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大航海時代(だいこうかいじだい)は、15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。主にポルトガルとスペインにより行われた。
「大航海時代」の名称は、1963年岩波書店にて「大航海時代叢書」を企画していた際、それまでの「地理上の発見」、「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、増田義郎により命名された。
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とあります。増田氏によれば、大航海時代の始まりは1415年、終わりは1648年とされています。この提案は世界史の時代区分として、学問的に、十分の意義を持っているのでしょうが、ポルトガルによる北アフリカへの侵略(1415年)に始まる、ヨーロッパによる非ヨーロッパ世界の侵略と植民地化、それによる非ヨーロッパ世界の住民の大苦難時代は、この600年を通じて切れ目なく今日まで続いています。1492年、コロンブスがカリブ海の島に到着して、インドに着いたと思いこみ、周辺の先住民をインディアンと呼んだことはよく知られています。コロンブスを暖かく迎え入れた先住民たちについて、「健やかな体つきで良い奴隷として使えそう」であり、「物の所有という概念が希薄であり、彼らの持ち物を所望すれば、気前よく呉れる」といった感想を残しています。「コロンブスの卵」の話は有名ですが、おそらく作り話と思われますし、私たちがコロンブスについて覚えておかねばならないことは、口にするのもおぞましい先住民大虐殺の実行者であったという事実です。1493年、17隻の大船団を組んで二度目の大航海を敢行しますが、それには植民地の設立のための多数の軍人と入植者が乗船していました。コロンブスの軍隊がおこなった先住民の大虐殺は、その徹底した残忍性において特筆すべきものがありました。ヨーロッパから持ち込まれた伝染病や飢饉の影響も重なって、コロンブスの到着後の半世紀間に中南部アメリカの先住民の9割以上が殺され、その総数は数千万にも及ぶと推定されます。俄かには信じがたい、世界史上最大の大虐殺です。コロンブスが始めた先住民虐殺の残虐性の伝統は南北アメリカ大陸の侵略に受け継がれ、特に、やがてアメリカ合衆国となる地域ではその東部から始まって大陸西岸の“インディアン”の絶滅に至るまで継続します。このブログの前回で紹介したアーシュラ・K・ル=グウィンの語り口を拝借すれば、アメリカ大陸インディアン撲滅の『ホロコースト』は、ユダヤ人大量殺戮が実行されたナチ・ホロコーストを、その規模において、一桁上回るものであったのです。
一方、アフリカ大陸を侵略支配したヨーロッパ勢力は、アメリカ“新大陸”植民地化の労働力需要に見合う奴隷狩りを行ってアフリカ大陸の有能者人口を奴隷として大規模に“新大陸”に送り込み、また南アフリカの地域にはセトラー植民地を開きます。しかし、ここに一見奇妙な事実があります。大航海時代の始まり(1415年)からヨーロッパは猛然とアフリカ大陸に襲い掛かったにもかかわらず、19世紀の終わりの時点まで、アフリカ大陸の大部分がまだヨーロッパ諸国の領土にはなっていなかったのです。この史実については拙著『闇の奥の奥』に詳しく説明しましたので興味のある方は読んでください。ここでは「2 黒人奴隷の悲史」の冒頭の部分を引用します:
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すでに15世紀に始まったヨーロッパの海外大侵略(彼らはこれを大航海時代と呼ぶ)とアフリカ大陸の歴史に疎い私たちは、20世紀にあと一息という時点で、ヨーロッパのすぐ南に位置するアフリカ大陸の80%の土地がヨーロッパ諸国の領有下ではなく、先住民の手に残されたままであったと聞けば、奇異な感じを持つだろう。
コロンブスがアメリカを“発見”したのは1492年、ポルトガルのカブラルがブラジルを“発見”したのは1500年、アメリカ独立宣言は1776年、1861年にはアメリカの内戦(南北戦争)が始まり、1863年にはリンカーンが黒人奴隷の解放を宣言する。これはレオポルド二世即位の直前である。その350年間に約1000万人アフリカ黒人が奴隷として大西洋を渡り、交易商品として、“新大陸”に送り込まれ、ほぼ同人数がアフリカから狩り出されて輸送される途中で無残な死を遂げたと推定されている。史上最大の人間集団強制移動、大量虐殺の悲劇である・・・・
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大西洋をまたぐ奴隷交易が終焉に向かったのは、荒っぽく言えば、利益をあげる効率が下落したからであり、リンカーンの黒人奴隷解放にしても国家経済的なものが最大の理由でした。
アフリカ大陸本土の本格的収奪の開始のシンボルは、ドイツ首相ビスマルクの提唱で開かれたアフリカ分割に関するベルリン会議です。参加した国は、当時アフリカに野心を持っていた、イギリス・ドイツ・オーストリア・ベルギー・デンマーク・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ロシア・スウェーデン・オスマン帝国の14カ国、アフリカからの参加は全くありませんでした。全くもって、ひどい話です。会議は1884年11月から1885年2月末にかけて行われ、ベルギーのレオポルド二世にコンゴの支配を許すか否かが中心的な議題になりました。Scramble for Africaという言葉で知られることになったこのベルリン会議で承認されたレオポルド二世の私有コンゴ植民地で何が起こったかが拙著『闇の奥の奥』の主題です。また、このブログでも2007年から2008年にかけてこの問題を論じました。レオポルド二世のコンゴで彼の過酷な政策の犠牲になった黒人の死者数は少なくとも6〜700万人に及ぶと考えられます。1千万という数字も挙げられます(例えば、Noam Chomskyの『YEAR 501』のp20)。
第二次世界大戦後、アフリカ全土に脱植民地の動きが高まり、レオポルド二世のコンゴも、1960年6月30日、コンゴ共和国として独立を果たしますが、初代首相として選出されたパトリス・ルムンバは、米国CIA(当時の長官はアレン・ダレス)に操られたコンゴ国軍参謀長モブツ・セセ・セコのクーデターの犠牲となり、1961年1月17日に暗殺されました。享年35歳。それからの30数年は、東西冷戦たけなわの時期でもあり、アフリカの反共の護符として独裁者モブツは、ニクソン、レーガン、ブッシュ(父)大統領の“友情”をほしいままにし、その間、米欧の鉱業資本はコンゴの豊富な鉱物資源を貪欲に収奪したのでしたが、1991年のソ連解体後は、無用厄介の長物となり、「第一次コンゴ戦争」と呼ばれる内戦で政権の座を追われてモロッコに亡命、死歿。しかし、その後も「第二次コンゴ戦争」と呼ばれる国内の混乱が続き、失われた人命は合計すると優に7百万に達すると思われます。しかも、コンゴの住民たちの苦難は今も続いています。これは「内戦」ではありません。外から仕組まれた戦争です。世界の産業資本がコンゴの驚くべき豊かさの鉱物資源をほしいままに収奪するためには、しっかりとまとまった独立国コンゴ共和国など存在しない方が良いのです。パトリス・ルムンバの遺体は硫酸で溶解されてしまったとされていますが、彼の魂は冥界でのたうち回っているに違いありません。
筆が走りすぎてしまいました。これまでコンゴの人々が蒙ってきた「ショアー」、「ホロコースト」、「 ナクバ」のことを考えると、つい、私は興奮してしまうのです。拙著『闇の奥の奥』のp230に、私は、「過去五世紀に渡ってアフリカの黒人の上に際限なく積み上げられてきた「重荷」の総重量に比較すれば、アウシュヴィッツもヒロシマ・ナガサキも物の数ではない。死者の数で計っているのではない。罪業の重さ、罪業の深さで計っているのである」と書きました。次回はセトラー・コロニアリズムの主題に戻ります。
藤永茂(2018年6月18日)
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大航海時代(だいこうかいじだい)は、15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。主にポルトガルとスペインにより行われた。
「大航海時代」の名称は、1963年岩波書店にて「大航海時代叢書」を企画していた際、それまでの「地理上の発見」、「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、増田義郎により命名された。
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とあります。増田氏によれば、大航海時代の始まりは1415年、終わりは1648年とされています。この提案は世界史の時代区分として、学問的に、十分の意義を持っているのでしょうが、ポルトガルによる北アフリカへの侵略(1415年)に始まる、ヨーロッパによる非ヨーロッパ世界の侵略と植民地化、それによる非ヨーロッパ世界の住民の大苦難時代は、この600年を通じて切れ目なく今日まで続いています。1492年、コロンブスがカリブ海の島に到着して、インドに着いたと思いこみ、周辺の先住民をインディアンと呼んだことはよく知られています。コロンブスを暖かく迎え入れた先住民たちについて、「健やかな体つきで良い奴隷として使えそう」であり、「物の所有という概念が希薄であり、彼らの持ち物を所望すれば、気前よく呉れる」といった感想を残しています。「コロンブスの卵」の話は有名ですが、おそらく作り話と思われますし、私たちがコロンブスについて覚えておかねばならないことは、口にするのもおぞましい先住民大虐殺の実行者であったという事実です。1493年、17隻の大船団を組んで二度目の大航海を敢行しますが、それには植民地の設立のための多数の軍人と入植者が乗船していました。コロンブスの軍隊がおこなった先住民の大虐殺は、その徹底した残忍性において特筆すべきものがありました。ヨーロッパから持ち込まれた伝染病や飢饉の影響も重なって、コロンブスの到着後の半世紀間に中南部アメリカの先住民の9割以上が殺され、その総数は数千万にも及ぶと推定されます。俄かには信じがたい、世界史上最大の大虐殺です。コロンブスが始めた先住民虐殺の残虐性の伝統は南北アメリカ大陸の侵略に受け継がれ、特に、やがてアメリカ合衆国となる地域ではその東部から始まって大陸西岸の“インディアン”の絶滅に至るまで継続します。このブログの前回で紹介したアーシュラ・K・ル=グウィンの語り口を拝借すれば、アメリカ大陸インディアン撲滅の『ホロコースト』は、ユダヤ人大量殺戮が実行されたナチ・ホロコーストを、その規模において、一桁上回るものであったのです。
一方、アフリカ大陸を侵略支配したヨーロッパ勢力は、アメリカ“新大陸”植民地化の労働力需要に見合う奴隷狩りを行ってアフリカ大陸の有能者人口を奴隷として大規模に“新大陸”に送り込み、また南アフリカの地域にはセトラー植民地を開きます。しかし、ここに一見奇妙な事実があります。大航海時代の始まり(1415年)からヨーロッパは猛然とアフリカ大陸に襲い掛かったにもかかわらず、19世紀の終わりの時点まで、アフリカ大陸の大部分がまだヨーロッパ諸国の領土にはなっていなかったのです。この史実については拙著『闇の奥の奥』に詳しく説明しましたので興味のある方は読んでください。ここでは「2 黒人奴隷の悲史」の冒頭の部分を引用します:
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すでに15世紀に始まったヨーロッパの海外大侵略(彼らはこれを大航海時代と呼ぶ)とアフリカ大陸の歴史に疎い私たちは、20世紀にあと一息という時点で、ヨーロッパのすぐ南に位置するアフリカ大陸の80%の土地がヨーロッパ諸国の領有下ではなく、先住民の手に残されたままであったと聞けば、奇異な感じを持つだろう。
コロンブスがアメリカを“発見”したのは1492年、ポルトガルのカブラルがブラジルを“発見”したのは1500年、アメリカ独立宣言は1776年、1861年にはアメリカの内戦(南北戦争)が始まり、1863年にはリンカーンが黒人奴隷の解放を宣言する。これはレオポルド二世即位の直前である。その350年間に約1000万人アフリカ黒人が奴隷として大西洋を渡り、交易商品として、“新大陸”に送り込まれ、ほぼ同人数がアフリカから狩り出されて輸送される途中で無残な死を遂げたと推定されている。史上最大の人間集団強制移動、大量虐殺の悲劇である・・・・
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大西洋をまたぐ奴隷交易が終焉に向かったのは、荒っぽく言えば、利益をあげる効率が下落したからであり、リンカーンの黒人奴隷解放にしても国家経済的なものが最大の理由でした。
アフリカ大陸本土の本格的収奪の開始のシンボルは、ドイツ首相ビスマルクの提唱で開かれたアフリカ分割に関するベルリン会議です。参加した国は、当時アフリカに野心を持っていた、イギリス・ドイツ・オーストリア・ベルギー・デンマーク・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ロシア・スウェーデン・オスマン帝国の14カ国、アフリカからの参加は全くありませんでした。全くもって、ひどい話です。会議は1884年11月から1885年2月末にかけて行われ、ベルギーのレオポルド二世にコンゴの支配を許すか否かが中心的な議題になりました。Scramble for Africaという言葉で知られることになったこのベルリン会議で承認されたレオポルド二世の私有コンゴ植民地で何が起こったかが拙著『闇の奥の奥』の主題です。また、このブログでも2007年から2008年にかけてこの問題を論じました。レオポルド二世のコンゴで彼の過酷な政策の犠牲になった黒人の死者数は少なくとも6〜700万人に及ぶと考えられます。1千万という数字も挙げられます(例えば、Noam Chomskyの『YEAR 501』のp20)。
第二次世界大戦後、アフリカ全土に脱植民地の動きが高まり、レオポルド二世のコンゴも、1960年6月30日、コンゴ共和国として独立を果たしますが、初代首相として選出されたパトリス・ルムンバは、米国CIA(当時の長官はアレン・ダレス)に操られたコンゴ国軍参謀長モブツ・セセ・セコのクーデターの犠牲となり、1961年1月17日に暗殺されました。享年35歳。それからの30数年は、東西冷戦たけなわの時期でもあり、アフリカの反共の護符として独裁者モブツは、ニクソン、レーガン、ブッシュ(父)大統領の“友情”をほしいままにし、その間、米欧の鉱業資本はコンゴの豊富な鉱物資源を貪欲に収奪したのでしたが、1991年のソ連解体後は、無用厄介の長物となり、「第一次コンゴ戦争」と呼ばれる内戦で政権の座を追われてモロッコに亡命、死歿。しかし、その後も「第二次コンゴ戦争」と呼ばれる国内の混乱が続き、失われた人命は合計すると優に7百万に達すると思われます。しかも、コンゴの住民たちの苦難は今も続いています。これは「内戦」ではありません。外から仕組まれた戦争です。世界の産業資本がコンゴの驚くべき豊かさの鉱物資源をほしいままに収奪するためには、しっかりとまとまった独立国コンゴ共和国など存在しない方が良いのです。パトリス・ルムンバの遺体は硫酸で溶解されてしまったとされていますが、彼の魂は冥界でのたうち回っているに違いありません。
筆が走りすぎてしまいました。これまでコンゴの人々が蒙ってきた「ショアー」、「ホロコースト」、「 ナクバ」のことを考えると、つい、私は興奮してしまうのです。拙著『闇の奥の奥』のp230に、私は、「過去五世紀に渡ってアフリカの黒人の上に際限なく積み上げられてきた「重荷」の総重量に比較すれば、アウシュヴィッツもヒロシマ・ナガサキも物の数ではない。死者の数で計っているのではない。罪業の重さ、罪業の深さで計っているのである」と書きました。次回はセトラー・コロニアリズムの主題に戻ります。
藤永茂(2018年6月18日)