私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

[号外] ダーショウィッツ教授の嘘

2007-11-29 21:20:13 | 日記・エッセイ・コラム
 前回のブログの終りに近く、私は次のように書きました。
★ Alan Dershowitz といえば、知る人ぞ知るハーバード大学の法学部の大教授です。そのダーショウィッツのベストセラー『イスラエルのための弁明(THE CASE FOR ISRAEL)』(2003年)の167頁にはヒロシマ・ナガサキの悲劇が次の文章で片付けられています。
■The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki killed thousands of innocent Japanese for the crimes of their leaders. The bombing of military targets inevitably kills civilians.■
ただこれだけ。人間の数が数万を越える場合には「thousands of」とは書かないことは、中学生ならば誰もが知っています。これはダーショウィッツ先生の記憶違いなんてものではありません。はっきりした意図をもってこう書かれているのです。★
上の英文についてコメントを戴きましたので、以下で少し詳しくお答えしてみます。
(1)まず英語 thousands について。
ランダムハウス英語辞典は手許にありませんが、“概数を表すときは、「数千」のほか、「数万」「数十万」も含む”とは書かれてないと思います。それは、数学で言う「けた」とか「くらい(位)」のこと、つまり、thousands place ということでしょう。西洋風の数の区切り方は千が単位ですので(・・,###,000,000.)、日本風にいえば「数万」「数十万」まで「千の位」になります。しかし、thousands of innocent Japanese と書いてあれば、「数千人の罪のない日本人」と訳し、また、理解する以外にはありえません。広島・長崎のことをよく知らないアメリカやイスラエルの一般読者は、原爆による死者は数千人だったのだと思うに違いありません。ちなみに、昨日Znet というウェブサイトで見かけた英文を「thousands 使用例文」として引用します。参考にして下さい。
■Do you even begin to appreciate the damage to our country and the world you have helped do -- eight precious years irretrievably lost to confront the most serious threat to our planet's health ever faced, millions of Americans facing this holiday season on the brink of losing their homes, the value of the dollar evaporating as fast as our international reputation, the Constitution reduced, in the words of the President, to "just a piece of paper," and of course, more than $1 trillion dumped down the sewer of Iraq, thousands of American lives lost, tens of thousands more broken, and hundreds of thousands innocent Iraqis dead, some of whose crime was nothing more than approaching the wrong intersection at the wrong time.■
(2)次にダーショウィッツは嘘つきかどうかについて。
戴いたコメントには「そもそも広島・長崎の原爆による死者数を数千人とするような見え透いた嘘は、いくらなんでもつかないのでは」とありますが、ダーショウィッツ氏はそうした白々しい嘘を平気で口にする人物だと思います。ご自分で判断したいとお考えでしたら、是非、上掲の英文原著と、それを詳しく厳しく批判したフィンケルスタインの著書『イスラエル擁護論批判』(立木勝訳、三交社、2007年)を読んで下さい。

藤永 茂 (2007年11月29日)


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グローブスの語るサンジエー・エピソード

2007-11-28 10:23:52 | 日記・エッセイ・コラム
 広島と長崎を一瞬に壊滅させた原子爆弾がどのようにして出来上がったか、私はその詳細にわたって強い関心を持っています。この最も悪魔的な人間の所業がどのようなビジネス・ディールの連なりによって成し遂げられて行ったか、その一つの取引きがサンジェー・エピソードです。
 主にネットで集めた資料に頼って、前回(11月21日)ベルギー人実業家エドガー・サンジェーがウランをアメリカに売りつけたエピソードを書きましたが、その直後に、10年ほど前に読んだ筈の一冊の本の中に、その話が当事者によって書かれていたことを見つけました。ふと思い出したと言いたいのですが、10年前には、アフリカについての私の意識が低く、おそらく、この部分を読み飛ばしていたのだと思います。
 アメリカの原爆製造プロジェクト「マンハッタン計画」の総帥レスリー・グローブス将軍の回顧録『今だから話そう(NOW IT CAN BE TOLD)』(1962年)の第3章にエドガー・サンジエーの話が出ています。冒頭に「(第二次)大戦勃発の数ヶ月前、もし一人のベルギー人と一人のイギリス人とがたまたま顔を合わせなかったら、連合国側が先に原爆を持つことにはならなかったかも知れない」とあります。大戦中、ウラン資源の最重要な供給源はベルギー領コンゴのシンコロブエ鉱山で、それを掌握していた最重要人物がユニオン・ミニエール社の‘the managing director’(前回は社長としました)エドガー・サンジエーでした。
 1939年5月ロンドンを訪れていたサンジエーは、ユニオン・ミニエール社の取締役の一人であるイギリス人ストーンヘーブン卿のオフィスで、もう一人のイギリス人ヘンリー・タイザードに引き合わされました。サンジエーとタイザードの出会い、これがグローブスのいう運命の出会いです。タイザードは化学者出身、当時はロンドン大学の理工学部の長でしたが、間もなく、イギリスの軍事科学研究行政のリーダーとして、連合国側の勝利に大きく貢献することになる人物です。タイザードはコンゴのウランを全部イギリスに売ってもらえないかとサンジエーに持ちかけますが、計算高いサンジエーは急には応じません。タイザードは、別れ際にサンジエーの手をしっかりと握って「くれぐれも慎重に。もし、この資源が敵国の手に落ちることになれば、あなたの國も私の國も破滅に瀕する、その活殺権があなたの手中にあることを決してお忘れなさるな」と重い言葉をサンジエーに残しました。
 その数日後、フランスの核物理学者ジョリオ・キュリーが数人の同僚を伴ってブリュッセルにサンジエーを訪ね、ウラン核の分裂反応を使う超爆弾を造り、そのテストをサハラ砂漠で行いたいので、シンコロブエのウランを売ってくれと頼み込みました。サンジエーは一応承諾しましたが、その後まもなくの9月に戦争が始まり、計画は頓挫しました。サンジエーは、10月、ドイツ軍の進駐せまるブリュッセルを後にしてニューヨークにビジネスの中心を移しますが、9月から10月にかけて、シンコロブエにあった1250トン以上のウラン鉱石をポルトガル領アンゴラの大西洋岸の港ロビト経由でニューヨークに送り、ニューヨーク湾内のスタテン島のユニオン・ミニエール社の倉庫に秘かに収納しました。つまり、1940年の暮以降、サンジエーはアメリカ政府にこのウラン鉱石を売りつける機会の到来を待っていたのでした。
 1942年3月、サンジエーはアメリカ国務省からベルギー領コンゴの非鉄金属資源についての報告書の提出を求められてワシントンに出向し、その時に面会した国務省の高官トーマス・フィンレターの注意をスタテン島のウランに向けようとしたのですが、アメリカの原爆計画について未だ何も知らされていなかったフィンレターはサンジエーの話に興味を示さない。4月21日には書簡を送り、“As I told you previously during our conversation, these ores containing radium and uranium are very valuable.”と書いたのですが、それでも反応がないままに終りました。
 一方、「サンジエーのウラン」の存在をグローブスが嗅ぎ付けたのは9月14日、ブローブスは副官のニコルズに翌15日朝サンジエーと会うアポイントメントを取らせます。その日ニコルズがサンジエーを訪れてウランの話を切り出すと、以前にフィンレターに袖にされたサンジエーは、「大佐殿、はじめにお伺いしたいのですが、あなたはただ話をしに此処にいらっしゃったのですか、それとも、ビジネスのためにおいでになったのですか」と念を押したといいます。前回のブログに訳出したのはウィキペディアにあったサンジエーの“歴史的”名言「You can have the ore now. It is in New York, a thousand tons of it. I was waiting for your visit.」というものでしたが、グローブス版の方は、やや実務的でドラマ不足です。グローブス自身はその場に居なかったのですから、サンジエーの言葉がこの通りだったという保証はありませんが、まあ信憑性はこちらの方が高いでしょう。
 グローブスは果敢な決断の早さで知られた男、商談はたちまち成立、ニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫に眠っていた1250トンを越す極めて優良な品質のウラン鉱石はアメリカ陸軍の手に収められました。ユニオン・ミニエール社からのウラン鉱石の入手は、アメリカの原爆製造計画にとって、かけがえなく重要なものであったとグローブスは書いています。 
 ヒロシマ・ナガサキの悲劇は、人間にとって、人類にとって、20世紀最大の事件であったと、私は考えます。この確信は、最近の世界情勢の進行によって、ますます深められるばかりです。「哲学的」という形容詞を、概して、私は好みませんが、ヒロシマ・ナガサキの悲劇の本質は、まさに、もっとも深遠な哲学的想像力、もっとも鋭敏な詩的想像力によって把握されなければなりません。終戦直後から暫く、優れた哲学者、優れた文人たちから、ヒロシマ・ナガサキの悲劇の本質を剔出する発言が散発的に行われた時期がありました。大文人とは言えないにしても、私の大好きなロマン・ギャリーやトーマス・マートンやカート・ボネガットもそうした発言をしたものでした。しかし、核の絶対悪、核の廃絶を唱える声が、「核による抑止」という悪魔の声に次第にかき消されて聞こえなくなってゆきました。ヒロシマ・ナガサキをかき消そうとする声は特にイスラエルから声高に聞こえてきます。Alan Dershowitz といえば、知る人ぞ知るハーバード大学の法学部の大教授です。そのダーショウィッツのベストセラー『イスラエルのための弁明(THE CASE FOR ISRAEL)』(2003年)の167頁にはヒロシマ・ナガサキの悲劇が次の文章で片付けられています。
■The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki killed thousands of innocent Japanese for the crimes of their leaders. The bombing of military targets inevitably kills civilians.■
ただこれだけ。人間の数が数万を越える場合には「thousands of」とは書かないことは、中学生ならば誰もが知っています。これはダーショウィッツ先生の記憶違いなんてものではありません。はっきりした意図をもってこう書かれているのです。おそろしいことです。私は此処でこそ、『闇の奥』のクルツのように、“The horror! The horror!” と叫びたくなります。私が「マンハッタン・プロジェクト」の詳細について強い関心を持ち続ける理由もそこにつながっています。

藤永 茂 (2007年11月28日)


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[訂正] サンジエー物語の決定版

2007-11-21 13:24:08 | 日記・エッセイ・コラム
 本日、ブログ『カタンガのウランが広島の空に』を投稿した直後に、ひよいと思い出した古い文献(1962年)を開いてみましたら、伝説化したエドガー・サンジェーのウラン物語の信頼できるソースが見付かりました。来週それを報告します。醜態多謝。

藤永 茂 (2007年11月21日)


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カタンガのウランが広島の空に

2007-11-21 11:31:14 | 日記・エッセイ・コラム
 前回に紹介しましたChristine Meuris という著者の『SCRAMBLE FOR KATANGA』という本(ダウンロード可能)は色々の意味で大変面白い内容です。まず、第一の点は、私のベルギー国王レオポルド二世に対する批判がベルギー側に対して公平さに欠けていたかも知れないということです。これはこの数ヶ月考え続けていたことですが、上掲の本を読んで要訂正の思いを強くしています。その内に取り上げます。第二の点は、小説『闇の奥』の現代の読者が心に抱きそうな「原始の暗黒」大陸アフリカのイメージのアナクロニズムの滑稽さをはっきり知らされるということです。この数十頁の長さの文献がネット上に提供されている背景は知りませんが、その中核的な目的が例の国際的ベストセラー『レオポルド王の亡霊』(ホックシールド著、1998年)に対するベルギー側からの反論にあることは明らかで、その性格上、反論のための反論、強引な我田引水も見かけられ、眉に唾をつけて読む必要もありましょうが、一方、私が前から知りたいと思っていたコンゴのカタンガ地方のウラン資源にまつわる重要な知識への糸口が含まれている有用さも否めません。とりわけ、カタンガ地方を伝統的に支配してきたユニオン・ミニエールという簡略名で現在も世界に知られる大怪物会社と広島に投下された原爆との関係は色々のことを我々に考えさせてくれます。
 拙著『「闇の奥」の奥』の(223~4頁)に次のように書きました。:
■ 広島・長崎の原爆に使われたウラン原料の大部分がコンゴのカタンガ地方から運ばれた事情は一般にはよく知られていない。ベルギーの首都ブリュッセルでは、1911年以来3年ごとに、通称「ソルベイ会議」で知られる物理学と化学の国際会議(招待者オンリー)が開かれている。その初期の数回は歴史的に最も誉れ高い国際会議シリーズとなった。なかでも第5回のソルベイ会議は有名で、綺羅星のごとき29名の参加者の記念写真の前列中央にアインシュタインが座っている。アインシュタインは、ソルベイ会議出席の回を重ねるうちに音楽愛好が機縁となって、ベルギー王室のエリザベス女王と親しくなった。ヨーロッパ時代アインシュタインの弟子の一人であったハンガリー出身の物理学者レオ・シラードは、ヒトラー・ドイツが原子爆弾を製造する可能性を危惧し、コンゴのカタンガ地方のウランがヒトラーの手に落ちることを阻止する必要ありと考え、アインシュタインとベルギー王室との関係を利用することを思い付いた。これが、結局、アインシュタインが原爆製造をルーズベルト大統領に進言する有名なアインシュタイン書簡を生むのである。その最初の書簡(1939年8月2日付)に「アメリカ合衆国にはごく低品質のウラン鉱石が少しあるだけです。カナダとかつてのチェコスロバキアには良質の鉱石が多少ありますが、ウランの最も重要な産地はベルギー領コンゴです。」と書かれている。シラードが起草した文章である。ところが、ここに奇態な事実がある。アインシュタイン書簡が準備されつつあったその時に、その場所から程近いニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫内に大量のウラン精鉱が既に貯蔵されていたのだ。その倉庫はコンゴのカタンガの採鉱を支配していたベルギーの会社ユニオン・ミニエール(6-5参照)に属していた。シンコロブエのウラン鉱山もこの会社が所有していたのである。1942年夏、原爆開発の「マンハッタン計画」が発足した直後、スタテン島に眠っていたコンゴ産のウラン精鉱はアメリカ陸軍によって接収された。■
これを書いた時点で、上の「奇態な事実」についての調査が極めて不十分であったことをため、上の記述に時間的な勇み足を犯していたことをお詫びしなければなりません。しかし、この知識の足りなさは私に限られたことではなく、アインシュタイン書簡を書いた当のシラードも知らなかったことだった筈です。今では話の辻褄が大体合うようになりましたので報告します。
 1932年、英国のチャドウィックが電荷を持たない素粒子である中性子を発見、1934年、イタリアのフェルミは中性子を多数の元素に当てて人工放射性元素を作ることを始めました。フェルミの一番の狙いは、天然に存在する最大の原子番号(Z=92)を持つウランの原子核に中性子を当てて、天然には存在しないZ=93,94 の新元素を人間の手で作ることにあったのですが、お目当ての新元素が出来た証拠は一向に見付からない。1935年から1938年にかけて、ドイツのハーン、マイトナー、ストラスマンのチームも同じ試みを辛抱強く続けたのですが、超ウラン元素が出来た確証は得られませんでした。それもその筈、ウラン原子核は遅い中性子を吸収して、大きな運動エネルギーを持つ二つの中型の原子核に分裂していたのです。1939年1月になって、スエーデンでマイトナーとフリッシュによって、やっと核分裂の事実が確認されると、革新的なエネルギー源としてウランを使う可能性が、世界中の原子核物理学者の頭の中で閃きます。中性子の当ったウランが勢いよく二つに分裂して、その際にまた2個以上の中性子がこぼれ出ることになると、その中性子が別のウランを分裂させ、連鎖的な分裂反応の進行が期待されます。この中性子の放出が実際の起っていることを確かめる実験は、フランスのパリでジョリオ、ハルバン、コワルスキーのチーム、アメリカのコロンビア大学でフェルミとシラードのチームによって競争的に行われました。フランスのチームは実に手回しがよく、実験成功の翌月の1939年5月の1日と4日には、ウラン核分裂のエネルギーをゆっくりと取り出す方法(今で言えば原子炉)と爆発的に放出させる方法(核爆弾)についての二つの特許を申請しました。しかも、5月8日には、ジョリオはベルギーの首都ブリュッセルに足を運んで例のユニオン・ミニエール社(UMHK)の幹部たちに今後のウラン鉱石の重要性を説明し、その買い付けを申し出ました。その時のユニオン・ミニエール社の社長(ディレクター)が問題の男エドガー・サンジエー(Edgar Sengier)だったのです。
 1915年、コンゴのカタンガ地方の南部のシンコロブエで優良なウラン鉱石が発見されましたが、1934年、ジョリオが奥さんのイレーヌ・キュリーと協同で始めて人工放射性元素を作るまでは、イレーヌのお母さんが発見したラヂウムの方が天然放射性元素として人気を独占し、ラヂウムを抽出した後のウラン鉱石は、そのまま放置されていたのでした。1939年当時のシンコロブエのウラン鉱山には膨大な量のそうした残渣としてのウラン鉱石が堆積していたのです。それが,突然、重大な戦略物資となる可能性をジョリオ博士の話から嗅ぎ付けた、文字通りの「山師」エドガー・サンジエーは一生一代の大ギャンブルに出ます。1939年といえば第二次世界大戦勃発の年、ジョリオの訪問を受けた直後、つまり、大戦勃発の直前に、ベルギー人エドガー・サンジエーはシンコロブエに堆積していたウラン鉱石の半分に当る約1200トンを秘密裏にニューヨークに送り、スタテン島のユニオン・ミニエール社所属の倉庫に隠蔽貯蔵したのでした。戦争が始まると、サンジエー本人もニューヨークに移住しウォール街にオフィスを開いて、そこからユニオン・ミニエール社の事業を指揮することを始めました。
 アメリカの原子爆弾製造計画「マンハッタン・プロジェクト」は、レスリー・グローブ将軍の総指揮の下で1942年初夏具体的に動き出しますが、その9月、グローブの副官ニコルズ大佐はグローブに命じられてウォール街のエドガー・サンジエーのオフィスに行きました。ニコルズ大佐の任務は原子爆弾製造に必要なウラン資源を確保することにあり、最も有望視される供給源としてのカタンガのシンコロブエ・ウラン鉱山を所有するユニオン・ミニエール社がどの程度素早くウランを提供できるかを チェックするのが目的でしたが、グローブもニコルズもウランの早期確保が容易ではないとばかり考えていました。ところがニコルズをにこやかに迎えたサンジエーは“You can have the ore now. It is in New York, a thousand tons of it. I was waiting for your visit.” と言ってニコルズの度肝を抜いたのでした。将にその通り、グローブ将軍の鼻の下、ニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫に1200トンのウラン鉱石が,高値を付けるその日を待って、秘密裏に2年間も寝かされていたのです。ウラン鉱石は直ちにアメリカ陸軍の管理下に移され、また、陸軍の工兵軍団がコンゴに派遣され、ウラン持ち出しのための飛行場が エリザベトビル(今のルブンバシ)とレオポルドビル(今のキンシャサ)に整備され、コンゴ河のマタディ(マーロウ/コンラッドが上陸した!)に輸出港が建設されました。このルートを通って、1942年から1944年にわたって、約3万トンのウラン鉱石がエドガー・サンジエーのユニオン・ミニエール社によってアメリカ陸軍に売り渡されたとされています。このカタンガ生れのウランが、1945年8月6日午前8時16分、広島を壊滅させたのでした。1946年、アメリカ政府はエドガー・サンジエーの「連合国の勝利に目覚ましく貢献した功績」に対して『功労勲章(Medal for Merit)』を授けます。サンジエーは、米国市民ではない人間として、この勲章の初めての受賞者になりました。
 拙著『「闇の奥」の奥』の224~5頁に「1943年8月ルーズベルト大統領は英国首相チャーチルとカナダのケベックで協定を結び、アメリカはコンゴ産出ウランの二分の一の所有権を確保し、1944年3月に英米両国はコンゴ産のすべてのウラン買い付けの権利をベルギー政府に承認させた。銀行強盗が事前に山分けの相談をするのと何の変わりもない。ウランの産地シンコロブエは当時の英領ローデシア北部(現ザンビア)とベルギー領コンゴの国境のすぐ近くに位置する。英米のカタンガのウラン資源の一方的独占収奪はコンゴ共和国独立後の数多のトラブルの震源地をシンボリックに予告するものであった。」と書きました。ウラン資源をめぐるこの英・米・ベルギーの「契約」は東西冷戦の時代まで続いたことを思えば、青年首相ルムンバにカタンガ地方の支配を委ねるというのは、反ソ陣営としては絶対に受け入れられないことであったことが、よく分かります。
 世の中には「知らないままの方が良かった」と思われる事実が沢山あるようです。コンラッドが小説『闇の奥』の構想を温めていた丁度その頃、ベルギー王レオポルド二世はコンゴ河流域の黒人たちを酷使して、密林に自生するゴムの樹の樹液(ゴム原料)を、気が狂ったように収集して世界に売りさばき、巨利を得ていましたが、実は、その金はカタンガ地方の制覇と開拓に是非とも必要だったのでした。多数の黒人原住民を死に追いやって稼いだ資金が、回り回って、ヒロシマ・ナガサキの原爆を生んだという事実を知れば、日本人ならば誰しも全くやりきれない気持に追い込まれます。

藤永 茂 (2007年11月21日)


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エルドラド探険遠征隊は「闇の奥」には消えなかった

2007-11-14 09:36:56 | 日記・エッセイ・コラム
 マーロウが中央出張所に着いてみると、船長として乗り込むはずだった河蒸気が破損していて修繕が必要でした。そのためのリベットの到着を今か今かと待っていると、リベットではなく、エルドラド(黄金国)探険遠征隊と名乗るいかがわしい集団が賑々しく到着します。驢馬にまたがって威張りくさった白人たち、黒人と驢馬が運ぶ大量のお荷物。まず原作を読んでみます。「この呪わしい団体はエルドラド(黄金国)探検遠征隊と自称していて、どうやら一種の秘密結社であるらしかった。だが、彼らの語り口は、さもしい海賊のそれだった。肝っ玉なしの唯の無謀、勇敢さなしの唯の強欲、勇気なしの唯の残忍。彼ら全部ひっくるめて、先見の明とか、真剣な志とか、そんなものはカケラも持ち合わせず、この世の事業にはそうしたものが必要だという事も、全然分かっていないようだった。大地の奥深くからその宝を掠めとることが彼らの願望であり、金庫破りの盗賊さながらに、その願望の裏には何の道徳的目的もなかった。誰がこのご立派な事業に金を出したかは知らない。しかし、なんと、ここの支配人の伯父がこの団体の長だということだった。」(藤永訳82-83)。「数日すると、エルドラド遠征隊は、忍耐強く控えている荒漠たる大自然-ウィルダネス(荒野)-の中に入って行ったが、それは、まるで、海がダイバーを包み込んでしまうように、遠征隊を吸い込んで閉じてしまった。それから随分たって、驢馬が全部死んでしまったという知らせが入ってきた。驢馬より値打ちの低いあの人間どもの運命はどうなったものやら。間違いなく、他の連中と同じように、彼らにふさわしい運命に遭遇したのだろう。別に僕は訊いてもみなかった。」(藤永訳91)。
 これを読むと、エルドラド(黄金国)探険遠征隊なるものに対するマーロウの嫌悪の情の烈しさがよく伝わってきます。ぼろくその悪口です。『闇の奥』という小説では、中央出張所の支配人と、その伯父でエルドラド探険遠征隊を指揮する男の救いようのない嫌らしさ、低劣さに対する嫌悪に押されるようにして、マーロウが密林の奥に潜む謎の人物クルツに次第に強く心を惹かれて行くプロセスが、読者に頁をめくらせます。マーロウがコンゴ河の上流に向かう前に中央出張所を出発して密林に呑み込まれて消滅するエルドラド探険遠征隊というのはコンラッドの創作ですが、彼にこのアイディアを与えたコンゴ奥地遠征がアレクサンドル・デルコミューンという人物によって、現実に、行われました。この人物はキンシャサの中央出張所の支配人カミーユ・デルコミューンのお兄さんで、小説では甥と伯父の関係に変えてあります。
 2007年7月11日付けのブログ「『闇の奥』の読み方(2)」でもこの問題を取り上げましたが、その後もあれこれ読んでいるうちに、『闇の奥』評論の立場から、アレクサンドル・デルコミューンのエルドラド(黄金国)探険遠征隊については、もっと論じられるべき事柄が沢山あると思うようなっています。諸文献にアクセスを持たない素人の私としては、日本のコンラッド専門学者が研究課題の一つにして下さるようお願いする次第です。小説『闇の奥』ではこの探険遠征隊は原始の恐るべき密林の中に呑み込まれて消えたことになっていますが、現実のアレクサンドル・デルコミューンのエルドラド(黄金国)探険遠征隊は、黄金などの鉱物資源を求めてコンゴ河の支流カサイ河を遡り、カタンガ地方に乗り込んで、そこで南から北上してきた英帝国のセシル・ローズの勢力と争います。銅の産地として昔から知られていたカタンガ地方の制覇をセシル・ローズが狙っているという情報に警戒心を煽られたベルギーのレオポルド二世は例のアルベール・ティースに対策を依頼し、ティースは実働部隊の長としてアレクサンドル・デルコミューンを選び、遠征隊をカタンガ地方に送り込んだのでした。地下鉱物資源の宝庫カタンガをめぐるベルギーと英国の争いと駆け引きは,結局、レオポルド二世の奸智が功を奏してベルギー側の勝ちとなります。上に引用したコンラッドの『闇の奥』の辛辣な記述とは裏腹に、デルコミューンはレオポルド二世から委託された「事業」を有能に成し遂げました。流石のセシル・ローズも帽子をぬいで、“I thought I was clever, but I was no match for King Leopold”と言ったそうです。(John Semple Galbraith: Crown and Charter, p254)。もっとも、レオポルド二世のカタンガ地方制圧はデルコミューンの力だけで行われたのではなく、紆余曲折がありました。アフリカの分割争奪についての標準的参考書である『The Scramble for Africa』(Thomas Pakenham, 1991)の第22章に約20頁にわたる可成り詳しい記述があります。
 コンゴのカタンガ地方については拙著『「闇の奥」の奥』の224頁から数頁にわたって述べてありますが、アレクサンドル・デルコミューンのカタンガ探険遠征隊については言及していません。今回、コンラッド研究の立場からこの遠征隊を取り上げてほしいと考えるようになった主な理由は次の通りです。
 まずアフリカの地図を見て下さい。現在南アフリカの北にジンバブエ、その北にザンビアがあり、その又北に接してコンゴのカタンガ地方があります。上掲の拙著の135頁以下に書きましたが、セシル・ローズは自分が設立したBSAC(イギリス南アフリカ会社)の私設軍隊を今のジンバブエとザンビア(昔のマタベーランドとマショナランド)に侵攻させて、先住民族マショナとマショナランドを制圧します。1890年から1893年にかけてのことです。やがてあたりはローズの名を取ってローデシアと呼ばれる英国植民地になるわけですが、注目して頂きたいのは、この<1890年~1893年>という時期です。1890年9月24日、コンゴ河を下ってキンシャサに帰ってきたマーロウ/コンラッドは、疲れてはいましたが、予定されていたアレクサンドル・デルコミューンのカタンガ探険遠征隊に、コンゴ河の支流のカサイ河を遡る蒸気船の船長として、参加することを大いに当てにしていたことが私信から知られています。ところが、10月下旬、探検隊はコンラッドを置いてきぼりにして、カタンガに向けて出発してしまいます。コンラッドはひどく落胆し、ひどく腹を立ててしまいました。この烈しい怨念が小説『闇の奥』での中央出張所の支配人とその伯父の辛辣なこき下ろしに反映しているのは疑う余地がありません。『闇の奥』のマーロウの話の始めのところに、ブリュッセルの会社本社でアルベール・ティースに面接する場面がありますが、F. R. Karl のコンラッド伝によると(p298)、ティースの口約束では、『闇の奥』のストーリーの舞台となったコンゴ河本流を遡ってスタンレー滝(クルツの奥地出張所)にいたる船旅より、支流のカサイ河上流のカタンガへの大遠征探険の方が船乗りコンラッドに与えられる主な仕事であったようです。カール氏の本のこの部分を前には飛ばし読みしていたらしい私は、コンラッドが、コンゴ河上流への散々な旅からキンシャサに帰って来た後も、デルコミューンの探険遠征隊に参加することを強く願っていたという事実を取り上げて、以前、「コンラッドの嘘」と題するブログ(2006年3月29日)を書いたことがあります。コンラッドは、晩年に書いた『最後のエッセー』の中で、コンゴ河の船旅の終点の星空の下で、“A great melancholy descended on me”として、大いなる幻滅を味わったと述べています。もしこの心象が本当だったのなら、河を下りてきた後に、新しい探険にまたぞろ熱をあげるのはおかしいじゃないか-これを私は「コンラッドの嘘」と呼んだのでした。しかし、ティースとのもともとの約束がアレクサンドル・デルコミューンのカタンガ探険遠征隊への参加であったとすれば、話はすこし捩れてきます。専門家の解明をお願いしたいものです。
 今回皆さんの注意を特に喚起したいのは、このデルコミューンその他のベルギー側のカタンガ探険遠征隊とセシル・ローズが同じカタンガ地方に送り込んだ英国の探険遠征隊とが先陣争い、鍔迫り合い、をしていたという事実です。上に述べましたように、1890年から1893年あたりにわたったこの競り合いは,結局、レオポルド二世の勝ちとなりますが、ベルギーと英国のカタンガでの競合は、当時、英国の新聞がしきりと報道していたようですから、熱心な新聞購読者として知られるコンラッド、しかも、熱望していた探検隊参加を外されるという、いわば、煮え湯を飲まされたコンラッドが、強い関心を持って、このストーリーの展開を追っていたことは十分考えられます。上に引用した『闇の奥』の文章では「彼らにふさわしい運命に遭遇したのだろう。別に僕は訊いてもみなかった」となっていますが、実際には、コンラッドも大いに関心があったと考えられます。この時間的同時性は、マショナランド(今のザンビア)/カタンガ(南部コンゴ)という空間的接触と合わせて、同時代の小説家としてのシュライナーとコンラッドの対比につなげることも出来ます。予備知識なしでコンラッドの『闇の奥』を読む人には、暗黒未開のジャングルの奥のクルツの出張所のそのまた奥でレオポルド二世とセシル・ローズがビジネスの刃を交わしていたというイメージを心に描くことは全く不可能ですが、『闇の奥』出版当時の英国の読者たちはどうだったのか、好奇心をそそられます。植民地経営という侵略行為の蔭でヨーロッパ人の精神が直面する底なしの破滅を描いたのが小説『闇の奥』だとすると、デルコミューン兄弟ではなくクルツを選んだコンラッドのプロタゴニスト選択の問題はコンラッド研究の一つのトピックとなってよいのではありますまいか。アレクサンドル・デルコミューン(1855-1922)はコンラッド(1857-1924)と全くの同時代人、アフリカ探険のベテランで著書『アフリカ生活20年』(1922年出版、2巻)でも有名のようです。彼が『闇の奥』を読んだとすれば、中央出張所の支配人の“伯父”のモデルとしての自分をすぐに読み取ったに違いありません。
 カタンガのことを調べているうちに面白い文献に行き当たりました。Christine Meuris という著者の『SCRAMBLE FOR KATANGA』という本でダウンロードできます。レオポルド二世の昔から今日までのカタンガ地方、ひいてはコンゴやルワンダの経済と政治を左右してきたUMHK(Union Miniére du Haut-Katanga) という怪物私企業体は、実は、ベルギーだけでなく、早くから英国、さらに米国の資本によってコントロールされるようになって行きます。現在ではUMICOREと名前を変えているようですが、こうした事情はコンラッド専門家よりも貿易商社や投資会社の人々のほうが良く知っていると思われます。

藤永 茂 (2007年11月14日)


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