私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

リビアは全く別の問題である

2011-03-30 10:16:21 | 日記・エッセイ・コラム
 「プラハの春」という呼び名で記憶される1968年のチェッコスロヴァキアの変革運動はソ連の終焉崩壊の始まりをマークした事件でした。いま「アラブの春」という言葉が語り始められています。「アラブの春」はワシントン体制の終りの始まりを告げるものとして、歴史に残ることになるのでしょうか?
 私には分かりません。予感はむしろ暗い側に傾きます。リビアの狂人独裁者カダフィがリビアの人民を大量虐殺するのを阻止するという人道主義的目的を掲げた国連議決の下で始まった欧米による軍事介入は、リビアの反政府勢力とアラブ同盟が要請した「飛行禁止空域の設定」を遥かに超えた集中豪雨のようなミサイル攻撃と艦砲射撃で幕が切って落とされました。欧米側から武器の供給を受けた反政府勢力はリビアの国軍をじりじりと圧迫して前進を続けています。彼らは、かつて春の到来に歓喜して、プラハの街頭で、ソ連軍の戦車と対峙した無装備の若者たちとは異質の人間集団です。ついこの間、カイロのタハリール広場を埋めた人たちとも違います。
 しかし、3月20日に始まった欧米のリビア侵略が、何時の日にか、「アフリカの春」の始まりとして、400年続いた欧米のアフリカ黒人虐待システムの本当の終焉の始まりとして、人間全体の歴史の記憶に残ってほしいという強い願いと希望を、私は抱いています。
 いまのリビアの問題はアラブ世界の政治体制の民主化の問題ではありません。アフリカを自分たちの支配下に留めておきたいという欧米の強烈な意図の端的な表れです。アフリカ大陸は、自分とその一族の権力と富を維持増大させることだけしか考えていない腐敗し切った独裁的政治家が沢山います。その中でリビアのカダフィが飛び離れて惨たらしく残酷な独裁者だとは、私が調べる限り、どうしても思われません。我々はカダフィについてもリビャについても余りに無知に過ぎます。例えば、彼のGMR(Great Manmade River, リビア大人工河川)事業、ウィキペディアには、
#1953年、リビアにおける石油探査の際、内陸部のサハラ砂漠の地下深くに1万年以上前に蓄積された大量の地下水が眠っていることが発見された。1984年、その地下水を汲み上げ、海岸部のトリポリやベンガといった大都市や、トリポニタニア、キレナイカの農耕地帯に供給する大灌漑計画が発表された。25年計画であり、2009年度中の完成を目指している。カダフィ大佐は、この計画について「世界の8番目の不思議だ」と述べた。#
と説明されている河川土木事業に、カダフィのリビアは巨大な国費をつぎ込んで来ました。この巨大事業の究極的な是非については色々議論があるようですが、この計画によって、リビアの砂漠が緑化され、国として食糧の安価な自給が可能になることについては多大の支持者が存在します。石油産出からの収入をこのような形で有効に使っている国家は珍しいと言わねばなりません。中近東やアフリカの石油産出国では多数の大金持ちが生まれるのが通例ですが、フォーブスの世界長者番付には一人のリビア人の名もないようです。寿命・教育・生活水準などに基づいて国ごとの発展の度合いを示すHDI(Human Development Index,人間開発指数)という指数がありますが、2011年度試算では、リビアはアフリカ大陸で第一位を占めています。また、幼児死亡率は最低、平均寿命は最高、食品の値段はおそらく最低です。若者たちの服装もよく、教育費や医療費はほぼキューバ並みの低さに保たれているようです。
 いわゆるグローバリゼーションを推し進めて利潤の最大化を目指す国際企業群の常套手段は、まず給水機構を私有化し、安価な食糧を運び込んでローカルな食糧生産を破壊し、土地を買収し、現地で奴隷的低賃金労働者を調達し、そこで輸出向きの食糧生産を始めることです。アフリカ大陸の随所に見られるトレンドです。ところが、リビアでは、石油で儲けた金を治水事業に注ぎ、砂漠を緑化し、自国内で安価な食糧を生産しつつあります。これは国際企業群のもくろみに真っ向から逆らう動きであり、放っておくわけには行かないのです。
 リビア東部の都市ベンガジを拠点として、欧米の軍事力のカバーの下に、カダフィ政権を倒そうとしている反政府軍は、極端な貧困状態の改善、富の公平な分配、言論の自由を求める新世代の若者たちから成っているのではありません。今の私に断言できることはそれくらいです。カダフィ自身は、「ベンガジの反革命勢力」はリビアが黒人支配のアフリカ大陸の一部になることに反対する欧米ネオコンとアラブ人から成っている、と言います。アルカイダ過激派も含まれているとも言っています。現代随一の天一坊オバマ大統領を総帥とする欧米側の嘘はまことに堂に入ったものですが、カダフィの誇大妄想にも恐るべきものがありますので、反カダフィ陣営の正体は、正直なところ、私には掴めていません。しかし、はっきり見えていることがあります。そのヒントはカダフィが彼の敵を呼ぶ「反革命」という言葉に顔を出しています。
2002年に発足したアフリカ連合(AU, African Union)という組織があります。現在、モロッコをのぞく53のアフリカの独立国すべてが加盟しています。初代の議長は南アのムベキ大統領で、カダフィはその第7代議長(2009年~2010年)を務め、リビアは単独でAU の経費の約3割を負担したこともあります。AUが、やがて、黒人の大国アフリカ合衆国(USA!)として一致団結し、アフリカが植民地時代から完全に脱却することがカダフィの夢であり、リビアの内政も、独裁的で強引であるとは言え、この夢の線に沿うものであることは否定できません。アフリカ黒人によるアフリカ合衆国創設の夢の提唱は遠くガーナのエンクルマに遡りますが、それはガーヴィー(Marcus Garvey)などによって継承され、カダフィの声が現在ではもっとも大きく聞こえてきます。これがカダフィ自身の意識している「革命」なのです。夢のアフリカ合衆国の初代大統領として歴史に名を残すことが誇大妄想の狂人カダフィの個人的野望だという悪口を叩く人々もいますし、一理ある誹謗かもしれません。しかし、アフリカの54の国が団結して外部からの搾取を排除し、強力な一大陸国家になるという夢が世界中のアフリカ系黒人の心に強く訴えるのは当然のことです。欧米とアラブの保守勢力は一致して欧米の武力介入を要請しましたが、アフリカ連合は、その脆弱な内部構造にもかかわらず、一貫して武力介入に賛成せず、話し合いによるリビア国内紛争の解決を求めて努力を続けています。ムベキの後を継いだ南アのズーマ大統領(そうです、オバマの強い要請を蹴ってアリスティドのハイチ帰国を実現させたあのズーマです)は戦乱のリビアに乗り込んで話し合いによる紛争解決の希望を捨てていません。
 これまで勝手にアフリカを気まま勝手に料理してきた欧米とアラブの保守的勢力が、アフリカ合衆国創設の夢の方向にアフリカ諸国が動くことを嫌悪するのも不思議ではありません。カダフィが貧しい黒人国家から運び込んだ傭兵たちがベンガジ周辺でアラブ系反政府勢力を攻撃しているというニュースが頻りと流布されましたが、それは嘘だと思います。カダフィに金で買収されたり、操られてではなく、カダフィを支持して自ら進んで銃を取る黒人兵士がいくらでもいるのです。現在、欧米とアラブの反カダフィ勢力は強力ですから、カダフィの命運は尽きたのも同然でしょう。一巻の終わりです。しかし、今度の裏切られた「アラブの春」の情景の中に、嘘に塗り固められた、しかし、それ故に赤裸々な欧米諸国の真の姿を見抜いた無数の若い黒人たちが、北アフリカにも、南アフリカにも、いや世界中に、居ることでしょう。彼らの力のマグマがゆっくりと沈殿し鬱積して、何時の日か、アフリカの地底から天に向かって噴き上がる日が必ず来るに違いありません。「アフリカの春」はどうしても実現されなければなりません。

藤永 茂 (2011年3月30日)



再び西日本新聞を讃える

2011-03-23 10:58:52 | 日記・エッセイ・コラム
 この記事を3月21日(月)の朝から書き始めています。昨年年末、歌舞伎役者市川海老蔵の傷害事件で日本のマスメディアを挙げて大騒ぎしたことがありました。それに関して、2010年12月15日に『西日本新聞を讃える』という記事を出しました。その終りの部分を下に再録します。:
# それにしても大メディアあげての暴露的で嗜虐的な報道姿勢は何という浅ましさでしょう。海老蔵だけでなく、その妻、母親,父親に対する、さらには、梨園全体に対する悪口雑言は、報道者としての、どのような精神的姿勢から生まれてくるのでしょうか。よく売れそうな商品をでっち上げて企業収益をあげるためでしょうか。ジェズアルド(Carlo Gesualdo)やカラヴァッジョの時代にテレビや週刊誌がなくて本当に良かったと思います。
 ただ今度の騒ぎを通して、私が快哉を叫んだ快挙があります。12月7日から10日頃にかけての期間に、海老蔵事件について、一貫して、必要最小限の報道しかしなかった新聞があります。西日本新聞です。この地方新聞には、ジャーナリストとしての当然の志の高さを保っている人々が、依然として、巣食っているに違いないと私は思いました。それにつれて私の脳裏によみがえった一つの人名があります。菊竹六皷(きくたけろっこ、六鼓とも書きます)。今の西日本新聞の前身である福岡日日新聞の編集局長・主筆であった菊竹六皷は五・一五事件(1932年)に当っては敢然と軍部を批判し、また早くも1925年に婦人参政の必要を強調しました。この菊竹六皷の伝統が今の西日本新聞にも受け継がれていると想像するのは、まことに心楽しきものがあります。硬骨のジャーナリストとしては大阪朝日新聞の長谷川如是閑(にょぜかん)が有名ですが、菊竹六皷はそれに比肩する存在であったのです。インターネットの便利さを利用して、是非、この特筆すべき人物のことを知って下さい。#
 3月20日(日)朝、配達された西日本新聞の第1面トップが黒地に大きな白抜きの太文字で「仏、リビア空爆」と飾られているのを見て私は興奮を禁じることが出来ませんでした。購読しているのはこの地方紙一紙だけですが、私はほぼ確信に近い予感を抱いて近所のコンビニに行き、全国紙のすべての第1面トップ記事が福島原発関係であることを確かめました。
 天然自然という外界は、厳然として存在します。我々に求められているのは、天災と人災の区別をしっかりと見定めることです。世界的規模で我々にのしかかって来る人災の凄まじさを見定めるためには、3月20日という日にリビアで起ったことは,朝刊第1面のトップを占めるにふさわしいニュースであると私は考え、そして、西日本新聞の勇気ある英断を讃えます。
 実は今週のブログ記事として『リビアは全く別の問題である』を用意中だったのですが、同じく3月20日の日曜に起った重大事件としてハイチの大統領選挙のことを報告したいと思います。東北関東大地震という未曾有の国難に直面しているのに,何がハイチの選挙騒ぎだ-とお考えの方もおありでしょうが、まあ辛抱して読んで下さい。
 フロリダ半島の南、眼と鼻のところにある黒人の小国ハイチでは、昨年1月12日その首都ポルトープランス地域がマグニチュード7の直下型大地震に襲われ、死者は25万人以上、負傷者数十万人、2百万人以上が家を失い、1年以上たった今も約百万の人たちが家無しさんレベルのテント生活を強いられています。テント村に住む家族の75%は日々の食べ物にも事欠き、45%は未処理の水を飲み、30%は非衛生な便所を使っているそうです。国際空港の周辺と上層階級の住宅地区の瓦礫は片付けられましたが、全体としては瓦礫の80%はそのままの状態だといいます。これに追い打ちを掛けるようにして昨年10月にはハイチを占領している国連軍の派遣兵士がコレラを持ち込み、患者十数万人、今日までに死者は4千人に及んでいると考えられます。日本の被災者、ハイチの被災者の一人一人の受難をおもうと、統計的数字を比較すること自体が不謹慎な行為ですが、来年3月の日本の状態を想像することが許されるとすれば、ハイチの人々のこの一年間の苦難がどれほどひどいものかが分かります。
 「東北関東大地震の惨禍に直面して日本人が如何に立派に振る舞っているか、いま世界中から賞賛の言葉が浴びせられている。ハイチの惨状はハイチ人の責任だ。ハイチ人が駄目なのだ」という人があるとしたら、私はその軽挙を絶対に許したくありません。そうした人々がいるとすれば、まず、過去200年間にハイチで、フランス、米国、英国が何をしてきたか、その歴史をしっかりと勉強して頂きたい。そうすれば、3月20日にこの三つの国がリビアに対して行なったことが、ハイチの今の惨状と直接につながっていることがお分かりになるでしょう。また、同じ3月20日にハイチで強行された大統領選挙も全く同一線上の事件です。いまから4年間のハイチ大統領を決める決選投票は、アメリカが自国の国益のために全面的に画策演出した選挙であって、争っている二人のどちらもアメリカの走狗に過ぎません。ただこれからの4年間に、必ずやハイチで何かが起ることは間違いありません。私は希望を捨てません。300年を超えて延々と続いてきた植民地時代の、今度こそ本当の終焉を告げる歴史的事件がアフリカとハイチで起ることを祈っています。ハイチではインチキ選挙の二日前の3月18日、ハイチの貧困大衆が7年間その帰国を待ち続けたアリスティド前大統領が、アメリカの強力で執拗な妨害にもかかわらず、ハイチに帰って来ました。民衆が熱狂的にアリスティドを出迎えたのは言うまでもありません。なぜアメリカの熾烈な反対を押し切ってアリスティドの帰還が実現したか? それは、アメリカが思うままに操っていると思われていた二人の黒人政治家、ハイチの現大統領プレバルと南アフリカの現大統領ズーマが、アメリカの手に見事に噛み付いたのです。まず、プレバルは、オバマ大統領の反対を押し切って、自分の大統領の任期が切れるぎりぎりの時点でアリスティドに帰国のためのパスポートを発行しました。続いて、南アのズーマ大統領は、3月20日の選挙以前にアリスティドが南アを出国するのを阻止するようにというオバマの強い要請を蹴ってアリスティドを出国させました。この胸の透くような「Revolt of Africa(アフリカの反乱)」については、回を改めてお話しするつもりです。さすがの西日本新聞新聞もこの素晴らしい国際ネタまでは拾ってくれませんでした。

藤永 茂 (2011年3月23日)



事実とは何か

2011-03-16 11:30:24 | 日記・エッセイ・コラム
 裸の事実というものは存在しないという立場をとる人は沢山います。哲学者を始めとして一般の知識人にはその傾向が強いようです。自然界の現象については裸の事実は存在すると私は考えます。福島原発で何が起ったか、何が起っているか、については物理的に裸の事実が存在すると私は考えています。世に言う「事実」についての陳述のすべては、究極的に解釈の問題だという主張を私は受け容れません。しかし、私の言う裸の事実が何のバイアスもかからずに報道されることは極めて稀であることは、それこそ、事実です。
 1984年1月に出版した『おいぼれ犬と新しい芸』(岩波書店)という本の第4章「ロスアラモス研究所で」の中で、私は、1976年、アメリカのニューメキシコ州のアルバカーキー市にあるサンディア米空軍基地の中の国立原子力博物館を訪れた時の嫌な思い出話を書きました。その一部(pp66~67)を以下に書き写します。:
# 帰りのタクシーの到着を待つ間に、私は博物館のロビーで訪問者名簿に署名し、その横にあった『放射線-これが事実だ』という18ページのパンフレットを取り上げて読み始めた。発行元はアメリカ原子核協会となっている。その最初のページをみただけで、このパンフレットが、原子力産業の活動に由来する放射線が、量的に全く微小で安全なものであることを一般大衆に納得させる目的で作られたことは明らかだった。一貫して説得調の文章の中には科学的には科学的に正確なデータがいくらも含まれているだろう。パンフレットの結びの文章も、それなりに「事実」にもとづいているだろう。しかし、科学者のはしくれとしての私には、何とも読みづらい文章であった。
 「・・・・・ペンシルバニアでは1870年から1950年の間に3万人の炭坑夫が命を失った。80年間、毎日かかさず一人ずつ死亡した割合になっている。このような恐るべき死亡者数にくらべると、原子力産業の安全性の実績は、断然すばらしいものである。放射性元素は次第にその放射能、したがって毒性を失ってゆく。他の非放射性物質(たとえばヒ素)には永久に有毒のままのものがある。1976年7月、イタリアのセベソ一帯に工場事故のため放出されたダイオキシンの毒性は、いまだに減少のきざしがみえないことが、最近、ミラノのマリオネグリ研究所の所長によって報告されている。」
 つまり、このパンフレットの著者は、放射性物質の毒性はことさらに強調される傾向があるが、実際には他の毒性物質にくらべて、はるかに安全なのだ、という印象を読者に与えたいのだ。私は思う。事実そうかもしれぬ。しかし、何も、科学者が、すすんでこうした文章を書くことはない。書いてはならぬ。#
 今回の福島原発事故について,国外でもあらゆる報道や意見の表明が行なわれていますが、政治的な、また、産業経済的な配慮から生じる事実の隠蔽や歪曲や誇張は至るところで嗅ぎ付けられます。この状況の中で、原子力産業に関する基本的な事実を見据えるのは大変困難な作業ですが、時々刻々のアレコレの叫び声にあまり気を取られることなく、この全人類的な問題に就いてしっかりと考えたいものです。
 政治的あるいは経済的な力で事実がねじ曲げられてしまうことの極端な例は現在進行中のリビアの内戦です。リビアがどんな国か、カダフィとは何者か、世界に横行している殆どすべてのマスコミ記事は裸の事実を告げていません。その一方で、 No-Fly-Zone (飛行禁止空域)という欺瞞そのものの用語がしきりに飛び交っています。リビアの空をNo-Fly-Zoneに指定することが実際には何を意味するか、何故この言葉が用いられるのかを、私たちはいつも明確に意識しながら、マスコミに接しなければなりません。「世界に横行している殆どすべてのマスコミ記事は裸の事実を告げていない」と、私のような市井の一市民に何故はっきりと言えるのかを次回にお話しします。

藤永 茂 (2011年3月16日)



ハネケの<白いリボン>

2011-03-09 11:18:16 | 日記・エッセイ・コラム
 昨年の暮れ、私のブログを読んで下さったウイーン在住の近藤英一郎という方から、次のようなコメントを頂きました。:
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もしお時間がお有りでしたら、ミヒャエル-ハネケの<白いリボン>という映画をご覧になって下さい。
ハネケは、昨今のオーストリアが誇れる唯一の人物です。
日本で上映中のようなことを耳に挟みましたので。
16年間中欧で暮らして、ヨーロッパ人(様々な階層の)の、芯部底部にたびたび触れ、その時の、何ともいえないザラッとしたグロテスクな感触がそのまま描かれているので、心底、驚愕しました。
日本の能の様な印象でした。

映画がお好きのようですので、お知らせ致しました。

佳き新年を
近藤英一郎(在ウィーン)
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 映画<白いリボン>が2月末から一週間福岡でも上映されましたので観に行ってきました。
 この黒白の映画から受けた印象は大変つよく重いもので、ここでうまく要約して報告することは出来ません。これから長い間こころの中で反芻を続けることになると思います。人間が他の人間に対して如何に残酷でありうるか、何故これほどまで執拗に残忍であり得るか、その行為はどのような契機で触発されるか、この映画を観た人は、自分の胸の奥深くで、こうした問いに苛まれ続けることになります。
 映画を観た直後の日曜の夜、NHKの大河ドラマ「江(ごう)」を観ながら、しきりに<白いリボン>のことを想っていました。この大河ドラマをつくっている人たちとハネケとの間には気の遠くなるような距離があります。単なるエンターテインメントと真の芸術の差だと言ってしまえばそれまでですが、NHKのドラマの非戦反戦のメッセージの嘔吐を誘う浅薄さを私は嫌悪します。この粗雑なフィクションで我々視聴者をマニピュレート出来ると考えるほど、このドラマの制作者たちは我々一般日本人を馬鹿にしているのでしょうか。映画<白いリボン>でハネケはナチズムの発祥基盤の問題を意識していたという解釈は可能でしょうが、そうであるにしても、ハネケのメッセージの重さと真摯さには我々ひとりひとりの魂を真っ向から打ち据えてくるものがあります。少しふざけた物言いを許して頂くとすれば、男女同権、反戦平和と言ったお馴染みのお題目についても、<白いリボン>の方が「江(ごう)」より百倍も有効なプロモーション効果を発揮するに違いありません。

藤永 茂 (2011年3月9日)



ハイチの人々は今

2011-03-02 08:50:16 | 日記・エッセイ・コラム
 ハイチで、私が最も恐れていたことが現実になろうとしています。北アフリカと中東の反乱に直面してオバマ大統領は「我々は歴史を目撃した」と言いましたが、いまハイチで進行していること、間もなく表に現れてくる事態は、奴隷制度、植民地支配、人間集団が他の人間集団に加え得る底知れぬ残忍行為の恐怖を、あたかもジュラシック・パークの凶暴なティラノザウラスが突然われわれの目の前に躍り出てきたかのような生々しさで、我々に与えます。
 大震災から1年1ヶ月余、いまのハイチの惨状については、前回の私のブログに宛てた山椒魚さんの貴重なコメントをご覧になって下さい。その元の報告原文は
http://monthlyreview.org/110201kaussen.php
で読むことが出来ます。
 いまからハイチで起ろうとしている、私には、まことに信じ難い事態とは、完全に過去の記憶に属すると思われたデュヴァリエ独裁体制の事実上の復活です。それを強引に推進しているのはアメリカ、具体的にはスリック・ウィリー・クリントン、ヒラリー・クリントン、それに今や完全に米欧の走狗となった国連事務総長バン・キムンです。デュヴァリエ独裁体制とは、1957年から1986年まで30年の長期にわたってハイチを支配した恐怖の政治体制です。ウィキペディアから引用させてもらいます。
デュヴァリエ独裁政権
1957年、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデターが繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家のフランソワ・デュヴァリエが大統領に就任した。彼は福祉に長年かかわり保健関係の閣僚も歴任し、当初は黒人進歩派とみなされ「パパ・ドク」と親しまれたが、翌1958年から突然独裁者に転じ、警察や国家財政などを私物化し近代でもまれに見る最悪の軍事独裁体制を誕生させた。
デュヴァリエは戒厳令を敷いて言論や反対派を弾圧、秘密警察トントン・マクートを発足させ多くの国民を逮捕・拷問・殺害した。1971年にデュヴァリエは死亡し、息子のジャン=クロード・デュヴァリエ(「ベビー・ドク」)が継いだ。国家財政が破綻しクーデターでデュヴァリエが追われる1986年までの長期に渡り、デュヴァリエ父子主導の下、トントン・マクートの暗躍する暗黒時代が続いた。#
エジプトのムバラクも米欧の支持の故に30年間君臨を続けましたが、デュヴァリエ父子の支配はムバラクのそれに比べ物にならないような無茶苦茶なものでした。その支配の終焉も、エジプトとは異なり、人民の反抗運動によってではなく、宗主国アメリカにとってもその横暴無謀が手に余るようになったからだったのです。
 いまオバマ大統領を戴く“自由と民主主義の守護国”アメリカは北アフリカと中東の反政府運動を支持するかのような欺瞞の仮面を着けていますが、それと同時進行の形で、ハイチでは、白昼の下、30余年前の恐怖の支配体制を復活させようとしているのです。これこそ「真昼の暗黒」と呼んでしかるべき事態でしょう。
 昨年11月28日に大統領選挙が行なわれましたが、そのインチキ選挙について、2011年1月12日付けのブログ『ハイチの今とこれから』で,私は次のように書きました。:
# 選挙が強行されてから一ヶ月後の今、私の観察の要点を言えば、アメリカ政府/国連は、再選の許されない現大統領に代わる傀儡として、Jude Celestin (セレスタン) という中年の男を選び、インチキ選挙の当て馬として70歳の知名女性 Mirlande Manigat (マニガ)を当てがい、第一回投票の後、2011年1月16日にセレスタンとマニガの間で決戦投票が行なわれるというシナリオを作り上げてから、11月28日を迎えたと思われます。ハイチの人々だけではなく、世界中の人間を全く馬鹿にした暴挙の計画でしたが、投票が始まってから,眼前に展開された余りにもメチャクチャな状況を目にして、立候補者18名中の12名(マニガをふくむ)がその日の午後には、選挙の無効を宣言し、多数の投票所で民衆が暴動を起こし、MINUSTAHによって数人が射殺されました。投票現場でおおっぴらに行なわれた不正投票行為がどんなに凄まじいものであったかをカナダ公営放送CBCのテレビニュース(www.cbc.ca/news/)で、Paul Hunterというベテランの記者が詳しく報道していますので、関心のある方は是非ご覧下さい。#
申し訳ないことに、この読みにはいささかの誤りがありました。セレスタン候補はアメリカがプレヴァル大統領に選ばせたと私は読んでいたのですが、これは誤りで、投票日当日に、“インチキ選挙”の抗議をしたマニガ元大統領夫人とホップ歌手ミシェル・マーテリの二人の候補こそがアメリカ/国連が究極的候補者として選んでいた人物であったのでした。この選挙が極貧下層民を含む一般大衆が圧倒的に支持する政党ファンミ・ラバラスが始めから除外された選挙であったことは前にも何度か指摘しましたが、プレヴァルはアメリカの言いなりになる男に落ちぶれてしまっていたとは言え、元をただせばファンミ・ラバラス出身であったのです。
12月18日、投票結果なるものが発表され、マニガ女史が31.37%、現大統領プレヴァル、つまり、アメリカ/国連が推すセレスタン氏が22.48%の得票で、2011年1月16日に二人について決戦投票が行なわれることになったと報じられたのですが、わけの分からない票の数え直しとかで、第3位のマーテリが第2位に浮上し,1月16日の決選投票は取り消され、3月20日に、マニガとマーテリとの二人の間で決選投票が行なわれることになったようです。しかし、推定される有権者総数の1/4しか投票しない、あるいは出来ない状況では民意を反映した選挙結果がでることは始めから絶望です。
 こうした騒ぎの真っただ中の1月16日、「ベビー・ドク」ジャン=クロード・デュヴァリエ(59歳)がひょっこりハイチに帰って来て世界を驚かせました。息子デュヴァリエは1986年米軍機でフランスに亡命してそこで暮らしていたのです。首都ポルトープランスの空港に降り立った悪名高い前独裁者デュヴァリエが、ハイチの現在の支配階級の代表と思われる身なりの良い黒人紳士たちによって、歓声をもって迎えられる様子を報じる写真が流布されました。「私は祖国ハイチを助けるために帰ってきた」というのがデュヴァリエの帰国の言葉でした。デュヴァリエのこの動きがアメリカの主導でフランスやカナダの密な了解の下に行なわれたことは火を見るよりも明らかです。こうなると3月20日に予定されている大統領決定投票の結果は見え透いたものになります。いまのハイチを牛耳っているビル・クリントンは、去る2月15日に、大統領の座を争うミルランド・マニガとミシェル・マーテリの両者と会談しましたが、実は、両者ともデュヴァリエと密接な関係を持つ人物なのです。ミルランド・マニガの夫レスリー・フランソワ・マニガは「パパ・ドク」デュヴァリエに育てられた政治家で1988年2月から6月までの約5ヶ月間ハイチの大統領を務めました。夫人のミルランド・マニガはデュヴァリエ父子の独裁政治体制でハイチのゲシュタボの異名をとった恐怖の暴力集団トントン・マクート(Tonton Macoutes)の創設に加わったという説があります。もう一人の大統領候補者で歌手のミシェル・マーテリは若い頃その秘密警察トントン・マクートの一員だったそうです。二人とも、大統領になった暁には、今回帰国したジャン=クロード・デュヴァリエを政治顧問にすると言っています。
 これは全くあきれて物が言えない状況です。ハイチ国家に対する犯罪が明確に立証されているデュヴァリエの帰国が現実となった今、ハイチの民衆の大多数が依然として支持するアリスティドの帰国こそが実現されなければならないという声がハイチ国内でもアメリカ国内でも強く上がっていますが、オバマ政府がそれに応じる気配はありません。

藤永 茂 (2011年3月2日)