私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

カストロは生きていた

2012-10-31 10:59:06 | 日記・エッセイ・コラム
 キューバのフィデル・カストロは、2006年7月、急性の腸内出血で手術を受け、それを機会に国政を弟のラウルに譲りました。正式の権力委譲は2008年2月19日に行なわれましたが、手術を受けた頃からフィデル・カストロは引退を決心していたと思われます。『カストロの回想』と呼ばれる不定期の随想が発表され始めたのは2007年の9月です。英語版(Reflections of Castro)を読むのに便利なのは米国の伝統ある社会主義評論雑誌(Monthly Review)ですが、それをざっと眺めてみると、月平均で4,5回の頻度で続いていたようでした。

http://monthlyreview.org/castro/2012/10/22/fidel-castro-is-dying-by-fidel-castro/

 私がこのブログを書き始めたのが2006年2月、それから毎週水曜日に雑文の掲載を続けて来ました。『カストロの回想』に関連しても、「ものを考える一兵卒(a soldier of ideas )」という題で2回(2011年4月27日、5月4日)書きました。このタイトルは「I promised you that I would be a soldier of ideas, and I can still fulfill that duty.」というカストロ自身の言葉から来ています。
 ところが、『カストロの回想』が今年の6月19日付けの次のような短い文章を最後にプッツリ途絶えてしまいました。
The Universe and its Expansion
I respect all religions even though I do not profess them. Human beings, from the most ignorant to the wisest, are looking for an explanation for their own existence. Science is continuously trying to explain the laws that govern the universe. At this moment you can see it is expanding, a process that began approximately 13.7 billion years ago.?

『宇宙とその膨張』
私は信仰を持っていないが、しかし、すべての宗教を尊重する。人間は、最も無知な者から最も賢明な者まで、自らの存在の説明を求めるものだ。科学は宇宙を律する法則を説明しようと絶え間なく努力を続けている。現時点では、宇宙は膨張していることが分かっていて、この膨張の過程は約137億年前に始まった。■

これはカストロにしては奇妙な、意味深長な発言だと私は思いました。7月になり、8月、9月が過ぎ、10月も半ばになっても、何の音沙汰もなし。カストロは私と全く同じ86歳、とうとう彼も書く元気を失ってしまったのか、あるいは、書くことの空しさに行き当たったのか、あるいは、死の床にあるのか、・・と思いを回らしていた矢先の10月22日、『フィデル・カストロは死にかかっている』という見出しでカストロ自身の手になる文章が発表されました。それには彼の息子のアレックスが撮った写真が付加されていて、広いふちの麦わら帽をかぶったカストロ爺さんが何処かの農園で植物にさわっている様子が見えます。

http://www.granma.cu/ingles/cuba-i/22oct-fidel.html

 それによると、あるヴェネズエラ人の医師が明らかにしたニュースとしてスペインの新聞が「カストロは右の脳に重症の脳梗塞が生じて植物人間状態になった」と報じたので、こうした虚偽の報道はこれまで何度もあったことながら、カストロ自身がこのまことしやかな嘘に答えたということのようです。それにこの10月はいわゆる「キューバの核ミサイル危機」の50周年記念の月でもあり、この文章の後半にそれが言及されていますので、訳出します。

■ A few days ago, very close to the 50th anniversary of the October Crisis, news agencies pointed to three guilty parties: Kennedy, having recently become the leader of the empire, Khrushchev and Castro. Cuba did not have anything to do with nuclear weapons, nor with the unnecessary slaughter of Hiroshima and Nagasaki perpetrated by the president of the United States, Harry S. Truman, thus establishing the tyranny of nuclear weapons. Cuba was defending its right to independence and social justice.
When we accepted Soviet aid in weapons, oil, foodstuffs and other resources, it was to defend ourselves from yanki plans to invade our homeland, subjected to a dirty and bloody war which that capitalist country imposed on us from the very first months, which left thousands of Cubans dead and maimed.
When Khrushchev proposed the installation here of medium range missiles similar to those the United States had in Turkey ? far closer to the USSR than Cuba to the United States ? as a solidarity necessity, Cuba did not hesitate to agree to such a risk. Our conduct was ethically irreproachable. We will never apologize to anyone for what we did. The fact is that half a century has gone by, and here we still are with our heads held high.
I like to write and I am writing; I like to study and I am studying. There are many tasks in the area of knowledge. For example, never before have the sciences advanced at such an astounding speed.
I stopped publishing "Reflections" because it is definitely not my role to take up pages in our press, dedicated to other tasks which the country requires.
Birds of ill omen! I don’t even remember what a headache is. As evidence of what liars they are, I present them with the photos which accompany this article.

数日前、キューバ十月危機の50周年記念日が目の前に迫って、新聞雑誌が有罪三人組を指名した:米帝国の指導者に成りたてだったケネディ、フルシチョフ、そしてカストロ。キューバは核兵器とは、そして、広島と長崎での不必要な大虐殺とは何の関係もなかった。あの大虐殺はアメリカ合州国大統領ハリー・トゥルーマンの犯行であり、そうすることで核兵器の暴虐専制を確立した。キューバは独立と社会的正義の権利を守ろうとしたのだ。
我々が武器、石油、食糧その他の資源についてソビエトからの援助を受けたのは、わが祖国を侵略しようとするヤンキーたちの計画から我々を守るためだったのだ。わが祖国は独立の当初からあの資本主義国家に卑劣で血にまみれた戦争を押し付けられ、何千人ものキューバ人が殺されるか障害者となっていた。
フルシチョフが、連帯の必要性から、アメリカ合州国がトルコに既に配置していたものと同じような中距離ミサイルをキューバに配置することを提案して来た時、--- トルコからソビエト連邦への距離の方がキューバとアメリカ合州国との距離よりも遥かに近かった --- キューバはそのリスクに合意することをためらわなかった。我々の行為は倫理的に非難の余地のないものであった。我々は、誰に対しても、我々がしたことを決して謝らないであろう。それから半世紀が経った今、我々は誇りかに胸を張って依然としてここにある。
私は書くのが好きだし、書いてもいる;勉強するのも好きだし、勉強もしている。知識の分野では多数のやるべき仕事がある。例えば、諸々の科学がこれほど驚くべき速度で進歩したことはかってなかった。
私は“回想”を発表するのは止めにした。何故なら、この国が必要とする他の任務に貢献すべき我々の新聞の頁を占領するのは確かに私の役割ではないからだ。
私についての悪いニュースを流したい人々には申し訳ないが、私は頭痛とはどんなものだったかさえ憶えてないような有様だ。彼らがどんな嘘つきかを示す証拠として、この記事と一緒に写真もお目にかけよう。■

なにしろカストロが早く死ねばいいと願っている人々は沢山いるわけですから、上のカストロの自筆記事と写真のことは多くの新聞やネット上で取り上げられました。10月26日付けのFINANCIAL TIMES の記事もその一つですが、その陰にこもった意地の悪さも一読に値します。「フィデル・カストロは、今週、真に歴史的な(truly historic)ニュースを世界とキューバ人民に与えた。それは、彼が元気に生きているという事実ではなく、彼が脚光を浴びる場所から更に身を引くであろうという事だ」といった調子で始まり、写真のカストロが猫背で(stooped)杖をついているとわざわざコメントし、「ビデオを発表したかったのだろうが、彼はとても農場を歩き回れる状態ではない」と一外交官が言ったと書き添えてあります。意地悪はこれだけではありませんが、これ以上は取り上げる気になりません。私たちにとって、もっと大切なことは、これを機会に、50年前の1962年10月に起ったキューバ十月危機の本質を正しく理解することでしょう。危機の歴史的経過の細部は恐らく永久に不確定要素を含んだままに留まると思われますが、私たちにとって最も肝要なことははっきりしています。まず、1960年2月にキューバの革命政権の首相になったフィデル・カストロが開始した農地改革などの社会主義的政策をアメリカ政府は嫌悪して、1961年1月には国交を断絶し、カストロのキューバを侵略し崩壊させようとしていたことを明確に意識することです。1961年4月4日にはハバナの爆撃が行なわれ、17日には米国傭兵部隊が豚湾に上陸作戦を行ない、敗北を喫します。しかし、アメリカは次のキューバ再侵攻を直ちに立案していて、そのまま推移すればキューバ新政権が壊滅させられることは不可避であることを、カストロもフルシチョフも信じていたのです。これが1962年10月のキューバ・ミサイル危機に至る状況です。それに加えて、私たちが心得て置くべき事柄が二つあります。その一つは、アメリカは既にトルコに核弾頭ミサイルを配置して、ソ連本土を核で威嚇していたという事実です。核爆弾で脅しをかけたのは、アメリカの方が先だったのです。上のカストロの文章では、「フルシチョフが、連帯の必要性から、アメリカ合州国がトルコに既に配置していたものと同じような中距離ミサイルをキューバに配置することを提案して来た時、--- トルコからソビエト連邦への距離の方がキューバとアメリカ合州国との距離よりも遥かに近かった --- キューバはそのリスクに合意することをためらわなかった」と書いてあります。もう一つはアメリカが1903年以来キューバのグアンタナモ湾に軍事基地を置いたまま、今日まで、占領を続けていることです。アフガニスタンやイラクで逮捕された‘いわゆる’テロリストたちが強制収容され、人権を無視した取り扱いを受けていることで悪名高いグアンタナモ湾収容キャンプも米軍基地内にあります。
 私としては、一種の‘同病の相憐れみ’から、長い長い戦いを終えた一老兵としてのフィデル爺さんを、西欧のマスメディアよりは温かい目で見まもりたいと思います。長く続いた『カストロの回想』の最終回が上に全文訳出した『宇宙とその膨張』と題する宗教と自然科学についての想いであることも、私には他人事とは思えません。私も近頃しきりに“神”について考えますし、また、物理学教師として口に糊して来た身でありながら、この20年間ほどでの物理学の進展を良く理解していないので、対称性の破れとか「くりこみ」の考えとか、また、量子の法則から私たちの日常の巨視的世界がどうやって出てくるか等の問題を、せめて、大学院レベルまで良く勉強してから死にたいと思っています。おおまかに言って、フィデル・カストロと同じような心境なのかも知れません。

藤永 茂 (2012年10月31日)



ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(6)

2012-10-24 10:54:58 | 日記・エッセイ・コラム
<翻訳続き。最終回>

 米国指導者の犠牲になっている人々の苦難に、ノームが何故あれほどまでに心を砕くのか、私はその理由を探ってみたいと思うようになって行った。
 成人の我々の行動の大部分を解く鍵は、幼時に味わったトラウマ、特に人は死ぬということを知ることで受ける精神的な傷にあるとする心理学の分野に私はこの十年ほどはまっている。それで、この見地からノームを読み解いてみようと思うようになっていた。
 我々の生き方は、若年の頃に感情的な苦痛に対して作り上げた無意識な防御で動かされていることを学んでから、ノームを理解する鍵は、何らかの理由で、彼は世の中の苦痛に対して我々普通の人間より手薄の防御しか持っていないことにあるのは明らかだと私には思われた。彼は“皮膚”を持たないのだ。私がラオスに居た時にそうだったと同じように、彼はいつまで経っても“抹殺ご免の人々”の苦難に苦しめられ続けていて、年がら年中、その苦難を和らげようと働く。
 それを裏返せば、そうした人々と共にある時、彼は最も生き甲斐を感じているのであり、彼の内奥の感情が彼の知的仮面(ペルソナ)を突き破ってほとばしり出るのである。
 彼の家に世話になっていた間に、私は、世界で誰を最も尊敬するかとノームに聞いてみた。すると、コロンビアの奥地で熱帯雨林を開発搾取から守ろうと戦っている百姓たちを訪れた時のことを語り出した。ノームは数日間そこにいて百姓たちの大きな苦難と大きな勇気の話に耳を傾け、録音した。つい最近の訪問では、人々は丘の上に登り、シャーマンたちの指導の下で、一つの森をキャロル<訳注:ノーム・チョムスキーの妻。2008年没>に捧げるため複雑な儀式を行なったという。それを語るノーム、それほどまでに感動し、生き生きと感情をあらわにした彼を、40年前のラオス以来、ついぞ見たことがなかった。
 最近また私はラオスの難民キャンプでノームが泣いた時のことを思い出しながら、またまた、彼は何故あんなふうなのか、考え込んでしまった。彼の幼時かその後の人生にそれを説明出来るものがあるのだろうか?しかし、この線ではどうも埒があかないことが分かって来た。ノームは自分のプライベートなことには口が堅いばかりでなく、人間の行動の心理学的なあるいは宗教的な説明には特別興味を持っていない。心理療法が彼の知っている人たちに役に立っていることは認めたが、人間行動の説明を試みるとなると、結局は“お話”に過ぎないと彼は看做している。人間の理解のためには余りに多数の変数が関わっていて、人間の頭脳がそれをうまくこなすのは無理だと彼は信じている。科学的に信用のおける、統御された実験などとても実行できないとも彼は考えているのだろう。
 その上、察するに、多数の人々が現に苦難に苛まれていて、彼らを救う唯一の希望は集団的運動を立ち上げることにある時、そうした心理学的“お話”に血道をあげるのはお門違いだと、彼は考えているのだ。もし彼以外の十分の数の我々が、この40年間に米国指導者たちが無辜の人々を殺戮し搾取するのを止めさせるために、ノームと同じように努力していたならば、結局は、無数の人々が救われ、そして、アメリカも世界も遥かに豊かな、もっと平和で、もっと公平になっていたばかりでなく、世界が、気候変動の故に、我々の知る文明の崩壊に向かって突き進んでいる現状も生じなかっただろう。ノームは、この現状の大きな責任は気候変動を“外在性”の問題---つまり、誰か他人が思い悩むべき問題---と看做す短期的考慮に駆動された企業システムにあると考えている。
 しかしまた、もちろん私も含めてのことだが、十分に多くの我々が不気味に迫り来るこの文明の死に適切に対処して来なかったことにも大きな問題があることも明白だ。
 かくて私は最終的に思い至ったのだが、重要な問題は、この地球上の無辜の人々の苦難に対して、何故ノームがあのように応答しているかにあったのではなく、何故、彼以外の我々の余りにも多くが、彼のように応答しないかということにあったのである。(翻訳おわり)

<訳注>6回にわたってこの翻訳を続けていた間に、私が強い関心を持ち続けている事項について、いろいろ重大な事件が起こっています。コンゴ/ルワンダ、リビア、ハイチ、・・・ 。次回から、また、こうした話題に戻ります。しかし、詰まる所、私の関心は圧倒的に米国という国にあります。米国が私の最大最重要の関心事です。単なる政治的あるいは文化的関心などというものではありません。もう終りの時が近い私の全存在に関わる問題です。私もその一員である人間、あるいは人類というものが、こういうものであったのかと、今になって、思い知るのは大変辛いことです。ノーム・チョムスキーと私の最もはっきりした違いは、私がその辛さを個人的な幻滅と悲惨として閉鎖的に受け取るだけであるのに、チョムスキーは断じて絶望の中に身を沈めることなく、自国アメリカの世界全体にわたる暴虐に対する戦いを、過去四十数年間、絶え間なく続けていることにあります。
 チョムスキーは間もなく84歳(1928年12月7日生)、この10月20日、21日にガザのイスラム大学で開催された応用言語学と文学の国際会議(The 1st International Conference on Applied Linguistics and Literature)で基調講演を行ないました。出席者は、パレスチナ内から15人、国外から24人。2010年に、チョムスキーはパレスチナ人の大学で講演を行うためにヨルダン側からウエスト・バンクに入ろうとしましたが、イスラエルはそれを許しませんでした。今回はエジプト側からエジプト政府の許可のもとにガザ地区に入りました。彼のパレスチナ入りは初めてのことであり、パレスチナ人たちにとって大きな喜びであったと思われます。このニュースに関する記事の三つ(1)(2)(3)を以下に引いておきます。

(1) Chomsky Tells Israel from Gaza: "End the Blockade"
http://www.commondreams.org/headline/2012/10/19-6
(2) Chomsky is in Gaza
by Annie Robbins on October 20, 2012
http://mondoweiss.net/2012/10/chomsky-is-in-gaza.html
この中にはPRESS TV による3分足らずの動画があり、会場の様子を見ることが出来ます。大学生と思われる若い人々も沢山居ます。
(3) Reflections on Noam Chomsky’s visit to Gaza
Submitted by Rana Baker on Mon, 10/22/2012 - 00:21
http://mondoweiss.net/2012/10/chomsky-is-in-gaza.html

(1)と(2)の記事に寄せられた多数のコメントも極めて興味深いものです。チョムスキーに対する批判の声もありますが、老体に鞭打つ彼の勇気ある行動への感謝と賛同の発言が圧倒的です。

藤永 茂 (2012年10月24日)


ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(5)

2012-10-17 11:08:22 | インポート
<翻訳つづき>
 ノームは米国の戦争行為をサポートしていると彼が思う人たちに手厳しいことがあるが、それにも増して、彼は自分に対して手厳しい。私は、ノームと私の共通の友人で生涯かけて政治活動に携ってきた人物に、一生を振り返って何か後悔することがあるかと聞いてみたことがあったが、その友人からは、家族と一緒にもっと多くの時間を費やし、政治以外の関心事もいろいろ追求してみたかったという答えが返ってきた。ある時、私はその話をノームにして、“君はそうした後悔があるかね?”と聞いた。彼の答えは私を驚かせた。私に向けてというより、自らにつぶやくように“もっと十分にやりたかった”と彼は言った。
 また別の時には、ノームがこれまで沢山の本を書き、言語学の新しい分野の基礎を置いて世界中に影響を及ぼしてきたことから、どれ位の満足感を得てきたかをノームに質してみた。“何も”と彼は暗い表情で答えた。米国の指導者たちが世界中の“”たちをどんなに酷く残忍に取り扱ってきたか、その深刻さを理解するように十分多くの人々を仕向けることが出来なかったと感じるからだ、と彼は説明した。例えば、米国指導者たちが何十万という無辜の人民を殺害し、南ベトナム人社会が過去から継承してきた土台そのものを如何にして破壊してきたか、また、インドシナでは、実のところ、米国のそれに代わる経済的社会的モデルの可能性の芽生えを破壊し尽くすことで米国は勝利を収めた事を、大多数のアメリカ人が理解しなかったことにノームは挫折感を味わったのであった。
<訳注:上の文意の理解には、Sukarno とSuharto の関係などを知る必要あり>
 ある夜、ノームの家で私にあてがわれた寝室に行く階段を昇っていると彼の書斎の中が見えた。彼はコンピューターの前の大きな事務用椅子に腰を下ろして仕事をしていたが、その彼の姿が、瞑想中の仏教僧侶にまるでそっくりのように見えたのだ。そして、その瞬間、はっとした。“ノームは、私がベトナム戦争中の比較的短い期間だけ生きていたのと同じ具合に、この40年間を一貫して生きて来た。彼は、絶え間なく、読み、書き、人に説いて、米国の殺戮行為を阻止し、世界が‘抹殺ご免の人々’の惨状に目を向けるように仕向けることに、一分たりとも空費せず、全力を傾けて来た”ことを、私は突如として悟ったのであった。
 そして、その時、私はノームに対して大いなる愛を経験したと、何の気恥ずかしさもなしに言いたい。私の心の目が見たのだ。“マハタマ”ガンジーのことを読んで以来、私が記憶する限りにおいて、私は、ずっと、“偉大なる魂(Great Soul)”という言葉の本当に意味する所を思いあぐねていたのだが、その瞬間、私は遂にその意味を掴んだ。もし、“偉大なる魂”であることが、声なき人々の人間的苦悩に全面的に呼応してそれを和らげることに全身全霊を注ぎ込むことを意味するならば、私は偉大な魂の一つに遂に遭遇したのであった。
 ユダヤの伝統では、それを“三十六人の義人(The thirty-six just men)”の伝説として、一種ことなる趣が与えられる。彼らは?自らそうとは知らないままに?その時々に人類の安寧を守るという。もしノームがその三十六人の義人の一人でないとすれば、一体だれが義人であり得ようか? 同時にまた、ノームをエイモスやジェレマイアのような旧約聖書の中の誉れ高い預言者たちに比した多くの人たちを私は思い出していた。エイモスやジェレマイアは、彼らの時代の、今は名も忘れられた腐敗した支配者どもを激しく糾弾したのであった。
 この40年間に、結構まともな人々がノームの取った立場の幾つかに異議を唱えたことはあったのだが、階段の途中で書斎のノームの姿を見た途端に、そんな論争は、彼と彼が体現するものの尊さを認めることに何の関係もないと私は感得した。私や、知人の殆どが、過去何十年かの米国の戦争行為の犠牲者たちの悲鳴を途切れ途切れにしか聞いていない間、ノームはその悲痛な叫びに耳を塞ぐことが出来ずに聞き続けているのであった。
 私がノームの家に泊っていた時に、有名なインド人作家アルンダーティ・ロイがノームを訪ねて来た。彼女は、世界の多数の非アメリカ人と同じく、彼に対して絶大な尊敬と賛嘆と愛を抱いていることが私には明らかに感じられたが、彼女にとってノームが何を意味しているかを理解したのは、彼女の本の一章“ノーム・チョムスキーの孤独”から彼女の言葉の数々を読んだ時だった。:“チョムスキーはアメリカの戦争機構の冷酷非情な心臓を白日の下にさらす。・・・それは何百万もの人間たち、市民、兵隊、女、子供、村落、森林山野の全体を破壊してやまない?それも科学的に磨き上げた残酷な方法で。・・・このアメリカ帝国が落日を迎える時、その時は必ず来るし、来なければならないが、その時、ノーム・チョムスキーの仕事は必ず生き残るに違いない。・・・ 私もグークでありえたし、いつグークと呼ばれても不思議でないが、あれこれの理由から、私が心の中で‘Chomsky Zindabad (チョムスキー万歳)’と思わない日は殆どない。”(続く)

<訳注> 私は「三十六人の義人」の伝説を知って、大変興味深く思いました。
ネット上に簡潔な説明がありますので、興味のある方は是非読んでみて下さい。

THE THIRTY-SIX JUST MEN
http://www.dozenalsociety.org.uk/metrix/justmen.html

説明の始めと終りの部分をざっと訳出します。「イスラム、ユダヤ、ペルシャの書き物の中に言及されている古い言い伝えがある。この世界は、それぞれの世代に少数の義人たちが居ることによって、愚行と邪悪さの中に水没することから免れているのであり、彼らが、その振る舞いと善き行いを通して、世の人々の安寧と生存を確保しているのである。彼らは目立つことなく機能しているのであって、滅多に他の人々は、また自分たちさえ、その事に気付いていない。・・・・・この伝承の詳細や起源がどうであれ、真理の響きを持った良い話だ。この世界は極めて少数の普通の人々によって維持されていて、その人々は、何の報償や栄誉も求めず、危急の時に彼らの日常の仕事を黙々と行い、正気と連続性のオアシスを提供する。・・・・・」これを読みながら、私はアメリカの作家ヘンリー・ミラーの一作品『冷房装置の悪夢(The Air-Conditioned Nightmare)』を思い出しました。これは実に卓抜な「アメリカ論」であって、こういう本を読むと優れた小説家たちに対する私の尊敬の念は深まるばかりです。この本の冒頭に、ヴィヴェカナンダ師(Swami Vivekananda)の言葉として次のようなことが書いてあります。:
「この世のもっとも偉大なる人々は、無名のまま消えていった。われわれのしっている仏陀やキリストのごとき聖人も、世人が何も知らぬそれらの偉大なる人々にくらべるなら、二流の英雄に過ぎない。これら凡百の無名の英雄たちは、いずれの国においても、黙々と働いて一生を終っている。黙々として生き、黙々として消え去ってゆく。そして、やがて彼らの思想が、幾人かの仏陀やキリストのなかにあらわれてくる。われわれに知られるようになるのは、この後者の人々なのである。至高の人々は、自分の知識から虚名や名声を得ることを求めない。彼らは自己の観念を世に残すのである。なんらおのれの要求をなさず、自己の名で学校や機関を設立することもしない。彼らのもって生まれた天性のすべてが、そのようなことから彼らを尻ごみさせるのである。」(大久保康雄訳、1967年)
原文の“establish no schools or systems in their name” は「自分の名で学派や組織を設立することもしない」と訳してもよいでしょう。ヴィヴェカナンダが言っていることは、三十六人の義人の話と同じことです。私たちも、胸に手をあてて、反省、自戒してみなければなりません。
 私の年代の人間は“gook”という言葉を、まず、米国がとことん痛めつけたベトナムの人々に向けた軽蔑語として学んだ筈です。その語意を大きな辞書で調べてみると、実にひどい言葉であることが分かります。(訳注おわり)

藤永 茂 (2012年10月17日)



ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(4)

2012-10-10 11:05:49 | 日記・エッセイ・コラム
<翻訳つづき>
 近年は、おもにイーメールで私はノームと常々連絡を取り続けている。2010年4月3日のハワード・ジンの追悼式出席に先立つ10日間、私は彼の家に泊めてもらった。それは我々の双方に、特にハワードと強い絆で結ばれていたノームにとって、深い感情的経験の日々であった。この訪問は私の心にとりわけ深い印象を残した。
 40年前とまるで変わっていないノームがそこに居た。世間話には興味なし。自己軽視。米国の知識人やジャーナリストが、相も変わらず、米国指導者たちの戦争犯罪の告発に立ち上がらないことに対する怒り。現代の重大な道義的問題への没頭。ケンブリッジの集会に出席した私を車で迎えにきてくれて、帰りの道すがらスーパーに立ち寄って、家での我らの食事のために買い物をする気さくな男。
 私は、ノームが米国指導者の罪業ばかりを取り上げて他の国々の指導者たちを非難しないとして常々批判を受けていることに就いてどう感じているかとノームに聞いてみた。彼は、自分は米国市民であり、そして米国の指導者たちは、第二次大戦終戦後、他のいかなる国の指導者たちより遥かに多く国外での戦争犯罪を犯しているのだから、こうやるのが当然の事だと感じていると答えた。私も同意見だったし、外国の指導者たちを非難する著名な知識人やジャーナリストが多数いるのに、我が国の指導者が犯してきた戦争犯罪を批判する者は殆どいないことに気が付いた。
 また、40年前と変わりのない仮借なき彼の仕事ぶりは何にも増して私の心を打った。彼はその時間の殆どすべてを、読書、執筆、面接あるいは電話でのインタビュー、また講演に費やしていた。そして、これがとりわけ彼の心の広さの表れだが、ひっきりなしに送られて来るイーメールの流れに、しばしば一日数時間を費やして答え続けていた。
 その上に、彼は国内国外のあらゆる所で講演活動を続けていて、数年先まで予定が一杯という有様なのだ。82歳でこのスケヂュール、40歳若い人でも圧倒されてしまうだろう。
 彼のひどくつつましい生活にも私は感銘した。電話をかけた時に気が付いたのだが、彼は40年前と同じ電話番号で同じ質素な郊外住宅に住んでいた。ジーンズを着て、食べ物や物質的な持ち物には何の興味も持っていない。友人たちや家族的な来訪者はあるが、その他には、彼は何のレジャーの楽しみごとも持っていない。
 特別の感動を味わった夜もあった。米国指導者たちが、全世界にわたって、罪のない人々の殺戮を続けていることについて、ノームが知っていることと一般の世人が知っていることの間の気の遠くなるような距離を、いつもながら、思っていると、突然、オーウェルの小説“1984”の主人公ウィンストン・スミスに私の思いが飛んだのだ。ウィンストンはまわりの社会を変える望みをほとんど失い、ただ、自分の気が狂わないようにすることと、真実を書き留めて後世の人々への形見とすることに努力を集中する。私にとって今の君はウィンストン・スミスだ?と私はノームに言ってしまった。
 彼の反応を私はいつまでも忘れないだろう。彼はじっと私を見つめて、悲しげに微笑しただけであった。(続く)

<訳注>チョムスキー一家が半世紀の間同じ家に住み、同じ電話番号を使っていたと聞いても、特別驚かない読者も多いことでしょう。ここで私の経験したことを少しお話ししましょう。
 1968年カナダのアルバータ州の州都エドモントン市に一家4人で移住した私どもは、はじめの2年ほどアパート住まいをした後、市の郊外に手頃な一戸建てを見つけて銀行から金を借りて入居しました。右隣りは板金工(sheet metal workers)組合の組合長さん、左隣りは大工の棟梁さんで、両方ともウクライナ人、若い人の出入りも多く、私どもにも親切な人たちでした。私は息子二人が大学に進んで家を離れた後も同じ家に住み続け、年を取って芝生の刈り込みや家の前の除雪作業が辛くなってからコンドミニアム(日本のマンション)に夫婦で移りました。その引っ越しの少し前に、結婚したばかりの若い中国人の男性と住宅の事で話したことがあり、彼は私が長い間同じ家に住み続けていることを不思議に思ったらしく「私の兄も大学で教授をしていますが、就職以来もう三回も家を変えて、今ではサスカチュアン・ドライブ(大学に近い高級住宅地区)に住んでいます。」と申しました。カナダの人々、とりわけ向上心の強い中国人たちは、社会的地位が上がり、収入が増加するにつれて、それ相応の住宅地区の家に移り住むのが普通なのでした。住居は一つの重要な status symbol(身分の象徴)です。勿論、チョムスキーと私では話が違います。私は甲斐性のない怠け者であったに過ぎませんが、チョムスキーは、そんなステータス・シンボルなど全く眼中になかったに違いありません。

藤永 茂 (2012年10月10日)



ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(3)

2012-10-03 10:02:00 | 日記・エッセイ・コラム
<翻訳つづき>
 ノームの反応が私の心を打った理由の一つは、彼がこれらのラオス人を知らなかったことだ。ラオス人の中で暮し、ポー・スウのような人々を心から愛していた私には、ラオス爆撃を止めなければと懸命になるのはまあ容易なことだった。しかし、ノームだけでなく、何千ものアメリカ人たちが、その人生の多くの年月を費やして、目撃したこともない戦争で見ず知らずのインドシナ人たちが殺されることを何とか止めようとしたことに、私は畏敬の念を抱いたものだった。
 あの日、難民キャンプからの帰りの車の中で、彼はその日知ったことの衝撃から抜け切らず、黙り込んでいた。それまでにも彼はインドシナでのアメリカの戦争行為について広範に書いていたが、今度はじめて彼はその戦争の犠牲者とじかに向い合ったのだ。そして、その沈黙の中で、今日まで一度も言葉にしたことのない暗黙の絆が我々二人の間に出来上がったのだった。
 いま私の人生を振り返ってみると、あの時期の私は、それ以前、それ以後の私より立派な人間だったと思う。そしてまた、あの頃は彼と私は同じ思いから出発していた:これらの何の罪もない、温和な、親切な人々の?そして彼らと同じような他の無数の人々の、全く理不尽な受難にくらべれば、ほかの事はすべて取るに足らない事に思えたのだ。これらの無辜の人々が殺され続けていることを知ったからには、彼らの命を救おうとせずに何か他の事にたずさわる自分をどうして正当化出来ようか?
 そして、事実と理詰めの論陣を張るインテリの中のインテリという外向きの彼の顔の下に深い人間的感情が息づいていることを、私は、帰る車中の沈黙の中ではっきりと悟ったのだった。 ノームにとって、会って来たラオスの農民たちは、名前も顔も夢も備えた人々、その彼らをまるで無造作に殺しまくる人間たちに何ら劣らない生きる権利を持った人々であった。しかし、アメリカ国内のアメリカ人は言うに及ばず、訪れて来るジャーナリストたちの多くにとってさえ、これらのラオスの村民たちは、その命など何の意味もない、顔なしの“抹殺御免の民(unpeople)”に過ぎなかった。 
 私がアメリカに帰ってから、ノームと私は戦争が終わるまで度々接触を続けた。彼の書いたものを読み、戦争の惨禍とそれを生み出すシステムの両方について,彼ほど詳細に、理詰めに、そして実に深い理解をもって書いている者はないことを知って、ますますノームに敬服した。しかし、それにも増して彼と彼の友人のボストン大学のハワード・ジンに就いて感銘を受けたのは、彼らが、執筆と講演の活動を越えて、戦争反対のデモのラインに身を挺して参加したことであった。
 ノームとハワードは、数千人が逮捕されたあのメーデーのデモの間、私の“絆グループ”に参加していたし、ワシントンD.C. で行なった奴隷制賠償市民非服従運動中には、監獄で隣り合わせの独房に入れられた。ノームはまた「抵抗」というグループの指導者の一人で、ベトナム戦争の徴兵と課税に反対して、もしテト攻勢が起らなかったら、起訴されていたに違いない。彼は、我々の殆どが戦争のことなど聞いたこともなかった1963年頃から、早くもベトナム戦争反対の叫びを上げていた。そして、彼は度々の殺しの脅迫状やいろいろな困難を身に浴びたから、とうとう彼の妻のキャロルは、ノームにもしもの事があって彼が三人の子供を養育出来なくなった時のことを考えて、何か職業を身につけようと学校に戻ったほどであった。
 ベトナム戦争が終った時、私は運命的な決断をした。アメリカの指導者たちが起しつつあった次の一連の恐るべき行為に反対を続けるというよりも、戦争に反対し、社会正義を促進するような新世代の指導者の育成を国内的に進めて、現指導者層と交替させる努力をしようと決心した。それからの15年間、私は、経済的民主主義草の根運動のトム・ヘイデンと共に、カリフォルニア州知事ジェリー・ブラウンの閣僚級役員の一人として、ゲリー・ハートのシンク・タンクで『アメリカ再建』の指揮を取り、多くの産業経済界のトップの進言を受けながら、アメリカの国内政治と政策に私の時間を費やした。
 この期間中、私はたまにしかノームと接触しなかった。我々の関心事が分離してしまったせいもあった。彼は、東チモールに対するアメリカの残忍凶悪な政策、中米でのレーガンのテロ戦争、クリントンのハイチや第三世界向けの破滅的な経済政策とコソボ爆撃などを人々の目に晒し、それに反対するために、論考や本を矢継早に発表し、しきりに講演を行なっていた。そして彼が最も強く情熱を注いでいると思われたのは、イスラエルのパレスチナ人虐待をアメリカが後援しているという問題であった。彼のこうした関心事は、太陽エネルギーとか国家的経済戦略の発展などといった選挙政治や国内問題に焦点を置いた私の関心事とは遠く離れていた。
 しかしながら、いま振り返ってみると、殆ど意識していなかった要因が働いていたのだと思う。彼が、私のことを、人命を救う努力を放棄して妥協的で腐敗した政治機構のなかに入った不道徳な奴だと看做しているだろうと思い込んだから、私は ノームを避けるようになってしまったのだ。しばしば、頭の中で、私がやっていることを正当化しようとして自己弁護的な会話を彼と交わしている自分に気が付いてはっとした。しかしその弁解は、私が関係していた選挙運動的努力がうまく行かなくなるにつれてますます困難になり、ベトナム戦争中より遥かに自己中心的になってしまった自分に気付かされた。
 十年以上もたってから、ボストンに行く機会があり、市内からノームに電話した。彼は温かく私を彼の家に招いてくれた。しばらくは無駄話をしていたが、ややあってから、私が選挙政治の世界に入ってしまったことをどう思っているか、思い切って聞いてみた。また、以前は進歩派で今は大銀行で仕事をしている人物と同じホテルに私は泊っていて、その朝、彼は、ノームに会えば怪しからんと責められるだろうから会いたくない、と言っていたことも話した。ノームは私の話にしんそこショックを受けたようだった。“何だって!誰もみんな妥協して生きているじゃないか”とノームは言った。“私を見てごらん。私はMITで働いている。MITは国防省から何百万もの金を貰っているのだよ。” 私の友人や私が、自分たちのやっていることの故にノームが我々を誹謗するだろうと考えたことに、ノームは本当に困惑し、傷ついた様子だった。(続く)

藤永 茂 (2012年10月3日)