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生きること:過去と未来とエスペラントと

緑の星に魅せられて 1

2005-04-06 08:24:22 | Weblog
 なぜ私がエスペラントにのめり込んでしまったのかを語るには、私がどんな子ども時代を送ったのか書かなければならないでしょう。
 1945年戦争は終わりましたが、当時は子どもを学校へ通わせるにしても、何を持たせ、何を着せ、何を食べさせるか、親の心配は際限がありませんでした。鉛筆、ノート、消しゴム、弁当、洋服、靴など全て品薄でした。手に入ったノートも鉛筆で書くと紙が破けてしまうし、鉛筆は削ると木部が欠けるし、芯は中で折れていると言うありさまでした。

 戦後まだ配給制度が続いていました。小学校1年生の時、洋服の配給切符がくじ引きであたりました。多分秋だったと思うのですが、せっかく手に入れたのその服は紺色の薄地の半袖のワンピースでした。翌年、母は『この色はあなたには合わない・・』と下の姉に着せました。私はいつもお下がりか、兄たちの洋服を作り直したものでした。時代が落ち着きだしてから、12才年上の姉は自分の給料で買った布でワンピースとかスカートなど夏物を作ってくれました。

 外では労働争議、姉が働いていた発電所の職員の誰と誰が共産党員になったとか、転向したとか言う話も子どもにも言い知れない不安を抱かせました。小学5年生の時には朝鮮戦争勃発、中学1年生の時に自衛隊の基礎となった警察予備隊ができました。そのような世界の激動は田舎の子どもである私にも伝わっていました。

 長崎で被爆した永井隆博士のエッセー『この子らを残して』が新聞に掲載されていました。母はそれを小さい私たちに読んでくれました。『お嬢さんの茅野さんはあなたと同い年、本当に不憫ねと』と。
 自分でも中学に入ってからこの本を読みましたが、この頃戦争に関する実録本が多くでました。記憶に残っているのは『原爆の子』、『基地の子』など、子どもの経験や苦しみを描いたものでした。中学生の時はすっかり反戦主義者になっていました。

 大人たちは国を守るために軍隊は必要である、平和憲法の枠では軍隊が作れない、警察予備隊と名前を変えても軍隊は持つべきだと言いました。
 中学生の私は、日本もスイスのような永世中立国になれば良い、もし平和のために戦う必要があるのら国民全員を訓練したらよいと主張し、社会科の時間に先生を困らせていました。
 私はウィリアム・テルやロビンフッドが好きでしたので、自由と平和のために戦うのは素晴らしいと思っていました。

コメント
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