『闇の奥』のマーロウはコンゴ河を遡る前に「君らも知ってのとおり、僕は嘘が大嫌い、何とも我慢がならない。それも、他の人間よりも真っ当で正直だからじゃなく、ただ、嘘というものが僕をぞっとさせるからなのだ。嘘には死の汚れ、免れられない死の匂いのようなものがある?そして、それこそが、まさにこの世で僕が憎み、忌み嫌う?何とかして忘れたいと願うものなんだ」(藤永73)と言って置きながら、コンゴから帰ってクルツの婚約者に会うと、クルツの最後の叫びが「地獄だ!地獄だ!」だったと正直に彼女に告げかねて、「彼の口にのぼった最後の言葉は?あなたのお名前でした」(藤永202)と大きな嘘をついてしまいます。これが『闇の奥』の解釈論でしばしば取り上げられる「マーロウの嘘」の問題です。解釈の主流は、マーロウの嘘には赤裸裸の真実より高い真理が含まれている、と言った工合のマーロウ弁護論のようで、コンゴ体験でマーロウが人間的に前より偉くなって帰って来たことにしたいという気持から出ているのだと思います。
しかし、私には前回(3月23日)のブログの終りで言及した「コンラッドの嘘」の問題の方が面白いように思われます。「コンラッドの嘘」は彼の「コンゴ日記」と「最後のエッセー」(Last Essays)の中の「地理学と探検家たち」を組み合わせて考えてみると読み取れます。「コンゴ日記」は1890年に、エッセーの方は1924年に書いたものです。この1890年から1924年という『闇の奥』の外側の時間枠も注意に値します。まずエッセーから少し長い引用をします。
Once only did that enthusiasm expose me to the derision of my schoolboy chums. One day, putting my finger on a spot in the very middle of the then white heart of Africa, I declared that some day I would go there. My chums’ chaffing was perfectly justifiable. ……Yet it is a fact that, about eighteen years afterwards, a wretched little stern-wheel steamboat I commanded lay moored to the bank of an African river.
Everything was dark under the stars. Every other white man on board was asleep. I was glad to be alone on deck, smoking the pipe of peace after an anxious day. The subdued thundering mutter of the Stanley Falls hung in the heavy night air of the last navigable reach of the Upper Congo, …… , and I said to myself with awe, “This is the very spot of my boyish boast.”
A great melancholy descended on me. Yes, this was the very spot. But there was no shadowy friend to stand by my side in the night of the enormous wilderness, no great haunting memory, but only the unholy recollection of a prosaic newspaper “stunt” and the distasteful knowledge of the vilest scramble for loot that ever disfigured the history of human conscience and geographical exploitation. What an end to the idealized realities of a boy’s daydreams! I wondered what I was doing there, for indeed it was only an unforeseen episode, hard to believe in now, in my seaman’s life. Still, the fact remains that I have smoked a pipe of peace at midnight in the very heart of the African continent, and felt very lonely there.
注釈を少し。shadowy friend は schoolboy chum に対応していると思います。a prosaic newspaper “stunt” で stunt は「スタント、派手な行為」を意味し、R. Kimbrough はただ「Stanley and Livingston」と素っ気ない注を付けていますが、これはスタンリーがリビングストンをアフリカの奥地で発見したことを派手に報じた新聞記事ではなく、スタンリーが Emin Pasha という人物の“救助”に成功した時の新聞報道(1889年)を指していると私は考えます。
上の文章から、コンラッド少年の夢がそのままマーロウ少年の夢として小説に移されていることがわかります。マーロウはクルツの奥地出張所で植民地の富の収奪の凄まじさとその象徴としてのクルツの人間的醜悪の極限に直面して苦悩しますが、それはそのまま、コンゴ河遡行の終点の夜の闇でコンラッドが感得したことであったと、ここに書かれています。「人間の良心と地理学的開拓の歴史と汚してしまった最も非道卑劣な侵略争奪」の現実を知って、コンラッドは深い幻滅と孤独に沈みます。こののっぴきならぬ認識を生身のコンラッドがコンゴ河のどん詰りで得たかどうかに疑いを挟んだ批評家は、私の知る限り、少ないようですが、それではこの文章の読みが足らないのではありますまいか?
コンラッドのコンゴ体験の実際がどのようなものであったかに就いては、G. Jean-Aubry, Norman Sherry, Zdzislaw Najder などによって詳しく調べられています。その中心的資料はコンラッドの「コンゴ日記」とそれに連関した手紙です。研究結果によると、コンラッドが乗船した蒸気船「ベルギー王」は1890年9月1日にスタンリー・フォールズ(今のキサンガニ)に到着し、9月7日か8日には、帰途に着きコンゴ河を下り始めます。上りの航行の船長はコッホという25歳のデンマーク人でしたが、キサンガニに滞在中に病気になり、コッホが恢復する迄という条件付きで、9月6日付けで急にコンラッドが船長になり、その翌日か翌々日にはもう川下りが始まりました。ですから、引用原文に描かれているメランコリックな夜は6日か7日の夜だったことになります。9月15日には既にコッホが船長に戻っていたことが分かっていますから、コンラッドが船長だったのは僅か数日だったことになります.こうなると、「a wretched little stern-wheel steamboat I commanded … 」という文章には何か嘘めいた響きが出て来ます。実は、コンラッドがコンゴ河に浮かぶ蒸気船の船長に成るか成らないかに就いて、30余年後のコンラッドがこだわる理由、そして私もこだわる理由があるのです。
『闇の奥』にあるように、コンラッドはブリュッセル在住の叔母のコネに頼って会社の社長アルベール・ティースの面接を受け、就職しますが、蒸気船の船長になることはティースが叔母にした口約束で、期間3年の雇用契約書には書いてありませんでした。いざ現場に行ってみると、キンシャサの中央出張所の支配人カミュ・デルコミューンとコンラッドの関係がまずくなり、契約書にない口約束は無効ということで、コンラッドは、病気のコッホの代理として、ほんの数日だけ船長の座を与えられただけで、9月24日キンシャサに帰って来ました。しかし、その日に彼は叔母宛にこう書き送ります。「私はカサイ河に向かう探険交易の旅の準備に大わらわです。数日中にまたキンシャサを発って数ヶ月、もしかしたら、一年かそれ以上もの長旅にでることになりましょう。」カサイ河はコンゴ河の一支流です。今度こそ船長として出立するつもりだったに違いありません。コンラッドがあのスタンリー・フォールズの夜の後も、会社の仕事に乗り気であったことを手紙は示しています。ところが、その二日後に再び叔母宛に、コンラッドの生涯で最も重い後悔と怨念に満ちた手紙をしたためます。カサイ河遡航のプランが取り止めになった以外は何が起ったのかよく分からないままなのですが、とにかく、3年の契約に縛られて鬱々の日を過ごし、やがて激しい下痢におそわれて死に瀕し、コンゴを去ります。1891年1月末ブリュッセルに現われ、2月1日にはロンドンに帰着しました。その間のコンラッドの動向は殆ど知られていませんが、1890年11月29日付で、叔母がティース社長に苦情の手紙を送り、アフリカとアントワープ(ベルギーの主要海港)の間の海洋航路の船長の地位をコンラッドに与える事を頼んでいます。こうまでして、コンラッドが船長に成りたがったのは逼迫した懐具合、つまり、経済的な理由からでした。クルツをヨーロッパ文明の頽廃のシンボルと見立て、マーロウ/コンラッドの開眼をゴーギャン、ランボーのそれになぞらえる論者もいますが、身の振り方の潔さの点で全く比較になりません。前回(3月23日)に指摘したように、自分は、一人の成熟した人間として、私利私欲のためではなく、ただひたすらアフリカの荒野を目指してやってきたのだと言うマーロウは、他方では、『闇の奥』の話も終りに近づいてから、ヒーローのクルツについて「なかなか金回りが良くならないのにしびれを切らして、あんな所にまで行ってしまったのでは」(藤永197)と勘ぐります。コンラッドはここで自分のコンゴ行きをクルツに投影しているように思われます。思い出したくない30余年前のコンゴ体験の苦渋がコンラッドに嘘の筆を執らせたのでしょう。
定冠詞と最上級で措定された“the vilest scramble for loot”を知ったことがスタンリー・フォールズの夜の闇でコンラッドの心を苛んだように書いてありますが、これは真実ではありますまい。このコンゴ河遡行の終点に行き着くまでにコンラッドが見聞し経験した事がどんな内容であったかが問題です。それを知るための第一資料はコンラッドが道すがら記した二つのノートブックです。一つは“The Congo Diary”、もう一つは“Up-river Book” と呼ばれます。コンラッドは1890年6月13日にマタディに着き、6月28日にマタディを出発して陸路をたどり8月1日にキンシャサに着きます。この期間の日々のメモが「日記」の内容です。「上流手帳」の方は詳しい河の様子の技術的なメモばかりで、間もなく蒸気船の操舵を任されることを予期しての準備だったと思われます。コンラッドが乗った蒸気船「ベルギー王」は8月3日にキンシャサを発ち、9月1日に終点スタンリー・フォールズに着くのですが、不思議なことにメモは突然8月19日で途切れています。病気になったか、船長にしてやらぬと申し渡されたかのどちらかだ、という説がありますが、私にとって重要なのは、マタディとキンシャサの間の陸路とそれからの河の航路でコンラッドは結構前向きに交易会社の仕事を考えていたことがこれらの二つのノートブックから読み取れるということです。そうなると、定冠詞を付けた「最悪の侵略争奪」“the vilest scramble for loot”とは何を指すかを良く考えなければなりません。
ヨーロッパのアフリカ侵略争奪の歴史には「スクランブル・フォー・アフリカ」というキーワードがあります。1876年、ベルリンに集まったヨーロッパ諸国はアフリカの分割の相談をしてアフリカの分割争奪を始めます。ベルギー国王レオポルド二世の私的領土コンゴにコンラッドが行った1890年頃にはまだ最悪の事態には達していませんでしたが、彼がエッセーを書いた1924年にはレオポルドのコンゴ収奪の凄まじさは広く世に知られていました。定冠詞付きの“the vilest scramble for loot”とはレオポルドの悪業を指したものだと私は考えます。この断定は、『闇の奥』の解釈として、決して軽いものではありません。この小説をイギリスの植民地経営を含む帝国主義一般の糺弾として受け取るか、それとも、レオポルド二世の最も忌むべき悪業の弾劾であり、イギリスの植民地経営の批判は含まないとするか、これは、『闇の奥』の解釈の中心的問題の一つで、今後に詳しく検討するつもりです。ただ、上に引用した原文が、1890年9月6日(または7日)の夜、スタンリー・フォールズでのコンラッドの想念だったというのは「コンラッドの嘘」であり、1924年の時点でのあと智慧であったと思います。
この「あと智慧」であったという見方は私のオリジナルではありません。ゲラード(Albert J. Guerard)の『Conrad the Novelist』は中野好夫訳『闇の奥』が出版された1958年に発表された古いコンラッド論ですが、いまだに見るべき名著とされています。その中に次の文章があります。
Thus the adventurous Conrad and Conrad the moralist may have experienced collision. But the collision, again as with so many novelists of the second war, could well have been deferred and retrospective, not felt intensely at the time.
藤永 茂
しかし、私には前回(3月23日)のブログの終りで言及した「コンラッドの嘘」の問題の方が面白いように思われます。「コンラッドの嘘」は彼の「コンゴ日記」と「最後のエッセー」(Last Essays)の中の「地理学と探検家たち」を組み合わせて考えてみると読み取れます。「コンゴ日記」は1890年に、エッセーの方は1924年に書いたものです。この1890年から1924年という『闇の奥』の外側の時間枠も注意に値します。まずエッセーから少し長い引用をします。
Once only did that enthusiasm expose me to the derision of my schoolboy chums. One day, putting my finger on a spot in the very middle of the then white heart of Africa, I declared that some day I would go there. My chums’ chaffing was perfectly justifiable. ……Yet it is a fact that, about eighteen years afterwards, a wretched little stern-wheel steamboat I commanded lay moored to the bank of an African river.
Everything was dark under the stars. Every other white man on board was asleep. I was glad to be alone on deck, smoking the pipe of peace after an anxious day. The subdued thundering mutter of the Stanley Falls hung in the heavy night air of the last navigable reach of the Upper Congo, …… , and I said to myself with awe, “This is the very spot of my boyish boast.”
A great melancholy descended on me. Yes, this was the very spot. But there was no shadowy friend to stand by my side in the night of the enormous wilderness, no great haunting memory, but only the unholy recollection of a prosaic newspaper “stunt” and the distasteful knowledge of the vilest scramble for loot that ever disfigured the history of human conscience and geographical exploitation. What an end to the idealized realities of a boy’s daydreams! I wondered what I was doing there, for indeed it was only an unforeseen episode, hard to believe in now, in my seaman’s life. Still, the fact remains that I have smoked a pipe of peace at midnight in the very heart of the African continent, and felt very lonely there.
注釈を少し。shadowy friend は schoolboy chum に対応していると思います。a prosaic newspaper “stunt” で stunt は「スタント、派手な行為」を意味し、R. Kimbrough はただ「Stanley and Livingston」と素っ気ない注を付けていますが、これはスタンリーがリビングストンをアフリカの奥地で発見したことを派手に報じた新聞記事ではなく、スタンリーが Emin Pasha という人物の“救助”に成功した時の新聞報道(1889年)を指していると私は考えます。
上の文章から、コンラッド少年の夢がそのままマーロウ少年の夢として小説に移されていることがわかります。マーロウはクルツの奥地出張所で植民地の富の収奪の凄まじさとその象徴としてのクルツの人間的醜悪の極限に直面して苦悩しますが、それはそのまま、コンゴ河遡行の終点の夜の闇でコンラッドが感得したことであったと、ここに書かれています。「人間の良心と地理学的開拓の歴史と汚してしまった最も非道卑劣な侵略争奪」の現実を知って、コンラッドは深い幻滅と孤独に沈みます。こののっぴきならぬ認識を生身のコンラッドがコンゴ河のどん詰りで得たかどうかに疑いを挟んだ批評家は、私の知る限り、少ないようですが、それではこの文章の読みが足らないのではありますまいか?
コンラッドのコンゴ体験の実際がどのようなものであったかに就いては、G. Jean-Aubry, Norman Sherry, Zdzislaw Najder などによって詳しく調べられています。その中心的資料はコンラッドの「コンゴ日記」とそれに連関した手紙です。研究結果によると、コンラッドが乗船した蒸気船「ベルギー王」は1890年9月1日にスタンリー・フォールズ(今のキサンガニ)に到着し、9月7日か8日には、帰途に着きコンゴ河を下り始めます。上りの航行の船長はコッホという25歳のデンマーク人でしたが、キサンガニに滞在中に病気になり、コッホが恢復する迄という条件付きで、9月6日付けで急にコンラッドが船長になり、その翌日か翌々日にはもう川下りが始まりました。ですから、引用原文に描かれているメランコリックな夜は6日か7日の夜だったことになります。9月15日には既にコッホが船長に戻っていたことが分かっていますから、コンラッドが船長だったのは僅か数日だったことになります.こうなると、「a wretched little stern-wheel steamboat I commanded … 」という文章には何か嘘めいた響きが出て来ます。実は、コンラッドがコンゴ河に浮かぶ蒸気船の船長に成るか成らないかに就いて、30余年後のコンラッドがこだわる理由、そして私もこだわる理由があるのです。
『闇の奥』にあるように、コンラッドはブリュッセル在住の叔母のコネに頼って会社の社長アルベール・ティースの面接を受け、就職しますが、蒸気船の船長になることはティースが叔母にした口約束で、期間3年の雇用契約書には書いてありませんでした。いざ現場に行ってみると、キンシャサの中央出張所の支配人カミュ・デルコミューンとコンラッドの関係がまずくなり、契約書にない口約束は無効ということで、コンラッドは、病気のコッホの代理として、ほんの数日だけ船長の座を与えられただけで、9月24日キンシャサに帰って来ました。しかし、その日に彼は叔母宛にこう書き送ります。「私はカサイ河に向かう探険交易の旅の準備に大わらわです。数日中にまたキンシャサを発って数ヶ月、もしかしたら、一年かそれ以上もの長旅にでることになりましょう。」カサイ河はコンゴ河の一支流です。今度こそ船長として出立するつもりだったに違いありません。コンラッドがあのスタンリー・フォールズの夜の後も、会社の仕事に乗り気であったことを手紙は示しています。ところが、その二日後に再び叔母宛に、コンラッドの生涯で最も重い後悔と怨念に満ちた手紙をしたためます。カサイ河遡航のプランが取り止めになった以外は何が起ったのかよく分からないままなのですが、とにかく、3年の契約に縛られて鬱々の日を過ごし、やがて激しい下痢におそわれて死に瀕し、コンゴを去ります。1891年1月末ブリュッセルに現われ、2月1日にはロンドンに帰着しました。その間のコンラッドの動向は殆ど知られていませんが、1890年11月29日付で、叔母がティース社長に苦情の手紙を送り、アフリカとアントワープ(ベルギーの主要海港)の間の海洋航路の船長の地位をコンラッドに与える事を頼んでいます。こうまでして、コンラッドが船長に成りたがったのは逼迫した懐具合、つまり、経済的な理由からでした。クルツをヨーロッパ文明の頽廃のシンボルと見立て、マーロウ/コンラッドの開眼をゴーギャン、ランボーのそれになぞらえる論者もいますが、身の振り方の潔さの点で全く比較になりません。前回(3月23日)に指摘したように、自分は、一人の成熟した人間として、私利私欲のためではなく、ただひたすらアフリカの荒野を目指してやってきたのだと言うマーロウは、他方では、『闇の奥』の話も終りに近づいてから、ヒーローのクルツについて「なかなか金回りが良くならないのにしびれを切らして、あんな所にまで行ってしまったのでは」(藤永197)と勘ぐります。コンラッドはここで自分のコンゴ行きをクルツに投影しているように思われます。思い出したくない30余年前のコンゴ体験の苦渋がコンラッドに嘘の筆を執らせたのでしょう。
定冠詞と最上級で措定された“the vilest scramble for loot”を知ったことがスタンリー・フォールズの夜の闇でコンラッドの心を苛んだように書いてありますが、これは真実ではありますまい。このコンゴ河遡行の終点に行き着くまでにコンラッドが見聞し経験した事がどんな内容であったかが問題です。それを知るための第一資料はコンラッドが道すがら記した二つのノートブックです。一つは“The Congo Diary”、もう一つは“Up-river Book” と呼ばれます。コンラッドは1890年6月13日にマタディに着き、6月28日にマタディを出発して陸路をたどり8月1日にキンシャサに着きます。この期間の日々のメモが「日記」の内容です。「上流手帳」の方は詳しい河の様子の技術的なメモばかりで、間もなく蒸気船の操舵を任されることを予期しての準備だったと思われます。コンラッドが乗った蒸気船「ベルギー王」は8月3日にキンシャサを発ち、9月1日に終点スタンリー・フォールズに着くのですが、不思議なことにメモは突然8月19日で途切れています。病気になったか、船長にしてやらぬと申し渡されたかのどちらかだ、という説がありますが、私にとって重要なのは、マタディとキンシャサの間の陸路とそれからの河の航路でコンラッドは結構前向きに交易会社の仕事を考えていたことがこれらの二つのノートブックから読み取れるということです。そうなると、定冠詞を付けた「最悪の侵略争奪」“the vilest scramble for loot”とは何を指すかを良く考えなければなりません。
ヨーロッパのアフリカ侵略争奪の歴史には「スクランブル・フォー・アフリカ」というキーワードがあります。1876年、ベルリンに集まったヨーロッパ諸国はアフリカの分割の相談をしてアフリカの分割争奪を始めます。ベルギー国王レオポルド二世の私的領土コンゴにコンラッドが行った1890年頃にはまだ最悪の事態には達していませんでしたが、彼がエッセーを書いた1924年にはレオポルドのコンゴ収奪の凄まじさは広く世に知られていました。定冠詞付きの“the vilest scramble for loot”とはレオポルドの悪業を指したものだと私は考えます。この断定は、『闇の奥』の解釈として、決して軽いものではありません。この小説をイギリスの植民地経営を含む帝国主義一般の糺弾として受け取るか、それとも、レオポルド二世の最も忌むべき悪業の弾劾であり、イギリスの植民地経営の批判は含まないとするか、これは、『闇の奥』の解釈の中心的問題の一つで、今後に詳しく検討するつもりです。ただ、上に引用した原文が、1890年9月6日(または7日)の夜、スタンリー・フォールズでのコンラッドの想念だったというのは「コンラッドの嘘」であり、1924年の時点でのあと智慧であったと思います。
この「あと智慧」であったという見方は私のオリジナルではありません。ゲラード(Albert J. Guerard)の『Conrad the Novelist』は中野好夫訳『闇の奥』が出版された1958年に発表された古いコンラッド論ですが、いまだに見るべき名著とされています。その中に次の文章があります。
Thus the adventurous Conrad and Conrad the moralist may have experienced collision. But the collision, again as with so many novelists of the second war, could well have been deferred and retrospective, not felt intensely at the time.
藤永 茂