私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

リビアのこと憶えていますか?

2014-06-11 22:09:59 | インポート
 リビアは大変なことになっています。アフリカ大陸の諸国の中で一般大衆が飛び抜けて快適な豊かな日常生活を享受していたリビアという国はもはやすっかり姿を消してしまいました。この3月はじめにトリポリのリビア政府の首相Ali Zeidan は議会から身分を剥奪されて命からがらドイツに逃れました。それぞれに武器を大量に抱え込んだあれこれの民兵軍団の間で衝突や暗殺行為が続き、ほとんど内戦の状態です。カダフィの時代には国民生活の豊かさをしっかりと支えた石油資源からの収入の争奪が内部抗争の根幹にありますが、ゼイダンが逃げた丁度その頃、北朝鮮の旗をつけた大きな石油タンカーが東部の民兵軍団から船倉一杯の石油を買い付け、リビア政府の反対を無視して出航したのですが、途中の公海洋上でアメリカ海軍の特殊部隊ネイビー・シールによって捕捉されてしまいました。大英帝国の輝かしい海賊行為の伝統を見事に継いだ作戦で、アフリカ土人によるソマリア沖の素人海賊のお手並みとは格が違います。
 ところで、最近大きな動きがありました。Khalifa Hafter (Hifter とも綴る)という元リビア軍の軍人がLibya National Armyなるものを率いて東部の重要都市ベンガジから行動を起こし、瞬く間にトリポリに軍を進めて議会を事実上解体してしまいました。リビアでは6月25日に一般選挙がおこなわれることになっていましたが、どんな選挙になることか。
 今日はここでリビアの現状の分析解説を行なうことはいたしません。ただ指摘しておきたいのは、このハフター(ヒフター)という人物が米国の支持と差し金の下で動いていることに全く疑いの余地はなく、今後について一言いえば、エジプトのアル・シシ将軍(今度の選挙で圧倒的得票率で大統領に当選)とカリファ・ハフター将軍はペアにして考えておくとよいでしょう。シシ将軍がエジプトでそうしたように、ハフター将軍は、米国の意向の下に、リビアでクーデターを行なっているのです。米国という国は何という冷酷な恐ろしいテロリスト国家でしょう。自分が気に入らない状況になっている国なら、その国民がどんなむごい苦しみを味わおうと全くお構いなし。
 日本ではよく「カダフィ大佐」と呼ばれていた男、ここではムアンマル・カダフィと呼んでおきますが、これがどんな人物で何をしたか、について私の考えはこの3年の間にほぼはっきり固まりました。私の頭の中では、カストロ、チャベス、サンカラ、ルムンバ、カダフィ、アフェウェルキ(エリトリア)などの名前が並びます。誤解を怖れずに言えば、カダフィは“良き”独裁者の一人であったというのが私のほぼ終局的な判断です。近いうちに又お話をいたしましょう。

藤永 茂 (2014年6月11日)


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ネルソン・マンデラと自由憲章(1)

2013-12-20 22:35:58 | インポート
 南アフリカのネルソン・マンデラが12月5日自宅で家族に見守られて亡くなりました。享年95歳。南アフリカの最大都市ヨハネスブルクのサッカー競技場で、12月10日、追悼式が営まれました。西日本新聞(ヨハネスブルク共同通信)の記事を引用します。「降りしきる雨の中、会場のサッカー競技場には、数万人の国民と約100の国や国際機関の首脳級が列席。追悼式典としては空前の規模となり、人種間の融和と和解を説いたマンデラ氏の大きさをあらためて示した。」もう少し引用。「式典開始直後、競技場に集まった人々がマンデラ氏をたたえる歌を大声で歌い、踊った。大型スクリーンには、マンデラ氏の前妻ウィニーさんが悲痛な表情を浮かべる様子が映し出された。黒人男性エリアス・マイナメさん(61)は「われわれの文化では、葬儀での雨は、偉大な人物が亡くなったことの証し。マンデラ氏は自由をもたらしただけではなく和解の大切さをおしえてくれた」と言葉に力を込めた。マンデラ氏と共に人種隔離撤廃に尽力したノーベル平和賞受賞者のツツ元大主教が「並外れた人物」だったと祈りをささげ、式典は終わった。」
 豪華に演出されたこの式典には、米国からオバマ大統領夫妻、クリントン前大統領夫妻、それにブッシュ、カーターを加えて4人の歴代大統領、英国はキャメロン現首相にブラウン、ブレア、メイジャーの三人の前首相、フランスはオランド大統領にサルコジ前大統領、招待がどのように発せられたかは知る由もありませんが、これらの面々を見るだけでも、南アフリカと米英仏との関係の密接さが浮き彫りになります。そして、如何に追悼の場とは言え、彼らが口にした故人への仰々しい讃辞の偽善性には嘔吐を催すばかりです。なかでもオバマ大統領の弔辞は偽善性というような弱い形容詞をこえる恐るべきものです。そこに盛られた言辞、その巧みなレトリックの狙うところを正確に読み取る必要があります。そのためには、1990年ネルソン・マンデラが27年半の獄中生活から開放されて程なくの時に下した決断が南アフリの黒人にどのような結果をもたらしたかをはっきりと見据えなければなりません。マンデラのまことに英雄的な努力と決断によって南アフリの黒人は制度としての人種隔離(アパルトヘイト)政策の廃止と投票権を入手し、1994年、獲得した投票権を行使して全人種選挙でマンデラを大統領とする黒人主導政府の樹立を遂げました。しかし、それからの20年間に、一般黒人大衆の社会的生活状況は人種アパルトヘイトの形式的消滅を除けば、何ら顕著な向上がないばかりか、むしろ悪化した面さえあります。これはマスコミが如何に事実を曲げようとしてもどうにもならない裸の事実です。アパルトヘイトという言葉は「隔離」を意味します。人種アパルトヘイトが階級アパルトヘイトに変わっただけだという声があるのは真にもっともです。
 このブログの2013年8月9日付けの記事『シリア、ブラジル、エクアドル、キューバ(3)』に私は次のように書きました。
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2012年8月16日、南アフリカのヨハネスブルグの北西に位置するマリカーナの英国資本プラチナ鉱山(世界第三位)で労働者のストライキが発生し、その制圧に警官隊が発砲して約40人が射殺され、約80人が負傷、約200人が逮捕されました。死者の多くは背中に銃弾を受けていたそうです。動画もあります。Marikana Massacre と呼ばれています。南アフリカの黒人市民大量虐殺事件といえば、シャープビル虐殺事件(Sharpeville Massacre)が有名です。1960年3月21日、時の政府のアパルトヘイト政策の廃止を求めてデモを起した数千人の黒人群衆に向かって警官隊が容赦なく発砲し、70人の死者、200人の負傷者が出ました。これは南アフリカの歴史的転換点となった事件です。日本語ウィキペディアの記事の一部を引用します。:
■南アフリカは1960年代から1980年代にかけて強固なアパルトヘイト政策を敷いた。他方、国内では人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議 (ANC) による民族解放運動が進み、ゲリラ戦が行われた。1960年のシャープビル虐殺事件をきっかけに、1961年にはイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、英連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を南アフリカ共和国と定めた。一方で日本人は白人ではないにも関わらず白人であるかのように扱われる名誉白人として認められ、日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深い繋がりを持つことになった。■
この二つの民衆大虐殺事件、シャープビル大虐殺(1960年)とマリカーナ大虐殺(2012年)、を隔てる半世紀の間に南アフリカは劇的な変貌を遂げます。この変貌の象徴的人物はネルソン・マンデラその人です。反アパルトヘイト闘争の指導者マンデラは1964年国家反逆罪で終身刑に処され、悪名高いロベン島監獄に投じられますが、1990年に釈放されました。1994年4月には、南ア史上初の全人種参加選挙が実施され、マンデラ率いるANCが勝利して、彼は大統領に就任します。ここで軽率な英語を使えば、“The rest is history”、ネルソン・マンデラという稀有の黒人英雄の力で、長年続いて来たアパルトヘイト政策が破砕され、目出たし目出たしのお話、これが私を含めて世界中の“お目出度い人々”の頭の中に植え付けられた人種平等の国南アフリカの物語、ネルソン・マンデラ物語であります。
 しかし、昨年8月に起きたマリカーナ大虐殺は、我々お目出度い人間たちの南アフリカ認識がどこかで根本的に誤っていることを明らかに示しました。50年を隔てて、又々、同じことが起こってしまったからです。私たちの認識の誤りを最も端的に言ってしまえば、「アパルトヘイトは死んでなんかいない。健在だ」ということです。そして、おそらく更に重大な問題は「我々の多くは、マスコミにすっかりやられっぱなしの、情けないほどの愚民だ」ということです。私もネルソン・マンデラの自伝をむさぼり読み、ぞっこん惚れ込んで、彼こそ20世紀最高の偉人だと考えたものでした。ネルソン・マンデラが歴史に残る偉大な人物であることは否定の余地がありません。しかし、彼が現実にしたこと、させられたこと、は冷静に見つめ直す必要があります。マンデラその人と「マンデラ現象」は、或る意味で、別途に考えるべきことであります。
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上の「彼が現実にしたこと、させられたこと」という文章の意味をはっきりさせるためには、先ず、1955年にANCが掲げた「自由憲章(Freedom Charter)」なるものの内容と歴史を理解する必要があります。幸い、これについて分かりやすく説明した文献の一つを、優れた訳業を通じて、我々は読むことが出来ます。:
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ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン(上)』(幾島幸子・村上由見子訳、岩波書店,2011年):第10章「鎖につながれた民主主義の誕生」
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本書については、このブログの2011年9月21日の記事『ショック・ドクトリン』で言及しました。ネルソン・マンデラあるいは南アフリカに興味をお持ちの方は是非この第10章全体をお読み下さい。今回のブログで私が取り上げようとしている点がその冒頭に言及されているので訳文を少し引用します。:
「一九九〇年一月、七十一歳のネルソン・マンデラは刑務所の独房で机に向かい、支持者に向けた覚書を書いていた。獄中にいた二七年間のほとんどを、ケープタウン沖に浮かぶロベン島にある刑務所で過ごした彼は、その間にアパルトヘイト国家南アフリカの経済改革にかける自らの決意が鈍ったのではないか、という疑念に答えようとしていた。そこにはこう書かれていた。「鉱山、銀行および独占企業の国営化はアフリカ民族会議(ANC)の政策であり、この点に関してわれわれの見解が変化したり修正されたりすることはありえない。・・・・・・」(引用終り)
この部分、私のこれからの論議に深く関わりますので、念のため原文を示し、中ほどの所を幾島・村上訳より少し逐語的に訳出します。:
「In January 1990, Nelson Mandela, age seventy-one, sat down in his prison compound to write a note to his supporters outside. It was meant to settle a debate over whether twenty-seven years behind bars, most of it spent on Robben Island off the coast of Cape Town, had weakened the leader’s commitment to the economic transformation of South Africa’s apartheid state. The note was only two sentences long, and it decisively put the matter to rest: “The nationalization of mines, banks and monopoly industries is the policy of the ANC, and the change or modification of our views in this regard is inconceivable. ‥‥‥」
<・・・それは、27年間獄中にあり、そのほとんどをケープタウン沖に浮かぶロベン島にある刑務所で過ごしたことが、南アフリカのアパルトヘイト国家の経済改革に対する指導者マンデラの決意を弱めることになったかどうかについての論議にはっきりけじめをつけようとしたものであった。その覚書はたった二つの文だけの短さだったが、それは決定的に事を決着させた。・・・>
 マンデラがこの短い覚書を書いた2週間後の1990年2月11日、アパルトヘイト政権のデ・クラーク大統領によって刑務所から釈放され、外で待っていた支持者たちから熱狂的に迎えられましたが、その釈放の前に、事後の来るべき政権的変化についてデ・クラーク政権とそれに加えて米欧側が重要な計算と身構えを行なったことは想像に難くありません。それを考慮に入れて、マンデラの覚書を読む必要があります。
 この場合、かなめとなる文書がANCの基本理念として1955年に掲げられた「自由憲章(Freedom Charter)」です。全文(英語版)は次のサイトで読めます。

http://www.nelsonmandela.org/omalley/index.php/site/q/03lv01538/04lv01600/05lv01611/06lv01612.htm

この「自由憲章」をめぐる歴史的展開については上掲のクラインの本に行き届いた解説がありますのでお読み下さい。マンデラの覚書に対応する部分、つまり、鉱山、銀行および独占企業の国営化に関する部分を書き写すと、
The people shall share in the country's wealth!
The national wealth of our country, the heritage of South Africans, shall be restored to the people; The mineral wealth beneath the soil, the Banks and monopoly industry shall be transferred to the ownership of the people as a whole; All other industry and trade shall be controlled to assist the well-being of the people; All people shall have equal rights to trade where they choose, to manufacture and to enter all trades, crafts and professions. ■
となっていて、これは上に引いたマンデラの出獄直前の覚書にそのまま対応しています。続いて土地所有(農地解放)の問題が取り上げられています。:
The land shall be shared among those who work it!
Restrictions of land ownership on a racial basis shall be ended, and all the land re-divided amongst those who work it to banish famine and land hunger; The state shall help the peasants with implements, seed, tractors and dams to save the soil and assist the tillers; Freedom of movement shall be guaranteed to all who work on the land; All shall have the right to occupy land wherever they choose; People shall not be robbed of their cattle, and forced labour and farm prisons shall be abolished.■
ここで先ず注目したいのは、獄中からのマンデラの覚書には農地解放への言及がないことです。これは、彼がこの時点で既に南アフリカでの農地解放実施の望みを捨てていたことを強く示唆していると私は考えます。ナオミ・クラインが説明しているように、大統領になったマンデラは覚書で誓った鉱山、銀行および独占企業の国営化も実行しませんでした。クラインは「今日の南アは、経済改革が政治改革と切り離して行なわれたときに何が起るかを示す、生きた証となっている。政治的には、国民は選挙権と市民的自由、多数決原理を与えられているが、経済的にはブラジルをしのぐ世界最大の経済格差が存在している。」と書いています。「経済格差」というのは曖昧な用語です。底は上がったけれど最上層の富裕さは更に増した結果、格差そのものは拡大したというのなら、少しは救われます。しかし南アの場合は全くそうではありません。一般黒人大衆の生活状況は、マンデラの率いたANCの政権の下で、以前とくらべて向上するどころか、悪化したのです。何故、そして、どのような過程で南アはこのようになってしまったか。繰り返しますが、ナオミ・クラインの著作(幾島・村上翻訳)には詳細で分かりやすい解説が既に2007年の時点で行なわれているのでお読みいただきたい。
 マンデラが亡くなった直後に、南ア事情に詳しいパトリック・ボンド(Patrick Bond)の長い論考が発表されました。その見出しは、

Did He Jump or Was He Pushed?
The Mandela Years in Power

http://www.counterpunch.org/2013/12/06/the-mandela-years-in-power/

です。一行目は「彼は改宗したのか、それとも、強要されたのか?」と訳しておきます。パトリック・ボンドは北アイルランド出身、アイルランドの俗語では、カトリックからプロテスタントに改宗することをジャンプすると言うようです。マンデラは、出獄から4年目の1994年5月、大統領に就任しましたが、その時には、出獄直前に発表した覚書で誓った鉱山、銀行および独占企業の国営化を実行する考えを捨ててしまい、金融や重要産業のプライベタイゼーションという米欧主導の政策を採用しました。覚書で既に言及を避けた農地改革は、勿論、マンデラ政権の政策には含まれていませんでした。これは1955年の「自由憲章(Freedom Charter)」の教条からマンデラが離反してしまったことを意味します。改宗です。
「マンデラ自身が考えを変えてしまったのか、それとも、外からの力に押されて屈したのか?」それが「Did He Jump or Was He Pushed?」の意味です。
この長文の論考の著者ボンドの最終的結論は「Perhaps he did both.(多分、両方だ)」というものです。直裁に言えば、覚書を真に受けた一般黒人大衆をネルソン・マンデラは完全に裏切ったことに他なりません。これをどう考えればよいのか? 次回に私の見解を述べることにします。

藤永 茂 (2013年12月20日)


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Idle No More (3)

2013-01-19 22:38:27 | インポート
 カナダの保守党政府(ハーパー首相)が提出していた議案C-45 は総括的な予算案(omnibus budget bill)で、2012年12月14日に国会上院で50-27で可決されました。400頁を超す厚さの法案で多数の重要な既存法律の変更が含まれています。INM運動に関連する項目としては、Navigable Waters Protection Act(航行可能水路保護法)、Canadian Environmental Protection Act(カナダ環境保護法)、などの他に、先住民保留地で部族(バンド)の管轄下にある個人的所有の土地の売買の手続きの簡易化についての既存法の変更などが含まれています。航行可能水路保護法だけを取ってみても、変更の影響は甚大です。カナダの詳しい地図を見ればよく分かりますが、氷河期が終り、氷河が北に退いた後の、この広大な北辺の大地には無数の河川で結ばれた無数の湖水が残り、ここには全世界の淡水の40%が保たれているとも言われます。アメリカのよく知られた進歩的雑誌「プログレッシブ」の記事によれば、これまで航行可能水路保護法はカナダの2百6十万の河川、湖、それに海浜の大部分を保護して来たが、この度のC-45の成立で、今や87カ所だけが保護されるだけになったのだそうです。別のデータによると、97の湖、62の河川だけが保護法の制約を受けるだけになったとのことです。これに加えて、これまでの環境保護法が骨抜きになり、先住民に属しているとされている土地が部族共同体のコントロールを受けずに、売買が可能になったとなると、C-45の狙いの一つがグロテスクに浮かび上がって可視化してきます。先住民たちが大地にしがみつくようにして第三世界的に生きている広大なカナダ北辺の地は地下資源の宝庫なのであり、それを開発し、またそれらの宝を南に運ぶための交通輸送施設(道路、パイプラインなどのインフラ)を確保するためには、北辺の土地と水を自由に手に入れ、使いたいという強い動機がハーパーのカナダ政府にはあるのです。
 この恐るべき悪法C-45がカナダの国会で50対27という票決で可決されたという事実、これを易々として受け入れる現在のカナダの政治的な危機状況を深く憂慮して、我がテレサ・スペンスは立ち上がったのです。“もはや座視はすまじ”と決意した彼女のハンストはもう40日目に近づいています。魚のスープだけで固形食は取っていないので、だいぶん弱って来た模様です。彼女はティーピーの中でこう語ったと伝えられています。
■ When I die, I expect my body to be carried out of here with honour, and to go and lay in peace with my ancestors.(私が死んだら、私の体はここから葬儀にふさわしく運び出されて、私の祖先が眠る墓地に安置埋葬されることを期待する。)■
 次回には、彼女が率いる千五百人ほどのアタワピスカト・バンドの人々がどのような生活環境の下で生きて来たかを具体的にお話ししましょう。しかし、彼女は自分のバンドの生活改善のために政府に物乞いをしているのではありません。彼女は遥かに遥かに遠くを見ているのです。

藤永 茂 (2013年1月19日)


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Idle No More (2)

2013-01-18 21:42:42 | インポート
 前回(1月9日)のブログ『Idle No More (1)』を出したすぐ後で、悪法C45 に強く反対してハーパー首相に直接面会を求めて拒否され、その実現のためにハンストに入っていた女性酋長テレサ・スペンスが、ハーパー首相の方が少し譲歩して1月11日に面会を申し出て来たのに対して、今度は、要求していた条件が満たされていないとして、彼女の方が会談を拒否したことを知りました。これは事態の重要な展開ですが、これを知ったのは、思いがけないPress TV というイランの国営テレビ局のウェブサイトからでした。
 この放送局は、シリア情勢に就いて、シリア政府寄りの報道をするので、反政府武装勢力を全面的に支持する米欧側はこれを沈黙させようと試みています。昨年11月30日、シリアの首都ダマスカスでプレスTVなどの自動車6台が爆破されて炎上し、また12月20日には英国でプレスTVの放送ライセンスが取り消されました。プレスTVは米欧の世界マスメディア支配に対するイラン政権の対抗情宣活動の一翼を担っていることは明らかですが、全くの“大本営発表”ではないことは、この数ヶ月視聴を続けている経験から断言できます。どの報道機関にも特徴的な語り口のようなものがあります。国営的機関での、その良い例はキューバのGRANMA International やエリトリアのTesfaNews です。他にも沢山そうした興味深い例があるに違いありません。現場で仕事をしている人たちには、その気になれば、それなりのジャーナリスティックな自由空間が存在する筈です。そのあたりから、それぞれの報道機関に特有の一種の味わいのようなものが出てくるのでしょう。その意味から言えば、プレスTVとNHKのどちらがより忠実に“大本営発表”的か、分かったものではありません。プレスTVがINM(Idle No More)運動を素早く大きく取り上げ、NHKは殆ど何も取り上げようとしないのは、INMが反抗している暴力が、イランを苦しめている暴力と同じ、米欧(イスラエルを含めて)の帝国主義的植民地主義的暴力であるという意識をプレスTVのニュース報道編集員たちがはっきりと持っているからだと思われます。
 INM運動を大きく取り上げている報道サイトに、もう一つ、VT(Veterans Today)という米国の退役軍人ジャーナルがあります。極めてアクの強い反イスラエル、反ユダヤの政治的発言体で、したがって、その筋から激しい非難攻撃を受けているので、ご存じの方もあるでしょう。この異色のウェブサイトとカナダ先住民のIdle No More運動との接点は何処にあるか。カナダの先住民人口は約120万,全人口の約5%、その内の数十万人は国内の「棄民」の状態にあります。アメリカの退役軍人は2600万人、全人口の約13%に上りますが、そのかなりの数が、やはり「棄民」的な状態にあります。退役軍人のホームレスの数が比率的に目立って高いことは度々指摘されていますが、精神的障害者、自殺者の多いこともVT(Veterans Today)が声を大きくして人々の関心を喚起しています。1月14日、アメリカ軍の新聞「スターズ・アンド・ストライプス」(我々の世代には懐かしい新聞)が、2012年の年間の米軍兵の自殺者数は349人でこれはアフガニスタンでの戦死者数を上回ることを報じました。このニュースはいち早くプレスTVの報じる所となりましたが、VT(Veterans Today) の主筆Gordon Duff は、これに就いての見解を発表して、この349人

http://www.veteranstoday.com/2013/01/16/press-tv-figures-describing-veterans-suicides-beyond-misleading-duff/

という数字がむしろ問題の本質を隠蔽していることを明らかにしました。ダフ氏によると、これまでに何万という数のアメリカ兵が不名誉な理由や精神障碍の故に除隊(discharge) を強いられ、民間人の身分に押し戻されて、退役軍人としての保障手当から外されて人生を狂わされてしまう場合が無数にあるといいます。そうした人々の自殺を含めれば、退役軍人の自殺者数は一年8、9千人にもなるだろう、だから、349人というまことしやかな数はマヤカシの数だとダフ氏は言うのです。このGordon Duffという退役軍人、実はプレスTVと密接な関係を持ち、しばしば報道記事を寄せています。上掲の記事の中にも、目を引く不思議な文章があります。:
■ Why Does Only Press TV Care About the Welfare of American Soldiers and Veterans? They are “Iran,” aren’t they supposed to be “the enemy?”?Is, just perhaps, someone lying to us? (なぜプレスTVだけがアメリカの兵士と退役軍人の福祉を気に掛けるのか? 彼らは“イラン”であり、“敵”であるはずではないのか?もしかしたら、誰かが我々に嘘をついているのかも?)■
ここでダフ氏の言説一般の信憑性を問題にする必要はありません。アメリカ軍の平の兵士の大部分がもともとアメリカの下層民出身であり、彼らが従軍中も退役後も一種の「棄民」として扱われて来たことは、ダフ氏から教えられるまでもなく、少し調べれば明白になる社会的事実です。ここに棄民的人間集団としての北米先住民の抗議運動INMをVT(Veterans Today)が積極的に取り上げる理由があります。同じ問題がそこにあるのです。カナダのレスブリッジ大学教授アンソニー・ホール(Anthony J Hall)の筆になる『アメリカ革命からアイドル・ノー・モアまで』と題する長い論文が1月7日付けのVTに掲載されています。ここにもVTジャーナルのINM運動への肩入れの強さが示されています。読み応えのある論文です。

http://www.veteranstoday.com/2013/01/07/from-the-american-revolution-to-idle-no-more/

 今日はプレスTVやVTジャーナルのことに関わり過ぎて、肝心のINM運動の話の方が疎かになりました。明日はテレサ・スペンスがあくまでこだわる悪法C45の話から始めます。

藤永 茂 (2013年1月18日)

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Idle No More (1)

2013-01-09 14:49:40 | インポート
 これは今カナダで、そして、それに呼応してアメリカでも、燃え上がっている原住民(いわゆるインディアン)の抗議運動に与えられた名前であり、彼らの決起の叫びでもあります。その意味を考えながら、何か良い翻訳が出来ないものかと努力した挙句に“もはや座視はすまじ”という古めかしい言葉に一応落ち着いたところですが、これでは今の若い人々には訴える力がないでしょうから、このブログ記事を読んで、もっと今の世にふさわしい翻訳を提案して下さるようお願いします。この北米インディアンたちの“もはや座視はすまじ”運動について私の想いは膨らむばかりですので、話は多分長くなると思います。
 「アイドル ノー モア」という合い言葉は、昨年10月、Nina Wilson, Sylvia McAdam, Jessica Gordon, Sheelah McLean という4人の女性たちによって創り出されました。現在、この運動のシンボル、焦点は、カナダの首都オタワの国会議事堂に面する凍結したオタワ河の上にティーピー(インディアン伝統のテント)の中で、昨年12月11日以来、死を覚悟でハンガー・ストライキを続けているアタワピスカト部族の酋長テレサ・スペンスという女性です。昨年10月から国会で審議されていたC45と銘打たれた議案が12月14日に上院で可決され、法令になりました。テレサ・スペンスは悪法C45 に強く反対して、ハーパー首相に直接面会を求めて拒否され、その実現のためにハンストに入りました。オタワ河の氷は厚さ1メートルを超え、ティーピー周辺の温度は容易に零下30度に達している筈です。インディアンが死を覚悟したと言う時は本当に死を覚悟するのです。この勇敢な50歳の女性が死を賭してまで我々に告げようとしていることに、我々はよく耳を傾けなければなりません。前にも、私が度々申し上げたことですが、これは、窮状にあるインディアンたちをどう救ってあげるかというような生ぬるい問題ではなく、危殆に瀕している我々自身をどう救うかという問題なのです。
 なお、今後は、今までの慣習を捨てて、このブログは不定期に発表させて頂きます。

藤永 茂 (2013年1月9日)


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