私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

イスラム国の強敵

2015-01-28 22:44:34 | 日記
 日本人人質事件以来、イスラム国のことがしきりに語られていますが、イスラム国に対して明白な軍事的勝利を収めた人間集団があります。イスラム国の強敵の出現です。
 2014年9月、トルコとの国境に近いシリア北部のコバニ県(canton)に侵攻したイスラム国の軍隊はコバニ県の村落の大部分を制圧してその中心の都市コバニ(現地名アインアルアラブ)に攻め入りました。しかし、それを迎え撃ったクルド人民兵組織YPG(人民防衛部隊)は、約4ヶ月の死闘の末に、1月26日、イスラム国の戦闘員たちをコバニの町から完全に排除し、コバニ県内の300ほどの村落からも駆逐して、勝利を収めました。破竹の勢いで勢力を拡大し、イラクの中、北部からシリアの東北部一帯を含む地域に「イスラム国」の建設を目論んでいる勢力にとって、これは全く手痛い敗北です。大きな蹉跌です。
 「イスラム国」というものの正体がどうも分かりにくい事に加えて、クルド人とは何かについても、基本的常識すら持たなかった私はコバニというトルコ/シリアの国境に近い小都市の攻防が持つ意味が、はじめは、よく理解できませんでしたが、勉強を進めるうちに、これは大変なことだということが分かってきました。
 ウィキペディアにはクルド人のことを「トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する、独自の国家を持たない世界最大の民族集団である。人口は2,500万~3,000万人といわれている。中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多い。宗教はその大半がイスラム教に属する。」と書いてあり、全体としては、少数民族ではないのは明らかです。もともとはオスマン帝国内に一応まとまった居住地域を持っていたのですが、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、サイクス・ピコ協定に基づいてフランスとイギリスが勝手に引いた国境線によって、トルコ、イラク、イラン、シリアなどに分断され、各国内では少数民族になってしまったのでした。これまでの中東紛争のニュースでよくお目にかかったのは、イラク北部のクルド人自治区と呼ばれる地域で、これは地理的にも政治的にも、上で注目しているコバニとは大変異なっています。イラク北部のクルド人自治区の首都エルビルは、石油資源目当ての米欧からの巨大な資本流入で高層ビルの建設ラッシュが進行中、第二のドバイと呼ばれることもあり、もちろん、この自治区の政府は米欧の厚い庇護を受け、米欧と密接良好な関係にあります。しかし、今度、シリア北部のコバニでイスラム国に痛撃を与えたクルド人たちは、対イスラム国という面では、アメリカ空軍のイスラム国空爆に助けられているのは事実ですが、イデオロギー的には、明らかに親米、従米ではありません。この点に、私は強い興味を持たざるを得ません。いや、反米云々というよりも、一つの新しい人民革命の芽生えと言って良さそうな事態が生起しているのです。私は、そこに、サンカラのブルキナファソ、アフェウェルキのエリトリア、カストロのキューバ、チャベスのべネズエラ、あるいは、ムヒカのウルグアイに繋がるものを垣間見る気がします。コバニのクルド人にとってのシンボリックな名前はアブドゥッラー・オジャラン(Abdullah Öcalan)です。彼は、一度はトルコで死刑宣告を受けた名うての“テロリスト”、詳しくは次回に。

藤永 茂 (2015年1月28日)

エリトリアの人々に幸あれ(5)

2015-01-21 22:55:10 | 日記・エッセイ・コラム
 アンドレ・ヴルチェク氏の『エリトリア:帝国主義者にとってのイデオロギー的エボラ出血熱』の翻訳の最終回です。
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 エリトリアで過ごした日々、私はダムや灌漑システムや、緊急事態用の食料備蓄に励んでいる村々を見た。学校や保健医療施設や新しい道路も目についた。
 アスマラから数百キロ離れた新しいドムヒナ道路上で、私は車を止めて、道を歩いている数人の少女たちに話しかけてみた。彼女たちはすべて5年生か6年生で、快活に笑い、見るからに楽しそうだった。:
 “私たちの村に前から小学校が一つあり、今はもっと大きな村の学校に通っています。みんな成績が良くて、英語や数学が大好きです。”
 少女たちは教師や医師になりたいと言うが、一人だけエンジニアーになるとはっきり決めていた。彼女の国のために、橋や道路や電力線網を作るのだという。
 エリトリアはまだとても貧しい。しかし、清潔で秩序が良好だ。
 犯罪率は極めて低い。私はフォネカセウムスク博士という眼科医と話したが、彼女は長年エリトリアの田舎で白内障手術に携わっていて、医療機器の電源の電池は太陽光発電で充電している。太陽光エネルギーの使用ではエリトリアは世界第2ということだ。その眼科医が言うのに、彼女は単身で住んでいるが、田舎であろうと、都会であろうと、一度も安全でないと感じたことはなく、セクハラの経験も全くないとのことだった。
 厚生大臣の顧問のミスメイ博士は首都アスマラの幾つかの病院の視察に連れて行ってくれた。清潔で小ざっぱりとした施設は、ケニヤとかウガンダとか、資本主義的にドライブされている国々で目にした途方もない大きさの病院とは全く対照的だった。
 エリトリアでは、医療は、医薬品を含めて、事実上無料である。病室は清潔で、子供病院は動物のぬいぐるみで一杯だった。
 この国はワクチン計画と医療制度の絶え間ない改善を通して、幼児死亡率を劇的に縮小することに成功している。中国は、アスマラで、癌治療と心臓手術のための幾つかの医療施設特区を完成させたばかりだ。数人のキューバ人医師もここで医師養成や患者の医療に携わっている。首都の数カ所で住宅建設計画が進捗している。マッサワや他の場所でも同じだ。

 エリトリアを離れる前の日、私は政府の二人の教育専門家、アイムトさん(男性)とイヨブさん(女性)、に会ったが、二人は、ここでは成人教育がどんなに真剣に取り上げられているかを、明瞭に説明してくれた。
 エリトリアはMDGs(ミレニアム開発目標)の項目の多くを達成することのできるごく僅かなアフリカの国の一つである。独立の時点では、平均寿命はたったの49歳だったが、最近の国勢調査では63歳(アフリカの標準では大変高い)に向上していた。1991年には、成人の識字率は男性20%~30%で女性は10%と低かったが、2008年には、それが65%、2010年には74%になり、2015年は80%が現実的な目標である。今後の識字力向上プログラムは職業的に機能する識字プログラムだが、何よりもまず、そのシステムが如何に民主的か、が話題になった。‘民主的’と言っても、米欧での受け取り方とは違い、機能的識字率向上のカリキュラムを作り、共同社会に利益をもたらさないような計画を排除するに当たっての意思決定に人々が参加するという意味で‘民主的’なのである。
 保健と教育の面で、エリトリアは、UNDPとUNESCOを含む国連の幾つかの機関によって、繰り返し賞賛されているにも関わらず、そのことは主流の西側報道にはほんの僅かしか流されない。

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 滞在の日々を通して、いつも事が静かに運ばれたわけではなかった。一夕、私は若い知識人たちと円卓会議を開催した。社会主義について、帝国主義に対する闘争について、エリトリアはもっと闘争的になるべきか否かについて、もっと世界の社会主義国家に接近すべきかどうかについて、我々は喧々諤々の議論をした。私はムービーを撮り、写真を撮り、録音をした。
 私はPFDJの研究資料センター長官であるヨハンネス氏に紹介された:PFDJ(People‘s Front for Democracy and Justice)。我々は波乱に満ちたエリトリアの歴史とこの国が自国の民の生活を改善する権利について長時間議論した。話は夜中まで続いて、とうとう録音テープもメモ紙も尽きてしまった。
 最後の晩には、ホールに満ちた聴衆に講演をした。その地の知識人や若者たちが聴衆だった。その少し前には、エリトリア・テレビのインタヴューに出演した。完全に対話方式で、初めから終わりまで、何も演出されず、すべては自発的だった。

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 エリトリアは攻撃にさらされている;明らかに米欧のヒット・リストの中にある。何故なら、この国はその国民に奉仕し、米欧帝国とその企業の利益になるように振る舞うことを拒否するからだ。

 この国をとことん中傷するために、米欧はその毒々しいプロパガンダを極限まで駆使している。また、米欧は ‘反政府勢力’を組織的に、煽り上げ、金をつぎ込み、でっち上げている;これは米欧が世界中でやっていることだが。
 周期的に、BBCやその他の西側のプロパガンダの発信源から発せられる大々的なキャンペーンが直接アスマラを狙い撃ちする。
 一例を挙げると、2012年1月、ありもしなかった“クーデター”が大げさに報じられた時、アスマラのシンク・タンク“アフリカ戦略”はその報道を否定して、いわゆるエリトリア“専門家”たちによって広められたアスマラとエリトリア政府に関する虚偽情報の集中砲火に、世界中のエリトリア愛国者たちが反撃するのを助けたことがあった。その時、西側のニュース・チャンネルとアルジャジーラは、首都アスマラで“反乱”があったと報じていたのだ。
 現地で私の助手をしたカメラマンのアズメラ氏はその時のことを次のように要約してくれた。:
“その‘クーデター’なるものが発生していた時、私は大統領府の構内で二三時間仕事をした後、丁度、そこから離れるところでした。そこを徒歩で出て、ランチをとりました。・・・やがて、4時頃、電話がかかってきて、‘アルジャジーラがアスマラでクーデターがあったと報じている!’と聞かされました。私は気にもかけず、歩いて家に帰りました。”

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 エリトリアで集中的に仕事をした結果、私はこう証言する。:私は結論に達した:この国は社会主義国である!

 もしラテンアメリカでの定義を適用するとすれば、この国は社会主義国だ。しかし、同時に、それはエリトリア独自の様式の社会主義国である。如何なる国からのものであれ、理不尽な命令には決して従わないだろう。米欧からの命令は勿論、それがラテンアメリカの友好的な国々や、南アフリカや、中国やロシアからのものであったにしても。

 エリトリアはその国民に属するのである。

 私は世界の150カ国で仕事をして来たが、今まで、こんな国に出くわしたことは一度もなかった。最初の3日間はまごついた。私は、何とかして、エリトリアを一つの箱の中に詰め込もうとした。後では、ただ成り行きにまかせ、これでいいのだと微笑んだ、・・・つまり、成り行きまかせを楽しむことにした。

 この国は何と美しいことか!そして、何という強さ、勇気、何という粘り強さに輝いていることよ!

 朝の4時、私の乗った航空機がカイロに向けて離陸している時、私は幸せな気分で鼻歌を歌っていた。私は私が心から賛嘆できる国を後にしているのだった。心の内で、私は、この国に着いた時よりはるかに自分が豊かになったと感じていた。

 もし、これが、米欧の資本主義と帝国主義にとって、ウィールス--政治的、経済的、社会的エボラ出血熱--ならば、私は、喜んで、何度も何度もそれに感染したい。

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<訳注> これで、アンドレ・ヴルチェク氏の『エリトリア:帝国主義者にとってのイデオロギー的エボラ出血熱』の翻訳は終わりました。
 「もっとも基本的な人権とは何か?」それは、何よりもまず、「人間らしく生きる事ができる」ことだと、私は考えます。着るものがあり、食べるものがあり、住むところがある、これが基本です。これらの基本的人権にくらべれば、言論の自由とか、表現の自由とかは、二次的なものです。この次元での人権を云々するのなら、私としては、言論の自由の権利よりも、むしろ、知る権利を要求したい。エリトリアを例にすれば、私たち一般大衆がエリトリアについて本当のことを知りたいと思っても、よほどの努力をしなければ、思いはかないません。実を言えば、エリトリアの実情を、つまり、アンドレ・ヴルチェク氏が報じてくれているような実情を先刻ご存じの人々は日本にも少なからず居るのだと私は推測します。例えば、鉱山資源関係の商社マンやJICA(ジャイカ、Japan International Cooperation Agency)の人々など。では何故彼らは真実を語らないのか? それは、日本に言論の自由、表現の自由が無いからです。本当のことを語るのは、自分の為にならないからです。このような自主規制は、日本の社会のあらゆる所に見られます。その状況の中で、意識的な、為にするプロパガンダが行われれば、私たち一般大衆はころりと偽りの情報を信じてしまう――これが実情です。
 
藤永 茂 (2015年1月21日)

エリトリアの人々に幸あれ(4)

2015-01-14 21:58:09 | 日記・エッセイ・コラム
 マッサワの港は廃墟のままである。エチオピアは、この歴史的都市を、エリトリアの独立戦争の最終段階で、徹底的に爆撃した。その後、再建設の仕事が、ゆっくりとではあるが確実に進んでいる。港としては今や十分機能している。貨物船は世界各地に向かって出航しているし、旅客フェリーは本土とダーラクの島々を結んでいる。
 しかし、市街そのものの中では、戦争の恐怖は一歩ごとに目に入ってくる。多数の歴史的建造物が、中はがらんどうで幽霊のように立っている。港の入り口には巨大な石の台座がある。昔はこの上に何があったのかと尋ねると、“ハイレ・セラシー”と答えが返ってきた。
 我々は、念入りなコーヒーの淹れ方で知られているという古風なコーヒーショップに立ち寄った。生活は徐々に正常に戻りつつある。人々はコーヒーを飲み、お喋りをしている。
 二人の女性が、家の表でクッキングをしている。近づいてみる。彼女らの暮らし向きがよくなっているかどうか、私は知りたいのだ。
 マーザさん、55歳、は答える。:
 “エチオピア人がここにいた頃より、ずっと良くなったわ。大人が学校教育をうけている。子供も同様で、みんな無料です。病気になった時には、医療も受けられます。私たちは未来について楽観的で希望を持っています。”そう言ってから、彼女は、昼食に我々を家に招じ入れてくれた。
マッサワには、再び、生活が目覚めつつある。新しい大学(海洋科学技術大学)があり、新しい国際空港があり、自由交易の市場がある。ホテルも開業している。
 田園地帯には依然として戦争の遺物があちらこちらにある:記念碑、破壊された戦車や装甲車。この国が乗り越えてきた事柄は想像を絶する。この国がここにあり、それが生き残ったこと、勝ったこと、何とか前進していること、それ自体が奇跡である。もっと正確には:それは人々の英雄的行動の証である。

***

アスマラで、私はエリトリアの高級外交官テスファマイケル・ゲラートウと話し込んだ。彼は以前エリトリアの英国大使だったが、単に外国でのエリトリア代表というだけではなく、国家的英雄の一人でもある。あらゆる障害にもめげず、多年にわたって、この国の独立のために闘ってきた人物である。そして、今日まで、国家建設に貢献している。:

“エリトリアは平和で安定していますが、それは政府の‘統合的発展パラダイム’のお蔭です。―― 地方、特にこれまで不利であった地方に特別の焦点を置いた、すべての人々の機会の均等を目指しています。我々は一般的全体的な生活の質を向上させています•・・我々は一つの‘知識社会’の創造に至るべく、文化的な変容をやっているところです。そこでは、ひとりひとりがその発展プロセスの持ち主になります。発展計画とそのプロセスを自分のものとし、お互いの間の対話と敬意に基づいた協力関係を建設しようと努めています。”

 私は、この国―― アフリカの反逆児を扱ってきたアメリカ合州国のやり方について訊いてみた。

 “エリトリアに対するアメリカ合州国の積年の行動パターンは陰謀に満ちたものです。”

 彼はかつて国連の米国大使(あとで米国の国務長官になった)ジョン・フォスター・ダレスの言葉を引いた。:“公正な観点から言えば、エリトリア人の意見は尊重すべきである。しかしながら、紅海海域における米国の戦略的権益と世界の安全と平和を考慮すると、エリトリアは我が同盟国家のエチオピアに結びつけなければならない。”

 私はアメリカ合州国が、エリトリアを不安定化するために、過去に使い、今も使い続けているいろいろ違った口実や手口のことを挙げると、ゲラートウ大使は語気を強めて答えた。:
 “米国は積極的に経済封鎖をやってきましたが・・・それが失敗すると、1998年にはエチオピアを使って戦争を仕掛けてきました・・・それが失敗すると、反政府の政治感情を注入して人種間の分裂や裂け目を作ろうとしましたが・・・それが失敗すると、米国の原理主義的キリスト教派を使って宗教的分裂を試み・・・それが失敗すると、今度は、しきりに若者たちを国外に誘い出すことをやり始め、パスポートを持たない若者に不法ビザを発行しておいて・・・そのあと一転してエリトリア政府が人身売買(Human Trafficking)をしていると非難したのですが・・・それも失敗すると、米国は積極的に隣接諸国をけしかけて、エリトリアと戦争を始めさせ、また、秘密裏にそれらの国に働きかけて、エリトリアをIGAD(「アフリカの角」地域の政府間開発機構、Intergovernmental Authority of Development)からいびり出すことを試みました・・・米国は、この地域での自身の戦略を推進するために、そうした従属国を使おうとしたのです。・・・そして、それもまた失敗すると、米国は、エリトリアに対する違法で理不尽な制裁措置を画策すべく、例の悪名高い‘テロ国家’のラベルをエリトリアに貼り付けました。・・・あらゆることが失敗した挙句、最後に、米国は、‘人権’と‘民主主義’を内政干渉のスローガンとして掲げ、それを使い続けています・・・”

***

 “我々が何をしているかを見て、それから我々が社会主義国家かどうかおっしゃってください”とは、多数の人々が繰り返し私に言ったことだ。
 見れば見るほど、エリトリアの計画、そのプロセス、その革命は、キューバ、ベェネズエラ、エクアドルで闘い取られているものに極めて近いと、私は確信するようになっている。
 しかし、この国には、偉大な誇りと、そしてまた、偉大な謙虚さがある。エリトリアでの事の進行はしめやかで、声高ではない。その結果、世界はこの瞠目すべき国について殆ど何も知らない。

***

 テシエール・アリ博士は15年間エリトリアに住んでいる。 彼はPCH(アフリカの角の平和建設センター)の理事長である。我々は理事長室で腰を下ろし、何故エリトリアの開発モデルが国外で間違って紹介されるのか、あるいは、何故それが米欧のマスコミで無視されるのかを解析しようとした。:
 “国際社会とか外の世界に向けて、エリトリアのことを語るとなれば、この国は全世界で最も誤解されている国の一つだと、私は考えています。ここにやってきて直ぐ私は気がついたのですが、ここでは、30年間の闘争を通じて発想され、発展させてきた、一つの国民的計画とも言うべき目的意識を人々が抱いています。我々が賛同する必要はないにしても、とにかく、彼らは自分たちの国を点 A から 点 B まで持って行くのだと決意しているのです。彼らは多くの障害や挑戦に直面しますが、これまで常にそのコース上に留まっています。アフリカの他の国は、私の国スーダンと同じで、そうした目的意識を持ち合わせていません。”
 “スーダンで、そして、アフリカ一般で、一つの妨害要因は腐敗汚職です。エリトリアではそんなことはありません。その事実は、いつも私にこう思わせたものです。:エリトリアが、その国民の本当の必要から立ち上げて、下から出発した発展に力を集中することが出来るのなら、エリトリア以外の我々の国でも、出来ない筈がないではないか?”

 “実際に、米欧が最も心を悩まし、恐れているのは、その国民的計画であり、目的だ、というわけですか?エリトリアが近隣の他の国々に積極的に影響し得るということですか”と私は尋ねた。

 “国際社会、帝国主義、ネオ-コロニアリズム ―― こうしたものは、標的とする社会が、分裂していなければ、弱くなければ、あるいは、どこに行こうとしているか分かっていないのでなければ、つまり、一つの国民的計画を持っていないのでなければ、その国に付け入ることは出来ません。国民的計画は、国民の生活水準の改善を可能にする発展の水準を達成するために、すべての天然資源を活用し、国家の立役者を奮い立たせ、人的資本の活性化を促します。”

 “キューバにおけると同じように、ですね?”

“そうです、キューバはとても良いお手本です。また、私は、こうしてエリトリアが誤解されている理由の一つに、その政党と一般市民が独立独行の態度を堅持していることがあると考えます。これは世界中で殆ど何処にも見られないことです。”

 アリ氏は、他の多くの国も、タンザニアを含めて、独立独行を語っているが、もっぱら口先だけだ、と言う。しかし、エリトリアはそれをやってのけた。彼が現地の仲間たちと話をしてみると、エリトリアのやり方では、目的達成に余計時間がかかるが、エリトリアの思うままの条件で達成できることを人々は心得ていたという。
 そして、これこそが決定的に米欧の嫌がることなのだ。

 “エリトリアはネオ-コロニアル国家ではありません。エリトリアは独立国家です。エリトリアはいかなる軍事基地も、外国軍隊も受け入れません。エリトリアははっきりしたビジョンを持っています、そして、それは単にエリトリアのためだけではなく、「アフリカの角」地域のためのビジョンなのです。また、各国の自立と地域としての統合を奨励します。エリトリアについては、‘我々の資源を我々が使い、我々の独立を建設しよう、エリトリア人民の、とりわけ、農村地方の人々の、生活水準を高めよう’という基礎的理念の上に立っています。チョムスキーが言った通り、このやり方は、米欧では、‘腐ったリンゴ’だと考えられたわけです。”

 再び、モハメッド・ハッサン博士に登場して頂く。同じことを聞いてみた:「それが米欧が恐れる主なことでしょうか? つまり、ドミノ効果;エリトリアがアフリカの他の国々にもたらしかねない影響?」

 “勿論そうです”と彼は答える。“アフリカは世界の天然資源の50%を持っています。・・・そこで、エリトリアの指導者たちのことを考えて下さい。――彼らは盗みません。彼らは普通の生活、つまり、普通一般の人々と同じ生活をしています。アフリカの他の如何なる国の指導者たちも、この国の指導者のようには生活していません。隣の国に行ってごらんなさい。エチオピアの首相がついこの間亡くなりましたが、80億米ドルの遺産を家族に残しています。”

 つまり、要点はこうだ。:エリトリアに汚職がないことは‘大変危険だ’と考えられということだ。ずっと以前に、ジョン・パーキンズが私に、米欧がこの地球を支配するにあたって、汚職腐敗は最も効果的な道具の一つだ、と言ったことがある。それはエリート達に権力を与え、負債を抱え、分裂した国家を全く無防備にする。

“エリトリアは他国を攻撃したことはありませんが、それが持っている物の考え方は大変危険だと考えられてきました。エリトリアはそれよりもっと大きな国々に感染を広げるウィルスだと考えられているのです”とハッサン博士は話を結んだ。

 エリトリアの偉大な知識人であるエリアス・アマーレ氏も、同様の趣旨の言葉を付け加えた。:
“独立は真正の独立であるべきだとエリトリアは固執しているのです。独立独行を強く主張します、それは、例えば、エリトリアが外国の直接投資を拒絶することを意味しません。しかし、直接投資が入ってきたら、エリトリアは公平な条件を求めます。エリトリアは巨大な天然資源を持っています。金、銅、亜鉛、は、ほんの僅かな例です。しかし、エリトリアはコンゴやジンバブエで起こったことを繰り返したくないのです、エリトリアは平等の提携関係を持ちたいのです。多くの西側諸国はこれが全然気に入らない。それが、エリトリアが直面している敵意の主要な理由です。”

 「でも、エリアスさん、西側は、エリトリアがこの辺り全体でテロリスト運動を支持しているという非難を絶えず使っているではありませんか」
 エリアスさんは、激しい語調で答えた。:
 “それは全然根拠がなく、虚偽です。第一、エリトリアがその独立を勝ち取ったやり方の本質から、この国は如何なる宗教的過激主義にたいしても全く反対です。実際、これまで多年にわたって、この国はイスラム教過激派グループの目標とされて来ました。エリトリアは世俗国家であり、宗教と政治は分離されています。アスマラ政府からは、イスラム過激派グループに対しても、キリスト教過激派グループに対しても、何の支持もなされていない、ということは、多数の信頼できるジャーナリストたちによって証明されています。
 強大諸国はアフリカでエリトリアの例が複製されては困るのです。もう一度申しましょう。アフリカは巨大な天然資源を持っています。強大諸国はこれらの資源を鷲掴みしようとしています。もし、アフリカの他の政府がエリトリアの例に従おうと試みたらどうなるでしょうか?それは、決定的に、強大諸国のために有益ではありますまい。”

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<訳注>翻訳はもうあと一回です。このエリトリアについての記事を翻訳しながら、私の思いは度々北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に飛びます。エリトリアは「アフリカのキューバ」と呼ばれるよりも遥かにしばしば「アフリカの北鮮」と呼ばれています。

藤永 茂 (2015年1月14日)

エリトリアの人々に幸あれ(3)

2015-01-07 15:36:20 | 日記・エッセイ・コラム
 アンドレ・ヴルチェク氏の『エリトリア:帝国主義者にとってのイデオロギー的エボラ出血熱』の翻訳を続けます。
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 エリトリアのことはなかなかよく分からない。しかし首都アスマラのそとでは何もかもが露呈している。何も隠せない。貧困とそれを根絶しようという英雄的な試みが、私の眼前にある。農民たちが懸命に働いている;多くの道路と電力線網が建設中だ。
 しかし、反エリトリアの西欧側宣伝は余りにも強力で、私さえも、自分自身の目で現実を観察することに集中する代わりに、たびたび西側の宣伝文句を頭の中に呼び戻していることに気がつく。しかも私はプロフェッショナルだ:私はこれまで西欧の洗脳情宣活動を暴くことに生涯を捧げてきたのだ!
 私はムービーを撮り、シャッターを切る、私のレンズを通して真実を捉えるために。
 ほんの数日経つうちに、大変はっきりとした描像が立ち現れてきた:エリトリア;アフリカのキューバ -自らの足で立っている国。
 エリトリア-誇り高き決然たる国家、それは、独立を求めて30年の長い間戦い、その過程で、苦難の闘争の間に何千何万の息子たち娘たちを失った。
 エリトリア-独特の平等主義的発展モデルに基づき、その国民の福祉の為に絶え間なく働き続ける国。
 エリトリア-その市民を米帝国とその企業の勝手気儘に委ねようとしない国。
 これら全てはロンドンとニューヨークから発せられるプロパガンダと真っ向から食い違う。そのプロパガンダは、この国に泥を塗りたくり、この国を、東アフリカのテロリスト・グループを支援し、自国の市民を抑圧し、あらゆる“人権”を踏みにじっている国だとする。
 この旅行、西欧がおそらく世界中で最も他国から孤立している国として描いている国の中を巡る私の真実追究の旅に、その真相を求める私に伴ったのはたった三人、ミス. ミレーナ・ベレケット(アスマラに拠点を置く独立の調査と奉仕活動シンク・タンクである“アフリカ戦略(African Strategies)”の理事)、現地人のカメラマンであるアズメラ、それに車の運転手、の三人だった。
「アフリカ戦略」はエリトリアでの私の接待役を務めたが、実際上は、私の要請に応えて、インタヴューや私が行きたいと言う場所への交通手段を取りはかったりしてくれた。我々は肩を寄せ合わせて一緒にプランを立てた。「アフリカ戦略」は、2011年にオンラインで立ち上げられた独立の調査研究シンク・タンクで、始めは-ほぼ専ら-アフリカ東部のアフリカの角と呼ばれる地域、とりわけエリトリアに関する、事実に基づいた局地的な情報を求めるディアスポラ(国外移住者)たちやヨーロッパ大陸に生活の拠点を持つエリトリア人、また他のアフリカ人たちの、増大する要求に対応するために創られたのだった。
 比較的短時間に、私はエリトリアの3つの地域(ゾーン)を訪れることができたし、もし時間があったなら、6つ全てのゾーンを訪れることも叶ったであろう。現実としては、この国での8日間、私は殆ど眠る暇もなかったのだが、私は、山岳地帯の村々からの人たちや港町マッサワからの人たちに会い、数人の傑出した若い知識人たちと円卓会議を持ち、また、エリトリアの政治と発展モデルについて、教育保健省の官僚たちや、以前の解放闘争の戦士たちや、また、エリトリアの外交官とも討論した。
 私の経験した出会いは全てが自然でリラックスしたものだった。エリトリアの人々は教育程度も高く、よく物を知っている。我々の政治論議は開放的でしばしば熱がこもった。私は自分の目が信じられない、いやもっと正確に言えば:この国について語られている嘘の酷さが信じられない。

***

 ホテル・アスマラパレス(前のインターコンチネンタル)で、私は著名なエチオピア人著作家で学者のモハメド・ハッサン博士と会見した。以前、彼はワシントン、北京、ブラッセルで外交官を務め、また過激なベルギー労働党の国会議員でもあった。今は、かなり長い時間をエリトリアで過ごしている。エリトリアは彼の心に、彼の思想的信条に強く結びついているのだ。
 形式的な挨拶はそこそこに、時を移さず、我々は力を合わせて、討議の撮影や録音に取り掛かった。ハッサン博士は、単刀直入に、彼の明確な論題主張を述べた。:
“私は「アフリカの角」と呼ばれる地域の出身であり、それで、エリトリアの視点というものを、彼らの闘争時代から、よく分かっていました。彼らの闘いはエリトリアの国家的独立闘争であっただけではなく、「アフリカの角」地域の独立のためでもあったのです。確かに、エリトリアの人々の自由への強い希求は昔から否定されていて、彼らの独立に至る大変長い道に踏み出さなければなりませんでした・・・その敵を打ち負かすのに30年かかりました・・・その敵とは私の国-エチオピア-でもあったのであり、エチオピアは多くの強大な力によって支持されていました・・・ある時はアメリカ合州国と他の全ての西側諸国・・・次にはイスラエルもエリトリアと戦う特殊部隊を送り込みました。闘争は1991年に終結し、我々みんな一緒に新しい「アフリカの角」を、兄弟姉妹としての平等に基づき、我々お互いの間に何の身分の隔たりもなく建設することになるだろうと思ったのでした・・・それは1991年のことで、思うに、我々のこの地域が持ったことのなかった最上の時でした。エリトリアは隣国エチオピアの支配政権を打ち負かし、エチオピア内の革命家たち;つまり我々のような者たちを支持していたのでした・・・当時、エチオピアでは大きな変化が起ころうとしていました。この地域の経済活動が一体化され、我々は民族間に新しい相互関係が出来上がるだろうとおもったのでした。・・・”
 しかし、そうはならなかった。ハッサン氏が回想したように、巨大な世界的変化が生じたのだ。ソヴィエト連邦が消滅し、力の均衡が一方に偏ってしまったのだ。
 ハッサン氏の話は続く。:
 “突然のことだったが、アメリカ合州国で、ペンタゴンの重要高官の一人が、アフリカをどうすべきかについての彼の覚書と了解事項を‘パラメターズ’という軍事雑誌に発表しました。それはアフリカについてのアメリカ合州国の関心事業を記述したもので、アフリカは4つの地域に分けられて論じてありました。一つは南部アフリカと呼ばれるようになる地域で、南アフリカからコンゴに及ぶ巨大な広さで、鉱物資源に溢れ、ここはアメリカ合州国の軍部とアメリカ合州国の企業にとって極めて重要な地域でした。・・・2番目の地域は「アフリカの角」であり、これは、東部アフリカと、それから、‘広域中東(greater Middle East)’とに統合されることになっていました。広域中東とは、後日、G. W. Bush が作り上げようとした地域です。アフリカの角に置かれた西側の軍事基地は中東やアフリカの他の国々に何時でも軍事介入が出来るようにするためのものでした。・・・”
 3番目の地域は西部アフリカで、北米大陸の石油需要を満たすべき石油資源に豊かな地域、第4の地域はエジプトからモリタニアに至る北部アフリカであった。
 この4つの地域は、勿論、すべて西側によって完全にコントロールされるべき地域と考えられていた。
 “この論考が出版された直後、当時クリントン政権の国家安全保障顧問の一人であったアンソニー・レイク氏は‘アンカー国家(中核的国家)’と題する理論を発表しました。彼もまたアフリカ大陸を4つに区分して、4つの‘アンカー国家’を定義します。(1)南アフリカ、南部アフリカ担当;(2)エチオピア、アフリカの角担当;(3)エジプト、北部アフリカ担当;(4)ナイジェリア、西部アフリカ担当…これからすぐ後、ナイジェリアはシエラ・レオーネとリベリアに軍事介入し、エチオピアも、その役を引き受けて、アフリカの角地域での西側の侵略政策の基地になったのです。”
 エリトリアは決して初心を失わなかった。エリトリアは決してこの地域での帝国主義者のゲームを受け入れなかった。アフリカの角地域における、国家的独立、相互不干渉、軍事基地排除の諸原理、そして、新しいアフリカの角地域を建設する願望の故に、この地域での米欧の支配に真っ向から立ちはばかることになったのだ・・・ハッサン博士によれば、これら全ては、列強によって‘有害’とみなされた。これが、エリトリアは排除すべき国家だと同定された理由である。

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 キューバに対する貿易禁止は、米帝国が何処までやる氣があるかを示す大変よい事例である。他の例としては、アイェンデ大統領の社会主義政府のもとでのチリーの‘経済に悲鳴を上げさせる’やり方、キッシンジャー氏や企業首脳によれば、アイェンデは中南米全体のみならず、遠く地中海諸国にさえも、極めて‘悪い影響’を与える人物であった。或いは、独立心に富むスカルノ大統領の統治時代にインドネシアに対して行われたように、直接の軍事的攻撃も考えられる。
 インドネシア(1965年)とチリー(1973年)は両方とも西側が周到に企画したクーデターによって、両国とも血まみれになった。チリーは近頃やっと立ち直ったが、インドネシアは駄目になったままだ。キューバは、比類のない決意と勇気によって、頑張り抜いたが、大変な犠牲を払うことになった。
 そして、エリトリアもまた同じことなのだ――外からの、絶え間ない、政府転覆の企み、攻撃、プロパガンダ、貿易封鎖、挑発に対抗してキッパリと闘い続けている。
 これが、エリトリアが“アフリカのキューバ”としばしば呼ばれる理由である。或いは、ヴエトナムになぞらえるか、キューバとヴェトナムの両方になぞらえるべきかもしれない。しかし、もっと正確に言えば、エリトリアはこれまでそれ自身の抵抗のモデルを発展させて来た。その勇気と、その闘争は独自のものである。土地柄も全くユニークであり、人々も自らの独自さを誇りにしている。
 しかし、はたしてエリトリアは生き残れるだろうか?それよりもっと大きな、もっと豊かな、リビア、イラク、シリアといった国々が、一つ、また一つと倒されている。その理由は、帝国勢力が、これらの国はその国民にあまりに多くを与え、帝国の企業にあまりにも少なく与えていると断定したという、ただそれだけなのだ。

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 “我々は箱につめこまれたくありませんね”、私が「エリトリアは社会主義者の国ですか?」と聞く度に、何度も繰り返し、こう返事が返ってくる。
“ギネア-ビッソ出身のアミルカー・カブラルですが、カブラルはいつも言ったものです:‘我々が実地にやっていることに基づいて我々を判断して下さい’とね。同じことがエリトリアについても言えます”、とエリアス・アマーレは私に言った。アマーレはエリトリアの最高級の作家、思想家の一人であり、また、‘アフリカの角の平和建設センター’の上級特別研究員でもある。
 エリトリアの指導者のほとんど、思想家のほとんどは、マルクス主義者であるか、或いは、少なくとも社会主義の理想に強い親近感を持つ人々である。しかし、ここで社会主義が語られることは殆どなく、赤色の旗も滅多にお目にかからない。エリトリアの国旗がすべての活動の中心にあり、独立、自立独行、社会的正義、団結が国家のイデオロギーの基礎的支柱と言ってよいだろう。
 エリアス・アマーレは言葉を続ける:
“国連の‘ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals)’で、エリトリアは成功をおさめ、目覚ましい成果を挙げています。とりわけ、全国民が無料で初等教育を受けられることを保証し、女性の解放とあらゆる分野での男女平等を保証しました。保健医療の面では、幼児死亡率の劇的な減少を達成し、同時に、妊産婦の死亡率も減少しました。こうした点で、エリトリアはアフリカでお手本と見做されています;これほどの成果を挙げた国はアフリカにはほとんどありません。ですから、エリトリアが直面するあらゆる妨害にもかかわらず、状況は前向きです。”
 “エリトリアは国家独立の道行きを続けています。それは国家的一致団結を築き上げることに進歩的な見地を持っています。エリトリアは多人種、多宗教社会で、9つの人種グループと2つの宗教:キリスト教とイスラム教、を持っています。二つの宗教は調和的に共存しています。そして、それはもっぱら、エリトリアの社会が育んできた寛容な文化のおかげです。人種的グループや宗教的グループの間に摩擦や敵対感情は存在しません。政府も国民もこの国家的一致団結を保つのに熱心なのです。”
 これはアフリカの他の国々とまるっきり対照的だ。人種的そして宗教的軋轢がスーダン、ケニヤ、コンゴ、ウガンダ、ルワンダ、その他多くの国々を荒廃させている。その背後には、しばしば古い植民地主義や新しい植民地主義が控えているのだ。
 エリトリアが成し遂げたことは何か小さな成果ではなく、本格的なブレイクスルーなのである。
 「では、なぜ米欧はエリトリアのやり方にひどく攻撃的に反対するのか?」と私がエリアスに尋ねると、彼はこう答えた。:
“これに就いては、ノーム・チョムスキーの前からの見解に賛成です。それは次のようなものです。:一つの小国が国家的独立の道を進むことを試み、そして、その発展の見込みがはっきり付いてくると、西側の国々はそれが気に入らない。彼らは彼らの‘従属国(client states)’が欲しいのだ。グローバルな資本主義的権益に服従する国が欲しいのだ。・・・エリトリアが成し遂げつつあることは、すべて、西側の帝国主義国家の目には、ダメ-ダメ-ダメヨ、なのだ。彼らは,世界銀行、IMF,WTO,などなどの理不尽な命令に従順なネオ・コロニアル政権が欲しいのである。”

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<訳者注>この論考(現地報告)はまだまだ続きます。読者は先刻お気づきでしょうが、ある国の独裁者が、自国の民に無償の教育と医療を与え、自国の資源から得られる収入でその費用を賄おうとすると、米欧は、ほぼ必ず、その国に襲いかかって、暴力的にその政府を打倒しようとします。キューバ然り、サンカラのブルキナ・ファソ然り、リビア然り、そして、このエリトリアもそうです。ボリビア、ベネズエラ、北朝鮮も大いに気になります。後日改めて考えてみるつもりです。

藤永 茂 (2014年1月7日)