私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

『闇の奥』の読み方(4)

2007-07-25 10:06:45 | 日記・エッセイ・コラム
 『残ったのはピンターだけ』と題して、テリー・イーグルトンが、7月9日付けのガーディアン紙に、面白い記事を書いています。タイトルは“Only Pinter Remains. British Literature’s long and rich tradition of politically engaged writers has come to an end.”です。その出だしには、こう書いてあります。
「この2世紀の間で、およそ初めてのことだが、西欧生活様式の基盤を問いただす気概をそなえた著名な詩人、劇作家、小説家は、英国には一人も居なくなっている。社会主義者では全然ないというよりは、優雅な生活ぶりの社会主義者(a champagne socialist)である方がましだと賢明にも心に決めたハロルド・ピンターだけは名誉ある例外としてもよいかもしれないが、しかし、彼の最もあからさまに政治的な作品は、同時に、芸術的に最も退屈なものでもある。」
イーグルトン自身も、おそらく、優雅な生活ぶりのマルキシストでしょうが、まあ、そんな事はどうでもよろしい。
 今年の6月、サルマン・ラシュディーが英国女王からナイト称号を与えられたのを機に、ガーディアン紙から依頼されて書いた文章でしょうが、テリー・イーグルトンらしい切れ味が冴えています。ラシュディーについては「西欧についての容赦のない風刺作家であることから、その西欧のイラクとアフガンでの犯罪行為に声援を送る所まで居場所を変えた」と切り捨てます。続いて、Christopher Hitchens とかMartin Amisとか、私などにも聞き覚えのある人たちの変節ぶりを叩いたあと、イーグルトンは、英国が産業資本主義国家として台頭した頃に遡って、シェリー、ブレイク、カーライル、ラスキン、ウィリアム・モリス、など、英国の支配階級批判の健筆をふるった文人たちの伝統を辿ります。さらに、
 「20世紀の始めの三、四十年、英国ではHG ウェルズやジョージ・バーナード・ショーといった社会主義者作家が支配的地位にあった。ヴァージニア・ウルフがThree Guineas(三ギニー)で“他の人々を威圧し、・・・支配し、殺し、土地と資本を手に入れる術策”について書いた時、彼女は、彼女自身を、殆どあらゆる主要なイギリス作家よりも左に位置させたのだ。」
 しかし、第二次世界大戦後は衰退の兆が現われます。50年代の‘怒れる若者たち’の殆どは、やがて、陰気くさい老いぼれたちに変身してしまいます。英国はブレヒトやサルトルに相当するような激烈な作家たちは生まず、アイリス・マードックもドリス・レッシングも尻すぼみにおわりました。結局残るところはナイポール、ラシュディー、ストッパードなどの移民組ですが、彼らも英国の伝統にチャレンジすることよりも、それに進んで同化する方により熱心なように見えます。テリー・イーグルトンは「The same had been true of Joseph Conrad, Henry James and TS Eliot」と書いています。テリー・イーグルトンが、この点で、コンラッドをナイポールの先輩だとはっきり指名しているのは、私には大変興味があります。
 ハロルド・ピンターが世界の人間の敵と看做す政治家たち、とりわけブッシュ大統領を愚弄する彼の毒舌は痛快なものです。今年の3月の発言では、
If you are not with us, you are against us” President Bush has said. He has also said “We will not allow the world’s worst weapons to remain in the hands of the world’s worst leaders”. Quite right. Look in the mirror chum. That’s you.
と言っています。最後のところを訳してみます。「全くもってその通り。だが、あんた、鏡で自分をよく見てごらん。そりゃ、あんたのこった。」
 ハロルド・ピンターは、2005年12月にノーベル文学賞を受賞しました。その受賞講演『Art, Truth & Politics』の内容も烈しいものですが、ここで彼は、芸術における真実の追求を政治における真実の回避に対置して論じています。コンラッドの小説『闇の奥』を芸術作品として読みたいと願っている私にとっては、ピンターが、作家というものは、芸術的言語を使って、作中のキャラクターたちを創造し、彼/彼女らと作家自身の格闘を通して、芸術的真実を追求するものだと語っているのは、たいへん参考になります。これに対して、大部分の政治家は真実というものには興味がなく、権力に、そして、その権力の維持にのみ関心を持っています。「その権力を維持するためには、人民一般が無知の中に止まり、真実について、彼ら自身の生についての真実についてさえ、無知のままで生活していることが肝要である。したがって、われわれを取り巻いているのは嘘で出来たでっかいタペストリー(a vast tapestry of lies)であり、その嘘を糧にして、われわれは日々を生きている」とハロルド・ピンターは言います。今、ブッシュ大統領の大嘘のつづれ錦に包み込まれて、イラク戦争を遂行しているアメリカ国民にそっくり当てはまる言葉と言えましょう。
 前にも取り上げたことがありますが、「嘘」の問題は、昔から、『闇の奥』評論の大きなテーマの一つです。中央出張所に到着したマーロウは、所長をはじめとする白人たちの殆どが、自分の内も外も嘘で固めるような生き方をしているのを目撃して、こう言います。「君らも知っての通り、僕は嘘が大嫌い、何とも我慢がならないのだ。それも、僕が他の人間よりも真っ当で正直だからじゃなく、ただ、嘘というものが僕をぞっとさせるからなのだ。嘘には死の汚れ、免れられない死の匂いのようなものがある?そして、それこそが、まさに此の世で僕が憎み、忌み嫌う?何とかして忘れたいと願うものなんだ。何か腐ったものを口の中で噛んだみたいに、惨めな気持になり、むかついてくる。」(藤永 73)。ところが、これほどまで「嘘」がきらいだった筈のマーロウ本人が、『闇の奥』のエンディングの場面で、クルツの婚約者に、クルツの最後の言葉は「あなたの名前」だったと嘘をつきます。本当は「地獄だ!地獄だ!」と言って果てたのですが。この大きな矛盾をどう読み解くか、これが『闇の奥』解釈の一つの大きなポイントというわけです。
 この点に限らず、クルツやマーロウについての私の読みが、浅薄なポストコロニアル論的レベルに止まっている可能性を,私は、よく反省すべきなのかも知れません。「小説はまず小説として読むこと」--以前そうしたタイトルでブログを書いたことがありました。私は、依然として、同じ地点で足踏みをしているような気がしてならず、ハロルド・ピンターのノーベル賞受賞記念講演の政治的コンテントより、彼が芸術作品の芸術的真理について語っている部分に,より強く惹かれてしまいます。小説『闇の奥』の芸術的真実とは何か?
 そうした想いもあって、久しぶりにシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』(大久保康雄訳)を読み返しました。1847年に世に出たこの小説は、80の齢をこえた日本の一老いぼれ(an old buffer)に、いまも強い感銘を与える力を持っています。当時の英国植民地がこの小説の上に落す長い影もいくつか認められます。そうした事を,次回には、論じてみたいと思います。

藤永 茂 (2007年7月25日)


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『闇の奥』の読み方(3)

2007-07-18 09:51:02 | 日記・エッセイ・コラム
 コンラッドの『闇の奥』が本になったのは1902年、その同じ年にホブソンの『帝国主義』が出ていますから、この二書は全く同時代の出版物ですが、テムズ河に浮かぶネリー号上でマーロウの話に耳を傾けた会社重役、弁護士、会計士のモデルであった三人のコンラッドの友人たちにとっては、『闇の奥』と『帝国主義』とでは、口当たりの全然違う読み物であったに違いありません。この点だけは、世の『闇の奥』弁護者たちも素直に認めてほしいものです。コンラッド研究の“第一人者”Ian Watt は『闇の奥』を「帝国主義の最も強力な文学的告発(the most powerful literary indictment)」と持ち上げましたが、英国植民地の会社の株に投資して儲けていたこと間違いなしのネリー号上のイギリス紳士たちは「それを言うのなら、ホブソンの『帝国主義』の方だな」と言った筈です。事実、ホブソンの本は、私のような経済学、政治学の素人でも、ほとんど文学書を読むような興味の引かれかたで読み進むことが出来る書物です。その帝国主義批判の語り口は直裁で二枚舌的な所は全くありません。経済学者、政治学者としてのホブソンが時代的な制約から来る限界を持っていなかったとすればそれこそ不自然なことですし、未来に向かっての展望が彼自身の倫理的傾向や希望的観測に左右されたとしても、これまた、当たり前のことというべきです。コンラッドのテクストの二枚舌性の弁護のためにホブソンのテクストを引き合いに出したのはペコーラの戦術的な誤算だったと、私には思われます。
 前回にも書きましたが、ペコーラの本の第4章の『闇の奥』論は60頁の長さがあり、その中でホブソンの主著『帝国主義』に対する論評批判は重要な部分を占めています。ペコーラは、ホブソンの本が20世紀初頭という時点で抜群に尖鋭な帝国主義批判論であったことを先ず認めますが、すぐその後で、地球上の非ヨーロッパ地域に対するヨーロッパの政治的、社会経済的勢力の拡大制覇の問題を“ヨーロッパ的な言葉遣いで(in European terms)”で捕捉することの根元的な困難を強調し、ホブソンもそれを克服することが出来なかったこと、また、コンラッドが彼自身の異国経験を文学作品化する場合の混乱し勝ちで曖昧な反応も、同じ困難から生じているとペコーラは言います。彼は更に、
 Any thorough European critique of imperialism at this time will be forced to use language that enlightened imperial policy may have already learned how to manipulate for its own purposes.
と一般化します。
 しかし、私は、ホブソンの限界はコンラッドの問題点とは異質のものであったと思います。ホブソンの弱みは、(1)真の民主的国家の可能性、(2)そうした民主国家間の国際的協力の可能性、(3)人間社会の進歩の可能性、この3つの可能性に対するホブソンのオプティミズムにあったというのが、私の判断です。この空しいオプティミズムが時代の歴史的産物であったと言ってしまえば、確かにそれまでですが、その事は、ホブソンの帝国主義批判が二枚舌的であったと断罪することとは同一ではありません。当時のヨーロッパの帝国主義的世界支配の状況を政治経済学者として分析考察した結果、厳しく現状を批判し、各国家が、一部の特権階級ではなく、全人民の意向を公平に汲み上げる民主主義政体を持ち、そうした民主的国家が構成する国際的協力機構によって帝国主義の罪業を排し、世界の平和を維持する、というのがホブソンの夢であったのだと思います。
 結果的に見れば、ホブソン流のインターナショナリズムに頭から嫌悪の情を抱き、人間の性についてもペシミスティックなコンラッドの方が歴史の行き先をよりよく見通していたと言えるかもしれません。しかし、植民地主義論、帝国主義批判の論点からみれば、ホブソンの主著『帝国主義』は、今読んでも思わず膝を打ちたくなるような文章に満ちていて、ホブソンの慧眼に感心させられます。その一例。これはペコーラも引いている文章です。
It is not too much to say that the modern foreign policy of Great Britain is primarily a struggle for profitable markets of investment. To a large extent every year Great Britain is becoming a nation living upon tribute from abroad, and the classes who enjoy this tribute have an ever-increasing incentive to employ the public policy, the public purse, and the public force to extend the field of their private investments, and to safeguard and improve their existing investments.
「英国の現代の外交政策は何よりも先ず儲けの良い投資市場を求める闘争であると言ってまず過言ではない。大体において、年ごとに英国は海外からの貢ぎ物に頼って生活する国家になりつつあり、この貢ぎ物を享受する階級は、彼らの私的投資の領域を拡大するために、そして、彼らの現在の投資を保護し改善するために、公共の政策、公共の資金、公共の武力を使用しようとする気持にますます強く誘われている。」
この文章はホブソンの主著『帝国主義』の第4章「ECONOMIC PARASITES OF IMPERIALISM」にあります。これを読んでアメリカのチェイニー副大統領とイラク出兵のことを想起した人は少なくないでしょう。彼が実権を握る私企業ハリバートン社には、イラクに関するあらゆる業務が外部委託(アウトソーシング)されて、巨大な額の公的資金が流れ込んでいます。イラク戦争勃発以後のハリバートン社の株価の上昇は実にめざましいものです。ハリバートン社の他にも多数の私企業がアメリカの政策を左右し、税金を吸い上げ、兵士たちがその犠牲になっています。
 1914年に結成された英国の反戦運動組織「民主的コントロール同盟(Union of Democratic Control)」のことは拙著『「闇の奥」の奥』のp128に書きました。実はホブソンも同盟の発起人の一人でした。モレルとも親しく交わったと思われます。第1次世界大戦中英国政府から依頼されて戦争協力の文章を書いたコンラッドとモレル、ホブソンを一からげに論ずるのは、やはり、無理だと思います。
なお、付け足しですが、上の第4章のはじめには、「ユートピア」のトーマス・モーア(1477か1478-1535)の言葉も引いてあります。「Everywhere do I perceive a certain conspiracy of rich men seeking their own advantage under the name and pretext of the commonwealth.」。この500年間、富める者達の行動原理は全く変わらなかったようです。モーアは、1534年、国家反逆罪に問われて、ロンドン塔に投獄され、翌年、刑場の露と消えます。ケースメントが思い出されます。

藤永 茂 (2007年7月18日)


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『闇の奥』の読み方(2)

2007-07-11 11:20:45 | 日記・エッセイ・コラム
 Vincent Pecora の『SELF & FORM in Modern Narrative』(1989)の第4章は「The Sounding Empire: Conrad’s Heart of Darkness」と題されていて、その中でホブソンの名著『帝国主義』が大きく取り上げられている点が、『闇の奥』論として特徴があり、私の興味を強く惹く理由です。この本の出版年1989年の前後は、文学批評の多くに一連のセレブ的な名前が氾濫していた時期で、この『闇の奥』論にもアドルノに始まって、ゼイムスン、ルーカス、サイード、フーコー、ラカン、デリダ、ドゥールーズ、ガタリ、バフティン、ベンヤミンなどの名前が散りばめられていますが、結局の所、この第4章は手の込んだコンラッド弁護論の一つのように読めます。論旨の基本的な性格は、当時カルチャー・スタディや科学論などでも流行していた、いわゆる‘Linguistic turn’ ものの系統で、コンラッドにしろホブソンにしろ、大英帝国の帝国主義的文化が用意した言語を使う限り、彼らのディスコースはその言語の枠の外に出ることはできず、植民地主義批判の筆を進めても、つまるところ、一種の二枚舌(duplicities) に終ってしまう--というのが、論旨の要点のように思われます。
「Heart of Darkness is in this sense a casebook of the imperial intellectual’s practice, a work that is at the same time exemplary and diagnostic, that like Eliot’s “The Waste Land” is itself inevitably consumed by, indeed helps to naturalize, the contradictions it tries to confront.」
エリオットの『荒地』についてのこの解釈が広く受け入れられているものかどうか、私は知りませんが、ホブソンの『帝国主義』について、ペコーラが同じような見解を押し付けようとするのであれば、私は反撥せざるをえません。
 ペコーラという人は現在の世界情勢についても積極的に発言する英文学者のようですが、バシュラールが嫌うタイプの文学批評家の一人かも知れません。こと『闇の奥』に関する限り、始めからポストコロニアル論的にコンラッドの限界を弁護する意図を抱いて、材料集めをした気配が見えます。第4章は60頁の長さにわたりますが、私はその立論の中核に狙いを定めて反論を試みます。
 このブログでも既に何度か言及しましたが、コンラッドの『闇の奥』を弁護あるいは批判する場合の中核的問題は、この小説が批判しているのはベルギー国王レオポルドの植民地経営に限られているのか、それとも、英国の植民地経営を含むヨーロッパ植民地主義の全体なのか、ということです。
 コンラッドがその中にあった帝国主義的時代のディスコース環境の指標として、ペコーラは三人の同時代人を引き合いに出します。Sir Harry H. Johnston, E. D. Morel, J. A. Hobson の三人です。ジョンストンはホックシールドの『レオポルド王の亡霊』には出てきませんが、モレルたちのレオポルド打倒の事業の締めくくりに政治的に大きく貢献した英国のベテラン外交官、植民地経営官僚でした。コンラッドの伝記からよく知られているように、コンゴ河上流の奥地出張所からキンシャサに戻った後も、アレクサンドル・デルコミューンの組織する新しい探検隊に船長として参加することを希望していましたが、その望みを絶たれて落胆し、病気になって、3年契約を破って1年足らずでヨーロッパに帰ってしまいます。この問題の探険行の同定はコンラッド研究者の間で定まっていないようですが、コンゴ河の一支流に向かったものではなく、奥地出張所の南方に広がる鉱物資源の宝庫カタンガ地方を目指したものではなかったか--というのが私の憶測です。カタンガ地方でのベルギー勢力とイギリス勢力の軋轢については拙著『「闇の奥」の奥』のp214に書きましたが、ベルギー側の先鋒がデルコミューンで、イギリス側の先鋒がジョンストン、時は将に1890年でした。ジョンストンはセシル・ローズの片腕として活躍した時代もあり、レオポルドのやり方には批判的であっても、英国のアフリカ植民地経営の成功を支持する点では人後に落ちず、一般的な植民地主義批判のディスコースからはほど遠い存在でした。彼の主著『A History of the Colonization of Africa by Alien Races 』(1898,1913)は今でも容易に入手出来て、コンラッドの時代にアフリカの植民地経営に深く関わった英国官僚の物の考え方を知る上で興味深い書物です。次にペコーラが登場させるのは、ジョンストンよりは遥かに烈しい言葉を使ってレオポルドを攻撃したモレルですが、レオポルドの植民地経営と英国のそれを区別する点では、ジョンストンとモレルとの間には差異はなかったとペコーラは言いたいようです。「レオポルドの対するモレルの強硬な姿勢を、帝国主義そのものに一段と批判的なのだという風に考えるのは、全くの誤りであろう」とペコーラは書いています。ペコーラは、モレルの代表的著作として『Red Rubber』(1906)を挙げ、要するに、ジョンストンと同じくモレルもビクトリア時代の帝国主義的ディスコースの枠の外にでることはなかったと言いたいのです。
 さて、残るもう一人、ホブソンの場合も、前二者と同じだと言い含める作業はしたたかな力業を要します。ホブソンの主著『帝国主義』はレオポルドに対して厳しいだけではなく、英国のそれを含む帝国主義一般に対する鋭利な観察と批判の言説で満ちているからです。それでもやはり、ホブソンの言うところがヨーロッパの植民地主義を批判しているようでも、その一種の是認にもなっている、つまり、二枚舌(duplicities) 的ディスコースになっていると、ペコーラは主張します。ホブソンの主著『帝国主義』からの多量の引用文を含む数頁にわたって展開されているペコーラの主張を論駁するのは次回に行うことにして、ここでは、バシュラールが嫌う意味で、ペコーラはホブソンの『帝国主義』の内容を『闇の奥』ないしはコンラッド弁護の目的のためにねじ曲げているとだけ申して置きます。ペコーラの本の第4章の終り近くに「この章を通じての私の論旨は、コンラッドのテクストの筆使いそのものが、すでに、ブルジョア的ナラティヴの脱構築(デコンストラクション)になっているという事であった。そのブルジョア的ナラティヴは、実際の所、それ自体を超えては何も表出できず、ただ、コンラッドの物語の中の語り手たちが、どうしようもなく、その中に閉じ込められていると思われる管理社会に対する現実主義的順応以外には何も表現出来ないのだ」と結論的に書いています。ジョンストン、モレル、ホブソンを引き合いに出したのは、この三人の同時代人も、結局コンラッド/マーロウと同じように、帝国主義時代の言語の枠内に囲み込まれて“帝国主義反対”と言いながらも、同時に帝国主義を受容するという「二枚舌」の謗りから逃れることが出来なかったと言いたいのでしょう。しかし、これは牽強付会です。ジョンストンは問題外ですが、モレルとホブソンについては、明らかな省略隠蔽と意図的な誤読があります。この二人は、時代のディスコースの罠を振り払って、はっきりと英国の植民地政策と帝国主義一般に対する「二枚舌」でない批判を展開しました。モレルについては、ペコーラが引いた『赤いゴム』(1906)ではなく、モレルが反戦運動の罪で投獄されていた期間中に着手したと思われる著作『黒人の重荷』(1920)の中の彼の論述を看過することは許されません。この本については拙著『「闇の奥」の奥』のp189以下に詳しく論じました。ホブソンの主著『帝国主義』については次の機会に詳しく論じますが、ホブソンが二枚舌を使う人間でなかったことは、ボーア戦争に就いての彼の言説を知ればよく分かります。それに較べて南アフリカの情勢に対するコンラッドの発言こそ「脱構築」の必要のある曖昧さに満ちたものでした。

PS?? 英国のガーディアン紙の7月9日号にテリー・イーグルトンの「Only Pinter   Remains 」という、見出しからして興味をそそる一文が出ました。その中にはコンラッドの名も出ています。そのうちに是非取り上げたいと思います。

藤永 茂 (2007年7月11日)


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『闇の奥』の読み方(1)

2007-07-04 09:12:12 | 日記・エッセイ・コラム
 ガストン・バシュラール(1884-1962)はフランスの知的巨人で、科学哲学者で詩学者、と紹介されるのが普通ですが、バシュラール自身は「私は一人の本読み、ただそれだけ」としていたようです。これが謙遜の言葉ではない所に、この読書の巨人、独学の巨人の茫漠たる魅力と凄さがあります。しかも、バシュラールは単に飽く事を知らない本読みであっただけではなく、常にペンを手に持って本を読む「物書き」でもありました。数多い著作の殆どは、彼自身の読書体験のライブ・リポートのようなものです。例えば、彼の科学論を読むと、相対性理論や量子力学を本格的に学び取るために経験したバシュラールの苦闘の息づかいに直に触れる思いがします。
 相対性理論や量子力学が出現したことで、現代の科学者は、物の考え方について、普通の人々とすっかり違ってしまったことをバシュラールは強調しますが、それを「(昔の)科学者はコンラッドのいう意味での「われらの一人」であったが」と彼は表現します。コンラッド読みならば必ず知っているコンラッドのキーワード「one of us」に、科学論の文章の中で突然お目にかかる--このあたりにバシュラールの魅力の一つがあります。
 バシュラールは詩や小説について沢山書いていますが、自分を文学批評家、文学理論家とは考えていませんでした。読むという行為と、批評するという行為をはっきりと区別していました。批評家も「ペンを手に持って」読むわけですが、バシュラールは、前もって固めておいた観念を持って文学のテキストに近づく批評家に我慢がならなかったようです。その固定観念でテキストを解釈し、評価すれば、結局の所、テキストそのものを読むことに失敗するとバシュラールは考えたからです。ではどんな風に読めば良いのか? シェリーの「Prometheus unbound」(縛を解かれたプロミシュース)を例にとれば、「社会的正義を求めるシェリーの要求はすべて彼の作品の中に息づいている。しかしながら、その想像力は--その内に秘められた力、あるいは、その動きについて語るにしろ--如何なる社会的な傾倒からも常に完全に独立している。実際、「Prometheus unbound」の真の詩的な力は、如何なる種類の社会的象徴とも、絶対的に、何の関係も無いと言い切ることが出来る。」とバシュラールは書いています。
 こうまではっきり言われてみると、チヌア・アチェベの影響のもとで小説『闇の奥』を読んだ私などは、しっかりと反省してみる必要があります。「この小説が、自分には、まだ読めてはいないのではないか?」 これまで、もう一年以上も、『闇の奥』をめぐるあれこれの想いを書き綴ってきた私ですが、未だにこの不安を振り切ることが出来ません。バシュラールのいう意味での本当の「本読み」の方々のご教導をお願いします。

藤永 茂 (2007年7月4日)


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