私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

パトリス・ルムンバの暗殺(3)

2011-11-30 10:59:45 | 日記・エッセイ・コラム
キャンベル教授の論考:
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.
(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の翻訳を続けますが、前回のブログあてに、ダグ・ハマショルドについて、seki_yo さんから、キャンベル氏のハマショルド観に異論があるというコメントを戴きましたので、それに少しお答えします。キャンベル氏の筆致は最終的にはハマショルドがルムンバ側に回り、そのために暗殺されたという印象を与えますし、私が付けた[訳者注]はそれを更に強化したかもしれません。ハマショルドの死が暗殺であったかどうかは不明で、主流の見解は単純な航空機事故死ですが、去る9月16日付けの英国紙「ガーディアン」に,暗殺説を強く示唆する新著のことが報じられています。Susan Williams の『Who Killed Hammarskjöld 』です。記事によると、ハマショルドを乗せたDC-6 はカタンガ地方の分離独立を求めていた欧米勢力の傭兵が操縦する戦闘機によって撃墜されたということのようです。カタンガの白人たちとCIA、M15 の関与は、1998年にDesmond Tutu によっても取り上げられたことがありました。ハマショルドの遺族が調査の再開を要求しています。
 私のような立場の人間には、こうした事の黒白をつける手段がありませんが、何であれ、一つの事件についてしばらく読み続けていると、事の真偽を嗅ぎ分ける一種の直感的能力のようなものが育ってくるような気がします。もしかするとそれは個人的な好き嫌いが育つのを取り違えているのかも知れませんが。いま翻訳を続けている上掲のキャンベル氏の論考の後半にも出て来ますが、ルムンバやハマショルドが死んだちょうど50年前のコンゴでCIAのdirty jobs を切り盛りしていた Larry Devlin という人物(2008年12月,86歳で歿)が2008年2月に出版した『Chief of Station, Congo 』という注目すべき回顧本があります。“真相は実はこうだった。今だから話そう”といったタイプの書きぶりで、ルムンバの暗殺にもハマショルドの墜落死にもCIA は関与しなかったとしています。ちょうど今の私と同じ年齢に達した老人が、今はの際に、真実を語ったのかも知れませんが、この本を読みながら、私の直感的臭覚はCIA の鼻持ちならぬ悪臭を嗅ぎ付けます。
 もう一つ、キャンベル氏がこれから言及するジョン・F・ケネディの暗殺に関連して、ほんの数日前(11月22日)、ハバナのグランマ紙は、ケネディが暗殺される1ヶ月程前にフランスのジャーナリストJean Daniel (Bensaid) に、カストロのキューバと国交正常化の意向があることを表明していたことを伝えていました。私としては、これは事実であったろうと考えます。政権がアイゼンハワーからケネディに変わった時、アフリカ政策についてもCIA の好まない方向への転換のきざしがあったのも事実です。
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 (キャンベル教授の論考の翻訳の続き)
『JFK: Ordeal in Africa(ジョン・F・ケネディ:アフリカでの厳しい試練)』を書いたリチャード・マホニーはアメリカがルムンバの暗殺に関与したとされた時代にコンゴをコントロールするために投じられた莫大なエネルギーの研究を遂行した。マホニーはこの政策の強行を愚行の物語と呼んだ。ジョン・ホプキンズ大学博士号学位論文の内容となったこの研究は、1960年代に、どのようにしてコンゴがアメリカ外交政策の最重要課題となったかを詳論した。マホニーは、アメリカの外交政策は目標において混乱し、実行において矛盾に満ちたものであったと論じた。
 しかし、彼は大学院での研究修練の現実主義的かつ男性中心的想定に対して挑戦することはしなかった。パトリス・ルムンバに代わるものを構築しようとしてモブツへの大規模な支持に結果した過程でのCIA と米国国務省要員の役割は、これまで数多の論考の対象となって来た。その一つ、“アメリカの暴君:CIA とザイールのモブツ”といみじくも題された論考は、モブツにコンゴ人民を暴君的に支配することを許した、アメリカの軍事、経済、諜報の機構の全般をカバーしている。
 クリントン大統領は、冷戦中アメリカはソ連との対決の重要さに目がくらみ、モブツのごとき人物を支持してしまったと表明することで、1998年3月ウガンダのカンパラでアフリカ人一般に向かって陳謝したが、これでアメリカ当局とモブツとの癒着を大統領がはっきり言及したわけだ。我々はこうしたアメリカの指導的人物の謝罪が単なる政治的カラクリではないことをどうして確かめ得ようか? 現時点でもこれらの暗殺とアメリカ権力機構との関係のより明確な暴露が必要である。パトリス・ルムンバを毒殺しようとした企てはその後アフリカで実験が行なわれることとなった細菌戦争の心理的枠組が露呈したものであった。アメリカがその実験を異様な演出で行なったのがコンゴにおいてであったという現実を指摘した学者も居る。[訳者注:この部分の意味は分明でないが、アイゼンハワー大統領の意向にしたがってCIA が毒薬入りの歯磨きでルムンバを暗殺しようと試みて失敗したのは事実と思われる。実は上掲のデヴリンという元CIA幹部要員の本にも、当事者の一人の発言として、この話が出ている。その96頁には“I find it difficult to kill any living thing, even the smallest insect.”だから、そんなことは命令されてもとても出来なかった、と言っている。こんなことを言うCIA 工作員の回顧録が信じられようか?]
 クリントン大統領のその時の演説も当時の国家安全保障会議関係の政策表明も、ルムンバ抹殺の悪業を陰謀的に推進することをためらわなかった多国籍企業の過去と現在の政策行動に結びつけてはいない。その理由は次の事情にある。冷戦中、国家官僚機構と大学の連携が度を過ぎた現実主義パラダイムに傾いた学者の一世代を生み出し、彼らが、諸財団、大学、ペンタゴン、シンク・タンク、国家安全保障会議の間に広がって行ったのである。それは回転ドアを見ているようなもので、彼らはお互いに論文を引用し合い、お互いの仕事を持ち上げて、真実への障壁を提供して来た。時々、アフリカ各地域ハンドブックが出版されて、それが御用学者によって裁可された諸概念を集約する基礎になった。これらの学者たちはアフリカにおけるアメリカの政策に政治的正当性を与えるための手の込んだ作業に参画してきたのである。(続く)
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 この後、キャンベル氏は、そうした冷酷な現実主義者たちの代表としてヘンリー・キッシンジャーの名を挙げて、アフリカに関して彼らが垂れ流した害毒を追求し、新しいアフリカ学の樹立を求めます。やがてCIA幹部工作員デヴリンの事も出て来ます。

藤永 茂     (2011年11月30日)


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パトリス・ルムンバの暗殺(2)

2011-11-23 11:05:23 | インポート
  前回に翻訳を始めたキャンベル教授の論考:
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.
(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の翻訳の続きです。
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  コンゴで西欧が犯した残虐行為の記録文書は著述家アダム・ホクシールドのおかげでより広くの人々の知るところとなった。彼の著書“レオポルド王の亡霊”はアフリカ人の研究者や学者が及びうるより広汎な読者層に達したのだ。ホクシールドはマーク・トウェーンの作品を足場にして植民地経営がもたらした略奪と殺戮をより多くの人々に知らしめた。
  マルコムXは、彼の全盛期に、主流の歴史家たちに挑戦して、アフリカ全土にわたる大虐殺の歴史をルムンバの殺害とコンゴ人の民族自決の希求に結びつけた。
  米欧のアフリカ研究の諸センターで学問的訓練を受けた学者たちは繰り返される暗殺についてはっきりと書くことが出来ないでいたが、それはアカデミックな世界がアフリカ人を非政治化する役を果たす近代化論的論説に汚染されてしまっていたからだ。
  マルコムXはコンゴにおける大虐殺の詳細を明らかにすべしとアメリカの学者たちに迫った。1964年11月24日ブルックリン・カレッジで行なわれたこのやり取りは広く伝えられたが,教授たちはマルコムXに反論して、彼の発言は人騒がせに過ぎず、レオポルド王は人道主義的事業を展開してアフリカ人を文明化したと言い立てた。
  元米国下院議長ニュート・ギングリッチを育てた知的環境とはこうしたものだったのだ。ギングリッチは、テュレーン大学で、ベルギーがコンゴで果たした文明化の役割に関する博士論文を書いた。ウィスコンシン大学のアフリカ研究センターのような幾つかの学問中心にはコンゴ政治専門の学者がたむろしていた。それらの教授たちの学生であった人々が、過去40年間、US の官僚とアカデミアの世界に君臨を続け、アフリカ現代化理論とアフリカの“部族”社会の不機能論を再生産し続けて来たのである。[訳者注:ギングリッチは次期大統領選挙への出馬を表明している]
  マルコムXは彼自身1965年2月に暗殺されたが、それはアメリカ合州国内の人種差別と抑圧はアフリカにおける虐殺暗殺と連なっているという明確な認識を表明した直後であった。 “コンゴで何が起っているかが分からなければ、ミシシッピーで何が起っているかを理解することは出来ない”という彼の有名な言葉は、今も彼の口から発せられた時と同様に真実なのである。
  現在のコンゴ民主共和国、とくに東部地域の軍事的危機は、政治活動家に、現在を理解し、未来の新しい進路を描くために、過去の歴史の重荷をしっかりと身に感じる必要があることを示している。こうしたマルコムXの発言は人々に真実を告げ、人々を動かす者としての彼の仕事の一部であった。1964年ジョンソン政府がコンゴの二度目の独立闘争を流産させようとして外国傭兵隊の支援に乗り出した後に、マルコムXはAbdurrahman Babu とチェ・ゲバラと会合した。その会合で、コンゴとさらにはアフリカにおいて自由解放の計画を立てるという政治的動員を乗り越えて行動をおこすための戦略で彼らは一致した。三人の偉大な自由の戦士たちのこの歴史的会合から4ヶ月後にマルコムXはハーレムで銃弾に倒され、続いてCIAはチェ・ゲバラを追いつめて殺害した。その詳細はKarl Evanzz の著書“The Judas Factor: The Plot to Kill Malcom X (ユダ的代理人:マルコムX殺害プロット)”の中にある。Manning Marable教授もその殺害陰謀と隠蔽を暴露する新著を執筆中だ。[訳者注:マニング・マラブルは2011年4月1日肺炎で亡くなった。享年60歳。コロンビア大学教授で黒人問題専門家として著名な存在だったが,穏健派ないしは白人主流寄りの学風だった。死の直前に出版されたマルコムXの伝記は崇拝の対象としてのマルコムXの偶像の破壊を試みた内容で、出版後、はげしい論争の的になった。 Karl Evanzz もマラブルのマルコムX 像を強く批判した。一方、この伝記には幾つかの賞が既に与えられている。]
  暗殺の繰り返しはそれ自体がローラーコースター乗りのような勢いを得たため、アメリカ合州国の大統領でさえ殺害殺戮の思考の対象として免れなくなってしまった。ジョン・F・ケネディは、1963年11月、全世界にわたる死への傾斜を推し進める産軍共同体と情報機関の勢力によって暗殺された。James Douglass は彼の著書“JFK and the Unspeakable: Why He Died and Why It Matters.(JFKと言語道断:なぜ彼は死んだか、なぜその解明が重要か)”で、あの暗殺の隠蔽が実際の暗殺行為よりも如何に手の込んだ細心の注意を払ったものであったかを、詳細に記録し記述している。この同じcover-up がマーチン・ルーサー・キングの暗殺の場合にも、また,若くしてその命をもみ消されてしまった何百人もの黒人解放の自由の戦士たちの場合にも継続されているのである。
  ルムンバの暗殺以来、ヨーロッパと北米の主流の知的著作やメディアはルムンバが暗殺された時の状況を隠蔽し、歪曲してきた。国連の元職員たちはその当時コンゴに関与していた国際的機関の行動決定の過程にアメリカ合州国が及ぼした影響について多数の書物を書いている。
  暗殺を隠蔽するために主要な国際機関が操作された事実の記録は各種の権威筋によって確立されている。アメリカ合州国はコンゴ問題に関して国連を操作していたから、ヨーロッパ人傭兵隊の排除に国連の介入を要求していたパトリス・ルムンバとクワメ・エンクルマは、当の国連がそのヨーロッパ人傭兵隊と彼らを雇ったベルギー、フランス、アメリカ合州国の雇用主たちを支援していることを見出したのだった。当時、国連の事務総長だったダグ・ハマショルドがこの事実に目覚めた時、彼自身もまた暗殺された。[訳者注:ハマショルド暗殺を立証する新証言がごく最近にも行なわれた。]アメリカ合州国とCIAのこの無神経な行動にあきれ果てた多くの国連情報部員がカタンガ地域の傀儡政治家ムース・チョンベとカタンガのコンゴからの離脱についての強欲下劣の物語について書いている。クワメ・エンクルマが“コンゴの挑戦”を書いたのはコンゴがアフリカの統一と解放のための中心的問題であることを強調するためであった。
(続く)
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キャンベル教授のコンゴ・ナラティブは、これから、CIAのルムンバ暗殺関与とモブツのザイール君臨という、コンゴ(ザイールとモブツが改名)をめぐる稀代の国際的スキャンダルへと進みます。

藤永 茂     (2011年11月23日)


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パトリス・ルムンバの暗殺(1)

2011-11-16 09:55:01 | 日記・エッセイ・コラム
1961年1月17日午後9時40分過ぎ、コンゴのカタンガの森の中でパトリス・ルムンバは、ベルギー軍憲兵たちによって、銃殺されました。35歳。今年は50年の記念の年に当ります。去る1月にはニューヨークタイムズやガーディアンなどにもパトリス・ルムンバ暗殺回顧の長い記事が出ました。
  この暗殺を“二十世紀で最も重要な暗殺”と呼ぶジャーナリストや学者がいます。二十世紀中には、ガンジー、ルクセンブルク、トロツキー、ケネディ、ルーサー・キング、などなど、実に枚挙にいとまのない無数の暗殺が行なわれましたから、二十世紀で最も重要な暗殺という措定は異常にも思え、注目に値します。理由を探らなければなりません。パトリス・ルムンバを殺した同じ力が同じ理由で、この記念の年の10月20日、リビアのカダフィを殺しました。この事実は、パトリス・ルムンバ暗殺の歴史的象徴的意義の重みを計る場合の有力なヒントになります。
  パトリス・ルムンバの暗殺に関する最も重要で決定的な書物は Ludo De Witte 著の『The Assassination of Lumumba』です。英訳版は2002年、原書は1999年にオランダ語で出版されました。この本の影響で、2002年2月、ベルギー政府はパトリス・ルムンバの暗殺について正式にコンゴの人たちに謝罪の声明を発表しました。アメリカ政府は謝罪していません。これからもしないでしょう。
  拙著『「闇の奥」の奥』(2006年)の210頁から232頁にわたって、パトリス・ルムンバ暗殺とそれをめぐる問題について私なりに書いてみました。それから5年経ちます。5年前に書いた内容で、いま訂正の必要を感じる個所がないのは幸せですが、私が参考にした文献の殆どすべてが、非黒人系の学者やジャーナリストの手になるものでした。黒人学者ならば信頼が置けると考える程愚かではないつもりですが、この5年間に痛烈に感得したことの一つに、アフリカ問題についての権威者とされている白人たちの多くが如何に見事に米欧の新植民地主義、帝国主義的政策の走狗として奉仕しているかについての実感があります。Paul Collier はその一人の実例です。私のこのブログを続けて読んで下さっている読者にPaul Collierの崇拝者はいないでしょうが。
  今回から数回にわたって訳出するルムンバ暗殺回顧の論考の著者Horace Campbell はシラキュース大学の教授でアメリカ内でも国際的にも著名な学者であり、社会活動家ですが、いわゆる“主流”には明らかに属していないことは、この論考:
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.
(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の内容からもよく窺えます。はじめ2011年1月20日付けで、汎アフリカ主義を掲げる週刊ニューズレター・サイト Pambazuka News に出ました。
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  DRC(コンゴ民主共和国)の、そしてまた、アフリカの経験では、繰り返される暗殺はアフリカの人々の真正な自己自決を圧殺するためのものであった。これらの犯罪の中でも、パトリス・ルムンバの殺害とその隠蔽は今もアフリカ全土にわたって響きわたり、集団大虐殺的な政治と経済状況の繰り返しのパターンからの脱却を求める叫びとなっている。
  パトリス・ルムンバは民主的に選出されたコンゴの最初の首相であった。コンゴ民主共和国は1960年6月に独立を獲得したが、ベルギーの植民主義者たちが望んだのは独立後の状態が植民時代の状態から変わらないことであった。
  ベルギーは、ヨーロッパでは内部分裂した社会を抱える小国だが、コンゴでは、独立以前からコンゴを支配する大君主のような地位に立つことを成し遂げたつもりであった。そのベルギー人たちの目から見て、パトリス・ルムンバの犯した許し難い罪は、1960年6月の独立記念式典でベルギー国王の行なったスピーチに反論したことであった。[訳者注:国王のスピーチは植民地時代の所業に対する一片の謝罪もなく、むしろ、ベルギーはコンゴに文明をもたらしたと、過去を恩着せがましく正当化する厚顔無恥の内容だった。それに対するコンゴ人たちの当然の反発を反映して、コンゴの大統領カサブブは既に用意していた祝辞原稿から前宗主国ベルギーに対する儀礼的な感謝の言葉を含む部分を大きく削除し、また、祝賀式典のプログラムにはなかった首相ルムンバの発言が急遽追加されたのだった。] ルムンバはベルギーの使命がコンゴ人たちを文明化し近代化することであったという主張を受容することを拒否したのであった。
  パトリス・ルムンバは独立から2ヶ月もたたない内に首相の座から追われ、自宅に監禁された。彼は脱走したが捕えられ、殴打され、拷問にさらされ、挙句の果てに惨殺された。この暴行、拷問、殺害のパターンは今日まで、パトリス・ルムンバの暗殺から50年後の今に至るまで続いている。[訳者注:この論考はカダフィ惨殺の10ヶ月前に発表された。]
  ルムンバの暗殺の時以来、真の独立の道を辿ろうとしたアフリカ人指導者のほとんど誰もが暗殺された:Eduardo Mondlane, Amilcar Cabral, Herbert Chitepo, Samora Machel, Thomas Sankara, Felix Moumie, Chris Hani, Steve Biko.  指導者たちに対する暴力は、アフリカ人の抑圧とアフリカの資源の略奪に反対の声を挙げたジャーナリスト、学生、野党指導者、社会勢力に対する脅迫と暗殺行為を同時に伴った。
  大量虐殺的な思考、大量虐殺的な経済、大量虐殺的な政治、という入れ子式の閉回路は、1960年以来、コンゴにおいて十一の戦乱を生み出し、これらの戦乱のすべては、大量虐殺、軍事主義、独裁制、経済的略奪、それに解放の父権社会的モデルに関連して、アフリカの殆どすべての地域に影響を及ぼしてきた。
  コンゴの尊厳、アフリカの尊厳を再構成し、回復する仕事はアフリカ人を非人間化する思考様式、組織、政治的経済的慣行からの決定的で革命的な脱却を必要とするチャレンジである。アフリカの若者たちは至る所で彼らの人間性の構築を求め、生命の軽視に抗議している。北はチュニジアやエジプトから、南は南アフリカやジンバブエに至るまで、若者たちは過去数世紀にわたる抑圧を振り切ることの出来る新しい組織と思考様式を求めている。
  ルムンバへの称賛は、過去の傷からの癒しと再建の精神に伴われなければならず、パトリス・ルムンバの不屈の決意から勇気を受けて真の解放と団結の闘争の継続に向けてのアフリカ諸民族への呼びかけが伴っていなければならない。(続く)
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これから先、ホレース・キャンベルの議論はその主題に入って行きます。それは米欧の知識人たち(一部のいわゆる進歩的分子を含めて)とアメリカ/ヨーロッパ帝国主義的勢力との癒着です。この事実もまた今回のリビア侵略制覇において我々の眼前で露呈されることになりました。

藤永 茂      (2011年11月16日)


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暗殺鬼国アメリカ

2011-11-09 08:29:02 | 日記・エッセイ・コラム
  1986年4月15日早朝にレーガン大統領の指示で、アメリカ空軍・海軍が合同で行なったガダフィ暗殺作戦については大量の資料がありますが、前回に紹介した
塩尻和子著『リビアを知るための60章』(明石書店、2006年)
の第24章「カッザーフィー爆殺未遂事件」にも詳しく出ています。
  日本の首相官邸や御所に数十機の爆撃戦闘機が突然襲いかかり、ミサイルが降り注ぐところを想像して下さい。暴虐なテロ国家の行動を拘束する力として、国際法というものが如何に無意味な空文であるかがよく分かります。いや、こんな生ぬるい苦情を述べること自体が、書いている私自身にも、ひどく空々しいものに思えます。国連の決議についても同じです。いまさら驚くこともありますまい。しかし、上掲の本の中の挿入記事「コラム6、トリポリ空爆・日本人ジャーナリストの証言」からは、やはり、鮮烈な衝撃を受けました。2頁の記事の四分の三を引用させてもらいます。:
■ 1986年4月15日の早朝、アメリカの攻撃をトリポリで体験した日本人がいる。
 フリーランスのフォトジャーナリストの吉田ルイ子さんは、アメリカ空軍によるトリポリ空爆の前々日に、ファーティフ大学の学園祭で開催されたカッザーフィーの講演会に招待されて、写真撮影をこなし、カッザーフィーとの面談もおこなった。
 4月15日の早朝、吉田さんはホテルで就寝中に「ゴーツ」という音で目を覚ました。
 以下に吉田さんの「カダフィ大佐との対話」から引用する。
 15日未明午前2時きっかりにゴーッという音で目を覚まし、爆撃を知った。爆撃は約15分間続いた。実はその前日から、それまで6人しかいなかった外国人ジャーナリストが150人に増えていた。廊下にも人が寝るくらいホテルが一杯になっていた。そして、爆撃があった翌日には、300人くらいになった。
 私が非常に不審に思ったのは、爆撃があった15日の午前2時に、欧米のジャーナリストたちが電話をニューヨーク、ワシントン、ロンドンとのホットラインに変えていたことである。それから電送ファクシミリを送れるように写真の暗室を作っていた。そして、私の部屋の向かいにはAPの写真室があったのであるが、2時5分過ぎには、爆撃のバーンという音が切れると同時くらいに私が廊下に出ると、電話が鳴り、ニューヨークのAPから「カダフィの首っ玉の写真をすぐ送れ」、つまり、殺されて死んでいるカダフィ大佐の写真を送れと言ってきたのである。ということは、想像できるように、もうすでにアメリカの記者たちは、午前2時に爆撃されるであろう、そしてそのターゲットはカダフィ大佐であることを知っていた事を意味するのである。勿論それは?なので教えてくれなかったが。その後、数日一緒に彼らといる間に、彼らはどこが爆撃されるであろうということを克明に全部わかっていたことを知った。私は欧米のマスコミがあらかじめすべてわかって、新聞記者やカメラマンを操作しているという情報操作の現実を見たのである。(「カダフィ大佐との対話」前出『交感するリビア』 藤原書店、229~230頁)■
  レーガン大統領が臆面もなくカダフィの殺害作戦を実行した1986年といえば今から25年も前のこと、四半世紀も前に、米欧の支配権力が有力な新聞やテレビを既に完全にコントロールしていたとは、私にとって全くの驚きです。裏返せば、そのまま、おのれの不明の苦い認識でもあります。この苦い認識をしっかり胸にして今回のカダフィの惨殺とカダフィのリビアの抹殺の顛末を辿らなければなりません。
  今年の3月26日、リビアの首都トリポリの最高級ホテル「リクソス」のダイニング・ホールに一人の若いリビア人女性が飛び込んで来て、リビア政府の治安部隊兵士たちが二日間にわたって彼女を集団レイプしたとホテルの客たちに訴えました。このホテルには、集団的に多数の外国人記者が宿泊していました。彼女の名はEman el?Obeida、この名前でWikipedia を見れば、事件とその詳しい後日譚が出ています。この女性は、今はヒラリー・クリントンの庇護の下にアメリカで生活していると思われます。
  カダフィが兵士たちにバイアグラを与えて反政府の女性たちの集団レイプを行なわせたというニュースを米国国連大使スーザン・ライスが国連で公式に取り上げたのは4月28日でしたが、その2日後、レーガン大統領を尊敬すると公言してやまない現大統領オバマは、レーガンのひそみにならって、カダフィの暗殺を企てましたが、この日は、失敗しました。4月30日(土)、NATO空軍機はリビアの首都トリポリの住宅地区の中にあるカダフィ一族の屋敷一帯に強烈なミサイル攻撃を加えました。ドイツで勉学中のカダフィの一番若い息子(29歳)が帰国していて、カダフィとその妻や近親の家族が集まって夕食を共にしたと思われますが、食後にミサイルが撃ち込まれ、その息子と6歳以下の子供3人が殺されました。2発のミサイルが家族団らんの部屋を爆破した時、お爺さんカダフィとその妻は屋敷内にある家畜小屋に行っていて助かったようです。翌5月1日(日)夜には、パキスタンのアボタバードでオサマ・ビン・ラディンが殺されました。オバマはカダフィとビンラディンの同時抹殺という派手なdouble bill (二本立て興行)を狙ったのだという噂が流れたのも無理はありません。
  1986年のトリポリ空爆についての吉田ルイ子さんの証言を知った今、2011年に演出されたカダフィ暗殺劇についての我々の想いは怒りとシニシズムに満ちたものにならざるを得ません。いわゆるマスコミが完全にコントロールされている状況下で、どうすれば一般の人間が歪曲されていない事実を掴めるか、どうすればマスコミからの操作をはねのけて独立の思考判断を維持するかという困難な課題に我々は日々直面しているわけですが、これまで既に明確に目の前に曝されている事実から読み取れるのは、アメリカを含む「ヨーロッパの心」と私が常に呼ぶ精神の残忍さと傲慢です。信じ難いような傲慢と残忍性です。
  
藤永 茂    (2011年11月9日)


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うつけ者

2011-11-02 09:08:40 | 日記・エッセイ・コラム
どういうわけか私の中では「うつけ者」という言葉は若い頃の織田信長に結びつきます。テレビドラマの影響でしょう。あらためて広辞苑を引いてみると“空け者、呆気者”(おろか者、のろま、うっかり者)とあって、私の青年信長像と合いません。信長は天下人とも呼ばれます。うつけ者の天下人、これは一つの oxymoron でしょうか。
新幹線車内誌「ひととき」11月号に織田信長の記事があります。その一部を引き写します。
■“天下布武(ふぶ)”のスローガンを掲げ、戦国の世の統一を目指した織田信長。伝統にとらわれず、新しい発想で時代を切り開いた風雲児として今も人気の高い武将です。幾多の戦いのなかには比叡山の焼き討ちなど神仏をも畏れない残忍なものがありました。・・・・
 信長が標榜した“天下布武”。武力によって天下を統一することですが、武には深い意味が込められていました。古代中国の史書『春秋』の解釈書である『春秋左氏伝』によると、武には七つの徳、七徳があります。「暴を防ぎ、戦争をやめ、王位を安定させ、手柄を定め、民を安心させ、人々を平和にし、財産を豊かにする」というものです。
 信長がめざしたのは、戦国乱世を終らせ、平和な世にすることだったのです。■
  この辺りから、私の想いは、織田信長からリビアの自分の故郷で惨殺されて果てたカダフィの方へ流れます。カダフィこそ「うつけ者の天下びと」の名にふさわしい人物であったのかもしれません。去る8月31日のこのブログのエントリー『リビア挽歌(2)』で、私は次のように書きました。
#  カダフィと言えば、一人の異色の人物が歴史のちり箱の中に投げ込まれようとしています。為にするメディア報道が描き続けて来た彼の虚像しか我々が知らないままに。Robert Fiskという、私が定常的に耳を傾けている中東関係のジャーナリストがいます。彼は、最近のリビア論考のなかで、これまでにカダフィに与えられてきた無数の形容詞を集めて書き並べています。:
■ We have chosen many adjectives for him in the past: irascible, demented, deranged, magnetic, tireless, obdurate, bizarre, statesmanlike (Jack Straw's description), cryptic, exotic, bizarre, mad, idiosyncratic and ? most recently ? tyrannical, murderous and savage. ■
暇のある方は辞書を片手にお読み下さい。私もそうしました。カダフィを一度は「立派な政治家みたい」と言ったジャック・ストローは英国の有力な政治家ですが、彼とコンドリーザ・ライスあたりの謀略に、老練の独裁者カダフィも、最後には、見事に絡めとられてしまいました。#
  織田信長は比叡山を焼き討ちして僧侶ら4千人を皆殺しにし、高野山では高野聖数百人を処刑するなどの残虐性を発揮しましたが、カダフィも政治家として、自分に立ち向かう者、特に政治的意図を持った宗教者たちには容赦なき弾圧を加えたことは事実でしょう。しかし、上のロバート・フィスクによると、暴君的な、凶悪な、粗野獰猛な(tyrannical, murderous and savage)といった形容詞は“最近になって”カダフィに投げつけられたことになっていて、これは興味をそそられる一点です。側近に裏切られて最後を迎えたことを含めて,織田信長とカダフィには、皮相的かも知れませんが、幾つかの共通点があります。だからと言うのではありませんが、この異色の人物を中心に置いて、リビアというこれまた実に異色の小国家の物語を紡いで下さる新進気鋭の学者さんの出現を期待してやみません。
  前にも申しました通り、今回リビアという国を襲った悲劇について、主に米欧の関与とその権力に吐き気を催すまでに残忍な忠実さで奉仕したジャーナリズムに絶大な興味を抱くようになり、いませっせとリビア関係の報道記事や各種論説を毎日欠かさず集めているところです。
3年も経てば、舞い上がった埃も何とかおさまり、視界が晴れて来るでしょうから、集積した資料を再読検討してみたいと考えています。(しかし一方では、私にはその時間が残されていないのでは、という予感にも苛まれる毎日です。)
  最近読んだ本3冊について手短に報告しておきます。まず、
Rawle Farley 著の
“Planning for Development in Libya. The Exceptional Economy in the Developing World. ” (PRAEGER PUBLISHERS, 1971)
著者は最近アメリカで亡くなりましたが、著名で信頼の置ける黒人学者であったと思われます。350頁の本書の内容は地道な経済学の著作で、1949年に国連総会でリビア独立が決議され、1951年リビア連合王国の成立する辺りから1963年までの期間,連邦制が廃止されてリビア王国となった1963年から1968年に到る第一次五カ年計画の期間のリビアの経済発展についての多くの具体的統計数字資料、最後に、1969年9月のカダフィ大尉(当時27歳)を中心とする自由将校団による無血革命直後の1970年までの状況が論じてあります。革命による社会主義的経済政策への移行は言及されてはいますが、本書の性格は非政治的に徹し、カダフィの名も出ていません。ただ、付録として、革命指導評議会が1969年12月に発表した新憲法の暫定版の英訳が付いていて、大変興味ある内容です。それから40年間のリビアという国の歩みをすでに読み取ることが出来ます。第5条「すべての国民は法の前で平等である」、第14条「教育はすべてのリビア人の権利であり義務である」、第15条「医療は病院と健康センターを通じて国家が保証する権利である」などなどとあります。また、憲法に付随して、不法利得法(Illegal Gains Law)、外国銀行のリビア化法、産業リサーチ・センター法も掲げられています。不法利得法は明らかに支配層の汚職腐敗の防止を目的とした立法で、不法利得による富裕階級の出現を阻止しようとしたものと思われます。現在マスコミは一貫してリビアはこの40年間カダフィの独裁下にあって、憲法も選挙も議会もない近代国家以前の政治形態しかなかったと我々に告げて来ましたが、これは嘘でしょう。この本の付録にある暫定憲法がその後廃棄されたのかもしれませんが、それならそうと教えてほしいと思います。人には不法利得法を押し付けてカダフィ一家だけで富を独占したのかも知れません。それならそうとはっきり報道してほしいものです。内戦の勃発直後、リビアの膨大な海外資産が凍結されました。ジョン・ピルジャーはこの暴挙を史上最大の銀行強盗と呼びましたが、マスコミはこれを「カダフィの資産を取り押さえた」という風に報じました。最近のBBCのリビア記事の一つには「一応リビアの国家資産の名目になっているがカダフィ一家だけは好きなように引き出せた」と言い直してありました。嘘っぱちでしょう。フィデル・カストロの激怒が思い出されます。昨年でしたか、カストロは莫大な金を貯め込んでいるというアメリカでの報道に対して、カストロは「もしそのはっきりした証拠を示したら、私の首を差し上げる」と公言しました。
  次は
塩尻和子著『リビアを知るための60章』(明石書店、2006年)
です。発行の年からの5年間にはリビアにとって極めて重大で致命的な国際政治の変転があり、リビア問題にもこの本とは別の照明が与えられる必要があるのは明白ですが、我々一般人にとって大変貴重な情報源を与えてくれる好著です。この中に挿入記事「コラム6、トリポリ空爆・日本人ジャーナリストの証言」という真に衝撃的な証言がありますが、これは次回の話題にします。
  3冊目は名だけは有名なカダフィの『緑の書』です。英訳『The Green Book』はネットで読めます。普通にプリントアウトして30頁の長さです。塩尻和子さんの本の第13章『緑の書』に続く数章は優れた解説になっていますが、カダフィという歴史的人物を知る興味のある方は原文にも接してみて下さい。いろいろ面白いことが書いてありますが、アメリカ風の多政党議会民主主義と国連の欺瞞がきびしく指摘されています。今のアメリカと国連の現状を見るとカダフィの考え方の正しさが痛い程わかります。一方、へんてこなカダフィの私見も散見されます。この本を読めば、カダフィが織田信長とどこかでつながる“うつけ者”であったと,私が感じる意味が分かって頂けるかと思います。
  先ほど名前を出したロバート・フィスクというジャーナリストは最近の論説で故カダフィを crackpot と呼んでいます。辞書には、変り者、気違い、常軌を逸した人物、などと出ています。大学の物理教室には時折「永久運動をする装置が出来たから見てくれ」などという依頼が舞い込むことがありますが、そういう人も crackpot と呼ばれます。私の語感では、織田信長はクラックポットとは呼べないけれど、カダフィはそう呼ばれても仕方のない人だったのかも知れません。

藤永 茂     (2011年11月2日)


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