私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

貧しい人たちがお互いに殺し合っている(1)

2010-09-29 10:20:33 | 日記・エッセイ・コラム
 いまアメリカで問題になっている「ドリーム法(DREAM ACT, The Development, Relief and Education for Alien Minors Act )」という法案が連邦議会で審議中です。アメリカはそもそも外から北米大陸に移り住んだ人々が作った国ですから、征服された先住民を除けば、移民ばかりで出来た国だと言えますし、国を経営して行くためにも移民の受け入れを続けて行く必要がありました。移民問題はアメリカにとって、建国以来、歴史的に、連続的に、重要な問題であり続けて現在に及んでいます。その一つとして、白人移民と非白人移民の問題があります。1900年辺りまでは、ヨーロッパからの白人系移民が100%近くを占め、低賃金労働は元奴隷であった黒人たちとその後裔と中国などのアジア諸国からの奴隷的移民たちに振り当てられました。ところが2000年前後の統計では、中南米やアジア系の移民が約80%を占め、白人系/非白人系の比率が大きく逆転し、経済不況も手伝って、合法的に入国し生活をしている移民たちについても排斥の機運が高まっています。本来アメリカは白人の国であり、そうあり続けるべきだという主張です。しかも、一方では、奴隷的低賃金の労働力を求める国内企業が、不法に入国した人々、つまり、不法移民を雇用して企業収益をあげようとする傾向も顕著になりました。ここでアメリカのかかえる大きな政治問題としての移民法の全面的な議論をはじめる気持ちの余裕はありませんが、上に掲げた「ドリーム法」が成立すれば、貧しい非白人の若者たちが米軍の兵士として動員される可能性が大きくなることについて考えてみたいと思います。
 「ドリーム法(DREAM ACT, The Development, Relief and Education for Alien Minors Act )」のAlien Minors とは外国人未成年者を意味します。米国では普通21歳未満が未成年者とされているようですが、この法案ではもっと幅を持たせてあります。合法、非合法を問わず、小さい子供として親に連れられて米国に移住した若者たちの圧倒的大多数は、米国市民権を取得して米国で生活を続けることを希望しているわけですが、彼らのアメリカン・ドリームの実現を助けてやろうというのが、この「ドリーム法」の表看板です。アメリカでは、入国時の事情から外国人としての永住権も就業権も持たない外国人若者(undocumented alien youths)が一年に6万5千人も高校を卒業しています。彼らは、罪を犯したり、当局から睨まれたりすると、もとの国に送還される恐れがあります。ドリーム法はこうした若者たちに、永住権を取り、さらに米国市民権を取る機会を与えるために、二つの選択を提供します。一つは大学に進学して少なくとも2年間お利口に勉学に励んで、然るべき資格や学位を取ること、もう一つは米国軍に入隊して少なくとも2年間兵士としての訓練教育を受けることです。この2年間を過ちなく過ごした者には永住権が与えられ、市民権取得の可能性も得られます。自分たちのアメリカン・ドリームの達成を夢見る若者たちの大部分がこの「ドリーム法」の成立を熱く願っているのは至極当然と思われます。
 しかし、この法案に強い反対を表明する人たちも居ます。ドリーム法は、より多くの貧しく恵まれない若者たちを兵士に仕立てて戦場に送り込むことになる、というのが反対の理由です。子供を連れてアメリカに移り住んできた移民第一世代の家庭の多くは、おおざっぱに言えば、低所得階級に属しているでしょう。英語が国語でない国から移住して来た子供たちは、高校を卒業しても未だ大学進学に望ましい十分な英語力を身に備えていない場合も少なくないといいます。また、二つある選択肢の一つ、大学進学については、国や州などからの奨学金の保証などはドリーム法には含まれていません。優秀な高校卒業生には各種の奨学制度から援助を得られる可能性が十分あるとは思われますが、貧乏な家庭環境で育った出来ん坊主の若者たちにとっては、大学進学というオプションは選びにくいでしょう。良い大学には、成績的にも、学費的にも、進みにくいにちがいありません。これと対照的に、もう一つの軍隊入りのオプションの方は、大変魅力的です。住むところも衣料食事も与えられ、その上給料も貰えますし、英語力が不足ならば、中で補修の教育も受けられます。他の職業的技能を学ぶチャンスもあります。でも、兵隊になるのですから、戦場に送られて、殺し合いをするのが、一番本質的な義務であることは明らかです。しかも、ここに恐るべきキャッチ(落とし穴)があります。アメリカでの軍籍は一律8年間契約で、これを短くする道はないのだそうです。となると、最低2年の軍隊生活を終えて、普通の生活に戻れたにしても、あと6年間は、何時ふたたび動員されて戦場に向かわなければならなくなるか分かりません。現在、徴兵制度でないアメリカでは、ドリーム法に対する軍部の期待は大きいのです。実際、ドリーム法に関係なく、アメリカの高校のキャンパスには若者を軍隊に引き込むための派手なリクルート隊が乗り込んで、コンピューター・ゲーム的なブーツの中で、最新の小火器の射撃を若者たちに経験させることもよくあるようです。この場合も、貧しい家庭環境で育つ若者(女子生徒を含めて)たちのほうがより多くリクルートされる傾向にあると考えられます。この観点に立てば、志願制より徴兵制の方が貧富の差に対して公平でありうるわけです。現在のアメリカの場合は、さらに傭兵会社の問題があります。一番悪名が高いのは1997年にエリック・プリンス(Erik Dean Prince)が設立したBlackwater Worldwide で、2009年3月にはXe と名を変えましたが、世界最大の傭兵会社です。オバマ大統領はイラクから米軍は既に引き上げたと宣言しましたが、引き上げられた戦闘力はこうした傭兵部隊によって替わられただけのことで、一般兵士より、傭兵の方が給料が上なのが普通ですから、アメリカ国民にとっては、軍事費が更に増大したということです。ブラックウォーターは世界中から兵士を傭って訓練します。世界の貧しい若者たちにとってアメリカの傭兵会社の提供する給料は大変魅力的であるはずで、守るべき国のためでもなく、相手が憎いわけでもなく、自分に課せられた仕事として、自分たちと同じような境遇の人間たちに襲いかかり、殺すのです。
 ドリーム法が初めて議会に提案されたのは2001年ですが,それ以来、通りそうでなかなか通らず、今日に到っています。2007年の上院での討議の際には、当時の上院議員バラク・オバマは、すでに大統領選挙を射程に入れて、特にスペイン語を話すラテン系選挙民を標的として、彼一流の名発言をしています。:
■ Something that we can do immediately that I think is very important is to pass the DREAM Act, which allows children who?who, no fault of their own, are here but have essentially grown up as Americans, allow them the opportunity for higher education. I do not want two classes of citizens in this country. I want everybody to prosper. That’s going to be a top priority.(我々がいま直ぐに出来て、私が大変重要だと考えるのは、ドリーム法を成立させる事です。この法律は、彼らのせいでなく、たまたまここにいて、本質的にアメリカ人として成長して来た子供たちに高等教育を享ける機会を与えるものです。私はこの国に二つの階級の市民があることを望みません。誰もが繁栄してほしいのです。これが最優先事項ということになります。)■
いつもの事ながら、バラク・オバマの言や良し。しかし、ドリーム法が提供する二つの選択肢は、皆を分け隔てなく繁栄させるどころか、貧しい移民の子と貧しくない移民の子という二つのグループを否応無しに選別する事になるでしょう。この法律の少なくとも半分の目的が兵員の不足による米軍の弱体化を防ぐことにあることは、軍部と幾人かの政治家が公言して憚らないところです。もしオバマ大統領が移民の子供たちのすべてに等しい繁栄を与えることを本当に目指すならば、公の奨学金制度を整備して、貧しい移民の子供たちが高等教育を享ける事が出来るようにして、軍籍を選ぶオプションとの抱き合わせをやめるべきなのです。しかし、私は、彼がそうしなかった事を責めているのではありません。抱き合わせをしない「ドリーム法」など、発想の可能性すら無かったでしょうから。私が責めるのは、いつもの通り、オバマ氏の舌先の欺瞞です。上の発言当時の彼の最優先事項は移民票の獲得にありました。今年またドリーム法の審議が行なわれているのは、またしても、11月の中間選挙での民主党への票のかき集めを狙っての事です。
 「貧しい人たちがお互いに殺し合っている」という状況は、国連軍の国際的傭兵化によって、ますます深刻化しています。次回にはこの点を取り上げます。

藤永 茂 (2010年9月29日)



クリントンとアメリカの罪は重い

2010-09-22 11:00:00 | 日記・エッセイ・コラム
 2010年8月26日、フランスの有力紙ル・モンドが、コンゴについての極めて重要な国連報告書の草稿(ほぼ決定稿と思われる)を入手したことを報じました。545頁におよぶ報告書には、1993年から2003年までの10年間にコンゴ民主共和国で行なわれた600件の深刻な虐殺事件についての調査結果が記述されています。漏洩した国連報告書はネット上で入手可能です。
 この国連報告書の大変なところは、1994年のルワンダ・ジェノサイドを見事に終結させた正義の英雄ポール・カガメが、実は彼自身がルワンダとコンゴでジェノサイドを執行した人物であったことを指摘しているからです。これまで世界が信じていたルワンダ・ジェノサイド神話のどんでん返しです。流石に、このル・モンドの素っ破抜きに対する主要メディアの反応は、迅速で広汎なものでした。英国のガーディアンは8月26日付けで、ニューヨークタイムズは8月27日付けで長い記事を載せました。他にも沢山ありますし、いろいろな所で論じ続けられています。カガメは8月9日に行なわれた完全にインチキな大統領選挙で93%得票して当選し、第三期7年の独裁政治を続けることになりましたが、その以前から今回の国連報告書の正式発表を阻止しようとして、もし現在の草稿を発表したら国連軍に参加させているルワンダ軍をすべて引き上げると国連事務総長バン・キムンをおどしていたようです。その結果、9月中に発表される予定が10月1日まで延期になりました。ル・モンドに報告書の内容が漏洩した理由は、カガメの脅しに屈して内容が薄められ変更されることを心配した人々がリークしたということのようです。ル・モンド紙が“ほぼ決定稿”と称する版が世に出ているわけですし、ニューヨークタイムズはもっと新しい版を入手したそうですから、あまり無責任には変えられないでしょう。1993年から2003年までの10年間にコンゴ東部で数百万の人命が失われました。それがジェノサイドと呼ばれることになるかどうかは、今から大いに議論されることでしょうが、そのアカデミックな定義の問題、それをめぐっての国際政治的な駆け引きよりも、1990年から現在に至る20年の間にコンゴで何が起ったか、起りつつあるか、というのが私の最大の関心事です。これまで繰り返し書いてきましたように、これはアフリカ大陸のローカルな問題ではなく、アメリカ(アフリカではありません)とは何かという問題なのです。今度の国連報告書の漏洩のおかげで、色々のことがはっきりしてきました。10月1日に発表される最終的な内容をよく検討して、やがて私なりの議論を展開したいと思っていますが、今日ここで、前もって強調しておきたいことがあります。それは、アメリカそして日本でのルワンダ・ジェノサイド観を決定して来たサマンサ・パワーとかフィリップ・ゴーレヴィッチといった現代アメリカを代表する物書きや論客をうっかり信用してはならないということです。
 サマンサ・パワーについては、『サマンサ・パワーとルワンダ・ジェノサイド』と題する3回のブログ・シリーズ(2009年4月1日,8日,15日)で書きました。その(1)で、次にように、この人物の簡単な紹介をしました。:
■  さてサマンサ・パワーですが、1970年アイルランド生れの女性で、1979年にアメリカに移住して、 エール大学を卒業し、外国取材のジャーナリストとして出発しますが、またハーバード大学に入り、1999年、法学部を卒業、その学位論文を基にした彼女の最初の著作『地獄からの問題:アメリカとジェノサイドの時代』が2003年のピュリッツァー賞を受賞しました。この本は700頁近くの大冊で、20世紀に世界各地で起こった数々のジェノサイドがアメリカの立場から詳しく論じられました。これで彼女は一躍ジェノサイドや人権関係の知識人として広く知られることになりましたが、彼女を決定的に「有名人」にしたのは、バラク・オバマと意気投合してその選挙参謀の一人となり、オバマがヒラリー・クリントンと鍔迫り合いをしていた最中の2008年3月、サマンサ・パワーはクリントンを「彼女はモンスターだ」と呼んだため、オバマの選挙戦チームから外されるという派手な事件で騒がれたことでした。しかし、オバマの大統領就任後、国家安全保障会議の一員として大統領の側近の位置に戻りました。選挙戦では外交問題関係のアドヴァイザーでしたから、今後もそうした面で大統領の判断に影響をあたえるものと思われます。
 ピュリッツァー賞を受賞した『地獄からの問題:アメリカとジェノサイドの時代』は20世紀に起こった民族大虐殺(ジェノサイド)についての著作として最も大量に出回り、最も広く読まれている本だと思いますが、これには大きな問題があります。これまで度々アメリカ政府が進行中のジェノサイドに対して傍観者的姿勢を取ってきたことに対するきびしい批判を勇敢に実行した書物であるとする称賛的な書評が無数に書かれましたし、著者サマンサ・パワー自身もそうした「正義の味方」のポーズをとっていますが、これが全くのまやかし物なのです。
 この本を徹底的に批判しているのは、ハーマン(Edward S. Herman)です。「ハーマン? ああ、チョムスキーの友人か」などと片付けないで、彼の言うことを聞いて下さい。彼が『地獄からの問題』を「ジェノサイドに関するサマンサ・パワーの馬鹿馬鹿しい論考」と呼ぶのは、十分の論拠があってのことなのです。この本では、アメリカ政府が直接関わったか、または支持し、承認したジェノサイド的行為は綺麗に無視されています。ベトナム戦争での一般住民の死者、1965-66年のインドネシアでのスハルトによる大虐殺、1978年から1985年にかけてのグアテマラの先住民の大量虐殺などがサマンサ・パワーの本では見当たりません。ハーマンは、また、イスラエルが建国以来パレスティナ人に対して執拗な一貫性で行っている残虐行為を「low-intensity genocide (低強度民族大虐殺)」と呼び、これもサマンサ・パワーが完全に無視していると批判しています。
 しかし、意識的な無視や隠蔽よりも遥かに罪深いのはルワンダ・ジェノサイドの場合です。これについては、サマンサ・パワーは別に雑誌「アトランティック・マンスリー」2001年9月号に『ジェノサイドの傍観者(Bystanders to Genocide)』と題する26頁の長い論文を寄稿しているのでそれを取り上げます。まず冒頭の部分を訳出します。
「1994年、百日間の時の流れの間に、ルワンダのフツ政府とその過激派協力者たちは、その國のツチ少数民族を絶滅するのに成功するすれすれの所まで行った。銃器、広刃鉈、それに農耕園芸用の道具の数々を用いて、フツ族の民兵、兵士、一般市民は、約80万のツチ人と政治的に穏健派のフツ人を殺害した。それは20世紀で最も素早い、最も能率的な殺戮ドンチャン騒ぎであった。それから数年後、雑誌『ニューヨーカー』の連載もので、フィリップ・ゴーレヴィッチは、恐るべき詳細さで、そのジェノサイドと世界がそれを阻止することに失敗したストーリーを詳しく述べた。大統領ビル・クリントンは、熱心な物読みで有名だが、ショックを隠しきれなかった。彼はゴーレヴィッチの記事のコピーを二期目の国家安全保障顧問のサンディ・バーガーに送った。記事のコピーの余白には、混乱し苛立った追求的な問いかけが書き込まれていた。クリントンは、やたらに下線を施したパラグラフの横に太字の黒のフェルトペンで“この男が言っているのは本当か?”と書き込んでいた。」■
 私の以前のブログ『サマンサ・パワーとルワンダ・ジェノサイド』(1)(2009年4月1日)からの引用は一応ここで止めておきますが、前大統領ビル・クリントンについての、サマンサ・パワーのまことしやかで面白おかしいストーリーは、要するに、クリントンさんは百日間で80万人が惨殺されたルワンダ・ジェノサイドのことを殆ど全く知らなかったと断言しているわけです。
 『アトランティック・マンスリー』の彼女の論説を更に読み進むと、クリントン大統領と政府高官たちは、ルワンダからのアメリカ市民の無事引き上げが最大の関心事で、それが完了してしまうと、途端にルワンダの状況に対する興味を失ったかのように描かれています。「あの墜落事故のあと、国務省6階の対策本部の壁に慌ててピン留めされたルワンダの地図も忘れ去られ、政府高官たちのレーダースクリーンからルワンダは殆ど消え落ちた」と書いてあります。そして、高官の一人、Anthony Lake に「その頃はハイチとボスニアで頭が一杯で、ルワンダは、・・・、わきの出し物(side-show)ですらなく、余興ですらなかった(a no-show)」と言わせています。
 しかし、そんな事は絶対ありえません。今度の国連コンゴ報告書は1993年から2003年までの10年間に主にルワンダに隣接するコンゴ東部で起った事についての報告書です。アメリカの42代大統領ビル・クリントンの任期は1993年から2001年までの8年間、二つの期間はほぼ重なっています。この間にルワンダとコンゴをめぐって「アフリカ世界戦争」と呼ばれる大戦乱の嵐が荒れ狂い、そのため数百万の人命が失われました。サマンサ・パワーは「あの墜落事故のあと、国務省6階の対策本部の壁に慌ててピン留めされたルワンダの地図も忘れ去られ、政府高官たちのレーダースクリーンからルワンダは殆ど消え落ちた」と書きましたが、これほど真っ赤な嘘を臆面もなく書ける人物を私たちはどう考えたらよいのでしょうか。この嘘が政府のお墨付きの定説としてまかり通るアメリカという国を私たちはどう考えたらよいのでしょうか。
 実は、今回の問題の国連報告書の遠い源泉に位置するとも言えるジャーソニー報告書(Gersony Report)というものも突然明るみに出て来ました。公式には国連当局が「そんなものは存在しない」と言い続けてきた文書ですが、その存在は広く知られていたものです。ルワンダ・ジェノサイドは、「1994年4月から、当時のルワンダのフツ政権を牛耳る過激派フツ人たちが、約80万人のツチ族と穏健派のフツ族の人々を大量虐殺したが、カガメの率いる正義の軍隊RPFがフツ政権を打ち倒し、1994年7月には虐殺行為を終息させた」事件であったというのが通説ですが、1994年10月10日の日付のGersony Reportは、1994年の4月初旬から9月中旬にかけて、2万5千から4万5千のフツとツチをRPFが殺したことを具体的に調査報告したものでした。前にも紹介したことのあるジェラール・プリュニエの最近の大著『アフリカの世界大戦』(AFRICA’S WORLD WAR, Oxford, 2009)の重要なポイントの一つは、このGersony Reportをめぐる論議の展開です。プリュニエの執筆の時点では、報告書の内容は明らかにされていませんでしたが、今ではインターネット上で見ることが出来ます。
 上にも書きましたように、国連報告書が10月1日に発表された後、Gersony Reportをめぐるこれまでの事情なども辿りながら、私なりに、アフリカ/アメリカ史のこの部分の書き換えを試みたいと考えています。しかし,私のような門外漢の素人ではなく、アメリカ現代史の専門家、アフリカ問題の専門家の方々が、ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(子)の三代の大統領の時代にコンゴをめぐってどのような歴史的展開があったかを、この機会を捉えて、あらためて一から出発して精査して下さる事を希望してやみません。

藤永 茂 (2010年9月22日)



転ぶ人,転ばない人(2)

2010-09-15 10:57:47 | 日記・エッセイ・コラム
 ミカエル・ジャン(Michaëlle Jean)は1957年ハイチ生まれの黒人女性で、今年の9月一杯まで、カナダ総督という地位にあります。英国の植民地であったカナダは独立国となった今も英連邦の一員であり、英国国王を象徴的に代表する総督が存在します。カナダ総督の機能や権限などについてここで詳しく知る必要はありませんので、まあ、その象徴性と実際の役目については、日本の天皇とよく似たところがあるとだけ申しておきましょう。依然として大変重要なポジションです。実際の起用任命権はカナダ政府首相にあり、任期は原則として5年です。カナダの国営放送CBCに属するジャーナリストで有力な番組プロデューサーのミカエル・ジャンの名が カナダ総督の候補として挙がったとき,賛否両論がありました。サイードの言葉で言えば、“controversial”な人物だったのです。CBCはNHKに似て、国家から運営費を与えられますが、NHKと違って視聴者から料金を徴収せず、足らない分はコマーシャル収入と視聴者からの寄付とで何とか賄っています。貧乏なので贅肉はこそぎ落とした経営ぶりですが、ジャーナリスティックな独立性と勇敢さはNHKより遥かに上のように思われます。カナダ総督になる前のミカエル・ジャンがホストをしていたCBCの公共番組『The Passionate Eye』や『Rough Cuts』を私は熱心に見たものですが、その社会批判、政治批判の鋭さに驚かされ、こんなドキュメンタリーをつくり、それを放映するCBCの、そしてミカエル・ジャンの勇気に感心したものでした。ランダムハウス英和辞書によると、ラフ・カットというのは、もともとは映画語で「粗つなぎ:ひとまずつないだカットをその作品全体にわたってつなぎまとめたもの;またその作業」とあります。番組のタイトルとしての語感は、社会問題に鋭角的に切り込んで、それを生々しく視聴者に届ける、といったものでした。
 ミカエル・ジャンは11歳の時、当時ハイチを支配していた独裁者パパ・ドック・デュヴァリエの弾圧をのがれて、ハイチの首都ポルトプランスから亡命者家族としてカナダのケベック州に移住します。長じてはモントリオール大学でイタリア文学、スペイン文学を修めて比較文学で学位を取り、あとヨーロッパの諸大学にも留学して、フランス語、ハイチのクレオール語に加えて、英語,イタリア語、スペイン語も完璧にマスターしました。社会運動家として被虐待女性の収容施設(駆け込み寺)の設立や貧困層青少年少女の援助などに努力し、ジャーナリストとして大いに注目を集めるようになってからも初心を忘れることはありませんでした。
 しかし、カナダ総督に任命されてカナダのエスタブリッシュメントの中枢に組み込まれてからは、彼女は少しずつ変わって行きます。総督が持っている国会の進行に関する権限を使って、結局は保守政権に有利なように政界に影響を与えることまでやってしまいました。彼女としては、カナダの国内政治が混乱状態に陥るのを回避しようとしただけの事だったかも知れませんが。彼女に救われた保守政権は、時が経つにつれて、ますますアメリカと一体不離の政策をとるようになり、彼女の母国ハイチが大震災に襲われた後に行なわれた事実上の軍事的侵略にも積極的に加担しています。この9月にカナダ総督の役を終えた後は、国連事務総長バン・キムン氏によって、ユネスコの特使に任命され、ハイチに赴くことになっています。CBCのラディカルなジャーナリストであった昔のミカエル・ジャンならば、追放された前大統領アリスティドを支持するファンミ・ラヴァラスの下層大衆によって大いに歓迎されたでしょうが、今はクリントン/バン・キムン路線に組み込まれたハイチの上層支配階級の人たちによって温かく迎えられることでしょう。
 私としては、かつてあれほど勇気あるしっかりした社会的政治的発言をしていたポール・ファーマーやミカエル・ジャンといった人々が全く無様に転んでしまったとは、到底信じられません。唾棄すべき新植民地支配政策の典型というべきアメリカ/カナダ/国連主導のハイチ復興路線を、やがて、システム内部から転轍する役目を、この二人に期待してやみません。

藤永 茂 (2010年9月15日)



転ぶ人,転ばない人(1)

2010-09-08 09:38:05 | 日記・エッセイ・コラム
 マーガレット・アトウッドというカナダの女性作家がいます。カナダ文学の女王と呼ばれることもあります。彼女の小説の日本語訳も数多く出ているようですのでお読みになった方もあると思います。私がカナダに移住したのが1968年、日の出の勢いの新進女流作家アトウッドの第二作『Surfacing』(日本語訳:浮かびあがる)が出たのは1972年、評判につられて私も読みました。その後も彼女の活躍は目覚ましく、現代のカナダを代表する顔の一つと言えましょう。文学賞にノミネートされることもしばしばで1985年には最初のカナダ総督賞、2000年にはイギリスの最も権威のある長編小説文学賞であるブッカー賞も受賞しています。
 アトウッドの政治的姿勢は進歩的、左翼的と看做されてきましたし、私もそんなふうに感じています。現在はカナダ緑の党の党員で、またケベック州の独立を唱えるブロック・ケベコワという政党の支持者でもあります。いわゆるエコ問題への関心も強く、トヨタのハイブリッドカーの愛用者です。NAFTA(North American Free Trade Agreement, 北米自由貿易協定)には反対の立場をとっています。現在カナダは全面的に米国支持の保守党政権(ハーパー首相)の下にありますが、アトウッドは保守党が過半数を取らないように努力したこともあったようです。
 今年の初め、アトウッドは、イスラエルのDan David Prizeの受賞のため、テルアビブ大学から招待を受けました。ダン・デーヴィッド賞は2000年に発足し、毎年、いろいろの分野から選ばれた何人かの人に与えられています。音楽家ではヨーヨーマやズービン・メータ、政治家ではアル・ゴアやトニー・ブレアが受賞しています。アトウッドへの授賞が発表された後、ガザ地区のパレスチナ人学生団体から、長い手紙が彼女の元に届けられました。その中には、イスラエルがパレスチナ人に与えてきた苦難の数々が挙げられ、テルアビブ大学のキャンパス自体がセイキ・ムワニスという村を接収し、その住民であったパレスチナ人を追い出した跡地に建設されたことが記されています。そして、
「不正が行われている状況の下で中立の立場を選ぶことは、抑圧者の側を選んだということだ」
というデスモンド・トゥトゥ大司教の言葉が引用されています。手紙の最後の節を以下にコピーして訳出します。
■ Ms. Atwood, we consider you to be what the late Edward Said called an "oppositional intellectual." As such, and given our veneration of your work, we would be both emotionally and psychologically wounded to see you attend the symposium. You are a great woman of words, of that we have no doubt. But we think you would agree, too, that actions speak louder than words. We all await your decision. (アトウッドさん、我々はあなたを故エドワード・サイードが言ったところの“反骨の知識人”であると考えています。ですから、あなたのお仕事に対する我々の尊敬の念もあわせて、あなたがこの授賞講演会に出席されるのを見ることで我々は感情的にも心理的にも痛手を負うことになりましょう。あなたは偉大な女性発言者です、この点について我々は全く疑いを持ちません。しかし、行動は言葉よりも声高に語るということに、あなたも同意なさるものと我々は考えます。我々すべてあなたの決断をお待ちしています。)■
マーガレット・アトウッドは2010年5月9日テルアビブ大学に赴いて受賞講演を行いました。賞金は50万ドル、「我々は文化的なことでボイコットはしない」というのが学生たちの訴えに対する彼女の返答であったそうです。ダン・デーヴィッド賞を辞退しなかった理由を、彼女はもっと詳しく発表しています。そのポイントの一つはこの賞はダン・デーヴィッドというお金持ちが個人的に設立したもので、イスラエル国家からの公的な賞ではないというものです。また、最古の人権団体である国際ペンクラブの副会長としての中立性も論じてあります。なにしろ彼女は、学生たちも認めるように、「言葉の大達人女性」ですから、その受賞弁護論には、「なるほど」と頷きたくなる言葉も多く含まれています。しかしながら、私としては、アトウッドさんも結局は転んだな、という思いを禁ずることが出来ません。彼女のように筆が立ち、口も達者な人たちは、いくらでも自己正当化を展開するものです。
 ダン・デーヴィッド賞をあげると言われても転ばない人々は居ると思います。例えば、ノーム・チョムスキーとかジョン・ピルジャーとかジョン・バージャーとか・・・。もっともこれらの反骨の知識人には、そもそも、声がかからないでしょう。もう一人の気骨の士クリス・ヘッジズの最近の文章『ガザの涙は我らの涙』(The Tears of Gaza Must Be Our Tears, August 9, 2010)の中に故エドワード・サイードの言葉が引いてありますので、以下に訳出します。
■ 私の意見では、知識人の心的習癖として、困難だが立派に筋の通った立場がある場合、それが正しいものであることを知りながら、その立場を取らないことを心に決め、背を向けてしまう、責任を回避してしまうという習癖ほど忌むべきものはない。あなたは余りに政治的であるように見えるのを望まないのだ;問題の人物(controversial)と看做されたくないし、バランスのとれた、客観的な、穏健な人物という評判を保ちたい;あなたの希望は、よくお声がかかり、相談を受け、名のある委員会の委員に任命され、そうなることで、一般に信頼されている主流の内に留まることなのだ;いつの日か、名誉学位、大きな賞、ことによると大使の地位さえも手に入れたいと、あなたは思う。
 知識人にとって、こうした心的習癖は最高に腐敗堕落をもたらす効果がある。もし、熱烈な知的生命を変質させ、中性化し、最後には、扼殺してしまうものがあるとすれば、それは、そうした心的習癖の内面化である。個人的に、私は、現世界のすべての問題の中で最も困難なものの一つであるパレスチナ問題で、そうした場合に出会って来た。現代史における最大の不正行為の一つであるパレスチナ問題について率直に意見を述べるのを恐れる気持ちが、真実を心得ていて、それに奉仕すべき地位にある多くの人々に、遮眼帯をかけ、口輪をはめ、その両足を縛ってしまうのだ。パレスチナ人たちの権利と民族自決の支持を公言する者に、男女を問わず、必ず加えられる虐待と中傷にもかかわらず、怖れを知らぬ、こころ温かき知識人が表に立って、真実が語られなければならない。■
 日本には“転向”という思想的に重い言葉があります。この言葉の前で,私の心にまず浮かぶ名は中野重治ですが、今はこのお話はいたしません。隠れキリシタンの踏み絵の話も軽率に始めるべきではありますまい。私がここで取り上げている「踏み絵」「転び」の意味はもっと軽く、人間の心に宿るどうしようもない惨めな弱さについての話です。単純に物事を考えがちな私が人間の心の弱さと見るものが、実は、物事の複雑さをよく心得た人たちの叡智であるのかもしれませんが、それにしても、私が ナイーブな信頼を置いていた人々が,従来取っていた立場(と私が勘違いしていた場合があるかも知れませんが)から離れて行くのを見るのは悲しいことです。思いつく名前が幾つかありますが、ここでは、いま悲劇的な状況にあるハイチに関係する二つの名前を挙げることにします。
 まずポール・ファーマー(Paul Farmer)。この人からは、今年の2月3日に始まる6回のブログのシリーズ『ハイチは我々にとって何か?』を書くために沢山のことを教えられてきました。例えば、『ハイチは我々にとって何か?(5)』(2010年3月17日)に書いたように、米軍と国連軍についての信じられないような事実を、ファーマーさんの証言によって確信させられました。:
■2004年のアリスティド大統領国外追放以来ハイチに駐留している国連軍MINUSTAHと、今度の大地震の直後ハイチに急派された米軍の大部隊が、災害救援活動の邪魔になったという事実を、事実として受け入れることに抵抗感を抱く方々も多いでしょうが、それが事実だという証言者は上掲の「国境のない医師団」の他にも多数見つけることが出来ます。私から見て、決定的な証言者の一人はPaul Farmer という人物です。ハイチに関する信頼の置ける著書として、前回を含めて今まで何度も紹介してきた『ハイチの使い道(The Uses of Haiti )』の著者で、ハーバード大学医学部の著名な教授です。地震直後の1月14日のロサンゼルス・タイムズに「国連の救援活動が阻害された」という記事が出て、その中に、国連の ハイチ特使の肩書きを持つファーマーさんの談話が出ています。記事は「地震で壊滅的な打撃を受けたハイチが緊急に求めている救急医療キット、毛布、テントを積んだユニセフの貨物輸送機が、本日、ポルトープランス空港に着陸しようとしたが、理由不明のまま着陸できず、パナマに引き返した」というリポートに始まり、国連特使ポール・ファーマーの言葉を次のように伝えています。「首都(ポルトープランス)の商業港は事実上封鎖され、航空輸送の方も、ほとんど機能していない空港に何とか着陸しようとする航空機で渋滞している。」地震後2日目に不明だった「理由」とは、米軍大部隊の空と海からのハイチ侵攻であったのです。優に1万を越える兵員総勢、装甲車や銃火器、彼等の滞在のための設営機材、食料などの持ち込みの方が救援物資の搬入より優先されたということです。これは、もはや誰も否定することの出来ない事実です。■
しかしながら、実はこの時、国連事務総長バン・キムン氏(したがって米国政府)がハイチの大地震災害に対処する国連特使としてポール・ファーマーを選んだことに、ふと不吉な予感を私は抱きました。インターネットで調べればすぐ分かりますが、ポール・ファーマーは業績的には大変立派な経歴と地位の持ち主ですが、言ってみれば、もともとシステム内、アメリカの権力機構内部の人です。権力機構内部の人はダメ、とすぐに切り捨ててしまうほど私は馬鹿でないつもりですし、権力機構内部に留まって世の中をよい方向に持って行く人物もありうると思っています。現在、アメリカの大震災後のハイチ支配は、クリントンとブッシュの二人の前大統領によって公式に行なわれていて、ポール・ファーマーはその最も重要な顧問役を果たしています。ハイチでは来る11月28日に大統領選挙が行なわれます。クリントンがOKを出した何人かの候補者の間で争われる“民主的選挙”の見せかけが整えられるのがほぼ確かと思われますが、この演出の最大の困難は、貧困大衆の圧倒的支持を集めている政党ファンミ・ラヴァラス(Fanmi Lavalas)が候補者を立てることを選挙管理委員会から禁止されていることです。以前、私のブログで書きましたように、アメリカはこの政党の党首であった前大統領アリスティドを国外に追放し、ハイチの貧困大衆が大震災後は特にしきりとアリスティドの帰国を要求していますが、アメリカはこれを許しません。
 ここで、クリントン(オバマ政権と言っても同じ事です)が、ラヴァラス党の処置についてポール・ファーマーに意見を求めた時のことを、私は頭の中で想像してみるのですが、「ラヴァラス党に選挙への参加を許せば大変なことになるから、許すべきでない」というのがファーマーさんの返答であっただろうと私は考えます。システム内に留まって、輝かしい業績に輝くセレブであり続けるためには、この答しかありません。極めて賢明なリアリストであるファーマーさんは、自分をそんなに卑しい人間とは感じていないでしょう。しかし、彼の著書『ハイチの使い道(The Uses of Haiti )』を読んで彼を信頼し、彼が好きになってしまっていた私としては、上に引用したサイードの言葉に照らして、「ファーマーさん、何といっても、やっぱり、あなたは転んだということですね」と言わざるをえません。聞く所によると、彼はルワンダの独裁者ポール・カガメ大統領と親交があり、今は、ルワンダの首都キガリに住んでいます。
 ハイチに関して、もう一人、私が「転んだ」と思う人があります。それは、ハイチ生まれの黒人で、いまカナダ総督の地位にあるミカエル・ジャン(Michaëlle Jean)という女性です。彼女は今大きな苦渋の中にあると思います。たとえ転んでしまっても、私の同情は依然として彼女と共にあり、今後の再転向を期待しています。次回にそのお話をしましょう。

藤永 茂     (2010年9月8日)


へそを見詰める

2010-09-01 10:35:43 | 日記・エッセイ・コラム
 80歳になりかける頃から、色々のことに、すぐ腹を立てるようになりました。一種の老化現象であろうかと思われます。昨年の夏から体の調子が悪くなり、寝たり起きたりの時間が増えてからは、些細なことに腹を立てないようにして気持ちを穏やかに保ち、できればよく笑うようにしたらよいのでは、という忠告を受け、ノーマン・カズンズの本などを読んでみたりもしました。また、「病は気から」という言葉に十分の真理があることも体験しました。おかげさまで尿道結石や前立腺肥大から生じていた身体的な困難はおよそ除去することが出来、体の調子は随分とよくなってきましたが、世の中のあれこれの事にやたらに腹を立てるという病状は好くなる様子がありません。
 英語の表現に“navel gazing”というのがあります。自分のへそをしげしげと見詰めること、転じて、瞑想にふけること、考えるばかりで何もしないこと、を意味するようです。私は、へそを見詰めながら、自分が、この頃、何故やたらに腹を立てるのか、よく考えてみることにしました。まず気付くのは、自分の人生が終りに近づいているという、私としての当然の自覚が下に敷かれた、自分自身と人間一般についての深い失望の気持ちです。いや、失望という単語は不適切、いまさら望みを持つ時間的余裕はないのですですから、落胆した、あるいは、当てが外れてしまった、と言うべきでしょう。おおよそ済んでしまった自分の人生の、のっぴきならぬ罪深さ、愚劣さが、まず、心にのしかかって来るのです。個人的な罪の意識と悔悟についてはお話致しますまい。愚劣さについては、例えばこうです。
 粟津則雄著『西欧への問い』(朝日新聞社)の中に「ロマネスクの旅」という文章があります。著者がフランスとスペインのロマネスク建築、聖像、絵画を見てまわった折の感想記です。私も粟津則雄さんが訪れた場所の幾つかに旅をしましたが、粟津則雄さんが感じ取られたものと私が感じ取ったものとの間に、何と大きな開きがあることでしょう。量的には勿論、質的にも絶望的な違いがあります。私は、粟津則雄さんの並外れた資性と自分のそれを比較してガッカリしているのではありません。私は自分が過ごして来た長い人生の時間の希薄さを思い知らされて愕然とし、後悔し、悲しんでいるのです。そして、これは学問とか知的教養とかの問題ではないことが分かっているからです。パリに旅行した人間が、パリの地を踏んだことのない人間より、パリを知っている、パリをよりよく味わうことが出来るという保証は全然ないのです。
 旅の話を続けましょう。芭蕉の奥の細道を自分も辿ってみたいと思ったことがありましたが、果たせないまま、この年を迎えてしまいました。しかし、行ってもどうということも無かったに違いありません。幾つかの芭蕉の句碑のそばに立って記念写真を撮ることが出来たにしても何の意味があるでしょうか。芭蕉その人の旅の時間の密度にくらべて、私のそれは話にならない貧しさ、希薄さであったでしょうから。いや、「奥の細道」などを持ち出してくる必要もありません。言葉に尽せない美しさの夕焼けに心の底から感動することがあったかどうか、ということでもよいのです。そんなことは誰にでもあるし、誰にでも出来るさ、と考えるのは間違っています。人間、ある精神的姿勢をとることが出来ない限り、美しい夕焼けも本当には見えないのです。粟津さんには見えた沢山のものが私には見えなかった理由はそこにあります。旅に出る前に予習をよくしたかどうかの問題などでは全くないのです。教養の多寡の問題ではないのです。若いときからの精神的な生きざまの差が、年齢を重ねれば重ねるほど、残酷に出るということです。
 これが人生を生き損ねた一老人の繰り言で終ればよかったのですが、私の場合は、私に似た同類の愚劣な老人たち、そのような老人になって行くに違いないと思われる若者たちがこの世に満ち満ちていることに理不尽な苛立ちを覚えて、直ぐに腹を立ててしまうという困った症状を示しているというわけです。粟津則雄さんの別の文章「老年について」には次のように書いてあります。
■今やわが国は世界有数の長寿国になったから、いわゆる老人は巷にあふれているが、レンブラントの絵に見るような中身のつまった老人にはめったにお目にかからない。その顔を見ていると彼らの過去がざらついた手ざわりをもって浮かびあがって来るということにはならないのである。
 これは、老人たちの多くが、自分たちの老いに対して自信を失い、あいまいで中途半端な不安やおそれを感じているからだろう。「老年」というちゃんとしたことばがあるのに、「熟年」などという軽薄なことばが作り出されたのもおそらくそのためだろう。彼らはみずからの老いをはっきりと見つめようとはしない。それから眼をそむけるために、若者ぶり、若者に媚び、「お若いですね」などと言われて相好を崩している。
 自分のにやにや笑いの醜悪さには気付かないのである。このような足もとの覚束ぬ生活を続けていては、その顔に時間や経験が刻みつけられるはずがあるまい。若者ぶった老人たちの顔にしばしば張りついたあの空疎な表情は、見て楽しいものではない。■
 空疎な表情は老人に限られてはいません。テレビのトークショーやクイズショーでさんざめく美男美女をご覧なさい。彼らの軽薄な空疎な表情をご覧なさい。テレビのおかげで、日本には、軽量級のイケメンとプリティガールは居ても、ほんとに美しい男性もほんとに美しい女性も居なくなってしまったような気がします。お隣のアメリカに押されて、自国の映画やテレビの娯楽産業が未発達のカナダは、その点まだましのようです。町や大学のキャンパスで、はっとするような美しさの女性に逢うことがあります。
 人間そのものに対して決定的な失望を私に与えたのはイスラエルの行動でした。今の若い人々には想像もつかないでしょうが、ナチ・ホロコーストは私の世代の人間にとって大変な事件でありました。人間の残忍性、一つの人間集団がもう一つの人間集団に加えうる言語に絶する残虐の抹消されえぬ証拠であり、その認識にもとづいて、その悪を徹底的に糾弾し、その悪からきっぱりと手を切るという選択以外に人類が進む道はないと、私たちは思ったのです。それは平和主義の考えなどというよりも、もっと実存的な個人的心情のレベルで痛感したことでありました。ところがどうでしょう。シオニズムを信じる人々は、ユダヤ人が受難したホロコースト、あるいは、ショアーは全くユニークなものであり、ユダヤ人以外の人間集団に対してイスラエルがショアーに類似の苦難を与えてもかまわないという立場をとって何ら恥じる所がありません。このことは、パレスチナ人には、イスラエル建国の直後から分かっていたことだったのでしょうが、「アンネの家」などの仕掛けに騙され続けていた愚昧な私がそれにはっきり気がついたのは、この10年ほどのことに過ぎません。残りの持ち時間が少なくなった私がすっかり落胆し、腹立たしい思いに苛まれる最大の理由の一つは此処にあります。
 しかし、人間の残忍性について腹の立つことは他にもあります。それは日本人一般の、罪を犯したと思われる人々に対する残忍さです。テレビのニュースでは、犯罪の容疑者のことを伝える場合、ほとんど例外なく、容疑者の男性を「おとこ」、女性は「おんな」と呼びます。私の耳には、これはひどい差別語に響いて仕方がありません。容疑者はあくまで容疑者であるのですから、えん罪の可能性もあります。ただ普通に「その男性」、「その女性」と呼んだらいいではありませんか。腹立て爺として、ついでに申し上げますと、この頃流行のいやな言葉使いに従えば、“呼んであげたらいいではありませんか。” このやにさがった言葉使いが内包する “思いやり”の欺瞞性に私は身震いすることがあります。近頃、もう死んでしまった親が生きているかのように装って、長寿の祝い金や年金を貰い続けるという罪を犯した人々がしきりとニュースになりました。詐欺は詐欺ですから処罰されるべきですが、あれほど大ニュースとして取り上げる必要があったでしょうか。こういう、こそ泥的な罪人たちがマスコミで嗜虐的にいじめられる一方で、大掛かりな公金泥棒は野放しです。罪を犯す人々に対する刑罰のことを思うに付けて、いつも心によみがえる一編の詩があります。ドイツの劇作家ブレヒトが書いた『嬰児殺し??マリー・ファラーのこと』という詩です。長いですが,少し辛抱して読んでみて下さい。この頃の日本人には分かってもらえないかもしれませんが。
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マリー・ファラー、生まれは四月、
未成年、母斑はなく、みなし子、せむし、
それまで前科はなかったが、
赤ん坊を殺してしまったと、申し立て。
事情は以下の通り。
妊娠をして二ヶ月の頃、
ある地下室に住む女の手を借りて、
二度、水を注入し、堕胎をしようとしたのだが、
ひどく痛んだばっかりで、
うまくは行かなかったのだ。
 しかし、諸君ら、お願いだ。
 腹を立ててしまうのは待ってくれ。
 人の子はみな、他のすべての人の助けがいる。

それでも、と彼女は言う、約束しただけの金は払った。
そのあと、自分で、おなかを、きりりと、しばりあげた。
そして、胡椒をすって、アルコールにまぜて、飲んでもみた。
だけど、まるでひどい下痢をしただけのことだった。
からだは、目にもはっきり、ふくれ上がり、
皿を洗うと、ひどく痛むことがよくあった。
でも、と彼女は言う、まだ、若気のいたり、
心をこめ、願いを込めて、
マリア様へ、お祈りをした。
 そこで、諸君ら、お願いだ。
 腹を立ててしまうのは待ってくれ。
 人の子はみな、他のすべての人の助けがいる。

だが、お祈りは、どうやら、
何のききめもなかったのだ。願いのことがありすぎた。
からだは、いよいよ大きくなり、
早朝の礼拝で、めまいがしてたおれたり、
たびたび汗を、怖れのあぶらの汗玉を、
マリア様の足元に、いくつも落としたのだ。
それでも、彼女は、そのからだの有様を、
お産のときまで、かくしおおせた。
というのも、まるで不きりょうの彼女が、
誘惑されることになったなどと、
誰も信じはしなかったのだ。
 で、諸君ら、お願いだ。
 腹を立ててしまうのは待ってくれ。
 人の子はみな、他のすべての人の助けがいる。

その日は、と彼女は言う、朝まだきに、
階段を洗い拭きしていると、おなかに
ぐいと鉤爪が立てられたような気がして
その痛みに、身をもがき、よじらせた。
しかも、彼女は、この苦痛をかくし通した。
日がな一日、洗濯物を干しながら、
あれこれ頭をしぼって考えた??挙句に覚った。
子供を産まねばならぬのだと。
とたんに、心臓が重くしめつけられた。
彼女がベッドに上がったのは、
もうずいぶんとおそい時刻になっていた。
 しかし、諸君ら、お願いだ。
 腹を立ててしまうのは待ってくれ。
 人の子はみな、他のすべての人の助けがいる。

横になったと思ったら、もう一度おこされた。
雪が降ったから、掃き除けておきなさい。
すんだのは十一時、ながいながい一日だった。
夜になって、やっと、彼女は、
そっとお産が出来るようになった。
そして、一人の男の子を産んだ。
その子は、他のどんな男の子とも
何の変わりもなかったのだ。
たしかに、彼女は、他の母親たちと同じではない。
しかし、だからと言って、私が、
この母親を見くだす理由はありはしない。
 だから、諸君ら、お願いだ。
 腹を立ててしまうのは待ってくれ。
 人の子はみな、他のすべての人の助けがいる。

そこで、私は、男の子がどうなったか、
話をつづけることにしよう。
(彼女も言った、何ひとつ、かくし立てせずにお話ししましょう)
それをどう聞くかで、
わたしがどんな人間か、
あなたがどんな人間か、
わかろうというものだ。
彼女は話した。ベッドに就くとすぐ、
ひどい吐き気におそわれた。
ただひとり、心もとなく、一体どうなるのかもわからずに、
ただ、けんめいに、叫び声だけは、あげまいとした。
 だから、諸君ら、お願いだ。
 腹を立ててしまうのは待ってくれ。
 人の子はみな、他のすべての人の助けがいる。

吐き気もするし、部屋も、凍てつく寒さになって来たので、と彼女は言った。
最後の力をふりしぼって、屋外の便所へ身を運んだ。
(何時ごろだったか、彼女にはもうわからない)
その便所で、わりにすんなりと、子供は産まれたのだ。
しかし、そのあけがた近く、
心は、もう、すっかり狂乱した。
便所の中にも雪が降り込んできて、
指がこごえて、赤ん坊を
持ち支えることも出来なくなってきた。
 が、諸君ら、お願いだ。
 腹を立ててしまうのは待ってくれ。
 人の子はみな、他のすべての人の助けがいる。

便所から部屋にもどる途中で、
それまでは、おとなしくしていたのに、
と彼女は言った。
赤ん坊が泣き叫び出した。
これが、ひどく彼女の神経にひびいて、
めくらめっぽう、両のこぶしで、
赤ん坊が静かになるまで、打ちまくった。
それから、その死体を
ベッドの中へ持ち込んで、
夜のあけるまで、母子は添い寝した。
朝が来ると、彼女は、死んだ赤ん坊を
洗濯小屋の中にかくした。
 けれど、諸君ら、お願いだ。
 腹を立ててしまうのは待ってくれ。
 人の子はみな、他のすべての人の助けがいる。

マリー・ファラー、四月に誕生。
マイセンの刑務所で死亡。
未婚の母。有罪服役。
なべての者の、
弱さのあかしではないだろうか。
あなた方よ、清潔なお産の床で出産し、
妊娠の身を祝福とよぶ、あなた方よ。
罪に堕ちた弱い者を、
責めないでほしいのだ。
彼女の罪は重かったが、
その苦しみもまた大きかったのだ。
 だから、諸君ら、お願いだ。
 腹を立ててしまうのは待ってくれ。
 人の子はみな、他のすべての人の助けがいる。
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藤永 茂 (2010年9月1日)