私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

コンラッドの嘘

2006-03-29 19:17:38 | 日記・エッセイ・コラム
 『闇の奥』のマーロウはコンゴ河を遡る前に「君らも知ってのとおり、僕は嘘が大嫌い、何とも我慢がならない。それも、他の人間よりも真っ当で正直だからじゃなく、ただ、嘘というものが僕をぞっとさせるからなのだ。嘘には死の汚れ、免れられない死の匂いのようなものがある?そして、それこそが、まさにこの世で僕が憎み、忌み嫌う?何とかして忘れたいと願うものなんだ」(藤永73)と言って置きながら、コンゴから帰ってクルツの婚約者に会うと、クルツの最後の叫びが「地獄だ!地獄だ!」だったと正直に彼女に告げかねて、「彼の口にのぼった最後の言葉は?あなたのお名前でした」(藤永202)と大きな嘘をついてしまいます。これが『闇の奥』の解釈論でしばしば取り上げられる「マーロウの嘘」の問題です。解釈の主流は、マーロウの嘘には赤裸裸の真実より高い真理が含まれている、と言った工合のマーロウ弁護論のようで、コンゴ体験でマーロウが人間的に前より偉くなって帰って来たことにしたいという気持から出ているのだと思います。
 しかし、私には前回(3月23日)のブログの終りで言及した「コンラッドの嘘」の問題の方が面白いように思われます。「コンラッドの嘘」は彼の「コンゴ日記」と「最後のエッセー」(Last Essays)の中の「地理学と探検家たち」を組み合わせて考えてみると読み取れます。「コンゴ日記」は1890年に、エッセーの方は1924年に書いたものです。この1890年から1924年という『闇の奥』の外側の時間枠も注意に値します。まずエッセーから少し長い引用をします。
 Once only did that enthusiasm expose me to the derision of my schoolboy chums. One day, putting my finger on a spot in the very middle of the then white heart of Africa, I declared that some day I would go there. My chums’ chaffing was perfectly justifiable. ……Yet it is a fact that, about eighteen years afterwards, a wretched little stern-wheel steamboat I commanded lay moored to the bank of an African river.
Everything was dark under the stars. Every other white man on board was asleep. I was glad to be alone on deck, smoking the pipe of peace after an anxious day. The subdued thundering mutter of the Stanley Falls hung in the heavy night air of the last navigable reach of the Upper Congo, …… , and I said to myself with awe, “This is the very spot of my boyish boast.”
A great melancholy descended on me. Yes, this was the very spot. But there was no shadowy friend to stand by my side in the night of the enormous wilderness, no great haunting memory, but only the unholy recollection of a prosaic newspaper “stunt” and the distasteful knowledge of the vilest scramble for loot that ever disfigured the history of human conscience and geographical exploitation. What an end to the idealized realities of a boy’s daydreams! I wondered what I was doing there, for indeed it was only an unforeseen episode, hard to believe in now, in my seaman’s life. Still, the fact remains that I have smoked a pipe of peace at midnight in the very heart of the African continent, and felt very lonely there.
注釈を少し。shadowy friend は schoolboy chum に対応していると思います。a prosaic newspaper “stunt” で stunt は「スタント、派手な行為」を意味し、R. Kimbrough はただ「Stanley and Livingston」と素っ気ない注を付けていますが、これはスタンリーがリビングストンをアフリカの奥地で発見したことを派手に報じた新聞記事ではなく、スタンリーが Emin Pasha という人物の“救助”に成功した時の新聞報道(1889年)を指していると私は考えます。
 上の文章から、コンラッド少年の夢がそのままマーロウ少年の夢として小説に移されていることがわかります。マーロウはクルツの奥地出張所で植民地の富の収奪の凄まじさとその象徴としてのクルツの人間的醜悪の極限に直面して苦悩しますが、それはそのまま、コンゴ河遡行の終点の夜の闇でコンラッドが感得したことであったと、ここに書かれています。「人間の良心と地理学的開拓の歴史と汚してしまった最も非道卑劣な侵略争奪」の現実を知って、コンラッドは深い幻滅と孤独に沈みます。こののっぴきならぬ認識を生身のコンラッドがコンゴ河のどん詰りで得たかどうかに疑いを挟んだ批評家は、私の知る限り、少ないようですが、それではこの文章の読みが足らないのではありますまいか?
 コンラッドのコンゴ体験の実際がどのようなものであったかに就いては、G. Jean-Aubry, Norman Sherry, Zdzislaw Najder などによって詳しく調べられています。その中心的資料はコンラッドの「コンゴ日記」とそれに連関した手紙です。研究結果によると、コンラッドが乗船した蒸気船「ベルギー王」は1890年9月1日にスタンリー・フォールズ(今のキサンガニ)に到着し、9月7日か8日には、帰途に着きコンゴ河を下り始めます。上りの航行の船長はコッホという25歳のデンマーク人でしたが、キサンガニに滞在中に病気になり、コッホが恢復する迄という条件付きで、9月6日付けで急にコンラッドが船長になり、その翌日か翌々日にはもう川下りが始まりました。ですから、引用原文に描かれているメランコリックな夜は6日か7日の夜だったことになります。9月15日には既にコッホが船長に戻っていたことが分かっていますから、コンラッドが船長だったのは僅か数日だったことになります.こうなると、「a wretched little stern-wheel steamboat I commanded … 」という文章には何か嘘めいた響きが出て来ます。実は、コンラッドがコンゴ河に浮かぶ蒸気船の船長に成るか成らないかに就いて、30余年後のコンラッドがこだわる理由、そして私もこだわる理由があるのです。
『闇の奥』にあるように、コンラッドはブリュッセル在住の叔母のコネに頼って会社の社長アルベール・ティースの面接を受け、就職しますが、蒸気船の船長になることはティースが叔母にした口約束で、期間3年の雇用契約書には書いてありませんでした。いざ現場に行ってみると、キンシャサの中央出張所の支配人カミュ・デルコミューンとコンラッドの関係がまずくなり、契約書にない口約束は無効ということで、コンラッドは、病気のコッホの代理として、ほんの数日だけ船長の座を与えられただけで、9月24日キンシャサに帰って来ました。しかし、その日に彼は叔母宛にこう書き送ります。「私はカサイ河に向かう探険交易の旅の準備に大わらわです。数日中にまたキンシャサを発って数ヶ月、もしかしたら、一年かそれ以上もの長旅にでることになりましょう。」カサイ河はコンゴ河の一支流です。今度こそ船長として出立するつもりだったに違いありません。コンラッドがあのスタンリー・フォールズの夜の後も、会社の仕事に乗り気であったことを手紙は示しています。ところが、その二日後に再び叔母宛に、コンラッドの生涯で最も重い後悔と怨念に満ちた手紙をしたためます。カサイ河遡航のプランが取り止めになった以外は何が起ったのかよく分からないままなのですが、とにかく、3年の契約に縛られて鬱々の日を過ごし、やがて激しい下痢におそわれて死に瀕し、コンゴを去ります。1891年1月末ブリュッセルに現われ、2月1日にはロンドンに帰着しました。その間のコンラッドの動向は殆ど知られていませんが、1890年11月29日付で、叔母がティース社長に苦情の手紙を送り、アフリカとアントワープ(ベルギーの主要海港)の間の海洋航路の船長の地位をコンラッドに与える事を頼んでいます。こうまでして、コンラッドが船長に成りたがったのは逼迫した懐具合、つまり、経済的な理由からでした。クルツをヨーロッパ文明の頽廃のシンボルと見立て、マーロウ/コンラッドの開眼をゴーギャン、ランボーのそれになぞらえる論者もいますが、身の振り方の潔さの点で全く比較になりません。前回(3月23日)に指摘したように、自分は、一人の成熟した人間として、私利私欲のためではなく、ただひたすらアフリカの荒野を目指してやってきたのだと言うマーロウは、他方では、『闇の奥』の話も終りに近づいてから、ヒーローのクルツについて「なかなか金回りが良くならないのにしびれを切らして、あんな所にまで行ってしまったのでは」(藤永197)と勘ぐります。コンラッドはここで自分のコンゴ行きをクルツに投影しているように思われます。思い出したくない30余年前のコンゴ体験の苦渋がコンラッドに嘘の筆を執らせたのでしょう。
 定冠詞と最上級で措定された“the vilest scramble for loot”を知ったことがスタンリー・フォールズの夜の闇でコンラッドの心を苛んだように書いてありますが、これは真実ではありますまい。このコンゴ河遡行の終点に行き着くまでにコンラッドが見聞し経験した事がどんな内容であったかが問題です。それを知るための第一資料はコンラッドが道すがら記した二つのノートブックです。一つは“The Congo Diary”、もう一つは“Up-river Book” と呼ばれます。コンラッドは1890年6月13日にマタディに着き、6月28日にマタディを出発して陸路をたどり8月1日にキンシャサに着きます。この期間の日々のメモが「日記」の内容です。「上流手帳」の方は詳しい河の様子の技術的なメモばかりで、間もなく蒸気船の操舵を任されることを予期しての準備だったと思われます。コンラッドが乗った蒸気船「ベルギー王」は8月3日にキンシャサを発ち、9月1日に終点スタンリー・フォールズに着くのですが、不思議なことにメモは突然8月19日で途切れています。病気になったか、船長にしてやらぬと申し渡されたかのどちらかだ、という説がありますが、私にとって重要なのは、マタディとキンシャサの間の陸路とそれからの河の航路でコンラッドは結構前向きに交易会社の仕事を考えていたことがこれらの二つのノートブックから読み取れるということです。そうなると、定冠詞を付けた「最悪の侵略争奪」“the vilest scramble for loot”とは何を指すかを良く考えなければなりません。
 ヨーロッパのアフリカ侵略争奪の歴史には「スクランブル・フォー・アフリカ」というキーワードがあります。1876年、ベルリンに集まったヨーロッパ諸国はアフリカの分割の相談をしてアフリカの分割争奪を始めます。ベルギー国王レオポルド二世の私的領土コンゴにコンラッドが行った1890年頃にはまだ最悪の事態には達していませんでしたが、彼がエッセーを書いた1924年にはレオポルドのコンゴ収奪の凄まじさは広く世に知られていました。定冠詞付きの“the vilest scramble for loot”とはレオポルドの悪業を指したものだと私は考えます。この断定は、『闇の奥』の解釈として、決して軽いものではありません。この小説をイギリスの植民地経営を含む帝国主義一般の糺弾として受け取るか、それとも、レオポルド二世の最も忌むべき悪業の弾劾であり、イギリスの植民地経営の批判は含まないとするか、これは、『闇の奥』の解釈の中心的問題の一つで、今後に詳しく検討するつもりです。ただ、上に引用した原文が、1890年9月6日(または7日)の夜、スタンリー・フォールズでのコンラッドの想念だったというのは「コンラッドの嘘」であり、1924年の時点でのあと智慧であったと思います。
 この「あと智慧」であったという見方は私のオリジナルではありません。ゲラード(Albert J. Guerard)の『Conrad the Novelist』は中野好夫訳『闇の奥』が出版された1958年に発表された古いコンラッド論ですが、いまだに見るべき名著とされています。その中に次の文章があります。
Thus the adventurous Conrad and Conrad the moralist may have experienced collision. But the collision, again as with so many novelists of the second war, could well have been deferred and retrospective, not felt intensely at the time.
藤永 茂 




『闇の奥』と『地獄の黙示録』(1)

2006-03-23 14:28:32 | 日記・エッセイ・コラム
 コンラッドの小説『闇の奥』を読んだ後でコッポラの映画『地獄の黙示録』を見る人、あるいは、映画を見てから『闇の奥』を読んでみる人の数は余り大きいとは思いませんが、ジャンルの違うこの二つの芸術作品を並べてよく考えてみると色々得る所があります。
 『地獄の黙示録』を『闇の奥』の一つの解釈(interpretation)と看做す立場からの映画評論が数多く発表されています。しかし逆の照射、つまり、映画の出来具合の考察から原作の『闇の奥』に光を当てることも可能です。小説のクルツ(Kurtz)から映画のカーツ(Kurtz)大佐が照射され、逆に、カーツの性格付けにコッポラが手を焼いた事実がコンラッドのクルツの本質的な曖昧さに光を当てることにもなります。このクルツ/カーツの問題はこの二つの芸術作品の意味の根幹に関わる大問題ですので、今後、何度も取り上げることになると思いますが、同じような相互関係は小説のマーロウと映画のウィラードの間にも認めることが出来ます。
 Wallace Watson (Conradiana, 13 (1981)) はマーロウに較べて語り手としてのウィラードは失敗だと言います。マーロウは冒険を夢見る少年の心と大人としての判断力を持った男として旅立ちますが、コンゴの闇の奥でクルツと出会い、地獄(horror)と対決し、すっかり成長した人間として帰って来ます。ところが、ウィラードの方は始めから恐怖(horror)を既に見てしまった男として登場します。ベトナム戦争に私生活、結婚を破壊され、サイゴンの一室でウイスキーをあおり、自傷すら試みる男です。ウィラードがカーツ暗殺の命令を受けてメコン河を遡るのは、一人の破綻した男がもう一人の破綻した男を殺しに行くようなものです。『地獄の黙示録』のストーリーが心理劇として盛り上がらず、エンディングがもたついてしまったのも当然だ、というわけです。
 しかし、『地獄の黙示録』でのウィラードの造形的な失敗が『闇の奥』のマーロウの出来映え(credibility)を逆照射することもあり得ます。マーロウが文学的に精緻に造形されているとは私には思えません。「コンゴ体験の前と後でマーロウはどう変わったか?」これが問題です。このブログの前回(3月15日)で指摘した通り、アフリカのイギリス植民地経営だけは是認する点でマーロウの考えは変わっていない?これは大変重要なポイントです。マーロウがコンゴに行きたくなった理由には多分に少年のようなナイーブさがあったように描かれていますが、その一方、自分を雇ってくれた会社については十分醒めた認識を始めから持っています。「一種の海外帝国のようなものを運営していて、貿易で際限なく儲かる荒稼ぎに乗り出していたのだ。」(藤永29)。また出発を前に訪れた叔母が「無知蒙昧な数百万の原住民を今のひどい生き方から抜け出させなければ」(藤永36)と言うのに対して「会社は儲けを追いかけているだけですよ」とマーロウはほのめかします。クルツを知った後に、自分のことを「未開でも発育不全でもなければ、私利私欲で汚されてもいない一つの魂」(藤永134)といささか安っぽく持ち上げ、「僕は、本当は、荒野を志向してやって来たのであり、クルツに惹かれてやって来たのではなかった」(藤永164)と言います。ですから、マーロウはコンゴの原始の自然に惹かれ、それに達する手段として、交易で荒稼ぎしている不吉な匂いのする会社に進んで雇われたことになります。その彼がクルツにおいて見たものが、人間の恐るべき本質であったか、あるいは、ヨーロッパ植民地主義、帝国主義の本質であったか、これは大いに議論の分かれる所であり、これからも繰り返し論ずることになると思います。今ここで私が問題としているのは、深刻なコンゴ体験の前と後でマーロウが人間としてどう変貌したかということであり、上に述べた通り、イギリス帝国主義を肯定的に考える点でマーロウは変わらなかったというのが、私の主張です。私のように『闇の奥』を読むと、マーロウの変貌はクルツとvis-à-visのものであるに過ぎず、これはウィラードの心理的揺動がベトナム戦ではなくカーツとvis-à-visのものであったのと同じになります。
 『闇の奥』を書いた小説家コンラッドの基本的な困難は、現実の彼がコンゴ河の蒸気船の船長になろうとした動機なり目的なりが小説の語り手マーロウのように純粋なものでは全然なかったという所にあります。コンラッドはその大きな隔たりを絶えず意識しながら『闇の奥』を書いた筈です。自分が嘘をついているという意識が絶えず伴ったに違いありません。小説はフィクションであり、真っ赤な嘘であっても構わないことは言うまでもありません。評論の対象はテクストであり、それのみである、とする文学理論の声も聞こえます。しかし、私にとって、コンラッドは大変興味深い作家ですので、この「コンラッドの嘘」の問題をほじくらずには居られません。次回にそれを取り上げます。
藤永 茂



コンラッドの「闇の奥」の時間の内と外

2006-03-15 19:58:14 | 日記・エッセイ・コラム
 この小説の内側には二つの時間枠、時の流れがあります。テムズ河の河口に鎖を下ろしている小型帆船ネリー号の上で船乗りマーロウがコンゴ河での深刻な体験談を四人の友人に物語る形でこの小説は展開します。まず、第一人称無名の話者がテムズ河について語り、マーロウを紹介し、彼の話に熱心に聞き入って、時おり、コメントをはさみ、最後にはこの小説を締めくくります。満ち潮から引き潮の始まりまで?これが第一の時間の枠です。マーロウは回想を語るのですから、もちろん、それ自体の時間の枠、時の流れがあります。その時の流れ方は決して一本調子ではなく、行きつ戻りつの進み方で、小説技法的な工夫が見られ、コンラッドとしては、読み物としてのミステリー的なサスペンスを狙ったのでしょう。こちらの時間枠は数ヶ月のスパンを持っています。
 この小説の時間構造の上で強調したいのは、ネリー号の上で語り始めるマーロウはコンゴの闇の奥で精神的変貌をとげて帰って来た男だということ、つまり、語り始める時点で、マーロウはコンゴ経験以前とは別の人間になっていた筈だということです。地獄の奥を覗き、真理を掴み、そして生還を果たした男です。無名の話者がマーロウを二度も仏陀にたとえたのは、物語る船乗りマーロウが聞き手の四人には見えていなかった重要な真実を悟ったあとの人間であることを示唆するためと思われます。
 カナダやアメリカの大学生の間で人気の高い「クリフスノート」(CliffsNotes)という学習ガイド本のシリーズがあります。その「闇の奥」版には、マーロウの話を聞く前と聞いた後では、第一人称無名のナレーターのヨーロッパの帝国主義についての考え方がすっかり変わってしまったとする見解が述べられています:
The Director of Companies remains aloof, since his living is made presumably by the same horrific processes that Marlow has just described. Only the narrator ? and the reader ? understand Marlow’s initial point: “Civilized” Europe was once also a “dark place,” and it has only become more morally dark through the activities of institutions such as the Company.
コンラッドの小説「闇の奥」がヨーロッパ(イギリスを含む)の帝国主義、植民地主義を仮借なく告発した文学作品だとする見解が多くの人々によって表明されています。「クリフスノート」もその一例です。しかし私はこの見解に同意しません。その理由を説明するために、マーロウの語りの始まりの部分から二個所ほど引用します。大昔テムズ河のあたりに侵入してきたローマ人たちが荒野の中で経験したであろう精神的荒廃を語った後、マーロウはこう言います:「僕たちなら誰も、そっくりこんな風には感じないだろうよ。僕らを救ってくれるのは能率?能率よく仕事を果たすことへの献身だ。しかし、大昔、ここに乗り込んできた連中はあまり大した奴ではなかった。植民地開拓者ではなかったのだ。思うに、彼らのやり方はただ搾取するばかりで、それ以上の何ものでもなかった。」(藤永21) 次に、ヨーロッパの國ごとに植民地を色分けしたアフリカの地図についてマーロウはこう言います:「赤の所が広く仰山あって?これはいつ見ても気持のいいものだ?そこではしっかりした事業が行われていると分かっているからね。」(藤永30) この赤色の部分は英国植民地を意味しています。くどいようですが、これは「今」の時点でのマーロウの感想であって、コンゴ行きの前に彼がブリュッセルの会社でアフリカの色分け地図を見た時の感想を思い出して語っているのではありません。例えそうだとだとしても、以前も今も同じ感想を持っていることになります。上の二つの引用文は、今からネリー号上で彼の魂を揺るがした恐怖の体験を四人の聞き手に語ろうとしているマーロウが、依然として英国の植民地経営の是認者であることを明らかに示しています。このマーロウを「He did not learn anything.」と皮肉った批評家もいます。
 マーロウのナラティブの時の流れの中で、解釈上の問題をはらむ時点の例をもう一つ。中央出張所のメフィスト君が持っている小さな油絵をクルツが描いた時点です。それは奥地に向かう船の便を待っている間に描いたことになっていて、当時のクルツは未だ「慈善と科学と進歩」の使者としての使命感に燃えていた筈です。その絵のことをマーロウは「女性の絵で、ゆるい布を身にまとい、目隠しをされて、手にはたいまつを掲げていた。背景は暗く?ほとんど黒に近かった。女性の身振りはなかなか堂々としていて、その顔に映えるたいまつの効果はいやに不気味だった」(藤永68) と如何にも何か象徴的な絵として語ります。この意味ありげな象徴性に飛び付いて色々な議論が行われて来ましたが、これが描かれた時点を考えると、あまりにも深読みが過ぎるように、私には、思われます。
 小説の内側の時間だけではなく、その外側の時間の経過も見逃さないようにしたいものです。「闇の奥」はまずブラックウッズ・マガジンという月刊雑誌に1899年の2、3、4月と三回に分けて連載されましたが、コンラッドは全体を書き上げてから出版元に送ったのではなく、結局4万字ほどになると考えていた原稿の始めの三分の一を先ず送って同時に稿料支払いを請求しています。この時点でクルツの性格付けはまだ十分になされておらず、残る部分を書き進むうちにコンラッドの考えが変わってしまったとも考えられます。この半年足らずの時間枠を内に含めて、コンラッドのコンゴ行き(1890年)から「闇の奥」が他の二つの作品と組みにして単行本として出版された1902年までの約十年間という時間枠も注目に値します。



ノン・ポレミシスト宣言

2006-03-08 09:06:48 | 日記・エッセイ・コラム
ミシェル・フーコーは、エイズで亡くなる直前に、カリフォルニアでポール・ラビノウと話をして「私はポレミックがきらいで、今までポレミシストであったことはない。ポレミシストは自分の考えを変えるつもりはなく、意見の違う相手を何としてでもねじ伏せようとする。敵に勝つのが目的なのだ。私が議論にたずさわるのは、それを通じて少しでもより真なるものに近づきたいからだ」という意味のことを言っています。(Paul Rabinow, ed. The Foucault Reader, 1984)フーコーがこんな事を言うと意外に思った私はこの哲学者のことがよく分かっていなかったのだと言えましょう。
コンラッドの「闇の奥」を鋭く批判したアチェベの発言について、コンラッドを “one of us” と考える人たちは、アチェベは「闇の奥」を読み間違えたということで意見が一致したようです。この容易には読み解けない小説も、正しく読めば、コンラッドが時代を先取りした反植民地、反帝国、反人種偏見主義者だったことが分かるというものです。アングロ・サクソン白人ではなくてもこの読み方を支持する人もいます。しかし、私は別の読み方に傾きます。それはカナダでの40年間の生活経験に基づいています。その間、私が本当に “one of them” として扱われたことは一度もありません。これは、親しいアングロ・サクソンの友人があるかどうかとは全く別の問題です。彼らの人種的優越感、差別感というものは、それは、それは、深いものなのです。会田雄次さんが「アーロン収容所」の2年間で垣間見たものを,私は40年をかけて見据えたわけです。ナイポールの側に身を擦り寄せるか、アチェベと感じ方を共有するかの問題です。しかし、勿論、アチェベとも違う筈です。私には、日本人としての、日本という国の過去を背負った姿勢があり、またそうでなければなりません。フーコーのいうノン・ポレミシストとして、私は「闇の奥」とその奥をゆっくりと読み解いて行きたいと考えます。

藤永 茂



エリオットもアチェベも勘違いした(2)

2006-03-01 10:01:43 | 日記・エッセイ・コラム
★これから先、小説「闇の奥」の中の個所を示すのに、例えば、(藤永123)といった表示を使います。(藤永茂訳の123頁)を意味します。

 コンラッドが仏語/英語の問題を大いに意識しながら「闇の奥」の筆を進めたのは明らかです。まずブリュッセルの会社でマーロウが面接を受ける場面(藤永30)で、社長がマーロウのフランス語に満足を示し、フランス語で「行ってらっしゃい」と言います。この会社で働く者はフランス語を話さなければ勤まらないのです。(藤永34)では会社の医者が「あんたは、わたしの観察資料としては、はじめてのイギリス人・・・」とマーロウに言いますが、医者自身は英語に不慣れのようです。(藤永41~42)にはボーマで会ったスエーデン人が素晴らしく正確な英語を使ったとわざわざ断っています。(藤永56)にはマーロウが黒人の運搬人夫たちにジェスチャーたっぷりの英語の演説をしたとありますが、これは、コンラッドの「コンゴ日記」の1890年7月30日の記事に、黒人のポーターを集合させて話をしたが彼らは理解しなかった、とあるのに対応しています。前に述べた理由からコンラッドはフランス語で喋ったものと思われます。この次に英語が問題になるのは(藤永131)です。クルツがマーロウに驚くべき確信を与えたのはクルツが英語で話が出来たからだといいます。「闇の奥」の中で英語が使われたことがはっきり示されているのは以上に尽きます。今からは、英語が使われたかもしれない場面を拾って検討してみます。クルツは教育の一部をイギリスで受けた(藤永132)のですから英語が話せたわけですが、彼はブリュッセルの人間ですしブリュッセルの会社の社員ですから、使用言語はフランス語です。実際、コンラッドの親友であったフォード(F.M.Ford)によると、コンラッドもフォードもクルツはフランス語を喋っていたものとしていて、有名なクルツの最後の言葉「地獄だ!地獄だ!」も、はじめは、フランス語の「L’horreur! L’horreur!」としようとしたといいます。英語に移された「The horror! The horror!」をエリオットが彼の力作の長詩「荒地」の題詞に付けようとしてパウンドに止められた話は有名ですが、この言葉をマーロウに英語で残した遺言のように考えるのには無理があります。(藤永181~2)を読んでみると、死んで行くクルツはマーロウなど意識していません。フランス語で発した「ただの呼気のような、声にもならない叫び」だったのです。続いて「Mistah Kurts ? he, dead」(藤永183)を考えましょう。これは、支配人と白人の部下(巡礼たち)、それにマーロウが夕食を取っている船の食堂の戸口に顔を出した支配人付きの黒人ボーイがクルツの死を白人たちに告げる言葉です。白人たちの言葉がフランス語であってみれば、ボーイが英語を使う筈はありません。(藤永61)を見ると、このボーイは大陸沿岸の出身ですから、フランス語も英語も身につけた可能性はゼロではないかも知れませんが、彼の主人、つまり、中央出張所の支配人には、実は、はっきりしたモデルがあります。デルコミューンという名の男で、コンラッドがブリュッセルの叔母に送った手紙に「彼はイギリス人をひどく嫌っている。勿論ここでは僕もイギリス人だと看做されている」と書いています。このベルギー人にお気に入りのボーイが大事な時にわざわざ英語を使うとはとても思えません。最後に、人食い黒人たちのリーダーが口にする三つの言葉を考えます。(藤永108~9)によれば、この黒人たちは徴用されてから六ヶ月、故郷から八〇〇マイルの地点(奥地出張所)にいたのです。マタディの会社出張所から奥地出張所までの距離は一〇〇〇マイル(藤永46)、中央出張所までは約二〇〇マイル(藤永41)ですから、引き算すると,彼らは中央出張所(レオポルドビル)あたりで徴用されたことになります。前に述べたように、その辺りはベルギーかフランスの支配下にあり、リーダー格の男は簡単なフランス語を教え込まれたものと思われます。英語を学んだとは考えられません。だめ押しを付け加えると、(藤永136)では、マーロウのいる操舵室の下の甲板で巡礼たちと支配人に木こりの人食い黒人たちが死んだ舵手を食わせろと要求しているらしい事がマーロウの耳に入ります。下の甲板でのやり取りは勿論片言のフランス語の筈です。

藤永 茂