私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

エリトリアの人々に幸あれ(2)

2014-12-24 19:16:48 | 日記・エッセイ・コラム
 アンドレ・ヴルチェク氏の『エリトリア:帝国主義者にとってのイデオロギー的エボラ出血熱』の翻訳を始めます。
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クオハイトはエリトリアの高地地帯にある神秘をたたえた古い前アクスマイト期からの集落地で、そこには一本石で出来た幾つかの荘厳な石柱が空に向かって屹立している。その直下の地中には失われた古代都市がそっくり埋まっていると言われている。そのあたりを歩くと、大地が震え、足下の地底深く足音がこだまする。
 この石柱群から車で数分行くと、高原は突然終わり、その縁にでる。絶壁の上からは深い谷を望む息を呑むような光景が展開する。この場所はイシュカと呼ばれ、かつては、数千ものエリトリアの自由軍戦士たちが、残忍なエチオピア占領軍から身を隠した所であった。
 私は崖っぷちにムービー・カメラを設置し、現地のカメラマンにカメラを回すように頼んでから、山岳案内人のイブラヒム・オマール氏に尋ねた。“独立の前と後で、この土地の生活はどんなものでしたか?”彼はこう話した。“それはまるっきり別様の生活です。はじめの、独立以前の生活は、過酷残忍なものでした。そして、その後、我々が勝利してから、もう一つ別の生活がやってきました。我々の基本的人権が認められ、尊重されました。学校、医療保健所、そして道路が建設されました。突然あらゆることが変わってしまったのです。”
 私が具体例を求めると、彼はすぐさま答えた。:
“以前は、妊婦は、出産のために遠いどこかの医療施設に辿り着くのに、長い時間ラクダの背で揺られなければならず、多くの女たちはこの道行きの途中で死んでしまったものでした。今は、この地域でも、医療施設にすぐ行けます。”
彼はしばし思いにふけり、“これでこそ生活というものです”と付け加えた。
 首都のアスマラに車で帰る途中、起伏のはげしい岩だらけの山岳地帯を切り開いてつくられた新しい道路を目にした。舗装されたのもあれば、そうでないものもある。そして、それに並行して、新しい電力線が地平線に向かって延びている。
 車の中で、私は、オマール氏が“人権”と定義するものは何かを考えた。それは、この“人権”という表現が西の世界であらわすものとはハッキリ違うものだ。米国やヨーロッパで言う人権なるものはイデオロギー的道具であり、冷戦の一つの武器として造られたものだ。エリトリアでは、それは極めて単純な意味を持っている、つまり、人々が食べ物にありつけることであり、無料の教育と医療が提供され、新しい道をつくり、電力を供給することなのである。
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<訳者注>この「人権」の定義の問題は非常に重要な問題です。それは「プルトクラシーとは何か」、「デモクラシーとは何か」という問いにも深く関わってきます。次回以後、機会を見て、考えてみます。なお、年末年始はこのブログを休みにします。よいお年を。

藤永 茂 (2014年12月24日)
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エリトリアの人々に幸あれ(1)

2014-12-17 21:26:02 | 日記・エッセイ・コラム
 10月末から11月にかけて、『エリトリア:アフリカのキューバ』(1)、(2)、(3)という記事を掲げました。その冒頭に私は、
 このタイトルはトーマス・マウンテン(Thomas Mountain)から借りました。マウンテン氏は、これはアンドレ・ヴルチェク(Andre Vltchek)から借りたと言います。私がこれから書くことは、マウンテン氏の最近の論説を大いに参考にしています。
# Eritrea: The Cuba of Africa
http://www.blackagendareport.com/content/eritrea-cuba-africa

と書きましたが、嬉しいことに、アンドレ・ヴルチェク氏自身の最新のエリトリア訪問記を読むことが出来ました。13枚の興味深い写真を含み、普通にプリントアウトして21頁の長さで、タイトルも愉快です。
 DECEMBER 12, 2014
Eritrea African Ideological Ebola for Imperialists
by ANDRE VLTCHEK


http://www.counterpunch.org/2014/12/12/african-ideological-ebola-for-imperialists/print

「エリトリア:帝国主義者にとってのイデオロギー的エボラ出血熱」とは、エリトリアの人々の独立への希求(米欧は独裁者アフェウェルキの野心と言いたいのでしょうが)が、ネオコロニアリズムの桎梏の下に苦しむ他のアフリカ諸国の人々に伝染することを、帝国主義者たちがエボラ出血熱のように恐れていることを意味しています。同じ内容の記事は次の場所でも読むことができます。こちらの見出しは『エリトリアの独立への苦闘』(Eritrea’s Struggle for Independence)となっています。

http://dissidentvoice.org/2014/12/eritreas-struggle-for-independence/

 米欧諸国が恐れる独立希求エボラ熱は、実は、アフェウェルキが、1991年、エリトリア独立戦争を起こす9年前の1982年に、サンカラがブルキナファソで独立希求エボラ熱を発症させていました。そのアフリカ大陸での飛び火蔓延を食い止めるため、たった4年後の1986年、米欧は恐るべきエボラ熱ウィルスの保持者サンカラとその同士たちを暗殺して無記名の墓地に集団埋葬するという非常手段に訴えたのでした。サンカラは、米欧の支配から脱するために、外部からの食糧その他のいわゆる“援助”を一切排して、歯を食いしばって食糧の自国生産やインフラの自主整備を進め、IMFやWBの干渉を許さない政策を採用していました。1993年にエリトリアの独立を宣言したアフェウェルキも同じ苦難の道を辿っています。サンカラと同じstrainのエボラウィルスの保持者だと思われます。従って、アフェウェルキもまた暗殺によって始末される確率は大きいのです。
 しかし、先日のブログ記事『サンカラ革命とブルキナファソ』(1)(2014年11月26日)で報じた通り、ブルキナファソの民衆の体内深く潜伏していた独立希求エボラ熱ウィルスは、10月30日、突然百万人民衆デモの形をとって息を吹き返し、サンカラを裏切った独裁者コンパオレ大統領を国外に追い出してしまいました。このウィルスの感染がアフリカ大陸で一挙に猖獗を極めることになれば良いのですが。
 いや、エボラ出血熱ウィルスのメタファーへの稚拙な悪乗りはこの辺でやめましょう。アンドレ・ヴルチェクの『Eritrea African Ideological Ebola for Imperialists』は、このメタファーに関係なく、読み応え十分の現地報告です。次回から和訳を試みます。ヴルチェク氏の英文は読み易い英文ですから、英語を読むのが余り億劫でない人は翻訳を待たず、是非原文をお読みになって下さい。この好読み物の出現に時を合わせるように、少し古い(2014年7月12日)『Eritrea: Come and See』というムービーや、

http://www.tesfanews.net/eritrea-come-and-see/

マウンテン氏の論考と同じタイトル『Eritrea: The Cuba of Africa』で、T.J. Petrowskiというジャーナリスト(カナダの共産党党員)の新しい論考(2014年12月15日)がTesfaNews というサイトにでています。

http://www.tesfanews.net/eritrea-the-cuba-of-africa-2/

さらに、私が前回のブログで取り上げたAlexandra Valiente のLibya 360 というサイトには
『From Liberation to Governance: The Eritrean Experience』という表題で、
Sophia Tesfarmariam という在米のエリトリア人女性人類学者の筆になる長い論考が掲げられています。

http://libya360.wordpress.com/2014/12/13/from-liberation-to-governance-the-eritrean-experience/

この女性は熱心なエリトリア擁護論者で、その故に、賛否両論の渦の中にいる存在のようです。この論考の末尾には興味深い参考記事が多数挙げてありますので、暇があれば覗いてみて下さい。上述のように、次回からヴルチェク氏のエリトリア見聞記を訳出します。

藤永 茂 (2014年12月17日)
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Alexandra Valiente, Libya 360

2014-12-10 22:10:32 | 日記・エッセイ・コラム
 アフリカ大陸で一番輝いていた国リビアが米欧の凶暴な暴力によって滅ぼされた(今のリビアはもはや国ではありません)頃から、私は、Libya360°というサイトに気づき、それ以来、大変お世話になっています。他のところでは読めないような充実した有用な情報がしばしば掲載されているからです。

http://libya360.wordpress.com

近頃の例で言えば、12月4日のウラジーミル・プーチン大統領がロシア連邦議会で千人以上の聴衆の前で行った年次教書演説についての記事です。その短い要約はロシアNOWというサイトに日本語で出ていますが、要約と全文(英語訳)では、有用さの点で比較になりません。

http://jp.rbth.com/politics/2014/12/05/51345.html

この内容はクレムリンの正式の英訳文を転載したものです。:

http://eng.news.kremlin.ru/news/23341

1時間以上にわたるプーチンの講演のムービーもありますが、その同時通訳は印刷されている英訳全文と細部では同じでありません。
 このプーチンの講演から受ける印象は貴重なものです。オバマの典型的な講演のスタイルと比較すると、プロパガンダとヒポクリジーの要素は遥かに少なく、多くの具体的な政策の詳細が述べられています。プーチンがオバマより段違いにsane な政治家であることがよく分かります。
 この例が示すように、Libya360°というサイトは、現在の世界を正しく把握する為に有用な情報や基礎的な資料を豊かに提供しています。無残に滅ぼされたリビアという国の怨念の甲高い絶叫が聞こえてきても何の不思議もないのですが、そうではないのは、その編集者であるアレクサンドラ・バリエンテという名の女性のお陰であると思われます。ネット上で少し調べてみましたが個人的な事はよく分かりませんし、私にとっては、Libya360°というサイトが提供してくれる恩恵を享受するだけで十分です。彼女自身の筆になる古い(2011年)の記事が、もう一つの私の好きなサイトであるAxis of Logic に出ていますので、参考に掲げておきますが、

http://axisoflogic.com/artman/publish/Article_63703.shtml

ここで彼女が読者としてコメントしている、Lizzie Phelan というこれまた女性のジャーナリストが陥落直前のリビアの首都トリポリからの報道記事は、いま読んでも胸が詰まります。

http://axisoflogic.com/artman/publish/Article_63691.shtml

 アレクサンドラ・バリエンテの紹介はこの位にして、今日の話題に入ります。
 10日あまり前のLibya360°に「Aleida Guevara Provides Inspiration at 10th Latin America Conference」という見出しでアレイダ・ゲバラさんの興味ぶかい講演のことが報じられていました。

http://libya360.wordpress.com/2014/11/30/aleida-guevara-provides-inspiration-at-10th-latin-america-conference/

チェ・ゲバラの長女でキューバの小児科医のアレイダ・ゲバラは、キューバ親善大使としても、国際的によく知られた人です。日本にも何度か来て、東北の罹災地を視察し、広島など各地を訪れて講演をしています。この11月から12月にかけては英国を訪問して、幾つか講演をしたようです。11月29日(土)にはロンドンのコングレス・ハウスという場所で、“Latin America 2014”という集会が催され、彼女はそこでューバについての講演を二つしました。これで10回目となる集会の主要な目的は、キューバという国に対する国際的な理解と支持を高めることにありますが、「キューバは来るべき世界のモデルとなりうる」というのがアレイダ・ゲバラの講演の主要メッセージだと思われます。その可能性、現実味を端的に示した最近の事例は、西部アフリカでのエボラ出血熱の伝染に対するキューバの反応でした。
 このLibya360°の記事によると、15,000 人の保健医療関係のキューバ人が、今回、進んで西部アフリカ行きを志願したようで、アレイダさんもその一人でした。結局、選抜された数百人がまずエボラ熱の伝染地帯に送り込まれましたが、彼らは自らを感染の危険に晒して、住民の中に入り込んで行きました。これが他の国々からの派遣団員と際立って異なる点でした。すでにボリビア、メキシコ、ニクアラガでエボラ対策要員の訓練を開始しており、キューバでエボラ熱に関する学会を主催して、これには米国の医師たちも参加しました。実は、今回は、これまでと違って、世界保健機関(WHO)の側から直接キューバにエボラ危機対処への出動要請がありました。
 現在、キューバから派遣されて国外66カ国で働いている保健医療関係要員の数は、ベネズエラに11,000人、アフリカに4,000人など総計50,731人、“しかし、数は重要でない。大事なのは彼らがあげている成果だ。幼児死亡率は確実に下がっている。これこそ重要だ”とアレイダさんは強調します。
 しかし、米国政府はこのキューバの「医療外交」の成功を嫌悪し、それを切り崩そうとして、国外で働いているキューバの医師たちに働きかけて米国への帰化を、依然として、誘っています。
 ロンドンでのこの集会のあと、アレイダ・ゲバラさんは12月4日にはレスター大学、5日にはシェフィールド大学で学生たちに語りかけています。4日の招待講演のタイトルは“A better world is possible”で、これはボリビアのモラレス大統領の「良く生きよう」の呼びかけと同質の呼びかけです。レスター大学のスティーヴ・メルイッシュ博士は「キューバは政治的な謎(enigma)だ。キューバはヨーロッパの社会主義国たちとソ連が崩壊した後も生き残り、その後も今日まで西欧のキューバ批判論をものともせず生きている。その保健医療制度、無償の教育制度、反帝国主義闘争への支援、そして、災害救済に関する国際主義的行動で称えられるキューバという国は、発展途上国の多くの人々にとってインスピレーションである」とアレイダ・ゲバラの国を学生たちに紹介しました。

藤永 茂 (2014年12月10日)
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サンカラ革命とブルキナファソ(2)

2014-12-03 20:35:23 | 日記・エッセイ・コラム
 サンカラと彼の革命については、このブログの以前の記事『ブリクモンとサンカラ』(2007年11月7日)で取り上げました。サンカラ暗殺から20年の年でした。その5年後の25周年の2012年には『サンカラとブルキナ・ファッソ』と題して3回続きの記事を書きました。その記事の第一回目(2012年7月18日)に、吉田太郎氏の筆になるサンカラ物語を引用させて頂きました。今年の10月の末にブルキナファソで勃発した、大衆デモによるコンパオレ大統領追放という政変の意義を理解していただく為の参考に、そのサンカラ物語を再び掲載させていただきます。

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アフリカのチェ・ゲバラ
 サハラ沙漠の南端にブルキナファソという人口1100万人ほどの貧しい国がある。2002年現在、一人当たりの国民所得が208ケ国中193位という最貧国である。国土は27万平方kmだが、地下資源もなく、大半が乾燥地で耕作可能な土地は全体の25%しかない(3)。
 ブルキナファソは、1960年に共和国オートポルタとして独立したが、世界の中でも最も貧しい国だった。非識字率は、90%以上。乳児死亡率は1000人あたり280人と世界の最高で、基本的な福祉サービスとインフラに欠け、医師は5万人に1人しかいなかった。1人あたりの平均年収は150ドルにすぎず、新植民地主義と搾取的な封建制度が残り、人民を搾取することに一片の恥じを感じない寄生官僚が満ち溢れていた(1)。
 以前の宗主国だったフランスに事実上管理され、軍事政権による政治腐敗がはびこり、3万8000人いる役人が国家予算の70%を自分たちの給与にあて、10月に予算を使い果たすと外国の援助に頼り切るというありさまだった。役人たちはたいした仕事をせず、全住民には人頭税がかけられていたため、支払いができない世帯には、村の徴税係が容赦なく家財や牛、ヤギ、農産物などを取り立てた。差し出すものがないと強制労働に従事させられたり、女性が未納税のツケとして要求されたりしていた(3)。
 ここで、トーマス・サンカラ(Thomas Sankara・1949年12月21日~1987年10月15日)という名の青年が登場する。

「この20世紀末にあり、いまだに人類が苦しめられているあらゆる弊害の小宇宙だ」
 サンカラは、かつて祖国をこう記述したことがある(1)。サンカラは、モシ族とフルベ族との混血で聡明で快活な人物で、国民を養うための食料を生産するには、社会的公正が不可欠である、と考えた(3)。
 サンカラは1949年12月21日にカソリック教徒の家庭に生まれた。父親は軍人で、第二次世界大戦中にはフランス軍としてナチに拘留されたことがある。だが、家族は、サンカラが軍人ではなく、カトリックの牧師になることを望んでいた。サンカラは、マルクス主義を信奉していたが、カトリックも信じていた。同時にイスラム教徒が多い国柄だけあり、コーランにも精通していた。
 だが、1966年に中学校で基礎的な軍事教練を受けた後、サンカラは19歳から軍人としての道を歩み始める(1)。彼と同じ世代のアフリカ人の多くがそうであったように、1年後に仕官としての訓練を受けるため、マダガスカルの首都アンチラベ(Antsirabe)に派遣される(2)。だが、23歳のサンカラがマダガスカルに到着した数カ月後、1972年にマダガスカルでは学生と労働者からなる大規模な暴動が発生し、マダガスカル大統領は打倒される。サンカラは、大衆運動に興味をそそられた(1)。サンカラは1972年にオートボルタに帰国し、1974年にはマリとの国境紛争を戦った。そして、パラシュート部隊としての訓練を受けるため、フランスに行ったが、そこで、サンカラはフランスと旧植民地との矛盾を目のあたりにすることになる(2) 。
 1976年、サンカラはコマンド・トレイニング・センターの指揮者となり、後に革命の同士となるブレーズ・コンパオレ(Blaise Compaore)とともにモロッコにいた。そして、仲間の若手将校とともに、秘密組織「共産主義将校団」を結成。その中には、アンリ・ゾンゴ(Henri Zongo)、ジーン=バプティスト(Jean-Baptiste Boukary Lingani)といった人物もいた。
 サンカラは軍の大尉だったが、仲間の若手将校団とともに1982年11月7日のクーデターを起こし、1983年1月に首相になった。だが、フランス大統領の息子であり、アフリカの事務アドバイザー、ジーン=クリストフ・ミッテラン(Jean-Christophe Mitterrand)の訪を受けた後に自宅監禁。アンリ・ゾンゴやジーン=バプティストらも逮捕されてしまう。これが大衆暴動を引き起こした。ここで、ブレーズ・コンパオレが再びクーデターを起こす。このクーデターは、チャドでフランスと戦う寸前であったリビアに支援された。チャドはリビアと交戦しており、フランスはチャドに空軍を提供していたのだ(2)。こうして1983年8月3日に政権を掌握したサンカラは大統領になる。まだ、33歳の若さだった(1)。
 1983年10月2日のスピーチで、サンカラは、自らを革命家とし、祖国の革命を「反帝国主義」と定義し、腐敗と戦い、森林を再生し、飢饉を防ぎ、教育や医療の普及を再優先課題として掲げた(2)。以来、サンカラが突き進めた革命には目覚しいものがあった。
 例えば、サンカラの就任後、大規模なワクチン接種キャンペーンを実施するアフリカの最初の国家となった。その年、キューバからのボランティアの援助により、250万人の子どもが伝染病から免れることができた。乳児死亡率は2年もたたずして1000人あたり145人と急減した。 サンカラは、サハラ砂漠の進行を抑えるため、最初の年に1000万本の植林による森林再生プログラムも始めた。また、教育にも力を入れた。入学率は、わずか2年で12%から22%に高まり、卒業し読み書きができるようになった人々は、他のものに読み書きを教えることが奨励された。 また、それまで歴史的に乏しかった愛国心を高めるため、サンカラは、徴兵制度を設け、同時に大衆組織として武装CDR(革命防衛委員会)を結成した(1)。
 1984年、革命1周年を記念し、サンカラは国名を「高貴なる人々の土地」を意味するブルキナファソに変え、新たな国旗を制定し、新たな国歌(Une Seule Nuit)も書いた(2)。
 女性地位向上は、サンカラが目指した目標のひとつで、サンカラ政権には女性も多く含まれていた。これは、西アフリカでは先例がない政策だった(2)。家長的で古風な封建的な文化のくびきから女性を解放し、女性の地位を向上させ、社会の中で女性が果たす役割を認識させるキャンペーンも展開した(1)。一夫多妻を禁止し、避妊を促進。さらに、エイズがアフリカにとり脅威であることを公に認めた最初のアフリカの政府にもなった(2)。
 サンカラは、PRセンスも優れていた。ブルキナファソ革命に国際的な報道機関の関心を寄せるため、象徴的な政策を展開してみせた。例えば、サンカラは政府が所有していた高級車メルセデスのほとんどを売却し、大臣の公用車には、ブルキナファソで最も安いルノーにした。また、全員女性からなるオートバイ警戒隊を結成した。また、軍の店舗を国民に開放したが、それが最初の国営スーパーマーケットとなった(2)。
 サンカラはブルキナファソの人々の意識を変えた。それまで、国内には公的機関以外には働き口がなかったが、国内を各地域の持つ文化や歴史に配慮して30の行政区に区分し、各地域で住民たちが地域を治めていく「自主管理政策」を導入した。住民自身が役人たちを雇い、道路、建設、水道、保険・医療事業など本当に自分たちの暮らしに必要な公共サービスを実施していくやり方を導入したのである。
 また、評判の悪かった人頭税を廃止し、開墾可能な土地を国有化した。村の運営責任者が自分たちの判断で各戸に土地を割り当て、農業指導者がいつ何を作付けすれば良いのかを指導する。そして一人ひとりの作業量に応じて金銭や収穫物、人的サービスという形で支払いを行なった。各戸の必要に応じて土地が配分され、強制的な徴収に脅かされることがなくなった農民たちは安心して農作業に汗を流していく。
 改革がはじまって4年も経たないうちに、農業生産は急増し、国家支出は大幅に削減され、産み出された資金は、道路建設、小規模水道敷設、農業教育の普及、地域ごとでの手工業の促進など、住民に密着したプログラムに投資された。わずか4年で自給自足農業への転換が図られ、人々は人間としての生きる誇りを回復。雄大な希望に燃えて、例えば、サンカラが呼びかけた鉄道敷設事業には金銭的な報酬がないにもかかわらず、自発的にボランティアで住民が参加し、灼熱の太陽の下で数千の人々がレールを敷き、鉄道建設に汗を流していった(3)。
 サンカラは、若く、美男で、雄弁で勇敢で、かつ情熱的もあるカリスマだった(1)。優れたギタリストで、モーターバイクが好きだったことも人気を呼んだ。おまけに暮らしぶりはつつましく、自分の利益のために壮大な屋敷を建設するそれまでのアフリカのリーダーとは著しい対照的だった(2)。
 サンカラは、アフリカ諸国が歴史的な事情や自然環境によって経済発展が遅れているとしても、正しい経済政策と人民の努力によって経済発展は可能だと考えていた。
 1984年10月、ニューヨークで開催された第39回国連総会では「黒い肌をしているだけで、あるいは文化が異なるというだけでほとんど動物と変わらない扱いしか受けていないこの数百万人のゲットーにいる人々を代表してわたしは語りたい」で始まる劇的な演説行っている(4)。
 同84年にサンカラはキューバも訪ねている。サンカラは、キューバ人以外のリーダーに与えられるキューバの最高栄誉、ホセ・マルティ賞を受けた。サンカラはスペイン語に堪能ではなかった。だが、飛行機でキューバにいくわずかの間にも、スペイン語での受賞演説を準備した。翻訳でよいと語るキューバ人に対し、サンカラはこう答えた。
「翻訳は反逆者です。私が愛し、感動するキューバ人民とその革命に私のメッセージを生で伝えたいと思うのです」
 人間としての尊厳や全アフリカ人の自治を守り、教育を普及し、アフリカが連帯する。サンカラの描く未来のビジョンは、国境を越え、多くのアフリカの若者の心を鼓舞した(1)。サンカラの改革とブルキナファソの名は、西アフリカはもとより、中部アフリカ地域に至るまで広まった。このサンカラの改革は、困ったことだった。政治的に腐敗していた近隣諸国にも影響を及ぼしかねなかったからである。事実、象牙共和国、ガボン、トーゴ等の各政権は多いに揺さぶりをかけられた。サンカラの改革をそのまま見逃しておくわけにはいかなかった(3)。
 1985年にひとつの不幸な事件が起きる。ブルキナファソは国勢調査を実施していたが、その調査の間に、マリのいくつかの部族のキャンプが、誤って訪問を受けた。それが契機となり、1985年のクリスマスに、マリで緊張が高まり、5日間の戦闘で約100人が死んだ。ほとんどの犠牲者は、マリの爆撃機で殺された民間人だった。この隣国との関係悪化を契機に、1987年10月15日、サンカラは、右腕としてもっとも信頼を寄せていたブレーズ・コンパオレが組織した反革命クーデターにより、12人の他の仲間とともに暗殺された。サンカラの遺体は、すぐさま無名墓地に埋められた。クーデター後、サンカラの死が伝えられたが、いくつかの革命防衛委員会は数日間、国軍に対し武力抵抗した(2)。
 暗殺は80年代のアフリカでは一般的だった。サンカラは、暗殺の危険性を予知していたのであろう。死の1週間前、サンカラは国民に向かってこう述べていた。「個人として革命家を殺すことはできても、その思想までは殺すことができない」(1)。
 だが、サンカラの死とともに、ブルキナファソは、政治腐敗、それと表裏一体の外国の支配、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、慢性的飢餓、絶望する農民たちという普通のアフリカの状態に戻った(3)。トーマス・サンカラ。享年38歳。アフリカの「チェ・ゲバラ」と呼ばれたサンカラの死は、本物のゲバラのものよりもさらに短かった。
(引用文献) (1)Kangsen Feka Wakai, A Warrior's Tale. (2) thomas-sankara biography (3) ジャン・ジグレール『世界の半分が餓えるのはなぜか』(2003)合同出版 (4) アフリカの改革者 トーマス・サンカラ■
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以上が、吉田太郎さんのブログから写させて戴いたトーマス(あるいはフランス風にトマ)・サンカラ物語です。もし、今回の私のブログを読んで、トマ・サンカラと彼のいわゆる8月革命に興味をお持ちになった方が私の以前の四つの記事も覗いてみて下さると嬉しいのですが、私とて、アフリカのことをあまりご存知でない方々の半歩ほど前を歩いているだけの新参者です。出来れば、上記の私のブログ記事『サンカラとブルキナ・ファッソ』(3)の最後の部分に書きました Jean Ziegler (ジャン・ジグレール)著『世界の半分が飢えるのはなぜ?』(たかおまゆみ訳/勝俣誠監訳)を読んで頂きたいと思います。その第24節からの4節にサンカラの事が書いてあります。サンカラが暗殺されてブルキナファソが元の木阿弥になったことを次のように述べてあります。:
#「サンカラの死とともに、人びとの大きな希望も打ち砕かれた。現在のブルキナファソは、現在もコンパオレの統治下にある。そして普通のアフリカに戻ってしまった。政治腐敗、政治腐敗と表裏一体の外国支配、北部地方でつづく慢性的飢餓、新植民地主義下での人間としての尊厳の軽視、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、そして農民たちの嘆き。」#
 しかし、コンパオレを国外に追い出した、去る10月末の数十万の大群衆デモは、サンカラ革命の記憶がブルキナファソの人たちの胸に激しく蘇っていることを明らかに示しています。ブルキナファソだけではありません。主に労働争議の形で、西アフリカのガーナやニジェール、ナイジェリアなどで民衆の擾乱が頻発しています。これが本当の、真正の“アフリカの春”の到来の兆しであることを私は願ってやみません。ジャン・ジグレールは『世界の半分が飢えるのはなぜ?』(たかおまゆみ訳/勝俣誠監訳)を次のように結んでいます。:

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 あらゆる場面において社会的・政治的・経済的に欠乏しきっている世界、自由のために多くの餓えと疑惑が存在するのは当然だという暴力的世界、豊かな暮らしを少数の人だけが享受している世界 –––– 。このような異常な世界はなんの意味も持たないし、今後存続してゆく見込みもない。
 すべての人が人間らしく生き、食べることができるようにならなければ、真の喜びや自由はこの地球上に実現されないだろう。自分たちは満たされていても、当然与えられるべき分が与えられないままでいる人びとが存在しつづけるのであれば、人類に未来はない。
 未来に向けたわたしたちの最終的な希望はどこにあるのだろうか? それは、公正な世界の実現を求める地球上の人びとの決意にかかっていると私は思う。

   美しく咲きこぼれる花たちを
   一本残らず摘んでしまうことはできるだろう
   けれども
   春を止めてしまうことが
   だれにできるというのか

   パブロ・ネルーダ

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藤永 茂 (2014年12月3日)
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