私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

<追補>スピン・ドクター、スピン・マスター

2008-02-27 15:33:12 | 日記・エッセイ・コラム
 本屋さんで追加の勉強をして来ました。語源的には、この「スピン」は、野球やテニス等のボールに与える回転運動から来ているのだそうで、話を紡ぐ意味から来ていると私が推測したのは外れていたようです。でも、この語源だと、政治的なフォーク・ボールを操る御仁は何と呼べばよいのでしょうか。私はもともと物理屋ですし、カナダではアイス・スケート競技もよく見ましたので、「スピン」は「紡ぐ」より「回転」の意味の方が親しめます。

藤永 茂 (2008年2月27日)


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オバマ現象/アメリカの悲劇(1)

2008-02-27 10:44:42 | 日記・エッセイ・コラム
 今年2008年はアメリカの第44代大統領選挙の年、アメリカのメディア(したがって日本のメディア)は、民主党の候補指名をめぐって、バラク・オバマ氏の話で持ち切りです。なにしろ、米国初の黒人大統領が生まれるかもしれないのですから。
 オバマという名前が私の注意を引いたのは2004年のことでした。ハワイ出身のオバマという米国政界の新星の出現が報じられた時、私は日系人かと思いました。ハワイ出身の上院議員としてはダニエル・イノウエ氏が有名なので、井上に続いて小浜か、と思ったのでした。バラク・オバマの父はケニヤのルオ族出身の黒人、母はカンサス州出身の白人、二人はハワイの大学の学生として知り合って結婚し、1961年息子のバラク・オバマ誕生。しかし、父母は2年後に別居、やがて離婚。父親の方はハーバード大学大学院に学び、ケニヤッタ大統領統治下のケニヤに帰って政界に進出、1982年交通事故死。母親は前夫と同じく外人留学生としてインドネシアからハワイにやってきたソエトロ氏と再婚して、1967年、息子を連れてスハルト独裁下のジャカルタに移住しましたが、オバマ少年は10歳の時ハワイの母方の祖父母の下に帰って私立学校で学業に励みます。母親も1995年子宮がんで亡くなりましたが、この白人女性は、私には、マルグリッド・デュラスの小説の中にでも出てきそうな女性のように思われます。
 バラク・オバマの生い立ちのストーリーも面白そうですが、私の関心事は「オバマ現象」と呼ばれるアメリカの政治的社会的現象です。この言葉は私が自分で思い付いて使い始めたつもりだったのですが、少し調べてみると、バラク・オバマが、2004年6月、民主党全国大会で行った基調演説によって、一躍、政界の新しいスターにのし上がった直後から、アメリカのメディアで使い始められた言葉のようです。
 「オバマ現象」とは何か。政治的社会的現象としては、マスコミが騒いでいる御覧の通りの現象です。断然有利と伝えられていた白人女性候補ヒラリー・クリントンを、白人人口98%のアイオワ州やウィスコンシン州でも楽々と打ち負かして破竹の進撃を続ける黒人バラク・オバマ、テレビの映像を見ると、颯爽とマイクを握る彼のうしろにびっしりと並ぶ若い顔、中年男女、お年寄り、殆どすべては白い顔、これが「オバマ現象」です。このハンサムな黒白混血46歳の政治家のキャッチフレーズは、変化(Change)、夢(Dream)、希望(Hope)、そして、「きっとやれる(Yes, we can!)」です。この頃では、前から結構辛口の政治評論家と私が思っていた英国人までが「オバマなら、ブッシュがすっかり台無しにしてしまったアメリカを変えられるかもしれない。アメリカ人の多くがそれを望んでいるのだ」と発言するまでになっています。しかし、「オバマ現象」を前にしての私の想いは全く違います。今日のブログのタイトルを「オバマ現象/アメリカの悲劇」とした所以です。「オバマ現象」はアメリカの悲劇と呼ぶにふさわしい現象です。私にはこれを「アメリカの喜劇」あるいは「アメリカの笑劇(farce)」と呼びたい気持もありますが、それは不謹慎というもの。世界最強の国家アメリカ合衆国政府の不遜な一挙一動で、国外の何十万、何百万の人間に言い知れぬ苦難が襲いかかることになるのは、いま現在、我々がこの目で見ている事なのですから。また、私は、もしバラク・オバマがアメリカの大統領になったら、アメリカの国外、国内の政策がどのように変化(CHANGE!)するかについての予言をしようというのでもありません。今、われわれの眼前で展開している「オバマ現象」は何故起ったのか、何がその本質なのか、に就いてしっかりと考えてみたいのです。「オバマ現象」は、ごく荒っぽく捉えれば、白人アメリカの「集団ナルシシズム」と表現できるかもしれません。しかし、この表し方には、致命的な誤りがあります。神話のナルシスは水面に映る自らの美しい容姿に恋いこがれて死に至りますが、白人アメリカが本当の自分の美しい姿を映していると信じ込んでいる鏡は、実は、悪魔がかざす魔の鏡であり、そこに映っているのはアメリカの本当の姿ではありません。喩えが安っぽくなり過ぎましたが、「オバマ現象」がアメリカを死に至らしめる病となる可能性は、やはり、否めません。「オバマ現象」は白人アメリカがバラク・オバマを待ちに待ったメシアとして熱狂的に迎えている現象ではなく、黒人の男をアメリカ合衆国大統領として擁立しようと熱心に努力する自分たちの姿こそ、アメリカ白人の心の正しさ、寛容さ、美しさを映すものであるとする自己陶酔、自己欺瞞こそが「オバマ現象」の真髄である--これが私の言いたい所なのです。私の根本的な見方なのです。私には、この立場に固執し、この考えを読者に理解して頂きたいという強い思いがありますが、そう簡単に理解して下さるとは思えませんので、ゆっくりと説明することに致します。
 「オバマ現象(Obama Phenomenon)」という言葉が流通し始めたのは、2004年7月27日ボストンでの民主党全国大会でバラク・オバマが基調講演をして大受けをした直後からであったといいます。「オバマ現象」の本質を見据えるための必読文献で、全文はWikisource にあります。彼はまず父親と母親の出自から語り始めます。「私の父はケニヤの小さな村で生れ、育てられた、外国留学生でした。彼は山羊の番をしながら大きくなり、トタン葺きの小屋の学校で学びました。彼の父、つまり、私の祖父は英国人家庭の召使いとして、コックをしていました。しかし、私の祖父は息子に対して遥かに大きな夢を持っていました。刻苦勉励、不屈の努力の末、私の父はアメリカという魔法の土地で学ぶための奨学金を獲得したのです。アメリカ、それは彼より前にやってきた実に多くの人々にとって自由と機会へのビーコンとして輝いていたのでした。」
■ My father was a foreign student, born and raised in a small village in Kenya. He grew up herding goats, went to school in a tin-roof shack. His father ? my grandfather ? was a cook, a domestic servant to the British. But my grandfather had larger dreams for his son. Through hard work and perseverance my father got a scholarship to study in a magical place, America, that shone as a beacon of freedom and opportunity to so many who had come before.■
続いて母方のことが語られます。祖父は、真珠湾攻撃の翌日、兵役を志願してヨーロッパを転戦、云々云々、同じようなサワリを入れた語り口。ケニヤの田舎からぽっと出の黒人男性とカンサスの中産階級出の白人女性の間に恋が生まれる。彼等二人の間に出来た息子バラク・オバマのアメリカ讃歌は延々と続きます。誰をも分け隔てなく受け入れる寛容な(tolerant)アメリカ、貧しくとも最高の学府に学べる雅量ある(generous)アメリカ、・・・・。「この地球上、アメリカ以外の如何なる所でも私のライフ・ストーリーはあり得ない事」とまで、アメリカを持ち上げます。お読み下さい。
■ My parents shared not only an improbable love, they shared an abiding faith in the possibilities of this nation. They would give me an African name, Barack, or blessed, believing that in a tolerant America your name is no barrier to success. They imagined me going to the best schools in the land, even though they weren't rich, because in a generous America you don't have to be rich to achieve your potential.
They are both passed away now. And yet, I know that, on this night, they look down on me with great pride.
I stand here today, grateful for the diversity of my heritage, aware that my parents’ dreams live on in my two precious daughters. I stand here knowing that my story is part of the larger American story, that I owe a debt to all of those who came before me, and that, in no other country on Earth, is my story even possible.
Tonight, we gather to affirm the greatness of our nation ? not because of the height of our skyscrapers, or the power of our military, or the size of our economy. Our pride is based on a very simple premise, summed up in a declaration made over two hundred years ago: "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal. That they are endowed by their Creator with certain inalienable rights. That among these are life, liberty and the pursuit of happiness."
That is the true genius of America ? a faith in simple dreams, an insistence on small miracles. That we can tuck in our children at night and know that they are fed and clothed and safe from harm. That we can say what we think, write what we think, without hearing a sudden knock on the door. That we can have an idea and start our own business without paying a bribe. That we can participate in the political process without fear of retribution, and that our votes will be counted ? at least, most of the time. ■
「the true genius of America」とは「アメリカの真髄」。「without fear of retribution」は「懲罰を受ける恐れなしに」。バラク・オバマの講演は、上に引用したような高い調子の言葉で満たされているのですが、現在進行中の民主党大統領候補指名の争いの記事で最も頻繁に引用されているのは、「一つのアメリカ」を訴えた 次の部分です。
■ Now even as we speak, there are those who are preparing to divide us, the spin masters, the negative ad peddlers who embrace the politics of anything goes. Well, I say to them tonight, there is not a liberal America and a conservative America ? there is the United States of America. There is not a Black America and a White America and Latino America and Asian America ? there's the United States of America. ■
上の文章に含まれている興味津々の言葉に注意して下さい。それは、<spin master>です。普通の辞書にはこの語は見付かりませんが、辞書に出ている<spin doctor>という語と同じような意味だと思います。コンラッドの『闇の奥』のマーロウの冒険談の始まりの所に spin yarns という言い回しが使われています。もともとの意味では、yarn は「紡ぎ糸」、spin は「紡ぐ」ですが、spin a yarn というと「長々と(信じ難い冒険談などを)物語る」とか「作り話をする」といった意味になります。手許の辞書には、spin doctor は「(特に政治家の)報道対策アドバイザー、対メディアスポークスマン(政治家、党派を利するように論ずる)」とあります。スピン・ドクターという言葉はネガティブな皮肉った響きを持たせて使われるのが普通のようです。上掲の文章で、the spin masters とは「政略のためには何をしても構わないという態度を進んで採用するネガティブな宣伝の売り込み屋」であるとされています。そうしたマスコミ操作屋が我々を分割対立させているが「進歩的なアメリカと保守的なアメリカがあるのではない-ただアメリカ合衆国あるのみ。黒人のアメリカ、白人のアメリカ、ラテンアメリカ人のアメリカ、東洋人のアメリカがあるのではない。ただアメリカ合衆国あるのみ」とバラク・オバマは叫んだのです。
 この基調講演はマスコミで全米に報ぜられ、バラク・オバマは一夜にして輝けるセレブのスターとなったのでした。この講演の内容が何故それほどまでに大当たりしたか? その理由の、私なりの、検討を次回に行います。

藤永 茂 (2008年2月27日)


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なぜ英国ばかりを責めるのか

2008-02-20 13:15:49 | 日記・エッセイ・コラム
2008年1月30日のブログで3冊の本を紹介し、最後の1冊、
*Mark Curtis “WEB of DECEIT: Britain’s Real Role in the World”(2003)
については、あとで説明することにしてありました。英国を『欺瞞の巣網』と呼ぶだけあって、チョムスキー風のはげしい本ですが、際物ではないと思われます。第15章のタイトルは「Deterring Development in Kenya」です。時間的には前掲の2冊、
*Caroline Elkins “IMPERIAL RECKONING: The Untold Story of Britain’s Gulag in Kenya”(2005).
*David Anderson “HISTORIES OF THE HANGED: Britain’s dirty war in Kenya and the end of the Empire”(2005).
より前に、マウ・マウ非常事態中に英国が犯した大規模残虐行為の告発がなされていますが、それに加えて、ケニヤの独立後も、英国が経済的搾取を継続し、むしろその度を増して行ったことが、下記の3冊のアカデミックな著作を引いて強調されています。
*Colin Leys “Underdevelopment in Kenya: The Political Economy of Neo-Colonialism 1964-1971 ”(1974).
*Gary Wasserman “Politics of decolonization: Kenya, Europeans and land issue 1960-1965 ”(1976).
*Nicola Swainson “The development of corporate capitalism in Kenya 1918-1977 ”(1980).
ネット上で書評を読んだだけで、まだ原書に当っていませんが、これらの本のタイトルの言葉遣いから、内容が察せられます。まず、underdevelopment in Kenya というのは、ケニヤの低開発度を論じたものではなく、Walter Rodney の有名な著作 “HOW EUROPE underdeveloped AFRICA”(1972)に呼応していると考えられますし,あとの2冊も同じ線に沿った論考だろうと思われます。ロドニーの著書については拙著『「闇の奥」の奥』のp201以下に書きました。カーチスの deterring development (発展を抑止する) という章のタイトルが示すように、旧宗主国イギリスとそれに連動する国際資本はケニヤの独立後も、以前にも増して、植民地的搾取を続けているということです。いわゆるアフリカの債務危機なるものは、ケニヤでは冷戦終了以前の1980年頃から始まり、冷戦後には更に深刻化します。IMFや世界銀行が押し付けた「経済構造改革」は財政赤字を圧縮するために、一般市民が必要とする医療や教育などの社会的サービスを削減する傾向をつのらせ、更に、国営であった電力、運輸、通信などの基幹産業が経営合理化のスローガンの下に外国私企業によって乗っ取られることになったのです。この構造改革は貧富の格差をますます拡大することになり、これが今回のケニヤ騒乱の最も基本的な原因だと私は判断しています。こうした見解に対して、「また始まった。アフリカ人が自らの為政者たちの腐敗と闘うことをせず、すべての責任を先進国に転嫁し続けるかぎり、アフリカに未来はない」と言う人々も多いでしょう。過去20年間に世界中で発生している「債務危機」という複雑な問題の解析は素人の私の手に余ります。しかし、その実体の解析の一助として、アフリカの諸国について、電力、ガス、水道、交通運輸、通信などのライフ・ライン的産業の非アフリカ系私企業による支配が径時的にどのように進行してきたかを具体的に調べて頂ければ、一つの有用なインデックスになりはしないかと愚考します。
 冒頭にカーチスの本を紹介すると言いながら、また少し横道にそれました。この本を読んで驚いたのは、又しても、私自身の英国に関する無知でした。ケニヤについての第15章に続く第16章のタイトルは「Malaya: War in Defence of the Rubber Industry」です。マラヤはマレー半島南部を占めていた英国植民地(保護領)で,1957年独立、今はマレーシアの一部になっていますが、ケニヤ非常事態が続いた1952年から1960年と全く同じ時期に、マラヤでも数千人の反乱ゲリラを攻撃殲滅するという口実の下で,手段的にもケニヤの場合とよく似た残酷な住民制圧とコントロールが遂行されました。ケニヤとの相違といえば、熾烈な空爆の使用で、最初の5年間に4500回の無差別空爆が行われました。詳しい話はカーチスの本に譲りますが、この英国の暴力行使の目的が独立後も英国の経済権益がそのままに保たれることにあったというのですから、驚きです。そして、現状から判断するに、その目的は十分に達成されたようです。実は、マラヤはゴムと錫(すず)の産地として、経済的に、東南アジアで最も大事な英国植民地で、独立後もその権益は絶対に失いたくなかったのでした。
 ゴム園といえば、コッポラの映画『地獄の黙示録』の中のフランス人一家所有のゴム園のエピソードが思い出されますし、コンゴの野生ゴムの強制採集やケースメントの南米プツマヨ河流域のゴム産地のことも連想されます。さらに、このブログを以前から読んで下さっている方は、2007年3月7日付けの「松本仁一著『カラシニコフ』(3)」の中のリベリアの歴史の話で、ファイヤストーンという自動車タイヤ・ゴム会社が安価な現地労働力を利用して広大なゴム農園を経営し、リベリアは「ファイヤストーン植民地」とも呼ばれたとあるのを思い出して下さったかも知れません。最近、私は意外な所でこの話の続きに出会いました。アメリカンフットボールの大イベント、スパーボウルがつい先頃行われましたが、この国民的イベントの主スポンサーとしてBridgestone/Firestone 会社の名がにぎにぎしく語られています。Bridgestoneのウェブサイトには Official Tire of the NFL とあります。ブリヂストンは勿論石橋正二郎が創立した会社で、今はファイヤストーンを子会社として従えています。ところが,リベリアのファイヤストーン社は依然として現地住民4千人を奴隷的に酷使しているとして訴えられたりしているようです。それを伝える英文記事をZNet から引用します。
■ Dan Adomitis, president of Firestone Natural Rubber Co., said that “each tapper will draw sap from about 650 trees a day, where they spend perhaps a couple of minutes at each tree.” That translates into 21-hour day. If employees don’t make that quota, their daily wage of $3.19 is cut in half. to avoid this, workers call on their wives and children to help them hit the number??and they got unpaid.■
動詞 tap には「樹木の幹から樹液(sap)を採る」という意味があります。650×2=1300(分)で,確かに一日21時間以上の労働割り当て(quota)です。家族総出で朝から晩まで働いて3ドル19セント(350円)、これでは百年前のレオポルド王のコンゴと同じではありませんか。リベリアのゴム大農園で採取したゴム原料は米国ナッシュビルのタイヤ製造工場に送られています。注目して頂きたいのは、外国企業がアフリカという豊かな「樹木」から甘い樹液を採取し続ける径時的一貫性です。この面では pre-colonial とか post-colonial といった言葉の無意味さを想わずには居れません。
 マーク・カーチスの本の第20章のタイトルは「Indonesia: Complicity in a Million Death」です。“インドネシアで(英国は)百万人殺害の共犯?”ここでも私は無知を告白しなければなりません。去る1月27日、第2代大統領として32年間独裁的に君臨したスハルトが86歳で没しました。インドネシアは1945年オランダから独立し、スカルノが初代大統領になり、インドのネルー、エジプトのナセル、ユーゴスラビアのティトー等とともに、「第三世界」、「非同盟国」運動のリーダーの一人として、いわゆる東側にも西側にも与しない政治外交を展開する努力をしていましたが、1965年9月、反共的な立場にあった6人のインドネシア国軍将軍が暗殺される事件が持ち上がり、その混乱に乗じて国軍内の実力者スハルトがクーデターを敢行して、実権を握り、インドネシア共産党に対する徹底的な弾圧を始めました。スハルトは1967年3月大統領の座に就き、スカルノは自宅に監禁されたまま、1970年3月、69歳で亡くなりました。問題はスハルトが実行した凄まじい共産主義者弾圧の規模とその後ろ盾にあります。社会の各層に浸透していた共産主義者約5千人のリストを米国がスハルトに与えたことが確認されています。同調者と疑われただけで殺された者も多く、百万人が殺害されたとされていますが、例えば、好著『The Darker Nations』 の著者Vijay Prashad は二百万にも及んだ可能性もあるとしています(p152)。中でも、今は名うての観光地、地上の楽園バリ島での虐殺は凄まじく、全人口の8%が消されました。スカルノに代わる独裁者スハルトの政権擁立に米国が熱意を持って参画したのはこれ迄もはっきりしていたのですが、インドネシア地域に西側に与するスハルト政権を樹立維持することから期待される経済的利益の計算から、まるっきり人権を無視したスハルトの共産主義者とその同調者の絶滅作戦に全く見て見ぬ振りを極め込んだ点で、英国もオーストラリアも共犯だとカーチスは結論します。1965年の歴史的なクーデターの構造的な真相は未だに謎に包まれているのです。いくつかの“理論”は提出されていますが。しかし、それよりも、その後32年のスハルトの独裁治世がどのようなものであったか、これこそ我々が注目すべきことです。
 独立から10年後の1955年、インドネシアのバンドンで、スカルノやネルー等が中心となって、いわゆる「バンドン会議」が開かれました。そこで『平和十原則』なるものが宣言されます。今となっては夢のまた夢の跡に過ぎませんが、すべての國の主権と領土保全を尊重し、他国の内政に干渉しないこと等を謳った立派な内容のものでした。スカルノは英米が金融的手段でインドネシア産業経済政策に内政干渉するのを嫌ってIFM や WB を受け入れませんでしたが、スハルトが政権を握ると直ぐにIFM もWB も立ち戻ってきました。在職32年間の公金の横領着服の額について、スハルトは世界史上トップの位置を占めると言われ、それは3兆円にも達して、悪名高いコンゴ(ザイール)の独裁者モブツもスハルトの前では色あせます。金の出所はもちろん西側諸国、スハルトはそのダーリングになったのです。マーガレット・サッチャーはスハルトを“one of our very best and most valuable friends”と呼び、リチャード・ニクソンはスハルトの支配下のインドネシアを“the richest hoard of natural resources, the greatest prize in south-east Asia”と呼びました。prize は「捕獲物、獲物」の意味でしょう。
 カーチスの英国告発のリストは東チモールやディエゴ・ガルシアへと広がりますが、読んでいて思い出した別の本があります。『クワイ河収容所』(アーネスト・ゴードン、斎藤和明訳、ちくま学芸文庫)。私が英国の植民地支配の問題にかかずらうようになる以前に、知人から頂いて本書を読み、それなりに一種の感動も味わいました。今でも、著者の真摯さは疑いません。彼が語るべき物語を語ったことに何の異議もありません。しかし、第二次大戦の後、ケニヤで、マラヤで、インドネシアで英国が何をしたかを知ってしまった今、『クワイ河収容所』の物語を以前と同じ気持では読めません。「ゴードン氏はマウ・マウやマラヤのことをどう考えていたのだろうか?--こんなことをつい思ってしまいます。「日本人もひどいことをしたが、英国人もひどいことをした」と言いたいのではありません。私は、又しても、会田雄次氏のあの言葉を想起しているのです。「私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であった。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知りながら、なおそれとおなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことはやはり一つの天譴というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロッパは、その後継者とともに世界の支配をやめていない。私たちは自分の非を知ったが、しかし相手を本当に理解したであろうか。」
 私は英国だけを責めているのではありません。主に英国だけを執拗に問題にするのは、sui generis としてのベルギー国王レオポルド二世を吊るし上げたりするよりも、英国、英国人に焦点を合わせる方が、帝国主義、植民地主義についての知見を広め、理解を深める近道だと考えるからです。

藤永 茂 (2008年2月20日)


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ケニヤが今こわれかけている(3)

2008-02-13 09:00:49 | 日記・エッセイ・コラム
 2007年12月27日に行われたケニヤの総選挙で、現大統領キバキは458万、対立候補オディンガは435万の得票でキバキが当選と公式発表されると、キバキ側が票数を不正に操作したとする抗議運動が起り、死者約千人を出す混乱状態にケニヤは突入しました。選挙で不正が行われたことはほぼ間違いありません。
 これまでケニヤは、アフリカ大陸に沢山ある「失敗国家(failed states)」と違って、「成功国家」の見本のような安定したお国柄と一般に思われていました。年間観光客百万人,数ある自然公園に野生動物を見に行く日本人も少なくないでしょう。国連の諸機関、おびただしい数のNGO、多国籍会社,外国銀行、報道機関の活動本拠が置かれています。キバキ政府はアメリカのブッシュ大統領の「テロとの戦い」を熱心に支持しており、ケニヤは2008年中に設立が予定されているアメリカ合衆国軍のアフリカ司令部(AFRICOM, United States Africa Command)のトップ候補地と考えられていました。そのケニヤ、頼みになるアフリカの優等生国家ケニヤが、一夜にして、崩壊の危機に瀕しているとマスコミは言うのです。殺戮を目撃して命からがら逃げ出してきた観光客の談話も伝えられています。日本の映画ファンが映画『ホテル・ルワンダ』で先刻ご承知のフツ族とツチ族のように、キバキのキクユ族とオディンガのルオ族がお互いに血で血を洗う殺し合いを始めたのだという人も居ます。「ケニヤだけは独立以来なんとか巧くやって来たと思ったのに、やっぱりアフリカの黒人たちというのは駄目なんだなあ」という、白人らしい高みからの嘆声も聞こえてきます。事態は極めて流動的に見えます。私たち日本人には無関心という選択肢もあるでしょう。しかし、もし、私たちが帝国主義、植民地主義、ポストコロニアル云々などに関心があるとするならば、今、眼前に展開されているケニヤの悲劇を凝視し、その過去と現在の実相を探り、思いを潜めることで、ケニヤだけでなく、アフリカという巨大な問題により明確な照明を当てることが可能だと考えます。
 現在のトラブルの源泉の一つはケニヤ建国の父ケニヤッタにあります。彼はもともとマウ・マウが目指した白人排斥の方向にケニヤの将来を託すのは誤りと考えていました。1962年12月に英国は独立を承認、1963年にケニヤッタは初代のケニヤ大統領に就任して英国と協調する政策をとり、白人所有地の譲渡は、主にキクユ族の有力者がケニヤッタ政府から貰った資金で買い取るという穏やかな形で行われ、白人たちの経済的コントロールは余り乱されずに残されました。白人の過去の犯罪行為に罰と補償を求めることもせず、むしろ、マウ・マウ反乱の記憶を抹殺する方針をとったのです。ケニヤッタが始めから邪悪な意図でこうしたとは、私は思いません。英国に長く住み、そこで高等教育を受けた黒人として精一杯の判断であったのでしょうが、それが今悲劇的な形で裏目に出ることになりました。前2回のブログで、ケニヤ植民地に乗り込んできた白人たちが中央高原のキクユ族の大切な土地を傍若無人に取り上げ、それがマウ・マウ反乱の原因となったことを述べましたが、その北部の Rift Valley と呼ばれる広い地帯でマサイ族やカレンジン族などが持っていた土地も白人たちが取り上げて大農園にしていました。ところが、キクユ族出身のケニヤッタ大統領の下で、地溝平野の白人所有地が元の持ち主のマサイやカレンジンには返されず、政権とコネを持つキクユの有力者に譲渡され勝ちでした。今度のケニヤの騒乱で部族間の抗争で多数の死者や難民が出ているのは、この地域です。ちなみに、この Rift Valley (The Great Rift Valley) は地質学では有名なアフリカの大地溝地帯でケニヤにはその一部があります。rift が人間の間の溝をも意味するのは悲しい皮肉です。
 しかし、現在進行中のケニヤの騒乱を,アフリカの遠い過去を引きずった野蛮な血腥い民族間抗争だと看做すとすれば、それは余りにもシンプリスティックな見誤りであろうと思われます。引きずっている過去があるとすれば、それは植民地時代に背負った負の遺産です。それは、先ず、ヨーロッパ各国が勝手に分割した植民地の境界(国境)はそこに住んでいた部族の分布に何の配慮もなく行われたことです。次に、植民地統治の古典的常套手段として、部族間に対立と分割を生じさせて、これを政治的に利用することが普通だったことです。ルワンダはこの典型的な犠牲であったと考えられますが、ケニヤの場合はキクユ族が内部的にマウ・マウ側と白人側に付いたいわゆるロイヤリスト側に分かれた悲劇はありましたが、ルワンダとは異なる過去を背負っていると考える方が正しいと思います。
 現在のケニヤの総人口は約3千4百万、その22%がキクユ、13%がルオ、12%がカレンジン、他にも多数の部族があります。1978年に亡くなったケニヤッタに続く二代目大統領ダニエル・モイはカレンジン族出身ですが、これはルオ出身者の大統領の出現を恐れたキクユ勢力が政治工作をしてモイを選んだのでした。三代目の大統領キバキはケニヤッタ時代からの政治家でキクユ族出身、この40年間、政治権力者も富豪もキクユ族に偏在し、その腐敗の度も深まるばかりであったのは自然の成り行きであったともいえましょうし、差別を受けてきた他の部族の羨望と怨念が長い間に水面下で蓄積して行き、キクユではなくルオ族出身の対立候補オディンガの第四代大統領当選がほぼ確実視された矢先にキクユ側による得票数不正操作とあっては、民族的反感が一挙に噴出したとしても不思議ではないとも言えます。しかし、現在の騒乱を「民族(ethnic )虐殺」、「民族浄化」、「民族間暴力」といったアフリカ向きの安易なキーワードで括ることは間違いだと私は考えます。部族間の亀裂より深刻な分裂が、断層が、実は、別にあるのです。富裕層と貧困層の間の断層です。両者を隔てる深刻な地溝が出来てしてしまっていたと言ってもよろしい。
 J. M. Kariuki (1929-1975) という興味深い政治家がいました。彼は血の誓約をしてマウ・マウ運動に身を投じ、捕らえられてあちこち拘置所をたらい回しされましたが、1960年に釈放され、1963年ケニヤッタが大統領になると、その側近の一人に選ばれました。しかし、時が経つにつれて、ケニヤッタの政策に批判的態度を取るようになります。白人所有地の返還問題もその一つ。ケニヤの独立後、世界銀行と英国政府はケニヤッタ政府に資金を回して、それで白人の土地を買い戻し、ケニヤ人に再分配するように取りはからったのですが、前述のように、ケニヤッタは土地を元の持ち主には返さず、その殆どをキクユ族の縁故者や友人たちに与えました。カリウキがこれを非難したのは気骨のある政治家として当然のことでした。次第に声望を高めつつあったカリウキは、1975年3月、何者かによって暗殺されましたが、ケニヤで今も語られる言葉を残しました。:「ケニヤは十人の百万長者と一千万人の乞食の國になったしまった。」独立から45年、ケニヤの政情に幾つかの波風は立ちましたが、IMF (国際通貨基金)や WB (世界銀行)など西側の金融機関の覚えも概して目出たく、経済統計的数字(2007年度成長率7%)で見る限り、アフリカには珍しい順調な経済成長を遂げてきました。しかし、この“繁栄”の恩恵は富裕層を更に豊かにするばかりで、下層貧民層には浸透する気配がありません。全人口の約6割は1日2ドル以下という貧困の中に呻吟し、各地方の仮小屋貧民区(shanty towns)に住んでいます。中でも首都ナイロビのキベラ地区はアフリカ最大のスラムとされています。マスコミはこのスラムの住民の間でも、キクユ、ルオ、カレンジンなど部族の間で醜い殺し合いが始まっていることを報じていますが、一方、昨年末の総選挙ではキクユ出の貧民たちが、貧富の格差の増大に反対を唱えるルオ出身の大統領候補オディンガの支持に回っていたという報道もあります。最近、ケニヤでの民族間暴力で死者が千人にも達したことを由々しき新事態だと論じた英国紙ガーディアンの論説に宛ててケニヤ人からの投書があり、“over 1000 poor people die in Kenya every day on account of hunger, poverty, disease, ignorance and the like.”と書いてありました。本当の問題は別の所にあると言いたかったのでしょう。
 ここで、マンデラを継いだ Thabo Mbeki大統領の統治下の南アフリカをケニャと並べて考えることにします。タボ・ムベキは毀誉褒貶半ばする興味津々の人物ですが、今回は、経済政策に関しての、ケニヤのケニヤッタとの間の注目すべき共通点だけを論じたいと思います。ムベキもケニヤッタと同じく、英国の大学で経済学を学び、西欧の政治経済思想の影響を強く受けたことは、彼等が故国に帰ってから採用した施政の方針から明らかです。ケニヤでも南アフリカでも、植民地時代の白人の産業経済的コントロールが独立後も温存され、この面で見る限り、実質的に植民地時代が続いていると言ってよいと思います。1995年に設立された南アフリカのTRC(Truth and Reconciliation Commission、真実と和解の委員会)は、独立以前に黒人たちの人種差別反対と独立の運動を苛酷な暴力手段で抑圧しようとした白人とその手先となった黒人たちが進んで過去の犯罪を告白する場を用意し、その上で、過去の罪を罰しない、つまり、公に赦免する場を提供しました。マンデラ/ムベキのTRCは気高い人道的発想として大いに賞賛されましたが、一方では、独立以前の植民地的支配構造が独立後にも生き延びることを許しました。1963年に独立したケニヤでも初代大統領ケニヤッタはマウ・マウ騒乱での白人とロイヤリスト黒人たちの罪を問わないことで独立建国の事業を円滑に運んだのですが、ここでも南アフリカの場合と同じような禍根を残すことになったと言えると思います。過去の植民地的支配構造が温存され、しかも現指導者(ムベキ大統領、キバキ大統領)が西欧経済思想の支持者であれば、現時点でネオリベラル的な経済成長路線に傾くのは当然ですし、それに伴う極端な貧富の格差の発生持続もまた必然の結果と言えましょう。それと同じ事態はネオリベラル経済政策のお家元のアメリカ合衆国でも起っているのですから。
 アフリカ大陸をおおう混乱と住民の果てしない苦難の根源は、私腹を肥やすだけが目的で、国家、国民の利益を顧みることのない支配者黒人層の絶望的な腐敗性にあるとされるのがジャーナリズムでの定説です。松本仁一著『カラシニコフ』第5章「襲われた農場」では南アフリカがこの定説に沿って論じてあります。また、黒人同士の殺し合いが報ぜられる場合には、その語り口に、アフリカ人の大昔からのお家芸である“野蛮性”を匂わせることがしばしば行われます。つまり、「これがアフリカ、やっぱりアフリカ」というわけです。しかし、誰にそう言う資格があるでしょうか? ただ一つだけ例を挙げましょう。アメリカの副大統領チェイニーと大統領ブッシュ。アフガンとイラクへの侵略戦争からチェイニーとそれにつながるハリバートンなどのビジネス・サークルの私腹の肥やしぶりに較べればアフリカの黒人権力者の腐敗性など児戯に等しいと言うべきであり、また、野蛮性を仄めかすのなら、ブッシュの戦争の残忍性と野蛮性こそが、北アメリカ大陸に侵入したピルグリム・ファーザスの先住民虐殺以来400年の一貫した伝統に根を持つものであることを忘れないでほしいものです。
 2008年1月28日のロイター通信はケニヤの民衆の殺し合いを次のような語り口で伝えています。■ In the usually peaceful Rift Valley towns of Nakuru and Nawasha, gangs from rival communities have been fighting each other with machetes, clubs and bows and arrows.■ なお、machete とは幅広で刃渡り数十センチの「なた」。しかし、ここには今回のケニヤの騒乱の深い根の本質は描かれてはいないのです。次に、この悲しむべき状況を目のあたりにして沈思する一人のアフリカ人ジャーナリストの文章を掲げておきます。
■ Insofar as Kenya continues to dance to the music of the international funders, i.e., the former colonial and neo-colonial powers, it will be dancing a dance of death. The violence in Kenya speaks less about the Kenya people and more about into what any people in the face of despair, brought on by the loss of control of their lives and their loss of hope, can devolve. The violence also speaks to why Kenya, along with the rest of the African continent, must with all deliberate speed, find a different path to development, since the path laid out by Washington, the IMF, et. al., is not a path into a garden but a path into a minefield.■ 註を少し。funders とは funding agencies という意味でしょう。devolve は「転落する」。with all deliberate speed とは「急がず慎重なゆっくりした速度で」。
【付記】(2月12日夜)先ず良いニュース。前国連事務総長コフィ・アナンなどの調停が功を奏して、現大統領キバキと強力な挑戦者オディンガとの間で妥協と将来の協力に向けての希望が大きく膨らんで来たようです。現在は報道のブラックアウトが実施されていますが、近日中に具体的成果が発表されると思います。次のニュースも重大な内容です。南アフリカの現大統領ムベキにもズーマという強力な挑戦者の対立が危機的状況を迎えようとしています。ムベキのネオリベラル経済政策の下で南アフリカも、キバキ政権下のケニヤと同じく、年間数%の経済成長を成し遂げているのですが、これまたケニヤと同じく、貧民の数は減るどころか、逆に増加しています。現大統領に対する挑戦者としてのズーマもオディンガも支配層の理不尽な富裕と腐敗に対する一般大衆の反感を強力な支持基盤としているのです。ケニヤの問題と南アフリカの問題は同じ根を持っていると結論してほぼ間違いありますまい。

藤永 茂 (2008年2月13日)


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ケニヤが今こわれかけている(2)

2008-02-06 13:39:35 | 日記・エッセイ・コラム
 マウ・マウの反乱というのは俗称で、英国の公式筋は「ケニヤ非常事態(Kenya Emergency)」と呼び、反乱とか蜂起という表現は一切使いませんでした。ケニヤ植民地の非常事態宣言は1952年10月に行われ、1960年1月にやっと終了宣言、騒乱は実に7年間以上も続きました。白人の黒人圧政の手先になって甘い汁を吸っていた一人の黒人首長(ワルヒウ)がマウ・マウ運動参加者の手にかかって殺された直後に、非常事態の宣言がなされたのは事実ですが、黒人のさらなる原始的残虐行為の広がりを防止すべく、やむなく白人側が反応したと想像するのは誤りで、黒人たちの土地分配の改革要求と民族独立の動きを押さえ込もうとして、支配者側が仕掛けた先制攻撃の性格が強かったと考える方が正しいのです。前回のブログに掲げた三冊の本にはそれがはっきり示されています。
 人々をその生活基盤の土地から追い出して困らせ、その人々を奴隷的に使役することは、トマス・ムーアの古典『ユートピア』にいみじくも述べられているように、英国支配層の昔からの伝統でした。カレン・ブリクセンの広大な所有地の周辺に不法住居者的に住み着き、彼女のお情けの対象になった黒人たちも同じことでした。“The White Highlands” と呼ばれるケニヤ中南部にひろがる高地地帯で白人に圧迫されて、ナイロビなどの都会に流れ込み、そこで貧困層を形成する黒人労働者の数も大きく膨らんで行きました。こうして、キクユ族をはじめとする原住民一般の生活状況は悪化の一路をたどったのですが、更に悪いことに、白人側は昔からの部族長などを優遇することで、彼等を味方につけ、黒人社会内に分裂を生じさせる政策を取ったので、マウ・マウの騒乱はやがて黒人間で骨肉相食む様相を呈することになり、それは遠く現代ただ今のケニヤの危機にまで尾を引くことになります。
 このあたりで、ケニヤ建国の歴史上で最も重要な人物ジョモ・ケニヤッタ(1894?-1978)に登場してもらいましょう。キクユ族に属する部族の出身者ケニヤッタはキリスト教ミッションスクールで教育を受け、やがて有名なロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び、16年間英国で生活した後、1946年、ケニヤに戻ってKAU(Kenya African Union、ケニヤ・アフリカ同盟)という政治団体の形成に参加し、その指導者として大衆動員力も目覚ましく、そのカリスマ的人気を高めて行き、危険人物視されて白人側から死の脅迫状を受け取るようになります。英国で高等教育を受けたケニヤッタは西欧化の方向で祖国ケニヤの将来を構想し、マウ・マウに象徴されるキクユの過激な民族自治主義者たちの動向とは始めから一線を画していたのですが、白人側はKAU とマウ・マウを一緒に引き括って、1952年10月20日の非常事態宣言の直後、ケニヤッタを含む有力な黒人指導者数人を逮捕拘束しました。先手を打って、過去の長い間抑圧されてきた黒人たちの怒りが白人排斥と民族独立の運動へと高まる芽を摘み取ろうとしたのでした。1960年6月末に新しく独立したコンゴ共和国の新首相ルムンバは半年後にはアメリカの意向に従って暗殺されたことが思い出されます。ケニヤッタの影響の封じ込めは英国の偽善性を示すお手本のような形で実行されました。その裁判は、ケニヤッタに不利な証言をする証人には報償が提供され、賄賂を受け取った英国のベテラン裁判官が、開廷以前に、ケニヤッタ有罪の判決を植民地司政官に約束するという怪しからぬものでしたが、表向きは立派に法的手続きを踏む体裁が整えられ、その一方で、ナイロビ空港には英本国から新鋭の数百人の部隊が到着し、一気に軍事的制圧の挙に出ました。先手を打たれたマウ・マウの武装勢力は対決を避けて森林地帯にまずは隠れ、ゲリラ闘争体制の本格的整備に取りかかります。マウ・マウ側が槍や刀を持った裸の野蛮黒人集団だと想像するのは間違いで、森の中のゲリラ戦力のコアは、第二次大戦で英国軍に編入され、アフリカ内のみならず、ヨーロッパや東南アジアにも転戦した元兵士たちで,銃火器の使用も身に付け、その数も万を越えるものでした。
 ケニヤッタを含む6人のキクユ指導者たちの裁判の最初の休廷期間が始まった1953年1月24日の夜、若い白人農園主夫婦と6歳の男の子の一家が、それまで従順忠実に仕えていた召使いたちによって、滅多切りされるショッキングな惨殺事件が突発しました。翌日ケニヤ内外の新聞が6歳児の無残な死体の写真を一斉に掲載したことにも煽られて、千五百人をこえる白人居住者がナイロビの植民地政庁に押しかけ、マウ・マウの即時皆殺しを要求し、それに応えてマウ・マウのゲリラ勢力に対する激しく容赦のない攻撃作戦が実行されました。攻撃軍側は、英国の白人正規軍に加えて、ウガンダなどの隣国から集めた黒人傭兵とケニヤ内の黒人で白人側についた方が得と考えたケニヤ内の黒人たち(ロイヤリスト)から成っていました。白人側とマウ・マウ・ゲリラとの軍事力の差は余りにも大きく、軍事抗争としては、翌1954年の末頃には勝敗の大勢は決し、1956年10月にマウ・マウの指導者キマシの逮捕で終焉しました。しかし、上述の通り、ケニヤの非常事態の終了が宣言されたのは1960年1月になってのことでした。この5年余りの間にケニヤの在住白人と英国政府が戦闘能力のないケニヤの原住民老若男女に加えた残虐行為は恐るべきものでしたが、それが意図的に隠蔽され、ケニヤの黒人以外の世界の人々(我々を含めて)の記憶には、その昔、ケニヤにマウ・マウ団という原始的な残忍さで多数の白人の命を奪った黒人の秘密結社があったという形で残っているわけです。
 マウ・マウ騒乱関係の死者数の統計を見てみましょう。非常事態の期間中にマウ・マウ側は英国側の兵士と警官約2百名、英国側に付いた一般の黒人約2千名を殺し、これに対してマウ・マウの戦死者は2万人以上、これに加えて、1091人が英国当局によって集団的に絞首刑に処せられ、15万人以上が強制収容所の中に拘束されてその数万人が死んだと考えられます。収容所内の生活環境はひどいもので、囲み込まれた黒人たちは言うことを聞かない家畜のように鞭打たれ、傷害と疾病と飢餓で死んで行きました。一方、8年にわたるマウ・マウ騒乱中に殺害された白人居住者は僅か32人、これは同じ期間にナイロビ地区で交通事故死した白人より少ない数でした。マウ・マウが未開人らしいむごたらしさで多数の白人を殺め続けたという印象は演出された印象であったのです。 
 この誤った歴史記憶が発生した第一の理由は当局の事実隠蔽とプロパガンダにありますが、マウ・マウ側が白人の圧政に反逆する集団としての団結を固めるため、運動参加者には山羊や人間の血による血盟誓約の秘儀が課せられ,その意味でマウ・マウは秘密結社の性格を持っていたことが、白人たちに恐怖心を与えたこともその大きな理由になりした。黒人の誰がマウ・マウであるかを知るために、きびしい拷問が使われるようになったのは、日本の隠れキリシタンの場合と同じでした。
 しかし、キリシタン弾圧とマウ・マウ弾圧との間には一つ決定的な違いがあります。殺す側が殺される側を人間以下(untermenschen, sub-human creature)と看做すか看做さないかという点です。植民地ケニヤの最高官僚たちは、入植白人がキクユ族の所有していた上等の土地のすべてを取り上げてしまった事にマウ・マウ騒乱のそもそもの原因があることを認めようとせず、マウ・マウ現象は一種の原始的精神病であり、その血盟誓約は“had such a tremendous effect on the Kikuyu mind as to turn quite intelligent young Africans into entirely different human beings, into sub-human creatures without hope and with death as their only deliverance”などと、英国議会下院に報告しています。[deliverance] は「救済」。こうなれば,人間以下の生き物を殺すのに何の躊躇もいりません。この至極都合の良い思考転換もまた英国人(アングロサクソン)の一貫した歴史的伝統です。当時のケニヤの白人の間で“The only good Kuke is a dead Kuke”「良いキューク(キクユ人)は死んだ奴だけ」という言葉がしきりと聞かれました。マウ・マウ騒乱の90年ほど前、アメリカ西部の大平原で先住民インディアンを容赦なく殲滅していたシェリダン将軍が“The only good Indian is a dead Indian”と言い放った話は有名で、ケニヤの白人たちがこの言葉の真似をしたのは明らかです。マウ・マウ騒乱から僅か数年後にアメリカ軍はベトナムでベトナム人を虫けら同様に殺戮し始めます。そこでは“The only good gook is a dead gook”という言葉が語られました。[gook] とはベトナム人を意味します。
 前回で紹介したエルキンスさんの本の第3章のタイトルは“Screening”です。この英語は、ケニヤ非常事態下のキクユ族の人たちに襲いかかった苦難を指す象徴的な単語で、原住民たちは今も原語を強いアクセントで使い、彼等の言葉には決して翻訳しなかったといいます。「スクリーンする」とは、マウ・マウ団員と疑われる黒人からマウ・マウ殲滅のために有用な情報を得るために行う尋問とそれにともなう拷問を意味しました。血盟誓約をした人たちにそれを白状させるのは大変でしたから、血盟誓約をしていない、つまり、マウ・マウ運動に参加していない人々もひどい拷問の対象になりました。老人や子供にもそれは及んだのです。ケニヤの「スクリーニング」の残酷非道さは直ちにイラクのアルグレイブ刑務所で行われた目を背けたくなる拷問につながります。マウ・マウ容疑者(それは莫大な数にのぼりました)の受難は上掲の著書に詳しく記述されています。気分が悪くなるようなむごたらしさなので、ただその一個所だけを英文で引いておきます。:
■ According to a number of the former detainees I interviewed, electric shock was widely used, as well as cigarettes and fire. Bottles (often broken), gun barrels, knives, snakes, vermin, and hot eggs were thrust up men’s rectums and women’s vaginas. The screening teams whipped, shot, burned, and mutilated Mau Mau suspects, ostensibly to gather intelligence for military operations, and as court evidence. ■
これは地獄です。苦しんだ人々の数でいえば、これはアルグレイブの千倍万倍の地獄です。よくもまあ、この地獄の記憶をうまくもみ消し、現在に及んだものです。

藤永 茂 (2008年2月6日)




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