私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ポール・ファーマーは転んでいない(2)

2012-01-25 11:14:37 | 日記・エッセイ・コラム
このブログで、私は随分とハイチのことを取り上げて来ました。その理由は、ハイチを見据えるとアメリカという国の恐ろしい姿がくっきりと浮上して来るからです。私がアフリカのコンゴ、とりわけコンゴ東部地域を注視しつづけるのも全く同じ理由からです。いま私たちが生きている世界にとって最大の脅威、最大の災難はアメリカです。この極めて反米的な言辞に鼻白む思いをなさる方、あるいは、はっきりと反発感を持たれる方が多いと思います。私自身の過去の経験から、そうした人々の気持はよく分かります。しかし、今では、かつての私も抱いたことのある親米感情がどのようにして醸成され、我々の心の中に住みつくのかも、よく分かるようになったつもりです。そして、如何に米国通を自認していようとも、もしハイチやコンゴの事情に疎い場合には、そうした人々にはアメリカという国が、アメリカ人がよく見えてはいないと断言できます。
 ハイチの歴史を語ることは、ある意味では、とても簡単です。アメリカは黒人奴隷が自力で創った国というアイディアを受け入れることが出来ません。それで、始めから今日までの208年間、アメリカはハイチを自分の足の下に踏みつけた儘にしています。これがハイチの歴史です。イギリスの植民地であったアメリカの白人たちは1776年に独立宣言を行ないました。1789年にフランス大革命が起り、人権宣言が発せられました。ハイチの黒人達はアメリカの独立宣言とフランスの人権宣言に高々と唱われた人間についての理念を信じて立ち上がり、1804年1月1日に独立を宣言しましたが、アメリカの独立宣言の“We the People”のピープルの中にも、フランスの人権宣言(Declaration des Droits de l’Homme et du Citoyen)の人間と市民の中にも、黒人達たちは含まれていないとは思いもしなかったでしょう。
 過去20年のハイチの歴史で最も重要な人物はジャン=ベルトラン・アリスティドです。貧民地区のキリスト教教会の司祭から身を起したベルトランは貧困層を支持母体として1991年に大統領として選出されますが、軍のクーデターで国外に追われ、その後、1994年10月に大統領ビル・クリントンの如何にも彼らしい詐術で一旦ハイチに戻されて“残りの任期”1996年2月まで大統領の地位を占めました。クリントンの計算ではこれで厄介者のアリスティドの政治的生命を終らせるつもりだったのでしょうが、アリスティドは次の2000年の大統領選挙に出馬し圧倒的な得票率で当選して2001年2月に大統領に返り咲き、アメリカやフランスやカナダの意向に反する政策に着手しました。そこでアメリカは、今で言えば、リビア方式を採用して反乱軍を立ち上げてアリスティドを窮地に追い込み、2月28日、どさくさ紛れにアリスティドとその夫人を米軍機に乗せて中アフリカ共和国という旧フランス植民地に連れ去ってしまいました。
 ポール・ファーマーの『The Uses of Haiti』でアメリカのこの卑劣な強制誘拐行為を読んだ私は、その文章に込められた著者ファーマーの怒りをひしひしと感じたものでした。彼はアフリカの荒野の飛行場に降り立ったアリスティドが洩した言葉を伝えています。「In overthrowing me they have uprooted the trunk of the tree of peace, but it will grow back because the roots are Louverturian. (私を転覆することで彼らは平和の木の幹を引っこ抜いてしまったが、その根はルーヴェルチュールの根だから必ず木が生え戻って来る。)」。ルーヴェルチュールはハイチ建国の父の一人で「黒いスパルタカス」とも呼ばれます。ナポレオンのフランス軍に捕えられ、フランスの牢獄で病死しました。死の床で、自分という幹が枯れても根は残って又芽を吹き返すという意味の言葉を残したと伝えられています。アリスティドの言ったことはこのルーヴェルチュールの言葉を踏まえているのです。
 しかし、新著『HAITI after the earthquake』でアリスティドを語るポール・ファーマーのトーンはまるで違う軽やかなものです。2003年、クリントンがハイチの内政の支配する動きに合わせて、ファーマーはキューバの仲間とアリスティド財団の協力の下に新しい医師養成学校の開設を始めました。
■ But then came the February 2004 coup in Haiti, which further weakened the public health infrastructure. Haiti’s president and his wife, our stauchest advocates in the fight against AIDS, were spirited away to the Central African Republic in a way that resembled nothing so much as the “extraordinary renditions” of suspected terrorists described in the popular press. ■(HAITI, 28)
さて、この文章、アチラの英語に日頃から馴染んでいない私たちには直ぐには読めません。辞書をたどって訳してみます。:
■「ところが何と2004年2月のクーデターの御到来で、もともと弱い公衆衛生のインフラは更に弱められることになった。エイズに対する我々の戦いの最も熱心な支持者だったハイチの大統領とその夫人は、一般の新聞雑誌に描かれているような、テロリスト容疑者を突然誘拐し、拷問を許す他国に移して取り調べをする不法な手口とそっくりのやり方で、中央アフリカ共和国へ神隠し的に連れ出されてしまったのだった。」■
この嫌悪すべき “extraordinary renditions” という言葉はクリントン大統領の時代に発し、ブッシュ/チェイニーの時代にしっかりと根を下ろしたようです。この言葉を括弧付きでアリスティドの誘拐に用いたのはファーマーのスマートな文才でしょうが、文はまた人を表すものでもあります。旧フランス領植民地中央アフリカ共和国は治安の悪さで有名な所、アメリカ当局は偶発的なアリスティド暗殺を期待していたという噂さえ立ちました。
 新著『HAITI after the earthquake』で顕著なことは、この“extraordinary renditions”がアメリカ政府によって行なわれたと書いてないことです。新著のカバーにはクリントン大統領による最大級の讃辞がファーマーに捧げられています。クリントンは公式にはハイチの復興を目指す国連のハイチ担当特使ということになっていますが、事実上はハイチの絶対的な支配者です。そしてポール・ファーマーは副特使に任じられてクリントンの右腕の役を果たしています。今や彼はオープンにアメリカの権力機構の代表の一人なのです。そのファーマーが出版した新著に対する一般の評価(読者評)はどうなっているでしょうか。次回に報告します。

藤永 茂   (2012年1月25日)



ポール・ファーマーは転んでいない(1)

2012-01-18 10:45:48 | 日記・エッセイ・コラム
以前(2011年1月5日)、私は『ポール・ファーマー、お前もか』に始まって5回続きでポール・ファーマーの転向、変身、転びを責めたのですから、今回のブログのタイトルは誤解を招きそうです。ゆっくりと私の現在の考えを聞いて頂くことにします。
 まず、『ポール・ファーマー、お前もか』からの引用でポール・ファーマーという人物と私が大きな影響を受けた彼の著書を簡単に紹介します。:
■ ポール・ファーマーは1959年10月の生まれ、2010年の暮れに51歳の若さでハーヴァード大学のユニヴァーシティ・プロフェッサーの称号を得ました。この称号は,唯の大学教授を意味するのではなく、並みの教授より一段上の位です。ポール・ファーマーはセレブな大学人、PIH(Partners In Health) という,世界中の貧乏人を優先して医療を施す組織(NGO)の指導者として、とても有名な人道主義のお医者さんです。上掲の『The Uses of Haiti (ハイチの使い道)』(1994, 2006) の初版はポール・ファーマーがまだ30歳なかばの著作ですが、2006年版にも収録されている冒頭の謝辞は、かつての新左翼の大論客 E. P. Thompson の言葉を借りて、激烈な調子で結ばれています。
# Let me close the preliminaries and open this book with a quotation from E. P. Thompson : “Isolated within intellectual enclaves, the drama of ‘theoretical practice’ may become a substitute for more difficult practical engagements,” he wrote in 1978. Thompson concludes his withering attack on the French philosopher Louis Althusser and other scholar-demagogues by accusing them of taking young men and women of good will on a ride: “The terminus of that ride is outside the city of human endeavor and outside the domain of knowledge. So we can expect them to be absent from both.” #
1987年、PIHというNGOを立ち上げ、ハイチに診療所を開いて貧民救済を実践する若い人道主義者ポール・ファーマーは、善意にもえる若い男女達を、華やかなポストモダーン的饒舌で、役立たずの空理空論に駆り立てる煽動哲学者たちをこき下ろしているのです。この初版にチョムスキーは26頁に及ぶ長い紹介(Introduction)を書いています。ハイチのひどい苦悩の責任が米国にあるという真実をはっきりと指摘したこの本は、それ故に、葬り去られる運命にあるだろうと、チョムスキーが心配したほどの切れ味を持っていましたが、彼の心配は外れ、私の手許にあるのは増補された2006年版です。その後のポール・ファーマーの活動は超人的に目覚ましく、2003年には『Mountains Beyond Mountains: The Quest of Dr. Paul Farmer, A Man Who Would Cure the World 』という賞賛的な伝記まで出版されました。■
 以前に私が「ポール・ファーマーは転んだ」と主張した理由を理解して頂くためには、もっと先まで引用を続けるべきでしょうが、今回は、上の引用の中の英文(#・・・・#)を訳出してみます。
「前置きをここで終り、この本をE. P. トムスンからの引用で始めることにしたい。1978年にトムスンはこう書いている。“外界から隔離された小さな知的飛び領の中で行なわれる‘理論的実践’のドラマは、それより困難な現実世界との取り組みの代替物と成り果てよう。” トムスンは、フランスの哲学者ルイ・アルチュセールや他の学者顔の扇動者に対する厳しく辛辣な非難を、彼らが善意にもえる若い男女達をあらぬ道行きに連れ出しているとして締めくくっている ? “その道行きの行き着く先は、人間的な努力の場の外部、真の知識の領域の外側にある。だから若者たちはそのどちらの場所にも見つからないことになるのだ。”」
トムスンの言葉には退っ引きならぬ「怒り」があります。エドワード・パルマー・トムスン(1924~1993)は私と同世代で核軍備廃絶の運動の先頭にも立った峻厳な左翼論客でした。ポール・ファーマーの『The Uses of Haiti (ハイチの使い道)』(1994, 2006) を読む者は、著者がトムスンの「怒り」と同じ怒りに突き動かされて、 ハイチの貧民のための献身的な医療活動にのめり込んで行ったという印象を受けるのです。
 2011年春、ポール・ファーマーは『HAITI after the earthquake』という立派な体裁の440頁の本を出版しました。私は即刻それを買ったのですが、その中から聞こえて来た声は、私が『The Uses of Haiti』で確かに聞いたと思った声とは全く異質のものでした。あの「怒り」がないのです。あの怒りは何処に行ったのか? いくつかの可能性があります。功成り名遂げるうちに初心を忘れ、若い頃のぎこちない怒りはいつの間にか消えてしまったのかも知れません。あの怒りを意識的に捨ててしまったということもあり得ましょう。いずれにしても、勿体を付ければ、転向であり改宗であり、俗に言えば、転んだということです。しかし、『The Uses of Haiti』の中で確かに響いていたポール・ファーマーの「怒り」が本物でなかったという可能性もあります。それは必ずしも彼が読者を意図的に欺いたことを意味しません。人間には自己を欺瞞する能力があります。私が「ポール・ファーマーは転んでいない」と言い始めた理由はそこにあります。『The Uses of Haiti』のポール・ファーマーと『HAITI after the earthquake』のポール・ファーマーは同一の人物であるということです。次回にまた話を続けます。

藤永 茂   (2012年1月18日)



慈善家は人間を愛しているか?

2012-01-11 11:27:57 | 日記・エッセイ・コラム
 philanthropyを辞書で見ると、博愛主義、人類愛、慈善とあり、philanthropistは博愛家、慈善家となっています。語源的には、明らかに「人間を愛する」ことを意味しています。
 お正月のNHKテレビでオーストラリアのコアラの減少についての番組がありました。コアラが多数住んでいるユーカリの森をよぎって幅の広い舗装道路が出来て、道に出て来るコアラが車に轢き殺される事故が増えています。車にはねられたかユーカリの木から落ちたのか、道路わきにうずくまっているコアラを見たという通報に、コアラ用の救急車が現場に駆けつけて、傷ついたコアラを収容し、コアラ用の病院に急行し、コアラ用の可愛いベッドの上で手術が始まりました。次の場面では、大きな屋敷に住む老婦人が森の中で見つかったコアラの迷い子赤ちゃんを引き受けて、コアラの赤ん坊用に仕立てた屋内の幾つかの個室で手厚く飼育していました。十分成長したらユーカリの森に返してやるのだそうです。
 カナダで北米原住民に何が起ったかを50年ほど前に知ってからの私には、すっかり癖として身についてしまった連想、発想のパターンがあって、このテレビ番組を見ながらも、ついオーストラリアの原住民が受けた(受けている)処遇に想いが走りました。しかし、傷ついたコアラを通報した女性、駆けつけたコアラ救急隊員、手術を行なう医師や看護師、赤ん坊のコアラを孫のように慈しむ老婦人、これらの人々の善意はよくテレビ画面から伝わって来ましたので、折角の目出たい正月のことでもあり、意地の悪い見方はすまいと心に決めたつもりでした。
 しかし、その決心ははやくも崩れようとしています。この十日間に目に触れたことが余りにも凄まじいものですから、改めて、欧米の文化伝統の中でのphilanthropyとかcharityといった言葉の意味を考えてみたくなりました。
 今から丁度2年前の2010年1月12日、ハイチは大地震に見舞われました。死者推定20万~30万、負傷者推定30万~40万、数字が確定しないところにこの気の毒な国の悲劇が顔を出しています。震災から2年経った今も、文字通りのテント住まい、仮小屋住まいの難民が少なくとも10万人、瓦礫の多くも放置されたままのようです。加えて、2010年10月下旬に発生したコレラは現在までにすでに6千人以上の死者を出し、依然として毎日死者が絶えません。ハイチでは過去50年間にコレラ発生の記録が無く、今回のコレラ菌は国連がかの悪名高い保安維持軍隊MINUSTAHの一部としてハイチに配備したネパール国軍の兵士が持ち込んだものです。これらの事は2011年9月28日付のブログ『ハイチのコレラ禍』(1)で論じました。
 昨年11月の末、ハイチ復興を目指すコンフェレンスが、2日間、前アメリカ大統領ビル・クリントンの主導で、首都のポルトープランスで開かれ、数百人の外国投資家、企業家たちが高級ホテルの数々に溢れました。中でも目立ったのは服飾産業(アパレル産業)関係の企業家たちで、Levi’s, Gildan Activewear, Hanes, Banana Republic, GAP, Wal-Mart, K-Mart などが、ハイチで得られる奴隷的低賃金労働力を活用する大規模の製造施設を北部ハイチに開設し、一部はすでに生産を行なっています。そのコンフェレンスを報じる記事の中に、参加者の一人が“I remember somebody saying a crisis is a terrible thing to waste,” と発言したとあるのを読んで一瞬意味を取り違えそうになりましたが、続く文章を読んで背筋に悪寒が走りました。はじめは、危機(難局)の経験は無駄にしてはならない、という意味に取りかけた私は、それに続く“The crisis hasn’t been wasted, at least not by clothing-makers.(このハイチの危機を、少なくとも、衣料製造業者たちは無駄にしてはいない)”という文章でその冷酷残忍な意味を思い知らされました。これこそ将にナオミ・クラインの言う「ショック・ドクトリン」そのもの、惨事便乗型資本主義(ディザスター・キャピタリズム)の典型です。“terrible”という形容詞はこの発想にこそふさわしいものです。
 ハイチの今の法定最低賃金は一日当り約3.5ドル、このレベルでハイチ人を働かせる事が出来ます。アメリカの一時間当りの法定最低賃金は約7ドル、日本もほぼ同じ水準です。ざっと言って、ハイチの人々はアメリカ人や日本人の15分の1の低賃金で働きます。この黄金のチャンスを世界の資本家たちが無駄にする(waste)わけはありません。大震災の何と有難くスウィートなこと!
 大震災の以前から、ハイチには何と数千を数えるNGOが乗り込んで,本来は政府が担当すべき業務を担当し、ハイチは「NGO共和国(Republic of NGOs)」と呼ばれていました。大震災後はハイチに1万をこえるNGO団体が殺到したと言われています。その中にはphilanthropyやcharityを標榜する団体が無数に含まれています。可哀想なハイチ人たちを慈しみ善を施すのが彼らの仕事だといいます。何だか変です。いや絶対に変です。
 ハイチの人口は1千万、1万のNGOがあるとすれば1千人あたりに1つの割合になります。数日前に知ったことですが、インドへのNGOの流入は物凄く、現在、その数は3百3十万にのぼります。400人当り1つのNGOということです。驚くべき事実ではありませんか!これは、現実の世界のガバナンスがどのようにして行なわれているかに疎い私たちの致命的な盲点ではないかと考えます。philanthropyとかcharityとかいう良い響きの言葉は、今や、humanitarian military intervention(人道主義的軍事介入)という悪魔的な言葉と一緒に並べて理解さるべき言葉なのではないでしょうか?

藤永 茂    (2012年1月11日)   



パトリス・ルムンバの暗殺(7)

2012-01-04 10:39:03 | 日記・エッセイ・コラム
 キャンベル教授の論考:
50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.
(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)
の翻訳の続きです。
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 コンゴとアフリカについてのルムンバの夢を実現するかどうかは、我々の努力次第である。殺される前に妻に宛てた手紙に彼はこう書いている。“いかに残忍に扱われ,虐待と拷問をどれだけ受けようと、私は一度たりとも慈悲を乞わなかった。私は、屈従して神聖な行動原理をないがしろにするよりも、この私の国の運命に揺るぐことなき信念と深い信頼を抱いたまま、頭を高く掲げて死ぬことの方を選ぶからだ。歴史は、いつの日か、語るべきことを語るだろう。しかし、それはブリュッセル、パリ、ワシントン、国連が宣う歴史では断じてあり得ない。それは、植民地支配者とその傀儡たちのくびきから解放された国々で教えられる歴史であり、そして、サハラ砂漠の北も南も含む、栄光と尊厳の歴史であろう。”
 パトリス・ルムンバの生涯と業績を讃える記念の発言の数々は、アフリカが過去のしがらみを断ち、新しい方向に動くことの必要を説いた彼の最後の言葉の多くを引用している。我々は、次のように書くことのできたルムンバの未来への楽観から励ましに満ちた霊感を貰うことができよう。:“私は、これらの言葉を、それがあなたに届くかどうか、いつ届くか、また、あなたがこれを読む時に私が生きているかどうかを知らないままに、書いている。私は、私の同士たちと私自身が生命を捧げてきた神聖な理想の最終的な勝利を一瞬たりとも疑ったことはない。・・・・” “彼ら[訳者注:米欧の植民地支配者たち]は我が国の一部の人々を腐敗させ、他の人々を買収した。ほかに何と言えようか。死に直面しようと生きながらえようと、自由であろうと植民地支配者から投獄されようと、私個人がどうなるかは問題でない。重要なのはコンゴであり、独立変じて牢獄となった不幸なコンゴ人たちのことだ。しかし、どうなろうと私の信念は動かない。私は心の底の底で信じている。早かれ遅かれ、コンゴ人民は外国人であれ国内の輩であれ、コンゴ人の敵のすべてを払いのけ、立ち上がって、植民地主義のもたらす屈辱と堕落を断固として拒否し、白日の下にコンゴ人の尊厳を取り戻すであろう。・・・” “我々は孤立してはいない。アフリカ、アジア、そして地球上のあらゆる所で自由と独立を勝ち取る人々は、常に数百万の我々コンゴ人の味方であり、我々が闘争を続けて、我が国から植民地支配者とその傭兵が姿を消すその日まで、我々を捨てることは決してないであろう。...”
“妻よ、私のために泣かないでおくれ。今あまりにもひどい苦しみの中にある私の国が、その独立とその自由を守り抜くことが出来ることを私は知っている。コンゴ万歳! アフリカ万歳!”
 パトリス・ルムンバの言葉は現在のアフリカの自由の戦士たちに勇気を与える。戦士たちはルムンバを追悼するのではなく、アフリカ大陸の自由と一体化のために組織化を進めるべきである。我々はまた、圧政と暗殺という帝国主義者たちの手段の繰り返しをアフリカ化してきたアフリカ人指導者からアフリカを解き放つ闘争をしなければならない。まことにまことに、アフリカ人たちの夢と切望を圧殺することの繰り返しを断ち切る闘争を強化する必要がある。アフリカはそれ自身の尊厳と栄光の歴史を書くであろうと言い切った時にルムンバが予見したようなアフリカの実現のために我々は更なる努力を尽さなければならない。その夢が現実となるまで我々は立ち止まってはならない。これが我々の担うべき歴史の重荷なのである。(終り)
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 7回にわたって訳出したこの論考は、第1回の冒頭に述べた通り、はじめ2011年1月20日付けで、汎アフリカ主義を掲げる週刊ニューズレター・サイト Pambazuka News に出たものです。ここで、今回訳出したルムンバの妻あての手紙の原文についてお断りすることがあります。キャンベル教授は手紙の原文を次のサイトから取ったと推測されますが、
http://friendsofthecongo.org/last-letter.html
私は、訳出にあたって、Ludo De Witte の本にあるものを一部使用しましたので、少し違っている所があります。手紙の全文は感動的な文章です。原文はおそらくフランス語だったのでしょう。
 1960年6月30日、首都レオポルドビル(現在のキンシャサ)にベルギー国王ボドワンを迎えて行なわれたコンゴ共和国独立の式典で初代首相パトリス・ルムンバが急遽書き上げた祝辞も彼の残した重要な文章です。実は、ボドワンの祝辞に続いて、コンゴ初代大統領ジョセフ・カサブブの祝辞だけが式典のプログラムに組まれていて首相ルムンバの演説は予定になかったのです。なぜルムンバが急いで スピーチの用意をしなければならなかったか、それは拙著『「闇の奥」の奥』の216頁以降に説明してありますので興味のある方は御覧下さい。このスピーチが行なわれた事情について、米欧の御用物書き連中の記述には省略と歪曲が目立ちます。そうした文献は、パトリス・ルムンバを元郵便局員で若く(当時35歳)無教養な男として描き、扇動的な弁舌だけには長けた狡猾な共産主義政治家と断定するのが普通ですが、彼の残した文章は別の印象を与えます。ルムンバは力強い言葉をもつ立派な詩人でもありました。
 昨年12月28日、ベネズエラのチャベス大統領が公式の場で「米国が親米米的でない中南米の指導者たちを発がん性薬物で暗殺しようとしているかもしれない」という個人的憶測を表明しました。発癌が報じられているのは、チャベス当人を始めとして、アルゼンチン大統領クリスティナ・フェルナンデス、ブラジル大統領ディルマ・ルセフ、ブラジル前大統領ルラ・ダ・シルバ、パラグアイ大統領フェルナンド・ルゴ、と5人にものぼります。チャベスは「今から50年後にやっぱりそうだったかと分かるかも」といった意味のことも言ったようです。このブログのシリーズ『パトリス・ルムンバの暗殺』(4)で述べたように、米国政府からパトリス・ルムンバの暗殺を指令されたCIAが毒入りの歯磨きで暗殺の実行を計った事実が、50年後のいま確認されました。ルムンバ暗殺からの50年間でCIAの手中にある要人暗殺の科学技術も大いに進歩したでしょうから、チャベスの被害妄想もあながち妄想とは言い切れないかも知れません。

藤永 茂   (2012年1月4日)