私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

斎藤一著『帝国日本の英文学』

2006-11-29 08:14:27 | 日記・エッセイ・コラム
 この本は、私にとって、二重,三重の意味で極めて興味深く、豊かな問題提供をしてくれる、有益な内容を持っています。明治維新後の脱亜入欧の時代から第二次世界大戦の終焉にかけて、有名有力な文化人たち、いわゆる、偉い人たちが日本の帝国主義的拡張政策をどのように支えて来たかが、「英文学」というユニークな断面で歴史を切って明快に示されています。「英語教育」という切り口も直ぐそばにあります。九州帝国大学物理学科の一年生として、19歳の夏、1945年の終戦を迎えた私は、市川三喜、岡倉由三郎、中野好夫、河上徹太郎、亀井勝一郎など、『帝国日本の英文学』で論じられている名前に、主に、終戦後の読書を通じて親しみました。そして、本書が光を当てている、今の時点から振り返れば、スキャンダラスにすらひびく諸々の事実を私は殆ど知りませんでしたので、その分、本書には余計に深刻に考え込まされることになりました。
 ジッドの『コンゴ紀行』とコンラッドの『闇の奥』との関係については、私もそれなりに考えていたのですが、この二つが日本での紹介と翻訳で密接に絡まり合った事情を『帝国日本の英文学』から学んで驚きました。文学作品の解釈というものに深刻な問いを投げかけています。世界の英語圏国家での、コンラッドの『闇の奥』の受容の歴史に強い関心を抱く私としては、日本で、この二つの文学作品が西洋植民地主義批判の書として宣伝され、それが脱亜入欧の日本の遅ればせの植民地主義政策を西洋植民地主義とは別のものとして称揚正当化するプロパガンダとして働いた事実と、『闇の奥』が、英国での発表当時には、ベルギー国王レオポルド二世のコンゴ私有植民地経営を糺弾する一方で、英帝国の植民地主義はそれと区別して、むしろ栄光化する形で広く受容された事実,この二つの事実を連関対比させて考えざるをえません。これは、洋の東西を問わず、区別できないものを区別する強弁です。ただ、コンラッド批判者としての私がこだわるのは、『闇の奥』の場合、それは作品にもともとbuilt-in されていた一つのfeatureであったという点です。
 『帝国日本の英文学』を読んでから、改めて中野好夫訳『闇の奥』の「あとがき」を読み返すと、その行間に伏せられた訳者の複雑な思いが見えてくるような気がします。ここには「コンラッドの西洋植民地主義批判」などといった文字はもはや見当たりません。「この風変りな作品は、いやでもわれわれに底知れぬ泥沼のような人間性荒廃の跡を、まるで熱病患者の息吹きのような息苦しさでひしひしと感銘させずにはおかない」というのが翻訳者の作品への賛辞になっています。確かに『闇の奥』の文学としての秀逸性はこのあたりにあるのでしょうが、思想的には、クルツという人間の“壮大”な荒廃の必然性が空虚なままに放置されるということになってしまいました。私にはこの作品は、結局のところ、一つの壮大な嘘のような気がしてなりません。グラハム・グリーンも最後にはそう思うようになっていたようです。 
 ポール・ヴァレリーは、戦後、私のような理科系の人間の中にも熱心な傾倒者を生みましたが、その有名なエッセー「方法的制覇」が遅ればせながらの日本の帝国主義的拡張の正当化に利用されたという『帝国日本の英文学』の指摘にも私は驚かされました。「西洋植民地主義批判者としてのヴァレリー」という実に無理乱暴な視角から編集されたヴァレリー特集号として出版された雑誌『文学界』1942年5月号には中島敦の異色の名作小説『光と風と夢』も掲載されていて、これについて斎藤氏は「このように、ヴァレリーの虎の威を借る狐たちの言葉が踊る紙面の約半分を割いて一挙掲載されたのが、西洋植民地主義を批判する西洋人を主人公とする長編小説『光と風と夢』であった」と書いています。ここで“虎の威を借る狐たち”とは青野季吉、河上徹太郎、亀井勝一郎の諸氏を意味します。碌に読書経験も持たないまま終戦を迎えた私は、やがて、宮沢賢治や中島敦に夢中でのめり込んで行くことになりましたが、中島敦の場合、まず私を虜にしてしまったのは彼の exquisite な幾つかの中国もの短編でした。それに続いて何の予備知識も先入観もなしに『光と風と夢』を読みました。それはスティーブンソンに勝るとも劣らぬ文才に恵まれた日本人作家中島敦に、半世紀の時を超えて、スティーブンソンが乗り移って共著したような傑作で、最近も、コンラッドとスティーブンソンとの関係を調べながら再読したところです。『帝国日本の英文学』を読む前でしたし、作家中島/スティーブンソンと、スティーブンソンを愛し大切にしたサモワの人々の双方に対するすがすがしい共感を、初読の時と同じように、胸の中で楽しみました。『帝国日本の英文学』p159頁の注(34)にある解説にも書いてありますが、スティーブンソンは自分の國英国の帝国主義、植民地主義政策に対する批判糺弾を公然と行いました。コンラッドとは断然違うところです。
 太平洋戦争中、英米文学者はなにをしていたか。『帝国日本の英文学』の第五章では、戦争に真摯に対応した少数の英文学者とそれ以外の多数派とを区別して論じた宮崎芳三著『太平洋戦争と英文学者』(1999年)が論考の出発点になっています。多数派とは「勉強ひとすじにがんばって戦争をすりぬける」ことにつとめた英米文学者で、この多数派の非政治性という政治的姿勢こそ現在も変わらぬ英文学の本質である、と書いてあります。これを読みながら、私は旧制福岡高等学校で英語を習った浦瀬白雨先生(1880-1946)のことを懐かしく思い出しました。浦瀬さんは本名七太郎、東京帝国大学文科大学英文科卒業、在学中に夏目漱石の指導を受け、多数の英詩の翻訳を手がけ、Jerome K. Jerome の『Three men in a boat (ボートの三人男)』(岩波文庫)の翻訳もあります。その縹渺とした人間的風格に私は訳もなく魅了されました。ある英語の時間、浦瀬さんは英作文の文章として、突然、「雲高く、呑竜一機撃墜さる」の英訳を生徒に命じました。「呑竜」とは、戦況日々に厳しくなる中で、国民がその活躍に望みをかけた日本空軍の高性能重爆撃機の名であったのです。「海行かば」を口ずさむ軍国少年であった私は全く意表をつかれました。校舎の廊下に敷いてある米国国旗を踏みつけて通らねばならなかったご時世、浦瀬先生のこの英作文出題は一つの反軍反戦の意思表示だったのでしょうし、愛国の熱情に燃える私としては、その場で、浦瀬先生を非国民として抗議すべきであったのでしょうが、悠揚とした先生の口にのぼったこの出題は、まことに不思議なことに、一陣の涼風として私の心をよぎったのでした。今でも生き生きとよみがえる戦時中の高校生時代の思い出です。戦後の若い英文学者である宮崎芳三氏や斎藤一氏があるいは考え及ばなかった形で戦時中の苦渋に耐え、しかも閉塞した当時の若者の心に人間の精神の自由の息吹きを送り込むことが出来た浦瀬白雨のような詩人英文学者も確かにいた筈です。

藤永 茂 (2006年11月29日)


コメント

アーレントの的外れなファノン批判

2006-11-22 15:44:31 | 日記・エッセイ・コラム
 はじめに一つお断り。前回アーレントの暴力論として1970年の著書『On Violence』とその日本語訳(山田正行訳、みすず書房、2000年)に言及しましたが、私はそのどちらも手にしたことがなく、以下の議論は、雑誌『The New York Review of Books』1969年2月号所載のアーレントの「Reflections on Violence」という論考を翌年出版の単行本のオリジナルと私が勝手に想像して、それに基づいて行ったものです。
 アーレントは『闇の奥』を著者コンラッドがその読者に期待した通りに、いや、その予期をはるかに超えて深読みし、彼女の人種思想論を構築しましたが、ファノンの『地に呪われたる者たち(Les damnes de la terre, The Wretched of the Earth)』の場合には、逆に、ファノンのレトリック、その師セゼール譲りのレトリック、の陰にかくれているファノンの真顔を見て取ることが出来ず、したがって、彼の「暴力論」を取り違えてしまったのだと、私は考えます。 もっとも、ファノンの暴力論を読み違えたのはアーレントに限りません。60年代にファノンにのぼせた多数の米国学生もそうでしたし、チェ・ゲバラや毛沢東もその中に数えてよいかも知れません。こう言うと、いかにも私は読み違えなかったと威張っているように聞こえますが、私は、全く肩を張らずに、正しく読むことが出来たと言いたい気持です。明敏な碩学アーレントが読み違えた書物を無学蒙昧の一市井人が正しく読める筈は無さそうですが、たまにはそんなこともあろうかと私は考えます。自ら進んでアルジェリアを自分の國と選び、アフリカを自分の大陸と選んだファノンが、目前に迫った死を凝視しながら、そこにうごめく同胞たち、ヨーロッパの植民地支配の重圧桎梏から脱出して新しい人間と成る機会がやっと到来したアフリカの同胞たちへのやむにやまれぬ思いを一杯に込めたこの書物を、アフリカに対するファノン36歳の遺言の書と読むか、それとも理論的に未熟な一つの暴力肯定論、推奨論と読むか、これが分かれ目だと思われます。
 この書『The Wretched of the Earth』を、私は、アフリカの過去に起った事、現在起っている事を理解したいという気持に絶えず強く引きずられながら読了しました。本書はそうした私の要望によく答えてくれる内容を持っています。コンゴのことも何度か出てきます。そしてその最終章「Conclusion」は私に最も高揚した感銘と勇気を与えてくれました。ファノンは「ヨーロッパ」を拒否することを我々に呼びかけます:
Europe undertook the leadership of the world with ardor, cynicism, and violence. Look at how the shadow of her palaces stretches out ever further! Every one of her movements has burst the bounds of space and thought. Europe has declined all humility and all modesty; but she has also set her face against all solicitude and all tenderness.
She has only shown herself parsimonious and niggardly where men are concerned; it is only men that she has killed and devoured.
So, my brothers, how is it that we do not understand that we have better things to do than to follow that same Europe?
That same Europe where they never done talking of Man, where they never stopped proclaiming that they were only anxious for the welfare of Man: today we know with what sufferings humanity has paid for every one of their triumphs of the mind.
Come, then, comrades, the European game has finally ended; we must find something different. We today can do everything, so long as we do not imitate Europe, so long as we are not obsessed by the desire to catch up with Europe. (p312)
4行上の“the mind”とは、私の言う、“European mind”です。アチェベが『闇の奥』のクルツを“a petty European mind”と呼んだあの“mind”です。アーレントの言う“European mankind”に備わる「こころ」です。残念なことに、「ヨーロッパのゲームは遂に終った」というファノンの宣言は誤りでした。「ヨーロッパの心」の申し子としてのアメリカ合衆国がヨーロッパのゲームを強引にプレイし続けて、そのゲームに参加しようと日本も中国もインドも盛んに熱をあげているのが現在の情況です。
 アーレントをはじめ多くの人々がファノンを暴力の賛美者、称揚者と断定した根拠は第一章「暴力に就いて」の中の数行の文章にあります。例えば
The starving peasant, outside the class system, is the first among the exploited to discover that only violence pays.(p61)
から“only violence pays”という所だけを、前後の意味合いを無視して取り出すことが行われます。ファノンの暴力賛美論の要の文章とされるのは
At the level of individuals, violence is a cleansing force. It frees the native from his inferiority complex and from his despair and inaction; it makes him fearless and restores his self-respect.
です。不注意に読むと、暴力をふるうことで心の中の悪いしこりが取り除かれる、つまり、カタルシスの効果があるとして、ファノンは暴力行使を勧めているようにも取れます。しかし、これはたちの悪い読み違えです。そのことは『地に呪われたる者たち』の全六章を通読すれば分かります。この本では、始めから終わりまで、植民地支配と人種差別の肉体的精神的暴力とその必然的結果が、精神病理の医者の立場から語られているのです。ファノンが語る「暴力の持つ浄化力」とは、長年の植民地支配政策の執拗陰惨な暴力によって人間以下であるという劣等感を植え付けられ、自暴自棄と無気力に陥ったアフリカ人たちが、遂に、自由と尊厳を奪回すべく暴力的に立ち上がった時、彼らの精神にもたらされる浄化作用について、臨床精神科医としての診断を下しているのです。最近、カナダの新聞トロント・スター(2006年10月26日)に『フランツ・ファノンの診断』という記事が出て、「Fanon did not prescribe violence. He diagnosed it and sought to explain it」とありました。まさにその通りだと思います。『地に呪われたる者たち』の第五章「植民地戦争と精神障害」には驚くべきことが書いてあります。1954年11月1日アルジェリア人が武装蜂起してアルジェリア解放戦争が始まりますが、それ以前には、科学的に立証可能の動かし難い事実として「アルジェリア人は生まれつきの犯罪者である」ことが唱えられていました。アルジェリアの医学生はアルジェリア人たちが「born slackers, born liars, born robbers, and born criminals」であると頭ごなしに教え込まれました。ファノンはこの公式理論を箇条書きにまとめて検討しています。(1) The Algerian frequently kills other men. (2) The Algerian kills savagely. (3) The Algerian kills for no reason. 今これを読む私たちにはこのような断言的主張が全く馬鹿げたこととしか思えませんが、当時は、その生物的根拠が科学的に解明可能の事として唱えられていたのです。そして、ファノン自身も、現実の社会現象として、アルジェリア人にそうした特性が見られることを認めます。「Algerian criminality takes place in practice inside a closed circle. The Algerians rob each other, cut each other up, and kill each other. In Algeria, the Algerian rarely attacks Frenchmen, and avoids brawls with the French.」痛々しいことに、解放以前のアルジェリアではアルジェリア人たちの暴力はもっぱら同胞たちに向けられていました。アルジェリア人同士がほんの僅かな物の取り合いをして刃傷沙汰に及び、相手を殺してしまうことが実際によく起っていました。精神科医としてのファノンはこの社会心理の説明を植民地支配者が被支配者に加えた積年の暴力に求めました。これがファノンの「暴力論」の要です。 
 ファノンを引くアーレントの文章にはどこか棘があります。ファノンにも、『地に呪われたる者たち』のために長い序文を書いたサルトルにも好意を持っていなかったのでしょう。ベトナム戦争反対の運動を通して米国内の風潮が変わったとして、アーレントはこう書きます:「But it is no secret that things have changed since then, and it would be futile to say that only the “extremists” are yielding to a glorification of violence, and believe, with Fanon, that “only violence pays.”」 これではファノンにフェアでありません。『地に呪われたる者たち』の何処を探しても暴力を栄光化している個所など見当たりません。しかもアーレントはもっと意地の悪い引用を敢えて行います:
Sartre in his great felicity with words has given expression to the new faith. “Violence,” he now believes, on the strength of Fanon’s book, “like Achilles’ lance, can heal the wounds that it has inflicted.” If this were true, revenge would be the cure-all for most of our ills. This myth is more abstract, further removed from reality than Sorel’s myth of a great strike ever was. It is on the par with Fanon’s worst rhetorical excesses, such as, “Hunger with dignity is preferable to bread eaten in slavery.” No history and no theory are needed to refute this statement; the most superficial observer of the processes in the human body knows its untruth.
『地に呪われたる者たち』のせっかちな読者の便宜のために、ここに引用されたファノンの文章の在処を申しましょう。それは第4章「On National Culture」の頭からすぐの所(p208)にあります。その辺りを読めば、アーレントの引用の仕方が如何に文脈から遊離したものかが分かります。
 ほんの僅かな物の奪い合いでお互いに殺し合って省みなかったアルジェリアの人たちは解放独立の戦いの中で美しく変貌します。
In Algeria since the beginning of the war of national liberation, everything has changed. The whole foodstocks of a family or a mechta (mountain village) may in a single evening be given to a passing company. The family’s only donkey may be lent to transport a wounded fighter; and when a few days later the owner learns of the death of his animal which has been machine-gunned by an airplane, he will not begin threatening and swearing. He will not question the death of his donkey, but he will ask anxiously if the wounded man is safe and sound.
こうした同胞の変貌を前にしてファノンは診断を下します。「アルジェリア人の犯罪性、その衝動的気質、殺人者たちの暴力性は、だから、アルジェリア人の神経組織の成立ちの結果でも、元々からの性格のせいでもなく、植民地という情況の直接の産物なのだ。」
ファノンは戦時という異常な条件の下で発揮された同胞愛が永続的なものであるとは主張していません。アルジェリア人のこれまでの同胞殺し(fratricide)が生来のものではないことの確証をここに見たのでした。ところが、この点に就いても、アーレントは意地の悪いコメントをしています。
But it is undeniably true that the strong fraternal sentiments, engendered by collective violence, have misled many good people into the hope that a new community together with a “new man” will arise out of it. The hope is an illusion for the simple reason that no human relationship is more transitory than this kind of brotherhood, which can be actualized only under conditions of immediate danger to life.
ファノンについては的外れとは言え、アーレントがここで言っていることは、残念ながら、真理でしょう。しかし、自分の大事な驢馬を失いながら、赤の他人の負傷者の安否の方をより大切に思うことができるという人間の心の可能性に最後の望みを託したいと考えるのは、決して私だけではありますまい。

藤永 茂 (2006年11月22日)


コメント (1)

ハンナ・アーレントの『闇の奥』

2006-11-15 08:10:00 | 日記・エッセイ・コラム
 高橋哲哉著『記憶のエチカ』(岩波書店、1995年)の第二章「《闇の奥》の記憶」はアーレントに対するきびしい批判であると同時に、コンラッドの『闇の奥』が差し出しているアフリカのイメージ、いや、その思想的含意に対して、深刻な異議を唱える内容になっています。従って,この一章は一つの重要なコンラッド『闇の奥』論として受け止めるべき論考です。今まで不勉強の私はこの極めて啓発的な論考が日本国内の英文学者の中でどれだけ問題にされているのかを知りません。どなたからか是非ご教示を願いたいものです。高橋さんのこの視角からのアーレント批判、あるいは同趣向のアーレント批判が国際的にどのように評価されているかに就いても大変興味がありますが、コンラッド論、『闇の奥』論の文献で見ている限り、アーレントの名は滅多に出てきません。アーレントの有名な主著『全体主義の起源』で展開されている人種主義論がコンラッドの『闇の奥』にしっかりと依存していることを考えると、これは不思議なことに思われます。
 アーレントが『闇の奥』をどう読んだかは、高橋さんに導かれて『全体主義の起源』を読むと、全く曖昧さなしに理解出来ます。そして、それは『闇の奥』の素直な一読者としての私に大きな自信を与えてくれるものでした。今でこそ、私はコンラッドのこの作品の思想的、政治的内容に対してかなりきびしい批判的姿勢を取るようになっていますが、決して、始めからアチェベ的な非難の目で近づいたのではありません。『闇の奥』の文章を私なりに何とか読みこなし、中野好夫訳に出会ってからその翻訳を思い立った頃の私の素直な受け取り方はアーレントのそれにごく近いものでした。一言で言えば、ヨーロッパに傲然と対峙する原始的、魔的なアフリカのウィルダネスということです。光と闇、善と悪、
有と無、ヨーロッパが時間をかけて達成したものを不気味にnegateするアフリカ。素直に読めば、こう読めます。ただし、ここから出発してアーレントが展開する人種主義論には私はどうしても付いて行けません。むしろ、高橋さんの批判に全面的に賛成です。別の所でも書きましたが、アーレントの所論に対するアチェベの感想を聞きたいものです。一方、『闇の奥』擁護論を営々と繰り広げてきた人たちは、たとえアーレントの人種主義論を知ったとしても、彼女の名を伏せたままにしておきたいと思うに違いありません。アーレントのように『闇の奥』を読んでしまえば、『闇の奥』を弁護する余地は殆ど無くなってしまいますから。
 ハンナ・アーレントのことを、長い間、私は好意的に考えてきましたが、ことアフリカに関する限り、考え直すことが必要のようです。アーレント著の『On Violence (暴力について)』という単行本が1970年に出版されています。日本語訳(山田正行訳、みすず書房、2000年)もあるようですが、私の手許にあるのは雑誌「The New York Review of Books」の1969年2月27日号に出たオリジナルです。アマゾン・コムの書評を見ると、9・11後の今、いわゆるテロリスト論として、あらためて高い評価を得ているようですが、このアーレントの暴力論にも大きな欠陥があるように思われます。ここで彼女の出発点となっているのはフランツ・ファノンの『The Wretched of the Earth (地に呪われた者)』(1961年)で、それに含まれた長文のサルトルの序文も取り上げられています。コンラッドの『闇の奥』に就いては、アーレントはそのメッセージを間違わず読み取り、それに全面的に依存して彼女の人種主義論を構築しましたが、暴力論の場合は、ファノンがその師エメ・セゼールから学んだ詩的なレトリックをアーレントは始めから読み違えて、少なくともアフリカの脱植民地時代に見られた暴力の意味を説くファノンの真意を取り違えてしまったのだと私は考えます。これは現代的にも重大な意義を持つ事柄ですので、次回にゆっくり考えてみたいと思います。

藤永 茂 (2006年11月15日)


コメント

『英語青年』と斉藤一さんに感謝

2006-11-08 10:28:09 | 日記・エッセイ・コラム
 研究社の『英語青年』の表紙を見ると、発刊は明治31年、2006年11月号は総号1893号に当り、その英語タイトルは「THE RISING GENERATION」とあります。すがすがしく示唆に富む雑誌名です。その1893号に斉藤一さんの筆になる拙訳『闇の奥』の書評が掲載されました。その書評は、全くの部外者、門外漢である私がコンラッドの名著の新訳を試みた理由を、温かくフェアな筆致で捉えて下さっていて、とても有り難く思いました。
 しかし、『英語青年』と斉藤さんに対する感謝の気持の中には、単に好意的な書評に対する個人的な感謝の念からはみ出た部分があります。英文学のカノンに対する異端的な発言を日本の英文学界の正統的雑誌と正統的英文学者がこの形で取り上げたその器量を、私は高く評価したいと思います。
 拙訳の「訳者あとがき」にも書きましたが、私が初めて『闇の奥』を読んだのは1972年、再読は2002年、どちらもカナダ生活の中での読書経験で、岩波文庫の中野好夫訳を見たのはその後でした。渡加直前に『シェイクスピアの面白さ』(新潮選書、1967年)に接して以来、中野好夫さんのファンであった私は、岩波文庫『闇の奥』の翻訳文の語学的な面での疎漏さに驚きました。そのことを文庫の編集者の方に直接申し上げたのですが、その方の反応に更に驚かされました。「英文学の大御所が自ら満足を表明されている訳業に門外漢がいちゃもんを付けるとは何事か」というご返事でした。そこで、私が思い出したことがありました。
 岩波書店の雑誌『図書』2000年8月号に「スノウ『二つの文化』再訪」と題する私の文章が掲載されました。1962年英国の週刊文芸誌『スペクテーター』を舞台にして、当時文理にまたがる知を兼備した英国の賢者として世界的な名声をほしいままにしていたC.P.スノウとこれまた有名な英文学者F.R.リーヴィスとの間で激しい論戦が展開されたことがありました。スノウは物理学の修士号を持つ人物でしたが、物理学者としての私は断然リーヴィスの方の見解に賛同して話を進めました。しかし、今ここでスノウの“二つの文化”論の馬鹿馬鹿しさを論ずることは差し控えます。あの時点では私はまだリーヴィスの『THE GREAT TRADITION』の中のコンラッド論を読んでいませんでした。私が思い出したことというのは、『図書』の同じ号に出ていた「ゴシップの苗床」(松村紀代子)というエッセイです。少し引用させて頂きます:
”なにしろ中野好夫といえば、兄やその仲間たちのおしゃべりを、炉辺の猫よろしく耳を立てて聴いていたときが、その名  の聞き始めだったろう。兄の小田島雄志が英文科の学生で、私は小学生か中学生だった。旧制高校・大学と新制高校・大学が入りまじった世代の兄たちは,教室で当てられて、一応下調べもしてあって答えたつもり、と、中野先生の、君は新制か、じゃあ仕方がない、の一言はすなわちお前は英語ができないヤツだ、という意味であり、旧制だと言うと、なに×高か、英語、誰に習った、××か、じゃあ仕方がない、でかたづけられる由で、そんなに怖がっているのに、なぜか兄たちは、みんなうれしそうにナカノ・ヨシオを連発して、わいわい盛り上がっているのであった。・・・・・・炉辺の猫は、大学生ってなんだか面白そうだなあ、とは思ったけれど、ナカノ・ヨシオはちょっと恐ろしかった。その記憶はしっかりインプリントされ、以来、私にとっても大権威なのである。”
このナカノ・ヨシオは、広島や沖縄にあくまでもこだわり続けた中野好夫、私の中にあった中野さんのイメージにどうも馴染まなかったことが、わたしの心の深みにこの文章が沈み、今までそこに潜んでいた理由だと思います。しかし、『英語青年』と斉藤さんの『闇の奥』翻訳批評をきっかけに私の意識に再浮上してきたこの文章から、今の私は新しいひびきを聞きとります。
 ここに描かれているのは、英文学のクラスで、ナカノ先生のverbal abuseに苦しめられるダメな学生と、先生の切れの良い毒舌に喝采をおくる育ちの良い秀才学生たち、これは人気先生主導のダメ学生「いじめ」の構図ではありませんか。ここにあるナカノ像を私は信じませんが、古い世代の日本の英文学界にはこうした“大権威”が何とはなしに形成されてしまう体質もあったのではないかと思います。
 岩波文庫の『闇の奥』は、誰か若い学生さんの生硬な訳文に中野好夫さんが手を加えた結果だったのでは、と私は推測します。しかし私はゴシップに興味がある方ではありません。私の勘ぐりの当否など、どうでもよいことです。それよりも、私の関心は、出身校とそこで世話になった自分の先生を辱められた、つまり、差別を受けた学生に向かいます。差別をする側と差別をされる側、被差別者の感受性は怨念で窒息させられるとは限りません。差別される側に身を置く者が差別者側にない感受能力を研ぎすますことがあります。チニュア・アチェベがその良い一例です。アチェベは怨念族だと言うのならば、エドワード・サイードはどうでしょう。
 『英語青年』1893号の466頁に驚くべきことが書いてあります。
 ”私が日本の英文学界のことを知るようになって、大きな違和感を覚えたのは、先輩たちや偉い先生たちが書く論文のほとんどすべてが日本語によるものだということだった。英文学の研究者なのに、なぜ英語で書かないのか。ほどなく、その理由はわかった。当時の日本の英文学は、ほぼ完全に「鎖国」状態のあったのである。この「鎖国」は、「外国船」(英米の批評・研究)は無制限にかつ無批判に受け入れるが、自らは「出港」しないという独特のものだった。それを許容していたのは、数千人の規模で存在する巨大な英文学コミュニティであった。その中ではすべて日本語で通用する。「出世」しよう、学界で名を成そうと思っても、英語を使う必要など皆無なのだ。”
これを読んで思ったことが二つあります。英語で研究論文を書くのを億劫に感じることと、英米の批評・研究を無批判に受け入れることとは、別のことの筈、というのが先ず一つ。第二は、英語で論文を書き、それが英米の学界で一応評価され、ファーストネームで呼び交すアングロサクソンの友達が何人か出来たにしても、それだけでは大して何の意味もない、いや、むしろ、黄色の「ヤード・ニグロ」に成りかねない危険がある、ということです。
 この点、私はむしろ幸運だったのかも知れません。英米の英文学界とも日本の英文学界とも全く何の関係を持たない門外漢としてコンラッドの『闇の奥』に近づいた私は、盲人蛇に怖じずで、相手がIan Watt であろうとCedric Watts であろうと何ら怖じるところはありませんでした。物怖じのあまりない素人には、英米の偉そうな先生方がたまに案外と下らぬことを言うのが聞こえ易いということもあり得ましょう。また、私たち日本人にはアングロサクソン白人の心の奥深く盤居する済度しがたい人種的優越感につい引きずられて物を見誤る危険もありません。これは『闇の奥』を読む場合に私たちが持つ有利な点の一つだと考えられます。英米のコンラディアン達が“one of us”とは考えてくれない我々だからこそ見えてくることだってある筈です。

藤永 茂 (2006年11月8日)


コメント

アドルフ・ティエールとコンラッド

2006-11-01 11:44:00 | 日記・エッセイ・コラム
 小説『闇の奥』と著者のコンラッドを、1975年のアチェベの『闇の奥』批判に対して、弁護し擁護する論文がこれまで多数発表されていますが、『闇の奥』擁護論は、すでにブログ記事『エロイーズ・ヘイのコンラッド弁護論』で指摘したように、実はアチェベ以前にも結構出ていました。その頃からポスト.アチェベの4半世紀ほどの期間、『闇の奥』をめぐる議論の一つのポイントは、『闇の奥』がベルギー国王レオポルド二世の私有植民地の経営を例外的に悪質のものとして糺弾しているのか、それとも、イギリスを含むヨーロッパ全体のアフリカに対する帝国主義侵略と植民地経営の悪業を裁いているのか、という所にありました。擁護論者の大部分は、この小説はヨーロッパ全体、ヨーロッパ人全体に対する弾劾であるという立場を取ってきましたが、この立場を守るのは大変困難だと私は考えます。今日はその理由の一つを論じてみます。
 モレルと力を合わせてレオポルドのコンゴを倒す運動を進めていたケースメントは、年来の友人で、『闇の奥』を出版して今や筆名を確立したコンラッドにコンゴ打倒の運動への参加を要請しますが、コンラッドはこの政治運動に直接参加することを断り、その代わりに、1903年12月21日付けでケースメントに宛てた公開書簡を送り、その内容をレオポルド攻撃のために自由に使って構わない旨を伝えます。この書簡の全訳は前回のブログ(2006年10月25日)で予告した単行本に含めてありますが、ここではその一部を原文のまま引用して、その中に出て来るアドルフ・ティエールのことを少し取り上げます。
 「The slave trade has been abolished ? and the Congo State exists today. This is very remarkable. What makes it more remarkable is this: the slave trade was an old established form of commercial activity; it was not the monopoly of one small country established to the disadvantage of the rest of the civilized world in defiance of international treaties and in brazen disregard of humanitarian declarations. But the Congo State created yesterday is all that and yet it exists. It is very mysterious. One is tempted to exclaim (as poor Thiers did in 1871), “Il n’y a plus d’Europe.” But as a matter of fact in the old days England had in her keeping the conscience of Europe. The initiative came from here.」
 コンラッドがケースメント宛の公開書簡でベルギー王レオポルドのコンゴだけを特に取り上げて非難していることは、この引用部分を読んだだけでもはっきりしています。1903年という時点では、モレルやケースメントを含めて、殆どすべてのイギリス人が、自分たちが植民地でやっていることは良いがベルギー(国王)のやり方は悪いと決めてかかっていたのですから、コンラッドの意識の低さだけを責めるには当らないとも言えます。私が問題にしたいのは、上の文中での、アドルフ・ティエールへの言及です。
 アドルフ・ティエール(Adolphe Thiers, 1797-1877)はフランスの高名な政治家、歴史家でルイ・フィリップ王政政府の首相となり、ルイ・ナポレオンのクー・デターではフランスから追われてロンドンに移住し、ナポレオン三世が普仏戦争に敗れて退位したあとフランスに戻り、ビスマルクと和平を結び、続いて第三共和制期の初代大統領になりましたが、労働者階級を中心としたパリの市民はベルサイユに設立されたティエールの政府に反抗して、人民政府パリ・コミューンを1871年3月28日に創立します。アドルフ・ティエールはベルサイユに集めた軍の武力を情け容赦なく行使して、5月20日にはパリ・コミューンを壊滅させてしまいました。当時ロンドンに住んでいたカール・マルクスはこの事件についての想いを『フランスの内乱』という本にまとめて即刻(1871年)出版しました。パリ・コミューンについては、大仏次郎著の『パリ燃ゆ』という大冊の物語的好著があり(勿論、他の学術的専門書もありますが)、これを読めば、ティエールという男がどんなにむごたらしくパリの下層市民を大量虐殺したかが手に取るように分かります。大仏次郎さんの同情は明らかにパリ・コミューンの側にありますが、コンラッドはパリ・コミューンの思想の背骨となったブランキやプルードンやマルクスのような人たちより、ティエールの方に共感を持っていたと思われます。エロイーズ・ヘイは彼女の1992年のコンラッド擁護の論考の中で「コンラッドは断固たる反マルクス主義者であった」と書いています。 
 “Il n’y a plus d’Europe.”という有名らしい言葉の出所を私はまだ押さえていませんが、上の引用文では、“これじゃ、もう、ヨーロッパなんてものじゃない”- つまり、ベルギーのやっていることはヨーロッパに属しない、こりゃヨーロッパの面汚しだ、といった意味を含めた言葉であろうと私は思います。それにしても、イギリスが護持していた「ヨーロッパの良心」とは、コンラッド自身にとって、何を意味したのでしょうか?この言葉はこの公開書簡を読む一般のイギリス人に向けた単なる外交辞令、イギリスの帝国主義の罪悪については全く盲目のままでベルギー・バッシングに熱を上げるイギリス人へのお世辞に過ぎなかったのでしょうか?

藤永 茂  (2006年11月1日)


コメント