云い違い

 今日の午後は、BRDプレイヤー、書画カメラ、PCからの信号を切り替えながらプロジェクタでスクリーンに投影する装置のセッティングをしておりました(お仕事です)。動作確認用に手近な所にあった、ある方の講演を収めたDVDを拝借してディスクを再生しながらセッティングと各機器をつなぐケーブルを見苦しくないように結束していたのですが、テスト用に流していたDVDから、こんな言葉が聞こえて来て驚きました。

 「え〜、昨年までは各界でご活躍の著名な方をお招きしご講演いただいておりましたが、今年は私に話をせよとのこと。「役不足」ではありますが、ご指名ですので暫くお時間を頂き(後略)。

 しっかりとした見識、一家言をお持ちの方であると云うのにこのような間違いをされた訳です。考えてもみれば、私のような市井の臣の日常の会話が録音・録画され、それを再生して誰かが聞くようなことはあまりありません。もちろんの事、日常の会話では正しい文法の通りではなくても、正しい意味の言葉でなくても文脈の中で当たり前のこととして理解し、全く気にも止めないわけですが、こうして録画・録音されたものを聞くに及ぶと、言葉の使い間違いは実に気になるのです。聞いて気になる訳ですから、それが文字になっていれば尚更ですね。

 話したことが録音・録画され、更にはその言葉が文字になって印刷される可能性がある、そのようなお方は日頃口にされる言葉については常人以上に気にされているのだと思いますが、それでも云い違いや、あるいは失言が飛び出す。そのちょっとした間違いを待ってましたとばかりあげつらう輩をいるのですから、まぁ、お気の毒と云う他はありません。

 その点、郷秋<Gauche>などは気楽なもので、好き勝手を云おうが書こうが全くお構いなし。誰も読んでいないし気にもかけてくれない。一度くらいは炎上でもしてみたいものであるぞ。って、話がそれたましたが、ことほど左様に人は云い違いや、そもそも間違って理解している言葉を使ったりしているのです。もちろん常に正しい日本語を使いたいとは思う訳なのですがなかなかそうもいかず、誰かの云い違いに気づいたときなどに「おっと、自分は間違わないようにしなければ」と思うのだな。それでもそれは一時のことで、やっぱり間違えながら話し、間違いながら書いている。トホホ。

 横浜の住宅地に残された里山の四季の移ろいを毎週撮影し掲載している「恩田の森Now」に、ただいまは7月19日に撮影の写真を4点掲載しております。またまた梅雨晴れ間の猛暑となった森の様子をご覧いただければ幸いです。
 先週末の撮影と掲載は都合によりできませんでした。今週末もできない可能性が大であることをあらかじめお知らせ致しておきます。
blog「恩田の森Now」 http://blog.goo.ne.jp/ondanomori

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