glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

1945年8月14日。そして、アイスキャンデー

2005-04-05 08:25:51 | Weblog
 1945年8月14日。その日の午後、大人たちは落ち着きを失っていたのでしょう。夕方近くに、私たち子どもも、今夜大空襲があると知りました。実際に空襲がどんなものか知っていたわけではありません。ただ空襲になったらあの防空壕に逃げなさいと教えられていました。
 友人たちと防空壕の下見に行きました。他の顔見知りの子どもたちも数人来ていました。私たちはまるで夕方からキャンプやハイキングに出かけるように興奮していました。別れる時には、『また夜ね!』などと言ったような気がします。

 夕食後、兄たちと防空壕に行きました。防空壕は人でいっぱいでした。私たちを入り口に押し込んで、兄がほかの防空壕の様子を見に行きました。どこも人でが一杯だったようです。 
 町内ごとに、入る防空壕は旗の色で区分されていました。小さな町でしたが、三つの防空壕に町民全員が避難できるはずは無かったのです。ふと、ご真影の防空壕を思い出しました。あそこは空っぽなのにどうして人が入ってはいけないのだろうと。

 やがて父が来て言いました。『ここで死んだら、家族の骨も拾えない。死ぬ時はみんな一緒だ!家に帰ろう。』兄弟が多かったので、二人の兄は、ひとりはまだ中学5年生でした、軍隊に行っていましたし、姉も他の地方の赤十字病院で看護婦をしていました。
 家に帰ると玄関の土間にムシロを敷き、その上に敷布団が敷いてありました。灯火はありませんでしたがとても明るい夜でした。時間はわかりません。空襲警報がなりました。両親はわたしたちを寝かせ、上から掛け布団を掛けました。暑いので頭を出すと無理やり布団の中に押しやられました。飛行機のプロペラ音が響き渡りました。
 緊張に耐えられなかったのか、2才の弟が『オシッコ!』と騒ぎ出しました。困った母はいきなり私を起こし、『オシッコさせおいで!あなたは小さいから、敵から見えないかも知れない。』と、弟と一緒に外を押し出しました。その時、爆撃機B29がその銀色の機体を煌めかせながら、編隊を組んで頭上に飛んで来ました。恐怖に震えながら、私は弟にオシッコをさせていました。

 爆弾は落ちて来ませんでした。8月14日、日本は無条件降伏していたのです。しかし、爆撃機は日本が降伏する前に基地を飛び立っていました。爆弾を積んだままでは燃料不足になるので、飛行機が基地に帰ることは不可能でした。B29は海に向かっていたのです。全ての爆弾を海に投下して帰って行ったそうです。


 8月15日、戦争は終わりました。その日、大人たちは、ほっとしたような、気が抜けてしまったような表情をしていました。でも、私たちの生活に特別な変化は無かったように思います。
 翌日であったか、翌々日であったか記憶は定かではありません。アイスキャンデーが売り出されたと聞いて、母からお金を貰い買いに行きました。代金は多分、10銭か20銭です。母はなんと高いアイスキャンデーだと嘆きました。きれいなピンクと空色の2種類がありました。

 その味は? ― 冷たいだけ!!ただの氷でした。甘くありませんでした。

 砂糖は高価で一般には出回っていませんでした。この色水を凍らしただけのアイスキャンデーが私の初めての買い物でした。
コメント
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