私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

コンゴの今後(4.5)

2009-08-26 13:00:43 | インポート
「もう、やめにしようじゃないか」と、私は叫びたくなります。米国発の世界的金融混乱で、うまい儲け先を失った投機的資金がアフリカなどの未開発国の広大な耕作可能の土地を買いたたいて、しきりに買い占めているようです。米国、英国に加えて、インド、中国、韓国の名前が挙がっています。私が知らないだけで、日本もやっているのでしょう。英国のガーディアン紙によれば、この6ヶ月間だけでも、2千万ヘクタール(1ヘクタール=1万平方メートル)を超える農耕適地が売られたり、借地契約が結ばれたりしているようです。その広さは、ヨーロッパ全体の耕作可能面積の半分にも及びます。その土地では投資国の必要に応じた農産物が栽培されることになっていますが、それ以前に、跳梁跋扈する国際的投機資金の一儲けの舞台になることは間違いありますまい。名もないアフリカの農民たちが、知らぬ間に足下の土地を奪われ、追い出されるか、奴隷的労働を強いられることになるのでしょう。物質的富を求める人間の強欲には限りというものがないのか。人間の人間に対する残忍さというものは、かくも限りのないものなのか。「もう、やめようじゃないか!」と叫ばずにはおれません。
 アメリカ史学者山本幹夫氏の『ジェファソン』の中に、アメリカの「建国の父祖(ファウンディング・ファーザーズ)」の人間的本質を見事に摘出した箇所がありますので、引用させてもらいます。:
■ ここに一通の手紙がある。1786年8月12日、マディソンがジェファソンに宛てて書いたものである。
曰く、「今度のニューヨーク旅行は、もっぱらモンロー大佐とわたしとで練ったモホーク川沿いの土地買収計画によるもので、二人でその土地に往ってみて、すっかりほれ込んでしまった。
土質はケンタッキーとほとんど優劣つけ難いし、大西洋諸州の範囲内にあって、(インディアンのいる)あらゆるフロンティアから安全な距離のところに位置しているうえ、潮水地帯へ航行可能な・・・・ハドソン川の支流に近く、かつ地価がエーカー当り、8~10ポンドの、人口の多い入植地から10~20マイルほどのところにある。
先般、ワシントン将軍と同地方のことを話し合ったが、かれもモンローやわたしと同じ考えで、金の余裕があれば土地登記をやりたいが、あそこは合衆国中で自分の好みに一番の土地だと話していた。
モンローと二人で少々の買い付けをしたが、大きな地所を買い付けられなかったのは、ひとえに、十分な金を用意するのが難しかったからだけのことである。
そこで相談だが・・・・ 次のようなやり方はどうか。貴下の個人的な財力の信用を利用して4000~5000ルーイを借り出す。貴下の保証付きでモンローとわたしが支払いの義務を負う。・・・・ 年賦払いで利子は年6パーセント以内とし、元金償還は8~10年以内とする。・・・・恐らく、貴下が財産を増やす正当な手段として、これほど適切なやり口は他にありえないであろう。・・・・ 金利以上の土地の値上がりによる儲けの見込みについては、われわれは、土地の実質的な価値そのものに内在している高低差などをまるで問題にせず、開拓地と無住地とのあいだの現時点における価格差を念頭に置いているのだ。
同地方の開拓地は、既述のように、エーカー当りは8~10ポンドで取引されているが、この無住地は、少しばかり川の上手で、まだ人が住んでいないというただそれだけのことで差をつけられ、われわれは1ドル50セントで買い付けた。もっと大面積を買い付ければ、値段はもっと下がることは間違いない。同地が他にくらべて安いということは、以上のようなアクシデンタルでかつ一時的な二、三の原因によるものだ。
われわれが目を付けている土地は、主に、大面積を所有しながらも負債を抱えているか、都市に居住しているかして、土地売却よりほかに借金対策が出来ないか、あるいは、資金を要する取引をしているかいずれかの、複数の連中の所有地なのだ。現時点での地価の安さの大きな要因である正貨不足ということもまた、おそらくは一時的なものであろう。・・・・
もうひとつだけつけ加えておきたい。良質の新しい土地、立地条件の良い土地の買収が、かつて冒険者たちに良き報酬をもたらさなかった例はほとんどなかった、と。われわれの決断を決定づけるこれら諸々の見解を付して、このプロジェクトを貴下の前向きの考慮にゆだねるものである。・・・・
親愛なるともにして傾倒者、ジェームズ・マディソンより」と。
これは、アダムズ(第二代大統領)という飛車を欠いだだけの、「建国」将棋における大駒たちの矢倉模様である。ワシントン(初代大統領)とジェファソン(第三代大統領)とマディソン(第四代大統領)とモンロー(第五代大統領)とが、土地の買い占め、地上げと土地転がしの相談をしているさまは、それだけで絵になる。■
信じられますか?これが、あの麗々しい独立宣言を世界に向かって行い、アメリカ合州国の独立に成功した、いわゆる「建国の父祖」たちの実像なのです。これが、人間としての彼等の「たち(質)」なのです。そして、アメリカ合州国という国は、その「建国の父祖」に発する伝統を今日まで脈々と継承してきました。現在、アフリカの格安の土地を買いあさっている大投機屋たちの間でも、「建国の父祖」たちと同じようなやり取りがあっても何の不思議もありません。
 去る7月11日(土)、オバマ大統領は、ガーナの首都アクラで、アフリカ全体に向けた講演を行いました。これも「建国の父祖」以来の伝統に則った極めて注目すべき内容ですので、体力が許せば、次回に、詳しく読んでみたいと思います。


藤永 茂 (2009年8月26日)



被爆体験

2009-08-19 11:38:46 | インポート
 たしか、2005年、ヒロシマ・ナガサキ60周年の時だったと思います。ニューヨークにTV JAPAN というテレビ局があり、主に日本で出来たテレビ番組を流しています。そのニュース番組で異様な場面を見たのです。国連本部の建物の中の人通りのかなりあるホールウエイのようなところで、長崎で被爆した一人の老男性が背中の左側に縦に長く深くえぐられた原爆のケロイド化した傷痕を写真パネルで示し、ご自身も背中をあらわにして、原爆被爆の凄まじさを訴え、核廃絶と世界平和を訴えておられました。そこへ一人の40歳前後の浅黒い皮膚の色の男性が立ち止まって、しばらく、被爆者の訴えを聞いていたのですが、特別反発の調子でもなく、ただ平坦な静かな声で、「あなたと同じような苦しみを味わった人間は世界には無数にいる」と言って立ち去ってゆきました。そのシーンを見て以来、私は、折りにつけて、男の言い残した言葉を反芻しています。
 長崎の爆心から1キロ余りのところにあった三菱兵器の工場で、私の兄は被爆しました。爆発の直前に、たまたま地下室に降りていったため、腕に火傷を負っただけでしたが、急いで階段を駆け上がった兄は、そこで言葉を超えた地獄図に立ち会ったのだと思います。
 兄は被爆後ただちに壊滅した工場を離れて東に向かい、終戦の数日後、当時、私が父母とともに細々と百姓仕事をして暮らしていた福岡市郊外の二部屋の小屋に、姿を現しました。衣服は汚れきり、半痴呆の状態でした。それから数日間、言葉にならないことを虚ろな目でしゃべっていましたが、次第に精神状態がしっかりしてくると、もう被爆については語らなくなってしまいました。それは、2003年に86歳で永眠するまで変わりませんでした。ただ、兄がおそらく被爆直後に見たものからの衝撃で一種の痴呆状態にあった時に、その口から漏れた地獄絵の一部として私の記憶にこびりついている兄の言葉があります。「上にあがってみると、動員の女子生徒たちが、何人も、溶けて並んでいた。」と兄は言ったのです。兄は何を見たのか?少女たちが溶けて並んでいた、とはどんなことだったのか?それらのイメージははっきり結像するすべを知らないままに、私の胸の中にうずくまり続けています。
 原爆被爆体験と他の空襲体験、または悲惨な戦争体験を区別する特徴は存在すると思います。それは基本的には核反応が従来の化学反応に比べて全く桁はずれの破壊的エネルギーと有害放射線を放出することに由来します。これは大概の人々がよく承知していることがらです。しかし、死を含めて、個々の人間に押し付けられる苦痛と悲惨はあくまで個々の人間の体験であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもあり得ません。その意味では、ヒロシマ・ナガサキが、ドレスデンや東京大空襲と、あるいは重慶での被爆者個人の体験、あるいは、沖縄の岩穴の中で生起したことと区別される根拠はないのです。国連本部の建物の中のホールウェイで、通りがかりの男が長崎の被爆者に投げた言葉はそうしたことを意味したのであろうと、私は考えます。あの男の子供が劣化ウラン弾の被害にあって腹部が異様に膨れ上がり、とうとう死んでしまったということも、あり得ないことではありません。
 私の想いはいつも故鎌田定夫氏が書かれた「原爆体験の人類的思想化を」という文章に戻ってゆきます。その終わりに近く、鎌田さんはこう言っておられます。
■ それは単なる文化や歴史観の違いの問題ではない。あの戦争と原爆によって真に魂の危機を体験したか否か。真に死者と被爆者の立場に立ってあの悲劇を受けとめ、思想化し得たか否か、その根本が問われているのだ。■
長崎で被爆した兄が、わが苫屋の縁先に現れた日からこのかた、原爆について考え続けて来たつもりの私ですが、いまだに、鎌田さんが求められた真の思想化ができていません。しかし、ドレスデンの大空襲を地上で体験し、小説『スローターハウス5』を書いたカート・ヴォネガットも、彼らしい語り口で、「原爆はどうも違う」と言っています。過去の幾多の戦争でわれわれ日本人が犯した罪科と正面から向き合って内的に対処したあと、未だに多量の核兵器を所有し、にわかにはその廃棄に踏み出さない国々に対して、確固たる思想的立場から、核兵器の廃絶を、正々堂々と、要求できるようにならなければなりません。核兵器問題に関するオバマ大統領のメンターであるキッシンジャーは「核抑止力」の思想を世界に押し付けてきましたが、その思想と論理を断固として拒否し続けた湯川、朝永、豊田などの我が先輩たちは、「核兵器は絶対悪である」という立場を堅持したまま、鬼籍に入られました。キッシンジャーはおそらくこう嘯くでしょう。「核兵器を絶対悪呼ばわりして何になる。我々アメリカは核兵器を現実の兵器としても、外交戦略の武器としても極めて有効に使って来た。我々はこのやり方を変えるつもりはない」と。もし、原爆を使ったことに本当の道義的責任を感じているならば、直ぐにでもやるべきこと、やれることがあります。ハーグの国際法廷をアメリカの外交戦略の道具とすることを即刻やめて、ヒロシマ・ナガサキの戦犯性についての真剣な討論の開始を阻害しないようにすることです。

藤永 茂 (2009年8月19日)



オバマ大統領は頼りになりますまい。

2009-08-12 09:26:07 | 日記・エッセイ・コラム
 今年4月、チェコのプラハで、オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと発言したことを、広島市長も長崎市長も大変高く評価して、この機会をしっかり捉えて核廃絶運動を進める考えを表明されました。核廃絶は我々の悲願であり、その願いの達成のために役立つことは何も決して見過ごさない態度には全面的に賛成です。しかし、オバマ大統領その人に大きな期待をかけることは、こちらが傷つかないために、やめておいた方が良いと思います。オバマ大統領は広島にも長崎にも来ることはありますまい。万が一、来たとしても、我々の心に本当に響く言葉を彼から聞くことは絶望的です。オバマ大統領は普通の意味での平和主義者ですらないのです。彼と彼を取り巻く(あるいは彼を動かしている)連中の頭の中には政治しかありません。核廃絶の動きについて言えば、彼らの関心は核の脅威からアメリカ合州国を(そしてまたイスラエルを)守ることです。9・11以来、自国をテロリストの攻撃から守るために、世界中の人々にどれだけ膨大な迷惑をアメリカは掛けて来たことか。しかも、このことについて、アメリカの責任ある人間が「ご迷惑をおかけしてすみません」というのを、私は、ただの一度も聞いたことがありません。アメリカという国はこうした国なのです。核廃絶のことを想うとき、必ず想起することがあります。スミソニアン原爆展論争に連関して故鎌田定夫氏が書かれた「原爆体験の人類的思想化を」という文章です。その終わりに近く、鎌田さんはこう言っておられます。
■ それは単なる文化や歴史観の違いの問題ではない。あの戦争と原爆によって真に魂の危機を体験したか否か。真に死者と被爆者の立場に立ってあの悲劇を受けとめ、思想化し得たか否か、その根本が問われているのだ。■
この視点から言えば、オバマ大統領の思想のレベルは全くの異次元に属します。誰だって戦争は反対だ、というレベルを超えては、彼は反戦思想の持ち主でも何でもありません。うまくやれれば戦争は良い政治的手段だと考える人間です。“真に死者と被爆者の立場に立ってあの悲劇を受けとめ、思想化し得た”人物では絶対にありません。たとえ彼が核廃絶について巧言令色を弄して、人々を喜ばすことがあっても、それは精密な政治的計算が生み出した以外の何ものでもありますまい。

藤永 茂 (2009年8月12日)