青い鳥の歌をご存知ですか。メーテルりンクの『青い鳥』の歌なのです。古いものだろうと思います。メロディも単調単純で今の子どもの歌とは比べられません。
夢のお国の青い鳥
おまえの生まれはどこの国
オランダ、イタリア、スペインか
南の南の熱い国
夢のお国の青い鳥
おまえの生まれはどこの国
チルチル、ミチルいましたら
母さんどこへ行きましょう

1946年、終戦の翌年父の転勤で山のふもとにある村に引越しました。貸家が見つからず小さな山の山腹に住みつきました。すぐ近く、下の方にツタに覆われた発電所がありました。戦前は白亜の建物だったそうですが、爆撃を逃れるために、ツタを這わせたということでした。
夜の電灯は、当初は点いていたのですが、世の中が落ち着くに連れ、電球のタングステンが赤くなるだけで、電球の存在を示すだけのものとなりました。銅線の方が方が電気を良く通すのだそうですが、当時の電線の多くは鉄線でした。お金儲けをした人が、自分の家への配線を銅線に変えていったのです。ですから、配線が鉄線の家には、余裕がある時以外は、電気が来なくなっていったのです。
発電所を目の前にしながら、我が家では、夜はランプとか、カーバイトとかを点けました、そして家族は、ストーブや灯火のそばに集って、父や母の話しを聞きました。
母が話してくれた物語、青い鳥、レ・ミゼラブル、グリム童話、アンデルセンの童話、日本の昔の話、アイヌの物語等々、記憶にあるものだけでも数えきれません。父は歴史が中心でした。世界史、日本史の断片を楽しく話してくれました。食べ物は無かったけれど、テレビゲ―ム漬けの今の子どもたちと比べると、心豊かに育ったように思います。



お話は私を見知らぬ国に駆りたてました。青い鳥の物語は幸せは家庭にあるということを教えているのですが、私は歌の中の熱い国、オランダ、スペイン、イタリアへぜひ行きたいと願っていました。
本当はオランダは熱い国ではないのです。歌の作者も外国など行ったことは無く、想像で書いたのでしょう。
1993年、バレンシアで開かれた世界エスペラント大会の後、8日間の旅行に参加しました。同室者がオランダ人でした。がっしりとした体格で背も高く、杖をついていました。そして大きな旅行カバンを持っていました。そのカバンの中には大判のバスタオル3枚と部厚いレインコートが入っていました。
彼女が言うには、スペインは暑いと聞いたけれど、こんなに暑いとは思わなかった。オランダは雨が多くて気温も上がらないので、ぬれた時の用心にバスタオルも沢山持ってきたというのでした。バス内の気温表示は時には49度Cになっていたのです。



彼女は70才でした。クリスマスカードだけの付き合いでしたが、もう2年カードを受け取っていません。
もうひとりフランス人の女性が杖をついていました。私が、このように体が不自由になった時、果たして家族は、海外への旅行を許すだろうかと考えました。もしも家族を説得しても、世間が家族や私を嘲笑うでしょうね。
日本の社会は障害のある人には生き難いですね。ミィユンヘン空港でのできごとです。私は息子とアテネ行きの飛行機を待っていました。自閉症らしい、8~9才の子どもが、慣れない環境の中で不安に駆られ、飛び上がり、泣き喚いていました。家族も近くの人たちも平静で何事も起こっていないような態度でした。日本なら親はオロオロと困惑し、周囲の人たちは避難し、遠巻きに眺める事になるでしょう。
話は青い鳥からそれてしまいました。

夢のお国の青い鳥
おまえの生まれはどこの国
オランダ、イタリア、スペインか
南の南の熱い国
夢のお国の青い鳥
おまえの生まれはどこの国
チルチル、ミチルいましたら
母さんどこへ行きましょう

1946年、終戦の翌年父の転勤で山のふもとにある村に引越しました。貸家が見つからず小さな山の山腹に住みつきました。すぐ近く、下の方にツタに覆われた発電所がありました。戦前は白亜の建物だったそうですが、爆撃を逃れるために、ツタを這わせたということでした。
夜の電灯は、当初は点いていたのですが、世の中が落ち着くに連れ、電球のタングステンが赤くなるだけで、電球の存在を示すだけのものとなりました。銅線の方が方が電気を良く通すのだそうですが、当時の電線の多くは鉄線でした。お金儲けをした人が、自分の家への配線を銅線に変えていったのです。ですから、配線が鉄線の家には、余裕がある時以外は、電気が来なくなっていったのです。
発電所を目の前にしながら、我が家では、夜はランプとか、カーバイトとかを点けました、そして家族は、ストーブや灯火のそばに集って、父や母の話しを聞きました。
母が話してくれた物語、青い鳥、レ・ミゼラブル、グリム童話、アンデルセンの童話、日本の昔の話、アイヌの物語等々、記憶にあるものだけでも数えきれません。父は歴史が中心でした。世界史、日本史の断片を楽しく話してくれました。食べ物は無かったけれど、テレビゲ―ム漬けの今の子どもたちと比べると、心豊かに育ったように思います。



お話は私を見知らぬ国に駆りたてました。青い鳥の物語は幸せは家庭にあるということを教えているのですが、私は歌の中の熱い国、オランダ、スペイン、イタリアへぜひ行きたいと願っていました。
本当はオランダは熱い国ではないのです。歌の作者も外国など行ったことは無く、想像で書いたのでしょう。
1993年、バレンシアで開かれた世界エスペラント大会の後、8日間の旅行に参加しました。同室者がオランダ人でした。がっしりとした体格で背も高く、杖をついていました。そして大きな旅行カバンを持っていました。そのカバンの中には大判のバスタオル3枚と部厚いレインコートが入っていました。
彼女が言うには、スペインは暑いと聞いたけれど、こんなに暑いとは思わなかった。オランダは雨が多くて気温も上がらないので、ぬれた時の用心にバスタオルも沢山持ってきたというのでした。バス内の気温表示は時には49度Cになっていたのです。



彼女は70才でした。クリスマスカードだけの付き合いでしたが、もう2年カードを受け取っていません。
もうひとりフランス人の女性が杖をついていました。私が、このように体が不自由になった時、果たして家族は、海外への旅行を許すだろうかと考えました。もしも家族を説得しても、世間が家族や私を嘲笑うでしょうね。
日本の社会は障害のある人には生き難いですね。ミィユンヘン空港でのできごとです。私は息子とアテネ行きの飛行機を待っていました。自閉症らしい、8~9才の子どもが、慣れない環境の中で不安に駆られ、飛び上がり、泣き喚いていました。家族も近くの人たちも平静で何事も起こっていないような態度でした。日本なら親はオロオロと困惑し、周囲の人たちは避難し、遠巻きに眺める事になるでしょう。
話は青い鳥からそれてしまいました。
