私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

アリスティドという人間

2012-04-25 11:06:55 | 日記・エッセイ・コラム
 ハイチの政治家ジャン=ベルトラン・アリスティドは人間的に実に興味深い人物です。彼についてはこれまでにもかなりの量の文献を読みあさって来ましたが、私の持っている人物像にはいま一つピントの甘い部分が残っているような感じです。具体的には、2004年に米国によって国外に飛ばされてしまう前後に、(1)反対派の人々を惨殺するように支持者たちを煽動した、(2)個人的にも多額の公金を横領した、(3)精神異常の病歴がある、ということが報道されました。これまでも何度かお話しして来ましたが、貧民区のキリスト教宣教師から身を起こして、1990年12月、民衆の圧倒的支持でハイチの大統領に選出されましたが、その僅か9ヶ月後にクーデターで国外に逃れます。米国の都合で1994年にハイチに連れ戻され、残っていた16ヶ月の大統領在任期間を終えました。二期連続は憲法で禁じられていたのですが、2000年の選挙には再び立候補して又々80%という圧倒的得票率で大統領に復活、しかし、2004年には、米国空軍機に乗せられて、アフリカに飛ばされてしまいました。2010年暮れには米国主導のインチキ総選挙が行われ、大勢が決した後の2011年3月17日にアリスティドは7年ぶりにハイチに帰って来ましたが、それから後、彼がどうしているかは殆ど報道されていません。
 アリスティドが一種の精神異常者だという風評は相変わらず生きています。たしかにアリスティドは尋常な人物ではありません。これまでの彼の波瀾万丈の生涯を見ただけでも分かります。しかし、行動の奇異さということから云えば、アッシジの聖フランシスも多くの“正常な”人々(彼の父親を含めて)にとって気違いに見えたに違いありません。アリスティドの場合、アフリカへの追放7年間に彼がやったことが奇抜です。南アフリカの大学で心理学、脳科学などを真剣に学び、それと併せて、アフリカの諸言語の習得と言語学的研究に没頭していたようなのです。
 日本語版ウィキペディアには
■「正式名称は、ハイチ語で Repiblik d Ayiti(レピブリク・ダイチ)、標準フランス語で République d'Haïti (レピュブリク・ダイティ)。通称、Haïti (アイティ)。
公式の英語表記はRepublic of Haiti(リパブリク オヴ ヘイティ)。通称、Haiti(ヘイティ)。
日本語の表記は、ハイチ共和国。通称はハイチ、漢字では海地と表記される。なお、「ハイチ」とは“Haiti”の訓令式ローマ字読みであり、現地では通用しない。
「ハイチ(アイティ)」は、先住民族インディアン/インディオのアラワク系タイノ人の言葉で「山ばかりの土地」を意味し、独立に際してそれまでのフランス語由来のサン=ドマングから改名された。」■
とあります。これが、多分、国名の正しい起源でしょう。ところが、最近(2011年)、アリスティドがハイチ語で書いた一冊の本の、奥さんのミルドレッド・アリスティドによる英訳が出版されました。本の表紙にあるフルタイトルは

Haïti ? Haitii ? Philosophical Reflections for Mental Decolonization

です。その中に、アフリカの有力な言語スワヒリ語では、hai は Not を、tii は Obey を意味し、この言葉の響きの中には、ハイチ人たちの不屈の精神が込められているのだと、アリスティドは説いています。そのうちにこの面白い本の内容を紹介しようと思っています。

藤永 茂 (2012年4月25日)


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サムサノナツハオロオロアルキ

2012-04-18 11:24:16 | 日記・エッセイ・コラム
 これは宮沢賢治の『雨ニモ負マケズ』の終り近くにある一行です。この頃しきりにこの一行が胸に浮かびます。ここには『雨ニモ負マケズ』に書き綴られた賢治の心、賢治の人柄が一番はっきりと浮き彫りにされているように、私には、思われてなりません。賢治の仏心と言ってもよいでしょう。
 以下の全文は「青空文庫」から写させて貰いました。‘知っている’と言わずに、もう一度、読んで下さい。

〔雨ニモマケズ〕
宮澤賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭の
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

「日照りの時は涙を流し
 寒さの夏はオロオロ歩き」
この二行はペアとして旱魃と冷害を語っているのだと思います。なぜ私が、とりわけ、「寒さの夏はオロオロ歩き」に心を強く打たれるのか、その理由を説明することを試みます。

 私が宮沢賢治の書いたものに初めて接したのは、終戦後、粗末なザラ紙に印刷された童話集『注文の多い料理店』でした。いま卓上に「ちくま文庫」の「宮沢賢治全集8」があります。その中には『注文の多い料理店』に含まれていた九つの童話の他に童話『グスコーブドリの伝記』もあります。グスコーブドリは宮沢賢治の一つの分身ですが、この童話を読むと、「寒さの夏はオロオロ歩き」の一行を理解するのに役立ちます。賢治は、1896年、岩手県花巻市に生れ、1933年、37歳で没します。県立盛岡中学を経て、盛岡農林学校を卒業。22歳頃はじめての童話を書き、以後、創作と農業指導に献身しました。彼の農作、農民に対する思いは実になみなみならぬものがあったのです。それに殉じた賢治の死に様を想起する方々も多いでしょう。『グスコーブドリの伝記』は死の前年に発表された作品です。次のように始まります。
「グスコーブドリは、イーハトーブの大きな森のなかに生れました。お父さんは、グスコーナドリという名高い木樵りで、どんな巨きな木でも、まるで赤ん坊を寝かしつけるやうに訳なく伐ってしまふ人でした。」
ブドリが十になり、妹のネリが七つになった年、どういうわけか、
「お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるこぶしの木もまるで咲かず、五月になってもたびたび霙がぐしゃぐしゃ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年播いた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。」
つまり、寒さの夏、おそるべき冷害の到来です。
 「そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのいがばかりでしたし、みんなでふだんたべるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもうひどいさわぎになってしまいました。」
そのまま冬がきて年が変わりましたが、またもや寒い春と夏の訪れ、とうとう本当のひどい飢饉になり、
「みんなは、こならの実や、葛やわらびの根や、木の柔らかな皮やいろんなものをたべて、その冬をすごしました。けれども春が来たころは、おとうさんもおかあさんも、何かひどい病気のようでした。
 ある日おとうさんは、じっと頭をかかえて、いつまでもいつまでも考えていましたが、にわかに起きあがって、「おれは森へ行って遊んでくるぞ。」と言いながら、よろよろ家を出て行きましたが、まっくらになっても帰って来ませんでした。二人がおかあさんに、おとうさんはどうしたろうときいても、おかあさんはだまって二人の顔を見ているばかりでした。」
 オリザ(Oryza)は米のこと、稲のこと。1910年、鈴木梅太郎は米糠から脚気治療に良く効く成分を取り出してオリザニンと命名しました。今のビタミンB の発見です。ブドリとネリに何がしかの食べ物を残して、お母さんもお父さんの後を追います。ネリは人さらいに連れ去られて、ブドリの孤独な苦難の日々が始まりますが、勉強好き、本好きのブドリはやがてイーハトーブの火山局に勤めることになりました。
「じつにイーハトーブには、七十幾つの火山が毎日煙をあげたり、熔岩を流したりしているのでしたし、五十幾つかの休火山は、いろいろなガスを噴いたり、熱い湯を出したりしていました。そして残りの百六七十の死火山のうちにも、いつまた何をはじめるかわからないものもあるのでした。」
ブドリは先輩の大博士や老練の技師の手伝いをして、火山の活動と近くの海の潮汐を利用して発電した電力を用いて、人工降雨や空気中の窒素を固定して窒素肥料を製造したりして、農民たちを助ける仕事に没入して行きますが、森の中へ父母を失った恐ろしい悲しい思い出の「サムサノナツ」がまた襲って来ました。『グスコーブドリの伝記』の最後は次のように終ります。:
■ そしてちょうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。測候所では、太陽の調子や北のほうの海の氷の様子から、その年の二月にみんなへそれを予報しました。それが一足ずつだんだんほんとうになって、こぶしの花が咲かなかったり、五月に十日もみぞれが降ったりしますと、みんなはもうこの前の凶作を思い出して、生きたそらもありませんでした。クーボー大博士も、たびたび気象や農業の技師たちと相談したり、意見を新聞へ出したりしましたが、やっぱりこの激しい寒さだけはどうともできないようすでした。
 ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない木を見ますと、ブドリはもういても立ってもいられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちょうどあの年のブドリの家族のようになる人がたくさんできるのです。ブドリはまるで物も食べずに幾晩も幾晩も考えました。ある晩ブドリは、クーボー大博士のうちをたずねました。
「先生、気層のなかに炭酸ガスがふえて来れば暖かくなるのですか。」
「それはなるだろう。地球ができてからいままでの気温は、たいてい空気中の炭酸ガスの量できまっていたと言われるくらいだからね。」
「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」
「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようおことばをください。」
「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事にかわれるものはそうはない。」
「私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
「その相談は僕はいかん。ペンネン技師に話したまえ。」
 ブドリは帰って来て、ペンネン技師に相談しました。技師はうなずきました。
「それはいい。けれども僕がやろう。僕はことしもう六十三なのだ。ここで死ぬなら全く本望というものだ。」
「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。一ぺんうまく爆発してもまもなくガスが雨にとられてしまうかもしれませんし、また何もかも思ったとおりいかないかもしれません。先生が今度おいでになってしまっては、あとなんともくふうがつかなくなると存じます。」
 老技師はだまって首をたれてしまいました。
 それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。
 すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残りました。
 そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅いろになったのを見ました。
 けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。■
 これが宮沢賢治の長編童話『グスコーブドリの伝記』のエンディングです。美しく壮絶な自己犠牲の物語はこうして幸せな終りを迎えます。この物語を読んでからの60年間グスコーブドリのことを想い続けて来たと,何のてらいもなく、私は言うことができます。私の心を占めたイメジュリーは、始めの頃は、カルボナード島に一人残って死を迎えるブドリの姿でしたが、それは次第次第に移ろって「サムサノナツ」の予感にわななく形象になって行きました。上の文章では、
「ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない木を見ますと、ブドリはもういても立ってもいられませんでした。」
のブドリの姿です。いても立ってもいられず、オロオロ歩きで田んぼのあぜ道をたどるグスコーブドリの、宮沢賢治の姿です。
 賢治は1896年に生れ、1933年に没しますが、その間、東北地方は1906年、1913年、1931年と三度も冷害による凶作(4~5分作)に見舞われました。私には『グスコーブドリの伝記』の全体が賢治のオロオロ歩きの表象であるように思われます。
 「ちくま文庫」の「宮沢賢治全集8」には<『グスコーブドリの伝記』の先駆形>とする異稿が掲載されています。その終結部と上掲の終結部をくらべると非常に興味深い違いがあります。先駆異稿では、カルボナード島がいま爆発すれば炭酸ガスはすぐ大循環の風にまじって地球を包み、その温度を数度は上げるだろうという大博士の言葉を聞いて、ブドリは云います。
「私にそれをやらせて下さい。私はきっとやります。そして私はその大循環の風になるのです。あの青ぞらのごみになるのです。」
この“私はその大循環の風になるのです。あの青ぞらのごみになるのです。”という表現は如何にも賢治らしい美しい言い回しですが、上掲の決定稿ではそれが惜しげもなく削られています。それだけではありません。先駆異稿を読んで下さればすぐ分かりますが、決定稿ではブドリの壮烈な自己犠牲の行為が大幅にトーンダウンして描かれています。これは見逃してはいけない事だと私は考えます。
*************************
 このブログの始めに書いたように、この頃は
「サムサノナツハオロオロアルキ」
の一行がしきりに胸に浮かぶのですが、それは米欧の有名富豪、有名芸能人たちのいわゆる慈善行為をあまりにもしばしば見せつけられることに由来しています。アフリカの人々の悲惨を救うと称するセレブたちには、どんな工夫、どんな手段を尽して説明しても、この宮沢賢治の詩の一行を分からせることは金輪際不可能だと私は思うのです。自己犠牲の行為について、例えば、抗議としての自爆テロとか焼身自殺とかハンガーストライキとかならば、彼ら彼女らも、少なくとも概念的には理解するでしょう。チャリティーコンサートのギャラをアフリカのレイプ犠牲者のために寄付するという“自己犠牲”なら自分でもやっていると嘯く者もいるでしょう。ブドリの劇的な爆死もハリウッド映画のワン・カットとしては理解が及ぶかも知れません。しかし、寒さの夏にオロオロ歩く宮沢賢治の仏心は、彼ら彼女らにとっては永久に理解の届かないものの筈です。自己のプロモーションのみを常に求める精神の中には、それは生息不可能のものであるからです。


藤永 茂 (2012年4月18日)


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神妙な顔で謝る男(3)

2012-04-11 11:00:00 | 日記・エッセイ・コラム
 2011年9月28日付けのブログ『ハイチのコレラ禍(1)』の冒頭で
■ 2010年10月18日、大震災後のハイチの困窮民医療事業のためにキューバから派遣されていた医師団がコレラ患者の大量発生に気が付きました。それから一年弱の間に、感染患者40万、死者は6千人を超えています。フランスのエクス-マルセーユ大学教授ルノー・ピアルー(Renaud Piarroux) によると、2011年9月の時点でも、月間1万人のコレラ患者が発生し、毎日死人が続出しています。ピアルー博士は、2010年11月コレラ発生のすぐ後、ハイチ政府の要請でハイチにやって来て現地人の伝染病専門医の協力のもとにコレラの発生と伝染状況についての調査を開始して、その発生源がMINUSTAH(United Nation Stabilization Mission in Haiti, 国連ハイチ安定化ミッション) に参加しているネパールからの要員たちであることを突き止めました。■
と書きました。つまり、ハイチのコレラの発生源が駐留国連軍の兵士であることは2010年年末には既に突き止められていました。ところが、米国も国連も言を左右にしてなかなか事実を認めようとしないまま今日に至りました。
 この3月8日、ハイチの病院を視察していたビル・クリントンはAnsel Herz というフリーのジャーナリストからの質問に答えて、「国連平和維持部隊隊員の南アジアからの兵士がハイチにコレラを持ち込んだが、当人がコレラ菌を持っていたことを知っていたかどうか、私は知らない。彼の排泄物がハイチの川に流れ込んで、それがハイチ人の体内に入ったわけだ」と言い、さらに、コレラが大流行した本当の理由は、ハイチの公衆衛生状態が悪いことにあり、その改善にこそ努力を集中すべきだと述べました。クリントンの発言は6分間ほどで、その中には同伴していたポール・ファーマーの声も聞こえます。クリントンの発言は「悪かった。御免なさい」という明白な謝罪からはほど遠い調子のものですが、これは賠償の問題を意識して言質を取られないように注意したからでしょう。もしクリントンにその気があったのなら、この8年間にハイチの上下水道を整備することは可能であったことにも勿論触れていません。
 これまで何度もお話しした通り、MINUSTAH は普通の意味の国連平和維持部隊ではありません。ハイチの一般市民が正しく理解し、嫌悪しているように、これは米国に代表される外国権益とそれに密着し結託している国内権力の支配に対する反抗反乱を封じるための占領軍なのです。MINUSTAH が居なければ、とっくの昔に劇的な政変が起っているでしょう。現在までにコレラで7千人以上が死亡し、54万人(全人口1千万)が罹病しています。予後の体力回復も長引きます。国連軍が正式に責任を認め、補償することになれば、賠償の金額は大変な額にのぼる筈です。
 この3月31日、ニューヨークタイムズのベテラン記者で以前からハイチに深く関わって来たDeborah Sontagが“Haiti’s Cholera Outraced the Experts and Tainted the U. N.”という長い記事を出しました。おそらく国連の責任問題を意識しての報道記事なのでしょう。中立性を装ったいわゆる調査報道という代物で、あれこれの具体的情報は提供されていて、お読みになって損はしませんし、NY タイムズの読者から寄せられた120をこえるコメントも読み甲斐がありますが、私のお気に入りの激烈姐御 Ezili Danto は、ゾンタークの見かけだけの中立不偏性を鋭く追求しています。
 先ず、見出しの“ハイチのコレラは専門家をすっかり出し抜き、国連の名に泥を塗った”がダントさんの逆鱗にふれました。この数十年間ハイチにはコレラはなかった。今度のコレラ菌は国連が持ち込んだのだ。国連軍のコレラだ。もともとハイチを不法占領している国連軍に汚される名誉などない、というわけです。国連軍に対するハイチの一般市民の反感が強いことはゾンタークも書いています。国連反対デモがコレラの治療センターの建設と救急物資の配布を阻害したしたことや、国連がコレラ流行の責任を認めて、補償を行うことを求める市民の声が上がっていることも書いてはありますが、「この問題は、8年前から一触即発的な政治情勢の国家を安定化して保護してあげているハイチ人と国連平和維持部隊員たちとの関係を緊迫させて来た。(the issue has strained the peacekeepers’ relationship with the Haitians they are protecting in an eight-year-old mission to stabilize the politically volatile nation.)」といった語り口です。これではダントが腹を立てるのも無理はありません。一体どうして8年前からハイチにMINUSTAHが派遣され、“volatile”な政情を押さえつけていなければならないのか? MINUSTAHが護ってあげているのは本当には何なのか? 米国民の大部分は知らないでしょう。この8年間、「国連出て行け!」こそがハイチの庶民の声であることをゾンタークは伝えるべきであるのです。 彼女の長い調査報道記事はコレラ大流行の源泉となった川の流れのほとりで洗濯をする母親と、そのそばでオシッコしたあと川の水で口をそそぐ6歳になる素っ裸の娘の描写で終ります。この記事の始めにはその場面を撮った写真も掲載されています。好奇心をお持ちの方のために原文を少しコピーします。
■Behind the base, the stream where the epidemic began bustles with life now as it did before the outbreak; many who live and work beside it have no other access to free water.
Recently, just behind the base’s barbed-wire periphery, Dieula Sénéchal squatted with her skirt hiked up, scrubbing exuberantly colored clothes while a naked 6-year-old girl, Magalie Louis, defecated by the bank, gnawed on a stalk of sugarcane and then splashed into the water to brush her teeth.■
これは実際の情景の描写に違いありません。しかし常々チョー敏感な大姐御イジリ・ダントはここにも退っ引きならぬ人種偏見を嗅ぎ付けます。
 この新聞記事の見出しについて面白いことがあります。いま我々がアクセスできるネット版では
# In Haiti, Global Failures on a Cholera Epidemic #
と変更されていますが、ニューヨークタイムズの Deborah Sontag のアーカイブでは、
# Haiti’s Cholera Outraced the Experts and Tainted the U. N. #
と元のままです。この変更はダントの要求をいれたもののようです。
 現在、この記事には122のコメントが付いています。「大震災後、日本人はあんなに立派に立ち直っているのに、ハイチ人は何というザマか」といったまるで何も分かっていな雑言も見えますが、中には鋭い観察もあります。私の好みに従って、例のポール・パーマーに関するコメントを一つ紹介し,その終りの部分を訳出します。「・・・ だから、ポール・ファーマーさんよ。ハイチでの“やり損ない”で他の人々を責めるのはどうか止めてくれ。あなた自身と、あらゆる称賛受賞でピカピカ輝く資金貰い過ぎのあなたのNGO 組織のことをよく反省して、あなたにも震災の事後処理がうまく行っていない事態に責任があることを素直に認めなさい。」:
■ I find it interesting that the super-arrogant Harvard-based Paul Farmer said that "all those NGO's" dropped the ball on cholera. He has the gall to exclude himself from all responsibility? I thought that Partners in Health was pretty well involved in Haiti and was supposed to build local capacity... hmm... interesting that when it doesn't work, Dr. Farmer blames OTHER NGO's and takes little responsibility for what his own organization failed to see and to prepare for. He's right that Haiti was let down by the NGO community but what's new? That is what happens in all third-world countries for the most part. I'm just so tired of the Harvard elitists that blame others for their own failures - failures based on such extreme arrogance and the assumption that if something goes wrong it could never be THEIR fault. This is the same kind of thinking that Larry Summers, former Harvard President, got us into the worst financial meltdown since the great depression. Summers' incredible arrogance, and that of Greenspan, led to the troubles we have now. So, Paul Farmer, please don't blame other people for the "misses" in Haiti. Look at yourself and your over-funded organization with all of its glinting accolades, and just admit that you were also responsible for the poor follow-up to the earthquake. ■


藤永 茂 (2012年4月11日)


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神妙な顔で謝る男(2)

2012-04-04 10:45:49 | 日記・エッセイ・コラム
 世界貿易の自由化は近年のアメリカの一貫した政策でビル・クリントンは大統領就任以前からそのチャンピオンとして知られていますが、ハイチについてアメリカ政府は、父親の死後その放蕩息子の “ベビー・ドック” ジャン?クロード・シュヴァリエが大統領の地位を継いだ1972年から、彼に圧力をかけて、ハイチの国内本位の自給自足的な経済形態から生産物の輸出に重点を移すことを企てました。200年前、ハイチの黒人奴隷が反乱して独立を成し遂げた(かに見えた)頃には、ハイチは世界最上等の植民地で、砂糖やコーヒーや果物の輸出で宗主国フランスなどに莫大な富をもたらしていました。アメリカ政府(USAID)や世界銀行はシュヴァリエ大統領や大地主たちがハイチの国内消費に向けた農産物の生産からアメリカのマーケット向けの果物や野菜(これらをプロデュースと呼びます)の大規模生産に国内農業を切り替えることを条件にして経済援助を行う約束をしました。もちろんハイチの農業をアメリカの農業資本(アグリビジネス)の支配下に置き、同時にまた、失業して遊民と化した零細農家人口を低賃金でアメリカの繊維衣料(アパレル)産業のハイチ工場に収容して酷使し、製品を高いマージンでアメリカ国内や世界各国で売りさばく事を狙ったのでした。ところが、農村地帯の極貧の百姓たちが思ったほど土地を捨てて都会に出て奴隷賃金工場労働者に身を落とさなかったのです。その大きな理由がクレオール豚という土着の小型の黒豚の存在でした。貧困農村地帯で半分放ち飼いのまま残飯や雑草を食んで丈夫に育ち、病気知らず、その糞尿はよく土地を肥やすという至極重宝な豚で、伝統的に貧乏農民の貯金箱の異名を与えられ、普通は貴重な蛋白質源、急な物入り(たとえば婚礼や病気や葬式)の時にはそれを売って費用を調えたものでした。85%の農家がクレオール黒豚を飼育していたと言われています。
 1978年、アメリカの農業専門家が「ハイチのクレオール黒豚が熱病(swine fever)に罹りつつある」と発表してその絶滅の必要性(つまりswine fever が北米大陸に入ってアメリカの巨大な豚飼育産業を破壊することの阻止)を説き、1982年から1983年にかけての13ヶ月間に、ハイチ土着の黒豚約百万頭全部が殺されました。物の本によると、“Haiti’s last pig died on June 21st, 1982.”(in S. Allen’s Devil’s Garden.)だそうです。ポール・ファーマーは swine fever という言葉を使っていますが、辞書を見ると、hog cholera (豚コレラ)と同じとなっています。swine flu となっている場合もあります。農民の宝であった豚の屠殺を説得するために、代りの上等のアメリカ産の白豚をあげるからとの約束が農民になされ、クレオール黒豚の絶滅から2年後に、アイオワ州からハイチに持ち込まれましたが、贅沢な生活環境を要求する大きな白豚で、飲み水もクリーンな水道水を飲ませることになっていました。ハイチ人の80%は、昔も今も、水道水など飲める環境に住んでいません。ハイチ人はこのアメリカ白豚に“4本足の王子様”のあだ名を献上しました。もちろん、熱帯の気候にも耐えられず、病気にも弱く、何の役にも立たない代物でしたから、この弁償プログラムはいつの間にか立ち消えになりました。しかし、アイオワの豚業者はおかげで大儲けをしたわけです。一方、ハイチ農民の総被害額は6億ドルに及んだという推定があります。しかし、この暴虐行為はアメリカという国の歴史の特異点ではありません。1850年からの四半世紀にアメリカ西部大高原の野牛(バッファロー)が約二千万頭殺戮され、続く四半世紀間にはほぼ絶滅に向かいます。この大虐殺の一つの理由は先住民たちの蛋白質食糧源を絶ってジェサイドを推し進めたいアメリカ白人の思惑であったのです。
 前回で取り上げたハイチの米作農業の扼殺はこのクレオール黒豚の皆殺しの次にハイチの貧困農民を襲った悲劇です。豚殺しはシュヴァリエに、米作つぶしはアリスティドに、アメリカが自国の利益のために押し付けたグローバル主義的政策でした。その罪過はアメリカの一大統領が神妙な顔をして「悪かった。御免なさい」と謝って帳消しになることでは絶対にありません。それを知っての上でぬけぬけと謝罪するところがスリック・ウィリー・クリントンと呼ばれる所以でしょう。ハイチにはハイチ語(フランス語が崩れた)で Bel dan pa di zanmi (美しく微笑みかけてきても友だちとは限らないよ)という諺があるそうです。
 ところで、大震災後、豚コレラならぬ人コレラの流行で、すでに7千人をこえるハイチ人が死んでいます。この悲劇についてもクリントン氏が謝りました。次回に報告します。

<付記>
 上の本文中で「この暴虐行為はアメリカという国の歴史の特異点ではありません。」と書いて,昔のバッファロー大殺戮の話をしましたが、ただいま現在(4月第1週から)、ミシガン州の一般農家で飼育されている在来種の黒豚などが、野生化して危害を及ぼすかもしれないなどの理由で一斉に殺されてしまうことになり、この州の法律命令に従わない農民は軽犯罪としてではなく、重犯として罰せられることになりました。これらの豚は大規模に室内で飼育されている白豚と異なり、暗色の皮膚で肉の味の良さから人気が高い豚だそうです。日本で野生の猪が農家の作物に害を与える問題に共通する面もあるのだろうとは思われますが、私には、この黒豚絶滅政策を推し進めている力は本質的にアメリカの大規模経営農業資本(Big Agri)の暴力であると思われてなりません。ハイチの黒豚皆殺しとそっくりの話です。



藤永 茂   (2012年4月4日)


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