私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

カナダは石綿を大量輸出している!

2009-06-24 10:48:18 | 日記・エッセイ・コラム
 いまコンゴについてのシリーズを書いている途中ですが、大変ショッキングなニュースに出会いましたので、それを取り上げます。日本のNHKに相当するカナダの公営放送CBCが製作したドキュメンタリーで「カナダの鉱業会社がアスベスト(石綿)を大量インドに輸出している」ことが報じられました。インドでは、建築資材その他で、未だアスベストの使用が禁じられておらず、その発癌危険性が十分に認識されていないために、現場でアスベストを扱う労働者たちも、ただ埃よけの簡単なマスクや布で顔を覆っただけで、平気でアスベストの粉塵の中で働いているところもテレビに映りました。
 アスベストが中皮腫(体内の皮膜に生ずる腫瘍)や肺がんを起こすことは先進工業国では1950年代から広く知られるようになり、日本でも1970年代には政府もアスベストの発癌危険性について警告を発するようになりましたが、問題の深刻さを人々がはっきり認識するきっかけになったのは、2005年6月に、日本最大のアスベスト使用会社クボタが、2004年までにアスベスト(石綿)関係の疾患で79人の死者を出している事実を発表したことだったようです。2006年6月には、厚生労働省は、アスベスト(石綿)の輸入や石綿を含む製品の製造を(代替困難な場合を除いて)全面的に禁止し、また、石綿関係の疾患の潜伏期間が長いことを考慮して、石綿を扱った人々の作業記録や健康診断の記録の保存期間を、接し終えてから40年と定めたことが報じられています。
 カナダのアスベスト産業については、私の頭にこびりついている事がありました。それは、1949年のケベック州でのアスベスト労働者たちの大ストライキです。その頃ケベック州はモーリス・デュプレシという強権的政治家の支配の下で社会的に沈滞していました。カナダという國を本格的に知るための好著でカナダ首相出版賞を受賞した吉田健正著『カナダ20世紀の歩み』(彩流社、1998年)から、関係部分を引用します。:
■ (デュプレシ政権のもとで)金権政治、腐敗政治、強権政治がはびこり、労働組合は投資や経済発展を疎外するとして弾圧された。デュプレシ政権は、たとえば、1937年に「パドロック法」(パドロックとは南京錠のこと)を制定し、共産主義活動がおこなわれているとみられる施設を閉鎖する権限を警察に与えると称して、政敵の言論活動を封じた。また約五千人の労働者を巻き込んだ1949年のアスベスト社のストライキは、労働組合から「反労働大臣」と呼ばれていたアントニオ・バレット労働相が、州警察を動員して鎮圧した。一部のカトリック聖職者たちも支持した四ヶ月におよぶこのストは、「静かな革命」の前哨戦になった、と言われる.■(吉田、p198)
このケベックの「静かな革命」は、戦後のカナダの最大の社会変革で、それは、やがて異色のカナダ首相となるピア・トルドー(1919-2000)という傑物を生み出します。ハーヴァード大学とロンドンで経済学者ハロルド・ラスキの下で学んだ若いトルドーは、アスベスト・ストライキに身を投じて労働者の支持に熱情を注ぎ、事件についての著作も出版します。その当時はケベック州のアスベスト産業は米国資本の支配下にあり、労働者の待遇は劣悪でアスベスト粉塵の危険にもろに曝されていました。会社側はアスベストによる健康被害は存在しないという主張を強引に押し通していたようです。
 私の興味の中心は、私がカナダに移住した1968年のその年に、カナダ政界に彗星のように現われて自由党総裁となった48歳のピア・トルドー(Pierre Trudeau)個人に集中したために、今日まで、カナダの労災、産業公害としてのアスベスト問題については調べたことがありませんでしたから、今度のCBCのドキュメンタリーで、ケベック州で依然としてアスベストの露天掘りが大規模に行われ、大量のアスベストがインドに輸出されていると知って、あわててインターネットでカナダのアスベスト対策の事を調べてみて驚きました。日本での規制状況のほうが、カナダよりもはるかに良いのです。アスベストが発がん性物質であること、過去にアスベスト会社が労働者に無害だと言っていた事が嘘だったことは十分に認められています。2005年度の産業災害死者1097人の三分の一がアスベスト疾患による死者であった事も明らかにされています。しかし、カナダ政府は「アスベストはよく注意して取り扱えば被害は避けられる」という基本的姿勢を頑固にとり続けています。既存の建物からアスベストを取り除く作業も日本と同じように実施していて、国会議事堂についても、大きな国家予算を組んで除去作業がおこなわれました。しかし、一方では、子供の玩具に使用されるのを禁じる法律がないといいます。カナダ国内のいろいろの団体が開発途上国へのアスベストの輸出禁止の運動をやっていますが、カナダのハーパー政権はそれに踏み切ることをしません。カナダ国内のアスベスト鉱山(mines)では作業は自動化されていて、従業労働者の安全には十分の配慮がなされているようですが、輸出先のインドやインドネシアではアスベストの危険性に対する認識が低く、労働者も一般の人々も、アスベストを吸い、皮膚をさらしています。しかも、カナダの会社も政府もそれを十分承知の上で、大量輸出を続けているのです。「地雷(land mines)を輸出することとアスベストを輸出することに何の違いがあるか!」と自国を責めたカナダ人が居ます。カナダが開発途上国に輸出したアスベストは、やがて、地雷と同じように、いや、地雷より多くの、無数の人間を殺すに違いありません。アメリカは未だに地雷輸出禁止条約を批准していませんが、カナダは率先して批准しました。私はそのカナダを称賛したことがありますが、いまは複雑な気持です。人間にとって、会社にとって、国にとって、“儲かる”ということがそれほど大事だということを一体どう考えたらよいのでしょうか?
「儲けの問題だけではない。これが政治というものなのだ。カナダはフレンチ・カナダ(ケベック州)の分離独立という爆弾を抱えている」という人もあるでしょう。では「政治」というものは一体どうあるべきものなのか? 私の想いは、ここでまた、若い時アスベスト労働者のストに加わって戦った名政治家ピア・エリオット・トルドーに戻ってゆきます。
 アメリカと違って、カナダには国家的英雄、偶像的大政治家というものがありません。そういうものを國として祭り上げたりしない点で、カナダはすがすがしい國ですが、強いて、カナダ人がカナダの偉人を十人選ぶとすれば、トルドーは必ずその中に入ることでしょう。政治家としてのトルドーについては、上掲の吉田健正著『カナダ』に過不足のない記述がありますので、興味のある方は是非お読み下さい。トルドーは隣の大国アメリカを恐れず、自分が正しいと信ずる外交政策を遂行しました。カストロのキューバとの外交関係を維持し続けたのもその顕著な一例です。単に国交だけでなく、トルドーとカストロは個人的な親友になりました。そのため、アメリカの機嫌を大いに損ねて、ひと頃は入国禁止の措置にも会いました。まずトルドーを暗殺し、その葬儀に参加するためにカナダにやってきたカストロを葬儀の場で暗殺する計画が考えられたという噂も流れました。私の記憶に間違いがなければ、2000年、モントリオールのカトリック教会で行われたトルドーの葬儀には74歳のカストロも出席し、柩を肩にして運びました。トルドーが掲げた政治的スローガンは「Just Society(正義の社会)」です。私の語感としては、「正しいことがそのまま通る社会」といった、あまり肩を張らないメッセージのように思えました。いま評判のバラク・オバマの「Change(変革)」が頭に浮かびます。「オバママニア」と同じように、トルドーも「トルドーマニア」の現象を引き起こしました。しかし、トルドーとオバマは、政治家として、またハーヴァード出のインテリとして、異質の人間だと思います。仮に今、トルドーがカナダ首相だったとしたら、おそらく、アスベスト輸出禁止に踏み切ったでしょう。オマバ大統領は、現実問題として、アスベスト使用規制禁止の課題を抱えています。アスベスト産業に対する甘さの点でアメリカはカナダと似たようなもので、世界貿易自由化の立場から考えて、カナダの産業的輸出に制限を加える行為に出ることはありますまい。それが他のことにつながって、アメリカの“儲け”を損なっては大変ですから。20年、30年後にインドの貧民がアスベスト疾患で多数死ぬことを本気で心配してはいないだろうと思います。それが「オバマ政治」、「国際政治」というものなのでしょう。

藤永 茂 (2009年6月24日)



コンゴの今後(3)

2009-06-17 14:40:31 | 日記・エッセイ・コラム
 『There Is No Congo(コンゴは存在しない)』というタイトルの論文の翻訳を続けます。著者はアフリカに詳しいアメリカ人大学教授ジェフリー・ハーブストと南ア生れの白人グレグ・ミルズ、オッペンハイマー一族が創設したアフリカ経済振興のためのシンクタンクの主宰者です。
■ 現在のコンゴはその困難にみちた歴史の産物である。一世紀にわたる残酷な植民地時代、アメリカの協力者モブツの支配下での30年間の冷戦干渉と悪政、そして、1997年のモブツの失脚と追放後10年以上続いた戦乱。アフリカ南部の国々を巻き込んだあの紛争の結果として、ひと頃チェ・ゲバラの革命同志でもあった反乱軍指揮者ローラン.カビラが権力の座についたが、ほんの数年後にカビラは暗殺され、息子のジョセフ・カビラがコンゴの名目上の首都キンシャサに残されて、父のあとを継いだ。
若いカビラが引き継いだのは、国家統治と公共事業の機構というよりも、崩壊に瀕したインフラ・システムと、圧政と恩恵人事の上にあぐらをかいた危なっかしい国家的同一性だった。国際的管理のもとに行われた2006年の選挙で勝利したものの、彼は未だに、アメリカ合州国の4分の1のサイズの国土を統治するのに四苦八苦している。そこでは、フランス語という公用語、音楽、それに共有する過去の抑圧の歴史に基づく漠然としたコンゴ人としてのアイデンティティがあるだけで、それはまだコンゴ人の国家への忠誠心にはまとめられてはいない。彼の父親も煽動したことのある分離運動も含めて、数限りない分離主義者的策動は、コンゴをその中心都市と申し訳的に連結している統治不能の数々の政治基盤の集合体にしてしまった。カビラは思いのままになる政治的手立てをほとんど何も持っていない。規律のある軍隊とか警察力など無いにも等しく、彼らは国民に奉仕するよりも自分たちがうまく生活をすることに気を入れている。彼よりまえのモブツと同じように、カビラは恩恵人事に頼って権力の座に留まり、国外からの援助の流入と鉱業課税からの財政収入に頼っている。■
論文のこの部分はコンゴの歴史の概略で、これに続く主張、つまり、今のコンゴ民主共和国はまとまりのない疑似国家だから、アフリカの今後のためには解体してしまった方がよい、という主張の根拠を与える形になっています。
 この乱暴な主張に対して、コンゴ人からは強い反発の声が上がっています。アメリカのThe Black Commentatorという雑誌(そのウェブ・サイト)に寄せられた『The Case for the Congo(コンゴ支持論)』という論考がその一例で、著者はAli M. Malauというコンゴ人です。この人の論旨は、これまで私がコンゴに就いて学んできたこと、考えてきたことに照らして、他人事ではないと思われますので、今後は、マロ氏と私の考えをないまぜにして、ハーブスター/ミルズ論文の批判を試みます。
 アフリカは全体的に、特にサハラ沙漠以南の国々は、ひどい状況にあります。これは、知識の程度に差こそあれ、誰もが知っていることでしょう。サッカーの世界選手権大会が開催される南アフリカ共和国は、その上層階級の市民の意識では、ほかのアフリカ諸国とは民度が違うことになっているようですが、この「アフリカ内の先進国」の内情もひどいものです。アフリカ大陸の国々がどうもうまく行かず、ひどい有様が続いているのは何故か?
 これに対する答は両極に分かれます。一つは「アフリカの黒人たちがダメで、碌でなしの人間だからだ」というもの、もう一つは「この4百年間アフリカとアフリカ人を食いものにしてきた諸外国が悪い」という見解です。アフリカ人ダメ人間論は、アメリカでも日本でも優勢ですが、私は外国悪者論をとります。正直なところ、アフリカ人ダメ人間論の立場をとるアフリカ通と呼ばれる人々の気ごころが知れません-というよりも、その立場を多数の賢明そうな人々がとる理由を勘ぐってみたくなってしまいます。
 アメリカで黒人奴隷制廃止の大恩人とされるリンカーンは1858年8月に行われたダグラス判事との有名な論戦で「わたしは、白人種と黒人種のあいだに政治的・社会的平等を導入しようという意図は全く持っていない。両人種のあいだには肉体的なちがいが存在するのであり、わたしの判断によれば、そのようなちがいは、両人種が完全な平等の基礎のうえでともに生活することを、おそらく永遠に禁止するであろう。・・・・わたしは、黒人が多くの点でわたしと同等でないこと-まちがいなく皮膚の色において同等ではなく、おそらくは、生来の道徳的、知能的な資質においても同等ではないということ-で、ダグラス判事と意見一致である。」(山本幹雄訳)と発言しています。しかし、立て続けに、二人の黒人国務長官、一人の大統領、一人の黒人女性国連大使が実現した今のアメリカでは、もうリンカーンの考えは通用しないでしょう。アフリカに限ってアフリカ人ダメ人間論が成立する筈があり得ません。『コンゴは存在しない』論文の著者たちはこの点を意識しているからこそ、コンゴの解体が望ましい理由を地政学的な事情に求め、アフリカ人たちがダメだとははっきり言い放っていませんが、そう読者に匂わせたい気持が文章の行間から立ちのぼってきます。卑怯きわまりない語り口だと言わねばなりません。
 アフリカの国々について「天然資源が豊かな国ほど悲惨な状態にある」と言われることがあります。おかしなことではありませんか。さきほど紹介したマロさんというコンゴ人は「独立のときに相続した豊かな動物、植物、鉱物資源、農業や水力発電や人的資源にみちた莫大な地帯のことを考えると、今のコンゴが、たとえ凌駕しないにしても、南アフリカ、ブラジル、インド、中国、韓国、シンガポール、サウジ・アラビアあるいはアラブ連合に匹敵する國であっても不思議はない」と言っています。コンゴの人々の無念さが伝わってきます。『コンゴは存在しない』論文の著者たちは、「コンゴは國としてまとまらないから解体すべきだ」と主張しますが、それは論理の逆立ちであって、もともと、コンゴ民主共和国が、ベルギーの桎梏を脱して独立したかに見えたその時から、独立国コンゴの解体を望んでいた国際的勢力が、コンゴという若い國をまとまらないように保ってきたと考えるほうがはるかに自然なのです。今回のブログの冒頭で訳出したコンゴの略史に沿って、次回から、コンゴの歴史を少し詳しく辿ってみることにします。そうすることで、『コンゴは存在しない』論文の著者たちの本当の意図をあぶり出したいと思います。

藤永 茂 (2009年6月17日) 



コンゴの今後(2)

2009-06-10 14:44:17 | 日記・エッセイ・コラム
 前回の終りに、今後、「我々にとってコンゴとは何か」という問題を掘り下げて行くと書きましたが、より正確には、「私にとってコンゴとは何か」と書くべきでした。この数年、かなり偶然の機縁から、コンゴについて色々のことを知ることになり、その知識から私は大きな衝撃を受けました。その衝撃は極めて個人的なもので、「コンゴの人たちはこんなひどい目にあったのか。今もこんな苦しみの中にあるのか。自分に出来ることがあるならば、何とか助けてあげなければ」というようなアフリカ援助への意志を呼び起こされたのではありませんでした。私に押し付けられたのは、世界とは、人間とは、こんなものであったのか、という失望、結局は、これまで何もよく知らないまま、分からないままに、ノホホンとして生きてきた自分の愚かさに対するいたたまれないような失望と腹立たしさでした。これは、私には僅かな残り時間しかないという状況と深く関係していると思われます。もし、まだ二十代であるのならば、まだしっかりと学び直し、考え直し、出直すことが可能かもしれませんが、私の歳では、もう間に合わないという焦燥があります。最後の数年を静かなニヒリズムに身を任すのも一つの知恵かもしれません。そうしようと思っても出来ないこと自体が、私の愚かしさの決定的な証左なのでしょう。コンゴの場合と殆ど同じ問題を、私は、ナチ・ホロコーストについても抱え込んでしまっています。私は40歳代に三度もアムテルダムのアンネの家を訪ねて、ユダヤ人たちに加えられた許すべからざる残虐行為に怒りを覚え、アンネに象徴される人々の受難を心から追悼しました。ヨーロッパにある幾つものホロコースト記念施設も訪ねました。あの頃の私の一途の思い入れは一体何だったのでしょうか?パレスチナの人々の苦難を際限なく見せつけられている今、あの頃ユダヤ人の受難に捧げた私の想いは、ただ単に、私の、人間としての甘っちょろさ、愚かしさを示す証左以外の何物でもなかったのだという結論を強いられて、私はひたすら苦しまざるをえません。
前回の終りに予告した論文の検討を始めます。この『There Is No Congo(コンゴは存在しない)』というタイトルの論文は、2009年の3月、『フォーリン・ポリシー(Foreign Policy, 外交政策)』という雑誌に発表されましたが、恐ろしい内容と意図を持った論文であると、私は考えます。肝心な個所を選んで訳出し、コメントを付けます。まず始めから三つのパラグラフ:
■ 国際社会は、一つの、冷厳ではあるにしても単純な事実を認める必要がある。:コンゴ民主共和国は存在しない。コンゴ神話-この広大な国土には一つの主権国家権力が存在している-という神話を前提とする、平和維持軍派遣、特任使節、仲介調停、外交的イニシアティブ等々のすべては、必ず失敗する運命にある。そうではないような振りをするのを止める時が来ている。
コンゴの手に負えなさの殆どは、その広大な領土が人口密度希薄なのに天然資源はぎっしり詰まっているということから来ている。アフリカの中心に位置して殆ど全く内陸に閉じ込められた大地の広がりであるコンゴは200以上の民族グループからなる6千7百万の人口を持っている。九つの國と接し、その幾つかはアフリカ大陸の最弱小国だ。
“コンゴはでっかい國だ。誰も食べ飽きて立ち去るまでそれを貪る。”という諺がキスワリ地方にあるが、まさにその通りで、何世紀もの間、それが、コンゴの植民占領者たち、その隣国、さらには自国民の或る者たちがやってきた事なのだ。:コンゴの莫大な鉱物資源を、後に残された国土のまとまり等には全くお構いなしに、食い荒らしてしまっているのだ。コンゴは、国家を国家とするもの、つまり、内部的相互連結、首都圏の外の領土に一貫して権威を及ぼすことの出来る政府、国家的結束を促す共通の文化、あるいは共通の言語、といったものを何一つ持たない。それどころか、コンゴはせいぜい良く言って、多民族、人間集団、利権屋たち、略奪者たちの一つの集合体に成り果ててしまっている。■
 さて、はじめのパラグラフに述べられている、この二人の著者(Jeffrey Herbst, Greg Mills)の、コンゴ対策についての断言的な進言についてはしばらく置くとしても、上に描かれているコンゴの現状は多分に真実を含んでいます。しかし、著者の二人ともが“利権屋たち、略奪者たち”に属していることが明らかになった時、私たちはどう反応すればよいのでしょうか?
 著者は二人とも、私の目には、大変な曲者に映りますが、特に、グレグ・ミルズという人物は要注意です。英語を読むのが特別いやでない人は Wikipedia の Greg Mills の項を是非読んでください。現在の肩書きは、南アフリカのヨハネスブルグにあるブレントハースト財団という名称のシンクタンクの最高責任者ということになっています。この財団は、2005年、オッペンハイマー一族によって、アフリカの経済発展のために設立されました。アフリカのオッペンハイマー一族といえば、ダイヤモンド・ビジネスに少し本格的に興味をお持ちの人ならば、必ずご存知、例の世界最大のダイヤモンド会社デビアス、あの「ダイヤモンドよ永遠に」のデビアスの持ち主です。コンゴからもせっせとダイヤモンドを持ち出しています。グレグ・ミルズはジェフリー.ハーブスト教授との共著書『貧困から繁栄へ:グローバリゼーション、良いガバナンスとアフリカの回復』(2002年)の出版以来、数冊の著書を出版し、世界中の新聞雑誌で健筆を振っているようですが、国際政治の現場にも深く頭を突っ込み、アフガニスタンやルワンダでも派手に活躍しています。とくに、2008年にはルワンダのカガメ大統領の戦略アドヴァイザーを務めたとあっては、胸騒ぎを覚えずにはおれません。個人的な趣味は、歴史的なレーシングカーの復元とそれを駆ってのレーシングだそうで、いやはや大した御仁のようです。この人物が「コンゴ民主共和国は存在しない。」と声高に宣言して、コンゴ民主共和国の切り崩しを狙っているわけです。彼の本当の狙いは何処にあるのか。論文の語り口から、それを読み取る作業を次回から始めます。

藤永 茂 (2009年6月10日)



コンゴの今後(1)

2009-06-03 10:59:32 | 日記・エッセイ・コラム
 先頃の豚インフルエンザの大騒ぎの中で、私は、しきりに、コンゴのことを考えていました。2008年に行われた信頼できると思われる調査結果によると、コンゴでは、紛争に関係した原因(主として飢餓と病気)で毎日平均1500人が死んでいます。豚インフルエンザの大騒ぎ中は,アメリカで一人、カナダの田舎でまた一人、といった具合に、毎日、毎日、死者数がテレビのニュースの度に物々しく報道されましたが、何故あんなに大げさに騒ぎ立てたのでしょうか?日本の政府やマスメディアの人たちの判断の誤りが積み上がり重なり合っただけの事だったのかもしれませんが、騒ぎ方があまりに不思議なので、今でも、本当の理由は何だったのか、訝らずにはおれません。毎年の“新型”インフルで平均的に何人亡くなっているのか、せめて騒ぎの終り頃にでも、ニュースで人々に知らせてくれてもよかったのではないかと思います。併発症を入れると、おそらく、毎年、千人のオーダーの病死者は出ているでしょう。アメリカでは万のオーダーのようですから。ものにはバランスというものが大切です。
 9・11で3千人ほどのアメリカ人が殺されたために、「テロとの戦い」というヘンテコなものが始まり、そのためにイラクやアフガニスタンやアフリカの各地で、これまでに百万のオーダーの無辜の人々が殺されていますが、その罪業への贖罪の意識は、いわゆる先進諸国の間では極めて希薄です。この許しがたい心理状態と豚インフルエンザの大騒ぎとの間には密接な連関があります。ひとりひとりの人間の命の尊さが等しくはないという考え方が通奏低音として鳴っているからです。もちろん、一つの國の政府と社会が、自国民の安全を第一に考えるのは自然なことです。しかし、その政治的現実と、自分たちの命は他の人間たちの命より先験的に価値があると考えることとは、区別しなければなりません。少なくとも、人の命には尊さ加減に差があると思っている人は、「人間の命は等しく尊い」としらじらしく言うことを止めてほしいと思います。
 同じアフリカの大量死の報道にしても、極端に偏向することがあります。コンゴとダーフール(スーダン)がその一例です。コンゴでは1996年以後に限っても、5百万人以上が紛争の犠牲で死んでいますが、ダーフールで2003年に始まった紛争では約30万人の死者が出たと推定されています。もし、現在でも継続的に毎月平均4万5千人がコンゴで死んでいるとすると、今年だけでもダーフール紛争の全死者数を超えてしまいます。コンゴ紛争とダーフール紛争の一番の違いは、ダーフールでは戦いがアラブ系と非アラブ系の軍事勢力の間で行われ、スーダン政府がアラブ系のほうに肩入れしたのですが、コンゴの内紛にはアラブ/非アラブの色分けがつかないことです。ブッシュ政権はダーフールで起ったことはジェノサイド(民族大量虐殺)だと大いに騒ぎ立てましたが、国連はジェノサイドと認定していません。問題は欧米(日本を含む)の政府と世論(マスメディア)の取り上げぶりです。2003年2月のダーフール戦争勃発後から現在に至るまで、とくに国際的話題がスーダンからソマリア沖の海賊問題に移るまでは、ダーフール関係の報道の量はコンゴ関係のそれの3倍ほどになったことを示す統計が発表されています。共同通信のアフリカ・リポーターであったブライアン・ミーラーという人は、次のようなひどいことを、2008年に、書いています。
■ もし、ニュース・ストーリーが、人肉を食ったとか、ゴリラが絶滅に瀕しているとか、少女が鉈で強姦されたといったようなエキサイティングな要素を含む場合には、大西洋横断の旅に耐えるに十分な大きさの翼を持つかも知れないが、そうでないニュースは、コンゴのデスクから送ってみても、途中の海水の中に真っ逆さまに「没」ということになるだけだ。■
 2009年の3月、『フォーリン・ポリシー(Foreign Policy, 外交政策)』という雑誌に「There Is No Congo(コンゴは存在しない)」というタイトルの論文が発表されました。それは
■ The International community needs to recognize a simple, albeit brutal fact: The Democratic Republic of the Congo does not exist. (国際社会は、一つの、冷厳ではあるにしても単純な事実を認める必要がある。:コンゴ民主共和国は存在しない。)■
というカテゴリカルな断言に始まります。幾つかの意味から、これは極めて重視すべき発言です。この論文から出発して、次回から「我々にとってコンゴとは何か」という問題を掘り下げて行きたいと思います。

藤永 茂 (2009年6月3日)