私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

キューバでの社会主義の再定義(2)

2015-10-30 10:48:57 | 日記・エッセイ・コラム
 ギャリー・リーチ(Garry Leech)の『Redefining Socialism in Cuba』の内容の要約の続きです。
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 具体例の一つ。国営レストランから解雇された5人の労働者は協同組合を作り国有の場所を借りて私営のレストラント商売を始め、成功を収めた。大多数の米国人の目には、これは公共部門の縮小、資本主義経済への移行と映るであろうが、一方では、このシフトは実際には社会主義の強化と解釈できる。職場で働く人々の発言権が国営の店の場合よりも遥かに強化されるからである。こうした小規模私企業の数の増加がキューバの社会主義実践の再定義を意味するのは、それが、労働者を国家社会主義の階層的構造から解放し、彼らが自らのボスになる機会を与えるからである。キューバ政府は各個人に一つの場所での店舗経営を許すだけで、チェーン・ストアの展開は許していないから、大資本の連鎖店舗による独占傾向の恐れはなく、大部分の商業活動は地域の生活共同体に根ざしている。
 キューバの賃金事情も米国のメディアが歪曲的に報道する事柄の一つだ。国家が支払う月給の平均は25USドルと言われている。その通りだが、報道は事情の全体像を滅多に伝えないから、キューバの一般市民は厳しい貧困生活を強いられているものと米国では信じられている。勿論、この60年間、一貫して行してカストロ政権の転覆を試みてきた米国の影響下で、キューバ市民の生活状況は困難の連続であった。しかし、彼らはいろいろな形の生活補助を享受している。教育費と医療費は原則としてゼロであるし、80%以上の市民は自宅を保有していて、家賃も住宅ローンも払う必要がない。電気料金は政府の補助のおかげで、月に約1ドル。食料も配給カード制度が必要最低限を保証してくれる、店頭の食料価格も政府の補助が徹底していて、例えば、卵は一個5円、パンは一斤10円~20円、トマトは500グラム50円、ジャガイモ500グラム5円、大きなアボカド一個25円、などなど。交通費について言えば、ハバナの市バスは何処へでも5円で行ける。1日100円の暮らしは勿論楽ではないが、人間としての尊厳を失う恐れはない。ホームレスは事実上皆無。
 キューバの医療制度と教育制度については贅言の必要はないだろう。WHO(世界保健機関)の2010年の統計によれば、146カ国中、人口千人当たりの医師数の順位は、キューバ第2位(6.723人)、米国第51位(2.422人)、日本第55位(2.297人)となっている。ベレン地区でも、家庭医、専門医、救急施設へのアクセスは極めて良好である。
 この五十数年間にキューバで行われてきた社会主義の再定義のプロセスの成果は、外貨獲得を目指したハバナの著名観光スポットの変貌ではなく、外人観光客が滅多に足を踏み入れないベレン地区のごく普通のキューバ人たちの生活状況の変化に目を凝らすことによって看取することができる。ギャリー・リーチの文章はその実情と歴史的意義の優れた報告になっている。
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以上で、ギャリー・リーチ(Garry Leech)の『Redefining Socialism in Cuba』の内容の要約を終わりますが、私(藤永茂)としては、それに加えて、このキューバにおける社会主義実践のパターンの方向性とオジャランの目指すクルド人社会の草の根的生活共同自治体の連邦化の方向性との間に、明らかな一致があることを指摘したいと考えます。
 キューバの場合は、いま現在も続行されている米国の経済制裁をはねのけて、農民革命的な革命の初心を貫き続けてきたカストロ兄弟を核とする革命指導者たちの、いわば上からの懸命な創造的発想と指導によって、社会主義の再定義が行われているわけですが、クルド人の場合には、少なくとも現状としては、カストロ兄弟に当たる擬独裁者的人物がいませんから、自治生活共同体の連邦形成は、下からの力によって成し遂げられなければなりません。その実現がほとんど絶望的に困難であることは、現在のトルコの政情を見るだけでも明らかですが、キューバの社会主義施政の実質的変貌は、クルド人のロジャバ革命にとって、メキシコのサパティスタ運動の存在よりも、より大きな励ましとなり得るのではありますまいか。

藤永茂 (2015年10月30日)
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キューバでの社会主義の再定義(1)

2015-10-29 00:00:40 | 日記
 語源的には、ギリシャ語で、デモクラティア(平民の支配)とアリストクラティア(貴族の支配)とは反義語の一対をなしていて、民主主義(デモクラシー)と呼ばれる政治システムのあるべき姿を示しています。クルド人の思想的指導者オジャランは、経歴的には社会主義的な考え(マルキシズム、アナーキズム)の人ですが、彼が落ち着いた先の『Democratic Confederalism(民主的連邦主義)』という言葉が示すように、始原の意味合いで民主主義(デモクラシー)を語っています。草の根民主主義(Grassroots Democracy)という言葉も使っています。現実問題として、平民、庶民の草の根的なコミュニティの間の横の連なりから立ち上がってくる政治的、行政的志向を取りまとめて実行に移すメカニズムをどう作り上げ、維持するかが大問題です。具体的には、現在のトルコ、シリア、イラク、イランの4国にまたがる、クルディスタンと呼ばれる広大な地域で、現存の国境線を維持したまま一つの民主的連邦が出現したとすると、この連邦は、現実に、如何にして機能することになるのでしょうか?
 つい先頃、カナダの地方大学で教鞭も取っているジャーナリストであるギャリー・リーチ(Garry Leech) という人の筆になる興味深いキューバ論を読みました。タイトルは『Redefining Socialism in Cuba』です。クルド人たちの夢とつながるような気がしますし、今後、私達が生きてゆくべき一つの方向を指し示しているようにも、私には、思えます。

http://axisoflogic.com/artman/publish/Article_71950.shtml

内容のあらましを以下に紹介します。抄訳ではありません。私自身が考えたことも挿入します。

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 去る8月、米国の国務長官ジョン・ケリーが54年ぶりの国交回復の期にハバナの米国大使館を再開して国旗を掲揚した。米国内では歴史的大事件であるかのように華々しく報道されたが、キューバにとっては、巨大にして兇悪なる隣国に屈せず、飽くまで初心を貫こうとする苦難の、しかし、創意に満ちた歴史のあまたの道標の一つに過ぎない。今回の国交回復は和解の道標ではない。米国の側からの攻撃手段転換の道標である。1959年の革命は共産主義革命ではなく百姓革命だと言われたことがあった。世界の植民地独立運動の進行、ソ連の興隆、ソ連の崩壊、国際資本と米国による世界制覇の歴史を通じて、キューバはその生存をかけて変貌を続けてきた。それは社会主義の定義の仕直しの歴史とも言えよう。
 キューバの社会主義モデルの最近の変貌は首都のハバナで最もはっきり見ることができる。スペイン植民地時代に繁華街であった地区は外国人観光客の主要アトラクションであり、古い建物が改築改装されて、瀟洒なホテル、レストラント、バー、各種の店舗が立ち並ぶ。こうした地区では観光客用のCUC という通貨が通用し、英語の話せるキューバ人が多数生活している。1990年代、国内で産出しない物品を輸入するための外貨を獲得する必要から、キューバは外人観光客の呼び込みに力を入れてきた。しかし、この人口220万の都市ハバナには、外国人観光客たちが殆ど足を踏み入れない地区が広がっていて、そこは観光客の知るキューバとはおよそ異なった世界であり、大部分のキューバ人が生活しているのである。
 観光地区からあまり遠くないところにあるベレンという地区はその一例である。古い建物は殆ど改装されてなく、古いままであり、外国人観光客は殆ど見当たらない。ここではCUCは通用せず、住民は国の通貨ペソを使ってキューバ人としての普通の生活を営んでいる。しかし、ここで過去20年の間の社会的な、また、経済的な変化を見てみると、キューバでの社会主義の再定義のプロセスがよく読み取れるのである。そして、この変化を基本的に言えば、国家主義的モデルから全員参加型モデル(participatory model)への移行である。ベレンの一住民は「昔は何もかも政府頼りで、電球一つ切れても政府の世話になったものだ」と語る。
 ソ連の崩壊と米国の経済封鎖に締め上げられたキューバは、社会主義的人間社会として生き残るためには、創造的、革新的にならざるを得なかった。石油原料の農業用殺虫剤や肥料が輸入できなくなったキューバは、世界に先駆けて有機農業のリーダーになった。また輸送用燃料の不足は、食料の長距離運送を避けるため、都市近郊、あるいは内部での農業生産や地産地消の奨励を促した。
 こうした変化はベレンのような地域社会でもはっきり見られる。近所に幾つもの農作物直売マーケットがあり、1日12時間、休日なしで開かれている。売られている農産物は町内の菜園やごく近郊の農地からのものであり、マーケットの経営も協同組合的で国営ではない。キューバでは、国営の大規模農場を細かく分割して小規模の農民たちの協同組合に委ねたのである。こうした農業協同組合は生産量を拡大したばかりでなく、それまで直接の発言権を持たなかった農民たちの声も拡大した。
 キューバの2011年の経済改革は、協同組合制度を農業だけでなく運輸交通を含む他の部門にも広げた。この改革では、単一の家族経営の規模を超えた小規模の私企業の設立も認められたため、ベレンでもその最も賑やかな街並みに国営、私営の各種の店舗が立ち並ぶようになった。
 2010年、キューバ政府が50万人以上の国営部門労働者の解雇を発表した時、米国のマスメディアはこれを「社会主義の失敗であり、資本主義経済へのキューバの移行である」と喧伝した。世界銀行(WB)や国際通貨基金(IMF)を通して世界中に強制されている米欧のネオリベラル政策による国営部門の私企業化とキューバ政府の新政策とを混同した結果であった。しかし、資本主義国家とは異なり、キューバの国営部門の大量解雇は、労働者達を路頭に迷わせ、失業者として、必死に私企業への就職を求めるか、家なしの境涯に追い込むことではなかった。解雇は数年にかけて段階的に行われ、2011年の経済改革によって、解雇された者の多くは、その職種を変更することなく(例えば国営パン屋から小規模私営パン屋へ)再就職できたのであった。
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(次回へ続く)

藤永茂 (2015年10月29日)
コメント (1)

オジャラン(9)

2015-10-21 20:30:27 | 日記
翻訳を続けます。

III. DEMOCRATIC CONFEDERALISM
A. Diversity of the Political Landscape
B. The Heritage of the Society
C. Ethics and Political Awareness
D. Democratic Confederalism and the Political System
E. Democratic Confederalism and Self-Defence
F. Democratic Confederalism Versus Dominance
G. Democratic Confederate Structures at a Global scale
H. Conclusion

III. 民主的連邦主義

ここで統治とか行政とか言うものは、非国家的政治施政あるいは国家なしの民主制と呼ぶことが出来よう。民主的な意思決定のプロセスを公共行政から知られるプロセスと混同してはならない。国家は単に施政するが、民主制は治める。国家は権力に基づいているが、民主制は集団的な合意に基礎を置く。国家の官庁は、部分的に選挙によって合法化されるとは言え、命令によって決定される。民主制は直接選挙を使う。国家は威圧を合法的な手段の一つとして使用する。民主制は自発的な参加に基礎を置く。
 民主的連邦主義は他の政治的グループや党派に向かって開かれている。それは柔軟で、多文化的、反独占、合意志向的である。環境保護とフェミニズムはその中心的な支柱である。こうした種類の自主行政の枠内では、今までとは違う経済が必要になるであろう、それは社会的資源を搾取するのではなく、増進し、社会の多様な必要を公平に扱うであろう。

A. Diversity of the Political Landscape (政治的一般状況の多様性)

社会の矛盾にみちた成り立ちは垂直的な構成と水平的な構成を持つ政治的グループの両方を必要とする。中心的、地域的、局所的なグループがそうした形でバランスすることが必要である。それぞれが、その特殊な具体的状況に対応でき、広範囲の社会問題に対する適切な解決策を打ち出してくることが出来る。
 政治的団体の援助を得て、それぞれの文化的、民族的、あるいは国家的アイデンティティを表現するのは当然の権利である。しかしながら、この権利は倫理的かつ政治的社会を必要とする。国民国家が共和国であれ民主主義国であれ、民主的連邦主義は国家的伝統、政府形態の伝統に関して妥協に向けて開かれている。それは平等な共存を許容する。

B. The Heritage of the Society (社会の伝統遺産)

ここでもまた、民主的連邦主義は社会の歴史的経験とその共同の伝統遺産に依拠する。それはある恣意的な近代的政治システムではなく、むしろ、歴史と経験を蓄積する。それは社会の生命から生まれ出たものである。
 国家は、権力独占の利益を追求するために、絶えず自身を中央主義に向けて位置付けようとする。ちょうどその反対が民主的連邦主義については真である。独占体ではなく社会が政治的焦点の中心に位置する。社会の混成的構造があらゆる形の中心主義と矛盾する。はっきりと中心主義を打ち出せば、社会的暴発が結果するだけである。
 記憶に生きている限りにおいて、常に人間たちは連邦的な性質を持った氏族、部族、その他の生活共同体の緩やかなグループを形成してきた。このようにして彼らは内的な自律性を保持することが出来たのだ。諸帝国の内部の政府ですらも、宗教的権威や部族の自治体、王国、さらに、共和国も含めた、帝国内の異なる部分に対していろいろの自律的行政の方法を採用した。したがって、中心主義的のように見える諸帝国でさえ、連邦的な組織形態に従っていることを理解することが重要である。中央集権的モデルは人間社会が求める行政モデルではない。それどころか、中央集権的モデルは独占権力の維持という所にその源泉を持っているのだ。

C. Ethics and Political Awareness (倫理と政治的意識)

一定のパターンに従ったカテゴリーや用語による社会の分類は資本主義的独占体によって人工的に作られたものだ。一つの社会で重視されるのは、あなたが何かではなく、あなたの外見である。世に言う所の社会のそれ自身の存在からの疎外は積極的な参加からの撤退を奨励する、つまり、よく言われる政治に対する幻滅である。しかしながら、人間社会というものは本質的に政治的であり、価値観に基づいている。経済的、政治的、イデオロギー的、軍事的独占は、単に剰余価値の蓄積を求める点で社会の元来の性質と矛盾する構築物である。彼らは価値を創造しない。また革命も新しい社会を創造することは出来ない。それはただ社会の倫理的な政治的な関係の網目に影響を与えるだけである。それ以外のことは倫理に基づいた政治的社会の自由裁量にかかっている。
 既に私は、現代資本主義は国家の中央集権化を強要すると言った。人間社会の内にある政治的権力、軍事的権力の核はその影響を剥奪されてきた。君主制の現代的代替物としての国民国家は弱体化した無防御の社会を後に残した。この点で、法的秩序や社会一般の平穏は資本家階級が支配していることを意味しているに過ぎない。権力は自ら国家の中心を占め、現代の基本的な行政パラダイムの一つになる。このことが国民国家を民主主義や共和国主義と対照的なものにする。
 我々の“民主的現代性”プロジェクトはこのように我々が理解する現代性に代わるものの草案としての意味を持つ。それは基本的政治パラダイムとしての民主的連邦主義の基礎の上に建設される。民主的現代性は倫理に基づいた政治的社会の屋根である。我々が、社会なるものは均一的な一枚岩の実体である必要があると信じる誤りを犯している限り、民主的連邦主義を理解するのは困難であろう。現代の歴史は空想された中央政権社会の名においての、文化的大虐殺、身体的大虐殺の4世紀の歴史でもある。社会学的な範疇としての民主的連邦主義はこの歴史と対照的なものであり、それは、もし必要ならば、人種的、文化的、政治的多様性のために、戦う意志に基礎を置いている。
 財政的システムの危機なるものは資本主義的国民国家が内在的に抱えている結果である。しかしながら、国民国家を変えようとするネオリベラルのあらゆる努力はこれまで不成功なままである。中東がその教訓的な実例を与えている。

D. Democratic Confederalism and the Political System (民主的連邦主義とその政治的システム)

中央集権的な官僚制的施政と権力行使の解釈とは対照的に、連邦主義は一種の政治的自主行政の形をとる。そこでは、社会のすべてのグループやすべての文化的個性が、地域集会や一般集会や議会で、自由に自己を表現することが出来る。民主主義をこのように理解することは、社会のすべての層に政治空間を解放し、異なった多様な政治グループの形成が許容されることになる。このようにして民主的連邦主義は、また、社会全体としての政治的一体化を前進させる。政治は日々の生活の一部分となる。この政治的一体化なしには、国家の危機は解決できない。何故ならば、危機は政治的社会の表現参加の欠如によって煽られるからである。今のリベラル民主主義で使われる封建主義とか自主行政といった用語は新しく考え直さねばならない。肝心な点は、これらは国民国家の行政の階級制度的レベルとしてではなく、むしろ、社会的表現と参加の中心的な道具立てとして考慮されるべきものである。これがまた社会の政治化を進めることにもなるだろう。ここで、大げさな理論は必要でない。必要なのは、社会の活動家の自主性を構造的に強化し、社会全体としてそうした組織化の条件を整えることによって、社会の諸々のニーズに表現を与える意志が必要なのである。すべての種類の社会的政治的グループ、宗教団体、知的風潮が、すべての地域的意思決定のプロセスにおいて、直接に自己表現することが出来るような機能レベルの創設は、参加型民主主義とも呼ばれ得る。参加の度合いが強ければ強いほど、この種の民主主義はより強くなる。国民国家は民主主義とは対照的なもので、民主主義を否定すらするが、民主的連邦主義は連続的な民主的プロセスを形成している。
 社会的活動家は、各個にそれ自体、連合の単位であり、参加型民主主義の幹細胞である。彼らは結合したり連携したりして、状況に応じて、新しいグループや連合体を作る。参加型民主主義に関係する政治的ユニットのそれぞれは本質的に民主的である。このようにして、我々が言う所の民主主義は、連続的な政治過程の枠内での、地域レベルから全域レベルまでの意思決定の民主的プロセスの適用を意味することになる。この過程は社会の社会的網目の構造に影響を与えるが、それは、国民国家における均一性の追求と対照的で、この均一性は力によってのみ実現可能であり、したがって、自由の喪失をもたらす。
 既に私は、地域レベルが決定の行われるレベルであることがポイントだと述べておいた。しかしながら、それらの決定に至る考え方は全体的な問題と足並みを揃える必要がある。我々は、村落や都市近郊も連邦的構造を必要とすることを意識する必要がある。社会のすべての領域が自主行政に委ねられる必要があり、そのすべてのレベルで自由に参加できる必要がある。

E. Democratic Confederalism and Self-Defence (民主的連邦主義と自衛

本質的に言って、国民国家は軍事的な構造を持つ実体である。国民国家は結局の所あらゆる種類の内的外的戦闘の産物である。現存する国民国家のどれ一つとして全く自然に出来上がったものはない。いつも必ず、彼らは戦争の記録を持っている。この過程は立国の期に限られたものではなく、むしろ、全社会の軍事化の上に建設される。国家の文官統率は単に軍事的機構の一つのアクセサリーに過ぎない。自由民主主義は、その一枚上を行って、彼らの軍事的構造を民主的な自由主義的な色で塗りあげる。しかしながら、このことがそのシステムそのものによって引き起こされた危機が高まると権威主義的な解決法を求めるのをためらわせることはない。ファシスト的権力行使は国民国家の特性である。ファシズムは国民国家の最も純粋な形である。
 この軍事化は自己防衛の助力によってのみ押し返すことが出来る。自己防衛の仕組みが何もない社会は彼らの独自性、民主的な意思決定の能力、政治的特徴を失う。したがって、社会の自己防衛は軍事的な次元だけには限られていない。それはまた、その独自性、政治的自覚、民主化のプロセスの保持を前提にしている。そうであってこそ、我々は自己防衛について語ることが出来る。
 この背景に対して、民主的連邦主義は社会の自己防衛のシステムと呼ぶことが出来る。連邦的なネットワークの助けがあってのみ、独占企業と国民国家の軍事主義のグローバルな支配に反抗する基盤が存在する。独占企業のネットワークに対抗して、我々は同等に強力な社会主義的連邦を建設しなければならない。
 これは特に、連邦主義の社会的パラダイムが軍部の軍事力独占を含まないことを意味する。つまり、内的治安と外的治安を保つだけが軍部の役目である。彼らは民主的機関の直接の管理の下にある。社会そのものが軍部の義務を決定することが出来なければならない。役目の一つは社会の自由な意思を内的な、また、外的な干渉から守る事であろう。軍の指導部の構成は政治的機関と連邦を構成するグループの双方が協力して平等な条項と分担を決定すべきである。

F. Democratic Confederalism Versus Dominance (民主的連邦主義対覇権)

民主的連邦主義においては、いかなる種類の覇権追求の余地もない。これはイデオロギーの分野で特に真である。覇権は、通常、古典的タイプの文化に随伴する原理である。民主的な文化は覇権的権力やイデオロギーを拒絶する。民主的な自治行政の限界を超越する如何なる表現も自治行政と表現の自由を極端にまで推し進めることになろう。社会の抱える問題を集団的に取り扱うには、反対意見の理解、尊重と民主的な意思決定の方法を必要とする。これは現代資本主義者支配層の考え方と対照的である。恣意的な国民国家風の官僚的決定が、倫理的な基礎に沿った民主的連邦主義的指揮とは対角線的に対立するものである。民主的連邦主義的指揮機関はイデオロギー的な合法化を必要としない。したがって、彼らは覇権を追求する必要もないのである。

G. Democratic Confederate Structures at a Global scale (地球規模の民主的連邦構造)

民主的連邦主義では焦点は地方のレベルにあるが、グローバルに連邦主義を組織することも除外しない。除外どころか、むしろ、超大国の主導の下での国民国家の連合としての国際連合に対抗するものとして、我々は連邦的集合体の観点に立って国民的市民社会の綱領を掲げる必要がある。このようにして、我々は世界の平和、エコロジー、正義、生産性に関する、より良い決断を下せるようになるかも知れない。

H. Conclusion (結語)

民主的連邦主義は、国民国家の行政に対比すると、一種の自治行政として記述することが出来る。しかしながら、一定の状況下では、国民国家が自治行政の中心的重要事項に干渉しない限り、両者の平和的共存は可能である。そうした干渉のすべては市民社会の自己防衛を呼び起こすであろう。
 民主的連邦主義は如何なる国民国家とも戦争を構えないが、同化しようとすれば無為のままに止まっていることはない。既存の国家の革命的転覆、あるいは、新しい国家の設立は長続きする変化をもたらさない。長い目で見れば、自由と正義は、民主的連邦主義に基づくダイナミックなプロセスの枠内でのみ達成される。
 国家というものの全面的な拒絶もその完全な承認も、どちらも、市民社会の民主化の努力に有用ではない。国家を克服すること、とりわけ、国民国家の克服は、長期的なプロセスである。
 国家は、民主的連邦主義が社会的問題に関する問題解決の能力を持つことをはっきり示した時に、超克されるであろう。このことは、しかし、国民国家による攻撃が受容されなければならない事を意味しない。民主的連邦主義はあらゆる時に自衛力を維持するであろう。民主的連邦主義は単一特定の地域内で組織化されるとは限らない。それらは、関係する諸社会がそう欲すれば、国境をまたいだ連邦となるであろう。

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以上で、オジャランの『Democratic Confederalism(民主的連邦主義)』の翻訳は第三節まで進みました。あと第四、第五節が残っていますが、訳出はここで止めることにします。なお、私が使用したのは2015年2月に単行本として出版されたパンフレットです。

I. PREFACE
II. THE NATION-STATE
III. DEMOCRATIC CONFEDERALISM
IV. PRINCIPLES OF DEMOCRATIC CONFEDERALISM
V. PROBLEMS AND SOLUTIONS FOR THE MIDDLE EAST

その内容は、次のサイトからダウンロードできる版と僅かに異なります。

http://www.freeocalan.org

例えば、上記の見出しも同一ではありませんが、その相違は気にする必要はありません。オジャランに本格的な興味をお持ちならば第四、第五節を是非お読みください。
 こうしてオジャランという人の書いたものを読んでいると、この人物が心から人々の生活の平和を望んでいることをひしひしと感じます。上掲のサイトからダウンロードできる44頁の小冊子;

War and Peace in Kurdistan Perspectives for a political solution of the Kurdish question by Abdullah Ocalan

を読めば、現在のトルコでのテロリストの真の頭目はエルドアン大統領であって、独房にあるオジャランではないことがよく分かります。
 シリア問題はトルコ問題だと言ってもあまり過言ではありません。そして、現トルコ政権にとってクルド人問題は最大の政治的問題です。したがって、マスメディアがあまりクルド人問題を取り上げないにしても、以前から申し上げているように、この問題はシリア問題の中核に位置しているのです。11月1日のトルコの総選挙の結果を受けて、真のテロリスト頭目エルドアン大統領がどう出るか。
 昨日、シリアのアサド大統領がモスコーに赴いて、プーチンその他のロシア首脳たちと話し合ったと報じられています。もしシリア国民一般の意思を正しく反映する選挙が行われれば、アサド政権が支持されるのは間違いないと思われますが、そうした選挙の実現性は大きくはありますまい。アサド/プーチン会談を報じたニューヨータイムズの記事は、次のような文章で結ばれています。

The Assad government started a civil war that has killed an estimated 250,000 people, left millions homeless and decimated the country, rather than accede to the demands of peaceful protesters demanding greater democracy in 2011.

ひどいものです。

藤永茂 (2015年10月21日)
コメント

オジャラン(8)

2015-10-14 22:26:13 | 日記・エッセイ・コラム
 『オジャラン(7)』で始めたオジャランの『Democratic Confederalism(民主的連邦主義)』の翻訳を続けます。原著の英語PDF版が下記のサイトから入手可能なことを「ささき」さんが、『オジャラン(7)』へのコメントの形で、教えて下さいました。

http://www.freeocalan.org

 私が予測したように、オジャランの思想とプログラムに従うクルド人たちはシリア北東部、イラク北部、トルコ東南部で次第に力を増す政治的実体を構成しつつあり、この実体の存在が今後ますますシリア問題の中核に進出してくることになると思われます。2014年の米国主導の対イスラム国有志連盟の話し合いには、当時、現場でISと最も激しく戦っていたクルド人のロジャバ革命軍は、全く無視されてオブザーバーとしての出席さえ許されませんでしたが、やがてジュネーブ(UN)でシリア問題の解決に向けた国際的会合が開催されるときには、彼らを無視することは不可能でしょう。前回のブログで紹介した『ロジャバ諸県の憲法』の前文に、“この憲章の下、我々この自治区の人民は、すべての人々が公共生活で自由に自己表現できるように、和解、多元的共存、民主的参加の精神で一致団結する。権威独裁主義、軍事主義、中央集権、公事への宗教的権威の干渉から自由な社会を建設するために、この憲章はシリアの領土的一体性を認め、国内的また国際的平和を維持することを強く願うものである。”と明記してあります。この線に沿って、シリア問題が解決され、クルド人を含むすべての人々が平穏な日常生活の営みを再開できるよう祈ってやみません。訳出しているオジャランの『民主的連邦主義』はシリア問題さらには中東問題解決の重要な指針となるべき文献です。

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官僚と国民国家

 国民国家はその組成的基盤である国民を超越するから、それはその政治的機関を超えた一つの存在となる。それは、その法的、経済的、宗教的構造のみならず、そのイデオロギー的な基盤を擁護するためのそれ自身の機関を必要とする。その結果生じる拡大する一方の民生と軍事の官僚制度は高くつき、しかも超越的な国家そのものを維持することだけに役に立ち、その事がまた、官僚を人民の上に置くことになる。
 近代ヨーロッパ期には、国家は人間社会のすべての層にその官僚制度を拡大する全ての手段を手に入れてしまった。それは社会の全ての生命線を汚染する癌のように成長した。官僚制度と国民国家は一方が欠ければ存在し得ない。国民国家が近代資本主義体制の背骨とすれば、官僚制は紛れもなく自然的社会を閉じ込める檻である。その官僚制度は国家システムが円滑に機能することを保証し、物資の生産の基盤を保証し、さらに、実在の社会主義的国民国家であれ、商業主義的国民国家であれ、主だった経済活動関係者たちの利益を保証する。国民国家は資本主義の名において社会を飼いならして、生活共同体をその自然な基礎から疎外させてしまう。社会的問題を突き止めてそれを解決しようとする問題解析はこうした連携をよく考察する必要がある。

国民国家と均質性

 国民国家はその始原の形態において全ての社会的プロセスの独占を目指した。多様性や複数性は撲滅すべきものとされ、これは同化と集団虐殺という結果を生んだ。それは、人間社会のもろもろのアイディアと潜在的労働力を搾り取るだけでなく、資本主義の名において、人々の頭を植民地化する。それは又、それ自身の存在を保護するために、あらゆる種類の精神的また知的なアイディアと文化を同化する。国民国家は、単一の国家的文化、単一の国民意識、単一の統合された宗教的共同体を創り出すことを目指す。かくて国民国家はまた均一的な市民義務を強要する。現代の市民義務は、私的な奴隷制から国家的な奴隷制への移行以外の何物もでもない。資本主義はそうした現代的な奴隷の大群なしには利潤を上げることはできない。均一的な国民社会はこれまでに作られた最も人工的な社会であり、それはいわゆる“社会工学計画”の結果である。
 こうした目標は一般的に力まかせか又は金で釣って達成されて、その結果、少数派、その文化、言語の文字通りの消滅や、あるいは、強制的な同化をもたらす。過去二世紀の歴史は、本物の国民国家という空想的な現実に対応する国家を創設しようとする暴力的な試みを明示する例証に満ち満ちている。

国民国家と人間社会

 国民国家は一般人民の運命に配慮するとしばしば言われるが、これは本当でない。むしろ、それは全世界的な資本主義システムの植民地総督なのだ、つまりは、現代資本主義に隷属する家臣であり、それは我々が普通思っているよりも遥かに深く資本の支配的構造に拘っているのである。国民国家は資本の植民地なのである。国民国家が国家主義的だと如何に自己宣伝しても、それには関係なく、国民国家は それと同じ程度に資本主義的搾取のプロセスに奉仕している。そうでなければ、現代資本主義世界の富の再分配をめぐる恐るべき闘争の説明が付かない。かくて国民国家は一般人民と共にあるのではない。それは人民の敵である。
 他の国民国家との関係と国際的独占企業との関係は国の外交官によって調整される。他の国民国家の承認なしにはどの国民国家も生存できない。その理由は全世界的資本主義システムの論理の中に見出される。資本主義システムの結束から離れる国民国家はイラクのサダム政権が経験したのと同じ運命に見舞われるか、あるいは、経済制裁によって屈服させられるであろう。
 さてトルコ共和国の例から国民国家というものの特徴の幾つかを引き出してみよう。
++++++++++
これで、II. 国民国家 の A. 基本的考察 が終わり、次の

B. 国民国家のイデオロギー的基礎

が始まります。この部分は[Nationalism] [Positivist Science] [Sexism] [Religiousness] の4項目からなっていますが、翻訳は省略して、抄訳的要約だけにします。
[Nationalism]
国民国家の出現と共に、国家そのものが殆ど神聖化される傾向が出てくる。国家が神の位置に祭り上げられると、国家主義(愛国主義、国粋主義)は、いわば、その宗教にあたる役割を担う。しかしその背後にあるのは、権力が国民を自己の利益に利用しようとする意思である。それは社会のあらゆる分野に浸透していて、芸術も科学も社会意識も独立ではない。したがって、真正の知的洞察に達するためには、現代の国家主義的要素の根本的な解析が必要である。
[Positivist Science]
実証主義哲学のパラダイムは国民国家のイデオロギー的支柱の一つであり、それは愛国主義に炎を注ぎ、また、一種の新しい宗教のような形をとった世俗主義を支える。実証主義は物事の外見だけを尊重し、それを現実そのものとする哲学的特徴を持つから、可視のものだけを、古代の偶像崇拝的に尊重する傾向を生む。
[Sexism]
国民国家のもう一つの支柱はその社会全体に広がっている性差別制度である。
多くの文明社会システムは権力保持のために性差別を採用しきた。彼らは女性を安価な労働力として利用し、また子孫、特に男性の再生産の手段と看做し、つまり、女性は性的対象であり、また、商品でもある。女性全体を搾取される一つの国家と見ることも出来る。社会的な根をもつ性差別は、愛国主義と同じく、国民国家とその権力のイデオロギー的産物である。女性の奴隷化は、他のすべてのタイプの奴隷制、圧政、植民地化が行われる最も深刻に偽装された社会領域である。はっきり言って仕舞えば:資本主義と国民国家は、専制的で搾取的な男性の独占物である。
[Religiousness]
見た所、如何にも世俗国家のように振る舞うにしても、国民国家は、目的達成のためならば、国家主義と宗教の混ぜ合わせを利用することを躊躇しない。理由は簡単で、宗教が、依然として、社会的に重要な役割を果たしうるからである。とりわけイスラム教はなかなか敏捷である。ある場合には愛国心の一部を担う。イランのシイア・イスラムはイラン国の最も強力なイデオロギー的武器である。トルコではスーニ・イデオロギーがそれに当たる。

+++(B. 国民国家のイデオロギー的基礎)の抄訳終り+++

C. クルド人と国民国家

ここまでの、国民国家とそのイデオロギー的基盤についての序論に従い、今や、我々は、分離したクルド人国民国家の創設がクルド人にとって意味をなさない理由を理解できよう。
 過去何十年間、クルド人は有力な列強による圧政に抗してクルド人の存在の承認を求めて闘争を続けてきたばかりでなく、クルド人社会を封建制から解放するために戦って来た。したがって古い鎖を新しい鎖に変えること、ましてやその圧政を強めるのは意味をなさない。これが、現代資本主義の文脈において、国民国家の創設が意味する所だからだ。現代資本主義にたいする反対なしには、人民の自由解放の余地はないからだ。これが、クルド人国民国家の創設を何故私が選ばないかの理由である。
 分離した国民国家の要請は支配階級または資本家階級の利益から起こるが、それは人民の利益を反映しない。なぜならば、もう一つ国を作っても、単に、追加の不公正を生み出し、自由への権利を今よりもなお抑制されるだけのことになるだろうからだ。
 クルド人問題の解決は、したがって、現代資本主義を弱めるか、それを押し返すやり方の中に求める必要がある。そこには、クルド人が住み着いている地域が四つの異なった国の領土にまたがっているということの他に、歴史的な理由、社会的な特殊性、それにこれまでの事態の展開があり、それらが、一つの民主的解決を絶対必要なものにしているのである。更にまた、中東地域全体が
民主主義に不足しているという重要な事実がある。クルド人居住地域の地政学的状況のお陰で、クルド人の民主的プロジェクトがうまく行けば、それは中東一般の民主化を進めることにもなる。この民主的プロジェクトを民主的連邦主義とよぶことにしよう。
*****(C. クルド人と国民国家)終り*****

これから先、いよいよオジャランの唱える『民主的連邦主義(DEMOCRATIC CONFEDERALISM)』の具体的説明が始まります。

 ご承知のように、10月10日の午前10時過ぎ、トルコの首都アンカラでのクルド人支持の平和集会で二つの爆発があり、死者約130人、負傷者約200人の大惨事になりました。問題の核心は11月1日に予定されている総選挙への影響です。この集会に参加した人々の中には、クルド人でない人々も含まれていたと思われますが、そうした人々は、クルド人の求めているものが、従来の国民国家的独立ではないことを理解しているのだと私は推測します。トルコ内のクルド人はトルコ国の枠内で、シリア内のクルド人はシリア国の枠内で、漸進的に、民主的な自治共同体の形成を求めていることを理解しているのだと思います。シリアのアサド大統領はこの状況を了解していると思われますが、不幸にも、トルコのエルドアン大統領は、トルコ内では勿論のこと、隣国のシリアでもクルド人が自治共同体を持つことを絶対に許さないと、すでに去る7月に言明しています。私としては、11月1日の選挙で、前回と同じく、エルドアン大統領の支持母体AKPが絶対多数をとることに失敗することを強く願っています。そうなれば、トルコから、クルド人問題を媒体にして、中東の混乱解決の糸口が見つかるやも知れません。

藤永 茂 (2015年10月14日)
コメント

シリア、プーチン、オバマ

2015-10-07 22:45:30 | 日記
 今、私の心の中で繰り返しているのは「人を馬鹿にするのも程々にしてくれ」という言葉です。米国が、ISについての巨大なそして見え透いた大嘘をこのまま押し通せると、本気で思っていたのだとすれば、これは arrogance, hubris の極みと言わなければなりません。マスメディアの操作でどんな嘘でも一般大衆に押しつけることが出来ると考えている人々が世の中を支配しているのだとすると、これは実に恐るべきことです。米国がIS対策として組織したいわゆる有志連合なるものが発足してからほぼ一年が経ちますが、その頃米軍の一高官が「ISを制圧するには50年ぐらいかかるだろう」と発言したことがありました。
 このISという米欧側の傭兵組織体が、今回のロシア軍の介入によって、数ヶ月という短時間で崩壊することがあっては大変ですから、米欧側は何とか嘘の巧妙さを jack up して、とにかくアサド政権をつぶす所まで事を運ばなければなりません。これに関して、10月4日付のニューヨークタイムズに、極めて興味深い記事が出ました。オバマ大統領はシリアについて二つの新しい重要な動きに出るというのです。しかも、それは今回のプーチンのシリアへの

http://www.nytimes.com/2015/10/05/world/middleeast/us-aims-to-put-more-pressure-on-isis-in-syria.html

軍事介入より以前に立案されたというふれ込みです。第一に、地上でアサド政府軍と戦っている勢力に、今回初めて直接に、弾薬と武器を供給する事、第二に、シリアの北東部に重点を置いて、二万人以上のクルド人兵士(ロジャバ革命軍!)に三千人から五千人のアラブ人兵士を加えた対ISテロリスト軍団を編成して、米国空軍を主力とする有志連盟諸国の空軍がISを猛爆する。目指すは、IS(イスラム国)の“首都”ラッカ(Raqqa)、ロジャバ革命のレニングラードとも呼ばれるコバネのほぼ南100キロに位置します。オバマにしてみれば、ラッカをプーチンより先にどうしても占領したいのでしょう。これまでの、そして、これからの歴史的糊塗の仕事もあるでしょうから。三千人から五千人のアラブ人兵士はどうでも良いことです。でも、二万人以上のクルド人兵士の実の中身がオバマには分かっているのでしょうか? 彼女ら彼らの憲法草案に何が書かれているかを知っているでしょうか? 

http://civiroglu.net/the-constitution-of-the-rojava-cantons/

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The Constitution of the Rojava Cantons

Preamble

We, the people of the Democratic Autonomous Regions of Afrin, Jazira and Kobane, a confederation of Kurds, Arabs, Syrics, Arameans, Turkmen, Armenians and Chechens, freely and solemnly declare and establish this Charter.

In pursuit of freedom, justice, dignity and democracy and led by principles of equality and environmental sustainability, the Charter proclaims a new social contract, based upon mutual and peaceful coexistence and understanding between all strands of society. It protects fundamental human rights and liberties and reaffirms the peoples’ right to self-determination.

Under the Charter, we, the people of the Autonomous Regions, unite in the spirit of reconciliation, pluralism and democratic participation so that all may express themselves freely in public life. In building a society free from authoritarianism, militarism, centralism and the intervention of religious authority in public affairs, the Charter recognizes Syria’s territorial integrity and aspires to maintain domestic and international peace.

In establishing this Charter, we declare a political system and civil administration founded upon a social contract that reconciles the rich mosaic of Syria through a transitional phase from dictatorship, civil war and destruction, to a new democratic society where civic life and social justice are preserved.

ロジャバ諸県の憲法

前文

我々、クルド人、アラブ人、シリア人、アラム人、トルコ人、アルメニア人、チェチェン人の連合体である、アフリン、ジャジーラ、コバネ三県の民主的自治区の人民は、率直かつ厳粛にこの憲章を宣言し、制定する。

自由、正義、尊厳、そして民主主義を求め、平等と環境的持続可能性の原理に導かれて、この憲章は、お互いの平和な共存と社会のすべての要素の間の理解に基づく新しい社会契約を宣言する。それは基本的人権と自由を擁護し、人民の自決の権利をあらためて確認する。

この憲章の下、我々この自治区の人民は、すべての人々が公共生活で自由に自己表現できるように、和解、多元的共存、民主的参加の精神で一致団結する。権威独裁主義、軍事主義、中央集権、公事への宗教的権威の干渉から自由な社会を建設するために、この憲章はシリアの領土的一体性を認め、国内的また国際的平和を維持することを強く願うものである。

この憲章を制定するにあたって、我々は、独裁政治、内戦、破壊から、市民生活と社会正義が保護される新しい民主的社会への遷移の局面を経て、シリアの豊かなモザイックを調和させる社会契約に基づいた政治的システムと市民行政を布告する。

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米空軍の本気の爆撃に支援された二万余のクルド人兵士は比較的短期間でラッカからISの悪漢たち(英語のthugsという言葉が彼らにぴったりです)を追い出すことに成功するでしょうが、その後の米欧の猿芝居は、結局、惨めな破綻に終わるに違いありません。私がそう考える主な理由は、シリア東北部のトルコ/シリア国境地帯のいわゆるロジャバ革命の本拠地だけではなく、イラク北部のクルド人地域でも、上掲の憲法に盛られたオジャランの思想と政治的プログラムに基づいた草の根の生活共同体の組織運動が力強く拡大しているという事実にあります。その例の一つは先日のブログ『オジャラン(6)』で紹介した「大虐殺の後で:ヤジディ女性たちの反撃」が進行しているシェンジャル、もう一つは、イラク・クルディスタンの首都エルビル(Erbil)から車で一時間ほどの所にあるMakhmourの難民キャンプで、ここには1990年代のトルコの圧政の攻撃目標となった村落からの避難民約10万人が苦しい難民生活を営んでいます。このクルド人難民キャンプの最近の状況が次のサイトで報じられていますので詳しくは原文をお読み下さい。シェンジャルと同じく、このマクムール難民キャンプにもISが襲いかかりましたが、女性たちが見事にキャンプを守り通したようです。

https://libya360.wordpress.com/2015/10/05/meet-the-self-determining-refugees-in-kurdistan/

この記事の終わりに、マクムール難民キャンプの一女性の見事な言葉が書きとめてあります。
“They fear us, because we stand on our feet. We did not trust anyone to save us, we took our fate into our own hands and created our own self-defense and social system. We made life sweeter by organizing ourselves.”

 ISのthugsの間には「女の兵士に殺されると天国に行き損なう」という迷信があるのだそうです。何と格好をつけようと、とどのつまりは傭兵に過ぎないISの男性兵士たちとまなじりを決したクルドの女性兵士との対決、勝利が帰すべき側は明白です。

藤永 茂 (2015年10月7日)
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