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glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

怒!

2005-03-17 09:38:13 | Weblog
夕べ、寝る前になんと言うこともなくテレビのスイッチを入れた。目に入ってきたのは中国国境に於ける北朝鮮の銃殺の光景でした。罪状は脱北者幇助だそうです。その非人間的情景に怒りが体内を駆け巡りました。

子どもの頃の話です。
我が家は満州からの引揚者が作った開拓の近くにありました。その一角に朝鮮の人たちが住みつきました。水の豊富な所で戦前から発電所があったのですが、その同じ川に新しい発電所建設がはじまり、多くはその建設労働者でした。
今以上に民族差別の激しい時代です。その地域に行く事は禁じられていました。ある日、年下の姉妹と知り合いました。美人ではないけれどとても気立ての良い子たちでしたが、彼女たちは決して日本人の地域にはやって来ませんでした。私は密かに遊びに行くようになりました。父は教師をしていたので小言は言いませんでしたが、母は世間体が悪いと激しく私を責めました。それでも一年もすると母との間に暗黙の了解が成立し、私は堂々と彼らの元に通えるようになりました。

朝鮮人と結婚した若い日本人女性がいました。朗らかな気立ての良いその女性と私は親しくなりました。噂では、彼女は日本人男性に騙されて女の子を生み、その子を連れて結婚したと言うことでした。夫との間にも当時2才になる女の子がいました。トシコと呼んでいました。2才とは思えないきりりとした眼をし、その瞳は黒々と深く、静かな煌きをたたえていました。私はこの子がすっかり気に入り、暇さえあればこの子と遊んでいました。

トシコにとって運命は残酷でした。小学生の時父を亡くし、中学生の時母を失いました。後で知ったのですが、夫が亡くなってから母親はトシコとその弟妹2人に日本国籍を取得させようと努力していたが、手助けをしてくれる人は誰もいなかったということでした。
日本国籍の姉を母方の伯父が引きと取り、利発なトシコは池袋にある朝鮮人学校のある教師の養女となり、弟妹は児童養護施設に入れられたと聞きました。

その3年後、私が大学4年生の8月の事でした。帰省すると、前日トシコが訪ねて来たというのです。北朝鮮に渡る前に私に会いたかったということでした。私が明日帰るから1泊するようにと母は進めたのですが、彼女は数日後、新潟から出る船に乗らなければならないので時間が無いとすぐに帰っていったそうです。最後に姉に会うために帰省し、時間を割いて我が家に寄ったのでした。

彼女は弟と妹と一緒に暮らしたいと思っていたそうです。朝鮮人の養父母は17才の彼女が弟妹を育てられるのは祖国しかないと朝鮮帰還を進めたのだそうです。彼らの進言に従って彼女は朝鮮行きを決意したということでした。
私は激しく憤っていました。彼女の血の半分は日本人。日本の大人たちは彼女を見捨てたのです。そして、朝鮮人の養父母も自分たちは日本に残り、幼さないとも言える少女に子ども二人の養育を任せて、知人もいない国へと送り出したのです。

彼女のことを思う時、私は怒りを押さえることができません。
北朝鮮ではカースト制度のように成分によって身分が分かれていると聞きました。在日だった帰還者は一番低い成分だそうです。彼女たちには日本人の血が流れています。ということは下層階級の中の下層なのでしょうか。

帰還の後、数年経って、姉の所に生活が苦しいので援助してもらえないかという便りが数回届いた後、彼女からの音信は無いと聞きました。

トシコよ、生きているなら脱北でも良い帰っておいで!あなたの母が望んだように、日本国籍を取る手助けが今ならできます。これが私の本音です。
コメント (2)
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