私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ルワンダの霧が晴れ始めた(4)

2010-07-28 10:25:50 | インポート
 『ルワンダの霧が晴れ始めた(1)』(2010年6月30日)の中で、CIA(アメリカ中央情報局)のThe World Factbookというウェブサイトにある「ルワンダ」という項目の序章の英語原文とその前半の和訳を掲げましたが、以下にその全訳を掲げます。:
■ 1959年、ベルギーからの独立の3年前、多数派の民族グループ、フツ族は、支配していたツチ族の王を打倒した。それからの数年間に数千人のツチ族が殺され、15万人ほどが近隣諸国に亡命を余儀なくされた。これらの亡命者の子供たちはやがてRPF(Rwandan Patriotic Front, ルワンダ愛国戦線)という反乱集団を形成し、1990年に内戦を始めた。この戦争は、幾つかの政治的、経済的激変をともなって、民族間の緊張状態を激化させ、1994年4月、約80万人のツチ族と穏健派のフツ族の人々の大量虐殺という頂点に達した。ツチの反乱集団はフツ政権を打ち負かし、1994年の7月にはその殺人行為を終息させたが、約2百万人のフツ族難民は-その多くはツチ族の報復を恐れて-隣接するブルンディ、タンザニア、ウガンダ、ザイールに逃げ込んだ。その時以来、難民の殆どはルワンダに戻ったが、数千人は、隣のコンド民主共和国(DRC、もとのザイール)に残って過激な反乱軍を形成し、1990年にRPF がやろうとしたと同様に、ルワンダを奪回しようと企んだ。ルワンダは、1999年に最初の地方選挙、2003年に大虐殺後最初の大統領および国会選挙を行なった。2009年にはルワンダはDRCのコンゴ国軍と合同の軍事作戦を展開し、コンゴ内のフツ過激反乱軍を壊滅して、キガリとキンシャサは外交関係を回復した。ルワンダは、2009年年末に英連邦にも加盟した。■
上で、キガリはルワンダの首都、キンシャサはコンゴ民主共和国の首都です。
 このルワンダについてのCIAの要約を叩き台にして、ルワンダ問題を考えてみたいと思います。すでに繰り返し申し上げているように、この作業は、何よりも先ず、アメリカという国、広くいえば、ヨーロッパというシステムの作動ぶりをはっきりと見据えることを目指しています。ルワンダはアフリカ大陸の地図で見ると本当に小さな国ですが、地政学的には、今や、きわめて重要な地域です。井上信一氏の貴重な力作ドキュメンタリー『モブツ・セセ・セコ物語』(新風舎、2007年)には次のように描かれてあります。:
■ ルワンダという国は四国の一・四倍くらいの小さな国ですが、そこに八百万人近い人々が住んでいますから、人口密度は一平方キロメートル当り三百二十人ほどになります。現在の四国の人口密度が約二百二十人ですから、人口密度の異常な高さに驚きます。それは、この国が「千の丘の国」という別名を持つように、高地で農耕に適した気候と肥沃な土地に恵まれ、コーヒー、茶、除虫菊などの輸出農産物が栽培できる豊かな農業と牧畜の国だからです。■(p400)
なお、この本の副題は「世界を翻弄したアフリカの比類なき独裁者」です。この人物モブツには後でぜひ登場してもらわなければなりません。
 上掲のCIAの要約には、まず、「1959年、ベルギーからの独立の3年前、多数派の民族グループ、フツ族は、支配していたツチ族の王を打倒した。それからの数年間に数千人のツチ族が殺され、15万人ほどが近隣諸国に亡命を余儀なくされた」とあります。これは1994年のルワンダ大虐殺事件の30年以上も前のことです。そうした不幸な状況がどのようにして醸成されたのかを考えてみるために、少し歴史をさかのぼることを始めます。 
 ルワンダの民族構成について、井上氏の本には、
■ 国民の八五パーセントはバントウー系の農耕民族であるフツ族ですが、歴史的に支配階級の地位にあったのは一四パーセントの少数派であるツチ族でした。ツチ族はハム系の遊牧民族でケニヤのマサイ族のように長身を特徴としています。この二つの部族はすでに独立当時から国内で激しい抗争を続けていました。■(p400)
と書いてあります。
 フツ族はバントウー系、ツチ族はハム系という区別はよく行なわれていますが、問題があります。ひと昔前のヨーロッパの人類学では、バントウー系はネグロイド(黒人)、ハム系はコーカソイド(白人)とされていた(いる?)からです。興味のある方は、日本語ウィキペディアの項目『ルワンダ虐殺』の中の「ツチとフツの確立と対立」、あるいは、英語でよければ、『ハム仮説(Hamic hypothesis)』で探してみると長い説明が出てきます。旧約聖書によると、ノアは500歳ごろになって、セム、ハム、ヤペテの三人の息子をもうけ、そのあと神の命令に従って箱船をつくり、息子三人もつれて箱船に乗り込み、大洪水を生き延びます。旧約聖書の創世記第9章には次のように書いてあるそうです。:
■ 箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。 この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。
さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、
天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。■(新共同訳)
このあたりの話、たとえば、父のハムがよくないことをしたのに、その子のカナンの方にどうして呪いがかけられたのか、現存の人間すべてがこれらの息子三人から出たと考えるのか、などなど、はっきりしない所が多いのですが、それはともかく、旧約聖書が元になって『ハム仮説』というものが発生します。インターネットでご覧になればわかりますが、これは単一の固定された仮説ではなく、ヨーロッパ系の人間たちの勝手な都合によって、歴史的にいろいろ変化してきたのです。その一つによれば、ハムの後裔は、白人人種(コーカソイド)であるにもかかわらず、呪われて皮膚の色が黒くなり、アフリカ北部などに広がったことになっています。つまりアフリカの黒人人種(ネグロイド)とは違うのだと考えるわけです。ツチとフツは二つの異なった人種ということになります。この仮説の発生とその後の歴史については沢山の参考文献があるようですが、ルワンダ・ジェノサイドに関連して、私が引き込まれるようにして読んだのは、
* Mahmood Mamdani 『When Victims Become Killers』(Princeton University Press, 2001)
です。著者マームード・マムダーニは前にも、ジンバブエに関連して、紹介したことがありますが、ウガンダ生まれのインド系東部アフリカ人で今はコロンビア大学の教授、アフリカ問題の研究家としてよく知られた人物です。現在のアフリカの抱える問題の多くは過去および現代の白人による植民地支配と密接に絡んでいるという問題意識を強く持っているのが、彼の特徴の一つです。上掲の本には、『ハム仮説』について、まことに興味深い解説がなされていますので、そのあらましを辿ってみます。
 ハムの子孫たちが呪われて色の黒い毛のちぢれたアフリカ大陸の黒人になったという仮説は、17世紀、アフリカから盛んに奴隷を狩り出し、売買したヨーロッパ人にとって好都合でした。旧約聖書に「しもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」ことになっているからです。しかし、奴隷制度のお蔭で、ヨーロッパの繁栄と啓蒙の時代が続くにつれて、黒人(ニグロ)たちを元々は自分たち白人と同じ人間なのだと認めたくない気持ちが白人たちの間に強くなり、白人と黒人は元々別の人種(races)だという考えが前面に押し出されてきて、アフリカ大陸を占める黒い人間たちは白人人種に較べて根本的に劣等な別の人種だとされるようになりました。ところが大変な転機が訪れます。1798年のナポレオンのエジプト侵攻を機に、彼の考古学的探検の奨励もあって、古代エジプト文明の偉大さが次々に明らかにされて行き、ギリシャ文明、ローマ文明もその下流に位置されることになったのです。しかし、エジプト人の皮膚は黒く、顔かたちも黒人的です。黒人人種(ネグロイド)が白人人種に遥か先駆けて偉大な文明を築いたことを認めたくはありませんから、ここでまた『ハム仮説』改訂版が持ち出されることになります。エジプト人は実はハムの子孫で、アフリカの黒人にはハム系(もともとは白人種、コーカソイド)と本来からの黒人系(ネグロイド)の2系統があると考え直すのです。こうすることで、アフリカ大陸のエジプト以外の土地で優れた内容を持った文明遺跡が見つかっても、それはハム系の黒人、つまり、もともとは白人だったのだが、呪いがかけられて黒人になった人々が、本来の黒人たちに混ざって、アフリカの各地に広がって創造したとこじつける事が出来ます。あくまで白人の優位性を保とうとする「ヨーロッパの心」の救いようのない醜悪さにはつくづく驚かされます。 それは、現在、ルワンダを鉄の独裁で支配するハム人カガメ大統領を熱列に支持する「アメリカ白人の心」の中にも生きています。この話題は次回に取り上げます。
 ツチ族をハムの後裔(白人起源)、フツ族をもともとの黒人とする『ハム仮説』の立場は、マムダーニの本の第三章や武内進一著の『現代アフリカの紛争と国家』の第三章に詳しく解説されているように、学問的には、現在、すっかり影が薄くなっています。根拠がないのです。しかし、歴史的現実としては、例えば、ナポレオンのエジプト侵攻から一世紀後の1870年のカトリック教会ヴァチカン会議で、「アフリカ大陸で黒人たちの間で囚われの身となった不運なハム人たちを救おうではないか」という呼びかけを白人宣教師に向けて行なうに等しい声明が出されたことさえありました。こうした風潮がルワンダを植民地としていたドイツとそれに代ったベルギーの植民地政策を強く規定しました。マムダーニはそれを“The racialization of Tutsi/Hutu Difference”と呼びます。ルワンダ地域がヨーロッパによって植民地される前から、ツチ族は支配者的、フツ族は被支配者的立場にありましたが、これは別にめずらしい事態ではありません。しかし、ツチとフツは人種(race)として違うのだという立場が行政的社会的にはっきり採用されてしまうと話は別になります。ベルギーが人種差別的(racial)な植民地政策をとったことが、「1959年、ベルギーからの独立の3年前、多数派の民族グループ、フツ族は、支配していたツチ族の王を打倒した。それからの数年間に数千人のツチ族が殺され、15万人ほどが近隣諸国に亡命を余儀なくされた」ことの主要な原因となったことは、歴史的事実として、否定の余地はありません。

藤永 茂 (2010年7月28日)                              



ルワンダの霧が晴れ始めた(3)

2010-07-21 11:23:44 | 日記・エッセイ・コラム
 ルワンダ・ジェノサイド(Rwanda Genocide)については英語版、日本語版のウィキペディアの詳しい記事があり、その中に、多数の文献が挙げてあります。日本人著者による日本語の単行本として、私は次の二册の近著を読みました。
(1) 武内進一著『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』(明石書店,2009年2月)
(2)  大津司郎著『AFRICAN BLOOD RARE METAL -94年ルワンダ虐殺から現在へと続く「虐殺の道」』(無双舎、2010年4月)
まず(1)の武内氏の著作は、461頁の本格的な学術書で、2007年度に東京大学大学院に提出された博士論文に加筆し、修正を加えたものとあります。そのカバーには「アフリカの紛争は、今日の国際社会にとって喫緊の課題である。-本書では、アフリカの紛争の根本的な原因を、独立後に現れた「ポストコロニアル家産制国家」の特質から捉える理論的枠組みを提示する。この枠組みと、植民地化以降の長期的な社会変容の分析を組み合わせ、人類が経験した直近のジェノサイドであるルワンダの悲劇に至る過程を解明する」と印刷されています。この著作を含む武内氏の数々の論考は、ウィキペディア(日本語版)の項目『ルワンダ虐殺(Rwanda Genocide)』の脚注と参考文献に多数引用されていて、日本でルワンダについての最も権威のある知識源とみなされていると思われます。日本アフリカ学会という組織を中心に多くの方々が専門的にアフリカの研究をされている状況のもとで、私のような門外漢が専門家の著作や論考の内容に異を唱えることは、軽々しく行なうべきことではありません。専門的訓練の不足、資料へのアクセスの不足、研究時間の不足、同僚との討論の不足、などなどが、門外漢の見解や主張の欠陥のもとになります。しかし、一方、「傍目八目」という言葉もあります。「木を見て森を見ず」という言葉もあります。専門家がアクセスし依存する多数の資料の個々の信憑性について、門外漢の素朴な“勘”が専門家のそれに勝る場合がないとは限りません。
 上に掲げた(2)の著者大津司郎氏は1970年代からアフリカに熱い関心を持ち続け、造詣を深めているベテランのフリー・ジャーナリストです。武内氏の著作(1)を読んで、ルワンダのことを理解しようと思われる方々は、是非とも大津氏の著作(2)も読んで頂きたいと思います。(1)は学術書、(2)は一般書、スタイルは勿論違いますが、違いはそれだけではありません。最も大きい違いはルワンダ大虐殺をめぐってのアメリカ合州国の関与についての言及の量の違いです。(1)ではアメリカの関与はほとんど論じられていませんが、(2)では重要な話題として取り上げられています。両著の間に存在する決定的な相違は、(2)の“アフリカン ブラッド レア メタル”
というタイトルに如実に現れています。問題の核心は、近くはルワンダの隣国コンゴの、遠くはアフリカ大陸全体の資源争奪の戦いにある、という立場です。
 (2)のエピローグのおわりに近い所(375~6頁)で、アメリカの“アフリカ作戦本部”AFRICOM(Africa Command)について、次のように書いてあります。:
■ 創設への批判もあったが2008年10月1日、正式発足した。しかしアフリカ諸国内に設置を断られたため、現在、本部はドイツに置かれている。兵員、スタッフ約1600人。
 AFRICOMは明確に、増大する中国の脅威の抑制を挙げた。
 アメリカAFRICOM対中国ソフト・パワー(外交、援助、投資)+PKO部隊、武器売却を含む軍事ビジネスの交錯と激突。今,東コンゴのヤマ(鉱山)では中国語が飛び交っている。
 一つだけ気になることがある。そうした世界の存在、利害がぶつかり合うアフリカ、世界の最前線に、日本の存在がほとんど見えないことだ。たしかにJICAを中心としたODAの果たす役割は一定の評価はできる。だが、資源の争奪を含めた戦いの最前線、さらにアフリカ各国政府、大衆が強く求めているのは、必ずしもそうしたきれい事だけではない。時に血と涙の交じり合ったビジネス投資、往来、居住。
 つまり人間である日本人自身のアフリカへの関心と挑戦だ。中国やアメリカのやり方を言葉だけの“平和”論から批判するのは簡単だ。しかし自ら参与し関わることなく、遠くからものを言うのは人間的説得力に欠ける。
 そうした日本を尻目に今、アフリカにはアジアを含めた世界からのビジネス投資、人間が殺到している。■
 (1)によると、武内信一氏は、現在、日本貿易振興機構アジア経済研究所アフリカ研究グループ長で、JICA研究所客員研究員でもあります。(2)によれば、大津司郎氏は、1970年代後半から現在にいたるまでアフリカ関連テレビ番組のコーディネーターを勤め、1992年からは、自らビデオカメラを持ちアフリカ紛争地の多数を現地取材し、また、アフリカ・スタディ・ツアーなどの企画なども行なっておられます。こうしたアフリカの専門家の方々を前にして、私のような人間に何が出来るでしょうか。私のこれからの発言は、「中国やアメリカのやり方を言葉だけの“平和”論から批判するのは簡単だ」という大津さんのお言葉で、すでに、釘を刺されてしまっているとも言えますが、それを自覚するからこそ、ルワンダ問題に関心のある方は(1)だけでなく、(2)も是非読んで下さいと申し上げているのです。
 しかし、私のように行動力に欠けた素人が出来ることは「言葉だけの平和論的批判」に限りません。どのような立場の人の発言にもそれぞれのバイアスがかかっています。具体例を一つ挙げましょう。著書(1)の311頁に
■ 虐殺後、国際的な人権NGOであるアフリカン・ライツ(African Rights)は、虐殺の被害を逃れた人々からの聞き取りに基づいて、殺戮の実態と責任者を示す膨大な資料を発刊した[African Rights 1995a]。■
と書いてあり、著書(1)の研究内容はこの膨大な資料に全面的に依存しています。もし、このロンドンを本拠とする人権NGO「アフリカン・ライツ」の学問的信憑性、中立性に疑問があるとなれば、これは重大な問題です。
 アフリカン・ライツの理事長(Director)Rakiya Omaarは英国国籍を取得したソマリア人女性ですが、彼女がルワンダのカガメ大統領と密接な関係にあり、その政府から厚い支援を受けていることはほぼ確実な事実と思われます。私がそう考える根拠は幾つかありますが、その一つは、映画『ホテル・ルワンダ』でツチ族1200人を虐殺から救うフツ人のホテル副支配人のモデルとなった実在の人物ポール・ルセサバギナの証言です。彼はルワンダ・ジェノサイド後、一度カガメ大統領支配下のルワンダに迎えられたのですが、カガメを批判して大統領の逆鱗に触れ、いまは祖国を逃れてベルギーに住んでいます。ルワンダに帰ることでもあればたちまち逮捕投獄されるでしょう。ベルギーに亡命していても生命の保証はありません。NGO「アフリカン・ライツ」の発表したルワンダ大虐殺関係の資料の信憑性に表立って疑問を投げかけたアフリカ専門家がいたとしたら、彼/女はルワンダで学問的聞き込み調査をしようとしても、ルワンダ当局の協力が得られないどころか、多分、入国も許されないと考えられます。
 7月14日、ルワンダ南部のブターレで、ルワンダ民主緑の党の副総裁Andre Kagwa Rwisereka が死体で発見され、また、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR, International Criminal Tribunal for Rwanda)の弁護人で大学の法学部教授であるJwani Mwaikusa も自宅から出たところで射殺されました。 両者とも、カガメ大統領の政府に対して批判的であったことが、殺された理由と考えられています。ルワンダでは、この8月9日に大統領選挙がありますが、三つの野党勢力は選挙から全く除外されてしまうことは明らかです。これでは、始めから民主的選挙ではありません。ヨーロッパ連合は選挙監視団を送らないようですが、米国と英国は、事実上カガメ大統領当選確実の選挙を積極的に支持しています。ルワンダ問題の中核は、1994年の大虐殺事件にではなく、ポール・カガメという人物に焦点を合わせることで見えてくると思われます。

藤永 茂 (2010年7月21日)



ルワンダの霧が晴れ始めた(2)

2010-07-14 12:56:26 | インポート
 前々回(6月30日)に、今度のシリーズ、『ルワンダの霧が晴れ始めた(1)』、を出発させながら、前回はサッカーのW杯のことに寄り道をしました。その理由は、 Keith Harmon Snowという人のルワンダ近況報告を目にしたことでした。実は、昨年3月から書き始めていたルワンダ・ジェノサイドについての記事を、
『サマンサ・パワーとルワンダ・ジェノサイド(3)』 (2009/04/15)
で一応筆を折った理由も、同人物キース・ハーモン・スノー氏にありました。上記のブログの末尾に次のように付記しました。:
■<付記> 上の記事は4月14日午前中に書きましたが、夜になって、Dissident Voice というウェブサイトでKeith Harmon Snow の『The Rwanda Genocide Fabrications』(4月13日付け)という極めて注目すべき論説を見つけました。この「ルワンダ大虐殺のでっち上げ」論が重要なのは、私がモタモタした筆致で書いてきた「ルワンダ大虐殺」推察論が結構いい線を行っていたと思わせることが沢山書いてあるからではありません。私たち一般の人間が日々読まされている報道記事や論説の中立性、真実性について、実に深刻な疑念を抱かざるを得なくなるようなことが書いてあるからです。アフリカに限られた問題ではありません。実は、次回のブログの題は『アリソン・デ・フォルジュとホアン・カレロ』にしようと思っていたのですが、スノーの新しい衝撃的な発言で、私としても、もう一度しっかりと想を練り直す必要がでてきましたので、このタイトルはしばらくお預けにします。■
キース・ハーマン・スノーの『ルワンダ・ジェノサイドのでっち上げ』という長い論考は、その表題の通り、なかなか激烈な内容です。特に、ルワンダについての最高権威者の一人であり、非の打ち所のない人権擁護の戦士と敬われていた女性アリソン・デ・フォルジュ(Alison Des Forges)を、アメリカの権力機構の奉仕者として、完膚なきまでに批判しているのには、すっかり驚かされました。予定していたブログが出せなくなった理由でした。
 今度のスノー氏の爆弾論文は『U.S. Woman Falsely Accused of Rwanda Genocide Rape Crimes』(Dissident Voice, July 29/2010)です。2010年6月24日、米当局はベアトリス・ムーンイェンイェジというルワンダ出身(フツ族)の40歳の女性を逮捕しました。これはポール・カガメ大統領のルワンダ政府からの要請によるもので、彼女は、1994年の4月から7月に及ぶ約100日間に約80万人のルワンダの人々が惨殺された、いわゆる、ルワンダ・ジェノサイドで、ツチ族を殺した下手人であったのに、それを隠して米国市民権を獲得して米国内に住んでいる、という罪状で逮捕されました。
 ルワンダ・ジェノサイドでツチ族を殺害したフツ族犯罪者を世界各地で追求して逮捕、あるいは、暗殺して消してしまうという、犯人狩りにかけるカガメ大統領の執念の激しさには実に驚くべきものがあります。かつてのイスラエル政府のドイツ・ナチ狩りの熾烈さを彷彿させます。今回逮捕され、ルワンダに送還されるベアトリス嬢はルワンダ・ジェノサイド当時には25歳前後の若い女性、若い女性だからとて、レイプ、殺人の罪を犯さない保証はありませんが、私が判断できる状況証拠では、カガメ大統領の真の狙いはベアトリスの兄のJean-Marie Vianney Hirigo(フツ族)にあると思われます。この人物は現在マサチューセッツ州のWestern New England Collegeの準教授で、カガメ大統領の独裁政権に対する批判を公然と行なっています。カガメ大統領にとっては我慢の出来ない人物です。彼には米国内にもう一人の妹(Prudence Kantengwa)が住んでいて既にベアトリス嬢と似たような罪状で逮捕され、裁判にかけられています。ヒリゴ博士が追いつめられるのも時間の問題でしょう。
 ジェノサイド以前の統計ではルワンダの民族構成はフツ族85%、ツチ族14%、現在の比率は分かりませんが、両族とも国外からの帰国者があり、上の比率から余り変化はないと推定されます。問題は、植民地時代の状況に戻って、ツチ族の絶対的支配体制をカガメ大統領が確立しようとしていることにあります。しかし、5対1という比率の下では、民主的選挙という外見を保つには大変な荒療治が必要です。しかも、次の大統領選挙はこの8月に迫っています。
 HRW(ヒューマン・ライト・ウォッチ)は世界で最も権威のある人権擁護団体と看做されているようですが、そのホームページのニュース欄(2010年6月26日)に『Rwanda: Stop Attacks on Journalists, Opponents』という厳しい長文の警告を掲げました。殺害されたり,暴行を受けたりしたジャーナリストや野党政治家の名を挙げて、カガメ大統領を難詰した内容ですが、この弾圧はそれからもますますエスカレートしています。弾圧はフツ族の人に限りません。サッカーのW杯ゲームで大騒ぎの南アフリカでもルワンダのサッカーチーム監督が政治的な理由で逮捕され、また同じく首都ヨハネスブルグで、6月19日、ルワンダ軍の幹部の一人であったNyamwasaという将校が刺客に襲われ、瀕死の重傷を負いました。ニャムワサはツチ族で、カガメ大統領の不興を買って、今年の2月南アフリカに亡命するまでは、カガメの側近であったとされています。このニュースは英国のBBC News に詳しく報じられました。現在もっとも大きなニュースになっているのは、もし大統領選挙が民主的に行なわれたら、カガメ大統領を破って大統領に当選すると看做されているフツ族出身の女性候補者Victoire Ingabire Umuhozaに対する暴虐です。
 アメリカのマスコミはルワンダを「アフリカの奇跡」とか「アフリカの希望の星」とか呼んで一斉に持ち上げています。私は前々回のブログに、
■ 私がルワンダのことを今ふたたび取り上げる理由の一つは、NHK総合テレビ番組「アフリカンドリーム全3回」の第一回(2010年4月4日)『“悲劇の国”が奇跡を起こす』を見たことです。「これでは困る。実に困ったことだ」というのが私の正直な反応でした。しかし、読者の皆さんに、その理由を過不足なく理解して頂くためには、注意深く長い説明が必要と思われます。アメリカには興味があるが、アフリカの小国ルワンダには興味がないとおっしゃる方には、「これは何よりも先ずアメリカについての話だから、辛抱して少し読み進んで下さい」と申し上げます。■
と書きました。NHKはカガメのルワンダを「奇跡の国」として全国の視聴者に提供したのですから、物事のバランスとして、カガメ大統領の自由選挙弾圧のニュースも適切に取り上げる義務があるのではありますまいか。
 次回からは、ルワンダが我々にとっても大問題であることを具体的に説明したいと思います。

藤永 茂 (2010年7月14日)




テリー・イーグルトンとサッカー

2010-07-07 11:00:00 | 日記・エッセイ・コラム
 今日のブログとして『ルワンダの霧が晴れ始めた(2)』を一応書き上げていたのですが、この所、ルワンダについての報道記事が多数目について、もう少し時間が欲しくなりましたので、サッカーのワールドカップ南アフリカ大会に関係したことを以下に書き綴って埋め草にします。
 スポーツは不思議なものです。スポーツと言っても、この場合、スポーツ観戦のことですが、福岡に住んでいると、いつのまにかソフトバンク・ホークス贔屓になってしまいますし、今回のサッカーにしても、選手の名前もほとんど憶えてないような有様でも、我知らず、手に汗を握って、日本チームの勝利を願う自分を見出します。お相撲にしても、いつの間にか、勝たせてやりたいと思う力士の立ち合いを見ていると、どきどき動悸がたかまるようになってしまっています。
 しかし、テレビなどのマスメディアのスポーツ・ニュースへの力の入れ方は異様なまでに過剰ではありますまいか。7月4日(日曜)の朝7時のNHKの ニュースでは、はじめの10分間ほどが一般ニュースに当てられ、それからの20分ほどのスポーツ・ニュースでは三人のキャスターが大声を上げ、近頃すっかりはやりになった「ねーーーーー」、「ねーーーーー」という、メーメー子山羊の鳴き声のような、感嘆強調詞を乱発しながら、お喋りを交わしていました。しかも、本当に貴重な10分間の一般ニュースには、東京の何処かで火事があり二人死者が出たニュースが含まれていました。いつも思うのですが、火事というのは、よほど異常な出火とか多数の死者が出た場合でなければ、ローカル・ニュースとして取り扱ってほしいものです。国内にも国外にも、日本人全体に知らせてほしい大事なニュースがいくらでもあるはずです。ただ一つだけ最近の例を挙げれば、今度のカナダでのG8/G20会議をめぐって、開催地トロントでは、1万人以上の人が反対デモに参加し、1万人以上の警官がデモの鎮圧に出動して、逮捕者1千人を出しました。この世の中がどうなっているのかを知らせてくれるのがニュース番組だとすると、東京での個人宅火災よりも、トロントでのG8/G20反対デモの方を選ぶべきではないでしょうか。NHKは、デモが良いか悪いかの判断を示す必要はありません。ただ事実を報じてくれればよいのです。視聴者の各自に判断をまかせればよいのです。
 判断を下すといえば、今度のサッカーW杯の熱狂についても、腰の据わった嫌みの一つぐらい聞こえてこないものかと思っていましたら、テリー・イーグルトンがその役を果たしてくれました。イーグルトンといえば、20年ほど前に、“文学とは何か”という問題をめぐって、日本でも大流行りをした名前ですが、パンチ力のある一言居士である点は、今でも変わりません。guardian.co.uk, Tuesday 15 June 2010にイーグルトンの次のような表題のサッカー評が出ています。:
『資本主義の親友:サッカー(Football: a dear friend to capitalism)』(ワールドカップは進歩的変革の妨げ。人民のアヘンは今やサッカーだ。)
嫌みたっぷりの文章ですが、さすがはイーグルトン、安っぽくはありません。一読に値します。例えば次の一節:
「儀式と象徴を剥奪された社会状況に、ランボーといえば映画の怪力男のことだと思うような大衆の審美的生活を豊かにすべく、サッカーは参入して来る。スポーツは大掛かりな見せ物だが、軍旗のパレードを観るのとは違って、観客の熱烈な参加を求めるものだ。日頃の仕事から何の知的要求も求められない男性女性たちが、サッカー競技の歴史を振り返ったり、選手たちの個人技を分析したりするとなると、驚くべき博識を披露することになる。造詣を傾けた議論が、古代のギリシャの集会よろしく、屋台や飲み屋を満たす。ベルトルト・ブレヒトの劇と同じく、サッカー・ゲームは普通の人々をエキスパートに変える」
このテリー・イーグルトンの意地悪な皮肉に対して、いつもは辛口のスポーツ評論家Dave Zirinは、同じguardian.co.ukで、スポーツの良いところを強調して、厳しい反論をしています。
 私が購読している西日本新聞に次のような興味深い共同通信記事がでました。サッカーのエキスパートの皆さんはご存知のことでしょうが、再録します。
■ 日本臨時収入9億円(16強進出にはFIFAから、選手には協会から報奨金)
ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会での日本代表の大健闘で、日本サッカー協会には「臨時収入」がもたらされる。2大会ぶりにベスト16に進出した日本は、国際サッカー連盟(FIFA)から賞金など合計1千万ドル(約8億9千万円)を受け取る。
 FIFAが定めた今大会の賞金は、最低の1次リーグ敗退でも800万ドル。このほかに出場準備金として一律100万ドルが支給される。賞金額は勝ち進むごとに上がり、16強進出チームで900万ドルとなる。日本がもしパラグアイに勝ってベスト8に進出していれば出場準備金と合計で1900万ドル、岡田監督が目標に掲げていたベスト4進出なら同2100万ドルとなっていただけに、関係者にとっては惜しまれるPK戦での敗退だった。
 日本サッカー協会は選手への報奨金の金額を公表していないが、前回を踏襲して、出場時間にかかわらず最終登録23人全員に1次リーグ1勝につき100万円と、ベスト16入りで500万円を支給するとみられている。
 優勝チームは、出場準備金を含めて3100万ドル(約27億6千万円)を手にする。(共同)■
この記事を読んで、「よし、ぼくも絶対W杯選手になるぞ!」と、富と栄誉、両手に花の夢をふくらます少年もいれば、「動くお金の額が大きすぎるのでは?」と素直な疑問を抱く少年もいるでしょう。具体性のある正確な情報を提供することは、本来、ジャーナリズムの大切な役目です。善悪の判断を下して貰わなくともよいのです。NHKにしても、FIFAが競技のテレビ放送権の形でどれだけ巨大な収入を手にするか等について、FIFAとW杯の全体のアカウンタビリティについて分かりやすい解説をしてくれると大変有難いと思います。

藤永 茂 (7月7日)