えません。その一方で、いわゆる経済成長の面では南アの成長は周知のように目覚ましく、はじめには代表的新興経済成長国家群としてのブラジル、ロシア、インド、チャイナの4国(BRICs)に、後からサウスアフリカが加わってBRICSと称されるまでになりました。それにも関わらず、収入に関するHDIがこの20年で殆ど改善していない事は、南アでの貧富格差が極端に拡大して、ブラジルと共に高度経済成長国と看做されているにも拘らず、両国とも世界ワースト・テンに仲間入りしていることを反映しています。南アでは、人種についてのアパルトヘイト(隔離)が貧富(階級)についてのアパルトヘイトに変わっただけだ、と言われる理由です。
「オペレーション・マンデラ」、これは私が思いついた新造語ですが、ボーア人ボータやデ・クラークに代表される南ア白人権力は、ネルソン・マンデラとそれに近いANC幹部を懐柔と操作(マニピュレーション)の標的と定めて、ただ名目的に人種アパルトヘイト制度を撤廃して全人種平等の選挙権を与え、黒人マンデラを南アのfigure headとすることで、黒人大衆の暴力的反抗を押さえ込むと同時に、従来からの経済的権益を無傷のまま温存することに、見事に成功しました。「マンデラ作戦」は完璧な作戦成功を収めたのです。白人権力が意識的に富裕上層階級入りを許したANC、労働組合、南ア共産党の黒人幹部たちは期待に違わず見事に堕落腐敗して自らの富裕なステータスを享受し、生活の劣悪化に耐えかねた下層黒人の反乱に容赦ない弾圧を加えるまでになってしまいました。
 南アフリカには権力に反抗を企てた一般市民の虐殺の長い歴史があります。1960年3月21日のシャープビル大虐殺では警察が逃げ惑う民衆に背後から実弾を打ち込み、69人が死亡、180人が重傷を負いました。1976年6月16日、ソウェトで多数の中学高校生たちが蜂起して警察と軍隊の実弾を浴び、176人の死者が出ました。政府が中学校での教室言語として英語に加えてボーア人の言語であるアフリカーンス語を課そうとした事に抗議して立ち上がったのでした。ソウェト暴動です。最近の事件として注目すべきは、ロンミン社に属するマリカーナ鉱山(プラチナ産出)の労働者による山猫ストに対して、2012年8月16日、南ア警察が実弾を発砲し、死者36人、負傷者78人の犠牲が出た、マリカーナ大虐殺と名付けられた事件です。南アの人種隔離制度廃止後に起った歴史的事件として広くシャープビル大虐殺と対比して論じられています。その歴史的意義は、今回の容赦のない黒人労働者弾圧がANC幹部(副会長)で労働運動の有力指導者でもある黒人によって計画的に行なわれたことにあります。その名前はCyril Ramaphosa、好奇心のある方は是非チェックしてみて下さい。政治家としても実業家、投資家としても大変な成功者で文字通りの億万長者です。「マンデラ作戦」の成功ここに極まったというべきでしょう。南アの大統領でもありANCの会長でもあるズマが、マンデラの追悼式典の会場で、黒人大衆からの大きなブーイングを浴びた理由がここに露呈しています。ズマもラマフォーサと同じ穴のむじなであるからです。
 マンデラの生前から死後にかけて、マリカーナに近いダーバンの一地区(Cato Crest)で、土地の立ち退きを強いられた貧困黒人たちが抗議運動を繰り広げ、運動指導者の暗殺を含めた何人かの死者が出る騒ぎになっています。暴力を行使して貧民に立ち退きを迫っているのは、白人ではなく、ANCの黒人たちです。貧民たちは彼らを抑圧するANCの黒人有力者たちをいみじくも「黒いボーア人」と呼び、マンデラが、1993年、南ア共産党大会に出席して発した以下の言葉を拠り所にして、黒いボーア人の集団と化したANCに対する戦いを開始しています。
■ If the ANC does to you what the apartheid government did to you, then you must do to the ANC what you did to the Apartheid government. (もしアパルトヘイト政府があなた方にしたことをANC があなた方にするようになるならば、その時には、あなた方は、あなた方がアパルトヘイト政府に対してしたことをANCに対してしなければならない。)■
今やその時が到来したようです。貧民大衆の敵となったANCに安泰な将来があるとは到底考えられません。
 ここでもう一度農地改革の問題に戻ります。それは南アのマンデラとジンバブエのムガベの比較論でもあります。マンデラが政権を握った1994年に立てられた農地改革プランでは2000年までに全体の農地の90%を占める白人所有農地の30%を黒人の所有に戻す筈でしたが、現実には未だに10%しか黒人所有農地が増加していない状況で、つまり、白人の南ア農地支配は殆ど昔の儘だということです。ところでジンバブエの方ですが、ブログ記事『ネルソン・マンデラと自由憲章(2)』にも書きましたように、1980年に独立を果たしたジンバブエは、それからの20年間、ローデシア時代からの白人と協調して国づくりを進めたので、米欧でのムガベ大統領の覚えはまことに篤く、ムガベはノーベル平和賞の有力候補とさえなりました。しかし、2000年になって、ムガベが白人所有の農地を黒人に返す農地改革に着手するや否や、ムガベは悪逆無比の独裁者として悪者に仕立て上げられ(demonized)、あらゆる国際的制裁が課せられました。そのジンバブエのムガベ大統領が、マンデラの追悼式典に出席した外国の政治家の中で南アの一般大衆からもっとも温かく迎えられた人物があったことは南アの近未来を占う上で重要なヒントになるでしょう。
 式典でオバマが行なった追悼演説は、私にとっては、いつもの通り、虫酸が走る内容ですが、オバマのスピーチ・ライター(のチーム)の腕前はなかなかのものです。一読に値しましょう。

http://www.theglobeandmail.com/news/world/read-obamas-complete-speech-at-nelson-mandela-memorial/article15850924/?page=all

自分が今日あるはマンデラのお蔭だと宣うサワリの部分を少し原文で引いて置きます。:
■ We will never see the likes of Nelson Mandela again. But let me say to the young people of Africa and the young people around the world ? you, too, can make his life’s work your own. Over 30 years ago, while still a student, I learned of Nelson Mandela and the struggles taking place in this beautiful land, and it stirred something in me. It woke me up to my responsibilities to others and to myself, and it set me on an improbable journey that finds me here today. And while I will always fall short of Madiba’s example, he makes me want to be a better man. (Applause.) He speaks to what’s best inside us. ■
オバマがマンデラの範に従ったというのは嘘っぱちですが、両者を大統領の地位につけた力とそれが狙った効果については注目すべき平行性と類似があります。私の自家製造語「オペレーション・マンデラ」を再度使えば、南アでのこの作戦の大成功で味を占めた同じ国際的金融経済権力が、今度は、「オペレーション・オバマ」を米国で実行して又もや成功を収めたと見ることが出来ます。黒人大統領を祭り上げることで進歩的勢力をかん口窒息させ、黒人上層階級を育成利用して巧みに下層黒人の不満の暴発を押さえ込む?このマンデラ効果とオバマ効果の平行性の認識は私の着想に止まりません。米国の真にラディカルな黒人評論家たち(例えばGlen FordやAjamu Baraka)が既に頻りと論じているところです。

http://www.blackagendareport.com/content/budget-deal-and-neoliberalism-us-and-south-african-connection

 さて、締めくくりとして、私自身のマンデラ評価を述べてみます。迷いが残っていて、確信はありません。まあご参考に。
 ANCの思想的核心である「自由憲章」は、原住の黒人、インドからの移民など各種の集団の代議員約3000人がクリップタウンに集まって、1955年6月26日、採択されましたが、その翌日には集会は官憲によって粉砕されました。その冒頭の部分を写します。:
We, the People of South Africa, declare for all our country and the world to know:
that South Africa belongs to all who live in it, black and white, and that no government can justly claim authority unless it is based on the will of all the people;・・・・・・
(・・南アフリカは、黒人であれ白人であれ、その中に住むすべての人民に属し、そのすべての人民の意志に基づくものでなければ、如何なる政府も正当にその権威を主張することは出来ない。;・・・・・・)■
南アフリカが、皮膚の色を問わず、そこに住むすべての人間たちに属するという考えは、外から来て住みついた横暴を極める白人たちに対して余りにも寛大だとして、厳しく批判も浴びましたが、これはネルソン・マンデラその人の中核的思想であったと私は考えます。当時の現実を見据えての政治的判断の要素も混在したかも知れませんが。1955年以降、アパルトヘイト制を強行する白人権力に対する抗争は激しさを増し、1962年マンデラは逮捕されて、ロベン島の独房に投獄され、極めて苛酷な日々を強いられました。人間だれもが何とかお互いに折り合って平和に暮らすというマンデラの希求は、独房での20年間の沈思黙考で、白人に対する憎悪に変わって行ったか?「マンデラのこの信念は変わらなかった」というのが、私の推測です。私はこのマンデラの思想を穏健とも妥協的であるとも呼びたくありません。しかし、結果が悲劇的であったことに否定の余地はありません。白人権力側が綿密に練り上げた「オペレーション・マンデラ」が成功した理由がマンデラのこの思想にあったからです。白人権力を打倒しなければアフリカの真の開放はないと考える黒人闘士たちは、マンデラが獄中にあった間にも着実に暗殺されて消えて行ったのでした。スティーブ・ビコもその一人です。
 1990年2月マンデラがポルスマー刑務所から釈放された時点で、南アの黒人たちに圧倒的な人気のあった黒人開放の闘士は、ネルソン・マンデラ、妻の美しいウィニー・マンデラ、それにマンデラを継ぐ指導者と目されたクリス・ハニ(Chris Hani)の三人でした。ウィニーもクリス・ハニも過去の白人の罪過を赦す立場は取っていませんでした。ウィニーは夫の出獄以前から少年虐待や不倫などのスキャンダルで騒がれ、1992年夫婦は別居、1996年には離婚しました。クリス・ハニは1993年に暗殺されました。悪名高いウィニー・マンデラについて今は何も申しますまい。しかし南アのマスコミを完全に握っている白人権力機構が「オペレーション・マンデラ」の成功のために何をしたか、いや今も黒人下層民に対する彼女の影響を抹消するために力を尽くしていることだけは注意を喚起しておきます。
 南アのアパルトヘイト政権を打倒することに一生を賭け、その成功を手に握りしめて出獄し、世界を見渡してみたネルソン・マンデラは、敵は、今や、単なるボーア人政権ではなく、全世界を支配するネオリベラル金融経済勢力であることを悟ったに違いなく、そして、その新しい敵は、マンデラ個人の力では全くどうにもならない巨大なものであることを悟ったのだと思います。彼にはもう闘う術がありませんでした。1994年大統領に就任したマンデラは一期5年で1999年6月その座を降り、政界を引退します。しかし、そのあたりから、マンデラの政治的発言が再び鋭利さを取り戻したような感じを私は持っています。その顕著な例は、退職直前に大統領賓客として迎えたリビアのカダフィを讃えたスピーチです。

https://libyadiary.wordpress.com/1999/06/13/nelson-mandelas-speech-in-honor-of-muammar-gaddafi/

実際、リビアのカダフィ、ジンバブエのムガベ、キューバのフィデル・カストロは米欧が一貫して蛇蝎視し、あらゆる制裁を加え、あらゆる悪口雑言を浴びせてきた独裁者たちですが、ネルソン・マンデラはこの三人に対する尊敬と友情を最後まで持ち続けました。これも我々がマンデラについて真剣に考える時に忘れてはならない事実だと思いです。
 たぶん、マンデラに対する私の気持は甘すぎるのでしょう。私には、皆で互いに折り合って平和に生きる世界を希求したマンデラに、私の大好きなアルベール・カミュを重ねたい気持があります。カミュはフランス植民地のアルジェリアで生れ、貧乏で耳が悪く読み書きも出来ない母親に育てられました。彼は、生地のアルジェリアを心から愛し、第二次世界大戦後、独立を求めるアルジェリアと宗主国フランスの間で止まることを知らない暴力の応酬が生じた時に、はっきりと独立革命の正義に組せず、何とかお互いに殺し合うことをやめて共存する道を求めて止まなかったため、アルジェリア側からもフランス側からも攻撃され、見捨てられてしまいました。
 2013年、ハーバード大学出版からカミュの『Algerian Chronicles』の訳書が出ました。単なる英訳書ではなく、特別に編集した付録の文章もあります。訳者(Arthur Goldhammer)の覚書と編集者(Alice Kaplan)の序文が大層な優れものでこれだけでも二千円の価値があります。
 ネルソン・マンデラが亡くなってから、多量の関連記事を読んできました。その始めの頃に目にした盟友デスモンド・ツツ元大主教のマンデラ追悼の言葉があります。残念なことに出所の記録を失ってしまいましたが、私の記憶は多分大丈夫です。:
■“Your suffering has finally ended. May you rest in peace and rise in glory.”(君の受難は遂に終わった。静かに眠れ、そして、栄光の中に復活されよ。)■
マンデラの生を至近距離から見守り続けたこの盟友は、マンデラの苦難が出獄の以後も、以前に劣らない重さで続いていたことを見抜いていたのではありますまいか。十字架上の死のあとにキリストは光に包まれて復活(rise)します。殺し合いの応酬の連鎖を飽くまで拒否したマンデラやカミュの精神が栄光に包まれて復活し、讃えられる日が来ることを信じたいと思います。

藤永 茂 (2014年1月20日)



ネルソン・マンデラと自由憲章(3)

2014-01-09 23:24:28 | 日記・エッセイ・コラム
 新聞記事やテレビをうっかり見聞きしていると、ネルソン・マンデラは1962年に逮捕され、ロベン島の刑務所独房に投獄されてから1990年に釈放されるまでの約27年間、筆舌に尽しがたい苦難を不屈の精神力で生き抜いたと思ってしまいます。しかしロベン島に居たのは20年で、1982年には、ケープタウン郊外のポルスマー刑務所に移され、ここでは外部からの訪問を受けるようになりました。1989年7月5日には、時の南ア大統領ボータからのお声掛かりでこっそり刑務所を抜け出て会見に出かけました。マンデラの話では大統領ボータは自らお茶を注いで彼をもてなしたそうです。
 マンデラについての我々の無知は勿論これに止まりません。ボータがマンデラとANC幹部の一部の懐柔を試みていた1980年代の重要な歴史的背景は南アの隣国アンゴラで熾烈に行なわれていた内戦です。1960年代はアフリカ全土に独立の熱気が渦巻き、アンゴラ(ポルトガルの植民地)でも黒人たちが独立運動を展開し、1975年には左傾のアンゴラ人民共和国が独立を宣言しました。当時は冷戦時代の真っ最中で、米欧側はソ連寄りの政府に対して反政府勢力を盛り上げ、南アの軍隊も投入して内戦が始まります。アフリカ大陸で行なわれたソ連側と米側の最大の代理戦争だとされています。フィデル・カストロは合計数万のキューバ軍を送って直接介入しました。
 旧ポルトガル植民地アンゴラとモザンピークが陥った混乱と悲惨は南アを支配していたボーア人/英国人権力層に重大な警告を与えました。ポルトガルの不手際も目立ちましたが、南アでも、このまま人種の厳格な隔離(アパルトヘイト)政策を続けることは不可能であると判断したボータ大統領(正確には、それまで南アを支配して来たボーア/英国白人権力機構)は、表面的には黒人を含む民主主義政体に移行し、しかし金融経済的支配はそのまま続けるという、名を捨てて実を取る方途を取るべきだと考えたに違いありません。それが1989年のボータ/マンデラの会見の核心的目的だったと思われます。両者の間にどのような了解が成立してマンデラが出獄したかは知る由もありませんが、釈放直前に発せられた「鉱山、銀行および独占企業の国営化はアフリカ民族会議(ANC)の政策であり、この点に関してわれわれの見解が変化したり修正されたりすることはありえない。」という発言をマンデラが釈放後にはっきりと裏切ったことに否定の余地はありません。このマンデラの重大な変心が、いつ何処でどのようにして行なわれたかについての一応の定説は、スイスのダボスで開かれる世界経済フォーラムの1992年1月の年次総会に出席したマンデラは、そこで人々に説得されて、アパルトヘイト廃止後の新しい民主国家南アフリカの採るべき経済政策は「鉱山、銀行および独占企業の国営化」ではあり得ないと決心した、というものです。ダボスに向かう旅客機上でその方向にマンデラの考えを変えさせたと自ら名乗る人物がいます。Bertram Lubner(白人)という南アの実業家。またマンデラが用意していた講演原稿を書き換える手伝いをしたという金融専門家(黒人、Tito Mboweni)もいます。ボータを継いだデ・クラーク大統領は1990年2月マンデラを釈放し、1991年6月人種アパルトヘイト終結を宣言します。1992年1月のダボス会議の会場でデ・クラークとマンデラがにこやかに握手している写真が残っています。この二人は1993年6にはノーベル平和賞を共同受賞しました。そして94年の全人種選挙で黒人主導のアフリカ民族会議(ANC, African National Congress)が勝利し、マンデラが大統領に、デ・クラークが副大統領に就任して、目出たく国民統一政府が発足しました。
 皆さん、こうしたすべてがトントン拍子に進み過ぎたとはお感じになりませんか?実は、1989年のボータ/マンデラ会見の数年前、つまり1982年彼がケープタウン郊外のポルスマー刑務所に移されて外部との接触が許されるようになった頃から、ボータ政権は白人の意のままになる黒人上層階級の育成を始めていました。それからの10年間に白人側が打った次々の手は経時的にますます巧妙綿密に練り上げられて行ったのだと思われます。黒人側が政治的成果の獲得に気を奪われているうちに、金融経済の面では、黒人側は殆ど全く身動きが取れないような形に絡めとられてしまったのでした。前掲のナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』の第10章「鎖につながれた民主主義の誕生」は、実際に何が起ったかを我々に教えてくれる優れた文献です。是非お読み下さい。ネルソン・マンデラがいつ革命家としての先鋭さを失ったか、とか、「金融と基幹産業の国営化」という“自由憲章”の初心を失い裏切ったか、などという問題は、南アの白人権力が何を企み、どのようにしてその企みを成功させたかという、今の我々日本人にとっても極めて重要な問題にくらべれば、殆ど取るに足りない些少事です。1993年、デ・クラーク大統領が「南アフリカは核兵器を保有していたが、すべて廃棄した」と宣言した当時、全く一次元的な反核論者であった私は彼の英断を手放しで称賛したものでしたが、今にして考えれば、これは来るべき黒人政権に核兵器保有を許さないためのイスラエル/米英仏主導の動きであったに過ぎません。
 次回は、私なりのネルソン・マンデラ論をまとめて、シリーズ『ネルソン・マンデラと自由憲章』を締めくくることにします。

藤永 茂 (2014年1月9日)