追悼式典の会場に戻りましょう。その模様については12月10日のガーディアンに時間を追って記録した長い記事が出ました。午前9時式典開幕予定の大きなサッカー競技会場に民衆は5時前から集まり始めましたが、交通渋滞が生じて、賓客たちの到着が遅れ、式典開始は予定から一時間遅れることになりました。
http://www.theguardian.com/world/blog/2013/dec/10/nelson-mandelas-memorial-service-live-updates
会場の大きなTVスクリーンには賓客たちの到着や着席後の様子が逐次映し出されていたようで、私にとって最も興味深かったのは、10:05am にジンバブエのムガベ大統領が会場に到着すると黒人大衆が歓呼を上げ、10:33am に自国南アのズマ大統領がスクリーンに現れると盛んなブーイングが起ったとガーディアンが報じていることです。この報道記事では12:16pm に前半の要約、2:16pm に後半の要約がなされていますが、それによると黒人大衆がムガベ大統領に与えた大きな歓呼とズマ大統領に示した敵意に満ちた反応とがとりわけ目立った現象だったようです。実際、ズマ大統領が12:50pm に壇上に立って講演を始めると大衆の多くが席を立って退場したようでした。別の報道によるとマンデラの追悼式典で一般民衆から最も盛んな cheers を受けたのはジンバブエのムガベ大統領だったとのことです。アフリカ大陸でいま生き残っている最も悪逆獰猛な独裁者として日本で知られているジンバブエのムガベ大統領を南アの一般黒人大衆が何故これほどまでに篤く歓迎したのか? そして、マンデラの追悼式を取り仕切る南アの現大統領ズマに対して南アの黒人たちが何故これほどまでにむき出しの敵意(hostility)を示したのか? 少なくとも私には、このハプニングが、数万人の南ア国民と約100の国や国際機関の首脳級が列席した空前の規模の追悼式典の最も注目すべき事件と思えました。何故ならば、一般黒人大衆のこの反応はマンデラ/ムベキ/ズマとつながるアフリカ民族会議 (ANC)が牛耳って来た南アフリカ政権の近未来の崩壊を示す予兆であるからです。
人種の隔離(アパルトヘイト)制度を敷いて南アフリカを支配して来た白人たち(ボーア人、英国人)は、1955年にANCが掲げた「自由憲章(Freedom Charter)」を思想的中核とする人種隔離反対運動の激しい盛り上がりに直面して現状維持の不可能性を悟り、マンデラを始めとするANC黒人指導者層の懐柔に乗り出します。懐柔策の根幹は、白人の言う通りになる黒人上層支配階級を育てて黒人による黒人支配のシステムを構築することにありました。そのプランの成功の目途がついた時点でマンデラは刑務所から釈放されたのでした。これは動かぬ事実だと思われます。前回のブログの最後のところで「直裁に言えば、覚書を真に受けた一般黒人大衆をネルソン・マンデラは完全に裏切ったことに他なりません。これをどう考えればよいのか? 次回に私の見解を述べることにします。」と書きましたが、その後また多数の報道記事や論考、記録映画の類いに接して、マンデラについての私の想いはなかなか収斂しません。落ち着いて考えてみたいのは、追悼式典で南アの黒人大衆から温かい歓呼で迎えられたムガベのマンデラに対する個人的感情です。ムガベは、内心では、マンデラを南アの黒人を裏切った変節者として見下し軽蔑していたのでしょうか。
農地改革を行なって白人から農地を取り戻したか否か、これがムガベとズマの決定的な違いです。南アの黒人大衆はそれを痛いほど心得ているのです。マンデラ/ムベキ/ズマの南アもムガベのジンバブエも、出発の時点では、白人の経済支配の継続を受け入れました。南アは事実上そのまま現在に至りましたが、ジンバブエは、1999年~2000年、その桎梏を振り払う行為に踏み切ったのでした。それ故にムガベは米欧にとって許しがたいバッドボーイになってしまいました。間もなく90歳、彼が世を去る日も近いでしょうが、彼の追悼式典に列席する米欧の貴紳名士たちはおそらく皆無でしょう。ムガベは何をしたか、それ故にどのような罵詈雑言を浴びせられたか、忘れてしまったか、あるいは、知らない方々が多いと思いますので、参考までに、私のこのブログの3年前(2010年12月22日付け)の記事『ジンバブエとムガベ』をここで再録します。:
********************
ジンバブエのことは2008年に5回続けて取り上げたことがありました。:?『ジンバブエをどう考えるか』(1)~(5)(2008年8月20日最終回)
?週刊朝日の7月18日号に「84歳の独裁者[ジンバブエ]ムガベ大統領の悪逆非道」という記事があるのを広告で見て、内容を読んだのがきっかけでした。内外多事多難の現在、殆どの方はアフリカの小失敗国家ジンバブエの事など忘れてしまったでしょうが、今度のウィキリークスで漏洩したアメリカの外交関係の秘密文書の中に、私としては見逃す事の出来ない事柄も含まれていました。アメリカの意向に従わない小国の独裁者を引き倒したいと考えた場合にアメリカがどのように振る舞うかを実証的に観察する貴重な機会の一つを、ジンバブエは提供していると私は考えます。他の類似例として、近過去にはユーゴースラビア、現時点では北朝鮮が考えられます。?[ 現時点(2013年12月25日)での補注:次の犠牲はリビアでした。今はシリアのアサド政権です。]
週刊朝日の「84歳の独裁者ジンバブエムガベ大統領の悪逆非道」という記事は、“肥沃な土地と豊富な資源で「アフリカのパンかご」と呼ばれた國を“くずかご”に転落させたのは、ムガベ大統領である。なぜ、「独立の英雄」は愚か者に堕落したのか”と、先ず、設問します。
?■(ムガベは)首相を経て、87年に大統領に就任。当初は農地や工場の急激な国有化を避けるなど白人社会との協調を基盤とした緩やかな社会主義による国づくりを進める一方、教育など福祉政策に力を注ぎ、識字率をアフリカ最高レベルの9割に導く“善政”を敷いた。?それが今はどうか。
? CIA(米中央情報局)発表などによると、ジンバブエのインフレは08年2月時点で16万%で紙幣は紙くず同然となり、失業率は80%(07年)。成人のHIV感染率は24・6%(01年)で、平均寿命は約39歳(08年)に過ぎない・・・・。生活苦から国民約1300万人のうち、約400万人が職を求めて、国外へ流出しているとされる。20年以上の(ムガベの)君臨が、「南部アフリカのオアシス」と言われた國を壊したのだ。■
? これで見ると、ムガベ大統領の初めの10年は模範的な善政、後の10年は典型的な暴政。この記事の読者は、ムガベの治世の中間点、つまり世紀の変わり目の2000年前後に、何か大変な事が起ったのではないか、転機となるような重大事態が生じたのではないか、と思うのが当然ではありますまいか。この記事の筆者中村裕氏は、(ムガベは)「なぜ変節したのか」と問い、ムガベ個人の変節として問題と捉えます。この問いに対して、アフリカ取材経験が豊富な朝日新聞元編集委員の松本仁一氏は「変節ではなく、もともと権力志向が強いのです。権力を維持するため、國を食いものにしてきた男です」と答えています。要するに、この記事のタイトル通り、「84歳の独裁者ムガベ大統領の悪逆非道」が「ジンバブエの悲劇」の理由であり、「なぜ、「独立の英雄」は愚か者に堕落したのか」という設問の答えは、「途中から堕落したのではない。もともと言語道断のひどい野郎だったのだ」となっているわけです。? ジンバブエの運命の転機となった重大事件は、2000年にムガベが断行した農地改革です。『ジンバブエをどう考えるか』(5)(2008年8月20日)に、私はこう書きました。:
?■1960年代、アフリカ大陸でヨーロッパ植民地が黒人の独立国家となる嵐が吹き荒れる中、英国植民地「南ローデシア」だけは、時代の流れに逆行して、1965年,アパルトヘイト政策を実施する白人支配国家として独立を宣言し、1970年には「ローデシア共和国」の国名を名乗りました。耕作に適した農地の80%を全人口の2%の白人地主が所有し、黒人の低賃金労働と機械化に依存する大規模農業が営まれていました。当然のことながら、黒人たちは黒人国としての独立運動に立ち上がり、紆余曲折のあと、1980年独立を果たして正式に「ジンバブエ」が誕生し、総選挙でムガベの社会主義的政党ZANU(Zimbabwe African National Union) が圧勝してムガベは首相になりました。人々の予想に反して、ムガベは黒人と白人の共存路線を選び、白人の農地を黒人に与える農地改革も7年間凍結する事とし、農業大臣や商工大臣には白人を起用して国家建設を進めたので欧米での評判は上乗でした。 上掲のムバコ大使の発言に描かれている通りです。しかし、1987年大統領となったムガベはZANU本来の“過激”な政策を強引に押し進めはじめます。1998年、マルクス主義者カビラのコンゴ政府が東の隣国ルワンダの侵攻を受けた時、カビラの要請で援軍を送ったのはその典型です。続く1999年、7年どころか20年間も手を付けなかった白人所有農地の黒人への分配を宣言し、2000年には強制接収を始めました。アングロ・アメリカ勢力がムガベのジンバブエつぶしの決心をした時点を1999年~2000年とすることに反対する国際関係史専門家は、もし彼らに学問的良心があるならば、一人もいないと私は考えます。■?
ロバート・ムガベは1924年2月生まれ、間もなく87歳の高齢、多くの人々が言うように、早く死んでしまった方がよいような人物かも知れません。しかし,この国の現状をもたらした諸々の政治的暴力について私たちの知識は余りにも浅薄です。公正健全な判断を下せる状態にはありません。それを意識するだけでも、虚偽に満ちたプロパガンダに引き回される確率を減らすことができます。? 2009年11月末、イギリスのサセックス大学の Institute for Development Studies という研究機関の所員のIan Scoones (白人)が他の共著者とともに、『Zimbabwe’s Land Reform Myths & Realities』という報告書を出版しました。それによると、2000年のジンバブエ農地改革は、世界のメディアが騒いだほど惨憺たる失敗ではなく、この10年間に見るべき実質的成果も上がっているということのようです。BBCテレビも一応は取り上げましたが、ジンバブエについての今までのマスメディアの姿勢から明らかなように、この出版物はほぼ無視されました。? マスコミに無視された出版物といえば、Gregory Elich という人の『Strange Liberators: Militarism, Mayhem, and the Pursuit of Profit』(“奇妙な解放者たち:軍国主義、意図的騒乱、利益追求”、2006年)にも、ジンバブエについて、既に、同様な観察がなされていたようです。この著者は筋金入りの反帝国主義論者のようですし、過激な主張も含まれているかも知れませんが、幾つかの詳しい書評から判断する限り、引用文献もしっかり充実していて,決して際物出版物ではないと思われます。この著者の最近の論考では、北朝鮮に対して、アメリカ政府はムガベのジンバブエに対するのと類似した行動を取っていることに対する危惧が述べられています。
藤永 茂 (2010年12月22日)
********************
上掲の記事を私が書いてからの3年間にはっきりした事は、アフリカ事情に詳しいジャーナリスト諸賢より市井の一老人の知見のほうが正しかったという事です。自慢しているのではありません。悲観しているのです。ジャーナリスト諸賢がジンバブエの関する事の真相を弁えてなかった筈はあり得ません。彼らは、3年前に、どのように報道発言をすればそれが権力機構に受け入れられる記事になるかを知っていただけのことです。しかし、その嘘偽りをフィードされた我ら大衆こそ好い面の皮、迷惑千万です。ですから、いま我々は、シリアにしろ、スーダンにしろ、またロシアや北朝鮮にしろ、マスメディアが我々にフィードしている情報は同種の嘘偽りに満ちているのではと、眉にしっかり唾をつけて彼らの報道や論説に接しなければなりません。
さて、前に掲げた設問であるムガベのマンデラに対する個人的感情の問題に一つの解答を与える報道に、私は偶然行き当たりました。犬も歩けば棒に当たる。それは、Alexandra Valiente と名乗る女性のブログ『Libya 360°』に出た
Abayomi Azikiwe という人の記事です。
http://libya360.wordpress.com/2013/12/16/mandela-mourned-by-millions-in-south-africa-and-around-the-world/
その中に、次のような文章があります。:
■ Upon arriving back in Zimbabwe after attending the December 10 memorial at FNB stadium and viewing the late leader lying in state, Mugabe told the Zimbabwe Herald newspaper that “I don’t know about any feud. If anything, there was an alliance. We worked very well with him when he came out of prison. We gave him support.” (December 11)
“We established the principle of national reconciliation (at independence in 1980), they took it over and used it as a basis to create what they have now as the Rainbow Nation. There was no feud, where was the feud, what feud?” Mugabe continued. ■
つまり、ムガベは、自分とマンデラとの間には何らのfeud(確執、反目)も無かったこと、黒人も白人も一緒に心を合わせて建国にあたる原理を打ち立てたのはジンバブエが先で、南アフリカもこの原理を採用して出発したのだと言っています。大統領を一期だけで辞めた(辞めさされた?)マンデラが何も出来なかった事に、ムガベはむしろ温かい理解を示しているように、私には思えます。
しかし、マンデラがどの時点で基幹産業や銀行の国営化と農地改革を(少なくとも建国にあたっては)行なわない決断を下したかという問題は避けて通れません。
藤永 茂 (2013年12月26日)
http://www.theguardian.com/world/blog/2013/dec/10/nelson-mandelas-memorial-service-live-updates
会場の大きなTVスクリーンには賓客たちの到着や着席後の様子が逐次映し出されていたようで、私にとって最も興味深かったのは、10:05am にジンバブエのムガベ大統領が会場に到着すると黒人大衆が歓呼を上げ、10:33am に自国南アのズマ大統領がスクリーンに現れると盛んなブーイングが起ったとガーディアンが報じていることです。この報道記事では12:16pm に前半の要約、2:16pm に後半の要約がなされていますが、それによると黒人大衆がムガベ大統領に与えた大きな歓呼とズマ大統領に示した敵意に満ちた反応とがとりわけ目立った現象だったようです。実際、ズマ大統領が12:50pm に壇上に立って講演を始めると大衆の多くが席を立って退場したようでした。別の報道によるとマンデラの追悼式典で一般民衆から最も盛んな cheers を受けたのはジンバブエのムガベ大統領だったとのことです。アフリカ大陸でいま生き残っている最も悪逆獰猛な独裁者として日本で知られているジンバブエのムガベ大統領を南アの一般黒人大衆が何故これほどまでに篤く歓迎したのか? そして、マンデラの追悼式を取り仕切る南アの現大統領ズマに対して南アの黒人たちが何故これほどまでにむき出しの敵意(hostility)を示したのか? 少なくとも私には、このハプニングが、数万人の南ア国民と約100の国や国際機関の首脳級が列席した空前の規模の追悼式典の最も注目すべき事件と思えました。何故ならば、一般黒人大衆のこの反応はマンデラ/ムベキ/ズマとつながるアフリカ民族会議 (ANC)が牛耳って来た南アフリカ政権の近未来の崩壊を示す予兆であるからです。
人種の隔離(アパルトヘイト)制度を敷いて南アフリカを支配して来た白人たち(ボーア人、英国人)は、1955年にANCが掲げた「自由憲章(Freedom Charter)」を思想的中核とする人種隔離反対運動の激しい盛り上がりに直面して現状維持の不可能性を悟り、マンデラを始めとするANC黒人指導者層の懐柔に乗り出します。懐柔策の根幹は、白人の言う通りになる黒人上層支配階級を育てて黒人による黒人支配のシステムを構築することにありました。そのプランの成功の目途がついた時点でマンデラは刑務所から釈放されたのでした。これは動かぬ事実だと思われます。前回のブログの最後のところで「直裁に言えば、覚書を真に受けた一般黒人大衆をネルソン・マンデラは完全に裏切ったことに他なりません。これをどう考えればよいのか? 次回に私の見解を述べることにします。」と書きましたが、その後また多数の報道記事や論考、記録映画の類いに接して、マンデラについての私の想いはなかなか収斂しません。落ち着いて考えてみたいのは、追悼式典で南アの黒人大衆から温かい歓呼で迎えられたムガベのマンデラに対する個人的感情です。ムガベは、内心では、マンデラを南アの黒人を裏切った変節者として見下し軽蔑していたのでしょうか。
農地改革を行なって白人から農地を取り戻したか否か、これがムガベとズマの決定的な違いです。南アの黒人大衆はそれを痛いほど心得ているのです。マンデラ/ムベキ/ズマの南アもムガベのジンバブエも、出発の時点では、白人の経済支配の継続を受け入れました。南アは事実上そのまま現在に至りましたが、ジンバブエは、1999年~2000年、その桎梏を振り払う行為に踏み切ったのでした。それ故にムガベは米欧にとって許しがたいバッドボーイになってしまいました。間もなく90歳、彼が世を去る日も近いでしょうが、彼の追悼式典に列席する米欧の貴紳名士たちはおそらく皆無でしょう。ムガベは何をしたか、それ故にどのような罵詈雑言を浴びせられたか、忘れてしまったか、あるいは、知らない方々が多いと思いますので、参考までに、私のこのブログの3年前(2010年12月22日付け)の記事『ジンバブエとムガベ』をここで再録します。:
********************
ジンバブエのことは2008年に5回続けて取り上げたことがありました。:?『ジンバブエをどう考えるか』(1)~(5)(2008年8月20日最終回)
?週刊朝日の7月18日号に「84歳の独裁者[ジンバブエ]ムガベ大統領の悪逆非道」という記事があるのを広告で見て、内容を読んだのがきっかけでした。内外多事多難の現在、殆どの方はアフリカの小失敗国家ジンバブエの事など忘れてしまったでしょうが、今度のウィキリークスで漏洩したアメリカの外交関係の秘密文書の中に、私としては見逃す事の出来ない事柄も含まれていました。アメリカの意向に従わない小国の独裁者を引き倒したいと考えた場合にアメリカがどのように振る舞うかを実証的に観察する貴重な機会の一つを、ジンバブエは提供していると私は考えます。他の類似例として、近過去にはユーゴースラビア、現時点では北朝鮮が考えられます。?[ 現時点(2013年12月25日)での補注:次の犠牲はリビアでした。今はシリアのアサド政権です。]
週刊朝日の「84歳の独裁者ジンバブエムガベ大統領の悪逆非道」という記事は、“肥沃な土地と豊富な資源で「アフリカのパンかご」と呼ばれた國を“くずかご”に転落させたのは、ムガベ大統領である。なぜ、「独立の英雄」は愚か者に堕落したのか”と、先ず、設問します。
?■(ムガベは)首相を経て、87年に大統領に就任。当初は農地や工場の急激な国有化を避けるなど白人社会との協調を基盤とした緩やかな社会主義による国づくりを進める一方、教育など福祉政策に力を注ぎ、識字率をアフリカ最高レベルの9割に導く“善政”を敷いた。?それが今はどうか。
? CIA(米中央情報局)発表などによると、ジンバブエのインフレは08年2月時点で16万%で紙幣は紙くず同然となり、失業率は80%(07年)。成人のHIV感染率は24・6%(01年)で、平均寿命は約39歳(08年)に過ぎない・・・・。生活苦から国民約1300万人のうち、約400万人が職を求めて、国外へ流出しているとされる。20年以上の(ムガベの)君臨が、「南部アフリカのオアシス」と言われた國を壊したのだ。■
? これで見ると、ムガベ大統領の初めの10年は模範的な善政、後の10年は典型的な暴政。この記事の読者は、ムガベの治世の中間点、つまり世紀の変わり目の2000年前後に、何か大変な事が起ったのではないか、転機となるような重大事態が生じたのではないか、と思うのが当然ではありますまいか。この記事の筆者中村裕氏は、(ムガベは)「なぜ変節したのか」と問い、ムガベ個人の変節として問題と捉えます。この問いに対して、アフリカ取材経験が豊富な朝日新聞元編集委員の松本仁一氏は「変節ではなく、もともと権力志向が強いのです。権力を維持するため、國を食いものにしてきた男です」と答えています。要するに、この記事のタイトル通り、「84歳の独裁者ムガベ大統領の悪逆非道」が「ジンバブエの悲劇」の理由であり、「なぜ、「独立の英雄」は愚か者に堕落したのか」という設問の答えは、「途中から堕落したのではない。もともと言語道断のひどい野郎だったのだ」となっているわけです。? ジンバブエの運命の転機となった重大事件は、2000年にムガベが断行した農地改革です。『ジンバブエをどう考えるか』(5)(2008年8月20日)に、私はこう書きました。:
?■1960年代、アフリカ大陸でヨーロッパ植民地が黒人の独立国家となる嵐が吹き荒れる中、英国植民地「南ローデシア」だけは、時代の流れに逆行して、1965年,アパルトヘイト政策を実施する白人支配国家として独立を宣言し、1970年には「ローデシア共和国」の国名を名乗りました。耕作に適した農地の80%を全人口の2%の白人地主が所有し、黒人の低賃金労働と機械化に依存する大規模農業が営まれていました。当然のことながら、黒人たちは黒人国としての独立運動に立ち上がり、紆余曲折のあと、1980年独立を果たして正式に「ジンバブエ」が誕生し、総選挙でムガベの社会主義的政党ZANU(Zimbabwe African National Union) が圧勝してムガベは首相になりました。人々の予想に反して、ムガベは黒人と白人の共存路線を選び、白人の農地を黒人に与える農地改革も7年間凍結する事とし、農業大臣や商工大臣には白人を起用して国家建設を進めたので欧米での評判は上乗でした。 上掲のムバコ大使の発言に描かれている通りです。しかし、1987年大統領となったムガベはZANU本来の“過激”な政策を強引に押し進めはじめます。1998年、マルクス主義者カビラのコンゴ政府が東の隣国ルワンダの侵攻を受けた時、カビラの要請で援軍を送ったのはその典型です。続く1999年、7年どころか20年間も手を付けなかった白人所有農地の黒人への分配を宣言し、2000年には強制接収を始めました。アングロ・アメリカ勢力がムガベのジンバブエつぶしの決心をした時点を1999年~2000年とすることに反対する国際関係史専門家は、もし彼らに学問的良心があるならば、一人もいないと私は考えます。■?
ロバート・ムガベは1924年2月生まれ、間もなく87歳の高齢、多くの人々が言うように、早く死んでしまった方がよいような人物かも知れません。しかし,この国の現状をもたらした諸々の政治的暴力について私たちの知識は余りにも浅薄です。公正健全な判断を下せる状態にはありません。それを意識するだけでも、虚偽に満ちたプロパガンダに引き回される確率を減らすことができます。? 2009年11月末、イギリスのサセックス大学の Institute for Development Studies という研究機関の所員のIan Scoones (白人)が他の共著者とともに、『Zimbabwe’s Land Reform Myths & Realities』という報告書を出版しました。それによると、2000年のジンバブエ農地改革は、世界のメディアが騒いだほど惨憺たる失敗ではなく、この10年間に見るべき実質的成果も上がっているということのようです。BBCテレビも一応は取り上げましたが、ジンバブエについての今までのマスメディアの姿勢から明らかなように、この出版物はほぼ無視されました。? マスコミに無視された出版物といえば、Gregory Elich という人の『Strange Liberators: Militarism, Mayhem, and the Pursuit of Profit』(“奇妙な解放者たち:軍国主義、意図的騒乱、利益追求”、2006年)にも、ジンバブエについて、既に、同様な観察がなされていたようです。この著者は筋金入りの反帝国主義論者のようですし、過激な主張も含まれているかも知れませんが、幾つかの詳しい書評から判断する限り、引用文献もしっかり充実していて,決して際物出版物ではないと思われます。この著者の最近の論考では、北朝鮮に対して、アメリカ政府はムガベのジンバブエに対するのと類似した行動を取っていることに対する危惧が述べられています。
藤永 茂 (2010年12月22日)
********************
上掲の記事を私が書いてからの3年間にはっきりした事は、アフリカ事情に詳しいジャーナリスト諸賢より市井の一老人の知見のほうが正しかったという事です。自慢しているのではありません。悲観しているのです。ジャーナリスト諸賢がジンバブエの関する事の真相を弁えてなかった筈はあり得ません。彼らは、3年前に、どのように報道発言をすればそれが権力機構に受け入れられる記事になるかを知っていただけのことです。しかし、その嘘偽りをフィードされた我ら大衆こそ好い面の皮、迷惑千万です。ですから、いま我々は、シリアにしろ、スーダンにしろ、またロシアや北朝鮮にしろ、マスメディアが我々にフィードしている情報は同種の嘘偽りに満ちているのではと、眉にしっかり唾をつけて彼らの報道や論説に接しなければなりません。
さて、前に掲げた設問であるムガベのマンデラに対する個人的感情の問題に一つの解答を与える報道に、私は偶然行き当たりました。犬も歩けば棒に当たる。それは、Alexandra Valiente と名乗る女性のブログ『Libya 360°』に出た
Abayomi Azikiwe という人の記事です。
http://libya360.wordpress.com/2013/12/16/mandela-mourned-by-millions-in-south-africa-and-around-the-world/
その中に、次のような文章があります。:
■ Upon arriving back in Zimbabwe after attending the December 10 memorial at FNB stadium and viewing the late leader lying in state, Mugabe told the Zimbabwe Herald newspaper that “I don’t know about any feud. If anything, there was an alliance. We worked very well with him when he came out of prison. We gave him support.” (December 11)
“We established the principle of national reconciliation (at independence in 1980), they took it over and used it as a basis to create what they have now as the Rainbow Nation. There was no feud, where was the feud, what feud?” Mugabe continued. ■
つまり、ムガベは、自分とマンデラとの間には何らのfeud(確執、反目)も無かったこと、黒人も白人も一緒に心を合わせて建国にあたる原理を打ち立てたのはジンバブエが先で、南アフリカもこの原理を採用して出発したのだと言っています。大統領を一期だけで辞めた(辞めさされた?)マンデラが何も出来なかった事に、ムガベはむしろ温かい理解を示しているように、私には思えます。
しかし、マンデラがどの時点で基幹産業や銀行の国営化と農地改革を(少なくとも建国にあたっては)行なわない決断を下したかという問題は避けて通れません。
藤永 茂 (2013年12月26日)