私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

池本/布留川/下山共著『近代世界と奴隷制』

2007-03-28 10:07:22 | 日記・エッセイ・コラム
 拙著『「闇の奥」の奥』p212に、ポルトガル人は日本人を奴隷として海外に送り出すことをしなかったと書きましたが、これが大きな誤りであることを上記の著書?池本幸三/布留川正博/下山晃共著『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』?から学びました。私の不勉強の致すところで、まことに恥ずかしく、読者の方々に深くお詫び致します。拙著に書きましたことは、主にカナダで英書を読んで得た知識に基づいていますが、もっとよく日本で出版された文献を調査勉強してから筆を執るべきでありました。
 先ず、関連部分を『近代世界と奴隷制』pp158-160 から引用させて頂きます。
 ■天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。■
 これはまことに惨たらしい知識です。洋の東西を問わず、人間の強欲さの凄まじさ-私たち日本人を含めて、否定の余地のない人間性のあさましさ、人間の心が抱いている「闇」の恐るべき深さに絶望してしまいそうになります。それは、人生の終りが近いことを意識して、人生について、世界について、何らかの総括を強いられる私のような高齢者にとって、取り分けやりきれない想いです。しかし、高齢者とても、絶望に安易に身を委ねることは許されますまい。
 池本幸三/布留川正博/下山晃共著『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』はきわめて重要な主題を明確な筆致で書いた優れた著作です。私と同様に本書を知らなかった方々には是非ともお読みになるようお薦めします。その「結び」を読めば、近代奴隷制を生んだ政治経済システムは現在も作動を続けているのであり、我々が謳歌する「豊かな消費社会」を維持するために今も依然として「およそ2億人の奴隷」が苛酷な労働搾取に苦しめられていることがわかります。読みながら、私はフランスのアナーキズムの父ピエール=ジョゼフ・プルードンの「繁栄は搾取である」という言葉を思い出しました。このところ、にわか成金的な繁栄に沸くインドの現状を鋭く分析した文章を3月26日のZNet 上で見ましたので、以下にコピーします。「繁栄」に目が眩んだインド人はインド人を奴隷にしつつあるようです。
We have a growing middle class, reared on a diet of radical consumerism and aggressive greed. Unlike industrializing Western countries, which had colonies from which to plunder resources and generate slave labor to feed this process, we have to colonize ourselves, our nether parts. We’ve begun to eat our own limbs. The greed that is being generated (and marketed as a value interchangeable with nationalism) can only be sated by grabbing land, water and resources from the vulnerable.
この点、中国も立ち止まって反省すべきでしょう。また、我が日本も、もし“美しく”ありたいのなら、よく考えてみる必要があります。

藤永 茂 (2007年3月28日)


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ホブソンの『帝国主義論』

2007-03-21 13:28:22 | 日記・エッセイ・コラム
 帝国主義論の古典として先ずあげられるのはレーニンの『帝国主義論』でしょう。その序文(1917年4月26日)のはじめに「本書は、1916年春にチューリッヒで執筆した。執筆の場がチューリッヒだっただけに、当然のことながらフランス語と英語の文献がいささか不足した。ロシア語の参考文献ははなはだしく不足した。しかしそれでも、英語で書かれた帝国主義に関する重要文献、すなわちJ.A.ホブソンの『帝国主義論』は利用した。同書の取り扱いには、細心の注意を払った。それだけの価値があると確信したからである。」(角田安正訳、p11)と特筆し、さらに、本文序章のはじめにも「1902年、イギリスの経済学者J.A.ホブソンの著書『帝国主義論』がロンドンとニューヨークで出版された。ホブソンは、ブルジョア社会改良主義と平和至上主義の立場に立脚し、本質的には元マルクス主義者K.カウッキーの現在の立場に与している。にもかかわらず、帝国主義の基本的な経済的政治的特徴をなかなか見事に、また詳しく説明している。」(角田安正訳、p31)と褒めています。実際、レーニンはホブソンから大きな影響を受けたとされています。レーニンのホブソン批判は上の文章にも見えていますし、またマルクス主義でない学者たちからもホブソン批判の声は沢山あげられましたが、南アフリカでのボーア戦争の騒ぎの真っただ中の1902年に出版されたこのホブソンの名著は、経済学についても帝国主義論についてもずぶの素人である私のような読者でも思わず頁をめくり続けてしまうような面白さと読み易さを備えています。私が、前回のブログで、「身勝手な巨大な嘘」と読んだイギリスの国民的欺瞞について、ホブソンは次のように書いています。
 「帝国主義を吹聴する人々の場合に我々が直面する心理的問題は、偽善という症状でもなければ、嘘のうわべの動機の猫かぶりを意識的に行っている場合でもないことは確かである。」(藤永訳)。つまり、偽善をやっているとか、本当の動機は隠してやっているとはご当人が思っていないところがポイントなのです。「帝国主義は諸事実と力関係を性懲りもなく曲げて記述説明し続けることに基礎を置いている。その歪曲誤伝は、おもに、とても手の込んだ諸事実の選択、誇張、骨抜きのプロセスを通して、利害の関係する徒党や個人によって演出され、そのため、歴史の見かけが歪められてしまうのである。国民の心が、この欺瞞にすっかり慣らされてしまって、自己批判が出来ないような状態になってしまうことに、帝国主義の最も重大な危険があるのである。何故なら、これはプラトンが「魂の中の嘘(the lie in the soul)」--それ自体、嘘とは知らない嘘--と名付けた心の状態だからである。」(藤永訳)。欺瞞を欺瞞と自覚しない精神状態、偽善を偽善と弁えていない偽善行為、ふと現米国大統領の名が心をかすめます。実際、ホブソンを読んでいると、絶えず世界の現状に心が飛びます。この意味でホブソンの『帝国主義論』は,私にとって、素晴らしく生きの良い古典です。レーニンがホブソンを「カウッキー主義者の先駆」と極め付けながらも、感心して読み続けた気持も分かるような気がします。拙著『「闇の奥」の奥』p128に、第一次世界大戦に反対するモレルが反戦運動組織「民主的コントロール同盟」に参加したことを記しましたが、この反戦同盟の議長を務めたのが他ならぬホブソンでした。コンラッドがホブソンの本を読んだかどうかは分かりません。しかし、確たる証拠は何もありませんが、彼の生涯の親友 Cunninghame Graham は読んだに違いないと私は考えます。そして、コンラッドの政治思想を論じる場合によく引用される、彼のグレイアム宛ての手紙から判断すると、コンラッドはホブソンの考え方に全面的に、断固として、反対であったと私は考えます。この私の推測の当否は別にしても、コンラッドとグレイアムとホブソンという3定点の相互位置を出来るだけ正確に測定し,決定する作業は、コンラッドの政治思想論として極めて実りの多いものになると思われます。その作業を行うために、レーニンのホブソン批判が何処まで当っているかを知る必要はなく、また現代の先端的帝国主義論を照合する必要もありません。コンラッド論の視角から特に面白く読めるのは、第II 部第III 章の「Moral and Sentimental Factors」です。その冒頭の文章を原文で引用しておきます。
ANALLYSIS of the actual course of modern Imperialism has laid bare the combination of economic and political forces which fashions it. These forces are traced to their sources in the selfish interests of certain industrial, financial, and professional classes, seeking private advantages out of a policy of imperial expansion, and using this same policy to protect them in their economic, political, and social privileges against the pressure of democracy.
訳してみます。「近代帝国主義の実際の進行情況を分析すると、それを形づくっている経済的な力と政治的な力の組み合わせがはっきりと見えてきた。それらの力の源をさぐると、帝国膨張政策から私的な利益を引き出そうとする特定の産業的、金融的、職業的階層の私的な利益関心に辿り着く。そして、彼らは、この同じ政策を利用して、その経済的、政治的、社会的特権を、民主主義からの圧力にさからって、保護しようとするのである。」
 ホブソンの脳裏にあったのは、もちろん、セシル・ローズに代表される一連の帝国主義者たちの経済的政治的勢力の行動であったのですが、今この文章を読む私たちはアメリカのチェイニー副大統領に代表される強力な権益グループのことを想起せざるを得ません。ホブソンがいう「民主主義からの圧力」とは民意の全体が正常に反映し機能する議会政治を意味していたと思われます。当時の英国国会も現在の米国国会も同じような感じだったのでしょう。
[訂正] 読者の方から拙著の中の誤りを指摘して頂きました。
(1)『闇の奥』p7:ワイズ・ミュラー → ワイズミュラー
(2)『闇の奥の奥』p231:ハイチ出身の詩人 → マルティニク出身の詩人
こうした誤りの他に、翻訳上の誤りも多々あると思います。どうかご指摘をお願い致します。

藤永 茂 (2007年3月21日)


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英国の奴隷貿易禁止令200周年

2007-03-14 11:41:02 | 日記・エッセイ・コラム
 前回はリベリアの過去の歴史のほんのあらましをお話しました。次にはシエラレオネの歴史の話をするのが順序ですが、その前に本年2007年で200周年を迎える英国の奴隷貿易廃止令のことを取り上げます。1807年3月25日、英国議会は「The Slave Trade Act」という法令を可決しました。英帝国では奴隷貿易を違法とする奴隷貿易禁止がその内容で、奴隷制度そのものを違法とする内容ではなかったことに先ず注意しましょう。ベルギー国王レオポルド二世のコンゴについて、1903年、コンラッドがケースメントに送った公開書簡で「70年も前に人道的立場から奴隷売買を廃止してしまったヨーロッパの良心が、コンゴの現状を黙認しているのは異常なことです。それは、あたかも、道徳的時計が何時間もぐるぐる巻き戻されてしまったかのようです。今日では、かりに私が私の持ち馬を酷使して馬の幸せや健康状態を損なったとすると、私は民事裁判官の前に引っ張り出されてしまいます。黒人?たとえばウポトの黒人?はどんな動物とも同じように人道的に配慮してやるに値するように私には思われます。黒人は神経を持ち、苦痛を感じ、身体的にみじめな状態になり得るからです。」(『闇の奥の奥』p115)と書いています。ここでコンラッドが「ヨーロッパの良心」と呼んでいるのは英国のことなのですが、ちょっとした思い違いがあって、手紙の日付1903年の70年前の1834年にあったのは英国議会での奴隷制廃止条例の可決です。奴隷(売買)貿易廃止と奴隷制廃止とははっきり区別する必要があります。それにしても英国が早くも1807年に奴隷貿易廃止を打ち出した理由は何だったのでしょうか?
 その根本的理由はイギリスの国民性、あるいはもっと一般化して、アングロサクソンの歴史的な民族性にあると私は考えます。それは、自分たちが徳行高く慈悲深く心の広い人間集団だ、と飽くまで思っていたいという本能的な凄い執念です。それがどうやって発達し維持されて来たか、それが世界の歴史をどのように動かして来たか--私は、私に許された時間の続く限り、これから一貫して追求して行きたいと思っています。この物凄い自己正当化、自己美化の執念が、実は、重大な罪の深層意識と表裏一体のものである,と私は考えます。ここから、身勝手な巨大な嘘である White Man’s Burden も Manifest Destiny 等々も出てくるわけです。
 会田雄次著『アーロン収容所』(1962年)については、以前私のこのブログ『ノン・ポレミスト宣言』の中で、「会田雄次さんが「アーロン収容所」の2年間で垣間見たものを,私は40年をかけて見据えたわけです。」とだけ書きました。今日はその「まえがき」から少し具体的に引用します。ビルマで英軍の捕虜となって2年間の捕虜生活を終えて帰国した会田さんはこう書きます。「想像以上にひどいことをされたというわけではない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。リンチ的な仕返しをうけたわけでもない。それでいて私たちは、私たちといっていけなければ、少なくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような烈しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。」会田さん自身、これを異常だと思ったのですが、やがて、とうとうそれを書いてしまいます。「私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であった。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人の全ての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知りながら、なおそれとおなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは一つの天譴というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロッパは、その後継者とともに世界の支配をやめていない。私たちは自分の非を知ったが、しかし相手を本当に理解したであろうか。私たちが帰還して以来、私たちの近くには英国に対する讃嘆が渦を巻いていた。近代化の模範国、民主主義の典型、言論の自由の國、大人の國、ヒューマニズムの源流国、その賞賛のすべてが嘘だというのではない。だが、そのくらいのことは戦前でも私たちは知っていた。いや、このような長所とともに、その暗黒面も知っていた。昭和の初めごろから、敵国、すくなくとも競争相手・対立者としての見方が重きをなしてきて、それが悪の反面をも認識させることになっていたからである。だが、戦前の二つの見方を合しても正しい見方になるのではない。それは裏と表の表面的な認識に過ぎない。その中核を形づくっている本体を見ていなかったのではないだろうか。」
 会田雄次さんは、「その中核を形づくっている本体」を、2年間の捕虜生活という異常な劇的体験の故にこそ、たしかに見届けることが出来たのだといいます。上にも述べましたが、私は、その「本体」を、約40年の月日をかけてじっくりと見据えてきたつもりです。会田さんは「想像以上にひどいことをされたわけではない」といいますが、カナダの一大学の化学科の教授としてアングロサクソン白人の支配する社会での私の生活も、簡単に言えば、むしろ快適な外国生活とでも呼べなくはないものでした。しかし、40年の北米生活の間には色々な経験をさせられました。一つの視点を獲得してからは、その重たく容易ならぬ意味が蓄積して行きました。その総体が会田さんの2年間に匹敵する重みに達したとしても不思議ではありません。会田雄次著『アーロン収容所』を私は一年ほど前に中公文庫本(2005年)で初めて読みましたが、氏の他の著作はまだ読んでいません。しかし、会田さんが見た「本体」と同じものを私は見たと思っています。このブログの始めに書きましたが、それは、ヨーロッパ人、とりわけアングロサクソン白人の心の奥に盤居する巨大な嘘だと思います。コンラッドの『闇の奥』が本になって出たのは1902年でしたが、おなじ年にイギリスの経済学者J.A.Hobson の『帝国主義論(Imperialism)』(1902年)という古典的著作が出版されています。この本の中でホブソンは、私が言う巨大な嘘に就いて、「魂の中の嘘(the lie in the soul)」と書いています。
 さて、本日のブログのタイトル『英国の奴隷貿易禁止令200周年』ですが、奴隷貿易廃止と奴隷制廃止の歴史年表を見ると奇妙な事実が目につきます。18世紀(1700年代)世紀末、奴隷制と奴隷貿易に基づいた海外植民地から最も巨額な利益を得ていたのはフランスと英国でしたが、世紀末から19世紀にかけて、フランスは一度廃止した奴隷制をまたぞろ復活したりして、足許がひどくもたついたのに、英国は手回しよく奴隷貿易と奴隷制の廃止を成し遂げ、その倫理的先進性を世界に示したように見えます。
★1794年--フランス奴隷制廃止
★1802年--フランス奴隷制復活
★1807年--英帝国奴隷貿易廃止
★1815年--フランス奴隷貿易廃止
★1833年--英帝国奴隷制廃止
★1848年--フランス奴隷制廃止
実は、この歴史年表の裏に隠されている大事件に注意を向けなければなりません。それは、1804年1月1日、世界初の黒人独立国ハイチの建国宣言です。このフランス植民地サン・ドマングで起った黒人奴隷の大反乱と独立国の成立は世界史を震駭する事件でした。ここでもアングロサクソンは、会田さんのいう「勝利」を見事に勝ち取ったのです。コンラッドの『闇の奥』の100年前に、自ら奴隷の経験を持ち、異常に高度の知性と強烈な個性を備えた黒人トゥサン・ルヴェルチュールなどの指導のもとにフランス大革命の理念に基づく国家の建設が試みられたという事実は、『闇の奥』の読者の誰もが心得ておくとよいと思われます。

藤永 茂 (2007年3月14日)


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松本仁一著『カラシニコフ』(3)

2007-03-07 09:29:20 | 日記・エッセイ・コラム
 リベリアの歴史の話の続きです。1847年6月、リベリアはアメリカ合衆国から独立して、アフリカ大陸初の民主共和国になりました。とはいえ、それから百年後の各国アフリカ植民地の独立とは異なり、現地住民の独立意志の発露というわけではなく、入植黒人(アメリコ・ライベリアン)、ACS、アメリカ合衆国政府の思惑が三つ巴で絡まり、隣国シエラレオネからの敵性英国勢力の進出の恐れの下で、独立の話がまとめられたというのが真相でした。独立後の現地での権力は全人口の一割にも満たないアメリコ・ライベリアンに与えられ、旧宗主国である米国は、必要があれば、その少数派黒人グループを通じてリベリアに影響を及ぼすという構図になりました。これがリベリアの将来に大きな禍根を残すことになったのです。一応独立国だからソロバンに合わない援助はしないし、儲けがあると見れば介入する--これが基本的なパターンとして定着し、現在まで続いています。
 ACSの大立て者ヘンリー・クレイは1854年にフィラデルフィアの新聞にこう書いています:「我々は黒人(ニグロ)の性格を正しく評価しているつもりだし、黒人人種に対する我々の気持は最高に情け深い質のものだ。我々は彼らを向上させてやろうと思うが、白人が犠牲を払ってまでしてやることではない。劣等なアフリカ人を向上させるために我々白色人種が身を落すつもりは毛頭ない。この國は白人に属するのであって、黒人には属しない。」これが「米国内の黒人を国外に追い出す」というACSの事業哲学の真髄でした。かのリンカーンもこのACSの熱心な支持者で、議会でも、プライベートにも、上のクレイの考え方に全面的な賛意を表明しています。リンカーンは大統領として南北戦争(1861年-1865年)を勝ち抜き、1865年奴隷制禁止を合衆国憲法に明記した後、暗殺されましたが、最後まで「白人と黒人は平等ではあり得ない」という考えを捨てませんでした。ACS主導のリベリアへの黒人移住が滞る情況の下で、リンカーンはアメリカ本国に近い中南米やカリブ海地域への黒人棄民の企てを進めました。南北戦争さなかの1863年にも450人の黒人がハイチに移住しましたが飢餓と天然痘で全滅しました。同じ年に発せられたリンカーンの不朽の名言「Government of the people, by the people, for the people」のピープルとはアメリカ白人のことであったのです。南北戦争後のアメリカ国内での、黒人に対する嫌悪感と迫害は戦前を凌ぐものがあり、したがって、黒人の国外への排除を求める白人の気持と、祖先の地アフリカに戻れば、あるいは自由の新天地が--と思う黒人の気持は、1880年代になっても共に生き続けました。この事とコンラッドのコンゴとの関連については、拙著『闇の奥の奥』の62頁と87頁に書きました。
 リベリアは独立から20世紀のはじめまで、英仏両国からの政治的経済的干渉から身を護るため、一種の鎖国政策をとって苦しい経済状態を続けましたが、アメリカ合衆国はリベリアの財政援助の要請になかなか応じようとしませんでした。ところが、1926年に情勢が一変します。アメリカのFirestone Natural Rubber Companyがリベリア政府から1600平方マイルの密林地帯を極めて有利な条件で借り受け、そこに広大なゴム園をつくり、自然ゴムの生産を始めます。コンゴのゴムの悲話が思い出されます。このゴム事業は大きな成功を収め、やがてこの単一の私企業の年間の収益がリベリア政府の年間総収入の2倍にまで膨張することになり、リベリアが「ファイヤストーン植民地」と呼ばれる時代が4半世紀続きました。1951年にはもう一つの米国企業「リパブリック鉄鋼会社」が乗り込んできて大々的に鉄鉱石の採掘輸出を始め,その産出量はアフリカ第一位、世界第三位にまで達します。外国企業に対するリベリア政府の極端な優遇政策の下で、米国のゴム産業や製鉄産業などからの巨額の投資が次々になされました。第二次世界大戦中から戦後の冷戦時代を通じて、米国は大規模な電波発信基地や空港を建設して、軍事的にもリベリアを大いに利用しました。米国の国防省が出費して出来た空港は最大級の輸送機の発着が可能で、アンゴラその他のアフリカの反共ゲリラに大量の武器を補給する目的に盛んに利用されたのですが、リベリア国内の交通とは無縁の存在でした。外国からの巨額の流入資金は国民一般に役立つインフラ整備には殆ど使われませんでした。1975年頃から左傾学生の反政府デモが行われ、政情が乱れ始め、1980年4月12日、Samuel Kanyon Doe というアメリカ陸軍特殊部隊(グリーンベレー!)で訓練を受けた男が武力クーデターを起こして政権を握り、インチキ選挙を強行して、1986年1月6日には大統領に就任しました。独立以来140年、リベリアに初の残忍非情な独裁者の出現です。しかし、反共親米の姿勢を鮮明に示すドウに対する米国政府の覚えは目出たく、レーガン大統領はドウをホワイトハウスに招いて手厚くもてなしました。そもそもインチキ大統領選挙もアメリカに支持されて行われたとされています。1990年9月9日、ドウは惨殺されて39歳の生涯を終えますが、ドウの次にリベリア大統領になったのがチャールズ・テーラーでした。さて、これで『カラシニコフ』の22頁に話がつながりました。リベリアが「近代型の国家を建設することができなかった」理由が「黒人による黒人差別」とはとても言い切れないことを、これで分かって頂けたでしょうか?

藤永 茂 (2007年3月7日)


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