昔から私は坂東玉三郎の大ファンです。私と同じ気持ちの人々は世に溢れていると思います。随分前(1996年?)にカナダのテレビで観た坂東玉三郎とヨーヨー・マの共演のパフォーマンスも私の記憶にはっきりと残っています。数年前までは、いろいろなところに出かけて歌舞伎の舞台での玉三郎さんの数々の至芸に接してきましたが、外出が難しくなってからは、もっぱらテレビで観ています。
1月2日にNHKで『坂東玉三郎が愛した女~越路吹雪に魅せられて~』というドキュメンタリーを観て、玉三郎さんが一層好きになり、尊敬の念を深めました。越路吹雪や岩谷時子といった人々についても沢山のことを知ることができました。
中心的な話題の一つはシャンソン「愛の讃歌」でしたが、これについては、番組の枠を超えて、いろいろな想念、雑念が胸に浮かびました。「愛の讃歌」は越路吹雪の生涯の持ち歌になったそうで、彼女の「愛の讃歌」を玉三郎さんの番組で聴いて、それはそれなりに見事な歌唱だと感じましたが、私がこれまで無数回聴き続けてきたエディット・ピアフの「愛の讃歌」とは違う歌と思えました。越路吹雪の歌った歌詞が岩谷時子の筆になるものであり、ピアフその人の原詞の激しさが取り除かれていることにその理由の大半はあるのでしょうし、また、この二人の歌手の人生経験の相違だとする安直な説明もあり得ましょう。しかし、私には、ピアフの「愛の讃歌」と越路吹雪の「愛の讃歌」の違いは、歌手の声という楽器とその演奏、つまり、音楽としての違いから出ているように思えてなりません。さらに言えば、音楽家、芸術家としての力、資質とそれを磨き抜く心構えの違いの問題でしょう。
ピアフの墓はパリの東部にあるペール・ラシェーズという広大な(パリで最大の)墓地の中にあります。1871年のパリ・コミューン革命に参加した市民が追い詰められてこの墓地に立てこもり、147人が銃殺されました。墓碑の石板にある1871年5月21日〜28日は“血の一週間”と呼ばれます。5月28日で革命は終焉しました。私がこの墓地を訪れたのは2005年5月27日、ここで虐殺された市民たちの冥福を祈りました。ピアフの墓、ピアフが見出したと言われるイヴ・モンタンの墓(シモーヌ・シニョレと一緒)、その他にもお参りして、美しい5月のまる1日を楽しんだ憶えがあります。
イヴ・モンタンといえば「枯木」、玉三郎さんのCDアルバムにも「枯木」が含まれているようですが、私は彼の「ル・ガレリアン(漕役囚)」の最初の二行をよく口ずさみます。“Je m’souviens ma mér’ m’aimait Et je suis aux galères(母さんが僕を愛してくれていたこと、よく思い出す。でも、僕は今ガレー船漕ぎの囚人だ)”これは、ぐうたら息子の母恋しの歌です。讃歌と言っても良いかもしれません。私はこれを口ずさみながら、一人の並みの女性として精一杯に私を育ててくれた私の母を想います。母への愛の讃歌としては美輪明宏の「ヨイトマケの唄」があります。美輪明宏は、岩谷時子の歌詞よりもピアフの原詞に忠実な訳詞で「愛の讃歌」も唄っていて、これも感動的な歌唱ですが、原詞への思い入れが強すぎて、セアトリカルに傾き過ぎたかもしれません。私の好きな米良美一さんも「ヨイトマケの唄」を唄っていますが、ピアフの「愛の讃歌」も唄ってみて欲しいと思います。芸術家は表現の為に実際の体験を必要とはしないはずです。
歌唱力という日本の言葉があります。Singing abilityなどと訳してみてもはじまりません。万人がその意味するところを知っていると思います。坂東玉三郎さんは、行くところ可ならざるは無き多面的天才芸術家で、我々にとって実に貴重な存在ですが、シャンソン歌手としてはどうでしょうか? ここに来てシャンソンの歌唱を試みた理由として、玉三郎さんは、年をとると歌舞伎の舞台で必要な高音の声が出にくくなるので、その対策の一つとしてシャンソンを歌うことを思い立ったという意味の発言をなさっていたと思います。玉三郎さんらしい、誠に見上げた心がけで感服します。しかし、今回の「愛の讃歌」の歌唱は、まだ一種の素人芸にとどまっているような気がしてなりません。私の知る限り、プロを含めて、すべての人々が坂東玉三郎さんの「愛の讃歌」を絶賛していますが、それでいいのでしょうか? 坂東玉三郎さんは稀代の大芸術家です。あくまで芸を広め、高めることをやめない偉大な芸術家です。彼の芸に対する率直正当な評価こそ坂東玉三郎さんが最も求めるところではありますまいか。
藤永茂(2018年1月25日)
1月2日にNHKで『坂東玉三郎が愛した女~越路吹雪に魅せられて~』というドキュメンタリーを観て、玉三郎さんが一層好きになり、尊敬の念を深めました。越路吹雪や岩谷時子といった人々についても沢山のことを知ることができました。
中心的な話題の一つはシャンソン「愛の讃歌」でしたが、これについては、番組の枠を超えて、いろいろな想念、雑念が胸に浮かびました。「愛の讃歌」は越路吹雪の生涯の持ち歌になったそうで、彼女の「愛の讃歌」を玉三郎さんの番組で聴いて、それはそれなりに見事な歌唱だと感じましたが、私がこれまで無数回聴き続けてきたエディット・ピアフの「愛の讃歌」とは違う歌と思えました。越路吹雪の歌った歌詞が岩谷時子の筆になるものであり、ピアフその人の原詞の激しさが取り除かれていることにその理由の大半はあるのでしょうし、また、この二人の歌手の人生経験の相違だとする安直な説明もあり得ましょう。しかし、私には、ピアフの「愛の讃歌」と越路吹雪の「愛の讃歌」の違いは、歌手の声という楽器とその演奏、つまり、音楽としての違いから出ているように思えてなりません。さらに言えば、音楽家、芸術家としての力、資質とそれを磨き抜く心構えの違いの問題でしょう。
ピアフの墓はパリの東部にあるペール・ラシェーズという広大な(パリで最大の)墓地の中にあります。1871年のパリ・コミューン革命に参加した市民が追い詰められてこの墓地に立てこもり、147人が銃殺されました。墓碑の石板にある1871年5月21日〜28日は“血の一週間”と呼ばれます。5月28日で革命は終焉しました。私がこの墓地を訪れたのは2005年5月27日、ここで虐殺された市民たちの冥福を祈りました。ピアフの墓、ピアフが見出したと言われるイヴ・モンタンの墓(シモーヌ・シニョレと一緒)、その他にもお参りして、美しい5月のまる1日を楽しんだ憶えがあります。
イヴ・モンタンといえば「枯木」、玉三郎さんのCDアルバムにも「枯木」が含まれているようですが、私は彼の「ル・ガレリアン(漕役囚)」の最初の二行をよく口ずさみます。“Je m’souviens ma mér’ m’aimait Et je suis aux galères(母さんが僕を愛してくれていたこと、よく思い出す。でも、僕は今ガレー船漕ぎの囚人だ)”これは、ぐうたら息子の母恋しの歌です。讃歌と言っても良いかもしれません。私はこれを口ずさみながら、一人の並みの女性として精一杯に私を育ててくれた私の母を想います。母への愛の讃歌としては美輪明宏の「ヨイトマケの唄」があります。美輪明宏は、岩谷時子の歌詞よりもピアフの原詞に忠実な訳詞で「愛の讃歌」も唄っていて、これも感動的な歌唱ですが、原詞への思い入れが強すぎて、セアトリカルに傾き過ぎたかもしれません。私の好きな米良美一さんも「ヨイトマケの唄」を唄っていますが、ピアフの「愛の讃歌」も唄ってみて欲しいと思います。芸術家は表現の為に実際の体験を必要とはしないはずです。
歌唱力という日本の言葉があります。Singing abilityなどと訳してみてもはじまりません。万人がその意味するところを知っていると思います。坂東玉三郎さんは、行くところ可ならざるは無き多面的天才芸術家で、我々にとって実に貴重な存在ですが、シャンソン歌手としてはどうでしょうか? ここに来てシャンソンの歌唱を試みた理由として、玉三郎さんは、年をとると歌舞伎の舞台で必要な高音の声が出にくくなるので、その対策の一つとしてシャンソンを歌うことを思い立ったという意味の発言をなさっていたと思います。玉三郎さんらしい、誠に見上げた心がけで感服します。しかし、今回の「愛の讃歌」の歌唱は、まだ一種の素人芸にとどまっているような気がしてなりません。私の知る限り、プロを含めて、すべての人々が坂東玉三郎さんの「愛の讃歌」を絶賛していますが、それでいいのでしょうか? 坂東玉三郎さんは稀代の大芸術家です。あくまで芸を広め、高めることをやめない偉大な芸術家です。彼の芸に対する率直正当な評価こそ坂東玉三郎さんが最も求めるところではありますまいか。
藤永茂(2018年1月25日)