ミニマリスト

 一昨日の新聞で、この言葉を初めて知った。生活のための必要最低限度の物しか持たずに生きている人のことを云うらしい。この言葉を知って、二つのことを同時に思った。

 一つは、じゃなくて一人はロバート・キャパ。カメラマンとして名を成してからは「自宅」と云うものを持たずに、41年と云う決して長くないその生涯を閉じるまでホテルに住み物を持たず、その仮の住まいから取材先(その多くは戦場)に赴き、ついには帰らぬ人となった。拠り所のない人生、果たして寂しくはなかったのか。

 もう一つ思ったのは「断捨離」と云う言葉。郷秋<Gauche>はこの言葉が嫌いです。そもそも、まるで仏教用語でもあるかのような語感がよろしくない。あるいは、この言葉考えた人はそれを狙ったのかもしれませんが、なにか宗教じみて物に執着することが悪でもるかのうようなその云い方に馴染めません。

 「ミニマリスト」にしても「断捨離」にしても、1955年から始まる高度成長期とそれに続く数十年間に形作られた物品の購入と所有、その肥大化に対するアンチテーゼとして、あたかも多くの物を所有することが「悪」であもるかのように云われ、それがマスコミに取り上げられている。あるいはマスコミに取り上げられんが為に、奇をてらったライフスタ入りとして声高に主張されているのかもしれない。

 物に溜め込むことは「悪」で、物を持たないことが「善」なのでしょうか。人間にとって物とは単なる物質でしかないのでしょうか。物に宿る所有者の気持ちをミニマリストや断捨離人はどのように説明するのでしょうか。大切な思い出の多くは「物」と共に残されて、時にその「物」を手にすることで蘇り、そのことにより思いを新たに歩き出すことができたりするのではないでしょうか。例えば、それは一枚の写真であったり、初めて弾いたピアノであったりヴァイオリンであったり。

 そんな大切な物も捨ててまでシンプルに生きるのが良いという主張には、郷秋<Gauche>は賛同できません。いや、そんな物に頼らなくても生きていけると云う人もいるでしょう。でもそれはとても少ない特別な強い力を持った人。少なくても郷秋<Gauche>にはそんな生き方はできない。身の周りにある「物ども」は、その時々にある思いを持って手に入れたのです。果たして価値あるものかどうかは別にしても、それが今に自分を形作る力となった物なのですからですから、大切に身近に置いておきたいと思う郷秋<Gauche>です。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、今日訪れた道志川上流の、午後の日に輝く川面。

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