私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

コンゴ大量殺戮

2014-04-18 19:46:57 | 日記・エッセイ・コラム
 広辞苑には「殺戮」を「むごたらしく多くの人を殺すこと。大量殺戮」としてあります。「ジェノサイド」という言葉は使いたくありません。また、むごたらしく人を殺す、にグラフィックな意味ばかりを込めようとは思いません。子供を飢えさせて殺すのもむごたらしい殺し方です。
 いわゆる「ルワンダ・ジェノサイド」は今から丁度20年前の1994年4月7日に始まりました。日本人のおそらく殆どが信じている公式の「ストーリー」は、次のようなものでしょう。:
「アフリカの中東部にある小国ルワンダの多数派民族フツは少数民族ツチを皆殺しする殺戮を突然開始し、100日の間に100万にも達すると思われるツチ人が惨殺された。狂乱の暴徒と化したフツ人たちが大きな手斧や棍棒を手に手に、それまで隣人知人であったツチ人に老若男女の区別なく襲いかかった。国連などの国際社会はあっけにとられて、信じられないような蛮行を傍観するばかりだったが、隣国ウガンダで組織されたルワンダ愛国戦線の軍隊を率いる司令官ポール・カガメの英雄的行為によって大虐殺に終止符が打たれた。」
 「ルワンダ・ジェノサイド」の20周年の記念とあって、4月7日からの数日間、世界中のマスコミがこの事件を取り上げ、日本でも、朝日新聞やNHKなどで取り扱われました。しかし、ルワンダ大虐殺の犠牲者であるツチ人たちの語るも無惨な個人体験にその「ストーリー」の重点が置かれ、読者、視聴者に感情的に訴えようとするものが殆どで、「ルワンダ・ジェノサイド」という歴史的事件の本質を明確に摘出する発言は殆ど見当たりません。
 私は、5年程前からこの事件とそれをめぐる各種多数の報道や発言(論説や出版物)に強い関心を抱いて今日に到っています。まず2009年の春には、
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ジンバブエの脱構築(4)   (2009/03/25)
サマンサ・パワーとルワンダ・ジェノサイド(1) (2009/04/01)
サマンサ・パワーとルワンダ・ジェノサイド(2) (2009/04/08)
サマンサ・パワーとルワンダ・ジェノサイド(3) (2009/04/15)
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の4つのブログ記事で、また、2010年の6月から8月にかけて、
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ルワンダの霧が晴れ始めた(1) (2010/06/30)
ルワンダの霧が晴れ始めた(2) (2010/07/14)
ルワンダの霧が晴れ始めた(3) (2010/07/21)
ルワンダの霧が晴れ始めた(4) (2010/07/28)
ルワンダの霧が晴れ始めた(号外) (2010/08/04)
ルワンダの霧が晴れ始めた(5) (2010/08/11)
ルワンダの霧が晴れ始めた(6) (2010/08/18)
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と題する7回ものを連載したことがあります。「ジェノサイド」というおぞましい名称がついた事件には、必ずのように、公式見解とそれに従わないいわゆる「修正主義」的見解があります。上掲のブログ記事で私が述べていることは、主流の見解と対立する修正主義者の見解に属します。ルワンダ・ジェノサイド問題の論客で、修正主義者たちに極めて厳しいジェラルド・カプラン(Gerald Caplan)というカナダ人の学者政治家がいます。アフリカ問題の専門的な研究者でもあるようで、主流派(多数派)です。この人がルワンダ・ジェノサイド10周年の2004年4月(つまり丁度10年前)に書いた『Why we must never forget the Rwanda genocide』という論考が今も読めます。
http://pambazuka.org/en/category/features/21165
その中には、いろいろ問題とすべき点がありますが、一つだけとれば、米国と国連はジェノサイドを止めようと思えば止められたのに、それをしなかったと言葉を荒立てて糾弾しています。
■President Bill Clinton and Secretary-General Koki Annan have both apologized for their failure to offer protection, but have both falsely blamed insufficient information; in fact what was lacking was not knowledge - the situation was universally understood - but political will and sufficient national interest. No one has ever quit their jobs in protest against their government’s or their organisation’s failure to intervene to save close to one million innocent civilian lives.?(クリントン米国大統領とアナン国連事務総長は両者とも虐殺の対象となった人々を守ることに失敗したことを謝罪したが、不十分な情報しか無かったからだと虚偽の弁明をした;実際には、欠けていたものは知識ではなく---虐殺をめぐる状況は広く一般的に分かっていた---政治的な意志と国家的な関心であった。米国政府が、あるいは国連が、百万に近い一般市民の生命を救うために介入することをしなかった怠慢に抗議して職を辞した人間は、これまで、ただの一人も出ていない。)■
私は、上掲のブログ記事『サマンサ・パワーとルワンダ・ジェノサイド』シリーズで、サマンサ・パワーの「クリントンが何も知らなかった」という主張が真っ赤な嘘であったと書きました。サマンサ・パワーは雑誌「アトランティック・マンスリー」2001年9月号に『ジェノサイドの傍観者(Bystanders to Genocide)』と題する26頁の長い論文を寄稿して、その冒頭でそれを取り上げているのでその部分をまず訳出しました。:
■ 1994年、百日間の時の流れの間に、ルワンダのフツ政府とその過激派協力者たちは、その國のツチ少数民族を絶滅するのに成功するすれすれの所まで行った。銃器、広刃鉈、それに農耕園芸用の道具の数々を用いて、フツ族の民兵、兵士、一般市民は、約80万のツチ人と政治的に穏健派のフツ人を殺害した。それは20世紀で最も素早い、最も能率的な殺戮ドンチャン騒ぎであった。それから数年後、雑誌『ニューヨーカー』の連載もので、フィリップ・グールヴィッチは、恐るべき詳細さで、そのジェノサイドと世界がそれを阻止することに失敗したストーリーを詳しく述べた。大統領ビル・クリントンは、熱心な物読みで有名だが、ショックを隠しきれなかった。彼はグールヴィッチの記事のコピーを二期目の国家安全保障顧問のサンディ・バーガーに送った。記事のコピーの余白には、混乱し苛立った追求的な問いかけが書き込まれていた。クリントンは、やたらに下線を施したパラグラフの横に太字の黒のフェルトペンで“この男が言っているのは本当か?”と書いていた。■
このまるっきりの作り話をジェラルド・カプランが「それは嘘だ」とはっきりと否定しているのはよいのですが、それに続く「アフリカの小国ルワンダで起きたジェノサイドは、約百万の無辜な人々が惨殺されたにも拘らず、米国の国家的利害とあまり関係がないと言う理由で、クリントン大統領は希薄な興味しか持たず、人道的な政治的意志に欠けてしまった」とするカプランの見解は、これもまた、まるっきり誤ったものであるだけではなく、現在、R2P(Responsibility to Protect、保護する責任)という、現在の国際情勢の下では極めて危険な概念(他国侵略の口実)に深く関与するものでした。これは今回のブログの主題ではありませんが、重要ですので、ウィキペディアの『保護する責任』という項の冒頭を以下にコピーします。:
■ 保護する責任(ほごするせきにん、英: Responsibility to Protect)は、自国民の保護という国家の基本的な義務を果たす能力のない、あるいは果たす意志のない国家に対し、国際社会全体が当該国家の保護を受けるはずの人々について「保護する責任」を負うという新しい概念である。略称はR2P又はRtoP。
従来の人道的介入の概念に対する先入観を払拭し、新たに軍事的・非軍事的介入の法的・倫理的根拠を模索することを目的に、2000年9月にカナダ政府によって設置された介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)が作成した報告書に基づいて定義された。その基本原則について、2005年9月の国連首脳会合成果文書において認められ、2006年4月の国連安保理決議1674号において再確認された。■
この危険な概念を口実として、米欧は、2011年、リビアに侵攻し、リビアという国を破壊してしまいました。リビアの現状については別に報告します。
 主題のルワンダ大虐殺に戻ります。ルワンダ・ジェノサイド10周年の2004年4月にカプランが『Why we must never forget the Rwanda genocide』を書いてから10年経ちました。この10年間に、その以前から“修正主義者たち”(私もその中の一人)が言っていることが着実にその信憑性を増して来ています。私が2012年のブロ・シリーズ『ルワンダの霧が晴れ始めた(1)~(6)』の“霧”は、私の目には、もはや、スッキリと晴れました。すっきりと見えてきたのはコンゴです。コンゴでは欧米の植民地主義的暴力によって、第一次世界大戦以前から勘定すると、これまで千数百万人の人々が殺戮されました。現在でもその殺戮は続いています。これを『コンゴ問題』と呼ぶとすれば、いわゆるルワンダ・ジェノサイドは『コンゴ問題』の一部を形成する事件として理解されなければなりません。そして『コンゴ問題』とは欧米によるアフリカの資源収奪の問題です。サマンサ・パワーやフィリップ・グールヴィッチやジェラルド・カプランに代表され、世界のマスコミも声高に語ってきた公式ストーリーでは資源収奪の問題が強調されることは決してありません。人間集団としてのツチ人とフツ人の抗争だけが、しかもフツ人側の野蛮残忍な暴力性が強調されがちです。
 コンゴの資源収奪の問題に十分な照明を与えるには、ベルギーのレオポルド二世の私有植民地『コンゴ自由国』(いかにも欺瞞臭い呼称)の話から始めなければなりません。この地はコンラッドの有名な中編小説『闇の奥』の舞台で、私のこのブログの出発点でもあります。これまでにあれこれ沢山のことを書いてきましたので、もし興味があればお読み下さい。今回は歴史の復習を、コンゴの東部に位置するベルギー領植民地ルワンダで1959年に起った革命から始めます。
 第一次世界大戦後、ドイツに代わってルワンダを植民地としたベルギーは、少数派であるツチの王族と貴族的支配階級、多数派のフツ人を貧農的な被支配階級として植民地経営を行ないますが、第二次世界大戦後はアフリカ全体に沸き上がった民主独立の機運を読み、ツチ族からフツ族へと支持の軸を移す気配を示します。その機運に乗じて、1959年、ルワンダの多数派(80~90%)フツ族は長年のツチの支配に反逆して流血の争いとなり、10万人以上の上流階級ツチ人がウガンダなどの近隣国に流出しました。これがフツの大衆革命です。この革命の流れの続きとして、フツが支配する国としてのルワンダは1962年にルワンダ共和国として独立します。国外に逃れたツチ族旧支配階級勢力はルワンダの支配権を取り戻すべく、隣国を基地としてルワンダの奪還を狙い、両者の軍事的抗争が続きましたが、1973年、軍人ハビャリマナ(フツ人)がクーデターに成功してフツ・ツチの抗争もやや下火となり、ルワンダの経済もそこそこの安定を示すようになりました。大統領ハビャリマナの治世は一党独裁的で、選挙はインチキだと言われましたが、たとえ、インチキでなくとも、フツ族が数的に圧倒的多数を占める人口構成ですから、一般選挙権が与えられる限りフツ族が実権を握る政権の継続は保証されていました。
 ところが、1986年にムセベニがウガンダの大統領に就任すると、1987年、その支持のもとに、ルワンダからウガンダに難を逃れた元ルワンダのツチ人支配階級はルワンダ愛国戦線(Rwanda Patriotic Front)という武装勢力を形成して、1990年には、ハビャリマナ大統領統治下の隣国ルワンダに侵攻し、反政府武装勢力としてフツ人政権を倒し、政権の奪還を目指す本格的組織的な軍事行動を開始したのですから、元の被支配者人口としてのフツ人たちは、心理的に深刻な脅威と不安を感じたのは当然であったと思われます。これがいわゆる「ルワンダ・ジェノサイド」の前景です。この大虐殺の公式ストーリーの最重要の強調点は「ツチ族の大英雄ポール・カガメがフツ族の原始的虐殺行為を見事に終結させてくれたからよかったものの、米欧政府が自己の利害にあまり関係がないという理由から傍観したのは、道義的に許されることではなかった。過ちは繰り返してはならない。文明国際社会には“R2P(保護する責任)”がある」というものです。このブログでこれまで繰り返し書いた通り、私はこの公式ストーリーを買いません。真っ赤な嘘だと判じるからです。しかし、もっと大きな嘘は1994年の「ルワンダ・ジェノサイド」の後に続く光景のなかで展開されます。それは霧深い錯綜した光景ですが、今ここで指摘できる明確な事実(歴史の解釈ではない裸の事実)があります。それは「ルワンダ・ジェノサイド」の後の、いわゆる『第一次コンゴ戦争』(1996年?1997年)と『第二次コンゴ戦争』(1998年?2003年)から現在まで連続しているコンゴ東部での大量殺戮で少なくとも5百万人は確実に超える死者が出ているという事実です。そして、明らかに、いわゆる国際社会、はっきり言えば、米国は、直前の「ルワンダ・ジェノサイド」の尊い経験から学んだ筈のR2Pを全く果たさなかったし、現在も果たしていません。米欧が行なったことは、R2Pを真っ赤な嘘の口実としてリビアに猛爆撃を加え、リビアという国を破壊することでした。なぜ彼等はコンゴ東部での数百万人の殺戮を阻止しようとしなかったのか。出来なかったのでも、出来たがしなかったのでも、ありません。阻止しない方が彼等の利益に叶うことだったからです。「それはあんたの勝手な憶測だ」という御仁が居るかも知れません。しかし、この20年間にコンゴ東部で無数のアフリカ人が無惨な死を遂げたという事実は誰でも認める事実であり、これを否定することは出来ません。そして、ムセベニ政権下のウガンダで1987年にルワンダ政権奪還を目指したルワンダ愛国戦線が結成された辺りから現在のルワンダの情勢に到る歴史的展開は一つの一貫したストーリーとして把握了解されるべき主題です。この歴史的展開の背後には一貫した geopoliticalな意図が存在しているからです。
 いま問題にしている地域の紛争については、ジェラール・プリュニエ(Gérard Prunier)という専門的研究者(パリ大学教授)の
『AFRICA’S WORLD WAR, CONGO, THE RWANDAN GENOCIDE, AND THE MAKING OF A CONTINENTAL CATASTROPHE 』( Oxford University Press, 2009)
という大冊があります。本文368頁、ノート、文献、索引161頁、総計529頁。平凡な意味での学問的中立を守ろうとするこの著者は、カガメ(ルワンダ独裁政権)側からは、許すべからざる修正主義者と看做され、修正主義者の陣営からは主流派の一人と看做される気の毒な立場にあります。この著書に綴られている細部的情報にはなかなか興味深く有用なものが多いのですが、著者の懸命な思索にもかかわらず、事態の真相は濃い霧に包まれている、というのが全体の印象です。しかし、この5年間にいろいろの事実が明白になって来ました。代表例を二つだけあげると、一つはカガメ政権の批判者に対する徹底的弾圧です。暗殺の魔手は国外に逃れた批判者にも及び、殺された者は多数にのぼります。ルワンダ虐殺20年の4月6日の朝日新聞記事を例にとれば、「公式ストーリー」に付加して、次の記事がありました。:
■地方新聞社の40代の幹部は「例えば政府の批判記事を書いたら『民族分離主義者』として逮捕される。批判記事を書ける記者は逮捕されたか、国外に逃げた」と話す。「融和はもちろん賛成だが、もはや民族の問題ではなくなっている。政府に都合の悪い調査報道は命に関わる」と語った。
 野党「ルワンダ民主緑の党」のフランク・ハビネザ代表はRPFの党員だったが、強権的な方針に疑問を感じて離れた。「虐殺後の1年間は強権的な体制はやむを得なかったと思う。だが今なお、ルワンダには、民主主義、表現の自由はない」と訴える。
 09年に政党を立ち上げ、翌年に副代表が何者かに暗殺された。自身も危険を感じ2年間、国外に逃れた。「民主主義なしに欧米が奇跡と呼ぶ発展の持続性はない」(キガリ=杉山正)■
 こうしたルワンダの取り上げ方は、未だにカガメのルワンダの“奇跡”だけを吹聴しているNHKには出来ないでしょう。しかし、その時が遠からず必ずやって来ます。上の報道をルワンダの首都キガリから送ってきた記者は杉山正という方ですが、同じ記者の記事を、以前私のブログで使わせてもらったことがありました。それはコンゴ国軍から離脱したM23と略称される反コンゴ政府武装集団とそれと闘うコンゴ軍についての報道でした。それを私のこのブログに掲げた2012年12月のシリーズ『M23、コンゴ、二人のライス』の初回(1)に引用しました。出来たら読んで下さい。
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M23、コンゴ、二人のライス(1)(2012年12月5日)
M23、コンゴ、二人のライス(2)(2012年12月12日)
M23、コンゴ、二人のライス(3)(2012年12月19日)
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M23と呼ばれる武装勢力については上掲(3)の中で、次のように説明しました。:
■ 現在のブログのタイトルの中にあるM23という武装勢力は新聞報道ではコンゴ民主共和国に対する反政府勢力と呼ばれていて、この変な名称の起源についての説明はしてありません。少し調べると、この名称の由来は、2009年3月23日(March 23)に、コンゴ東部でコンゴ政府に反乱的姿勢を取っていた兵士のグループと政府との間に平和条約が結ばれて、このグループは一定の条件の下にコンゴ国軍に吸収されたことに遡ります。ところが、今年(2012年)の4月4日、以前のグループの中の数百人が、2009年3月23日の条約の約束が履行されていないという理由で、またまた反乱を起こして、コンゴ政府軍から離脱し、急速に軍事的実力を増大してコンゴ政府軍を撃破し、11月20日には東部の最重要都市ゴマを制覇してしまいました。ここから先が、11月28日の朝日新聞朝刊に出たコンゴ東部での戦闘についての記事につながります。■
先見の明を自慢する気は全くありませんが、一昨年12月の時点で、私はM23がカガメによってコントロールされている代理戦争軍団であることをはっきり指摘していました。上の3月23日の約束云々の話が世界のマスコミ用の作り話であったことは、今年(2014年)になってから明々白々の事実となりました。朝日新聞の記者さんたちがこの事実に気付いたのは何時だったのでしょうか?案外、私などよりはずっと早い時点で気がついていたのに、黙っていたのではありますまいか。
 峻烈な独裁者ポール・カガメの心掛け次第で、ルワンダは議会民主主義的国家になるでしょうか? それは不可能です。ありえません。青年男女を含めた一般選挙権(universal suffrage)の制度の下では少数派ツチ人支配のルワンダ政権は維持不可能です。正常な一般選挙を行なえば、多数派フツ人が実権を握る政権が成立するに違いありません。米国と英国は、この事を百も承知で、先ずウガンダのムセベニ政権をつくり、そこを拠点として、隣国ルワンダに少数派ツチ人支配のガガメ政権をつくったのです。理由は一つ、コンゴ東部の天然資源の収奪にありました。金やコルタンなどのIT産業用鉱物資源だけではありません。コンゴ共和国そのものを衰退させて(出来れば、一つの国としては、崩壊させて)コンゴ河の水力資源や西部沖の石油資源を我が物にすることをも狙っています。
 私は、今になっても、学問というものに託した夢を捨て切れません。私に時間とエネルギーがあれば、ジェラール・プリュニエのひそみにならって、以上に述べてきた主張見解に根拠を与える文章をちゃんと綴るべきだと思うのですが、それが不可能な今、その代わりにとは言いませんが、私がアフリカン・アメリカンの最も真正な声として尊敬するグレン・フォードの最近(4月15日)の論説を、原文の儘、以下に引用させて貰います。:
http://www.blackagendareport.com/content/kagame-murderer-millions-congo-and-rwanda

Kagame: Murderer of Millions in Congo and Rwanda

A Black Agenda Radio commentary by executive editor Glen Ford

“Thanks to western media, the 1994 bloodbath in Rwanda is almost universally remembered only as a genocide against Tutsis.”

Paul Kagame, the U.S.-backed warlord and dictator of Rwanda, last week accused France and Belgium of complicity [7] in the mass killings in his country 20 years ago. It is true that France and Belgium, along with Britain, Spain, Portugal, Italy, The Netherlands, Denmark and Germany, are collectively responsible for the extermination of hundreds of millions ? of whole peoples ? all across the globe. However, in the case of the Rwanda genocide of 1994, the main criminals are Paul Kagame, himself, and his allies in neighboring Uganda and in the United States. After the frenzy of killing was done, U.S. President Bill Clinton and Ugandan strongman Yoweri Museveni then joined with Kagame to launch a war against the neighboring Democratic Republic of Congo that has claimed six million lives ? the greatest genocide, by far, since World War Two.
Back in 1994, Paul Kagame commanded thousands of Tutsi soldiers who had only recently been part of the Ugandan army, where Kagame served as chief of intelligence. Kagame had also studied at the U.S. Army Command and General Staff College in Fort Leavenworth [8], Kansas. His men invaded Rwanda, killing thousands of mostly Hutu civilians, in their drive to reestablish minority Tutsi rule over the country. In the midst of peace negotiations, someone shot down the plane that was carrying Rwanda’s Hutu president, Juvenal Habyarimana, and Cyprien Ntaryamira, also a Hutu and president of neighboring Burundi, a country with virtually the same history of Tutsi domination. The deaths of the two Hutu presidents set off renewed fighting ? which the United States did nothing to prevent ? resulting in the bloody return of the minority Tutsis to power, and the exile of over a million Hutus. Many tens of thousands of Hutus died before the presidents’ plane went down, and many more were slaughtered by Kagame’s forces afterwards but, thanks to western media, the 1994 bloodbath in Rwanda is almost universally remembered only as a genocide against Tutsis.
“The most logical murder suspect is Kagame’s own rebel Tutsi army.”
So, who shot down the presidents’ plane and set off this catastrophic chain of events? Paul Kagame and the United States make the fantastic claim that the Hutus killed their own presidents, in fear that they might sign a peace deal. There is no evidence of such a plot, which sounds counterintuitive on its face. The most logical murder suspect is Kagame’s own rebel Tutsi army, which was formed for the purpose of overthrowing Hutu majority governments in Rwanda and Burundi ? that is, to bring down people like the dead presidents.
For 20 years, Kagame has posed as the soldier who stopped the Rwandan genocide, when all evidence and logic point to him being the main perpetrator of the crime. Three U.S. presidents have acted as Kagame’s eager accomplices, using the bloody cloak of Rwanda to carry out a far larger genocide in the eastern Congo, and to justify the bogus doctrine of humanitarian military intervention.
Paul Kagame, like Barack Obama, has an extensive “Kill List,” and sends assassins around the world to knock off his political opponents. His Tutsi regime is the only ethnic minority government left on the African continent ? a darker version of apartheid. And yet, for the next several months notables from all around the globe will pay homage to Paul Kagame ? a mass murdering thug and assassin ? as if he is the savior of Africa.
For Black Agenda Radio, I’m Glen Ford. On the web, go to BlackAgendaReport.com. ■

藤永 茂 (2014年4月18日)


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