いつのまにか高校3年生になっていました。高校は生徒500名くらいの女子高で、大学進学者は殆どおらず、受験戦争とはほど遠い楽しい毎日が過ぎていました。私は漠然と進学を決めていたものの、実際は何を学ぶか進路を決めかねていました。その時、再び緑の星とめぐり逢いました。
11月始めの土日は高校の文化祭でした。各クラブの展示会と演劇部、音楽部を中心とた講堂での公演が主な内容でした。公演には各クラスも何か出し物を出すのです。2学期が始まると、文化祭で何をするかがクラスの話題にになっていました。
2年生の時、私たちのクラスには演劇部員が5人もいました。かれらの意見に押し切られ演劇をする事になりました。ところが、部員たちはクラスの演劇には出演できない、自分たちは指導するだけと言うのです。彼らが選らんだのは若草物語でした。小学校の学芸会以外、舞台に立ったことがないと私は抵抗しましたが無駄でした。私には主役のジョーの役が割り振られました。演技ができない私たちに業を煮やしたかれらは、終には演劇部の顧問まで連れ出し、厳しく指導された私たちは、どうにか舞台に立つことができました。
クラス会での討論の時、私は人形劇をしようと提案しました。舞台に立ちたくない大勢が賛成し、演劇部員の意見を押し切りましたが、すぐに難問に直面しました。人形作りと舞台作りです。本で読んだ紙粘土を作り、それで人形の頭を作ろうとしたのです。ミキサーなどありませんから、濡らした新聞紙をすり鉢ですりづぶし粘土にしました。この作業は正に重労働でした。この労働を人形何個分もするのかとみんなうんざりしました。その上、試みに一つ作った頭はとても重かったのです。みんなで、無い知恵を絞っているとひとりが朗報をもたらしました。
12月に人形劇団プークがこの町で『青い鳥』の公演を行なうので、団員が宣伝にやって来る、そして隣の高校で懇談会を開くことになったと言うのです。その時出席してくれたら人形の作り方も教えるというのでした。喜んだ私たちは参加すると返事をしました。この座談会に私たちのクラスから10名ほど参加しました。
団員は3名程いたでしょうか。かれらがはじめに話したのは青い鳥の作者でもあるベルギーの文学者モーリス・メーテルリンク(1862~1949)についてでした。
彼は日本のアジア侵略を非常に憎み、怒り、その遺言書の中で、自分の死後、50年間は自分の作品の日本での翻訳、上演を禁止しました。ですから、当然青い鳥の日本上演はできなかったのです。そこでプークの主宰は、未亡人に平和を愛するメーテルリンクの作品を是非日本の子どもたちに見せてくださいとエスペラントで手紙を書いたそうです。
その時、貰った返事ですと回された手紙が私んの元にも来ました。薄いぺらぺらの紙で、そこには薄緑色の星のスタンプがありました。
『緑の星』!
それは、私が中学生の時に惹き付けられた緑の星でした。劇団の主宰受け取ってメーテルリンク夫人からの返事もエスペラントだったのです。エスペランティストのあなたならきっと平和を愛しているでしょう等々とあり、上演を許可しますという内容であると言う説明でした。
メーテルリンク夫人がエスペランティストかどうかはわかりません。しかし、この言葉が実際に使用されているという感激がが私を突き抜けました。エスペラントと出会うためにやはり上京しなくてはと決心していました。
エスペラントが現実に使用されているという喜びは、以後、私の支えとなりました。誰がどんなにエスペラントをけなしても、例えば役に立たないとか、死語であるとか、使用者が少ないとか言っても私はたじろくごともありませんし、エスペラントの実用性を確信しています。
蛇足です。
文化祭の人形は彼らの話からヒントを得て、新聞紙を丸めて頭の形を作り、和紙を貼り、乾いたところで新聞紙を抜き取るという手法で、軽くて見栄えのする人形を作る事ができました。当日は子どもたちが沢山見に来てくれて大盛況でした。ただ、手づくりの舞台は人形遣いがあまり動き回ったので最後には歪み、クラス総出で支えることとなりました。そして、幕が下りると同時に崩れ落ちました。
私とエスペラントとの実際の出会いはこれから2年後のことです。その事についてはいつか話すことがあるかもしれません!
また、プークとはエスペラントの PUPO KLUBO (人形クラブ)から頭文字をとったとその時言われました。つまり、PUKなのでしょう。

11月始めの土日は高校の文化祭でした。各クラブの展示会と演劇部、音楽部を中心とた講堂での公演が主な内容でした。公演には各クラスも何か出し物を出すのです。2学期が始まると、文化祭で何をするかがクラスの話題にになっていました。
2年生の時、私たちのクラスには演劇部員が5人もいました。かれらの意見に押し切られ演劇をする事になりました。ところが、部員たちはクラスの演劇には出演できない、自分たちは指導するだけと言うのです。彼らが選らんだのは若草物語でした。小学校の学芸会以外、舞台に立ったことがないと私は抵抗しましたが無駄でした。私には主役のジョーの役が割り振られました。演技ができない私たちに業を煮やしたかれらは、終には演劇部の顧問まで連れ出し、厳しく指導された私たちは、どうにか舞台に立つことができました。
クラス会での討論の時、私は人形劇をしようと提案しました。舞台に立ちたくない大勢が賛成し、演劇部員の意見を押し切りましたが、すぐに難問に直面しました。人形作りと舞台作りです。本で読んだ紙粘土を作り、それで人形の頭を作ろうとしたのです。ミキサーなどありませんから、濡らした新聞紙をすり鉢ですりづぶし粘土にしました。この作業は正に重労働でした。この労働を人形何個分もするのかとみんなうんざりしました。その上、試みに一つ作った頭はとても重かったのです。みんなで、無い知恵を絞っているとひとりが朗報をもたらしました。
12月に人形劇団プークがこの町で『青い鳥』の公演を行なうので、団員が宣伝にやって来る、そして隣の高校で懇談会を開くことになったと言うのです。その時出席してくれたら人形の作り方も教えるというのでした。喜んだ私たちは参加すると返事をしました。この座談会に私たちのクラスから10名ほど参加しました。
団員は3名程いたでしょうか。かれらがはじめに話したのは青い鳥の作者でもあるベルギーの文学者モーリス・メーテルリンク(1862~1949)についてでした。
彼は日本のアジア侵略を非常に憎み、怒り、その遺言書の中で、自分の死後、50年間は自分の作品の日本での翻訳、上演を禁止しました。ですから、当然青い鳥の日本上演はできなかったのです。そこでプークの主宰は、未亡人に平和を愛するメーテルリンクの作品を是非日本の子どもたちに見せてくださいとエスペラントで手紙を書いたそうです。
その時、貰った返事ですと回された手紙が私んの元にも来ました。薄いぺらぺらの紙で、そこには薄緑色の星のスタンプがありました。
『緑の星』!
それは、私が中学生の時に惹き付けられた緑の星でした。劇団の主宰受け取ってメーテルリンク夫人からの返事もエスペラントだったのです。エスペランティストのあなたならきっと平和を愛しているでしょう等々とあり、上演を許可しますという内容であると言う説明でした。
メーテルリンク夫人がエスペランティストかどうかはわかりません。しかし、この言葉が実際に使用されているという感激がが私を突き抜けました。エスペラントと出会うためにやはり上京しなくてはと決心していました。
エスペラントが現実に使用されているという喜びは、以後、私の支えとなりました。誰がどんなにエスペラントをけなしても、例えば役に立たないとか、死語であるとか、使用者が少ないとか言っても私はたじろくごともありませんし、エスペラントの実用性を確信しています。
蛇足です。
文化祭の人形は彼らの話からヒントを得て、新聞紙を丸めて頭の形を作り、和紙を貼り、乾いたところで新聞紙を抜き取るという手法で、軽くて見栄えのする人形を作る事ができました。当日は子どもたちが沢山見に来てくれて大盛況でした。ただ、手づくりの舞台は人形遣いがあまり動き回ったので最後には歪み、クラス総出で支えることとなりました。そして、幕が下りると同時に崩れ落ちました。
私とエスペラントとの実際の出会いはこれから2年後のことです。その事についてはいつか話すことがあるかもしれません!
また、プークとはエスペラントの PUPO KLUBO (人形クラブ)から頭文字をとったとその時言われました。つまり、PUKなのでしょう。
