前々回には、コンラッドの小説『闇の奥』で読者が出会うアフリカはクルツのドラマが展開される舞台の小道具(props)あるいは背景幕(backdrop)として創作されたものだと書きました。今回はコンラッドが小説家として意識的に演出した「アフリカ」のことをもう少し検討してみたいと思います。
「僕はフランスの汽船で出発した。船はあちらにある港という港に一つもらさず寄って行くのだが、僕の見た限り、兵隊と税関吏とを上陸させることだけがその目的のようだった。僕は大陸の沿岸を眺めていた。」(藤永、37)で始まるマーロウのアフリカの大西洋沿岸をたどる船旅は、途中で、フランスの軍艦が沖合から陸地に向けて砲弾を撃ち込んでいるのを目撃し、「三十何日目かに、やっとその大きな河の河口が見えてきた。船は政庁のある町の沖合に錨を下ろし」(藤永、41)、マーロウは上陸して終結します。ここまで読み進んだ読者の心の中には、不気味な灼熱の太陽のもとに広がる原始の「暗黒」大陸アフリカのイメージがしっかりと植え付けられるようになっています。
このマーロウの船旅に対応するコンラッドのアフリカ西海岸の船旅の実際は、研究者たちの手によって、かなり詳しく知られています。1890年5月はじめ鉄道でブリュッセルからボルドーに着いたコンラッドは、5月6日、フランス船ヴィル・ド・マセオ号に乗って、コンゴ河の河口の町ボーマに向かって旅立ちました。途中に寄港した港の名前も知られて、その中にはシエラレオネのフリータウンも含まれていることに注目しましょう。また、フランスの軍艦の名前は Le Seignelay 、砲撃していた陸地はもと仏領植民地で今のベナン(ベニン)共和国だったと思われます。ところで、コンラッドがフリータウンからブリュッセルの叔母に出した元気な内容の手紙が残っていますが、小説『闇の奥』からはフリータウンに寄港した気配は何も読み取れません。
マーロウのアフリカ西海岸の印象が小説『闇の奥』のナラティヴの一部としての創作であったことは、もう一度シエラレオネの歴史を思い出してみるとはっきりします。シエラレオネの首都フリータウンは、1792年、カナダから千人以上の解放奴隷が集団入植して来た時に建設され、1807年の英国の奴隷貿易禁止令発令の後は、英海軍が拿捕した密輸黒人奴隷をフリータウンに運んで解放したので、人口も急増し、1827年には、フォーラー・ベイ・インスティチュートというキリスト教系教育施設が出来て黒人の教育を始めました。フォーラー・ベイ・カレッジとも呼ばれ、1876年には英国のダラム大学の姉妹校にもなります。アフリカヌス・ホートンをはじめ、多数の黒人知識人を世に送り、彼らはシエラレオネだけではなく、アフリカ西海岸の他の英国植民地の黒人社会の上層を占め、植民地の政治的経済的経営に重要な役割を果たすようになって行きました。教育文化の中心としてフリータウンは「アフリカのアテネ」とさえ呼ばれたことがあったのです。2007年6月6日付けのブログ「英国植民地シエラレオネの歴史」(4)に書きましたが、こうした黒人知識層は、「スクランブル・フォー・アフリカ」の時流の中で、英国によって植民地経営から排除されて行きますが、西欧的教養と生活様式を身に付け、経済的にも地歩を固めた黒人達には、自分たちが何ら白人に劣らないことを、あえてデモンストレートしようとする傾向もありました。コンラッドがフリータウンに寄港してから6年後の1896年に、フリータウンの市会議員の黒人の豪華な結婚式が行われ、メアリー・スチュアート風の豪奢絢爛の花嫁さん衣装が町の話題になった記録が残っているようです。当時のフリータウンには多分に日本の鹿鳴館時代の雰囲気があり、丁度、日本人の場合にもそうであったように、「本物」のイギリスの紳士淑女たちは猿真似をする黒人たちを軽蔑して見下していたのでしょう。しかし、今はそのことを問題にしているのではありません。私が小説『闇の奥』の読者の注意を促したいのは、そこに提出されているアフリカ西海岸のイメージがコンラッドの意識的な創作であり、現実にコンラッドの船が寄港したアフリカ西海岸の港には、明治時代の日本人のような西洋かぶれの黒人達が結構居たということ-それが当時のアフリカ西海岸の現実であったということです。時おり岸からボートを漕ぎ出して、目玉の白い所がキラキラ輝かせ、叫んだり、歌ったりしている、「グロテスクな面のような顔つき」(藤永、39)の黒人ばかりではなかったということです。これを頭に入れておくのも無駄ではありますまい。
さて、ボーマでフランス船を降りたマーロウは小さな蒸気船に乗ってマタディに着きます。
「とうとう河筋が開けてきた。岩ごつごつの崖が現われ、岸辺には掘り上げた土の山があり、丘の上の家々や、掘り返された土地の跡や急な勾配の所にしがみつくように建っているトタン葺きの家々が見えてきた。上流の方から早瀬の音が絶え間なく響いてきて、このひどく荒廃した感じの人里一帯に覆いかぶさって来ていた。」(藤永、42)
このマタディのイメージも、小説『闇の奥』と当時の実情とでは大変な違いがあったようです。実際には、百人を優に越すヨーロッパ白人が常駐している活気に満ちた交易拠点でした。同じことは中央出張所の所在地(レオポルドヴィル、今のキンサシャ)に就いても、クルツの奥地出張所の所在地(スタンリーヴィル、今のキサンガニ)に就いても言えます。つまり、小説『闇の奥』で我々が出会う「アフリカ」は小説家が創った作り物のアフリカなのです。
ここで、急いでお断りをしておかなければなりません。一般論として、小説家コンラッドにはこうした創作を行う完全な自由があります。「小説の舞台はコンゴではない」と主張することさえ完全に許されています。しかし、もし、英文学者あるいは文学批評家が「これはアフリカと白人について語った作品である」とか「先駆的な反植民地主義文学の傑作である」と発言した場合には、この「創作されたアフリカ」の役割が当然問題となると私は考えます。
藤永 茂 (2007年6月27日)
「僕はフランスの汽船で出発した。船はあちらにある港という港に一つもらさず寄って行くのだが、僕の見た限り、兵隊と税関吏とを上陸させることだけがその目的のようだった。僕は大陸の沿岸を眺めていた。」(藤永、37)で始まるマーロウのアフリカの大西洋沿岸をたどる船旅は、途中で、フランスの軍艦が沖合から陸地に向けて砲弾を撃ち込んでいるのを目撃し、「三十何日目かに、やっとその大きな河の河口が見えてきた。船は政庁のある町の沖合に錨を下ろし」(藤永、41)、マーロウは上陸して終結します。ここまで読み進んだ読者の心の中には、不気味な灼熱の太陽のもとに広がる原始の「暗黒」大陸アフリカのイメージがしっかりと植え付けられるようになっています。
このマーロウの船旅に対応するコンラッドのアフリカ西海岸の船旅の実際は、研究者たちの手によって、かなり詳しく知られています。1890年5月はじめ鉄道でブリュッセルからボルドーに着いたコンラッドは、5月6日、フランス船ヴィル・ド・マセオ号に乗って、コンゴ河の河口の町ボーマに向かって旅立ちました。途中に寄港した港の名前も知られて、その中にはシエラレオネのフリータウンも含まれていることに注目しましょう。また、フランスの軍艦の名前は Le Seignelay 、砲撃していた陸地はもと仏領植民地で今のベナン(ベニン)共和国だったと思われます。ところで、コンラッドがフリータウンからブリュッセルの叔母に出した元気な内容の手紙が残っていますが、小説『闇の奥』からはフリータウンに寄港した気配は何も読み取れません。
マーロウのアフリカ西海岸の印象が小説『闇の奥』のナラティヴの一部としての創作であったことは、もう一度シエラレオネの歴史を思い出してみるとはっきりします。シエラレオネの首都フリータウンは、1792年、カナダから千人以上の解放奴隷が集団入植して来た時に建設され、1807年の英国の奴隷貿易禁止令発令の後は、英海軍が拿捕した密輸黒人奴隷をフリータウンに運んで解放したので、人口も急増し、1827年には、フォーラー・ベイ・インスティチュートというキリスト教系教育施設が出来て黒人の教育を始めました。フォーラー・ベイ・カレッジとも呼ばれ、1876年には英国のダラム大学の姉妹校にもなります。アフリカヌス・ホートンをはじめ、多数の黒人知識人を世に送り、彼らはシエラレオネだけではなく、アフリカ西海岸の他の英国植民地の黒人社会の上層を占め、植民地の政治的経済的経営に重要な役割を果たすようになって行きました。教育文化の中心としてフリータウンは「アフリカのアテネ」とさえ呼ばれたことがあったのです。2007年6月6日付けのブログ「英国植民地シエラレオネの歴史」(4)に書きましたが、こうした黒人知識層は、「スクランブル・フォー・アフリカ」の時流の中で、英国によって植民地経営から排除されて行きますが、西欧的教養と生活様式を身に付け、経済的にも地歩を固めた黒人達には、自分たちが何ら白人に劣らないことを、あえてデモンストレートしようとする傾向もありました。コンラッドがフリータウンに寄港してから6年後の1896年に、フリータウンの市会議員の黒人の豪華な結婚式が行われ、メアリー・スチュアート風の豪奢絢爛の花嫁さん衣装が町の話題になった記録が残っているようです。当時のフリータウンには多分に日本の鹿鳴館時代の雰囲気があり、丁度、日本人の場合にもそうであったように、「本物」のイギリスの紳士淑女たちは猿真似をする黒人たちを軽蔑して見下していたのでしょう。しかし、今はそのことを問題にしているのではありません。私が小説『闇の奥』の読者の注意を促したいのは、そこに提出されているアフリカ西海岸のイメージがコンラッドの意識的な創作であり、現実にコンラッドの船が寄港したアフリカ西海岸の港には、明治時代の日本人のような西洋かぶれの黒人達が結構居たということ-それが当時のアフリカ西海岸の現実であったということです。時おり岸からボートを漕ぎ出して、目玉の白い所がキラキラ輝かせ、叫んだり、歌ったりしている、「グロテスクな面のような顔つき」(藤永、39)の黒人ばかりではなかったということです。これを頭に入れておくのも無駄ではありますまい。
さて、ボーマでフランス船を降りたマーロウは小さな蒸気船に乗ってマタディに着きます。
「とうとう河筋が開けてきた。岩ごつごつの崖が現われ、岸辺には掘り上げた土の山があり、丘の上の家々や、掘り返された土地の跡や急な勾配の所にしがみつくように建っているトタン葺きの家々が見えてきた。上流の方から早瀬の音が絶え間なく響いてきて、このひどく荒廃した感じの人里一帯に覆いかぶさって来ていた。」(藤永、42)
このマタディのイメージも、小説『闇の奥』と当時の実情とでは大変な違いがあったようです。実際には、百人を優に越すヨーロッパ白人が常駐している活気に満ちた交易拠点でした。同じことは中央出張所の所在地(レオポルドヴィル、今のキンサシャ)に就いても、クルツの奥地出張所の所在地(スタンリーヴィル、今のキサンガニ)に就いても言えます。つまり、小説『闇の奥』で我々が出会う「アフリカ」は小説家が創った作り物のアフリカなのです。
ここで、急いでお断りをしておかなければなりません。一般論として、小説家コンラッドにはこうした創作を行う完全な自由があります。「小説の舞台はコンゴではない」と主張することさえ完全に許されています。しかし、もし、英文学者あるいは文学批評家が「これはアフリカと白人について語った作品である」とか「先駆的な反植民地主義文学の傑作である」と発言した場合には、この「創作されたアフリカ」の役割が当然問題となると私は考えます。
藤永 茂 (2007年6月27日)