私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

拙著『アメリカン・ドリームという悪夢』

2010-03-31 09:22:19 | 日記・エッセイ・コラム
 この本を書き上げる前に病気の身になってしまいまして些か苦労しましたが、いろいろな方々からのお力添えのお蔭で、出版に漕ぎ着けることが出来ました。厚く御礼申し上げます。このブログの読者から頂いた励ましのお言葉にも心から感謝しています。
 広告や書店の店頭で本書が皆さんの目につく可能性は限りなくゼロに近いと思われますので、以下に『アメリカン・ドリームという悪夢』の目次を掲げさせていただきます。
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はじめに 「アメリカ」は変わるか、変わらないか?
第1章 オバマ現象 
「オバマ現象」とは/二〇〇四年の民主党全国大会での基調講演/人種偏見の免罪符/オバマ新大統領の勝利演説/アメリカの新しいブランド《オバマ》/そんなにスゴーイことなのか
第2章  アメリカン・ドリーム 
アメリカン・ドリームを取り戻す?/アメリカン・ドリームとは?/フォードランディア/マーチン・ルーサー・キング・ジュニアの《夢》/キング牧師の「ホープ」、バラク・オバマの「ホープ」/歴史的に見てアメリカン・ドリームは役に立ったか?
第3章 アメリカ史の学び直し 
なぜアメリカ史の学び直しなのか/二組の「父祖(ファーザーズ)」/感謝祭/ジェームズタウン、ヴァージニア植民地の始まり/クレヴクールの『一米国農夫からの手紙』/白い奴隷、白いインディアン、黒い奴隷/アメリカ独立宣言
第4章 文人たちのアメリカ 
文学とアメリカの鏡/トクヴィル、ホイットマン、アレント/トクヴィルとインディアン/ホイットマンとカスター将軍/自然と人間/ホイットマンとオセオーラ/アレントの革命論/メルヴィルとアメリカ/ジョン・モードック大佐の物語/シルコウと『死者の暦』
第5章 ブッシュ、オバマ、そしてアメリカ 
プラトンの「魂の中の嘘」/フルブライト症候群/何がアメリカを動かしているか/ライト・ミルズの『パワー・エリート』/誰がバラク・オバマを大統領にしたか/バラク・オバマの「不正直」、嘘と本音/オバマ大統領の平和賞受賞講演/アメリカン・ドリームという悪夢
終わりに ブログ『私の闇の奥』
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 アメリカの過去と現在の動向について、オバマ大統領について、本書で述べた判断と推測は、執筆後もますます確かさを増していると感じています。ハイチとアメリカの関係については、本書の中でも少し取り上げはしましたが、それは今年1月の大地震以前でした。震災をきっかけに開始されたオバマ政権の動向には、我々の背筋を凍らせるに十分な恐ろしい残忍さがあります。コロンビアに続いて、ハイチの属国化の動きです。ハイチの黒人大衆が願う自由独立の国ハイチに対する事実上の死刑宣告といっても、あまり過言ではありますまい。オバマ大統領は、アメリカのこのラテン・アメリカ外交攻勢政策の自発的執行者(a willing executor)であります。いや、むしろ自発的死刑執行人(a willing executioner)と呼ぶべきかも知れません。バラク・オバマという人物について、アメリカでも、日本でも、いわゆる“進歩的”な人々の間で誤った見方が広く見られます。「バラク・オバマは幾多の進歩的政策の実施を公約に掲げ、それで選挙戦を勝ち抜いてホワイトハウス入りを果たしたのだが、いざ公約を実行に移してみようとすると、反動勢力の抵抗が強く、思ったように動けないで苦悩している」という弁護的な見方です。これが根本的に誤った見方である事を、拙著『アメリカン・ドリームという悪夢』で説明しましたが、オバマ政権のハイチ政策を見ていると、私の確信はいよいよ固くなるばかりです。アメリカの医療保険制度についても、「オバマさん、ここまで良くやった」という賞賛の声が上がっていますが、これが二重唱であることを聞き分けなければなりません。一つは、選挙運動でオバマさんを一生懸命持ち上げた浅薄な進歩派の人たち、もう一つは、大保険会社と大製薬会社からの声です。これらの業界からのオバマ大統領への褒め言葉は彼等の株価の目立った上昇に示されています。1500頁に及ぶ複雑なこの法律が全面的に機能するのは4年後、次の大統領選挙の後ですが、その間にも、不備な医療保険制度のために沢山の貧困者が死に続けることでしょう。今度の改変はアメリカの医療保険制度問題の根本的解決には全くなっていない、というのが私の判断です。問題は必ず再燃すると思います。オバマ大統領のいわゆる「核兵器のない世界」の提言の虚偽性についても同じです。これは、アメリカ合州国の道義意識とは何の関係もない、アメリカ合州国のセキュリティの問題です。はっきり言って、これはイランをどう押さえ込むかの問題です。イラン問題を、アメリカの問題ではなく、全世界の問題であるかのように仕立てようという手口は、アフガニスタン、イラクの場合と全く同じです。アメリカとイスラエルによる対イラン軍事作戦が始まらないことを切に祈らざるをえません。誠におこがましい言い方ですが、私が新著で描いた予言的ベクトルの向きの正しさについては、ますます確信を深めているところです。
 しかし、その一方で、著者としての浅学を恥じる気持ちも大いに募っています。拙著では、アメリカの原罪として、先住民に対して犯した罪と黒人に対して犯した罪の二つを挙げ、第一の原罪、インディアンに対する犯罪の記憶、がアメリカ人の深層心理の底にマグマのように存在すると書きました。私も、自分なりに広く勉強し、よく考えたつもりでしたが、そこは孤立した独学者の悲しみで、例えば、アメリカの西部神話に関する最重要な著作の一つであるらしいリチャード・スロトキン(Richard Slotkin)の三部作も、拙著の校正が終った後でその存在に気がついて、勉強を始めたような次第です。アメリカについては、まだまだしっかり勉強を重ねなければなりません。最近の話題の映画『アヴァター』も、病身のため映画館に行く事がかなわず、未だ見ていません。将来の課題です。

藤永 茂 (2010年3月31日)


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ハイチは我々にとって何か?(6)

2010-03-24 10:30:11 | 日記・エッセイ・コラム
 国連事務総長バン・キムン(BAN KI-MOON)は、2009年3月31日のニューヨーク・タイムズに“Haiti’s Big Chance(ハイチの大きなチャンス)” と題する注目すべき論説を寄稿しています。プリントして2頁ほどですから、出来れば読んで頂きたいのですが、乱暴に要約すれば、「ハイチの低賃金労働をフルに生かして、輸出用の衣料製品を生産するチャンスだ」というものです。バン・キムンはその成功を確信しているようで、「我々はそれがうまく行くのをバングラデッシュで見た。それは、衣料産業が250万の職を支えていることを誇っている。ユガンダでもルワンダでもうまく行った。」と書いています。2009年9月、ポルトープランスでクリントン元大統領の主導の下に開催された「投資家会議」には、我々にも親しいギャップやリーヴァイなどの大衣料メーカーを含む二百社にのぼる会社からの出席者がありました。しかし、その時点では、「まだハイチの治安の悪さが心配だな」という意見が支配的だったそうです。その5ヶ月後に、今度の大震災、すかさず、強力な米国軍によるハイチの占領が始まりました。この占領でハイチの治安が保証されれば、衣料メーカーによる大規模の資本投資が実現するでしょう。米国資本にとって、今度の大地震は“天が与えた好機”となるかも知れません。それはクリントンの、そして、バン・キムンの望む所でもあります。貧困国、あるいは、都市の貧民居住地区が大天災に見舞われたのを好機と捉えて、一挙にネオリベラルな経済発展政策を押し付けるというやり方です。
 国連事務総長バン・キムンの論説は、ハイチについての特任顧問であるPaul Collier (オックスフォード大学経済学教授)による2009年1月に国連事務総長宛の報告書『ハイチ:自然の大災害から経済的安寧へ(Haiti: From Natural Catastrophe to Economic Security)』に直接基づいています。タイトル、目次を含めて19頁の論文ですが、これは現代の植民地経営と奴隷制継続のマニフェスト、いやマニュアルと言うほかはありません。ここで言う「自然の大災害」とは、今度の大地震ではなく、2008年のハリケーン襲来で、ハイチの道路などのインフラや食料生産が壊滅的な損害を受け、生活に窮した貧困民の数が急増し、農村人口がますますポルトープランス周辺に集中してきたことを主に指しています。前回のブログでシテ・ソレイユ(太陽の町)の発祥とそのスラム化のお話をしましたが、外国資本と富裕支配層の言うままになる政府が出来た今、かつて試みた超低賃金労働者を使役する衣料製造産業を、再び起こして製品を輸出しようというのが、コリエ教授のアイディア、つまり、ギャップやリーヴァイなどの大衣料メーカーがポルトープランス周辺の産業パークに工場を造って、安い実費でどしどし衣料を製造し、ハイチの直ぐ北にある大消費マーケットのアメリカ合州国を筆頭に、世界中に売りまくろうというわけです。この着想に関連するコリエ教授の論文の一部を訳出します。:
■ もちろん、マーケットへのアクセスだけでは十分でなく、生産コストが世界中で競争出来なければならない。しかし、ここでもファンダメンタルは実に好都合だ。衣料品製造コストで最大の成分は労働力だ。その貧困度と比較的に無統制の労働力市場のため、ハイチの労働力コストはグローバルな基準である中国と充分に競争できる。ハイチの労働力は安価であるだけでなく、その質も良好である。実際の所、かつてハイチの衣料産業は現在の規模よりはるかに大きかったから、技能経験を持った大きな予備労働力が現存するのである。■
冷徹な経済用語が使ってありますが、砕いて言えば、大自然災害で打ちのめされた貧困大衆は、奴隷的低賃金の仕事にも飛びついてくるから、これを使わない手はない、というわけです。「技能経験を持った大きな予備労働力が現存する」というのは、主にシテ・ソレイユの住民達を意味します。先述のように、アリスティド大統領の復位の条件として押し付けたネオリベラル経済政策の下で、1990年代に、今回のコリエ提案と同じことが試みられ、シテ・ソレイユ地区に衣料製造工場が出来たのですが、よく言うことを聞かなくなったアリスティド大統領を懲らしめるために、工場は閉鎖され、技能を身につけた人たちは一挙に失業してしまいました。コリエ教授が、はなはだ好都合という大きな予備労働力とはこの人たちのことです。
 コリエ報告から1年後、ハイチはハリケーンを上回る大自然災害に見舞われました。貧困大衆に奴隷労働を押し付ける条件は、コリエ教授の言葉使いに従えば、ますます良好になりました。最大のポイントは治安の維持です。コリエ報告書の序文で、国連軍MINUSTAH がポルトープランス周辺の治安を安定させた功績が讃えられています。今度の大地震で、その治安が壊されないように、1万を超える米軍が急遽派遣されました。今までの所、彼等の作戦は成功しているようです。
 オバマ大統領はハイチの災害救済と復興のための特使として、二人の元大統領クリントンとブッシュを現地に派遣しました。この二人こそが、過去四半世紀間、占領と内政干渉によって、ハイチという国をグチャグチャにした張本人なのですから、いかにも、アメリカらしい、オバマらしい人選です。特に、クリントンはコリエ報告の線に沿った経済政策、換言すれば、21世紀スタイルの奴隷制度をハイチに押し付けることに熱をあげることでしょう。
 しかし、果たして、事は彼等の思惑通りに進むでしょうか?
 大地震の直後からしばらく、世界のマスメディアは、人たちが救援物資を奪い合いし、スーパーマーケットを襲う様子を、幾つか報道しました。でも、何とはなしに、材料不足の気味を感じられた方々もあったのではありませんか。貧困民衆の激しい反乱や暴動を期待していたメディアは、実は肩すかしを食らった形なのです。逆に、いろいろの形で、現地に入った人々の多数が、ハイチの貧民達が辛抱強く、秩序を保って、乏しい救援物資を分け合う様子を報じています。自警団的な人々の組織が出来て、自分たちの手で秩序を保っていると考える充分の理由があります。シテ・ソレイユ(太陽の町)が、大混乱に陥っていない理由は、国連軍MINUSTAHと米軍の制圧だけではなく、その住民達の強い団結の意志の表れでもあるのです。
 古雑誌の山から、面白い記事を掘り出しました。クリントンが「ハイチに民主主義を回復する」という全く欺瞞的な見せかけのもとで、ネオリベラル経済政策の実施を条件にアリスティドを大統領の座に戻した直ぐあとの、1994年11月3日付けの『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』に出た、Michel-Rolph Trouillot というハイチ人の人類学者(ジョンズ・ホプキンス大学教授)の「アリスティドの挑戦」という論考です。この人はデュヴァリエ時代の政治学的分析の業績で知られています。
Fanmi Lavalas(みんなの洪水)の形をとった民衆運動は、アリスティドによって始められたのではなく、この民衆運動のエネルギーが、アリスティドを生み、彼を大統領の座にまで抱え上げたのだと、トゥルイヨ教授は、この論説で言い切っています。その後の15年間のハイチの政治的動乱の歴史をたどると、彼の視点と洞察は正しかったと、私には、思われます。アメリカにとっての本当の問題は、ジャン=ベルトラン・アリスティドという一種奇矯なアマチュア政治家ではなく、アリスティドをアリスティドとして動かしている貧困層大衆の持続的な政治的エネルギーだという事です。
 ナポレオン・ボナパルトがハイチ奪還に差し向けた大軍を見事に打ち破ったトゥサン・ルーヴェルチュールは、和戦を装ったフランス軍の奸計によって捕えられ、フランスのジュラの監獄に監禁され、結核を病み、1803年4月、寒さに曝されて肺炎で獄死しましたが、彼は、ハイチの小学生の誰もが知っているといわれる有名な言葉を残しました。:
■ 私を倒すことで、あなた方は、サン・ドマングで、黒人の自由の木の幹だけを切り倒した。木は、その根っこから必ずや芽を吹き出すだろう。木は、沢山の根を深く張っているのだから。■
たしかに、大震災後のシテ・ソレイユの人々が、意外なほど冷静に相互扶助の精神を発揮して、何とか生き抜こうとしている様子を見ていると、逆境にめげず、いつの日か、本当の自由を獲得しようとする彼等の革命精神の根は、広く深く息づいているのだと思えて来ます。
 しかしながら、正直なところ、私は憂慮せざるをえません。この度の大震災を天与の好機ととらえるアメリカ合州国は、今度こそ、ハイチの政治的経済的支配を成功させ、その属国化を仕上げようと全力をあげるでしょう。ごく少数の富裕支配階級の人々を除く、大多数のハイチ人の苦難の日は、これからも続くに違いありません。電話を始めとする公営事業は私営化されるでしょう。スウェット・ショップ(sweat shop)という言葉を、ご存知ですか? スウェット・ショップが沢山できて、80%とも言われる貧困大衆の失業率は少しばかり低められるでしょう。しかし、これは黒人奴隷制度の継続に過ぎません。これが、クリントン/コリエ/バン・キムンのハイチ経済復興計画の要点です。懐があたたまるのは、又しても、アメリカとハイチのごく少数の人たちでしょう。
 ハイチは我々にとって何か? 我々が先ずやるべきことは、ハイチの歴史と現実を出来る限り正確に把握する努力をすることです。ハイチのこれまでの200年は、アメリカ合州国という国の本当の姿を鮮やかに映し出している鏡であります。日本はアメリカ合州国と重大濃厚な関係にあります。パートナーの本質を正しく深く把握する必要があります。
 ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(子)、オバマの4人の大統領の対ハイチ政策の驚くべき一貫性、不変性(ノー・チェンジ!)は勿論、オバマ大統領が尊敬するというウッドロウ・ウィルソン大統領の19年間のハイチ占領、さらに、1776年の『独立宣言』の起草者ジェファソン第3代大統領まで遡ることが出来ます。この200年、アメリカは、自分の裏庭と考えるカリブ海で、黒人の独立国が生き生きと輝くことがどうしても許せないのです。2月24日付けのブログ『ハイチは我々にとって何か?(2)』に引用したジェファソンのアメリカ『独立宣言』の部分には、一つの人間集団(people)の独立が、当然の権利として、正当化される場合がはっきりと打ち出されていて、それに基づいてアメリカはイギリスから独立しました。くどいようですが、もう一度、読んで頂きたいので、再度、引用します。:
■われわれは、次の諸真理を自明なものと考える。すなわち、すべての人間は平等につくられている。すべての人間は、奪われることのない一定の諸権利を、創造主によって与えられている。その中には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれる。■
■これらの諸権利を確保するために、人間たちの間に政府が設置されるのであり、政府の権力は、治められる人々が同意を与える場合にのみ、正当とされるのである。いかなる形の政府でも、こうした政府本来の目的に破壊的になれば、そうした政府をいつでも改変し廃止することは国民の権利である。そして、国民の安全と幸福とに最も役立つと思われる原理や権限組織に基づいて、新しい政府を設立する権利を国民は持っている。■
アメリカ『独立宣言』のこの文言に照らせば、1776年のアメリカ独立よりも、1804年のハイチ独立の方が、はるかに高い緊急性と正当性をもった独立革命であったのは明白です。しかし、アメリカは、この200年間、一貫して、ハイチ国民の当然の権利を圧殺し続けてきました。これがハイチという鏡に映し出されているアメリカ合州国の本当の姿です。ハイチはまだ独立を果たしていません。
 今度の大震災は、アメリカにハイチ支配の強化のビッグ・チャンスを与えてしまったようです。ハイチの人々の苦難は、まだこれからも永く続くことでしょう。私は憂慮せざるを得ません。ハイチはとても自然の恵み豊かな土地であったのです。基本的自然条件は今も変わっていません。ハイチという豊かな黒人独立国が、自由と平等を象徴する大きな宝石(ジュエル)として、カリブの海と空に輝く日を、余命の限られた私には、言祝ぐことが許されますまい。しかし、10年後、20年後、ハイチにその日が必ず訪れることを祈ってやみません。
「付記」最近、ハイチに関する浜忠雄氏の次の二著を読みました。今回の大地震をきっかけにハイチに興味を持たれた方々は是非お読み下さい。
* 『カリブからの問い ハイチ革命と近代世界 』(岩波書店 2003年)
* 『ハイチの栄光と苦難-世界初の黒人共和国の行方-』(刀水書房 2007年)
また、前回のブログ『ハイチは我々にとって何か?(5)』に二つの貴重なコメントを頂きました。こちらの方もお読み頂ければ幸いです。

藤永 茂 (2010年3月24日)


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ハイチは我々にとって何か?(5)

2010-03-17 09:11:32 | 日記・エッセイ・コラム
 1月12日、マグニチュード7の激震とその余震がハイチの首都ポルトープランスとその周辺を襲いました。この大地震による直接の死者は25万人に及ぶとされています。この大災害で、最も注目しなければならないのは、首都を中心に配備されていた約1万のPKO(国連平和維持軍)も、地震発生直後に到着した約1万の米軍も、救援活動に殆ど何も参加しなかったどころか、むしろ、邪魔になる行動をとったことです。信じがたいことですし、アメリカでも、日本でも、マスメディアは余りこれを報じませんでしたが、これから説明するように、今や、確認された事実です。2万人の兵士達が、彼等の肉体と資材を駆使して、瓦礫を取り除く作業に力を尽くしていれば、沢山の人命が救われたことでしょう。ハイチで大地震発生のニュースに初めて接した時に私が先ず頭に浮かべたのは、そうした国連軍の活躍の様子でした。『ハイチは我々にとって何か?(1)』の冒頭に書いた通りです。しかし、私の期待が裏切られることは、現地の国連軍に付けられていた特別の名称MINUSTAHの意味を充分理解していれば、始めから分かりきったことした。フランス語の“Mission des Nations Unies pour la Stabilizaton en Haïti”の略称ですが、キーワードは「安定化」です。単に平和を維持する(Peace Keeping)のではなく、ハイチの安定化を目指す国連軍特任部隊を意味し、その名にふさわしい作戦行動を、震災以前から、展開していたからです。
 ハイチの首都ポルトープランスの人口は、20年前には、数十万人のオーダーでしたが、その後急激に貧民の集中が進行し、今回の大地震の時点では、2百万から3百万にもふくれ上がっていたと推定されます。この膨大な数の貧民の集中については、直ぐ後で論じますが、首都近傍の貧民居住地域(スラム)の中でも、特に極貧で治安の悪い地区として知られているのがシテ・ソレイユ(太陽の町)です。20万から30万の人口でその大部分を子供と若者が占めています。電力も僅かしか供給されず、上下水道も不整備、治安が極端に悪く、生命の危険を恐れて、警官も役人も常駐在できません。失業率は80%以上、平均寿命は50歳、凄まじいスラム地区で、幾つかの武装集団がお互いに抗争しながら地区を支配していると言われています。外部の無責任な言葉で言えば全くの「無法地帯」ということになりますが、一方、ここは開放神学を奉じる神父たちの活動拠点であり、アリスティド支持のFanmi Lavalas の不退転の支持地盤でもあります。
 国連軍MINUSTAH の主要な作戦目標はシテ・ソレイユの制圧と治安維持にあり、そのために、2004年以来、市民の方に千人をこえる死傷者が出ているようですが、MINUSTAHの重装備の武力をもってしても、「太陽の町」の中の治安を十分よく保つことは出来ていません。赤十字発行の雑誌記事によると、シテ・ソレイユに通じる道路にはMINUSTAH のチェックポイントがあって、出入りする人々は厳しい検問を受けています。
 西半球で最大最悪のスラムの町シテ・ソレイユは何故出現したか?
 1991年9月29日、軍部によるクーデターによって、アリスティド大統領は国外に追放されますが、1994年9月19日、2万人のアメリカ軍がハイチに侵攻し、10月15日、アリスティドはハイチに帰還して大統領に復位しました。これぞアメリカが民主主義の守護神であることの証であると、当時のアメリカ政府(クリントン大統領)は見栄を切りましたが、これは2重の奸計だったのです。そもそも、圧倒的な得票で民主的に選出されたアリスティド大統領を追い出したクーデターを操ったのはCIA でしたが、クーデター後の3年間に、アリスティド大統領を支持した沢山の活動家が殺されました。その後で、依然として人気のあるアリスティドに、厳しい経済政策的条件を押し付けた上で、ハイチに送り戻して、その政策を実行させる計画でした。その経済政策は徹底したネオリベラル政策で、輸出入関税の殆ど完全な撤廃、つまり貿易自由化、と公共事業の私営化(プライベタイゼーション)です。その一つのアイディアは、ハイチの極端に安い労働力を使った衣料製造工場を作り、製品を国際競争に打ち勝てる低価格で輸出することで、それによる就職を期待して集まった貧民達の居住地としてシテ・ソレイユ(太陽の町)が出発したのでした。帰国して数ヶ月後、アリスティド大統領はその座を去りましたが、これは2期連続の大統領が憲法で禁止されている結果で、アメリカ政府は多分そこまで計算していたと思われます。しかし、その後もハイチ政府はアリスティド支持のFanmi Lavalas 系の勢力が維持して、そのアリスティド系勢力がアメリカに約束させられたネオリベラル政策は遂行しながらも、一方では、最低賃金の大幅値上げなど、ネオリベラル政策の実施を困難にする国内政策を進めたので、アメリカは再びハイチ政府とFanmi Lavalasの締め上げに転じ、そのために(太陽の町)の住民の多くは、工場閉鎖のため、職を失うことになりました。以上、粗雑すぎる要約ではありますが、これが大スラム地区シテ・ソレイユ(太陽の町)の発祥のお話です。シテ・ソレイユだけでなく、首都ポルトープランスには百数十万の貧民が集って来たのですが、その大部分は、ネオリベラルな農業政策が実施されたため、それまでハイチ国内全域で農民達がやっていた小規模生産が立ち行かなくなり、生活が出来なくなって首都の周辺に集まって人々です。それまで米などの基礎的食料は国内生産で足りていたのですが、ネオリベラル政策実施後は、ハイチはたちまち食料輸入国に転落しました。こうした状況の進展の中で、2000年11月26日、アリスティドは圧倒的得票数で、またまた、大統領に選出されました。三度目です。もちろん、このアリスティド新政権の存在を、アメリカ政府と、それに結託するハイチの富裕支配層が許す筈はありません。2004年2月29日のクーデターとアリスティド大統領の国外追放は、起るべくして起った一つの政治劇に過ぎません。その後の混乱を押さえ込むためにアメリカ政府は、国連をあやつって、国際的傭兵部隊MINUSTAH を編成してハイチに送り込みます。傭兵のためのお代は世界各国から集金するという狡猾さも見逃してはなりません。そして、この傭兵部隊MINUSTAH は、2004年以降、とりわけ、暗黒の無法地帯「太陽の町」を目の敵にして痛め続けていたのです。これで、シテ・ソレイユについての私の話が一巡しました。
 今回の大地震の発生後、アメリカが先ず取った行動は、トゥサン・ルーヴェルチュール国際空港の軍事制圧で、数千人の兵士とその装備、食料を着地させることでした。今では、総勢1万数千人に達すると推測されます。MINUSTAH の増強のためにも、カナダ軍兵士多数を含む3千5百人が送り込まれました。2007年1月1日に国連事務総長に就任した米国一辺倒のバン・キムンは「米軍も国連軍も駐留期限は今のところ無い」と言っています。これらの軍隊の任務は、始めから、ハイチの治安の維持であって、震災救援ではなかったのです。私たちも知っている「国境のない医師団」は、震災最初の1週間に、85トンの医療関係資材のトゥサン・ルーヴェルチュール国際空港への着地を拒否されたと報じています。派遣された米軍は救援の邪魔になりました。それは、直接間接に、数万人のハイチ人の死を招いたに違いありません。
 2004年のアリスティド大統領国外追放以来ハイチに駐留している国連軍MINUSTAHと、今度の大地震の直後ハイチに急派された米軍の大部隊が、災害救援活動の邪魔になったという事実を、事実として受け入れることに抵抗感を抱く方々も多いでしょうが、それが事実だという証言者は上掲の「国境のない医師団」の他にも多数見つけることが出来ます。私から見て、決定的な証言者の一人はPaul Farmer という人物です。ハイチに関する信頼の置ける著書として、前回を含めて今まで何度も紹介してきた『ハイチの使い道(The Uses of Haiti )』の著者で、ハーバード大学医学部の著名な教授です。地震直後の1月14日のロサンゼルス・タイムズに「国連の救援活動が阻害された」という記事が出て、その中に、国連の ハイチ特使の肩書きを持つファーマーさんの談話が出ています。記事は「地震で壊滅的な打撃を受けたハイチが緊急に求めている救急医療キット、毛布、テントを積んだユニセフの貨物輸送機が、本日、ポルトープランス空港に着陸しようとしたが、理由不明のまま着陸できず、パナマに引き返した」というリポートに始まり、国連特使ポール・ファーマーの言葉を次のように伝えています。「首都(ポルトープランス)の商業港は事実上封鎖され、航空輸送の方も、ほとんど機能していない空港に何とか着陸しようとする航空機で渋滞している。」地震後2日目に不明だった「理由」とは、米軍大部隊の空と海からのハイチ侵攻であったのです。優に1万を越える兵員総勢、装甲車や銃火器、彼等の滞在のための設営機材、食料などの持ち込みの方が救援物資の搬入より優先されたということです。これは、もはや誰も否定することの出来ない事実です。この事実上のハイチ占領によって、オバマ政権は何を達成しようと狙っているのか。次回(最終回)では、そのことを、我々との関連において、論じてみたいと思います。

藤永 茂 (2010年3月17日)


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ハイチは我々にとって何か?(4)

2010-03-10 10:08:19 | 日記・エッセイ・コラム
 1915年から1934年まで約20年間続いたアメリカによるハイチの占領の後に残されたのは、外国(アメリカ)人がハイチの土地を取得することが出来るように書きかえた憲法(フランクリン・ルーズベルトの筆による)、侵入外国資本に奉仕するハイチ人富裕支配階級、その権力構造を維持する軍隊警察組織でした。大多数の国民は、惨めな貧困と安い労働力の提供を強いられます。当然、大衆の不満は国内に充満しますが、やがて、米ロ対立の冷戦時代が到来すると、貧困大衆の声を政治に反映させようと試みる人たちを一括して共産主義者として容赦なく弾圧する、米国迎合の政府が米国によって支持されます。それを最も端的に代表したのが、医師出身(ドクター)のフランソワ・デュヴァリエとその息子ジャン=クロード・デュヴァリエによる、1956年から1986年まで続いた極端な暴政です。パパ・ドック、ベベ(ベイビイ)・ドックと呼ばれた父子2代の余りにも無茶苦茶な行動に遂にしびれを切らしたレーガン政府が20年にわたる独裁政権を見限り、1986年2月7日、ベベ・ドックは米空軍機に乗ってフランスに亡命させられたのでした。デュヴァリエ父子が支配した20年間のハイチの歴史を上の数行で括るわけには行きません。本気でハイチの事を気にする方は是非ネット上や単行本でお調べ下さるよう、お願いします。
 さて、いよいよ問題の人物ジャン=ベルトラン・アリスティドの登場です。アリスティドは1953年生まれ、ハイチの国立大学大学院で心理学や哲学を修めた後、ポルトープランスのカトリック小教会の司祭となり、貧民の救済をキリスト教の使命として前面に掲げる、いわゆる、「解放神学(liberation theology)」の信奉者として、デュヴァリエ政権を批判する発言を始めますが、その激しさに辟易したカトリック教会組織から破門にされてしまいます。アリスティドは政治に身を投じ、1990年の選挙で、デュヴァリエ追放後、米国がハイチに押し付けた傀儡政治家たちを打ち負かし、67%の票を獲得して大統領に選出されました。この選挙は、一般に公正なものと看做され、彼はハイチの歴史上、最初の「民主的に選出された大統領」になったのです。当時、彼が用いた有名な喩えがあります。:
■ 私の国の人口のほんの僅かなパーセントを占める金持ちたちは、ダマスク織の白い絹布のテーブルクロスを掛けた広い大きな食卓について、溢れるような御馳走を楽しんでいるが、残りの同胞は、男も女も、その食卓の下にぎゅうぎゅう詰めに押し込められて、塵の中にうずくまり、飢えている。これは全くひどい状況であり、いつの日か、必ず、食卓の下の人々は正義に燃えて立ち上がり、特権者の食卓をひっくり返して、当然の権利として彼等に属するものを手に入れるだろう。彼等が立ち上がり、人間として生きるのを助けることこそ私たちの使命である。■(アリスティド著『貧民の教区にて』、p9,1990年)
こんな事を公言する人物が大統領になったのですから、国内の富裕支配層と、それに密着する米国がそのまま放っておく筈はありませんでした。
 1991年9月25日、アリスティド大統領はニューヨークの国連本部で、「民主主義の十の戒律」と題する講演を行いました。その中で、アリスティドは、先ず、アメリカ独立宣言の「生命、自由、幸福の追求」の三つの基本的人権を挙げ、食べる権利、働く権利、更に、貧困大衆が当然彼等に属するものを要求する権利を加えました。この講演からハイチに帰った途端に、アリスティド大統領はその地位を追われました。1991年9月29日、軍部によるクーデターによって、アリスティド大統領は国外に追放され、はじめベネズエラに、続いて、おかしな事に米国に亡命先を見出します。
 このクーデターの背後にブッシュ(父)政権(1989年-1993年)があったことは確かですが、次のクリントン政権(1993年-2001年)は、民主的に選出されたアリスティド大統領を、見かけの上では、支持するような欺瞞的態度をとり、1994年9月19日、アメリカ軍はハイチに侵攻占領し、10月15日、アリスティドはハイチに帰還して、大統領の座に戻りましたが、彼の大統領の任期はすぐに切れてしまいました。憲法によって二期続けての大統領は禁じられていたのです。これもアメリカは計算に入れていたと思われます。野に下ったアリスティドは Fanmi Lavalas という名の政党を立ち上げて巻き返しを試み、2000年11月26日、圧倒的得票数で再び大統領に選出されました。党名はクレオール語ですが、fanmi はファミリー、lavalas は洪水、または、奔流を意味するようです。名もない貧民たちが立ち上がる時の、洪水のような、洪水の奔流のような力の表現だと思われます。明けて2001年2月7日、アリスティドの2度目の大統領就任式が行なわれましたが、アメリカでは、1月20日、大統領がクリントンからブッシュ(息子)に代り、ブッシュ政権に後押しされた反アリスティド勢力は、ハイチ国内のみならず、隣国のドミニコ共和国内にも拠点を作って、アリスティド政権の攪乱、打倒を目指して醜い活動を始めました。その擾乱のただ中の2003年4月、アリスティド大統領は過去にフランスに支払った例の“賠償金”の、利子を込めた払い戻しをフランス要求するという、例え、理にはかなっていても、現実的には、無謀な挑発的行為に出て、その騒ぎの中の2004年1月1日、ハイチはフランスからの独立200年の記念日の祝祭を行ないました。その後、アリスティド大統領に対する武力反乱が大規模に発生し、2004年2月29日、アリスティド大統領は夫人とともに強制的に米国空軍機に乗せられ、中部アフリカ共和国に送られてしまいました。その直ぐ後の2004年3月、米国軍がハイチを占領します。1915年、1994年に続いて、3度目です。米軍は、ジェラール・ラトルチュを首相とする傀儡政権をつくり、2004年6月、国連軍に占領を譲って引き上げました。MINUSTAH (Mission des Nations Unies pour la Stabilizaton en Haïti, UN Stabilization Mission in Haiti ) と略称される国連ハイチ安定化特任部隊は、ブラジルからの出兵を主力とする約1万人の軍事勢力で、今度の2010年1月12日にハイチを襲った大地震の際には、積極的に救援活動に参加しなかったことで、ひどく目立ちました。
 この不可解さは、MINUSTAH という国連軍の「安定化」の任務が、具体的には、何を意味するかを理解すれば、たちまち氷解します。アリスティドのFanmi Lavalas に加わって政治的に目覚めた貧困層不穏分子は、すでに千人のオーダーで殺され、数千人のオーダーで投獄されていました。ここで、出来れば、2月3日のブログ『ハイチは我々にとって何か?(1)』の冒頭、特に、ポルトープランス発の共同通信による新聞記事からの引用を読み返して頂ければ幸いです。ここに報じられている5千人の脱獄囚の「ならず者」の中には、洪水を起こしかねない政治犯、思想犯が数多く含まれていたであろうと、私は想像します。脱獄した彼等が起こしかねない洪水の奔流をダムでせき止めることこそが、国連軍MINUSTAH の任務であったのであり、大地震の災害に苦しむ大衆の救援ではなかったのです。
 2004年2月29日にジャン=ベルトラン・アリスティドと夫人を乗せた米国空軍機の行き先は中部アフリカ共和国、フランスの旧植民地で、フランスが事実上支配している軍部独裁政権の下にありました。当時のアメリカ政府は、「身の危険を感じたアリスティド大統領から頼まれたのだ」と言い張っていましたが、アリスティドとフランスの関係を考えると、全く珍妙な亡命先の選択でした。アリスティド夫妻は、3月15日にはジャマイカに移され、そこに5月末まで滞在し、そこから又、南アフリカに飛び、その首都プレトリアに亡命者として落ち着き、今日に到っています。今度の大地震の後、アリスティドは「帰国して祖国ハイチのために役立ちたい。政治家としてではなく、一人の教育者として」と希望を表明し、ハイチでも、アリスティドの帰国を求めるデモが行なわれましたが、彼の帰国は未だに実現しません。アメリカ政府は、アリスティドの帰国によって、ハイチの政情が「不安定化」するのを懸念しています。
 貧民教区の小教会の司祭であったジャン=ベルトラン・アリスティドが、当時のデュヴァリエ政権の暴政に反抗して立ち上がった1980年代から2010年の現在まで、彼の身辺で、そしてハイチで、何が起ったか、その真実を確認することは至難の業と思われます。まず、この二十数年の年月の間に、彼の存在をめぐって起った事件がすごく多数にのぼるということがあります。表面的な事実の数々を、経時的にたどるだけでも大変です。つぎに、ハイチ国内の反アリスティド勢力とそれを支持するアメリカ政府、それに寄り添うマス・メディアが、嘘をつくことです。アリスティド支持派も、対抗手段として、嘘をつき、誇張をしていることでしょう。
 しかし、真実を探り出す手だてが無いわけではありません。ハイチに「嘘は浅くしか潜れない」という諺があるそうです。時が経てば、水面に浮上してきます。2004年のアリスティド大統領の中部アフリカ共和国への拉致追放を、時の国務長官コリン・パウエルは、「アリスティドの方から頼んで来た」と言いましたが、それが真っ赤な嘘だったことは、今では、明らかになっています。「イラクには大量破壊兵器がある」と証言したのもパウエルでした。1969年3月16日、ベトナムのソンミで起った、いわゆる、ミライ大虐殺で、米軍は、ほとんど老人、女性、子供ばかりの347人の村民を殺しましたが、始めは、ベトコン戦闘員128人を倒したと言い張っていました。当時、陸軍少佐としてベトナムで従軍していたパウエルもこの嘘を公言していました。彼はもともと嘘つき男なのでしょう。
 2008年6月25日のブログ『オバマ氏の正体見たり(1)』で、ハイチ関係の良著5冊を挙げました。この5冊は、今のシリーズの初回『ハイチは我々にとって何か?(1)』にも出しましたので、恐縮なのですが、また次に列挙します:
*C. L. R. James : The Black Jacobins (1963, 1989)
*Laurent Dubois : Avengers of the New World (2004)
*Paul Farmer : The Uses of Haiti (1994, 2006)
*Peter Hallward : Damming the Flood (2007)
*Eiko Owada : Faulkner, Haiti, and Questions of Imperialism (2002, Sairyusha)
実は、2008年6月の時点で読んでいたハイチ関係の本で、大いに気になっていた本がもう一冊ありました。それは、
* Alex Dupuy : The Prophet and Power (2007)
です。著者はハイチ出身で、今はアメリカのウェスリアン大学の社会学教授、ハイチ問題の権威者の一人とされているようです。この本の主張は「ジャン=ベルトラン・アリスティドは、初回にキリスト教司祭から身を起こして、民主的選挙で大勝して大統領となった時には、貧困大衆を救う熱意に燃えていたが、軍のクーデターでその地位を追われ、アメリカの力で又大統領に戻った後は、その地位を保つためには、デュヴァリエ父子と同じように、あらゆる暴力をふるう権力亡者に成り果てた。」というものです。『預言者と権力』というタイトルはそれを表しています。はじめから、何とはなしに、アリスティドという人物に好意を持っていた私は、デュピュイの本の主張は間違っているのでは・・・、と思ったのですが、その筆致はしっかりとしていて、反アリスティド派とブッシュ政権の代弁者の宣伝的著作とは考えられず、これまで思い悩んでいた次第です。しかし、それから2年の間に、上掲のピーター・ホールウォードの著書にあるデュピュイの本の主張に対する反論や、この2冊の本についての書評を幾つか読むにつれて、デュピュイの見解は正しくないと思うようになった次第です。ですから、大震災のあとの現在、私が信を置いているのは、ピーター・ホールウォードとポール・ファーマーの方です。
 しかし、アリスティドという一個人が、権力の味を覚えてから、堕落腐敗したかどうかは、ある意味では、大した問題ではありません。この200年間、ハイチという国が外部世界から、とりわけ、アメリカやフランスなどから受けてきた言語道断の取り扱いの方が、はるかに大きな問題です。世界中でもっとも苦しみに満ちていると言っても誇張ではないハイチという国を大地震が襲ったことに、私は、如何なる意味でも“神の意”を読むことを拒否します。これほど残酷なジョークはありえません。しかし、ハイチの大地震の故に、コロニアリズムの醜悪さが容赦なく白日の下にさらされました。アメリカ合州国によるハイチの軍事的占領は今回が四度目ですが、その本質が、私たちの目の前で、露呈しました。それから、私たちは何を読み取るべきか、次回(5)と最終回(6)で考えてみたいと思います。

藤永 茂 (2010年3月10日)


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ハイチは我々にとって何か?(3)

2010-03-03 08:42:48 | 日記・エッセイ・コラム
 ローラン・デュボアの『ハイチ革命物語(Laurent Dubois : Avengers of the New World, 2004 )』によれば(原書298頁)、1804年1月1日ハイチ独立が宣言される前日、デサリーヌは、学のある黒人に起草を依頼していた独立宣言を手にしました。この黒人学者は、1776年のアメリカ独立宣言をお手本にしてハイチの独立宣言を書いたのでしたが、デサリーヌはその内容が手ぬるすぎると考え、パリで教育を受けた別の黒人に、もっと激烈な宣言に書き直させたのでした。
 アメリカ独立宣言の執筆者であるジェファソンは1801年第三代のアメリカ大統領になりましたが、1799年の末、フランスで政権を奪取したナポレオン・ボナパルトは、トゥサン・ルーヴェルチュールによって事実上掌握されたハイチ植民地を奪回すべく、大軍を送って、1802年、一旦、反乱は抑圧されたかに見えました。ナポレオンにしてみれば、ハイチを失うことは、フランスの海外収入の半分ほどを失うことを意味していたのです。しかし、ルーヴェルチュールの衣鉢を継いだデサリーヌがナポレオン軍を打ち負かし、財政難に追い込まれたフランスは、1803年、北米大陸に領有していたルイジアナ領地を1500万ドルという飛び切りの安値でジェファソンに売ってしまいました。いわゆる「ルイジアナ購入」です。ルイジアナ領地はメキシコ湾からカナダに到る広大な土地で、その購入によって、当時のアメリカの領土面積は一挙に2倍になりました。ハイチ共和国の誕生で、ジェファソンは棚からぼた餅の大儲けをしたわけですが、彼の対ハイチ政策は、あくまでアメリカの利益と安全のみを金科玉条とする冷酷なもので、トゥサン・ルーヴェルチュール風の奴隷反乱が北アメリカに伝染して、その奴隷制を揺るがすことを最もおそれ、ハイチ共和国の承認を拒否し、それをアメリカ、フランス、イギリスのコントロールの下に留めることを試みました。この基本政策はその後の200年間続いていて、2004年のアリスティド大統領の国外追放も、今回の大地震災害にあたっての軍事介入も、カナダがイギリスに取って代っただけで、アメリカ、フランス、カナダ三国の強引な政治的介入の継続に他なりません。この事は、1776年のアメリカ独立宣言なるものが、あくまで政治的文書であって、その思想的主張が、如何に偽善に満ちたものであるかを、容赦なく暴露しています。
 1804年独立したハイチ共和国は、フランス植民地時代から受け継いだ負の遺産としての内紛に苦しみ、1806年、デサリーヌは白黒混血者(ムラート)によって暗殺されます。フランスとアメリカによる貿易封鎖で、ハイチは財政的に追いつめられて行きました。コーヒー、砂糖、綿花などの輸出が出来ず、弱体化するハイチの弱みにつけこんで、1824年、フランスは艦隊をカリブ海に送って威嚇しながら、ハイチ独立革命によってフランス人大農園主たちが蒙った財産的損害を賠償する義務をハイチ共和国に押し付けます。賠償に同意すれば ハイチ共和国の独立を認めてやると言ったのです。ハイチは、何とルイジアナ領地のアメリカへの売値の2倍にあたる賠償金をフランスに支払う約束をしました。フランスとアメリカの民間銀行から借金をし、国家収入の大半を注ぎ込みながら、1947年に、やっとその支払いをすませました。こんな無茶苦茶な話があるでしょうか!植民地の宗主国こそ、元植民地で苦しんだ人々に賠償金を払う責務を負うべきです。話が全く逆ではありませんか。
 ジェファソン以来ハイチ共和国の承認を拒み続けたアメリカは、やっと1862年になって、リンカーン大統領の下で、承認に踏み切ります。しかし、これも単純な美談ではありません。同じ1862年、リンカーンはアフリカ西岸の国リベリアの独立も承認します。その頃、リンカーンはアメリカ国内の開放奴隷問題の解決方法として、彼等をアメリカ国外の何処かに送り出してしまうという棄民のアイディアに取り憑かれていました。ハイチもリベリアもその候補地でした。
 ハイチに対する、アメリカの公然たる内政干渉と支配は、1915年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって始められ、アメリカ海兵隊は1934年まで占領を続けます。アメリカは、それまで国外白人がハイチの土地を取得することを禁じていたハイチの憲法に代る新しい憲法を押しつけ、アメリカ人の実業家がハイチの土地を所有できるようにしました。この憲法を書いたのは、ウィルソン政権の海軍副長官であったフランクリン・ルーズベルトです。後年、彼は、“私自身がハイチの憲法を書いた。言わせてもらえば、それはなかなか良い小憲法だったよ”と自慢しています。嫌な話です。アメリカ史では、ルーズベルトは進歩的な精神を持った偉大な大統領、ウィルソンは熱心な平和主義者のインテリ大統領ということになっています。所詮、政治、あるいは、政治家というものは、こんなものかも知れません。
 勿論、ハイチの人たちはアメリカの暴虐に反抗しました。1917年に始まった、シャルルマーニュ・ペラルトという30歳の黒人青年の率いた農民達のゲリラ軍団の抵抗は有名です。しかし、1919年11月、アメリカ軍に通じる裏切り者があらわれて、ペラルトはアメリカ海兵隊に捕えられ、殺されてしまいます。彼の遺体は、木の板に磔にされ、見せしめのため、公衆の目に曝されました。写真が残っています。それを見ると、ペラルトの顔は、十字架上のキリストを思わずにはいられないような、美しい面立ちです。
 最近の研究(Patrick Bellegarde-Smith, Haiti, 2004)によると、1915年からの1934年までの米国によるハイチ占領の約20年間に、占領に反抗して殺されたハイチ人の数は1万5千から3万と見積もられています。1929年、海兵隊は石と手斧しか持たない民衆のデモ隊に銃撃を浴びせて、12人を殺し、23人に負傷を与えました。この暴挙は、さすがに国際的な批判を浴び、1934年の海兵隊の撤退という結果を招いたものと思われます。
 しかし、こうして、飛び飛びに歴史のエピソードを拾って進むのは、この200年間、切れ目なしに苦しみ続けて来たハイチの人々に対してフェアではない事を確認して置かねばなりません。ハイチの一般大衆を痛め続けて来たのは、フランスとアメリカだけではありません。スペイン、イギリス、ドイツのヨーロッパ諸国に加えて、諸外国に支えられたハイチ国内の富裕支配階級、その軍隊、カトリック教会もその責めを負わなければなりません。
 アメリカ人の大多数はハイチの悲劇的歴史について殆ど何も知らないようです。典型的な南米旅行案内書には、「ハイチは、人のあまり知らない珍しい経験を追い求める旅行者にとって、うってつけの国だ」といった紹介が見られます。その住民はヴードウー教というアフリカ起源の原始宗教を未だに信じ、民主主義政府など、自分の手では、とても設立できない駄目な黒人たちだと、アメリカ人は考えていますが、それは大変な偏見です。生まれた時から、体質に恵まれず、しかも、周りのあらゆる大人たちに痛めつけられながら、年を重ねる人を想像して下さい。ハイチのメタファーとして、決して的外れではありません。
 上に、ハイチの歴史のエピソードを飛び飛びに拾うのは、良くないし、礼儀を失すると言いながら、私の力の不足とスペースの都合から、『ハイチは我々にとって何か?(1)』で提出したクイズの一つ「2004年の政変で追放されたアリスティド大統領とは何者か?」に、次回は、話を飛ばすことにします。ご了承下さい。

藤永 茂 (2010年3月3日)


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