私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ニュー・オーリーンズ徴候

2007-12-26 11:10:12 | 日記・エッセイ・コラム
 前回のブログで、ハリウッドの黒人男優ダニィ・グロヴァーの発言:「We see the manifestations of New Orleans in every single major city in this country and nobody is talking about that. (ニュー・オーリーンズで起ったことの徴候がこの國のどの大都会でも見えているのに、誰もそれについて語ろうとしない)」を紹介し、「ニュー・オーリーンズ徴候」(the manifestations of New Orleans)とは何かを、かいつまんでお話ししました。今、アメリカの黒人(アフリカ系アメリカ人、African Americans と呼ぶべきでしょうが)に起っていることは、アメリカの近未来を占う上で、決定的な重要性を持っていると考えられます。信じ難いような、むごたらしい事態が進行していますが、ダニィ・グロヴァーがいささか誇張して言うように、ほとんど誰もそれを直視し、語ることをしていません。
 大きな都会の旧市街が老朽化し、住民たちが何らかの形で移住を余儀なくされ、古い建造物が取りこわされて再開発が行われる--これは日本でも珍しいことではありませんが、アメリカの都市の場合には、日本とは違うパターンが見られます。元来は白人たちが占めていた建物(住宅や店舗など)が老い朽ちかけて、白人たちがインフラも新しく整備された地区に移住した後に、黒人たちが入り込んで来て、黒人街が出来上がるというパターンです。不動産屋は家賃を安くして低所得層の黒人たちを詰め込み、建物のメンテナンスには費用を掛けず手を抜きますから、老朽化、荒廃化は一段と進みます。つまり、黒人スラム街の出現です。アメリカに少し長く滞在した人々には必ず思い当たる所があると思います。
 サンフランシスコを例にとります。今ではリニューアルが進んですっかり様変わりしたようですが、西のハーレムと呼ばれたフィルモア地区はこの黒人街化とその後に来るいわゆる gentrification(再開発による地域の高級化)のパターンの典型的な例とされています。昔、フィルモア地区はユダヤ人が集まって住んでいたのですが、その近くには農地もあり,その関連で日本人移民や中国人たちも住み着いていました。1906年の大地震と大火でサンフランシスコは甚大な損害を受けますが、フィルモア地区は比較的軽微な破壊ですみ、そのお蔭で、震災後、一時は市の商業中心の一つとして大いに栄えたのですが、もともと古い建物が壊れずに生き残ったのですから、フィルモア地区の老朽化は早晩免れぬところでした。1941年12月7日の真珠湾攻撃から数週間後、ルーズベルト大統領はフィルモア地区に住んでいた日系人約五千人を内陸の収容所に強制収容する命令を下します。そうして空きができた住宅に数千人の黒人が移り住んだのが“西のハーレム”の始まりで、1940年から1950年の10年間にサンフランシスコの黒人人口は10倍に膨れ上がりました。フィルモア地区には黒人の教会、劇場、レストラン、ナイトクラブが軒を連ね、黒人新聞も発行されて、活気に満ちた黒人居住地区が出現したのでした。特にジャズ音楽の一大中心として、エラ・フィッゼラルド、ルイ・アームストロング、ビリー・ホリデーなどの錚々たる面々の演奏が、ボブ・シティやニューオーリンズ・スウィング・クラブなど、フィルモアのクラブの夜を輝かせました。しかし、この繁盛と活気にもかかわらず、フィルモア地区は黒人スラム街として、連邦政府主導の都市再開発計画の下で、ブルドーザーによって蹂躙される運命を避けることが出来ませんでした。日系人が強制的に地区から排除されてから僅か20年後には、実質的には同じ運命がフィルモア地区に住み着いた黒人たちを襲ったのです。上に言及したgentrification(再開発による地域の高級化)という英単語は 名詞gentry(良家の人々)から来ていて、動詞gentrifyは、コウビルド英英辞書には“When a street or area is gentrified, it becomes a more expensive place to live because wealthy people move into the area and buy the houses where people with less money used to live.”と用法が示されています。何と嫌な言葉ではありませんか。サンフランシスコの黒人たちはこれをもっと分かりやすく“Negro Removal” と呼びます。黒人たちが住んでいた老朽建造物は取りこわされ、ブルドーザーによって整地し直されて、新しいビルや住宅が出来るわけです。これがゼントリフィケーションです。
 10万のサンフランシスコの黒人人口は僅かな時のあいだに4万に減り、フィルモアを失った彼らは市の南東部のハンターズ・ポイントと呼ばれる地区に集中して住み着いたのですが、ここでも、やがて、ゼントリフィケーションの嵐が黒人市民に襲いかかって来ました。この地区には、戦時中から造船産業と海軍基地があり、黒人労働者の大きな需要があったのですが、戦後40年で造船所も軍港も閉鎖されました。しかし、住み着いた黒人たちはHunters Point Bayviewと呼ばれる地区を中心に、建造物の老朽化は進んだとは言え、彼らなりに活気ある黒人街を作っていたのです。地名が示すようにサンフランシスコ湾(ベイ)に臨み、北には金門橋の偉容を望む景勝の地、都市開発、建築業界、不動産業界が、再開発による地域の高級化、つまりゼントリフィケーションを推進して、富裕な白人たちの街にしようとするのは当然です。どのようなプロセスでハンターズ・ポイントから黒人住民が排除されつつあるか。具体的な記述は省略しますが、その最大のポイントは、市や州政府が直接手を下すのではなく、再開発事業を全面的に私企業に委託(アウトソーシング)してしまうことにあります。かつて日本でもしきりに話題になった地揚げ屋的な手段も勿論使われています。
 もう一度、ニュー・オーリーンズに戻ります。ここでは「神風」ハリケーン・カトリーナがゼントリフィケーションの手間を随分と省いてくれました。広域破壊の仕事はハリケーンがやってくれたのですから。いつかやってくるこのハリケーン効果を期待して、臨海地区の黒人スラム周辺の防波堤システムの保守管理をわざとおろそかにしていたのではないか--黒人たちの間ではそうした陰謀説まで出る有様でした。
 ロサンゼルスのダウンタウンのスキッド・ロウとして知られる地区には、一万数千人のホームレスやひどく貧しい人たちが集まっていますが、ここでは昨夏から始まったロサンゼルス市警の「市街安全向上対策」がスキッド・ロウのゼントリフィケーションに大いに役立っています。多数の警官が絶えずパトロールしてまわり、黒人たちは些細な事で捕まえられてしまいます。この一年で逮捕数は6000件を上回り、ただ街を歩いているだけで「お前は仮出所か保釈中か」などと問い咎められたりもするといいます。これでは、出来ればどこか他所に移住したくもなるでしょう。
 サンフランシスコやロサンゼルスに限らず、都心の老朽化、黒人街化を避けて郊外に住居を求めた中流、中上流層の白人たちは、再び、都市内への回帰を望む傾向を示し、このゼントリフィケーションは、ハリウッドの黒人男優ダニィ・グロヴァーが言うように、アメリカの大都市でほぼ例外なく見られます。ハリケーン・カトリーナに襲われた後のニュー・オーリーンズで起ったことはこの事態の醜い本質を白日の下に露呈しました。しかし、グロヴァーが指摘する通り、殆ど誰もそれを直視し、声高に語ることをしません。
 ここでクイズを一つ。「もし来年の米国大統領選挙でバラック・オバマ氏が初の黒人大統領になったら、このむごたらしいゼントリフィケーション(ニュー・オーリーンズ徴候)に歯止めが掛かるだろうか?」私の答えは、断然たるNO! です。ダニィ・グロヴァーの答えも同じだと思います。今、私が、米国に関する現象として最も興味を引かれるのは、ブッシュでもネオコンでもなく、黒人大統領候補バラック・オバマ現象です。バラック・オバマ徴候、あるいはバラック・オバマ症候群と呼んでもよろしい。

藤永 茂 (2007年12月26日)


コメント

Thousands of Japanese, thousands of blacks

2007-12-19 11:33:57 | 日記・エッセイ・コラム
 ヒロシマ・ナガサキのことをよく知らないアメリカ人が、原爆でthousands of Japanese が死んだと読んだら、何人ほどの日本人が犠牲になったと思うだろうか? いまだに、私はこの問いにこだわっています。2007年11月28日のブログの終りに近く、私が次のように書いたのが、事の起りです。
★ Alan Dershowitz といえば、知る人ぞ知るハーバード大学の法学部の大教授です。そのダーショウィッツのベストセラー『イスラエルのための弁明(THE CASE FOR ISRAEL)』(2003年)の167頁にはヒロシマ・ナガサキの悲劇が次の文章で片付けられています。
■The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki killed thousands of innocent Japanese for the crimes of their leaders. The bombing of military targets inevitably kills civilians.■
ただこれだけ。人間の数が数万を越える場合には「thousands of」とは書かないことは、中学生ならば誰もが知っています。これはダーショウィッツ先生の記憶違いなんてものではありません。はっきりした意図をもってこう書かれているのです。★
 まず、読者から「英語としては、thousands of は 文字通りのthousands of に加えて、tens of thousands, hundreds of thousands, thousands of thousands, 極端な場合には、millions of thousands をも意味しうる」というコメントを戴きました。日本語では、何千、何万、何十万、何百万、を意味するわけで、理屈の上では正しいだろうと思います。もっとも、ランダムハウス英和辞典にははっきりそうとは書いてありませんが。ともあれ、上の文章でダーショウィッツは、イスラエル人に対して自爆攻撃を仕掛けたパレスチナ人の家族の住む家屋をイスラエル軍が爆破するのと、アメリカ軍が広島・長崎を原爆攻撃した行為とは、本質的には、変わらないと言っているのであり、この点だけでも腹に据えかねますが、ダーショウィッツは、その上さらに一石二鳥を狙って、ヒロシマ・ナガサキを矮小化する事をも同時に試みているのだと、私は勘ぐります。これはダーショウィッツを含む多数の人々が主張するアウシュウィッツの絶対唯一性と、私の心の中では、分ち難く結びついています。「人間が人間に加えた極悪非道の所業として、アウシュウィッツは、如何なる根拠に基づいて、比較を許さぬユニークさを要求し得るのか。」アウシュウィッツに象徴されるナチ・ホロコースト、ユダヤ人がショアーと呼ぶ問題は、私たちの世代にとってはヒロシマ・ナガサキと並ぶ根本的な問題であり続けています。ですが、この問題は、今ここで取り上げるには大き過ぎます。
 今回のブログでは、thousands という数詞の曖昧さを宣伝的に利用した明らかな例に出くわしたので、それを報告します。2005年8月23日アメリカの南部諸州を大型暴風(ハリケーン)カトリーナが襲い、ニュー・オーリーンズ市では堤防システムが崩壊して市街の八割が冠水しました。臨海部の黒人住居区域は堤防決壊の被害をまともに受けて目も当てられない状況に陥り、そこで恐らく千数百人の住民が死んだと思われますが、その正確な数は永久に分からないだろうと思われます。世界最強を誇る大文明国でハリケーンの総死者数が確定しないと聞いて、まさかと思う人もいるでしょう。ハリケーン・カトリーナはアメリカの真の姿の醜悪さを凝視する機会を我々に与えてくれているのですが、それを明視しようとする人々の数は極めて限られているようです。ハリウッドの黒人男優ダニィ・グロヴァーは政治的に勇気ある発言で知られる人ですが、「We see the manifestations of New Orleans in every single major city in this country and nobody is talking about that. (ニュー・オーリーンズで起ったことの徴候がこの國のどの大都会でも見えているのに、誰もそれについて語ろうとしない)」とダニィ・グロヴァーは言います。ニュー・オーリーンズで起ったこと、起っていること、それは,要約すれば次のような事態です。ニュー・オーリーンズ市南部の海に近い地域は建築物もインフラも老朽化して中下層の黒人たちで占められていたのですが、ハリケーン・カトリーナのために破壊され、多数の死傷者を出し、国内難民のような形で移住させられました。そうした人々は、勿論、もともと住んでいた場所に戻って生活を再建することを望んだのですが、州や市の当局は、この天与の好機に乗じて臨海地区の再開発を押し進めようとする実業界の力に押されて、元の黒人住民たちを排除する方向に動いたのでした。その先頭に立ったのは黒人の市長でした。次の文章は、その状況をうまく言いくるめようとする権力側の情報戦争を示す例文の一つです。
■ According to the U.S. military, at least 60,000 active and reserve U.S. military troops deployed to New Orleans in response to Hurricane Katrina, “which affected tens of thousands of people in New Orleans and the Gulf Coast.”
 Hurricane Katrina “affected tens of thousands” of people? Here is the Pentagon’s deceptive information warfare at work. The truth is that Hurricane Katrina affected hundreds of thousands of people in New Orleans alone. According to current numbers, at least 200,000 residents of New Orleans and some 500,000-700,000 people along the Gulf coast became “internally displaced persons”?refugees inside the borders of the United States of America.
 While the state and national government have celebrated the reconstruction of New Orleans and return of its citizens, at least 200,000 people remain displaced from New Orleans as of December 1, 2007.
 The biggest international charity in America, United Way, also minimizes the numbers of displaced people and misrepresents the realities. “Thousands of people were displaced and there has been hundreds of millions of dollars in damage to lives and property along the Gulf Coast,” reads a United Way public relations bulletin on December 4, 2007. “Many of those who evacuated have now settled in new areas?thanks to the generosity of many?and may never return.”
 The United Way summary above suggests that the helping hand of society has blessed the people displaced from New Orleans, but the inability of hundreds of thousands of people to return to New Orleans is a travesty of injustice. Thousands of families remain separated, scattered across the country, and the American Civil Liberties Union agrees that there are egregious violations of human rights under internationally recognized covenants and treaties.

上の例文は‘thousands’ という英語数詞の曖昧さが狡猾に見事に使われる有様を示しています。私としては、ダーショウィッツ教授が「ヒロシマ・ナガサキの原爆はthousandsの日本人を殺した」と書いたとき、彼は上の例文と同じように、被害者の数を実際より少ないように印象づけるテクニックを意識的に用いたのだと結論したくなります。もう一つ、‘thousands’ と‘millions’ がはっきりと区別されて使われた例を掲げます。内容自身も興味深いものです。ハイチは1804年の独立宣言に始まる黒人の努力によって成立した世界初の黒人共和国ですが、それからの200年の歴史は苦難の連続で、2004年には、民主的選挙で大統領となったベルトラン・アリスティドがアメリカ・フランス・カナダの巧妙な干渉によるクーデターによって国外に追放されました。アリスティドは中央アフリカ共和国に保護拘束されていますが、以下の記事は、今もしアリスティドがハイチの首都ポルトプランスに帰ってきたら、どれだけの数の民衆が国外追放された前大統領を出迎えるかを論じたものです。
■When Venezuela’s Hugo Chávez visited Port-au-Prince in March 2007 he was met by many thousands of cheering people. The slogan on the streets that day was ‘Vive Chavez, Vive Aristide, A bas Bush!’ When and if Aristide is allowed to return to Haiti, admits a minister in the current government, it is more than likely that many hundreds of thousands of people will turn out to welcome him home. No, insists Cap-Haïtien journalist Alinx Albert Obas , ‘if Aristide came back on a plane tomorrow then three or four million people would come out and cheer him.’■
スローガンは「チャベス万歳、アリスティド万歳、ブッシュくたばれ!」。「three or four million people」は「many hundreds of thousands of people」より断然多い、ということを意味していると思われます。以上で、英語の数詞「thousands」の使い方が大体納得できた気持になりました。この知見に基づいて、ダーショウィッツ教授のヒロシマ・ナガサキ発言を検討するのは日を改めて行いたいと思います。
 次回は、上に引用した始めの例文の中でダニィ・グロヴァーがニュー・オーリーンズ徴候と呼んでいる事態について考えます。ダーショウィッツ教授の語り口を拝借すれば、アメリカ国内の「thousands of blacks」がニュー・オーリーンズ徴候のために苦難を強いられています。しかし、その実数は millionsで表現すべき大きさと思われます。

藤永 茂 (2007年12月19日)


コメント

ベルギー国王レオポルド二世再考(2)

2007-12-12 11:09:04 | 日記・エッセイ・コラム
 拙著『「闇の奥」の奥』のp114以下に、1903年の暮れにコンラッドがケースメントに送った公開書簡の完訳があります。当時は、モレルが先頭に立つレオポルド王糺弾の運動が盛り上がり、モレルと共闘するケースメントが友人のコンラッドに協力を求めたのですが、コンラッドは直接の参加を断り、代りに公開書簡を書いて、糺弾運動のために自由に使ってほしいと申し出たのでした。英文学者のコンラッド論でこの書簡の全文が論議された例を私は知りませんが、是非取り上げてほしいと思います。英国におけるベルギー国王レオポルド二世の批判の深度を測る、あるいは、皮相性を見抜くためにも大いに役に立ちます。(全文は2007年1月3日付けのブログにも再録しました。)
 コンラッドは、先ず、レオポルド王を「富裕でしかも破廉恥な国王、これは全くもって手強い相手」と措定します。そして、「七十年も前に人道的立場から奴隷売買を廃止してしまったヨーロッパの良心が、コンゴの現状を黙認しているのは異常なことです。」と言葉を進めます。ここで「ヨーロッパの良心」とは1838年に奴隷制度廃止を決めた英国を意味します。ところが、そのヨーロッパの一小国の国王がコンゴの私有植民地で、今頃になって、奴隷制度を実施している。これは全くヨーロッパの面汚しだ。昔は大英帝国が率先してヨーロッパの良心を護ってきたものだが、今は他の国際問題に気を取られて、ベルギーの非行を正そうともしない。白人世界はアフリカの呪術師のような二人の男(レオポルド王とその右腕ティース)の詐術にすっかり丸め込まれて手も足も出ない。全く了解に苦しむ。--要約すれば、こうコンラッドは書いています。この公開書簡については今までも何度か論じて来ましたが、今、カタンガ地方の鉱業林業資産をめぐるベルギーと英国の利権争いとその妥協的解決、ロスチャイルドやグッゲンハイムなどの国際的金融資本の参画の実体は、少なくともある程度はコンラッドの知る所であったに違いないと考えると、書簡の筆致は、今までとは、別様に見えてきます。コンラッドの小説『闇の奥』は、コンゴ河という河名、ブリュッセルという都市名も伏せるほど、徹底して実名を使うのを避けたことで有名ですが、その語り始めに出てくる「二本マストの小型巡航帆船ネリー号」は実際に存在した船の実名で、この名の船の上でコンラッドの実業人の友人三人から南アフリカのダイヤモンド鉱山の株式投資などについての指導や忠告を受けていたことは、私の訳した『闇の奥』の訳注に書いた通りです。前に紹介したChristine Meuris という著者の『SCRAMBLE FOR KATANGA』という本によると、コンラッドが『闇の奥』を執筆していた丁度その頃、南アフリカで事業を展開していたイギリス人の鉱業家Robert Williams がブリュッセルを訪れてカタンガ地方の金とダイヤモンドの試掘調査を担当する話を進めています。このウィリアムズは南アフリカのセシル・ローズと親密な関係にあった人物で、、やがて、ユニオン・ミニエール社の副社長に就任し、彼の下でロンドンに準本社が設立されることになります。したがって、ネリー号上でコンラッドがロバート・ウィリアムズのことを耳に挟んだことは十分考えられます。もしそうだとすると、英雄モレルの反レオポルド王闘争を、一種の茶番劇として、冷酷な皮肉な目で見ていた可能性があります。鉱山事業の面ではレオポルド王は英国の実業界と密接な関係にあったのですから。コンラッドがモレルの支援に直接参加するのを断ったのは、彼の文人らしい政治運動嫌悪の情から出たものではなかったのかも知れません。
 国王レオポルド二世に対するベルギー国民の感情を調べてみると、日本人としての見地から、面白いことが見えてきます。それはレオポルド王と明治天皇との間の類似です。両人とも、列強が昔からやってきた植民地経営に、遅ればせに、手を出して、それなりの利益を国民にもたらします。今後は、こうした視点から、ゆっくりと、考えてみるつもりです。当然ですが、アダム・ホックシールドとは違うベルギー領コンゴの姿が浮かび上がってくる筈です。

藤永 茂 (2007年12月12日)              


コメント (1)

ベルギー国王レオポルド二世再考(1)

2007-12-05 11:13:08 | 日記・エッセイ・コラム
 2007年11月14日付けのブログ『エルドラド探険遠征隊は「闇の奥」には消えなかった』では、1890年代初頭、地下資源の宝庫カタンガ地方をめぐってベルギー国王レオポルド二世とイギリスのセシル・ローズが鍔迫り合いをして、レオポルドが勝ちを占めたと書きました。このベルギー側の勝利はユニオン・ミニエール社という名の強大な鉱業会社として結実し、この会社からの収益が、象牙でもなく生ゴムでもなく、ベルギー領コンゴからの総収益の最大の部分を占めることになるのですが、前回のブログを読んで、奇妙なことに気付かれた方もあったかもしれません。それは、1939年の時点で、イギリスの貴族ストーンヘーブン卿がユニオン・ミニエール社の取締役の一人になっていたという事実です。カタンガの地下資源をめぐってベルギーとイギリスは敵対関係にあったのではなかったか?もし、協力関係が成立していたとすれば、それはいつからのことなのか?
 その答えを詳しく知るためにはベルギーとイギリスによるカタンガ地方の植民地化の歴史を調べる必要があります。今日は手短かに結論的な事項だけ書きます。ユニオン・ミニエール社はカタンガ地方を含むコンゴがまだレオポルド王の私的植民地であった1906年10月18日に設立されますが、この会社はレオポルド王と、英国のセシル・ローズの協力者でダイヤモンドなどの採掘事業に豊かな経験を持つイギリス人実業家Robert Williamsとの協同事業のような形で発足したのでした。ユニオン・ミニエール社(正確にはUMHK、高地カタンガ・ユニオン・ミニエール社)は、始めから、ブリュッセルとロンドンに主なオフィスを持ち、ブリュッセルは一般業務、ロンドンは採鉱の技術的実務を担当しました。その上、多国籍金融資本からの出資も受けて、今で言うグローバリゼーションのはしりのような企業だったと言えます。こうなると、1906年という年がとても気になって来ます。拙著『「闇の奥」の奥』にも書きましたが、1906年前後といえば、ロンドンを中心にして、モレルやケースメントたちのレオポルド二世のコンゴ悪政の打倒運動が最高潮に達した時期で、そのため、1908年には、レオポルド二世はコンゴの私有植民地を議会政治体制下のベルギー政府に委ねることになります。1903年5月20日、英国議会下院はレオポルド二世のコンゴ自由国を非難する決議を満場一致で可決、1904年には、コンゴ自由国の内情を告発する報告書、コナン・ドイルの『コンゴの犯罪』が出版され、勢いに乗ったモレルは渡米してシオドア・ルーズベルト大統領と会見、またマーク・トウェインの支持も取り付けました。かくて、英国国会下院を含むアングロサクソン社会は理解ある支持を正義感に燃えた英雄モレルに与えて,コンゴにおけるレオポルド王の暴政は、1908年、遂に打倒された--これが、数ヶ月前まで、私も信じていた物語の筋書きでした。1906年は、たまたま、ハナ・アーレントの誕生年でもありますが、彼女は主著『全体主義の起源』の中でレオポルド王のコンゴ植民地経営を「ベルギー国王のきわめて個人的な「膨張」に基づくだけのsui generis (特殊なもの)であった」としていますが、カタンガ地方の歴史、ユニオン・ミニエール社をめぐる国際的資本の参加侵入の歴史を学べば学ぶほど、アーレントの断定が極めて皮相的なものであったことが明らかになります。ユニオン・ミニエール社には、設立当初から、ロスチャイルドの名に象徴されるベルギーと英国にまたがる資本が参画していましたが、1907年、カタンガの北に接するカサイ地方で林業とダイヤモンド等の鉱業を始めたフォルミニエール社という会社にも、発足当初から、米国のグッゲンハイム・グループが出資し、さらに、1950年には、ロックフェラー・グループがユニオン・ミニエール社の大株主になりました。こうして見てくると、レオポルド王のコンゴ植民地経営に対する英米社会の表面的糺弾の裏では、ベルギー、英国、米国の三国の癒着、というよりも、グローバライズされた帝国主義的国際資本が、文字通り、跳梁跋扈していたこと、そして、その状態は現在にまで続いていることがはっきりと浮かび上がって来ます。ニューヨークへ向けてのカタンガのウランの最初の出荷(1250トン)の輸送ルートは、シンコロブエからルムンバシ、サカニアを回って、英国領ザンビア、ポルトガル領アンゴラを横断する千数百キロに及ぶ鉄道で大西洋岸の港ロビトに達したものと思われます。実際、この鉄道はレオポルド王の時代に、ベルギー、イギリス、ポルトガルを含む国際的資本によって着工されたもので、その建設目的には、原住民の福祉のためのインフラの意味は全くなく、カタンガの豊かな地下資源をアフリカ大陸から外に盗み出すための鉄道でした。
 現在の世界の世論で、ベルギー国王レオポルド二世に対する批判の視角と視野を規定しているのは世界中で広く読まれているアダム・ホックシールドの『レオポルド王の亡霊』で、私もこの書物から強い影響を受けました。しかし、注目に値するのは、この本の中にはカタンガやユニオン・ミニエール社についての具体的言及が全く見当たらないということです。これは、レオポルド王の植民地経営政策批判論としては、はなはだ片手落ちと言うべきです。ハナ・アーレントは、上に引用した言葉に続いて、「ベルギー領コンゴでの残虐非道は他の地域での帝国主義者の行為とは比べものにならぬ残酷さで、帝国主義的支配の例として引き合いに出すとすれば公平を欠くだろう」と言っていますが、今の私としてはむしろ、「レオポルドのコンゴこそ、ヨーロッパの帝国主義的植民地支配が狡猾な隠蔽のカバーを剥ぎ取られ、その醜悪な典型的本質を露呈したケース」だと言いたいのです。ハナ・アーレントとは180度違う立場です。この立場から、この視角から、レオポルド王再考の論議を立ち上げようと思います。

藤永 茂 (2007年12月5日)


コメント