私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

映画『ダーウィンの悪夢』

2007-01-31 16:46:35 | 日記・エッセイ・コラム
 この長編ドキュメンタリー映画が2004年ベニス国際映画祭で受賞した直後に、カナダのアルバータ大学の学生新聞でこの映画を絶賛する記事を読みました。大いに興味をそそられたのですが、機会を得ず、先週やっと福岡で観ることができました。チラシには「世界中に衝撃を与えた傑作ドキュメンタリー」とか「一匹の魚から始まる悪夢のグローバリゼーション」といった文章が並んでいましたが、私は何もショックを受けませんでした。ただ無性に悲しい気持になっただけでした。学生新聞の記事から得た予備知識と、それが準備した予想が私の中で待ち構えていたからかも知れませんが、とにかく、<デジャ・ビュ>という感じしか持たなかったのです。これは、アフリカの地で、遠い昔から執拗に繰り返されてきた old story の一つじゃないか-これが私の偽らざる感想でした。植民地主義がアフリカにもたらし続けてきた惨状の反復性、その歴史的一貫性を確認しただけのことであったのです。皮相的には目新しい話題はあるにしても(例えばAIDSとかドラッグとか)、本質的にはこれは a new story ではなく、an old story なのです。この映画の制作を助けた Nick Flynn という人も「It’s an old story」と言っています。フリートレード、グローバリゼーション、ネオリベラリズム、WTO,などなどと現代のキャッチフレーズを振り回す必要はありません。新しいことと言えば、今や人間をめぐる危機情況がグローバルであり、解決の方途を模索する時間的余裕は急速に無くなりつつあるという一点にあります。
 映画を観ていない人々のために内容の一部を紹介します。タンザニアはコンゴの東にあり、インド洋に面し、内陸ではビクトリア湖の南部を囲んでいます。大英帝国最盛期の女王の名を冠したこの湖はアフリカ最大の淡水湖(世界ではバイカル湖に次いで第二位)で琵琶湖の100倍の大きさがあります。タンザニアがまだ英国の植民地だった1954年、商業目的でナイルパーチという外来魚が放流されました。このスズキ目に属する白身の魚は体長2メートル重さ200キロにも成長する巨大な肉食魚で、400キロのものが捕れたこともあるそうです。ビクトリア湖の在来魚は殆どが草食魚で、ビクトリア湖の周辺の住民は、昔から地産地消の漁業を営み、男たちは小舟で沖に出て、水揚げした魚は女たちが近郷に売りさばいていました。生きる糧はビクトリア湖が与えてくれていたのです。ところが、導入されたナイルパーチは在来魚を大量に食べて数を増し、1980年代に入ると急増に転じ、ビクトリア湖の漁業の性格が一変してしまいます。漁船も漁法も大規模化し、良質のタンパク源食品としてヨーロッパや日本などアフリカ外の世界市場へ輸出するための加工工場が湖の周辺で続々と操業を始め、映画の舞台になったムワンザ市だけでも10以上を数えるようになりました。そこでは大きなナイルパーチが流れ作業で三枚におろされ、骨のない切れ身部分( fillet)が発泡スチロールの箱に詰められ、大型の輸送機で国外に空輸されます。ビクトリア湖を囲むタンザニア、ケニヤ、ウガンダの三国から運び出される量は1日500トン、1年20万トンにのぼるとされていますが、正確には分かりません。ムワンザ郊外の形ばかりの空港からだけでも積荷50トンのロシヤ製の大型輸送機が1日2便運航され、1日100トンが運び去られています。
 インターネットの「livedoor デパート」でナイルパーチ(スズキ)の切り身が1キロ1680円で売り出されています。末端卸し価格1キロ千円として、ムワンザの草空港から毎日1億円のナイルパーチが飛び立つ勘定です。これは荒い見積もりであり、タンザニア全体としてのナイルパーチ加工輸出産業のあげている利潤の総額を知りたいものですが、一般の住民の収入水準から見て巨大な額であることは明白です。問題はその何パーセントが現地に残るかということです。この映画で取材されているムワンザのナイルパーチ加工工場の持ち主の言う所では、彼がナイルパーチから得た儲けを現地で投資する気は全然なく、もっと安全な投資先、例えばカナダのホテル経営などへの投資をしているようです。ビクトリア湖周辺にナイルパーチ漁業、加工輸出産業が出現したことで、あたりの住民が数千人雇用されたのは事実ですが、それはごく限られたプラス効果であって、地産地消の漁業形態は無残にも破壊されて土地の人々の生活は急激に悪化し、その一割が飢餓線上をさまようことになったという事実に否定の余地は無いようです。その惨状は映画で容赦なく描かれています。
 この映画とそれが私たちに問いかけてくる問題については、日本でも、単行本を含めて盛んに議論されているようですが、私としては、これは新しい話ではなく、百年、いや、二百年をもさかのぼれるold story であり、またナイルパーチという怪物的な巨大淡水魚という天然資源に限られる話でもないことを強調したいのです。この映画の監督フーベルト・ザウパーは「同じ内容の映画をシエラレオネでも作ることが出来る。魚をダイヤに変えるだけだ。ホンジュラスならバナナに、リビア、ナイジェリア、アンゴラだったら原油にすればよい」と言ったそうですが、まさにその通りで、このザウパーの言葉を正確に、そして歴史的、経時的に理解することが私たちに求められているのです。
 遠いビクトリア湖のナイルパーチが日本の弁当産業や給食産業をうるおしたから、これはグローバリゼーション現象だなどと騒ぐこともありません。コンラッドの『闇の奥』の始めの所にドミノゲームのこと、終りの所にはグランドピアノが出てきますが、これはドミノ牌やピアノの鍵盤の需要で象牙の値段があがったことを暗示するためです。これに加えて日本では印章用にも象牙が求められて来ました。またレオポルド二世の悪業の中核を成すコンゴの密林からのゴム原料の収奪にしても、1909年には早くも住友ゴム工業の前身のタイヤ製造会社が日本で操業を開始しています。ナイルパーチが白身の魚のフライとして日本のお弁当の中に現われたのが「グローバリゼーション」だと騒ぐのなら、同じことが百年前に起っていたことに思いを馳せて下さい。このブログの読者の中にはUnited Fruit Company というアメリカの会社の名を御存知でない方もおありでしょう。1899年の昔に設立されたこの恐るべき会社のことをWikipedia などのサイトで是非読んでほしいと思います。
 「フリートレード」についても同じことです。拙著『闇の奥の奥』にも書きましたように、これも百年前のコンラッドの時代に既に国際的なキャッチフレーズであったのです。拙著から2カ所引用します:
「 ベルギー語(フランス語)の原名は「コンゴ独立国」だが、英語圏ではもっぱら「コンゴ自由国」と呼ばれる。国名としてこれほど人を馬鹿にしたものは他にないだろう。この國の富(それは住民を含む!)は自由にむしり取ってよろしいというのが、その本当の意味であったのだから。14カ国が参加したベルリン会議の約定によれば、コンゴ自由国ではすべての國に完全な自由貿易が保証され、一つの国による独占交易は許されないことになっていた。これが「自由」の意味であり、そこに住む原住民の人間的自由とは何の関係もなかった。始めからそのようなものの存在すら考慮に入れられてなかったのだ。以前にはコンゴ河の河口に張り付いて内陸から奴隷を吸い出していた吸血鬼が、今や河をつたって内陸部に侵入し、原住民を現地で奴隷化して労働を強制し、象牙、ゴム、椰子油、鉱産物を持ち出す“自由”貿易を始めたのである。」(p69)
「彼女の考え方の第一の重要点は、アフリカの黒人を積極的に人間として認める立場にあり、第二の点は、キリスト教の押しつけではなく、自由貿易(フリー・トレード)に黒人たちを主体的に参加させることが彼らの生活情況の真の改善をもたらすであろうという主張だった。この主張の革命性はいくら強調しても過ぎることはない。自由貿易とは、何よりも先ず、物資の生産者がその物資の価格のコントロールを持ち、最も望ましい買い手を選ぶ自由が保証されることであるとメアリー・キングスリーは考えたのである。いま米国大資本主導の“貿易自由化”の波が全世界を被っているが、この200年間、アフリカの黒人には一度たりともメアリー・キングスリーが主張した意味での貿易の自由が与えられたことはなく、現在も与えられてはいない。」(p101)
上で「彼女」とはコンラッドその人もその著作に魅せられた素晴らしい女傑メアリー・キングスリー(1862-1900)を意味します。
 ナイルパーチ加工輸出産業の場合にも、タンザニアのキクウェテ大統領が如何に映画『ダーウィンの悪夢』の事実歪曲に対して抗弁しても、キングスリーの意味での自由貿易が成立していないことを否定することは出来ますまい。それは世界銀行や世界貿易機関(WTO)を動かしている人々が誰よりもよくわきまえているに違いありません。
 この映画の重要な問題提起の一つにアフリカへの武器搬入の問題がありますが、これも、私には、old storyに思えます。これについては又次回に。

藤永 茂 (2007年1月31日)


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Another Bloody (or Thoroughgoing ) Racist?

2007-01-24 11:10:32 | 日記・エッセイ・コラム
 昨年は政治思想家ハンナ・アーレント(1906-1975)生誕百年に当り、昨今、アーレント関係の出版物や学会が賑わいを見せているようです。その主著「The Origins of Totalitarianism 」(初版1953年)は彼女の名を不朽にした20世紀の名著の一冊とされています。
 人種差別の思想( racism )はこの著作の中で中心的な役割を担っています。アーレントはレイシズムを「帝国主義のための思想的武器」と位置づけ、その具体的発祥を、南アフリカに移住してその地で生活を続けたボーア人たちの現地体験に求めます。 このことの理論的是非を本格的に論ずることは私の手に余ることですが、アーレントの思考がコンラッドの小説から受けた明白で深甚な影響に就いて、何故、これまでコンラッド専門家たちが,私の知る限り、殆ど論じて来なかったのか、私には全く不思議に思われてなりません。その理由をあれこれ考えるのですが、思い及ぶ事の一つに、アチェベのコンラッド批評(非難?)に英米の多くの英文学者や英文学教師たちがすっかり意表をつかれたという事実があります。アチェベは英米の学者先生たちが特別何の問題も見なかったコンラッドの文章や表現に烈しく反応したので驚いたのでした。アーレントのレイシスト的な文章についても、同じような無感覚があるのかもしれません。アチェベの烈しい反応をアフリカ黒人にありがちな感覚過敏、被害妄想によるミスリーディングとして退けてしまいたい人々も少なからず居るようですが、その一方では、アチェベの黒人らしい鋭い感受性に共感を覚えた人間の数も少なくなかったと、私は思います。
 この問題は、以前、拙訳『闇の奥』の「訳者あとがき」(藤永272)で取り上げたことがありますので、以下に転載します:
 アーレントによれば、南アフリカの地に定着したブーア人たちは「クルツ」現象が集団発生した場合にあたり、この「ブーア人論」は彼女の人種論の要をなしている。コンラッドの『闇の奥』からの投影が見え見えの個所を以下に引用しよう(上掲訳書121頁):
彼ら[ブーア人]の中には今日もなお、彼らの父祖たちを野蛮状態に逆もどりさせる原因となった最初の身の毛のよだつ恐怖が生きているのであろう-ほとんど動物的な存在、つまり真に人種的存在にまで退化した民族に対する底知れぬ不安、その完全な異質さにもかかわらず疑いもなくホモ・サピエンスであるアフリカの人間に対する恐怖が。なぜなら人類は、未開の野蛮部族を目のあたりにしたときの驚愕をたとえ知ってはいたにせよ、個々の輸入品としてではなく大陸全体に犇く住民としての黒人を見たときのヨーロッパ人を襲った根源的な恐怖は、他に比すべきものを持たなかったからである。それはこの黒人もやはり人間であるという事実を前にしての戦慄であり、この戦慄から直ちに生まれたのが,このような「人間」は断じて自分たちとは同類であってはならないという決意だった。この不安とこの決意との根底には、人間であることの事実そのものに対する疑惑とおそらくは絶望とが潜んでいた。(引用終り)
もし白人というものがこのような存在であるならば、それこそ絶望だ。この文章に対する黒人作家アチェベの反応を聞きたいものである。このような語り口の出来る精神を、私は、EUROPEAN MIND と呼びたい。ブーア人について上に書かれていることが当っているか否かとは別の問題である。
今日は上とは別の文章を同じ大島訳の『全体主義の起源 2 帝国主義』(みすず書房)のp122から引用します。私は、そして恐らくアチェベも、以下の文章の人種差別的語り口に驚かされるのですが、白人の学者や教師たちはついそれを見過ごしてしまうのかも知れません。
「彼らを他の民族から区別していたものは肌の色ではなかった。彼らが肉体的にも厭わしく怖ろしく感じられたのは、彼らが自然に救いようもなく隷属もしくは帰属していたためであり、自然に対して如何なる人間的世界をも対置しえなかったためである。彼らの非実在性、彼らの亡霊のように見える行動は、彼らが世界を築かなかったことに由来している。彼らは世界を持たない故に自然が彼らの存在の唯一のリアリティーと見える。そして自然は観察者に対してすら圧倒的なリアリティーとして迫ってくる-世界を持たない人間を相手にするとき自然は思いのままに跳梁し得る--から、自然に較べれば人間は幻か影のようなもの、完全に非現実的なものと見えてくる.この非現実性は、彼らが人間でありながら人間独自のリアリティーを全く欠いていることからくる。世界を持たないことから生ずる原住民部族のこの非現実性こそ、アフリカにおそるべく血腥い破壊と完全な無法状態とを招き寄せたものだった。」(大島122)
これもまた、さきの(大島121)に劣らない驚くべき主張です。アフリカがこうむった「おそるべく血腥い破壊」はアフリカが自ら招いた事だというのですから。大島訳の底本は1962年出版のドイツ語版のようで、これは私の手許にある HBJ Book 版(1973年)のp192にある英文とかなり違います。この差異自体も興味深いものですので、以下に原文を引用し、訳を付けてみます:
 What made them different from other human beings was not at all the color of their skin but the fact that they behaved like a part of nature, that they treated nature as their undisputed master, that they had not created a human world, a human reality, and that therefore nature had remained, in all its majesty, the only overwhelming reality ? compared which they appeared to be phantoms, unreal and ghostlike. They were, as it were, “natural” human beings who lacked the specifically human character, the specifically human reality, so that when European men massacred them they somehow were not aware that they had committed murder.
「彼らを他の人間たちから区別していたのは彼らの皮膚の色では全然なく、彼らが自然の一部のように振る舞っていたこと,彼らが自然というものを彼らの文句なしのご主人様として扱っていたこと、彼らは人間の世界を、人間的リアリティーを未だ形成していなかったこと、したがって、自然はその威厳を完全に備えたまま、唯一の圧倒的リアリティーを保持し続け,それに較べれば、彼らは現実性を欠いた幽霊のような幻影とも見える存在だったという事実であったのだ。彼らは、はっきりとした人間らしい特性も、はっきりとした人間特有のリアリティーも備えていない、言うなれば、“自然のままの”人間なのであった。だから、ヨーロッパ人たちが彼らを大虐殺したとき、ヨーロッパ人たちは自分たちが殺人の罪を犯したのだとは思ってもみなかったのだ。」
 いやはや、これはひどい話です。ドイツ語版から英語版に移るとき、アーレントは意識的に書き換えたのだと思われますが、「ヨーロッパ人たちは黒人たちを人間じゃないと思って気楽に殺した」と前よりはっきり書いたのはどういう神経なのでしょう。もしアチェベがアーレントのこうした文章を読めば、アーレントを another bloody racist と呼ぶに違いありません。しかも、アーレント自身がはっきりと「ジョゼフ・コンラッドの物語『闇の奥』Heart of Darknessのほうが、歴史、政治、比較民俗学のこの問題に関する書物よりもこの経験の背景を明らかにするのに適しているだろう。」(大島訳p106)と書いているのです。「この問題」とは人種差別思想のことであり、「この経験」とはボーア人のアフリカ体験に代表されるヨーロッパ白人のアフリカ体験を意味します。幸いなことに、アーレントが『闇の奥』を通して見たアフリカに就いては、高橋哲哉さんの卓越した論考があります。高橋哲哉著『記憶のエチカ』(岩波書店、1995年)の第二章「《闇の奥》の記憶」です。この論考はアーレントに関心を持つ人々、コンラッドに関心を持つ人々にとって必読の文章です。とりわけ、私としては、コンラッド研究家の方々の関心を喚起したいと考えます。読者のレスポンスの重視は現代の文学理論の一つの重要なトレンドの筈です。読者としてアーレントが formidable な存在であることに異論を唱える人は居ますまい。

藤永 茂 (2007年1月24日)


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『闇の奥』の曖昧さを減らすには (4)

2007-01-17 09:35:58 | 日記・エッセイ・コラム
 このシリーズの(1)で、『闇の奥』の曖昧さを減らす第二のポイントは、マーロウ/コンラッドが、人間として、黒人の方を白人よりも上に置いてはいないことをはっきり認識して読むことだと申しました。『闇の奥』を小説として味わうつもりで、言い換えれば、その政治思想を計るといった余計な考えを始めから持たずにこの小説を小説として読んだ人は、何故わざわざそんな心掛けが必要なのか、いぶかるに違いありません。大体の所、『闇の奥』の中で黒人たちは動物に近い原始の人間として描かれているのですから。
 しかし、コンラッドがひどい人種偏見を持っていたとアチェベに言われて不快に思い、コンラッド擁護に立ち上がった学者の中には、「よく読んでみろ。コンラッドは登場する白人たちの殆どすべてを、動物以下の存在として、こっぴどくこき下ろしている。それに引き換え、黒人には結構褒め言葉を進呈しているではないか」といった馬鹿げたことを言う人がいます。
 マーロウが口を極めて罵る白人の最たるものは中央出張所の支配人とその伯父です。蒸気船の修理を待つマーロウが中央出張所に滞在中に、その伯父は、エルドラド(黄金理想郷)探険遠征隊と称する、白人、黒人、それに荷物を一杯積んだ驢馬たちの集団を率いて、驢馬にまたがって出張所にやって来ます。「アザラシの胸びれみたいな短い腕」の男で「太ったほてい腹を短い足に乗っけて」歩き回ります。この忌まわしい一団は「大地の底からその宝を掠めとることが彼らの願望であり、金庫破りの盗賊さながらに、その願望の裏には何の道徳的目的もなかった」(藤永82)のであり、「数日すると、エルドラド遠征隊は、忍耐強く控えている荒漠たる大自然-ウィルダネス-の中に入って行ったが、それは、まるで、海がダイバーを包み込んでしまうように、遠征隊を吸い込んで閉じてしまった。それから随分たって、驢馬が全部死んでしまったという知らせが入ってきた。驢馬より値打ちの低いあの人間どもの運命はどうなったものやら。間違いなく、他の連中と同じように、彼らにふさわしい運命に遭遇したのだろう。別に僕は訊いてもみなかった。」(藤永91)この「驢馬より値打ちの低いあの人間ども」というのが肝心の文章です。アフリカの密林に呑み込まれて行方の絶えた白人たちは動物より汚らわしい存在としてマーロウ/コンラッドから蔑まれている。黒人たちは動物並みだが、白人たちは動物以下だと言っているではないか、とコンラッド擁護論者は言うのです。この部分をpick up した論文にはMitzi Anderson のものをはじめ、再三出会いましたが、これはコンラッド専門家としては、非専門の英文学者や文芸批評を覗いてみる一般読者を愚弄する行為です。専門家ならば、中央出張所の支配人とその伯父には、実在のモデルがあること知っている筈ですし、コンラッドがコンゴでその二人にひどい目にあわされたことも知っている筈です。私怨を下敷きにして作家が作品の中の白人の登場人物を「犬畜生にも劣る奴」と書いたとしても、その事を、その作家が白人一般を動物以下に評価していた証しとして提出しては、研究者の倫理に悖ります。
 中央出張所の支配人の実名はカミュ・デルコミューン、アフリカの密林に吸い込まれて驢馬の後を追って惨めな死を遂げるエルドラド探険遠征隊の隊長のモデルは、アレクサンドル・デルコミューン、カミュの伯父ではなく、実兄でした。『闇の奥』のマーロウは中央出張所と奥地出張所の間のコンゴ河の区間800マイルの往路と復路の船長を見事に務めますが、現実のコンラッドは支配人カミュに意地悪されて、船長コッホが病気になった数日間だけその代理を務めさせて貰っただけでした。中央出張所に帰ってきたコンラッドは新しい探険交易の旅に出る機会が与えられることに希望をつないだようでしたが、新しく中央出張所に乗り込んできたカミュの実兄アレクサンドルはコンラッドを探検隊に加えずに出発してしまいます。この辺の事情に就いては、以前のブログ「コンラッドの嘘」(2006年3月30日)に書きましたが、要するに、コンラッドはカミュ、アレクサンドルの兄弟にひどい目に会わされ、その怨念を『闇の奥』で意趣返し(リベンジ!)したことは、コンラディアンたちがあまねく認めるところです。
 コンラッド研究の重要文献の一つであるNorman Sherry の「Conrad’s Western World」にデルコミューン兄弟の写真が出ています。兄のアレクサンドルの方は全身像で、意地悪のような人相ですが、手も足も正常でほてい腹でもありません。驢馬にまたがって中央出張所に乗り込んできた腹の突き出た男のイメージは『ドンキホーテ』のサンチョ・パンサから借りてきたのかも知れません。小説『闇の奥』には、ベルギーとベルギー領コンゴに関係する人名、地名は、ドイツ系ベルギー人と思われる「クルツ」という名前の他は一切出てきません。その徹底した伏せぶりは異常とさえ思えるほどです。『闇の奥』を飽くまで帝国主義一般に対する批判だと強弁する人々は、人名地名を伏せることで弾劾の一般性を強調したのだと言うのですが、あばたもえくぼ、ということではありますまいか。『闇の奥』が世に出た時、弟のカミュの方は亡くなっていましたが、兄のアレクサンドルの方は健在でしたし、ブリュッセルの会社本社にあって「何百万という人間の活殺権をしっかりと握る男」(藤永30)アルベール・ティースもレオポルド二世も健在でした。それから百年経った今の日本の読者には分からない事ですが、当時のベルギーの当事者には誰がモデルなのか、痛いほどよく分かった筈であったと思われます。
 ここに興味をそそる事実があります。ティースがコンゴの鉄道敷設工事を利用して、自分のみならず、ユダヤ人投機家たちに大儲けをさせたといった内容の記事を、ティースの元部下のオランダ系のベルギー人がフランスの反ユダヤ新聞に発表したのですが、これに対してティースその人が有力な弁護士を立てて名誉毀損の訴えを起こし、1894年7月4日にその元部下に有罪判決が下り、高額の罰金の支払いが命じられました。この新聞記事にはコンラッドも目撃したコンゴの鉄道工事の奴隷労働の惨状も取り上げられていたようですし、この記事と訴訟事件がコンラッドの注意を引いたことは十分考えられます。『闇の奥』の執筆に当って、コンラッドがアルベール・ティースやアレクサンドル・デルコミューンから名誉毀損罪で訴えられないように十全の注意を払ったのは、トピカルな主題を選んだ作家として当然であったと言えましょう。
 あらためて『闇の奥』の「曖昧さ」のことを考えてみましょう。もちろん、この文学作品テキストにはその本質的構成要素としての irreducible な曖昧さがあり、それはこの作品の芸術的価値の一部として賞味すべきものでしょう。小説でも映画でも、私たちは、何よりも先ず、そこに提出されているものを、そしてそれだけを、そっくり心に受け止めるようにすべきでありましょう。コンラッドの『闇の奥』にしても、或る種の英文学者批評家によって不必要に増幅され、あるいは、外から付加された「曖昧さ」は大きい見事な貝にこびりついたフジツボ同様に適当な金具でこそぎ落すのがよいと思われます。

藤永 茂 (2007年1月17日)


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『闇の奥』の曖昧さを減らすには (3)

2007-01-10 07:20:00 | 日記・エッセイ・コラム
 夕闇迫るテムズ河に浮かんだネリー号の甲板で異様な体験談と語をはじめるマーロウは、コンゴの闇の奥で帝国主義の悪の恐怖に立ち会い、その地獄の崖っぷちから辛くも生還した男の筈ですが、そのマーロウは依然としてイギリスの植民地でてきぱきと献身的に働く植民地官僚(colonists)たちを褒め上げます。このくだりはコンラッドが筆誅を加えたのはイギリスを含む帝国主義一般の悪に対してであったと主張したい人たちにとっての頭痛の種です。あらゆる詭弁を弄してこのマーロウとコンラッドとを切り離す工夫がなされてきました。しかし、前回に論じたように、他の所ではいざ知らず、ここでのマーロウの考えはコンラッドの考えであったとするのが最も自然ですし、そうすれば『闇の奥』解釈上の曖昧さは大幅に減ってしまいます。ベルギー国王レオポルド二世の「コンゴ自由国」はヨーロッパの文明国の植民地としては断じて承認出来ない-というのが当時の英国の世論であり、コンラッドの見解でもあったのです。そのことがはっきり出ている個所が『闇の奥』の冒頭にもう一つあります。マーロウがローマ軍のブリテン島中南部(イングランド)征服にレオポルドのコンゴ征服をダブらせて語るところです。これに就いてはブログ「カエサルはレオポルドではなかった」(2006年7月16日)でも論じました。ローマ植民地ブリタニアがコンゴ自由国とは較べものにならない立派なものであったことは、英国史をひもとけば立ち所にわかることで、カエサルをレオポルドに重ねるのは全く無理な相談であり、コンラッドが何故こんなことをしたのか理解に苦しんだ私はコンラッド専門の諸賢に教示を願ったのですが、今のところ反応がありませんので、今日は、コンラッドが英国の植民地経営をレオポルドの所業からはっきり区別するためにこの部分を書いたのだという解釈を提出してみます。英文原文も読んでみましょう。
Mind, none of us would feel exactly like this. What saves us is efficiency ? the devotion to efficiency. But these chaps were not much account, really. There were no colonists;
their administration was merely a squeeze, and nothing more, I suspect. They were conquerors, and for that you want only brute force ? nothing to boast of, when you have it, since your strength is just an accident arising from the weakness of others. They grabbed what they could get for the sake of what was to be got. (Hampson 20)
「いいかね、われわれにはもうそうした気持はない。われわれを救ってくれるものは、あの能率主義-われわれはみんな能率ということにすべてを忘れる。ところが、今いった連中は、高が知れていた。いわゆる植民者ではなかった。彼等のやり口というのは、おそらくただ誅求、それだけだった。彼等は征服者だったのだ。そしてそのためにはただ動物力さえあればよかったのだ-あったからといって、そんなものはなに一つ誇ることはない。彼等の勝利は、ただ相手の弱さから来る偶然、それだけの話にすぎないのだ。ただ獲物の故に獲物を奪ったにすぎない。」(中野12)
「僕たちなら誰も、そっくりこんな風には感じないだろうよ。僕らを救ってくれるのは能率?能率よく仕事を果たすことへの献身だ。しかし、大昔、ここに乗り込んできた連中はあまり大した奴ではなかった。植民地開拓者ではなかったのだ。思うに、彼らのやり方はただ搾取するばかりで、それ以上の何物でもなかった。彼らは征服者だったのであり、そのためには、ただ、がむしゃらな力があればよかったのだ。?それがあったからといって、別に自慢になるものじゃないさ。要するにその強さは相手が弱かったということで生じた偶然に過ぎないのだからね。とにかく獲物をせしめれば、というわけで、手に入る獲物は何かまわず、強奪したのだ。」(藤永21-2)
これから書くことを拙訳『闇の奥』の(p225~p228)の訳注の続きとして読んでいただけると幸いです。まず、二つの言葉“colonists”と“conquerors”の区別に注目しなければなりません。コロニスト(植民地開拓者、植民地官僚、植民地経営者)はよいが、征服者はよくない、と言っているのです。ローマ人にかこつけて、アフリカの植民地を能率よく経営しているイギリス人は立派なコロニストだが、レオポルド二世とその手先のベルギー人はコロニストではなく、コンゴを暴力で制圧し、掠奪出来るものは何でも根こそぎ掠奪している征服者だ、と言いたいのです。実は、マガに掲載される前の手書き原稿には、上の引用英原文に続いて次のような文章があったことが知られています。
That’s all. The best of them is they didn’t get up pretty fictions about it. Was there, I wonder, an association on a philanthropic basis to develop Britain, with some third rate king for a president and solemn old senators discoursing about it approvingly and philosophers with uncombed beards praising it, and men in market places crying it up. …
ここで some third rate king というのはベルギー国王レオポルド二世を意味します。彼に対するこの痛烈な皮肉の一節が削除された理由を知りたいものです。前掲の拙著に記述した通り、レオポルドは暴力によるコンゴ征服を慈善的美辞麗句で隠蔽しましたが、カエサルは「ガリア戦記」という堂々たる記録を残しました。これが上の第二の文章の意味でしょう。もう一つ、(Hampson 20) のはじめに出て来る none of us にも注目して下さい。コンラッドのもう一つの名作『ロード・ジム』では one of us という言葉がキーワードです。ポーランド人でありながら、イギリスに帰化して英語で英文学の傑作の多数をものにしたコンラッドを論じた「One of Us 」というタイトルの本もあります。この“us ”とはイギリス人を意味します。「われわれ本物のイギリス人ならば、昔、ブリテン島に乗り込んできたローマ人や(後に出て来る)クルツのような工合には原始野蛮な環境の中で自滅したりはしなかっただろう」と one of us であるイギリス人船乗りのマーロウは語っているわけです。
 コンラッドが『闇の奥』の前座の役を振った『青年(Youth)』(1898年)の中で、マーロウは名もないイギリス人船乗りたちの根性を讃えます:
「Was it the two pounds ten a month that sent them there? They didn’t think their pay half good enough. No; it something in them, something inborn and subtle and everlasting. I don’t say positively that the crew of a French or German merchantman wouldn’t have done it, but I doubt whether it would have been done in the same way. There was a completeness in it, something solid like a principle, and masterful like an instinct ? a disclosure of something secret ? of that hidden something, that gift of good or evil that makes racial difference, that shapes the fate of nations.」
 このイギリス人礼賛の気持をコンラッドは最後まで持ち続けました。それを証拠だてる文章はいくらも存在しますが、ここではその一例を掲げます。1912年のものです:
It is my deep conviction, or, perhaps, I ought to say my deep feeling born from personal experience, that it is not the sea but the ships of the sea that guide and command that spirit of adventure which some say is the second nature of British men. I don’t want to provoke a controversy (for intellectually I am rather a Quietist) but I venture to affirm that the main characteristic of the British men spread all over the world, is not the spirit of adventure so much as the spirit of service. I think that this could be demonstrated from the history of great voyages and the general activity of the race. (A Familiar Preface)
大層な惚れ込みかた、持ち上げかただとは思いませんか? キプリングの「白人の重荷 (the white man’s burden)」 といい勝負です。いや、白人一般ではなく、イギリス人の「奉仕の精神」だけを強調する点では、キプリングより上かも知れません。

藤永 茂 (2007年1月10日)


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『闇の奥』の曖昧さを減らすには (2)

2007-01-03 09:02:23 | 日記・エッセイ・コラム
 小説『闇の奥』の反帝国主義の筆誅がベルギー国王レオポルド二世とその手下の者たちだけに加えられたのか、それとも、英国を含むヨーロッパ諸国のアフリカ植民地経営の全体に加えられたのか。作品そのものを素直に読めば,レオポルドのコンゴに限られているのは明らかだと私には思われるのですが、「英国を含む」と強弁する批評家が沢山いますから、ここで、その無理な主張を否定する強力な情況証拠を提出したいと思います。
 ベルギーは1839年になってやっと独立を果たした比較的新しいヨーロッパの小国で、面積は日本の約12分の1、レオポルド二世(1835-1909)は二代目の君主で、明治天皇(1852-1912)とほぼ同時代人、遅ればせに海外に植民地を求めた点でも似ている君主です。「Scramble for Africa」という歴史上のキーワードを生んだ1887年のベルリンでのアフリカ分割の国際会議で、レオポルドはヨーロッパ列強の利害対立の間隙を巧妙かつ狡猾に立ち回り、アフリカの中央部にベルギー本国の80倍以上の私有植民地を見事手に入れて、これに「コンゴ自由国」の名を冠します。ヨーロッパ諸国には地域を自由貿易に解放することと未開先住民の文明化を約束したのですが、実際には、先住民を現地で奴隷化して苛酷極まる重労働を強制し、象牙やゴム原料の資源をとことん収奪して巨利を独占する政策を実行しました。そのためコンゴ河流域の先住民社会は急速に荒廃して、百万人のオーダーでの人口減少が始まります。詳しい事情は私の近著「『闇の奥』の奥」(三交社)にあります。英書ではAdam Hochschild の「King Leopold’s Ghost」が良書です。この残忍非情なレオポルドのコンゴ支配に終止符を打つのに最も功績のあった人物モレルについては、前に4回のブログで取り上げましたが、上の二著にも描かれています。ただこれまで十分言及していない重要な事があります。モレルの糺弾の対象はレオポルドの悪業に限られ、英国は完全に除外されていました。これが、モレルの運動が英国を含む欧米諸国の人々から強い支持を取り付けることの出来た根本的な理由でした。もしモレルの弾劾が大英帝国を含む帝国主義的植民地支配の悪業一般に向けられていると了解されるものであったならば、英国を含む欧米諸国の政界、実業界、一般人士からの支持を取り付けることは全く出来なかった筈であったのです。
 モレルの発言の具体例をいくつか拾います。1904年発行のパンフレット「コンゴのスキャンダル:英国の責務」では「文明世界はベルギーによるコンゴ支配によって被害を受け憤激している。悪業の源であるレオポルドの個人的支配は、道義的に、もはや文明国の範疇に属さないものとなった」としてレオポルド二世とそのベルギーをヨーロッパ文明世界から追放する立場を取り、文明国仲間から排除し撲滅すべき病原体とすら看做します。「イギリス,フランス、ドイツは、ベルギー国王レオポルドによって西、中央アフリカにもたらされた病癌がこれ以上広がるのを許すべきではない。いや、諸国の責務はこれに止まらず、病癌の根源を処分しなければならない。潰瘍は除去し破壊しなければならない。文明に対する犯罪としてコンゴ国は叱責処罰されなければならない」とモレルは書きました。また彼の「西アフリカ通信」(1905)には、レオポルドの行為は「befouling civilization and jeopardizing the whole future of European effort in the Dark Continent.(文明の名を汚し、暗黒大陸におけるヨーロッパの努力の全将来を危殆に瀕せしめるもの)」とまで書いてあります。ここまで来れば、これはもう文明国イギリスのアフリカ植民地経営の積極的是認、称揚と同じことです。モレルのレオポルド打倒の運動に参加し、自らも「コンゴの犯罪」と題するレオポルド糺弾の著作を出版したコナン・ドイルは、レオポルドの所業を史上最大の犯罪と極め付ける一方で、南アフリカの英国植民地経営政策を熱烈に支持し、ボーア戦争には従軍医として参加して英軍礼賛の従軍記を書き、その功績でナイトの称号を得て、サー・アーサー・コナン・ドイルと呼ばれる身分になりました。大英帝国の植民地経営の称揚、これは文学者、一般知識人を含む当時の英国の人士の圧倒的多数がとった精神的姿勢であったのです。
 1903年の暮れも押し詰まった頃、モレルのレオポルド糺弾のキャンペーンへの参加をケースメントから要請されたコンラッドは直接の参加を辞退し、代りにケースメントに宛てた公開書簡を書き送って、運動のために自由に使ってほしいと申し出ます。以下にその全文の翻訳を上掲の拙著から引用します:
   私が心底からあなたの運動の成功を祈念している事をお信じ下さい。富裕で
しかも破廉恥な国王、これは全くもって手強い相手です。この場合、人格という点では評判が悪いにしても、富というものは、困った事に、決して人の嫌がる香りは放たないものです?言い換えれば、この王の富はそれ自体のむせ返るような物語を展開することでしょう。
 70年も前に人道的立場から奴隷売買を廃止してしまったヨーロッパの良心が、コンゴの現状を黙認しているのは異常なことです。それは、あたかも、道徳的時計が何時間もぐるぐる巻き戻されてしまったかのようです。今日では、かりに私が私の持ち馬を酷使して馬の幸せや健康状態を損なったとすると、私は民事裁判官の前に引っ張り出されてしまいます。黒人?たとえばウポトの黒人?はどんな動物とも同じように人道的に配慮してやるに値するように私には思われます。黒人は神経を持ち、苦痛を感じ、身体的にみじめな状態になり得るからです。いや、実際の所、黒人の幸福と悲嘆は動物のそれよりも遥かに複雑であり、したがって、より大きな配慮に値します。黒人は我々が生きるこの世界を共々に意識しているわけで?これは小さな負担ではありません。野蛮であることそれ自体は重い天罰を受けるべき犯罪ではありません。それにも係わらず、ベルギー人たちのやり方ときたらエジプトの七つの天災よりももっと悪質です。それというのも、エジプトの天災ははっきりとした破戒に対して与えられた懲罰だったわけですが、今の場合、ウポトの黒人は何が悪かったのか分からないのですから、どうしたらその刑罰が終るのか見通せないのです。それは、黒人にとって、ひどく恐ろしく不可解に思えるに違いありませんし、私にもそう思えると言わざるを得ません。奴隷売買はとっくに廃止された筈なのに?コンゴ國は今もちゃんと存在している。これはまさに驚くべき事です。それを更に驚くべき事にしているのは次の事実です:奴隷売買はその昔ひろく行われた商業活動の一つであり、それは、国際条約を頭から拒否し、人道的宣言の数々をぬけぬけと無視して、他の文明諸国の迷惑を及ぼすような形で成立した一小国の独占事業ではなかった筈なのですが、つい先頃できたコンゴ国はまさにその通りの事をやって、しかも、そのまま存在を続けている。これは実に不思議なことです。こうなると(丁度あの哀れなティエールが1871年に叫んだように)“もはやヨーロッパは存在しない”と叫びたくもなります。しかし実際には、昔はイングランドがヨーロッパの良心をしっかりと護っていた。イングランドが率先してそれを唱えていたのです。でも今では、我々は他の事にかまけて忙しく、重大事件の数々に巻き込まれて、人間性とか、品位とか、公正さのためにひと肌脱ぐことはやめてしまったようです。しかし、我々の商業利益についても同じ態度でよいのでしょうか? モレルが彼の著書で至極はっきりと示しているように、我国の利益はひどい損害を受けています。彼が示した事実に本気で反論する余地などありません。つまりどんなに嘘をついてみても否定することは不可能です。それにも拘らず、あのとんでもないアフリカの呪術師の二人組が?もちろんレオポルドとティースのことですが?白人世界を呪文で金縛りにしてしまったように見える。いやはや笑うに笑えない話です。
 こうして、奴隷売買が(残酷だったが故に)廃止されてから60余年後の1903年の今にして、アフリカのコンゴにヨーロッパ列強の裁決で創られた一つの國があって、そこでは黒人に対する冷酷な組織的な残虐が統治の基本であり、また、他のすべての国家に対する裏切りがその商業政策の基礎になっているという事実が放置されているのです。
 あなたがお発ちになる前に是非お目にかかりたく存じます。あらためて改革運動のご成功を衷心お祈り申し上げます。申すまでもありませんが私がここに書きました事を如何ようにお使いになっても結構です。
敬白  ジョセフ・コンラッド
この書簡の詳しい注解は上掲の拙著にゆずりますが、一読して、モレルの見解と同じ波長のディスコースであることは明白です。「ヨーロッパの良心」であるイングランドは別格なのです。
 ここで、モレルの名誉のために急いで付け加えておかなければなりません。誠実直情の人モレルは、やがて英国の植民地政策が本質的にはベルギーのレオポルドのそれと同じであることを悟ります。それからのモレルの悲劇的に孤独な戦いの日々については拙著「『闇の奥』の奥」を読んで頂きたいと思います。

藤永 茂 (2007年1月3日)


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