私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ルワンダの霧が晴れ始めた(7)

2010-08-25 12:58:57 | 日記・エッセイ・コラム
 このシリーズは今回でおしまいにします。第一回の冒頭に、
■ アフリカ大陸のほぼ中央、ルワンダとコンゴ一帯を覆っていた深い霧が、やっと晴れ始めたようです。霧があがるにつれて、我々の目の前に巨大な姿を現すのはアメリカ帝国主義の醜悪な姿です。映画『アバター』に出てくる露天掘り鉱山用の小山のような土木車両を思い出して下さい。■
と書きましたが、ルワンダ周辺の霧が晴れ始めて見えて来たアメリカ(アフリカではありません)の姿をよく描かないままで現在のシリーズを閉じることになります。第一回(6月30日付け)からの約2ヶ月間に新しくアメリカについて学び知ったことが余りにも多く、ショッキングであったのが、その理由です。あの「ルワンダ・ジェノサイド」という“アフリカでしか起こりえない”大惨劇が晴天の霹靂のように勃発したため、アメリカはなす術を知らず、見て見ぬ振りを極め込んだというのは、真っ赤な嘘です。惨劇の突発性と規模について読み違えや誤算はあったでしょうが、1990年のRPFのルワンダ侵攻の、少なくとも、2,3年前から、アメリカはアフリカのこの地域についての政策を立案し、実行に着手していたことは否定の余地がありません。そして、アメリカの戦略を担う中心人物として選ばれたのが、ウガンダのヨウェリ・ムセベーニとルワンダのポール・カガメの二人のツチ人です。
 2009年7月11日、ガーナの首都アクラで、オバマ大統領は、アフリカ全土に宛てて、彼一流の美辞麗句に満ちた講演を行いました。オバマ嫌いにかけては病膏肓に入った私は、至るところで虫酸が走るのをどうすることも出来ません。例えば、こうです。:
■ In the 21st century, capable, reliable, and transparent institutions are the key to success - strong parliaments; honest police forces; independent judges - (applause); an independent press; a vibrant private sector; a civil society. (Applause.) Those are the things that give life to democracy, because that is what matters in people's everyday lives. (21世紀においては、有能で信頼できる、透明性のある機関制度が成功の鍵です、すなわち、強力な議会;公正な警察力;独立した裁判官-(拍手);独立した報道機関;活気に溢れる民間部門;節度ある市民社会。(拍手。)これらのものがデモクラシーに生命を与えるのです。なぜならば、これこそが人々の毎日の生活で重要なものですから。)■
何と皮肉なことに、デモクラシーの本家本元と宣うオバマのアメリカには、カネとコネに引き回される議会にはじまり、以下すべてのものは、もはや存在しません。ペンタゴンに始まって、信頼性も透明性も殆どすべて失われたのが今のアメリカです。人に説教を垂れる前に自分の行いを正すべきです。しかし、オバマ大統領の雄弁はさらにエスカレートします。:
■ Now, make no mistake: History is on the side of these brave Africans, not with those who use coups or change constitutions to stay in power. (Applause.) Africa doesn't need strongmen, it needs strong institutions. (Applause.) (さて、はっきりと肝に銘じていただきたい:歴史はこれらの勇気あるアフリカ人たちの側にあり、クーデターを使うとか、憲法を変えて権力の座に居座ろうとかする側にはありません。(拍手)。アフリカは独裁的権力者を必要とせず、必要なのはしっかりとした機関制度です。(拍手)。■
この講演が行われたのは2009年7月11日ですが、僅か2週間前の6月28日、中米のホンジュラスでクーデターが発生し、反米的姿勢に傾きかけていたセラヤ政権が倒されました。この親米クーデターについては、事件の直後の7月8日と7月15日のブログで論じました。事件当初、オバマ政権は白々しくも関係を否定していたのですが、今ではクーデターをアメリカ政府が事前了解していたことが確かめられています。つまり、クーデターで政権を奪取した中南米のストロングマンたちを支持する方針を継続しながら、アフリカのアクラでは、こんな欺瞞的講演を行なっていたのです。
 そして又、ウガンダのヨウェリ・ムセベーニとルワンダのポール・カガメの二人は、まさに典型的なstrongmenなのです。ポール・カガメについては、彼に批判的な政治家と報道関係者の暗殺、逮捕、行方不明、投獄、拷問が続いた挙句に去る8月9日に行なわれたルワンダ大統領選挙で、彼の独裁性が余すところなく確認されました。あれは民主選挙などではありません。それでも米国政府と英国政府はこの選挙と選挙結果を褒め上げ、喜んでいます。ほんの一年前にわざわざアフリカに乗り込んで「アフリカは独裁的権力者を必要とせず、必要なのはしっかりとした機関制度です」などと宣っておきながら、まったくインチキの官製選挙で独裁者を“当選”させたわけです。
来年11月に予定されているウガンダ大統領選挙でも同じようにヨウェリ・ムセベーニの独裁性と、オバマ大統領のお説教の欺瞞性が顕示されることでしょう。実は、今年の11月28日に行なわれるハイチの大統領選挙もオバマ政権が好きなように引き回すことになるのは間違いありません。ハイチの一般大衆は、アメリカが国外追放した全大統領アリスティードと彼が率いた政党ラヴァラスを依然として支持し、アリスティードのアフリカからの帰国を要求し続けていますが、アメリカは前大統領の帰国を許さないばかりか、来る11月選挙にラヴァラス党が候補者を立てることすら認めません。それを許せば、アメリカにとって面白くない結果になることが分かっているからです。全世界にわたるアメリカの横暴は止まる所を知りません。
 このブログのはじめに、1990年前後から、アメリカのアフリカ再植民地化戦略を担う中心人物として選ばれたのが、ウガンダのヨウェリ・ムセベーニとルワンダのポール・カガメの二人のツチ人だ、と書きました。この二人、とくにポール・カガメという人物は注目に値する存在です。今後のアフリカをめぐる情勢、とりわけ、コンゴの情勢を左右するのは、アメリカの代理人としてのカガメだと,私は考えます。彼が目指すのは今のコンゴ民主共和国の崩壊と分割奪取です。1885年のアフリカ分割争奪(The Scramble for Africa) はドイツの主導で行なわれました。今度はアメリカがそれをやろうとしています。その先頭に立つ駒がポール・カガメです。
 この注目すべき人物に対する評価は極端な二極分裂を示しています。ゴーレヴィッチの『ジェノサイドの丘』の後半には、カガメを賞賛する発言が沢山見られます。例えば,日本語訳(下巻、p72~73)には
■カガメは稀にみる傑物である--鋭敏な人間的、政治的知性をもちあわせた行動力ある男だ。・・・なんといっても革命闘争の闘士なのだ。十五年以上のあいだ、きわめて厳しい条件下で独裁をくつがえし新たな国家を築きあげることをやりつづけてきた。■
■・・・カガメは真に重要な人間だった。なにかをなし得る人だったからである。何度か、並んで座っているとき、わたしはもう一人の有名な、背が高くて痩せっぽちの民主主義の戦士のことを考えていた。■
このもう一人の民主主義の戦士とはエイブラハム・リンカーンのことです。そしてゴーレヴィッチは「彼(カガメ)に可能なのは解放だけだった」と書いています。もう一人カガメの賞賛者をあげれば、Stephen Kinzer という人はその著書『A Thousand Hill: Rwanda’s Rebirth and the Man Who Dreamed It』(2008)で、カガメを持ち上げて、“the founding father of a New Africa(新生アフリカ創設の父)”と呼び、
■ The eyes of all who hope for a better Africa are upon him. No other leader has made so much out of so little, and none offers such encouraging hope for the continent’s future.■(p337)
と書いてあります。ここまで書かれると、この著者だれに頼まれたのかなあ、と勘ぐってもみたくなります。出版元がアメリカの大出版社John Wiley & Sons となると、なおさらです。
 一方、カガメをこき下ろす人たちにも事欠きません。その一人、Edward S. Hermann は著書『THE POLITICS OF GENOCIDE』でカガメを「現代の大量殺人者の大物のひとり(one of the great mass murderers of our time)」と極め付けています。この本は幾多の激しい主張を含んでいますが、無責任な本とも思えません。ノーム・チョムスキーの6頁にわたる序言も付いています。ここで、私たち市井の人間たちが直面するのは、何が確かな事実なのかを、どうしたら判断できるかという悩みです。MIMIC (Military-Industrial-Media-Infotainment-Complex)という言葉がありますが、現代は,一応無邪気にみえる娯楽番組の中にも、作為か無作為か、政治的プロパガンダが含まれる時代です。
そうしたものを、出来るだけ振り払いながら、わたしは今、コンゴのことをあらためて勉強し直しています。そのうちに又、コンゴについてご報告したいと考えています。

藤永 茂 (2010年8月25日)



ルワンダの霧が晴れ始めた(6)

2010-08-18 13:37:00 | 日記・エッセイ・コラム
 一つの統計によると、20歳日本人の平均身長は,1945年から1995年の50年間に(男、165.0cm→171.1cm;女、153.2cm→158.4cm)と、5センチほど伸びています。いま84歳の私も、近頃、すらりとした長身の若者が増えたことを町やエレベーターの中でつくづく実感します。ルワンダ・ジェノサイドについての重要文献の一つである
* Mahmood Mamdani 『When Victims Become Killers』(Princeton University Press, 2001)
に、興味深い指摘があります。ツチ族とフツ族の身長の違いは長い間の食べ物の違いが生んだのかもしれないというのです。歴史的に、ルワンダのあたりで支配階級の地位を占めてきたツチは牛などの牧畜に、非支配階級のフツは自給農業に従事してきました。ツチ族は、フツ族よりも、牛乳や牛肉を余計に摂取して育ったことでしょう。ツチの人たちがヨーロッパの白人風にすらりと背が高いから、もしかしたら白人がアフリカの地で黒くなったのでは、と考える白人たちが居た話は、前に何度か書きました。前回も、アレックス・シューマトフの話をしたところです。
 第一次世界大戦の結果、ルワンダ地域の植民地支配はドイツからベルギーに移りますが、白人宗主国は、少数派ツチ族の多数派フツ族に対する支配体制を強化維持する政策を一貫して採用しました。もともと世襲的にツチ人が酋長の地位を占める伝統はあったのですが、ベルギーはこれを制度化して、1935年には、お前はツチ、お前はフツというIDカードを各個人に押し付けることまでやってしまいます。種族間混血で、区別が必ずしもはっきりない場合も多かった筈ですが、いったんこの区別を確立すると、教育制度にしても両者を峻別して、カトリックの学校システムで、フツ族は低い教育しか与えられないのに、ツチ族にはエリート教育が与えられるようになりました。この白人宗主国の植民地経営政策は、現地の対抗勢力間の抗争を人為的に増大させる分割支配の常套でもあったのでしょうが、ツチ族の重用支持の背後に、あの馬鹿馬鹿しい『ハム仮説』を生んだ白人心情があったのも確かだと思われます。ツチ族が全人口に占める割合はほんの1割強、これでは,社会的権力とそれに付随する特権から排除されたフツ族の、被支配者、犠牲者としての鬱憤が内にこもって蓄積するのは当然の成り行きでした。さて、第二次世界大戦後、アフリカ全土に独立の機運が燎源の火のように広がり、支配層のツチはソ連の力を借りてでもベルギーの植民地支配から独立しようとし、被支配層のフツはこの機会にツチの支配から逃れようとする複雑な状況が発生しました。これを見たベルギーとその背後に控える西側勢力は、ソ連の影響を排除するために、掌をひるがえして、ルワンダ地域の支配をツチ側からフツ側に移す動きを示します。それに勢い付けられたフツは1959年年末以後、数百人のツチ人を虐殺し、それから逃れるため、数万人のツチのエリートたちが国外に逃亡し、ルワンダ・ディアスポラと呼ばれるようになります。いま問題のポール・カガメはその第二世代を代表する英雄です。結局、1962年、ルワンダはフツ勢力支配の下で独立を果たし、新しい独立政権は、公式に市民としてのツチ/フツのIDカード的差別制度を廃止しました。なにしろ人口比としては8割以上を占める多数派のフツ族は、ストレートに民主主義が適用されると選挙で圧勝するのは明白です。ですが、この地域でのツチ族のエリート的支配の伝統は強力で、両族の血で血を洗う対立抗争が継続したのは、ある意味で必然的であったとも言えましょう。
 1972年、ルワンダの南に隣接する人口7百万人の小国ブルンディで、15万人から30万人と推定される多数派平民フツ族が少数派ツチ族支配層に虐殺される事件が発生しました。しかし、ルワンダでは、1973年、ハビャリマナ(フツ人)が無血クーデターで権力の座についてから、ハビャリマナ大統領はフツ/ツチの融和に努め、彼の政府の下で、表面的にはルワンダに平和とつつましい生活水準向上の日々がしばらく続いたのですが、1990年、事態は一変します。北の隣国ウガンダで武力を蓄えたツチ族の軍団、ルワンダ愛国戦線(RPF)、がウガンダから越境してルワンダの北部に侵攻し、ハビャリマナ政府を打倒して支配権力をツチ族に奪還する戦闘を開始しました。ルワンダ内戦の始まりです。
 それに先立つ1986年、ウガンダの政変で、ヨウェリ・ムセベーニ(ツチ族)が大統領に就任して新しい最高権力者となります。ポール・カガメは軍事的才能を買われてウガンダ国軍の幹部となってムセベーニ大統領の側近となり、その支持の下、大統領の長年の友人であったFred Rwigyema(ルウィギェマ?)と共に、ルワンダ愛国戦線(RPF)を創設します。ただし、RPFがルワンダに進攻した1990年10月の時点では、カガメはアメリカのFort Leavenworthにある米陸軍高級将校大学(CGSC, The U.S. Army Command and General Staff College)で本格的軍事作戦の特訓を受けている最中でした。
 ルウィギェマをリーダーとしてウガンダからルワンダ北部に侵入したRPF軍はルワンダ政府軍の激しい抵抗に直面し、ルワンダの一般市民の取り扱いに関してルウィギェマと二人の副官の間で意見の違いが生じ、ルウィギェマは拳銃で射殺されてしまい、進攻作戦は挫折して国境周辺の密林の中に敗退の憂き目に会いました。そこで、ムセベーニ大統領はアメリカからカガメを呼び戻し、RPFの総指令官として頽勢の挽回を図ります。カガメは軍事的天才を発揮して、ルワンダ政府軍を撃破して迅速に占領地区を拡大し、1993年2月には大攻勢をかけてフツ族権力下のルワンダ政府を和平交渉に追い込みますが、その時までに、RPFの占領地区から逃れたルワンダ国内難民の数は百万人を超えるまでになっていました。これから約1年後の1994年4月に、「ルワンダ・ジェノサイド」が勃発することになるのです。
 1994年4月6日に始まり7月4日に終る約100日という短い期間に、80万から100万、つまり国内のツチの全人口の数割が鉈や小火器で惨殺されたとされる悲惨極まりない大虐殺事件に到るまでの歴史的背景のごくごくあらましを辿ってみました。ルワンダ国内のツチ族に対して残虐の限りを尽くすフツ族の一般人と民兵と正規軍兵士に対して、カガメの率いるRPF軍兵士が猛然と襲いかかって、殺人者たちをルワンダの隣国コンゴ追い出してしまうことでジェノサイドは終息したのですが、その間、カガメのRPF(ルワンダ愛国戦線)の側も相当数の敵を殺したに違いありません。そうでなければ、虐殺が止まる筈がありません。ところがRPFが殺した人々のことを調査解明しようとする努力は、きまってカガメ政権によって妨害阻止されて今日に及んでいます。RPFの兵士によるフツ族の殺戮が広範に行なわれたというイメージが私たちの頭の中にないのは、これに関する情報がカガメ政権によって圧殺隠滅されてきたことに加えて、フツ族が一方的にツチ族を虐殺したというプロパガンダがアメリカとイギリスの御用ジャーナリストたちによって意識的に展開されたからです。日本人の「ルワンダ・ジェノサイド」についてのイメージを決定的に形成してきたのは、映画『ホテル・ルワンダ』と、ゴーレヴィッチの『ジェノサイドの丘』:原著、Philip Gourevitch 『We Wish to Inform You that Tomorrow We Will be Killed with Our Families: Stories from Rwanda』(1998年)でしょう。前回にも示唆したように、ゴーレヴィッチの本は決して中立公正なノンフィクション・ドキュメンタリーではありません。著者がルワンダを初めて訪れたのはカガメが権力を掌握した後の1995年であり、事の始めから徹底的にカガメのRPF支持の立場にあったアメリカの国務長官マドレーヌ・オルブライトとも連絡があっての取材でした。フィクションだと酷評する声さえあります。ゴーレヴィッチと並んでアメリカ人の「ルワンダ・ジェノサイド」観を決定した人物として有名なのは、アリソン・デ・フォルジュですが、彼女は大虐殺以前の1992年から有名な人権擁護NGOであるHRW(Human Rights Watch)の要員としてルワンダの土地を踏み、1999年、彼女とその協力者は、789頁という大冊の本(報告書):『Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda』を出版し、彼女はルワンダ問題の権威者の一人と目されるようになります。しかし、彼女もアメリカ政府機関(USAID)から資金を得ており、決して中立公正な立場ではありませんでした(2009年飛行機事故で歿)。ただゴーレヴィッチとの違いは、1990年にRPFがウガンダからルワンダに侵攻してから、1994年の大虐殺の進行中、それに続く1994年以後の時期にわたって、RPFの兵士たちが犯した一般住民虐殺行為についてある程度調査し、それを発表したことです。私は上記の本には目を通していませんが、HRWは、事件から10年目の2004年に新しい序論と結論を付けて、アリソン・デ・フォルジュの報告書をネット上で提供していますので、それを覗いてみました。1999年に出版された報告書の「結論」の一つ前に「THE RWANDAN PATRIOTIC FRONT」と題された章があり、その中にRPFが犯した一般住民虐殺行為が列記されています。アリソン・デ・フォルジュは、原則的には、カガメ政府とアメリカ政府の強力な代弁者の役を演じた人ですが、人権擁護者として、RPF側の人権侵害を全く無視する良心の痛みには耐え通すことが出来なかったのでしょう。しかし、彼女のその僅かな非難もポール・カガメは許しませんでした。死の前の何年かは、アリソン・デ・フォルジュはルワンダへの入国を禁止されていたようです。カガメは恐ろしい男です。
 もう一度要約しましょう。昔から少数派のツチ族(上流階層)が酋長や王侯の形で多数派のフツ族(下流階層)を支配していましたが、アフリカがヨーロッパの植民地になると、宗主国はこの支配/非支配階層の区別を極端に明確化し、ツチ/フツの関係が悪化し、そのままアフリカの独立時代の混乱にもつれ込みます。上述した、1959年のフツによるツチの虐殺事件に始まったルワンダ・ディアスポラの発生と、1972年のツチによるフツの大量虐殺事件は、その悲劇的な混乱のただ二つの事例に過ぎません。1990年のルワンダ内戦の勃発以前にも、フツとツチはお互いに殺意を抱く関係にあったのです。そして、有名な1994年の「ルワンダ・ジェノサイド」も全く一方的にツチが悪魔と化したフツによって大量虐殺されたという単純な一方的悲劇ではなかったことは明白な歴史的事実であると、私は今や確信しています。しかし、現在のこのブログのタイトルを『ルワンダの霧が晴れ始めた』とした理由はそれだけではありません。問題は、悲惨を極めた大虐殺が、カガメのRPFのお蔭で、1994年7月4日にピタリとピリオドを打たれたという、その7月4日以後に何が起ったか、1994年後半以降に、ルワンダとそれに隣接するコンゴ東部で何が起ったか、これを見極めることにあるのです。何が起ったか、何が起っているかが、かなりはっきり見始めたと実感したことが、「霧が晴れはじめた」という表現をあえて採用した私の倨慢の理由です。「ルワンダ・ジェノサイド」と呼ばれる歴史的事件の真の歴史的意義は、隣人として暮らしていた住民の二つのグループの一方が、ある日突然他のグループの住民に襲いかかり、大鉈や手鎌で切り刻んで惨殺するという真にむごたらしいジェノサイドであった点にあるのではなく、それを契機として、ポール・カガメの統率下の軍事勢力が隣国コンゴに攻め入り、地域の政情不安定化を促進し、その結果として、5、6百万人のコンゴ住民が命を失うことになったということにあるのです。
 ルワンダ問題の最高の権威者の一人と看做されるパリ大学教授ジェラール・プリュニエはこの戦乱を「アフリカの世界大戦(AFRICA’S WORLD WAR)」と呼びます。こうして、私は、私のアフリカ問題意識の原点であるコンゴに舞い戻って来たことになります。
 今回のブログの冒頭に掲げたマームド・マムダーニさんの本に戻ります。そのタイトル「When Victims Become Killers」は、直訳すれば、「犠牲者が殺人者となる時」です。本多勝一流に訳せば「殺される側が殺す側になる時」となりましょう。「被害者が加害者になる時」と訳してもよいでしょう。どの訳にも「Killers」という鋭い響きが移されてはいませんが。ここで思い出されるのはフランツ・ファノンの暴力論です。ファノンは、長い間奴隷の立場を強いられた犠牲者としての黒人たちが、突然、暴力的な集団殺人者に変わることの必然性を理解していました。ファノンの暴力論に侮蔑の言葉を投げかけたハンナ・アレントはその理解に欠ける所があったのだと私は思います。
 19世紀アメリカでの最も有名な奴隷反乱として、「ナット・ターナーの反乱」があります。犠牲者の側が殺人者集団になった事例の一つです。ご存知ない方のご参考のために、拙著『アメリカン・ドリームという悪夢』のp119から事件の要約を引いておきます。:
 ■その翌年1831年8月21日、奴隷の黒人青年ナット・ターナー(1800-1831)の率いる奴隷反乱がヴァージニア州サウサンプトン郡で起こった。ターナーは自分が働いていた農園の奴隷数人とともに行動を起こして、主人一家を殺して銃を奪い、次々と農園を襲って仲間を70人ほどにまで増やしたが、弾薬が尽きて鎮圧された。殺された白人の数は婦女子を含めて55人だった。州当局は反乱奴隷の56人を絞首刑にしたが、他に約2百人の黒人が怒り狂った白人群衆から暴行を受け、殺される者もあった。その多くは反乱とは関係のない人々だった。ターナーは幼少の頃から利発で、たちまち読み書きの能力を身に付け、聖書を熱心に読んだ。独立宣言の記念日7月4日を期して反乱を起こす計画だったが、病気のために延期を余儀なくされたという。独立宣言の言語道断の偽善性に対するターナーの怒りはウォーカーの怒りと通底していたに違いない。■

藤永 茂 (2010年8月18日)



ルワンダの霧が晴れ始めた(5)

2010-08-11 11:36:12 | インポート
 世に定説となっている「ルワンダ大虐殺」はまことに異様な残虐事件です。1994年、ルワンダ国内の多数人種フツ族が少数人種ツチ族の絶滅を目指して襲いかかり、4月6日に始まり7月4日に終る約100日という短い期間に、80万から100万、つまり国内のツチの全人口の数割を鉈や小火器で惨殺したとされています。この凶暴な大量虐殺行為の嵐のような進行の前に、国連平和維持軍は打つ手を知らず敗走したのですが、隣国ウガンダからルワンダに攻め入った「ルワンダ愛国戦線(RPF, Rwanda Patriotic Front)」というツチ人の軍隊によって、虐殺は見事に阻止されて終息し、RPFを指揮したツチ人Paul Kagameは一躍世界に知られる英雄となりました。このルワンダ・ジェノサイドは、ナチ・ホロコーストのように政府の担当役人や軍隊といったプロフェッショナルな連中が組織的に行なった虐殺ではなく、突如として集団発狂したフツ族の一般市民がツチ族の一般市民を鉈(machet, machete)や鎌など手当たり次第の凶器でむごたらしく殺害したことが強調され、「アフリカでしか起こりえない惨劇だ(only in Africa!)」という受け取られ方が欧米人の間では一般です。しかも、彼らの心のスクリーンにはこの“100日間のジェノサイド”のイメージだけが浮き彫りにされ、1994年4月6日以前にも、1994年7月4日以後にもジェノサイドは無かったということになっているのです。これは全くの神話であります。事実からほど遠い一つの神話と言わなければなりません。
 フツ族とツチ族との間の相互虐殺の土壌は第一次世界大戦後のベルギーによるルワンダの植民地政策によって準備され、ルワンダ独立後の政治的混乱を経て、事態は、1990年10月1日、隣国ウガンダに基礎を置いたルワンダ愛国戦線(RPF)の軍隊がルワンダに侵攻して内戦に進展します。“100日間のジェノサイド”の真相とその全貌を見通すには、何よりも先ず、この1990年の内戦開始の時点から考察を出発させなければなりません。また、1994年7月4日以後にはジェノサイドはなかったと考えるとすれば、これは全く許し難い事実誤認です。、さらに、ルワンダ内での大量虐殺行為は、1994年以降、国境を越えてコンゴ民主共和国に溢れ出て、ルワンダの“100日間のジェノサイド”のほぼ10倍の犠牲者、5百万とも6百万とも算定されるアフリカ人たちが生命を奪われることになりました。何故そんな事になったのか?そんな重大な事態がアメリカ人一般の意識の上に何故ほとんど影を落とさないのか?この二つの設問に適切に答えることが出来ないかぎり、ルワンダの“100日間のジェノサイド”が何であったかを正しく把握することは不可能です。
 前々回のブログ『ルワンダの霧が晴れ始めた(3)』で、映画『ホテル・ルワンダ』の英雄ポール・ルセサバギナに言及しました。フツ人の彼は実在のホテル「千の丘ホテル」の中に1200名のツチ人をかくまって、彼らを暴徒の残虐から守り通した功績を買われて、ルワンダ・ジェノサイド後、一度カガメ大統領支配下のルワンダに迎えられたのですが、カガメを批判して大統領の逆鱗に触れ、いまは祖国を逃れてベルギーに住んでいます。ルワンダに帰ることでもあればたちまち逮捕投獄されるでしょう。ベルギーに亡命していても生命の保証はありません。そのポール・ルセサバギナは自分を「ただの普通の人間だ」と言っていますが、ルワンダの絶対的独裁者ポール・カガメ大統領に対する彼の批判の矛先はまことに凄まじく、「1990年以後に発生した虐殺、1994年のルワンダ・百日・ジェノサイドを含めて、すべての虐殺の責任はポール・カガメにある」とまで断言します。前回の号外ブログで訳出したルワンダの欺瞞大統領選挙に対する抗議文の支持団体の中にも、ルセサバギナの名前がありました。
 「すべての虐殺の責任はポール・カガメにある」--これは大変な断定です。火山が噴火したようなルワンダ・ジェノサイドを見事に終息させ、ルワンダの政情を安定化し、NHKの特集番組『アフリカンドリーム』の第一回(2010年4月4日)「“悲劇の国”が奇跡を起こす」で、アフリカの希望の星と声高に称揚される目覚ましい繁栄をルワンダにもたらしつつある功労者カガメ大統領こそ、1990年以来、ルワンダと東部コンゴで合計7百万にも及ぶ人命の損失の責任を負うべき張本人であると申し立てているのですから。
 しかし、この申し立ては、荒野のヨハネのように、ポール・ルセサバギナが叫び続ける孤立した感情的発言ではありません。彼は、ジェノサイドに関するカガメ大統領の罪状について、英国女王に宛てた公開書簡や幾つかのインタビューで具体的に証拠を挙げ、実名を挙げて告発を行なっているのです。だからと言って、彼の提出している証拠の信憑性が保証されるわけではありませんし、私は、その信憑性を直接的に確認あるいは否認する手段を持っていません。学問的文献を含めて、すべての資料に政治的バイアスがかかっていると考えざるを得ない現状では(あるいは、昔から一貫してそうだったのかもしれませんが)、ポール・カガメという人物についての真実を捉えるという作業は困難を伴いますが、しかし、不可能というわけではありません。門外漢の私が頼っている手段は、私なりに出来るだけ多くの資料をインターネット上で探して検討すること、その際、ジャーナリスティックな情報源については、右なり左なりの“偏向”の可能性を常に意識し、学者や人権団体については、どのような人間的コネがあり、何処から支持や資金を得ているかを出来るだけ探索し、確認することです。そうした作業を行う場合、1994年以降、ポール・カガメとその独裁政権を批判する発言を敢えてする個人は、カガメ政権からルワンダ入国を拒否されるか、悪く行けば、暗殺の対象にされるかも知れず、しかも、ルワンダ・ジェノサイドの加害者側と決めつけられているフツ族は国際的にはほぼ全く非力ですから、フツ側からは何の実際的なご褒美も期待できません。この状況の下で、あえてカガメ大統領を批判し、フツ側にも然るべき正義の分け前を振り当てようとする人々の発言に私が惹かれ、カガメ大統領と良好な関係にある人々の発言よりも重視するようになるのは自然の成り行きです。キース・ハーモン・スノー(Keith Harmon Snow)はその代表的人物です。1990年以来、ルワンダとコンゴで失われた6百万をこえる大量殺人の責任はフツ族の過激分子の側にではなく、ツチ族のカガメ大統領とそれを支持する国際的勢力にあるとする主張を一貫して行なっているスノーの名はカガメ政権のヒット・リストに含まれていると伝えられています。アフリカに関して、スノーの筆とカメラが生み出す論考は膨大な量にのぼりますが、その舌鋒の厳しさの故に、彼が周囲から蛇蝎視されているのか、アフリカ関連の記事や著書にスノーの名が引用されることは滅多にありません。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)も彼の槍玉に挙げられていますが、このあたり、緒方貞子さんのコメントが伺えれば大変有難いのですが。ともあれ、スノーに対する私の原則的な信頼は、この数年間 スノーの書いた物を読み続けてきた経験の堆積の結果として、そう簡単には揺るぎません。それに、彼の論考に挙げられている多数の引用文献は、私のような孤立したアフリカ・ウォッチャーにとっては、まことに貴重な情報源です。例えばこうです。最近、彼の論考の引用文献を経由して、Alex Shoumatoff(アレックス・シューマトフ)という名前に辿り着きました。日本では余り知られた人ではないようですが、英語版のウィキペディアによると、“the greatest writer in America”とか“one of our greatest story tellers”とか言われるほどの有名人、いわゆるセレブです。1990年10月、ツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)の軍隊がウガンダからルワンダに侵攻を開始してから2年目の1992年6月、シューマトフは雑誌『ニューヨーカー』にルワンダの南の隣国ブルンディへの旅行記を発表し、車に乗り合わせた黒人現地人について、「あきらかにツチと分かるのが三人いた。背が高く、すらりとして、ひたいが秀で、頬骨が突き出た面長の顔立ちだ。彼らは、他の5人の乗客、背が低くてずんぐりした、鼻は平たく、唇は厚ぼったい、典型的なフツ人とは違うタイプの体つきだった」と記し、続いて、同年12月にはニューヨークタイムズ日曜版雑誌に『ルワンダの貴族的ゲリラ達』と題して、ツチのRPFをたたえ、フツを悪者に仕立てる(demonize, 悪魔化する)役割を公然と買って出ました。その中で、例の『ハム仮説』を持ち出して、ツチ族のことを「19世紀の末近く、初期の民俗学者は、これらの、秀でた額、鷲鼻、薄い唇を持ち、ネグロイドというよりもコケージアンに見える‘物憂い身ごなしで尊大な’遊牧の貴族達に魅了されて、彼らを‘偽のニグロ’と分類した。その頃広く受け入れられた理論によると、ツチは高度に文明化された人々、落魄したヨーロッパ人種であり、何世紀もの間、中部アフリカでの存在が噂されていたのだった」と書きました。ツチを讃えてフツを貶めることで、シューマトフは侵略反乱軍RPFの支持と宣伝の役を進んで担ったわけです。それから1年半足らずの1994年4月に、あの凄惨なルワンダ・ジェノサイドが起りました。ツチが高貴な犠牲者たち、フツが野蛮残忍な殺人者たち、という明快そのものの神話の生成確立に決定的に貢献したゴーレヴィッチの『ジェノサイドの丘』:原著、Philip Gourevitch 『We Wish to Inform You that Tomorrow We Will be Killed with Our Families: Stories from Rwanda』(1998年)は、このシューマトフのツチ側贔屓の延長線上に位置されるべき偏向著作です。シューマトフは、1988年に彼の二番目の妻を離婚し、ウガンダ出身のツチ人の女性と結婚しました。カガメ大統領とは親密な関係にあります。ゴーレヴィッチについても同じことが言えます。
<付記> 8月9日に行なわれたルワンダの大統領選挙の結果は現地の11日に発表される予定ですが、ポール・カガメの再選は100%確実、世界のマスコミがどのように報道するかが唯一の問題です。

藤永 茂 (2010年8月11日)



ルワンダの霧が晴れ始めた(号外)

2010-08-04 11:01:51 | インポート
 アメリカの黒人全国新聞「サンフランシスコ・ベイ・ヴュー」の7月27日のニューズ(電子版)に、五つの団体が共同してオバマ大統領に次のような提言を行なうことが報じられていますので、訳出します。団体名は
* The Africa and Justice Network
* Friends of the Congo
* Hotel Rwanda/Rusesabagina Foundation
* International Humanitarian Law Institute of Minnesota
* Institute for Policy Studies, Mobilization for Justice and Peace in Congo
です。

『アフリカはオバマに物申す:カガメの選挙を認めるな。アフリカの真の自由と民主主義をサポートせよ』

 オバマ大統領は、ガーナのアクラでの2009年講演で、アメリカは強力な権力者(ストロング・メン)ではなく、強力な機関組織をサポートすると述べた。しかしながら、ルワンダの場合には、これまで美辞麗句以上の何物でもなかった。ほかの殆どのアフリカ人同様、ルワンダ人も、オバマの講演はアメリカ合州国とアフリカの間の新しい、もっと平和な協力的な関係を予兆するかもと希望を持ち、オバマの当選にも喝采を送ったものだったが、しかし、オバマは、アメリカ合州国のアフリカ司令部であるAFRICOMを拡張したうえ、ルワンダのストロングマンであるポール・カガメ大統領が彼の冷酷な権力把握を続けるために見せかけの大統領選挙を準備しているのを、ただ黙って見ているだけである。
 8月3日、ワシントン・D.C.で、我々アフリカ唱道の連合団体はナショナル・プレスクラブに集い、来る8月9日のルワンダの選挙結果の正当性を認めることなく、アフリカの軍事化と抑圧的な政権の支持を停止するように、オバマ大統領と国務省に要求する。
 「コンゴ友の会」の理事長モーリス・カーニーは「これまでのアメリカの政策はストロング・メンをサポートすることをやってきたが、そのトップにあるのがポール・カガメで、彼は(アメリカから)軍隊的支援、武器、訓練と情報供給を受けて来たからこそ、ルワンダの隣国であるコンゴ民主共和国に侵攻し、そこに代理の民兵軍を維持して、コンゴ国民から彼らのものである自然資源を収奪することができたのだ。彼はコンゴで6百万人以上の死とアフリカの大湖水地域の不安定化を助長した」と述べている。
 カガメに批判的な政治家と報道関係者の暗殺、逮捕、行方不明、投獄、拷問が続いて8月9日のルワンダ大統領投票に到ったが、今や問うべき事は“ルワンダの2010年8月の選挙は自由で公正か?”ではなく、“これ以上どれだけの暴力がルワンダの警察、軍隊、保安情報当局から加えられて一般市民が苦しめられるか?”ということである。
 しかも、カガメの部下の軍人と官僚のトップの40人が、戦争犯罪、人道に対する犯罪、ジェノサイドの罪で、スペイン、フランスの両国の法廷で告訴されているというのに、オバマ大統領はこれ以上いつまで、アフリカの中心に位置する残忍なカガメ政権の支持を続けるつもりなのか?カガメ自身がこれらの法廷で告訴されていないのは、ただ、彼が国家の元首であり、したがって、告訴は宣戦布告に当るからという理由からである。「カガメは、ジャーナリストを殺し、政治的対抗者を投獄して拷問にかけ、彼らが選挙に参加する憲法上の権利を否定して彼らを選挙から閉め出すために、考えられる限りのことをやっている。何故ならば、カガメが大統領の地位を失った途端、彼が命令したすべての大量殺人の罪を問われて裁判にかけられるからだ」と、いまトロント在住のルワンダ人亡命者、作家で活動家のエマーブル・ムガラは述べている。
 すべてのれっきとした反対勢力は選挙から閉め出されたが、4名のカガメの支持者がルワンダで本物の選挙が行なわれているように見せかけるために立候補している。もっとも有力な大統領候補のヴィクトワール・インガビル・ウムホーザは、彼女がカガメの対立候補として立候補するのを防ぐために、逮捕され、でっち上げの罪状で告発されてしまったが、彼女は、投票を拒否し、他のルワンダ人にも投票しないように呼びかけている。「軍隊と警察が一般人に暴力を振るうことは分かっている。しかし、我々は我々の権利のために闘わなければならない。もし、選択することが出来ないのならば、投票する理由はない」と彼女は言った。
 さる5月、国務省アフリカ関係副長官のジョニー・カールソンは、アメリカ合州国政府は8月9日の投票に先立って、12組の選挙監視チームをルワンダに送る計画だと声明を出したが、今、多くのルワンダ人は、それはアメリカの税金を無駄に使うだけのことだと言っている。
 「なぜ人々は選挙を監視するためにルワンダに行こうと真剣に考えるのか?」と、ルワンダ出身のアメリカ人、チャールズ・カンバンダは疑問を呈している。彼は、以前はカガメのRPF党の一員で、ウガンダのカンパラにあるマカレーレ大学の教授だった。「選挙監視団はどの選挙を監視に行くというのだ。何も監視するものなど無い。一人芝居が行なわれているに過ぎず、政府が反対党なるものをでっち上げてしまったという状況に我々は直面しているのだから。RPFはすべての本物の反対党指導者を蹴り出してしまった。彼らは、ヴィクトワール・インガビルのように自宅監禁下にあるか、あるいは、牢獄にあるか、すでに殺されているか、亡命中だ」。
 エマーブル・ムガラも言う。「この8月の‘選挙’なるものを監視にルワンダに行こうとしている外国の選挙監視団は時と金を無駄にするだけだ。私なら、それぞれのお国に留まって、今年の始め以来、カガメ将軍の支配与党が取って来た行動、今回の選挙と称するものを無効にする行動の数々に基づいた報告書を書くことをお勧めする」。
 アメリカ合州国は選挙監視団を提供したばかりではなく、2000年以来、米国内税金から拠出した外国援助金として、$1,034,000,000をこえる資金をルワンダに与えてきた。それに加えて、オバマ大統領の2011年財政年度予算として$240,200,000が計上されている。
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 以上が本文全体の翻訳ですが、記事には、今年の6月中旬、国連関係のことでカガメ大統領がスペインを訪れた時に行なわれた市民デモの写真が2枚あります。カガメを戦争犯罪者、大虐殺執行者として告発するデモが、マドリッドで、大きな横断幕やプラカードを掲げて展開されました。
 ここに言葉きびしく告発されている一人芝居選挙と弾圧のルワンダと、NHKの番組『アフリカン・ドリーム』が描くアフリカの希望の星ルワンダの、何処かその中間にアメリカが今やアフリカの最重要拠点と看做す国ルワンダの真実が位置している筈です。
 8月9日のルワンダの大統領選挙をアメリカのマスメディア、日本のマスメディアがどのように報道するか、注目に値します。何も報道されないかもしれません。

藤永 茂 (2010年8月4日)