私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

『闇の奥』のアフリカはコンラッドの創作

2007-06-27 15:53:00 | 日記・エッセイ・コラム
 前々回には、コンラッドの小説『闇の奥』で読者が出会うアフリカはクルツのドラマが展開される舞台の小道具(props)あるいは背景幕(backdrop)として創作されたものだと書きました。今回はコンラッドが小説家として意識的に演出した「アフリカ」のことをもう少し検討してみたいと思います。
 「僕はフランスの汽船で出発した。船はあちらにある港という港に一つもらさず寄って行くのだが、僕の見た限り、兵隊と税関吏とを上陸させることだけがその目的のようだった。僕は大陸の沿岸を眺めていた。」(藤永、37)で始まるマーロウのアフリカの大西洋沿岸をたどる船旅は、途中で、フランスの軍艦が沖合から陸地に向けて砲弾を撃ち込んでいるのを目撃し、「三十何日目かに、やっとその大きな河の河口が見えてきた。船は政庁のある町の沖合に錨を下ろし」(藤永、41)、マーロウは上陸して終結します。ここまで読み進んだ読者の心の中には、不気味な灼熱の太陽のもとに広がる原始の「暗黒」大陸アフリカのイメージがしっかりと植え付けられるようになっています。
 このマーロウの船旅に対応するコンラッドのアフリカ西海岸の船旅の実際は、研究者たちの手によって、かなり詳しく知られています。1890年5月はじめ鉄道でブリュッセルからボルドーに着いたコンラッドは、5月6日、フランス船ヴィル・ド・マセオ号に乗って、コンゴ河の河口の町ボーマに向かって旅立ちました。途中に寄港した港の名前も知られて、その中にはシエラレオネのフリータウンも含まれていることに注目しましょう。また、フランスの軍艦の名前は Le Seignelay 、砲撃していた陸地はもと仏領植民地で今のベナン(ベニン)共和国だったと思われます。ところで、コンラッドがフリータウンからブリュッセルの叔母に出した元気な内容の手紙が残っていますが、小説『闇の奥』からはフリータウンに寄港した気配は何も読み取れません。
 マーロウのアフリカ西海岸の印象が小説『闇の奥』のナラティヴの一部としての創作であったことは、もう一度シエラレオネの歴史を思い出してみるとはっきりします。シエラレオネの首都フリータウンは、1792年、カナダから千人以上の解放奴隷が集団入植して来た時に建設され、1807年の英国の奴隷貿易禁止令発令の後は、英海軍が拿捕した密輸黒人奴隷をフリータウンに運んで解放したので、人口も急増し、1827年には、フォーラー・ベイ・インスティチュートというキリスト教系教育施設が出来て黒人の教育を始めました。フォーラー・ベイ・カレッジとも呼ばれ、1876年には英国のダラム大学の姉妹校にもなります。アフリカヌス・ホートンをはじめ、多数の黒人知識人を世に送り、彼らはシエラレオネだけではなく、アフリカ西海岸の他の英国植民地の黒人社会の上層を占め、植民地の政治的経済的経営に重要な役割を果たすようになって行きました。教育文化の中心としてフリータウンは「アフリカのアテネ」とさえ呼ばれたことがあったのです。2007年6月6日付けのブログ「英国植民地シエラレオネの歴史」(4)に書きましたが、こうした黒人知識層は、「スクランブル・フォー・アフリカ」の時流の中で、英国によって植民地経営から排除されて行きますが、西欧的教養と生活様式を身に付け、経済的にも地歩を固めた黒人達には、自分たちが何ら白人に劣らないことを、あえてデモンストレートしようとする傾向もありました。コンラッドがフリータウンに寄港してから6年後の1896年に、フリータウンの市会議員の黒人の豪華な結婚式が行われ、メアリー・スチュアート風の豪奢絢爛の花嫁さん衣装が町の話題になった記録が残っているようです。当時のフリータウンには多分に日本の鹿鳴館時代の雰囲気があり、丁度、日本人の場合にもそうであったように、「本物」のイギリスの紳士淑女たちは猿真似をする黒人たちを軽蔑して見下していたのでしょう。しかし、今はそのことを問題にしているのではありません。私が小説『闇の奥』の読者の注意を促したいのは、そこに提出されているアフリカ西海岸のイメージがコンラッドの意識的な創作であり、現実にコンラッドの船が寄港したアフリカ西海岸の港には、明治時代の日本人のような西洋かぶれの黒人達が結構居たということ-それが当時のアフリカ西海岸の現実であったということです。時おり岸からボートを漕ぎ出して、目玉の白い所がキラキラ輝かせ、叫んだり、歌ったりしている、「グロテスクな面のような顔つき」(藤永、39)の黒人ばかりではなかったということです。これを頭に入れておくのも無駄ではありますまい。
 さて、ボーマでフランス船を降りたマーロウは小さな蒸気船に乗ってマタディに着きます。
「とうとう河筋が開けてきた。岩ごつごつの崖が現われ、岸辺には掘り上げた土の山があり、丘の上の家々や、掘り返された土地の跡や急な勾配の所にしがみつくように建っているトタン葺きの家々が見えてきた。上流の方から早瀬の音が絶え間なく響いてきて、このひどく荒廃した感じの人里一帯に覆いかぶさって来ていた。」(藤永、42)
このマタディのイメージも、小説『闇の奥』と当時の実情とでは大変な違いがあったようです。実際には、百人を優に越すヨーロッパ白人が常駐している活気に満ちた交易拠点でした。同じことは中央出張所の所在地(レオポルドヴィル、今のキンサシャ)に就いても、クルツの奥地出張所の所在地(スタンリーヴィル、今のキサンガニ)に就いても言えます。つまり、小説『闇の奥』で我々が出会う「アフリカ」は小説家が創った作り物のアフリカなのです。
 ここで、急いでお断りをしておかなければなりません。一般論として、小説家コンラッドにはこうした創作を行う完全な自由があります。「小説の舞台はコンゴではない」と主張することさえ完全に許されています。しかし、もし、英文学者あるいは文学批評家が「これはアフリカと白人について語った作品である」とか「先駆的な反植民地主義文学の傑作である」と発言した場合には、この「創作されたアフリカ」の役割が当然問題となると私は考えます。

藤永 茂 (2007年6月27日)



臨時ニュース「子供たちの腕の切断について」

2007-06-20 11:16:18 | 日記・エッセイ・コラム
 拙著『「闇の奥」の奥』(2006年)の第1章「『地獄の黙示録』と『闇の奥』」の中心主題は、コッポラの映画『地獄の黙示録』を締めくくるカーツ大佐の最後の告白の中で語られる凄惨な事件です。アメリカ軍の医療班からポリオの予防接種をしてもらったベトナムの子供たちの腕を、ベトコンがすべて切り落として山積みにしたというのです。私にはこのエピソードに特別の興味を抱く強い理由がありました。しかし、私が目を通した多数の映画評やコンラッド研究者の論考で、この話の意義について論じたものには一つも見当たりしませんでした。ベトコンが同胞の子供たちに対して本当にこの蛮行に及んだのかどうか知りたいと思った私は、ベトナム戦争が進行していた頃のタイム、ニューズウィーク、ライフなどのアメリカの雑誌や、アサヒグラフなどをめくってみましたが、何も見当たらず、結局、この件について私が探し当てた唯一の文献はカール・フレンチ著『「地獄の黙示録」完全ガイド』でした。(拙著p23参照)。東京のベトナム大使館にも返信用封筒付きの問い合わせを送ったのですが、返答は貰えませんでした。
 ところが、数日前、ウィキペディア日本版の『地獄の黙示録』の項に次の文章が出ているのを見つけました。
「なお、エピソードの一つにカーツらが民生活動の一環として予防接種を行なった子供達の腕を、ベトコン達が切断して村の中心部に積み上げる、というものがあった。このエピソードは「事実無根」としてベトナム政府から抗議された経緯がある(結局修正されず)。 この映画の原案『闇の奥』の舞台となったコンゴ川一帯は、同作品が発表された当時、コンゴ自由国と呼ばれるベル ギー王レオポルド2世の私有国家となっており原住民への搾取政策が国際問題となっていた。この搾取政策の一端を語るエピソードとして、ゴム採取のノルマを達成できなかった原住民労働者の片腕を容赦なく切断したという記録があり、この話が物語に組み込まれたものと考えられる。」
これは、『「闇の奥」の奥』の著者の私として、重大な見落としであり、ウィキペディア日本版に寄稿された方にお詫びを申し上げると同時に、ベトナム政府の抗議とそれが無視された経緯について、それが映画『地獄の黙示録』公開のどの段階で、どのような形で行われたのか、是非ご教示をいただきたくお願いする次第です。
 2007年6月6日付けのこのブログでも取り上げたシエラレオネの反政府勢力RUFの兵士たちは、非戦闘員の一般市民の腕を多数切り落としたと伝えられています。5月2日付けのブログで言及した人肉食行為と同様、実際にあったことなのでしょう。私が問題にしたいのは、この種の事件に対する白人メディアの異常に敏感迅速な対応です。悲惨な内戦で撃ち合いをしているアフリカの黒人たちの間には、何かの油を体に塗り付けておくと弾が当っても死なないという“如何にも野蛮未開の黒人らしい”迷信が横行しているとも伝えられています。これも多分事実でしょう。理不尽に追い詰められた人間集団が荒唐無稽の迷信や不死の信仰に陥る場合は、歴史上いくらも記録されています。その最も有名なのは1890年代にアメリカ西部の先住民たちの間に広がったGhost Dance 運動でしょう。ご存じない方はネット上で是非チェックして下さい。フランツ・ファノンも、何処かで、ブードウー教がそうした役割を担った場合があったことを論じていたと記憶します。ガザ地区に閉じ込められて、あらゆる迫害に苦しめられているパレスティナ人たちの間に類似の現象が起っても何の不思議もありません。「ヘエー、アフリカの黒人というのは、今でも原始的なんだなー」と驚くだけでは済まされない問題がここにあります。
 
藤永 茂 (2007年6月20日)



沖合から陸地に砲弾を撃ち込む軍艦

2007-06-13 08:38:05 | 日記・エッセイ・コラム
 小説『闇の奥』の船乗りマーロウとアフリカ大陸との出会いは、具体的には、次のように始まります。「僕はフランスの汽船で出発した。船はあちらにある港という港に一つもらさず寄って行くのだが、僕の見た限り、兵隊と税関吏とを上陸させることだけがその目的のようだった。僕は大陸の沿岸を眺めていた。」(藤永、37)。このアフリカ西海岸に沿って下る船旅を30余日続けて、マーロウはコンゴ河の河口に着くのですが、それまでの文章は、読者の心の中に、話の舞台であるだけでなく、いわば主役でもあるアフリカ大陸というもののイメージを準備するための重要な部分であり、そこには、コンラッドの小説家としてのしたたかな筆力と計算が読み取れます。この部分で、コンラッド学者、批評家達が好んで取り上げる場面があります。フランスの軍艦が沖合から陸地に向けてしきりと砲弾を発射している場面です。
「憶えているが、沖合で錨を下ろした一隻の軍艦に出会ったことがあった。陸には小屋一つ見えなかったが、軍艦は陸の森林に向かって砲弾を撃ち込んでいるのだ。その地方でフランスがまた戦争をやっているらしかった。艦旗はぼろ切れのようにだらりと垂れ下がり、八インチ砲*の長い砲身が船腹の下部いっぱいにずらりと並んで突き出ていた。油みたいにぬらりとした海のうねりが、ゆっくりと船体を持ち上げ、また下ろす。それにつれて細いマストがぐらりと傾く。大地、大空、大海原の虚しい広がりの中で、何のことやら、ぽつんとこの一隻、しきりと砲弾を大陸に撃ち込んでいるというわけさ。ポーンと八インチ砲の一つが鳴る。小さな焔がパッと出ては消え、しばらくすると白煙も消え、小さな弾丸が微かな唸りを残して飛んで行く?だが、何も起こらない。起こりようがないんだ。進行していることが、なんだか気違いじみていて、大げさで、滑稽で、しかも、物悲しい笑劇でも見ているような感じだった。船客の一人が、ここからは見えないけれど、どこかに土着民の?彼は、敵の、という言葉を使ったが!?陣営があるのだと、まじめくさって説明してくれたが、はじめの感じは消えなかった。」(藤永、39-40)。
 この部分は、マーロウがコンゴ河の河口の陸地に上がってから、岸壁の無意味な爆破に出会う所(藤永、43)や、交易用の安物商品がいっぱい入れてあった草葺きの納屋が火事になった時、白人の男が底に穴の開いたバケツで水を汲んで消火に当っている場面(藤永、64)と共に、ヨーロッパがアフリカで行っている事の「うつろさ」を描いたものとして解釈されるのが普通のようです。しかし、Richard Wasmo は著書『The Founding Legend of Western Civilization』(1997)の中で、上の同じ一節(藤永、39-40)を引いて、別の解読を試みています。スイスで教鞭をとっているこの英文学者は、フランスの軍艦の陸地砲撃はアフリカ大陸の自然そのものを敵として、悪しきものとして措定し、「太陽が強烈に照りつけ、陸地は蒸気をしたたらせてギラギラ輝いている」(藤永、38)大陸では、住民達は歴史も文明も絶えて持つことのない野蛮状態に止まり、文明化された白人達も、そこに踏み込めばたちまち文明を忘れて堕落してしまうという『闇の奥』のメインテーマの準備をしているのだと解釈します。コンラッドがイギリスではなくフランスの軍艦としている事にも意味があるとしていますが、それはともかく、“敵性”大陸に沖合からポンポンと大砲の弾を浴びせるヨーロッパの愚行をコンラッドが皮肉っていることは間違いのないところだと思われます。ただ、恐らくコンラッドが実際に立ち会ったと思われるフランスの軍艦の陸地砲撃は、数十年後に東洋で生起した類似の事件によって、コンラッドの予期したかった象徴的意義を獲得したかもしれません。上掲の著書には朝鮮戦争(1950-1953)で実際にあった、信じられないような出来事が詳しく書いてあります。
 アメリカの映画監督ジョン・フォード(1894-1973)は「駅馬車」(1939)「荒野の決闘」(1946)「アパッチ砦」(1948)「シャイエン(の秋)」(1964)その他多数の西部劇映画の監督として名を残しましたが、朝鮮戦争では、米国海軍に依頼されて実戦のドキュメンタリー映画を撮影しています。戦艦ミズーリに乗り込んだフォードは、何か断然ドラマティックなシーンをフィルムに収録したいと考えて、戦艦の16インチの巨砲の全部を同じ方向に向けて、一斉射撃してほしいと頼み込みます。司令官は、米海軍の大戦艦ではそんなことはしたことがないので一斉射撃の反動でどの程度船体が傾くか分かっていないと危惧を表明したのですが、「そうなら、なおさらの事、一度実験してみたら」とフォードは司令官を説き伏せました。こうして、フォードとカメラクルーはヘリコプターに搭乗して上空に舞い上がり、戦艦ミズーリは16インチの巨砲の全てを左舷の北朝鮮の陸地に向けて一斉射撃を行ったのです。ミズーリ号は右舷の甲板に水しぶきが乗り上げてくる迄に傾きましたが、直ぐにクジラのように元の姿勢に戻り、フォードはお望みどおりの劇的なショットを撮影することが出来ました。ややあって、陸地のどこからか一連の炸裂音が遠雷のように響き返ってきたのでした。
 その昔、アフリカ西海岸で行われたヨーロッパ白人の愚かしい(absurd)蛮行が、その60年後、朝鮮半島の沖合でアメリカによって繰り返されたことになります。 Wasmo はこの二つの蛮行について次のように書いています。:
With respect to its telling, the absurdity of the event in Conrad reveals that a major operation in the text itself: blaming the landscape. In Korea, however, the absurdity of the event is subsumed in the perfectly rational process of its staging: Ford wants an impressive shot and gets it. Yet the telling highlights the absurdity that in order to get it, “somewhere” in Asia is in fact blown up by all those sixteen-inch shells. ・・・・・We’re doing it in order to watch ourselves doing it; let the shells fall where they may. And we are able to do it for the simple reason that is not our continent; it’s the other one, the generalized abode of a savage enemy, Africa or Asia ?? “Indian country” in the parlance of American military (lately used of southern Iraq) for any hostile territory.
日本にもジョン・フォードのファンが多いことでしょう。「怒りのぶどう」や「ミスター・ロバーツ」の名作もあります。しかし、北朝鮮の陸地に向けての戦艦ミズーリの16インチの巨砲の一斉射撃を撮影するジョン・フォードには幻滅です。16インチの巨大な砲弾を集中的に浴びた地点に非戦闘員の人々が居合わせなかったという保証は何もありませんし、現実、殺された人々が居たか居なかったかの問題よりも、ジョン・フォードを含めて、彼らには、迫力ある戦争ドキュメンタリーを製作する事しか念頭になかったという事実の方が,私たちを全くやりきれない気持にします。
 ここでまたアチェベの怒りのこもった声が聞こえてきます。スコットランドでコンラッド学者の一人から「アフリカはね、ミスター・クルツの精神崩壊の劇の単なる舞台背景さ」と告げられて、アチェベはこう叫びます。「Can nobody see the preposterous and perverse arrogance in thus reducing Africa to the role of props for the break-up of one petty European mind?」ここで、props は芝居の小道具を意味します。『闇の奥』でマーロウが万能の天才と持ち上げるクルツを、アチェベは「一つの取るに足らぬヨーロッパの心」と呼びます。『闇の奥』は、アフリカ大陸で、取るに足らない一人のヨーロッパ白人を襲ったホラーの物語です。アフリカはその劇の書割り(backcloth) に過ぎません。しかし、コンラッドはその背景幕を見事に創作しました。その出来映えが余計にアチェベを苛立たせたのかも知れません。

藤永 茂 (2007年6月13日)



英国植民地シエラレオネの歴史(4)

2007-06-06 09:35:32 | 日記・エッセイ・コラム
 今回の見出しも一人の黒人先駆者の名「アフリカヌス・ホートン」です。この人物は拙著『「闇の奥」の奥』にも、このブログにも登場して貰いました。
 現在のミニ・シリーズ「英国植民地シエラレオネの歴史」のポイントは、独立の前、つまり、英国が支配していたシエラレオネでどんなことがあったかを知ることです。松本仁一著『カラシニコフ』にあるシエラレオネの歴史の要約を、また、引用します: 
「1787年、英国が解放奴隷を移住させてフリータウンの町をつくる。そこを中心に「國」ができた。米国が1822年、解放奴隷を送り込んでつくった隣国リベリアと成り立ちがよく似ている。そして両国とも、近代型の国家を建設することができなかった。移住者が先住者を差別支配したからだ。黒人による黒人差別だった。国民同士が対立し、国家への一体感は育たない。健全な国民意識が発達しない中で、権力者はダイヤモンドなどの利権を私物化し、教育や福祉、医療、インフラ整備などの國の建設は放置された。」
今回は「移住者が先住者を差別支配したからだ。黒人による黒人差別だった。」という要約が正しくないことをはっきりと説明したいと思います。
 前回では、「自由の地」シエラレオネへの第1回入植(1787年)は惨憺たる失敗に終り、それを救ったのは、解放奴隷トーマス・ピーターズの熱意と努力によるカナダのノヴァスコシアからの千人を超える第2回入植(1792年)であったことをお話ししました。その後、1800年には、カリブ海の英国植民地ジャマイカから500人の解放奴隷がシエラレオネに入植しました。植民地の経営は民間の株式会社シエラレオネ社が行い、入植者たちは主に農業に従事しました。1807年、英国は奴隷貿易禁止に踏み切り、アフリカ西海岸から大西洋を渡ってアメリカに向かう奴隷輸送船を海上で拿捕し、積み荷の黒人奴隷をシエラレオネの中心地フリータウンで陸揚げして解放することを始めました。それで英国植民地シエラレオネの人口はどんどん増えて1868年頃には数万人の解放奴隷がフリータウンとその周辺に住むようになりました。アメリカの南北戦争(1861-1865)が終る頃から奴隷の密輸は衰退しますが、それまでの英海軍の海上拿捕で救われた奴隷の総数は、恐らく、十数万人と思われます。しかし、拿捕されない密輸船の数は拿捕された船の数を十倍以上も上回ったと考えられ、これは由々しい問題で、今後、アカデミックな一層の研究が望まれます。そもそも、18世紀、19世紀を通して、奴隷貿易で最大の儲けを貪っていたのは英国です。他国に先がけて、1807年、賑々しく奴隷貿易禁止令を発した後も、英国の手から頻りと水が洩れていたとすれば、自己欺瞞的な人道主義の仮面は薄い出来であったと申さねばなりません。人道主義を言うならば、もっとシリアスな事実があります。奴隷貿易が合法であった時も、奴隷達は丸太棒を並べるような恰好で密に船室に詰め込まれましたが、彼らを隠す必要はありませんでした。しかし、非合法になってからは、積み荷の奴隷達は、まるで密航者の集団のように、隠されることになり、膝を立ててしゃがみ、頭を両脚で挟んだ姿勢のままで、船艙にぎっしりと詰め込まれて大西洋を渡ったのです。ある者は,夜間、その姿勢のままに息を引き取り、生きて海を渡った者の中にも、その体形のままの不具者となり、商品価値を失ってしまう場合もありました。また、一人当たりの容積を小さくするために、子供奴隷の割合が断然大きくなったのでした。
 話をシエラレオネに戻します。アフリカ西海岸の沖で英海軍に拿捕された奴隷密輸船から救出され、フリータウンで自由の身となって解放される黒人達の出身地はアフリカ大陸の広い地域に分布していて、中にはアフリカの東部海岸地帯や、今のケニヤから来た者もありました。雑多な根無し草の束のようなもので、それぞれに言葉が違い、お互いの間のコミュニケーションが巧く行きませんでした。フリータウンの基礎を築いていたノヴァスコシアとジャマイカからの黒人達は、ある程度英語を使えたわけで、その一種なまった英語を元にして、シエラレオネに集められた自由の身の黒人達は、長い時間のうちに、彼らの間の共通語を作り上げて行きました。これがクリオ語と呼ばれる、シエラレオネで使われるようになったリンガ・フランカです。フリータウンを中心とする英国植民地シエラレオネでは、英国によって奴隷の苦境から解放され、クリオ語を共通語とする黒人たちは、英国に対する感謝や崇拝の気持の強い一つの人間集団を結成し、その子供達の中からは、キリスト教宣教師の教化の下で、本格的に英語を学んで英本国に留学する者達も出てきました。アフリカヌス・ホートンはそうした黒人の一人です。
 ホートンの父親は今のナイジェリアの東部で奴隷として捕らえられ、アフリカ西部海岸で密航奴隷船に詰め込まれましたが、英国軍艦のおかげで解放されてフリータウンに住み着き、大工として暮しを立てました。ホートンは1835年に生れ、子供の頃から大変な秀才ぶりを発揮し、1827年にシエラレオネの中心都市フリータウンに英国が設けた黒人教育施設フォーラー・ベイ・インスティチュートに学び、英軍から奨学金を得て英国に渡り、1859年エディンバラ大学で医師の免許を取りました。その年、軍医として英国陸軍の士官となり、21年間勤務して中佐の位まで昇進しました。当時、黒人としては異例のことでした。ホートンは、その勤務の時間の殆どを今のガーナ地方で過ごし、医療や研究活動のかたわら、政治経済にも関心を高め、1865年には、英国の大学をモデルにした黒人大学「西アフリカ大学」の創立を提唱しました。更に、1868年には著作「西アフリカの国々と人々」を出版して、シエラレオネを含む西アフリカ諸国の独立を論じたのでした。ホートンが唱えたのは全くのプロ・イギリス、アフリカの野蛮な伝統を完全に否定する文明開化路線で、彼は英語を日本の国語にしようとした森有礼(1847-1883)のアフリカ版のような人物でしたのに、英国当局は、次第に、アフリカヌス・ホートン(1835-1883)を厄介者の一人と見るようになり、英陸軍内で次から次へと部局を変えられるようになりました。その事態は、ホートン個人に対する警戒に加えて、19世紀中の英国政府のアフリカ植民地政策の変遷を反映していたのです。1868年といえば明治維新の年、それから後の日本の開国文明開化と“独立”国としての成功が、直接的に当時のアフリカの進歩的知識層に影響を与えたという、少なくとも私にとっては、驚くべき歴史的事実についても、これからお話をいたします。
 英国が奴隷貿易の禁止に踏み切った1807年の翌年、民間の植民地開拓会社シエラレオネ社は、手数ばかり掛かって思わしく儲けの上がらない新植民地を放棄し、英国政府の直接管理に委ねます。そのシエラレオネに英国軍艦が次々に運び込んでくる雑多な出身の黒人達は、アフリカとは言え、その地が見知らぬ異境であり、自分たちが疎外された他者であることをひしひしと感じた筈です。フリータウンが強引に建設されたシエラレオネは無人の空き地ではなく、英国が乗り込む以前には、その土地の首長たちがヨーロッパの奴隷貿易業者と盛んに駆け引きし、取り引きし、内陸の奥にも野蛮な“王様”たちが盤居していました。フリータウンとその周辺で生活を始めた黒人達は、英国政府の管理とキリスト教宣教師の教化の下で、生活条件の向上を目指す勤勉な人達となり、共通語(クリオ)も持ち、その中から、高い実務能力や学識を身に付ける者も出てきました。フリカヌス・ホートンがその良い例です。英国の奴隷対策の結果として、いわば、人工的に形成された黒人集団(クリオ黒人と呼んでおきます)は、19世紀前半、英国植民地シエラレオネの経営に次第に組み入れられ、生活モード的にも英国風に進んで同化して、その雰囲気は日本での鹿鳴館時代に似たものであったようです。実は、この時期、シエラレオネは英国政府にとって経営利益の振わないお荷物と化していて、気候風土が白人に向かないことも手伝って、植民地経営の実務が現地のクリオ黒人たちへ任される傾向が進み、この状況はシエラレオネ以外のアフリカ西海岸の英国支配地区にも広がって行きました。しかし、ここで、英国を手本にしてアフリカに進歩をもたらそうと考えるクリオ黒人たちを放棄するような、英国の政策転換の兆が現われます。お荷物に成りかけた支配地域の実権を、元は根無し草のクリオ黒人たちよりも、むしろ昔からの土地の実力者たちに譲る政策が採られたのです。しかも、ホートンが問題の書「西アフリカの国々と人々」を出版して、西アフリカ諸国の独立を提唱した1868年頃から、アフリカ西海岸のヨーロッパ植民地をめぐる風向きが変わり始めます。それは、十数年後にアフリカ全土を襲う「アフリカ分割争奪」( The Scramble for Africa )の嵐の前兆であったと言えます。
 「ザ・スクランブル・フォー・アフリカ」--アフリカの現状を理解するための最も基本的なこのキーワードは、「スクランブル」という言葉を、その語感をはっきり捉えることが必須になります。ただ「アフリカ分割」(The Partition of Africa)と訳しては全然意味をなしません。「あっという間の奪い合い」という感じを掴むことが必要です。1880年頃からおよそ20年という短い期間にヨーロッパの列強によって、まるでケーキを切り分けるように、アフリカの全土が領土的に分割争奪されてしまったのです。その境界線は、そこに昔から生を営んでいた住民たちには何の配慮も与えられず、何の相談もなしに、ただ白人列強間の力関係で決められてしまいました。これが深刻な後遺症を残さない筈はありません。
 シエラレオネに話を戻します。ヨーロッパがスクランブルに向かう気配を察知した英国は、シエラレオネを黒人のための自由な自治国にすることなど棚に上げて、領土的に周辺と奥地を固める方針を取り、その地の以前からの有力者との関係を重視して、クリオ黒人の軽視、排除に向かいます。それまでは、植民地の政界経済界の結構高い地位を多数のクリオ黒人が占めていたのですが、その数は急速に落ちて行きました。アフリカヌス・ホートンもその犠牲者の一人と看做すことが出来ます。
 ホートンが亡くなったのは1883年、明治維新が1867年、彼が日本での維新の成功を知り、それについて思いをめぐらした可能性は十分あるとされています。
非白人の小国日本が白人の大国を打ち負かした日露戦争(1904-1905)がアフリカ西海岸地方の進歩的な知識層黒人に与えた強い思想的影響は、Attoh Ahuma や Mensah Sarbah など、旧英領植民地「黄金海岸」の黒人の1910年頃の著作にはっきりと見ることが出来るそうです。彼らは元奴隷の末裔ではありませんでしたが、明らかにホートンの遺志を継いだインテリ黒人たちで、日本が固有の伝統を放棄することなく、しかも、急速な西欧化を成し遂げた事実が彼らに強い刺激と希望を与えたのでした。しかし、こうしたアフリカの坂本龍馬、勝海舟たちの夢は英国によって粉砕され、半世紀の沈黙を強いられました。英本国政府の帝国主義的な外交政策の変換の犠牲になったのです。
 以上が「アフリカヌス・ホートン」のお話です。舌足らずの話になりましたが、独立後のシエラレオネが「失敗国家」になったのは、「移住者が先住者を差別支配したからだ。黒人による黒人差別だった。」という説明が正しくないことを感じ取って頂けたでしょうか?
 セシル・ローズは英国が全世界を植民地にすれば世界平和が達成出来ると考えました。Niall Ferguson はセシル・ローズが生き返ったような歴史家で、その著書『帝国』には、英国植民地シエラレオネの歴史が馬鹿馬鹿しく美化して書いてあります。それによれば、かつて英国がシエラレオネに運んで来た黒人奴隷達が通った「自由の門」が今も残っていて、“Freed from slavery by British valour and philanthropy”と刻まれているそうです。これぞ、アングロサクソンの自己欺瞞と偽善のシンボルというべきでしょう。    
 松本仁一著『カラシニコフ』に残虐非道な反政府勢力として描かれているRUF(Revolutionary United Front) の起源は、その昔、アフリカヌス・ホートンが教育を受けたフォーラー・ベイ・インスティチュートの後身、シエラレオネ大学で1977年に起った学生騒動にあります。学生達の要求した事項は我が全学連のそれと似たようなものだったようですが、外からの締め付けの苛酷さに対応して、初心を忘れ、次第に狂的なレベルにエスカレートし、腐敗していったのでしょう。RUFの残虐行為は許すことの出来ないものですが、それが黒人に特有の野蛮性に発していると考えるのは誤りであると思います。

藤永 茂 (2007年6月6日)