私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

もう一人のオッペンハイマー

2024-05-31 10:26:13 | 日記
 現在のオッペンハイマー論ブームで取り上げられてもよいのに、何故か取り上げられていないオッペンハイマー像は幾らもあります。例えば、ひと頃女流サイエンスフィクション作家として評判だったアーシュラ・K・ルグインの『所有せざる人々』に出てくる物理学者シュヴェックは「オッペンハイマー」なのです。早川書房の文庫本にあるルグイン自身の言葉を引用します:

「おなじくわたしの作品、『所有せざる人々』の始まりも、やはりおなじようにはっきりしていましたが、それがふたたび明確なかたちにまとまるまでは、ひどく混乱した一時期もありました。それもまたひとりの人間から始まりましたが、今回は前のよりもはるかに近くから、非常な鮮明さをもって見た像でした。今度はそれは男性で、科学者、実際は物理学者でした。わたしはその顔をいつもよりずっとはっきりと見ました。痩せた顔、大きな澄んだ目、大きな耳  —— どうやらこれは、子供の頃に見た青年時代のロバート・オッペンハイマーの記憶からきているようです。けれども、そういった視覚的な細部よりもさらにはっきりしていたのは、彼の個性であって、それはこよなく魅力的なものでした  —— 魅力的というのは、炎が蛾にとって、というような意味です。彼はそこに、すぐそこにいました。今度もわたしはそこに近付かなければなりませんでした….  。」

この先にも、小説の主人公である物理学者シュヴェックについて、作者の、「非常に知的で、それでいて無防備と言えるほど天真爛漫」という措定もあります。これが、もし、オッペンハイマーに対する作家ルグインさんの観察にもつながるとすれば、誠に驚くべき pinpoint sharp な洞察です。

貧しい小国アナレスの優れた物理学者シュヴェックは物質の移送についての画期的な理論を案出します。その理論について大国ウラスの物理学者たちと討論したいと考えて、単身ウラスを訪れますが、シュヴェックを招待したウラスの物理学者たちの真の目的は、シュヴェックの新理論を手に入れて、それを他国の軍事的制覇に使用する事でした。それからシュヴェックの反抗と脱出のドラマが展開するわけです。ネタばらしはやめておきます。

原タイトルの『The Dispossed』は、米国では、普通、北米大陸の先住民、いわゆる、「アメリカン・インディアン」を意味します。アーシュラ・K・ルグインのKは家族の名、Kroeber (クローバー)から来ています。父は Alfred Kroeber、米国の産んだ最高の文化人類学者だと言えましょう。母は Theodora Kroeber、『イシ:北米最後の野生インディアン』(岩波現代文庫)の著者です。とても興味深い内容の本ですのでお勧めします。文化人類学の立場からすれば、イシは一つの標本(スペシメン)だった訳ですが、A.  クローバーはイシを一人の良き人間として、一人の友人として扱いました。クローバー教授が、久々のサバティカル・イヤー((安息年の意、研究のために与えられる長期有給休暇)で米国東岸に出掛けていた1916年3月、イシが病を得て亡くなりました。クローバー教授がすぐバークリーの同僚に、イシの死体解剖について、通常の死亡原因確認のための解剖以上の、「標本」としての解剖を決して許さないようにと強い言葉で依頼した手紙の原文が残っています。その中の、私が忘れることの出来ないクローバー教授の発言を以下に紹介します:

As to disposal of the body, I must ask you as my personal representative on the spot in this matter, to yield nothing at all under any circumstances. If there is any talk of the interests of science, say for me that science can go to hell. (もし、学問の為にとか何とか言う向きがあったら、学問なんど糞食らえ、地獄に落ちろ、と、私に代わって、言ってくれ)

学者として何と見上げた素晴らしい言葉ではありませんか! 手紙の前文は以下の記事を見てください:


A. L. クローマーは1876年の生まれ、娘のアーシュラは1927年の生まれ、オッペンハイマーは1904年の生まれ、カリフォルニア大学バークレー校の助教授になったのは1929年、同校の人類学教授のクローマーの話を聞きに、クローマー家を常連の客として訪れていたのです。10歳前後の聡明多感な少女アーシュラもそこに居ました。
 ノーランの映画『オッペンハイマー』には出てきませんが、ピーター・セラーズのオペラ『ドクター・アトミック』にはロスアラモスのオッペンハイマー家のハウスメイドとして北米インディアン女性が出てきます。これは事実であり、また、オッペンハイマーにまつわる空想小説の一つに、北米インディアン男性がロスアラモス研究所所長オッピー暗殺を狙うテロリストを倒すという内容のものもあります。北米インディアンとの繋がりはクローマー家の客間に発していたのかも知れません。

 オッペンハイマーの「愛」は、カミュのそれと同じく、漠然とした人類愛ではなく、個々の隣人に向けられたものであったと考えられます。オッペンハイマーの1960年の日本訪問の写真として、オッペンハイマー夫妻と日本人老夫婦が写った写真が、よく見掛けられます。この御夫婦はオッペンハイマーが愛した教え子の物理学者日下(くさか)周一博士の親御さんで、父親も物理学者でした。日下周一博士については、大阪市立科学館の加藤賢一氏によって詳しいことが調べられ報告されています。次の文献をご覧下さい:
    

この中には書いてありませんが、オッペンハイマーはこの愛弟子にわざわざ米国の軍籍を取らせて陸軍科学研究所に就職させました。オッペンハイマーの意図は、日下周一博士が、敵国人と見做されて、米国内の日本人収容所に送られるのを避けるためであったのです。これは何もオッペンハイマーが戦前から日本人贔屓だったというわけではありません。オッペンハイマーはそういう人間だったといことです。日下周一博士はその後プリンストン大学に転職しますが、この取引には、オッピーの友人の物理学者ユージン・ウィグナーが絡んでいたと私は睨んでいます。

 最近、偶然に、面白い記事を発見しました。THE AMERICAN SCHOLAR という雑誌の記事です:


タイトルは「The Humanist in the Laboratory(科学研究室の人文主義者)」、著者はMark N. Grant|August 25, 2023 とあります。これは、オッペンハイマーの再再評価と言った内容です。少し読み進むと、映画『オッペンハイマー』はよい映画だが、ロバート・オッペンハイマーの芸術的関心や文化的教養がよく評価されていない、と書いてあります。著者は、11歳、小学校6年生の時、宿題作文として、オッペンハイマーの生涯について書きました。オッペンハイマーの死の3年ほど前の1964年初めのことでした。たまたま、オッペンハイマーを個人的に知っていた人と家族的につながりがあって、その人がオッペンハイマーに少年マークの作文を示してくれました。驚くべき事に、ロバート・オッペンハイマーは少年マーク・グラントに手書きの返事を送りました。「マーク君、・・・」に始まる手紙のフォトを見ると日付は1964年6月4日と判読できます。返事の原文は:

Our neighbor and friend Carl Frank showed me the paper you wrote about me recently. I am grateful to him for showing it to me, and grateful to you for what you have written. It is a good short account of a long life. Your last sentence is right, but only in part. What I wrote to President Kennedy and said to President Johnson was a hope for this country, but not only in science.

最後の所を特に注意して読んでください。ロバート・オッペンハイマーは、喉頭癌でひどく憔悴しながらも、プリンストン高等研究所の所長としての職務を続け、1967年2月18日夕刻、帰宅してベッドに倒れ込んだまま、意識を回復する事なくこの世を去りました。癌の兆候が現顕化し、体力の衰弱を意識する中にあっても、見も知らぬ一小学生に返事の手紙を書き送る、ロバート・オッペンハイマーとはそういう人間でもあったのです。

 因みに、上に紹介したマーク・グラントという人の論考は、近頃話題の生成AIのもたらし得る危機についての論議から始まります。興味のある方はぜひお読み下さい。

藤永茂(2024年5月31日)

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